詩篇42−45篇 「絶望の中の希望」


アウトライン

1A 絶望 42−44
   1B 魂の渇き 42
      1C 生ける神 1−5
      2C 敵の虐げ 6−11
   2B 光とまこと 43
      1C 欺きと不正 1−2
      2C 神の祭壇 3−5
   3B 神への訴え 44
      1C 御手による勝利 1−8
      2C 裏切られる期待 9−19
      3C 絶望的状況 20−26
2A 希望 45
   1B 王の麗しさ 1−9
   2B 娘たちの栄華 10−17

本文

 詩篇42篇を開いてください。今日は詩篇42篇から45篇を学んでみたいと思います。今日のメッセージ題は、「絶望の中の希望」です。

 今日取り扱うテーマは、現代社会に極めて顕著な問題になっている「鬱」です。現代は、たやすく落ち込むことを可能にする社会になっています。ゆったりと時間を過ごすのではなく、守らなければいけない規則があまりにも多いため、落ち込み、鬱させるような環境があります。その中で、私たちはどのように希望を持つことができるのか、その解決法がこれから学ぶ詩篇の中に書かれています。

1A 絶望 42−44
第二巻

 前回も話しましたように、詩篇は五巻から成っています。聖書には、章と節がありますが、それは元々の原本にはなかったもので、後世にある人が、聖書の引照を簡単にすることができるように付け足したものです。けれども詩篇の中の五つの区分けは元々あったものです。それぞれの終わりが頌栄、つまり、神をたたえる歌で終わっています。例えば第一巻の最後は、「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。」ですね。

 詩篇の研究の中で、五巻がモーセ五書のそれぞれの書物と調和しているという意見があります。詩篇の第一巻が創世記に、第二巻が出エジプト記に、第三巻がレビ記に、第四巻が民数記、そして第五巻が申命記です。私たちの学びでは、どのように調和しているかの話は割愛します。

1B 魂の渇き 42
 それでは、第四十二篇の題名を見ましょう。

42指揮者のために。コラの子たちのマスキール

 詩篇は、神殿の礼拝における賛美のために作られたものですが、賛美を導く人々に「コラの子たち」がいました。レビ族のケハテ氏族の一人コラの子孫です。コラというと、アロンとモーセに反逆して、生きたまま地の中、陰府に落とされた人です。神のあわれみによって、その子孫で残された者たちがいました。そして、ダビデの時代には、礼拝賛美を導く奉仕者になりました。

 そして「マスキール」の意味は「指揮」です。神を賛美する者たちを指導し、指揮する意味があります。

 このような題名が付いていますが、実際にこの詩篇を書いたのは、ダビデであることに間違いありません。これまで私たちが見てきた、ダビデが書いた詩篇と非常に似通った内容になっているからです。

 彼がこの詩篇を書いたのは、おそらく自分の息子アブシャロムが父に反逆し、多くの者を自分に引き寄せてエルサレムの町を乗っ取った時のことだと考えられます。ダビデが、エルサレムを離れてヨルダン方面にいたとき、エルサレムで神の民とともに主を賛美し、礼拝したときのことを思い出しながら、今の霊の渇きを表現しています。

1C 生ける神 1−5
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

 ダビデは、鹿が谷川の流れを慕いあえぐ様子をよく知っていました。彼がサウルから逃げていた時のことを思い出してください。彼はエン・ゲディというところに隠れていました。エン・ゲディは、死海の西側に面したところにあります。死海の周辺一帯は荒野です。緑がぜんぜんありません。けれども、ところどころに、ぽつりぽつりと緑があります。それは、死海の西側にある山から死海に流れてくる川の辺りが緑になっているからです。特にエン・ゲディは美しいです。今でもきれいな水が流れています。そこに、鹿を見ることができます。水や木陰を求めて、やってきているのです。

 だからダビデは、砂漠の中でいる鹿が谷川の水を慕いあえぐ様子をよく知っていました。その渇きは、ちょうどダビデが今かんじている、神への魂の渇きと似ていたのです。

42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

 今ダビデは、神の御前、つまりエルサレムにある主の契約の箱と祭壇があるところで、主を礼拝することができていません。そこにあった霊的体験がなくなって、霊的に枯渇している状態をいま表現しています。

 私たちクリスチャンも、このような体験がないでしょうか?毎日曜日、私たちがささげる礼拝は、時にかったるく感じる時もあります。通過儀礼のように感じる時もあります。けれども一回、礼拝を休んだら実は礼拝の時に命の水を飲んでいたことに気づきます。私も会社で仕事をしていたときに、どうしても仕事に出なければいけなくなったことがありました。そのとき、急に今まで知らなかった、霊的枯渇状態を感じました。

42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。

 ダビデは今、落ち込んでいます。なぜなら、彼の耳元に、「おまえの神はどこにいるのか。」と囁く声がするからです。私たちが落ち込むのはいろいろな理由があると思いますが、クリスチャンが霊的にスランプ状態に陥るのは、まるで神様が自分のところにおられないかのような状況を見てしまう時です。神様が約束してくださったこととは、一見、まったく逆のことが起こっているかのように見えたり、自分が主にあって労苦したことが一切無駄になっているようなことが起こったりする時、「おまえの神はどこにいるのか。」という囁きが聞こえるのです。

 主は、ダビデに対して、ダビデの王座によってご自分の国を建てられるという約束をしてくださっていました。しかし愛する息子アブシャロムが自分に反逆し、自分に殺意まで抱いているという事実に突き当たりました。そして自分が親友だと思っていたアヒトフェルが、アブシャロムに組み入り、自分を殺すための計画に加わっている事実を目にしなければいけませんでした。それが彼を気落ちさせました。

42:4 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

 ダビデの最上の喜びが、ここに描かれています。サムエル記を読んでも、詩篇を読んでも、彼がエルサレムにて主を礼拝すること、そして神の民とともに主を賛美し、主に祭りをささげることが最も嬉しいことであることがわかります。

 神の箱をオベデ・エドムの家からエルサレムに運び入れた時のことを思い出せますか。彼は、主の前で力の限り踊りました。彼は、王服を身にまとわず、一般の人々と同じような格好で主を賛美しました。彼の心は子供のようでした。彼が主の前に出るときは、彼は自分が王であることを忘れ、イスラエルの民とともに、同じ位置で主を賛美したのです。

 詩篇の中に、彼がどれだけこのことを願っていたかを読むことができます。例えば詩篇35篇です。圧倒的な勢力を持つ敵と戦っているとき、ダビデは、その状態からの救いを祈って、こう言っています。「私は大きな会衆の中で、あなたに感謝し、強い人々の間で、あなたを賛美します。(18節)」大きな会衆の中で主を賛美したいと願っています。また礼拝することについては、詩篇8410節に、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」とあります。

 そこでダビデは、あの時の喜びの日から自分が遠く離れてしまっていることを嘆いているのです。

42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 ダビデは絶望した時がありました。落ち込んだ時、鬱になった時がありました。聖書の中には、ダビデ以外に、落ち込んだ聖徒たちが何人も出てきます。例えばエレミヤです。彼は、主の言葉を預言したために、あらゆる反対や嘲りを受けました。それで、エレミヤが祈っている部分があります。20章に書かれていますが、彼が主をほめたたえるやいなや、自分の生まれた日をのろって死んでしまったほうがいいと願っている部分があります。 同じように、パウロも落ち込んだ時があります。ローマ人への手紙7章の終わりには、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」とあります。

 人が落ち込むこと、特にクリスチャンが落ち込むことは、信仰が足りないなどと咎められることがしばしばあります。落ち込んでいる兄弟に対して、説教をしてしまいます。確かに、信仰が足りないという問題があります。けれども、だれでも落ち込みを体験した人ならわかることですが、そうした外部からの説得は落ち込みには全く効果がないのです。むしろ、ヨブの友人たちのように、惨めな助言者となってしまう場合がほとんどです。

 そして、一般の人々は、またクリスチャンの中にも精神科にお世話になる人たちがたくさんいます。確かに、医学的に、体内の化学物質のバランスが崩れるときに、鬱になることがあります。しかし、多くの場合、事を複雑にしてしまいます。根本的な助けには全くなりません。

 私たちが、特にクリスチャンが考えなければいけないのは、鬱というのは聖書の中にも登場する聖徒たちも体験する現実であることを受け止めることです。現代社会、またキリスト教の中にも浸透している非聖書的な考えは、勝利信仰と言ったらよいでしょうか、自分が強くなることがそのまま霊的に健康状態であるという考えです。「クリスチャンであればいつも笑顔でなければいけない、感謝していなければいけない、何々していなければいけない。」という「べき」論が横行して、絶望的な状況が存在することを、真っ向から否定しまうのです。

 けれども、クリスチャンの喜びは、絶望的な状況があることを見ない現実逃避によってもたらされるものではありません。むしろ、絶望的な状況に中にいても、なおかつ湧き上がってくる喜びであり、不動のものなのです。聖書に出てくる聖徒たちは、ここのダビデのように、自分が落ち込んでいる姿をそのまま、主にぶつけました。次の節に「私のたましいは御前に絶望しています。」とありますが、主の前に絶望している自分を持っていくのです。

 そして次に大切なことは、落ち込んでいるのはあくまでも感情の中で起こっていることであり、霊の状態ではないことを認めることです。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。」とダビデは自分自身に語りかけています。自分を客観的に見ることができています。これは感情において起こっていることであり霊において起こっていることではなないことが分かっているのです。

 そして、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」とダビデは言っています。ここの「なおも」が大事です。絶望している自分がいるという事実がある。この事実を受け入れつつ、なおも神をほめたたえる、という立場です。自分の中でこの立場を取ることを決断し、そして祈りの中で言い表すことです。

 ヨブの回復がこのことによってもたらされました。彼は、神の主権を信じて、自分が病の中にいながら悔い改めの祈りをささげました。そうしたら癒しが与えられ、回復しました。パウロも同じです。先ほど引用したロマ書7章の「私は、ほんとうにみじめな人間です。」と言った続きは、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(25節)」となっています。このように、自分が落ち込んでいる状態から自分を救い出そうとするのではなく、自分の落ち込んでいる状態の中で神に望みを置き、神をほめたたえます。

2C 敵の虐げ 6−11
42:6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。

 ここは、「ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から」という新共同訳の翻訳のほうが適切でしょう。ミツァルの山は、たぶんヘルモン山の別名であるからです。ダビデは今、ここでイスラエルの最も低い地と最も高い所の二つを上げています。ヨルダンは死海があるところで、死海は海面下392メートルで、現在、世界でもっとも低い水面です。ヘルモン山は、今はスキーでも有名な山ですがイスラエルで一番高い所です。

 つまりダビデは、イスラエルのどんなところにいても、それが自分の慰めとはならず、やはり神の御名が置かれているエルサレムを思い起こす、という自分の落ち込みを表現しています。何をしても気が晴れない、という状況です。

42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。

 落ち込んでいる時、鬱の時の状況を、詩的に表現しています。濁流に飲み込まれたかのような心境、川の奥深く、奥深くに沈み込んでいくような心境です。

 ここで「あなたの大滝」また「あなたの波」と言っていることに注目してください。これは、自分が落ち込んでいるような状況について、神の主権を認めている表現です。ダビデは、元気なときの自分の世界だけが信仰の世界、神様の世界で、落ち込んでいるときの自分の世界は違うというふうに分類しませんでした。元気なときも、落ち込んでいるときも、どちらも主にあって置かれている状況であると認めていました。

42:8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。

 ダビデは、エルサレムから離れているときでも、神の恵みを感じていたようでした。エレミヤが書いた哀歌にも、同じようなことが書かれています。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。(3:22-24

 エレミヤは、荒廃したエルサレムの町を見て、哀歌をうたいました。彼はこのように荒廃しているけれども、なおもユダヤ人は滅び失せなかった事実に気づきます。それで、主のあわれみは尽きない、朝ごとに新しい、と言います。

 私もクリスチャンになって間もないとき、自分が住んでいたアパートの部屋で落ち込んで、泣いていたことがありました。けれども朝になり、光が窓から入り、また窓から外の草木があるのを見て、これもまた主が造られたものであり、主がその知恵と知識によって美しく造っておられると思いました。あわれみは尽きませんでした。ダビデも同じように、昼の間にある主の恵みを一つ一つ数えて、それが夜には歌となり祈りとなっていたのでしょう。

42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。

 具体的にはアブシャロムの勢力であり、霊的には悪魔、悪霊どもの言葉です。落ち込むのは、悪魔が行なっていることではありません。しかし、悪魔は鬱になっている感情を使って、私たちに神がいることを疑わせるような声をかけてきます。それに屈してはいけません。

42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

 ダビデは再び同じ祈りをささげました。

2B 光とまこと 43
 そして43篇です。43篇は42篇と一つになっていたのではないかという意見が多くあります。ヘブル語の写本においても、一つの詩篇として数えられているものがあります。

1C 欺きと不正 1−2
43:1 神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。

 「神を恐れない民」は、具体的にはアブシャロムの勢力でしょうが、霊的には「おまえの神はどこにいるのか」という者たちのことです。神の存在、神の支配、神の御言葉の権威を認めないで、自分たち人間が行なっていると言わしめる勢力のことです。

 私は、日本において、この霊の勢力が力を持っていると思っています。「神」ではなく「人間」に注目させる霊です。「バカの壁」という著書が日本でベストセラーになりましたが、そこに書かれてあるような、単純な神への信仰、神の御言葉への信頼には欠陥があるかのような姿勢です。

 このことが、伝道するときも、教会形成のときにも、また神学においても影響を与えています。伝道するときは、聞いている相手は神に対する疑問ではなく、その話し手の話し方に焦点を当てます。教会においては、みことばによって集まるのではなく、牧師の決め細やかな配慮、またビジネスマンのような運営能力、そして牧師本人の個性が問われます。神学においては、日本の教会は人間を中心にしたドイツ神学が主流です。福音派、聖霊派を問わず、聖書の教えが人間中心、知識中心に傾いています。カウンセリングがクリスチャンの間で流行っているのも、神中心でなく人間中心になっているからです。

 このような姿勢は、人間的にはもっともらしいのですが、聖書的には神を恐れない姿勢なのです。ダビデのように子供のように主の前で喜ぶ信仰とは相容れません。むしろ、そのような信仰を揶揄し、ともすると迫害します。ですから、この節に書いてあるとおり「欺きと不正」なのです。

43:2 あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。

2C 神の祭壇 3−5
43:3a どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。

 ダビデは「不正」に対しては「」を、「欺き」に対しては「まこと」を祈っています。欺きに対して真理は理解できると思いますが、不正に対する光はどういう意味でしょうか?「」は、聖書の中で正義や聖さを表していることが多いです。エペソ書にて、不品行や下品な言葉を避ける勧めをした後でパウロはこう言いました。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・(5:8-9」ですから、不正に対しては光なのです。

43:3bあなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。

 聖なる山とはシオンの山のことです。主が住まわれるところです。

43:4 こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。

 礼拝へ導いてくださいと祈っています。ですから、その礼拝が光とまことに導かれること、つまり善意、正義、真実によって導かれることを祈っています。

43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

 不正や欺きに対して、ダビデの魂は絶望しています。けれども、彼は神に望みを置きます。

3B 神への訴え 44
44 指揮者のために。コラの子たちのマスキール

 再びコラの子たちのマスキールです。

1C 御手による勝利 1−8
44:1 神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。44:2 あなたは御手をもって、国々を追い払い、そこに彼らを植え、国民にわざわいを与え、そこに彼らを送り込まれました。

 いま詩篇の著者は、ヨシュアの時代、イスラエルの民が約束の地に入った時のことを話しています。

44:3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。

 主にある勝利です。戦いが自分の剣でもなく、自分の腕でもありませんでした。すべては恵みによるものです。主の右の手、主の腕、主の顔の光が、敵を打ちのめしました。

44:4 神よ。あなたこそ私の王です。ヤコブの勝利を命じてください。44:5 あなたによって私たちは、敵を押し返し、御名によって私たちに立ち向かう者どもを踏みつけましょう。

 とても大事ですね。私たちは、すでに神によって与えられた勝利に基づいて、敵を押し返し、立ち向かう者を踏みつけます。私たちの大きな仕事は、主を待ち望むことです。主が約束してくださったことを待ちに待ち続けることです。そして主が働かれます。主が働かれたところに、私たちも行きます。勢いよく行きます。

44:6 私は私の弓にたよりません。私の剣も私を救いません。44:7 しかしあなたは、敵から私たちを救い、私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。44:8 私たちはいつも神によって誇りました。また、あなたの御名をとこしえにほめたたえます。セラ

 他の詩篇の箇所にもありますね、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(20:7

 ここまで、主にあるすばらしい確信です。しかし、今の二つの詩篇で学んできたように、そうではない絶望的な状況、反対のことが起こっているような状況があるのです。

2C 裏切られる期待 9−19
44:9 それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。あなたはもはや、私たちの軍勢とともに出陣なさいません。44:10 あなたは私たちを敵から退かせ、私たちを憎む者らは思うままにかすめ奪いました。44:11 あなたは私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。44:12 あなたはご自分の民を安値で売り、その代価で何の得もなさいませんでした。44:13 あなたは私たちを、隣人のそしりとし、回りの者のあざけりとし、笑いぐさとされます。44:14 あなたは私たちを国々の中で物笑いの種とし、民の中で笑い者とされるのです。44:15 私の前には、一日中、はずかしめがあって、私の顔の恥が私をおおってしまいました。44:16 それはそしる者とののしる者の声のため、敵と復讐者のためでした。

 この状態がどこを指しているのか、あまり分かりません。ある人は、ヒゼキヤ王の時代の詩篇ではないかと言っています。北イスラエルがアッシリヤによって倒されて、彼らは離散の民となりました。南ユダも、アッシリヤ軍によって大半の土地を奪われ、首都エルサレムが危機的状況に陥っていました。イスラエルが勝利を帯びていない、そして北にいた仲間は、離散の地で辛酸を舐めていることを嘆いているのかもしれません。

44:17 これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。44:18 私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。

 イスラエルの離散は、民が神に背いたからであると、モーセの律法の中に、また数々の預言書の中に書かれています。したがって、これは残された民の祈りなのでしょう。神に立ち返っている一部のユダヤ人たちがいます。彼らは主の道からそれていないのに、状況はなんら変わっていない、むしろ酷くなっているような状況です。

 私たちにも、このようなことは起こるのです。主に忠実であっても、現実には祝福ではなく困難、苦しみ、逆境、迫害、病など、正反対に見えるようなことが起こります。

44:19 しかも、あなたはジャッカルの住む所で私たちを砕き、死の陰で私たちをおおわれたのです。

 ジャッカルが住むところとは、荒廃した土地のことです。そして死の陰、つまり死に直面しています。

3C 絶望的状況 20−26
44:20 もし、私たちが私たちの神の名を忘れ、ほかの神に私たちの手を差し伸ばしたなら、44:21 神はこれを探り出されないでしょうか。神は心の秘密を知っておられるからです。44:22 だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています。

 心の中を探っても神を忘れていないことを表明しています。なのに、自分たちは屠殺場に連れて行かれる羊のようになっている、と嘆いています。

44:23 起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。44:24 なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。44:25 私たちのたましいはちりに伏し、私たちの腹は地にへばりついています。

 究極の絶望的状況です。魂が塵に伏し、腹が地にへばり付いています。

44:26 立ち上がって私たちをお助けください。あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。

 ここで44篇は終わりです。何か希望的観測で終わってほしいものですが、絶望の中からの叫びで終わってしまっています。

 しかし、ここの詩篇の箇所から引用して、実は圧倒的な勝利を得ているのだと解釈している箇所があります。ローマ人への手紙8章です。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(35-37節)

 患難は敗北ではありません。苦しみを受けたら負け、迫害されたら負け、飢えたら負け、裸、危険、剣も負けではないのです。しかし、多くの人がほふられる羊のようになったら、それは主にある勝利ではなく、敗北だと言うのです。そしてこれらの状況から救い出されたら、圧倒的な勝利だと言うのです。

 どうでしょうか?パウロはそんなこと言っているでしょうか?いいえ、「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」と言っているのです。実は絶望的な状況の中にいて、なおかつ圧倒的な勝利者なのです。

 ここの箇所の前にパウロは何と言っていましたか?「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(8:31-34」そしてもっと前には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 8:28」と言っています。

 主がこれだけのことをしてくださっているのだから、主が絶望的な状況に私たちを陥らせない、と約束していないのです。絶望的な状況にいても、なおかつ神の愛から引き離されることがない事実を圧倒的な勝利と呼んでいるのです。

 感情面においては、まるで神から見捨てられたような状況に見えるかもしれません。しかし、私たちの霊的状態は、感情に左右されるものではありません。感情がどうなっても、環境がどうなっても、不動の希望が私たちには与えられているのです。

 私が大学生の時、討論をするサークルに所属していました。ディベートといったほうが分かりやすいでしょう、肯定側と否定側に分かれて、審判を前にして自分の主張を訴えるゲームみたいなものです。そこで議論に勝つためのいろいろな手法を教えられました。その一つにturn aroundというものがありました。「ひっくり返す」と訳したらいいでしょうか。相手の議論を壊すために、普通はrefutationつまり反論を提示しますが、turn aroundでは、相手の意見を否定しません。相手の議論をそのまま受け入れてしまいます。そして、その議論をそのままひっくり返して、実は相手の言っていることは自分たちの主張を補強するものであることを論じる方法です。これを使うと、相手がものすごく準備して、用意してきた証拠を、こちらが出したたった一つの証拠物件によって、すべてごっそり自分のものとしてしまいます。

 神が私たちに用意してくださっている勝利は、これと同じです。苦しみ、患難、辛いこと、それらを否定しません。それらを丸ごと事実として受け入れてしまうのです。そしてそれらの、悪魔にとって都合が良いように見える事実を、ごっそり主への勝利へと導く道筋として利用してしまうのです。

 王として来られたメシヤが、むごたらしい十字架刑に処せられたという事実があります。統一協会や「摂理」などの異端のグループは、これは失敗であったと言うのです。神の主権も摂理も何も分かっていない発言です。キリストの十字架は、確かに人間の罪の集約であり、これほどむごたらしいものはありません。しかし、神はその人間の反抗をすべてごっそりお使いになって、全人類の永遠の贖いのご計画の中に取り入れてしまわれたのです。

 だから私たちが落ち込んでいるとき、実は体験的にも主にある希望をそのまま見ることができます。パウロが、「患難の中にいても、神の栄光を望んで大いに喜んでいる。(ローマ5:2-3参照)」と言った、暗闇の中の光を見ることができます。

2A 希望 45
 詩篇第45篇から50篇までは、神の王権、神が王となってすべての国々を治めておられる、威厳に富んだ内容になっています。44篇から45篇への移行は、決して偶然ではありません。大きな敗北は、実はそのまま神の国の威光へとつながっています。

45 指揮者のために。「ゆりの花」の調べに合わせて。コラの子たちのマスキール。愛の歌

 「ゆりの花」の調べであり、愛の歌であると言っています。ここで思い出すのが、雅歌です。ソロモンが、愛する女の人にとって自分が「谷のゆりの花(2:1」と言っています。これから読む詩篇は、おそらくソロモン王の栄華と、彼のところに連れて来られた他国の王の娘の婚姻の話であろうと思われます。

 けれども、この詩篇の一部を引用して、ヘブル人への手紙は、この王をイエス・キリストであるとしています。したがって、ここはソロモンと娘の婚姻のみならず、イエス・キリストとその花嫁である教会の姿でもあります。

1B 王の麗しさ 1−9
45:1 私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。私の舌は巧みな書記の筆。

 結婚式のときに、書記が王の栄華を書き記すのに、わくわくしている様子が描かれています。

45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。

 王は麗しさを身にまとっていました。それは唇から出る優しさでした。私たちの主イエス・キリストも、その唇から出る言葉は優しさであり、ゆえにこの方は麗しい方です。

45:3 雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。

 主の剣は、黙示録19章にて口から出てくるものとして描かれています。その剣によって、世界中の軍隊と戦われ、歯向かう軍勢をことごとく滅ぼされます。

45:4 あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

 真理と柔和と義のための威光です。この三つのすべてを主は持ち合わせておられました。柔和さは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたところにも表れていました。

45:5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。

 これはハルマゲドンの戦いです。先に、すべての絶望的状況がそのまま勝利へとなることについて学びましたが、イスラエルにとって終わりの日は試練の時です。これまで彼らが期待していた神のみわざとは裏腹のことが、終わりの日に起こります。国々からの救いではなく、全世界の国々がイスラエルに立ち向かい、エルサレムに攻めてきます。

 実は第44篇を初めに読んだとき、ちょうどホロコーストの生き残りのユダヤ人の証言を聞いているようでした。なぜ見捨てられたのかという嗚咽は44篇にそっくりです。けれども、終わりの時にはホロコースト以上の迫害が訪れます。しかし、この試練の時を通らなければ、彼らはまことのメシヤ、イエスに出会うことができません。彼らの霊が新たに生まれることはありません。彼らの救いは訪れません。すべての国々が倒れるとき、イエスが主、メシヤであることを悟るのです。

45:6 神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。45:7 あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。

 この箇所が、ヘブル人への手紙1章8節と9節に引用されています。ヘブル書の著者は、これは父なる神が御子について言われていることだと明言しています。父なる神が、イエス・キリストを神と呼んでいるのです。

 この箇所、またその他の箇所からもイエス・キリストが神であり、創造主であることが聖書に教えられています。かつてアリウスという人がイエスは神によって造られたものであり、被造物であると主張しました。これが論争になりましたが、紀元325年ニケア公会議で否定され、今に至っています。この異端の現代版がエホバの証人です。イエスは、父なる神によって造られた第一の者であり、大天使ミカエルがそれであると教えます。

 主が神でなかったどうなるのか?すべての贖いの計画は総崩れです。神が人となったことによって、初めて人を救う計画を神はお立てになることができたのです。そこのヘブル書の箇所は、御子が御使いよりもすぐれていることを述べているなかで詩篇の箇所を引用しています。だから、エホバの証人が言っているミカエルというのは、とんでもない議論なのです。

45:8 あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち、象牙のやかたから聞こえる緒琴はあなたを喜ばせた。

 没薬、アロエ、肉桂はみな、香料として使われています。そして、このように美しく着こなした王の前に、国々の王の娘たちが連れてこられます。

45:9 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ。

 ソロモンが、周辺の国の王の娘と結婚したことを思い出してください。その娘たちがソロモンの宮廷に嫁ぐ様子がここに描かれています。

2B 娘たちの栄華 10−17
45:10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。45:11 そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。

 王が娘を慕うその美が出てくる決め手は、自分の民とその父の家を忘れることでした。自分の民と父の家を忘れることによって、王の栄華と同じものを身に着けることになります。

 これは実にキリストの花嫁、教会の姿を表しています。信仰の父アブラハムも、父の家を離れることによって、その信仰が義と認められましたが、教会は、黙示録5章9節によると「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖」われた神の民なのです。

45:12 ツロの娘は贈り物を携えて来、民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。

 ツロは財宝に富んだ町です。そこから贈り物が来ます。

45:13 王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。

 王と同じように、栄華で身をまといます。これが教会の姿です。自分をキリストに結びつけることにより、自分の国、自分の家族、自分の仲間よりもまさって、この方のみに自分を結びつけるとき、自分はキリストの義という着物を身にまといます。自分がどんな姿であるかなど、関係ないのです。ただ、主のみに自分の身をささげる花嫁の姿勢さえあれば、後は王なるキリストが私たちを美しく着飾ってくださるのです。

45:14 彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。45:15 喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿にはいって行く。

 王と自分との二人だけの時間を過ごします。結婚の完成、床入りです。

45:16 あなたの息子らがあなたの父祖に代わろう。あなたは彼らを全地の君主に任じよう。

 教会の働きによって、さらに義と認められる新たな子供たちが与えられます。

45:17 わたしはあなたの名を代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。

 教会の一部として、自分の名が覚えられます。

 このすばらしい婚姻の箇所は、ヘブル人への手紙だけでなく、黙示録19章にて引用されています。黙示録19章6節からです。「『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。』と言い、また、『これは神の真実のことばです。』と言った。(19:6-9


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