詩篇46−50篇 「全地の王」


アウトライン

1A 国々の民の中で 46−49
   1B 砦なる主 46
      1C 地と水の立ち騒ぎ 1−7
      2C 国々の戦い 8−11
   2B 喜びの叫び 47
      1C 神の選び 1−4
      2C 神の統治 5−10
   3B 神の都 48
      1C 恐れる王たち 1−8
      2C 宮と城壁の麗しさ 9−14
   4B 富の果敢なさ 49
      1C 悟りの呼びかけ 1−4
      2C 他人に残される財産 5−12
      3C 陰府に下る運命 13−20
2A 神のさばき 50
   1B 光 1−6
   2B 戒め 7−23
      1C 感謝のいけにえ 7−15
      2C 悔い改め 16−23

本文

 詩篇46篇を開いてください、今日は46篇から50篇までを学んでみたいと思いますが、ここでのテーマは「全地の王」です。私たちは、私たちの神がすべての土地において王であられることを知っています。キリスト教の歴史が長い西洋の国々だけでなく、世界中のあらゆる国々、あらゆる民族、あらゆる人々の王であります。今は、まだ、全ての国々、全ての人々がこの方を王としているわけではありません。けれども、必ずその時が来ます。このことが今日学ぶ詩篇のテーマです。

1A 国々の民の中で 46−49
1B 砦なる主 46
46 指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌

 この詩歌は、ヒゼキヤがユダの王のとき、アッシリヤの包囲から救い出された後に書かれたものではないかと言われています。けれども、アッシリヤからの救いだけでなく、終末についての預言にもなっています。

1C 地と水の立ち騒ぎ 1−7
46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

 地震と、それにともなう津波です。もしかしたら、この箇所は日本列島に住む人々が一番、実感できるのではないかと思われる言葉です。日本は地震列島と呼ばれています。地震がどのような被害をもたらすかを私たちはよく知っています。

 けれども最近、世界中で信じられないほどの被害をもたらす地震や津波が増えてきました。そして、聖書が終わりの時に起こると預言している地震は、これまでの最大級の地震をはるかに超えるマグニチュードでやって来ます。「地は変わり、山々が海の真ん中に移る」とありますね。黙示録6章には、小羊が第六の封印を解かれるとき、「すべての山や島がその場所から移さ」れる(14節)とあります。

 しかし、そのような大地震が起こっても、主を自分の避難所とするならば恐れることはありません。主への信頼はそこまで堅固なのです。イエス様は、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35」と言われました。

46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。

 とてつもない規模の地震が襲って、天変地異が起こっても、なお、まったく影響を受けず、びくともしない所が一つだけあります。神の都です。終わりの日にはすべての物が滅び、崩れ去ります。その後に明らかにされるところが、天のエルサレムです。黙示録21章に書いてありますね。

 この都には神が真ん中におられるとありますが、22節からこう説明されています。「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(22-23節)

 そしてここの詩篇の箇所には「川がある」とありますが、黙示録でも22章1節から読むと、こうあります。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(1-2節)

 このようなすばらしい天の都があります。私たちはこの都のことを思っていれば、この世で起こることによって揺り動かされることはありません。私たちの信仰の父アブラハムも、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(ヘブル11:10」とあるとおり、天のエルサレムを仰ぎ見て生きていました。

46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。

 現代の人々の心を騒がせるのは、地震だけではありません。テロや核戦争の脅威など、国々の間で起こっている世情です。世の終わりになるにつれて、世界はさらに不安定になっていきます。しかし、それでも神を信じる者は恐れることはないのです。

46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ

 神が共におられるという約束は聖書の至るところにありますが、この節では「ヤコブの神」と書かれています。ヤコブの名前が出てくる時は、必ず彼の生涯を思い起こしてください。彼の人生には、いろいろなハプニングが起こりました。

 生まれてくる時にかかとをつかむところから始まって、父イサクをだましてエサウへの祝福を自分のものにしました。それからリベカの兄ラバンの家に行きましたが、そこでラバンにだまされて二人の妻を得ました。それで二人の間で出産競争が起こって、12人の息子が生まれ、そして帰ろうとしたら、エサウの軍団が自分のところまでやってきました。波乱万丈の人生です。そのような自分がもがき、苦しみ、苦労したようなヤコブに、力となってくださり、個人的に関わってくださったのが神です。私たちの生活の現実の中に主はおられて、主は私たちを守ってくださいます。

2C 国々の戦い 8−11
46:8 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。

 これは、ハルマゲドンの戦いの預言です。世界中から軍隊がハルマゲドンと呼ばれるメギドの平野に集結し、そこからヨルダンに非難しているイスラエル人たちを滅ぼしに行きます。けれども、主イエス・キリストが天からやって来られ、これら諸国の軍隊と戦われます。

46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」

 これは、ちょうど小学校の教室で、先生不在の子供たちの騒ぎに似ています。先生が用事で10分間いなくなったら、おしゃべりは始まるわ、悪さはするわ、物は投げるわ、ついに喧嘩も始まるでしょう。そこに先生が戻ってきました。「やめなさい。」という先生の一言で、教室の騒ぎが一気に静まります。

 今、世界の国々は騒いでいます。それは、自分たちを支配しているまことの神のことを知らないからです。神を恐れるのではなく、自分たちが一番になることを求めて競争しているからです。主が戻ってこられるとき、その騒ぎはいっさいなくなります。

46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ

 先ほどと同じ、ともにおられるという約束です。

2B 喜びの叫び 47
 それでは47篇を読みましょう。47 指揮者のために。コラの子たちの賛歌

 この詩篇は、主が地上に戻ってこられて、神の国が建てられた時のことを預言したものです。主がこの世において王となられたこと、神の支配が始まったことを喜び叫ぶ歌です。

1C 神の選び 1−4
47:1 すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。

 手を叩いて喜び叫ぶ、この躍動的な賛美をすべての民族が神にささげます。現在は、私たちの住む世界において、すべての人が主なる神をほめたたえているわけではありません。数多くのイスラム教国や仏教国があり、共産主義のような無神論の国もあります。キリスト教国と呼ばれている国々であっても、神への畏敬は形骸化しており、すべての民が神に賛美をささげているわけではありません。

 けれども、今、世界の国々で、喜びの声をあげている集まりがあります。そうです、教会ですね。主が再臨される前の時代において、あらゆる国々で主がほめたたえられる、神が任命された機関が教会なのです。天において、教会がどのように主をほめたたえているか、黙示録5章のヨハネが見た幻を読みたいと思います。「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。(9-10節)」あらゆる部族、国語、民族、国民の中から贖い出された人たちです。

47:2 まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。47:3 国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。

 イエス様をメシヤであると信じて、新生するイスラエルは、ほかの国々を自分に服従させます。けれども、それだけでなく教会に対しても、同じ約束が与えられています。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20」そして今、読んだ黙示録の箇所にように、教会もイスラエルと並んでこの地上を支配します。

 今の時代において、クリスチャンたちがいろいろな分野で活躍しています。宣教するのが難しい地域で、医療活動や学校経営という名目で福音を伝えようとしています。同じようにかつて、日本のミッションスクールは、福音宣教の目的で宣教師が創設したものです。

 しかしその中で必ず起こることは、世俗化です。学術的な面で、優れた人材を用意するためにはクリスチャンではない人も起用しなければいけなくなります。また経営面でも、クリスチャンの子弟だけでなく、未信者も受け入れなければ成り立ちません。学校でも、病院でも、援助団体でも、クリスチャンによって、キリスト教の価値観で支配することは、主が戻ってこられないうちはできません。

 けれどもクリスチャンによる支配、キリストを頭とする支配を、教会という機関の中で、完全に、純粋に保つことができます。本当に御霊によって新生した人たちだけがキリストのからだに属することができ、キリストが頭としており、そこには妥協はありません。パウロが若い牧会者のテモテに、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は真理の柱また土台です。(1テモテ3:15」と言いました。

47:4 主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。セラ

 再びヤコブの名前が出てきました。いろいろな問題があったヤコブですが、生まれる前から主がヤコブを愛し、ヤコブをご自分の約束の継承者としてお選びになられました。同じように、私たちは一方的に愛され、神の国を受け継ぐように選ばれています。

2C 神の統治 5−10
47:5 神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。

 この詩篇は、ユダヤ人の間で新年に読まれます。ユダヤ人にとって宗教的な暦は過越の祭りのある月から始まりますが、市民生活における暦は9月の「ラッパを吹き鳴らす日」から始まります。喜びの叫びとラッパの音の中に主がご臨在されています。

47:6 神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。

 すごいですね、繰り返し、繰り返し、「ほめ歌を歌え」と詩篇の著者は勧めています。非常に活気のある賛美です。

 私たち日本人は、感情を表に出さない気質を持っているので、賛美の歌をうたう時の感情が抑えられています。日本人だけでなく、西洋の人たちと礼拝を持つときも、かなり抑えられていますが。けれども、感情を表に出して祈ったり、賛美したりするのはよくない、それは極端で、ペンテコステやカリスマ派だ、という意見を時々聞きます。

 そういう人は、韓国に行ってみればいいでしょう。保守的と呼ばれている教会でもどこの教会でも、牧師は説教中に泣くわ、黙祷の時間に信徒は大声で祈るわ、とにかく騒がしいです。また、中国の教会では、説教者が30分しか話さなかったら次はもう呼ばれなくなるそうです。礼拝が三時間も、四時間、五時間も続くのは当たり前なのだそうです。中南米の教会の人たちも、またアフリカの教会の人たちも、賛美は頭ではなく、霊と魂と体で行なうものであることを知っています。

 そして肝心のユダヤ人はどうかといいますと、ここの詩篇の箇所のとおりで、非常に躍動的です。礼拝は頭だけのもの、また精神の世界とは考えず、体も含まれたものだと考えます。だからユダヤ人の信者の集まりである、メシアニックの会衆の礼拝に参加すると、礼拝者はおのずと手や体が動いています。しかしこうした感情の表現は、知的な理解に基づくものです。次を読みましょう。

47:7 まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。

 ここの「巧みな歌で」は、「理解をもって」と訳すことができます。ただ言葉を繰り返すだけ、意味もなく口から音を発するのは賛美ではありません。祈りについてですが、イエス様がこう言われましたね。「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6:7-8

47:8 神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。

 ここの「国々」のへブル語は、「ゴイム」が用いられています。英語だとheathenで日本語だと「異教の国々」と訳すことができるでしょう。まことの神を知らずに、手で造られた偶像を自分たちの神としている国々です。これらの国々も神が統べ治めておられます。

 この信仰を持つことは、偶像礼拝が盛んに行なわれている国では大変なことでしょう。忍耐が要ります。偶像があると、せっかくの神の栄光が見えなくされてしまうからです。きれいな山に登って、そこで主の創造のすばらしさを満喫しても、そこに鳥居があると気持ちが晴れ晴れとしません。

 しかしその時に思い出さなければいけないのは、それでも主が統べ治められているということです。そして聖なる御座に神が着いておられることです。先ほど学んだように、地が移り、山々が海に入っても、なおまったくびくともしない神の御座から、その国を支配しておられることです。

47:9 国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。

 「尊き者たち」とは、高貴な者たち、または君主とも訳せます。行政を司る人々です。

47:10 まことに、地の盾は神のもの。神は大いにあがめられる方。

 「地の盾」とは、それぞれの町、地方、国々の監督を意味します。聖書には、その監督権が「鍵」と表現されているところもありますね(イザヤ22:22、マタイ16:19等)。日本の永田町の各省庁の鍵を、日本の指導者や官僚支配者であられるキリストに差し出す時が、いつかやって来ます。すべての国々はキリストのもの、神のものになるときが来るのです!

3B 神の都 48
 48篇は再び、神の都についての詩篇です。

48 歌。コラの子たちの賛歌

1C 恐れる王たち 1−8
48:1 主は大いなる方。大いにほめたたえらるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。

 聖なる山はシオンの山、神の都はエルサレムのことです。そこに主が全地の王として着座しておられます。

48:2a 高嶺の麗しさは、全地の喜び。

 エルサレムは今でもイスラエルでは高嶺にあります。エルサレムにつながる道路が北からもあるし、テルアビブからの西からの道路もあるし、南からの道路もあります。すべてエルサレムに向かって登り坂になっています。だから高嶺の麗しさです。

 けれども主が地上に再臨される時、巨大な地殻変動が起こります。そしてエルサレムがイスラエルの中だけでなく、世界中で高い山となります。ミカ4章1節、2節にこう書いてあります。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』

48:2b北の端なるシオンの山は大王の都。48:3 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。

 エルサレムの町は、谷に囲まれています。東はケデロンの谷、南と西にヒノムの谷があります。したがって、東と南、また西側は自然の要塞となっていて、敵の攻撃から守られています。しかし、北から攻められやすいです。実際、何度かエルサレムの町が攻略されたとき、敵は北の端から侵入しました。

 しかし、エルサレムの町の北の方には、神殿があります。その神殿で祈りをささげ、強敵から救い出された奇跡を、ユダの王は見てきました。ですから北の端は地理的には脆弱だけれども、主がおられるので、やぐらとなっているのです。

 私たちにも、同じ約束が与えられています。弱い部分が実は一番強いと言われています。パウロがこう言いました。「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(2コリント12:9-10

48:4 見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。48:5 彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。48:6 その場で恐怖が彼らを捕えた。産婦のような苦痛。

 この詩篇は、ユダの王ヨシャパテがモアブとアモン、エドムの軍勢に打ち勝ったときに書かれたのではないかと言われています。ヨシャパテは、最前線に賛美の奉仕者を配置しました。そして、イスラエルの民は喜びと賛美の声を上げました。そうしたら主は伏兵を設けてくださって、敵は打ち負かされました。彼らは混乱して、互いに滅ぼし合いました(U歴代20章参照)。ですからここでは、王たちがエルサレムの町、神殿を見たときに味わった恐怖が描かれています。

48:7 あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。

 ヨシャパテは善い王様でしたが、北イスラエルの悪い王アハズヤと同盟を結びました。そして、金を得るために船を造りましたが、主がそれを途中で難破させました。その時のことの話です。

48:8 私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。セラ

 彼らは、エルサレムが敵から守られていることを経験し、その経験に合わせて、主が将来に対してもエルサレムを堅固に守られる約束を受けていました。

2C 宮と城壁の麗しさ 9−14
48:9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。48:10 神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。

 宮の中には恵みがあります。私たちが集まる教会には、新約聖書には私たちが御霊の神殿であると言われていますから、恵みがあります。けれども、日曜日に礼拝が終わり帰宅するときには、すでにそこでは主の御名の誉れがないような環境に入ります。教会では主の御名の誉れがありますが、外ではありません。

 けれども、御霊によって、信仰によって、教会の外でも至るところで主の御名の誉れがある幻を見てください。実際に、主はご自分の主権と摂理の中で、ご自分に栄光が与えられるように、すべてのことを動かしておられます。そして主が戻って来られたときには、日本の地も至るところに御名の誉れがあります。

48:11 あなたのさばきがあるために、シオンの山が喜び、ユダの娘が楽しむようにしてください。

 主を恐れない行為、ほかの神々を拝んでいること、あらゆる主を敬わない要素が、主がさばきを行われるときに取り除かれます。だから、シオンの山が喜び、ユダの娘が楽しみます。天においても、喜びと楽しみがあります。大淫婦のバビロンが滅ぼされる時のことです。「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。』(黙示19:1-2

48:12 シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。

 エルサレムの町はそれを囲む城壁の上を歩くことができます。現在のエルサレムにある城壁も、旅行者がその上を歩いてエルサレムを一望することができるようになっています。そして、やぐらも城壁のいくつかのポイントにあります。

48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。

 先ほど話しましたように、ヨシャパテの時代の人々は、自分が見ているエルサレムの城壁や宮殿は、必ずや後世にも語り継がれることを知っていました。御霊によって、信仰によって、永遠の神がこの町をご自分の都に定めておられることを知っていました。だから、城壁に心を留めて、宮殿を巡り歩けと命じているのです。

 エルサレムを中心にして、神はご自分の計画を実行されています。エルサレムのところで私たちの主イエス・キリストが十字架につけられ、三日目によみがえられました。エルサレムで弟子たちは祈り、聖霊を受け、教会が誕生しました。そして、エルサレムに主が戻ってこられて、エルサレムの住民はイエス様がメシヤであることを知ります。そしてエルサレムで主が着座され、そこから全世界を統治し、みことばを語られることを知っています。天のエルサレムでは、主ご自身が町となってくださいます。

4B 富の果敢なさ 49
49 指揮者のために。コラの子たちの賛歌

1C 悟りの呼びかけ 1−4
49:1 すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。

 再びすべての国々に対する呼びかけになっています。ヤハウェを神とするイスラエルだけでなく、全世界に対してです。

49:2 低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、ともどもに。

 特定の地位や、特定の経済的な境遇の人々だけでなく、無差別に、あらゆる状況の人々に対して呼びかけておられます。

49:3 私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。49:4 私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。

 これから詩篇の著者は、地上の財産を求めることの空しさを語ります。他の詩篇の多くの箇所で、貧しい者、柔和な者、誠実な者、正しい者が地を受け継ぐことを告げています。けれども、世界では地上の財産を誇っている人たちがたくさんいます。そして富んでいる者が一番幸せであり、富こそが人を幸せにするという考えが、あらゆる人々に浸透しています。

 だから詩篇の著者は、富んでいる者の現実を考えてみよ、と呼びかけます。いろいろな方面から、いろいろな視点で考えると、富んでいる者の人生の空しさを悟ることができます。

2C 他人に残される財産 5−12
49:5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。私を取り囲んで中傷する者の悪意を。49:6 おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。

 お金があれば何でもできる世界です。だから財産を持っている者を、私たちは恐れます。しかし、よく考えてみよ、どうして恐れる必要はあるのか、と問いかけています。

49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。49:8 ・・たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。・・

 詩篇の著者が、この世の富者に対して突きつけている挑戦は、「死」です。どんなにお金を持っていても、人は死の問題と現実から逃れることはできません。死は、人々を完全に平等にします。

 そして、その魂はお金で買い戻すことは全然できません。命はお金に換えられないのです。ラザロと金持ちの話を思い出してください。地獄における現実が書かれています。金持ちとラザロがいるアブラハムのふところの間には大きな淵があり、互いに行き来することができません。そして、金持ちは、自分の兄弟がここに来ないようにラザロを父の家に送ってくれと頼みます。アブラハムは、それでも兄弟たちは信じないだろう、ラザロが生き返ったとしても信じないだろう、と言いました。どうしてでしょうか、自分の財産により頼み、モーセと預言者に聞き入らないからです。

 だから、人は兄弟をも買い戻すことはできません。魂は、金銭よりもっと尊いもので買い取られなければいけないのです。それは何でしょうか?主イエスが流された血、注がれた命です。ペテロが手紙の中でこう書きました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19

49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。

 人々は財産を持っているとき、一つの幻想を描きます。いつまでも生きながらえる、という幻想、夢想です。イエス様を受け入れる、永遠のいのちを受け入れるのを拒む人々は必ず、今の生活に満足しています。今の生活のことしか考えていません。今の生活がずっと続くと錯覚しています。

49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。

 今はなしたように、死は人々を完全に平等にします。そして集めた富は、死んだら他の人に使われるだけです。

49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。

 世界に、「何だか記念碑」でも、その国のお札でも、国の権力者が自分の名前を残していることが多いです。確かにその名前は残っているかもしれません。けれども、どこまで人々がその人のことを知っているでしょうか?例えば、徳川家康は東照宮に祀られています。彼はそこから江戸を眺めることができるようにしたのです。面白いことに、東照宮の神主の娘さんと話したことがあります。彼女は東照宮に誰が祀られているのかを知りませんでした!そんなものなのです。

49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。

 最近、道で車に轢かれて、ぺちゃんこになっていた鼠を見ました。気持ち悪かったですが、ああ、さっきまで生きていたであろうに、ただの物体と化して道路に横たわっていました。人の栄華も同じです。そこでひき殺された鼠となんら変わらないのです。

3C 陰府に下る運命 13−20
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。セラ49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。

 富者の空しさは、地上だけにとどまりません。死後の世界にまで至ります。新たな地、神の国を受け継ぐのは直ぐな人々だけです。彼らは陰府にくだり、そこを住処とします。

49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。セラ

 これが、私たちが本当に心に留めなければいけないことです。いかに、自分が陰府から救われるのか、買い戻されるのか。この問いかけに、世界中のすべての人が、一人ひとり答えなければいけないのです。

 あまりにも多くの人が、「お金で何とかなる」と錯覚しているのです。けれども、お金では無理なのです。それが死なのです。だから、死んでその後どうなるのかをだれもが考えなければいけないのですが、金や銀よりも高価なもので自分の魂を買い取らなければいけないのです。それがキリストの尊い血潮です。この方の血によって、初めて地獄から自分の魂を救うことができます。

49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

 人は裸で生まれて、裸で地に戻るとよく言われますが、まったくその通りです。物は自分の命に対して何も助けてくれません。

49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

 死後の世界で、暗闇の中にいるか、それとも神の栄光が輝き、また自分自身も栄冠を受ける天国にいるかの選択がすべての人に与えられています。

2A 神のさばき 50
50 アサフの賛歌

1B 光 1−6
50:1 神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。日の上る所から沈む所まで。50:2 麗しさの窮み、シオンから、神は光を放たれた。

 イエス様が地上に再臨されて、エルサレムの王座に着かれて、世界の光となられるときの預言です。

50:3 われらの神は来て、黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その回りには激しいあらしがある。

 主が戻ってこられるときの裁きです。

50:4 神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せられる。50:5 「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」

 主が裁かれるのは、ここでは異邦人の民ではなくご自分の民、イスラエルです。主が裁かれるとき、彼らの行ないを清算されるときがあります。これは教会の聖徒たちに対しても同じです。主が空中に戻ってこられて、教会が引き上げられ、その後に私たちはキリストの裁きの御座の前に立ちます。そして地上で行なったことに従って、報いが与えられます。主のために行わなかったことはみな、火で焼かれます。主に対して行なったことのみが残り、その行ないに応じて報酬が与えられます。

50:6 天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。セラ

 天と地を呼び寄せられると5節にありましたが、それは二人の証人を召還した意味になります。モーセの律法で、一つのことが事実と認められるためには、二人か三人の証人が必要であると書いてあるからです。主は、天と地の二人の証人に呼び、一人ひとりのイスラエルが行なったこと証しさせます。私たちが隠れて行なったことも、地も天も知っているわけです。

2B 戒め 7−23
 契約の民イスラエルには二種類の人々がいます。それぞれに対して主は語られます。

1C 感謝のいけにえ 7−15
50:7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。50:8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。

 主はイスラエルに対して、戒めることではないことをまず初めに語っています。戒めること、間違った行ないを正すまえに、戒めの対象ではないことをお語りになります。つまり、いけにえのことで戒める、責めるのではありません。

50:9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。50:10 森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。50:11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。50:13 わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。

 主は、イスラエルに対して、いけにえによる礼拝と奉仕を命じられました。けれども、主はいけにえがなければ生きられないような偶像とは異なります。パウロがアテネでギリシヤ人に対して、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた身やなどにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。(使徒17:24-25」と言いました。

 けれども、イスラエルの人たちは、自分たちがきちんといけにえを捧げていなかったから、神に責められるのではないかと勘違いしていたのです。十分ないけにえをささげなかったので、主が不足を感じて、不満に思っておられるのではないかと感じたのです。

 私たちクリスチャンも同じ過ちを持っていないでしょうか?物理的に自分が行なっている宗教的活動に焦点を当てることはないでしょうか。祈っている時間、読んでいる聖書の長さ、教会でどのくらい時間を費やしているかなど、物理的な量によって主への貢献度を測ろうとする思いです。それらが足りないと、主が不満げになっておられると考えてしまいます。

 けれども主は、私たちが主にお仕えしなくても、まったく何の影響も受けられません。主はご自分で存在することがおできになる方であり、仮に地上のだれ一人も主に仕えていなくても、主は主であられ、まったく変わることはありません。

 私たちが主にお仕えするのは、主の不足を補うためではなく、私たち自身の益のためです。献金をするのは、主のためというよりも、私たちが霊的に必要なことだからです。受けるよりも与えるほうが幸いであると言われた主の御言葉どおり、霊的な幸福を与えることによって私たちが得るためなのです。

50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

 「ハドソン・テーラーの生涯」という本の中に、彼の回心について書いてありました。主が、十字架の上でテテレスタイ、すべてが完了したと言われたとき、救いのみわざは完成した。だったら、私たちができることは、その完成したわざに感謝することだけではないか、と理解したことがきっかけでした。すごく簡単なことですが、そうなんです、礼拝は簡単なことなのです。主がすべてを成し遂げてくださったことを、ただ感謝して、主に自分自身をおささげすることだけなのです。

 この感謝がイスラエル人に不足していました。そこで主は責められたのです。私たちはどうでしょうか?どれだけ奉仕したのかで、主が戻ってこられるときに裁かれるのではないかと思ってはいませんか?そうではなく、主に感謝してただ生きているという単純な行為をしていますか?

50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。

 苦しいときは祈りなさい、とヤコブの手紙に書かれていますが、これも非常に単純なこと、簡単なことです。私たちが奉仕をしているなかで、あたかも自分たちでやっているがごとく動いて、この単純な真理を忘れてしまいます。ただ主を呼び求めればいいのです。これだけなのです。

 日本では神学、伝道方法などで議論して、事を複雑にしているように思えます。なぜ、クリスチャンが少ないという事実について、主に子供のように、「主よ苦しいです、愛する同胞の民があなたを知らないことは苦しいです。」と祈らないのでしょうか。苦しみの中の祈りに対する主の約束は、「あなたを助け出そう」です。議論ではありません、方法ではありません、単純な祈りです。

2C 悔い改め 16−23
50:16 しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

 16節からは、イスラエルの民、契約の民と表向きは言っているけれども、実は違う人々に対する神の裁きの言葉です。偽善者、二重の基準を持っている人々、実を結ばない人々のことです。

50:17 おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

 彼らの第一の特徴は、主の御言葉への恐れがないことです。聖書に書かれてあることが、自分のことであると思って、主を恐れて、自分のしている悪事を悔い改める・・・ということがないことです。ただ御言葉を聞いているだけで、心の中で自分の後ろに投げ捨てている状態です。

50:18 おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

 自分は悪事を行なっていなくても、悪事を行なっている者と親しくしたら、それも裁きの対象です。インターネットである人の悪口が書かれていて、それを喜んで読んでいる。また、姦淫の場面をテレビで見ていて、それを喜んで見ている。どちらも、その悪事に関わっていることになります。

50:19 おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。50:20 おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。

 以外にクリスチャンの間でないがしろにされているのが、言葉による罪です。2ちゃんねるで、「死ね」という言葉が挨拶代わりにまで待っているほど良心が麻痺していますが、どうでしょうか、クリスチャンの掲示板と呼ばれる中で、クリスチャンのブログと言われている中で、平気で他人をこき下ろす言葉を書き並べてはいないでしょうか?

50:21 こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

 私たちが悪事を行なうことができる理由は、神を自分と同じ位置に置いているからです。自分が隠れて悪事を行なっているとき、神も自分と同じように隠されたら見ることができないと考えます。同じ位置に置くことによって、主への恐れを退けるのです。

50:22 神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。

 主は忍耐される方です。エゼキエル書には、悪者が滅びることを喜ばない、と主は言われています。喜んで裁くことはないのです。だから主はまず警告を与えて、裁きの手を伸ばすのをなるべく遠慮されています。

50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。

 悪を行なっている人も、その道を正しくするなら神の救いを見ることができます。そしてこれらは、契約の民と呼ばれている人々の中で行なわれます。教会も同じです。まず神の家からさばきがある、とペテロの手紙にはあります。私たちが自分をさばくなら、さばかれることはない、ともコリント人への第一の手紙にあります。


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