1A 敵の虐げ 56
1B 恐れに対して 1−4
2B 涙に対して 5−11
3B 神への誓い 12−13
2A 敵のむさぼり 57
1B 天からの送り 1−5
2B 主へのほめ歌 6−11
3A 不正なさばき 58
1B 心から出る毒 1−5
2B 消え去る悪者 6−11
4A 敵のうろつき 59
1B 救いの呼びかけ 1−5
2B 高慢なくちびる 6−13
3B 喜びの賛歌 14−17
本文
詩篇56篇を開いてください。今日は56篇から59篇までを学びたいと思います。ここでのメッセージの題は、「敵のあえぎ」です。56篇から59篇の中に何度か、「敵が私を踏みつける」という言葉が出てきます。例えば56篇2節「私の敵は、一日中、私を踏みつけています」とあります。ここの原語へブル語は、「あえぐ」という言葉にも訳すことができます。狼などが獲物を求めて、ハーハーあえいでいる時の姿です。ダビデが敵に囲まれて、敵が彼の命を求めてあえいでいる時に、彼が詩篇を書きました。それではさっそく本文を読みたいと思います。
1A 敵の虐げ 56
56 指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ペリシテ人が、ガテでダビデを捕えたときに
前回の学びで、ダビデが祭司アヒメレクから供えのパンと、ゴリヤテの剣を受け取った出来事について言及しましたが、この詩篇はその後の出来事、ダビデがガテの王アキシュのところに行ったときのことを話しています。イスラエルの敵陣にダビデが行きました。イスラエル領にいては、サウルの手が伸びますから、敵陣に行かざるを得なかったのでしょう。
しかしその時、アキシュの家来たちがこの男はダビデであることに気づきます。そこでダビデは、気違いのふりをします。そこでアキシュは気違いをここに連れてくるなと言います。こうしてかろうじて、ダビデはペリシテ人の手に陥ることはありませんでした。
1B 恐れに対して 1−4
56:1 神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。56:2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。
アキシュの家来たちが、これはダビデではないかと気がついたときのことです。自分の命はほとんど彼らの手の中にあります。いつ殺されてもおかしくない状態です。
56:3 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
ダビデは恐れました。こうこれで死ぬかもしれない。ペリシテ人が自分をなぶり、自分の首をもぎとり、お祭り騒ぎをするかもしれない。そうした恐れが彼の心を襲いました。
けれども彼は、神を信頼しました。すばらしいです、この単純な信頼するという行為を彼は心の中で行ないました。私がクリスチャンになったばかりのとき、自分は周囲の人たちにどう思われているのかと恐れることがよくありましたが、箴言の次の言葉が自分の救いとなりました。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)」ダビデは人への恐れから、主への信頼へと心の向きを変えたのです。
56:4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
私たちが主に信頼を置くとき、主の御霊が働いてくださいます。ご聖霊は、私たちに主の言葉を思い起こさせてくださいます。御言葉が与えられたら、私たちの心は一変します。どんなに努力して、積極的思考をしよう、肯定的な考え方をしようと努力してもできない思いも、御言葉がただ与えられることによって、私たちの心は平安で満たされます。
2B 涙に対して 5−11
56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
ここの「私のことば」とは、ダビデが語ったこと、あるいはダビデについての評判についてでしょう。ペリシテ人たちが、自分のことについて悪いことを言っています。
これまでの詩篇にもたくさん出てきましたが、言葉は武器です。不義のために用いられる器に簡単になりえます。人の命をも取ることのできる力を持っています。
56:6 彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、私のあとをつけています。私のいのちをねらっているように。56:7 神よ。彼らの不法のゆえに、彼らを投げつけてください。御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください。
相手はペリシテ人だけなのですが、ダビデは「国々の民」と複数の国民について話しています。これは、神のことを敬わない異教徒を総称している言葉だからです。ペリシテ人たちが行なっていることは、他の神を敬わない者たち全員にも当てはまることなので、彼らに対する神の怒りをダビデは願っています。
56:8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
すばらしい祈りですね。聖書の中には、神が記録書を持っておられることが書かれています。モーセがイスラエルのために執り成しをしたとき、主に、自分の名前をあなたの書物から消し去ってください、とお願いしています。主が、悪霊を追い出して喜んで帰ってきた弟子たちに対して、自分の名前が天で書き記されていることを喜びなさい、と言われました。そして黙示録には、「小羊のいのちの書」というものが出てきます。
だから主は記録されています。私たちの名前を記録してくださっています。そしてこの聖句によると、私たちのさすらいも、涙も記録してくださっています。自分が見捨てられたと感じているようなことをすべて記録し、心に留め、共に泣いてくださっています。
56:9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。
ダビデは、涙の祈りの中で、祈りが聞かれた確信が与えられました。敵は退くという確信が与えられました。
そして「神が私の味方である」と言っています。これはいつまでも思い出しているべきですね。私たちは苦境の中にいると、見捨てられたという意識が先行します。しかし、ローマ人への手紙8章では、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31節)」とあります。
56:10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。56:11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
再び、賛美をしています。繰り返しますが、詩篇の中にあるこうした祈りは、必ずしも苦しい状況の中から救い出された後で歌われているのではありません。まだ苦しみの中にいて、その中で与えられた確信を歌っています。これが大切です。祈りは、神への賛美になるまで心を広げ、祈るべきです。
3B 神への誓い 12−13
56:12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
自分が救われた後に、感謝のいけにえをささげ、神の御前を歩むと誓っています。私たちが苦しみから救われて、初めに何をするでしょうか。病気にかかって、祈ったら直って、それから祈りが聞かれたことさえ忘れて、けろっとして、何か自分のことをしはじめることはないでしょうか?ダビデは違いました。救われたことへの感謝を主にささげました。そして、主に仕えました。
2A 敵のむさぼり 57
57 指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに
ダビデがエン・ゲディにいたときの話です。彼がサウルの手から逃れて、死海のほとりにあるエン・ゲディに行きました。そこは川が流れていて、また洞窟がたくさんあるところです。逃げ隠れするのは、もってこいの場所です。
けれどもサウルは、イスラエル全体の中から選抜した三千人の精鋭部隊を送りました。いくら洞窟がたくさんあると言えども、すぐ見つかってしまいます。しかし主はダビデを守ってくださり、ちょうど彼らが隠れていた洞窟の中に、サウルが仮眠を取りました。ダビデは、油注がれた者に手をかけてはならないとのことで、サウルの衣の裾だけを剣で切り取って、サウルが目を覚ました後でそれを見せました。
1B 天からの送り 1−5
57:1 神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
出エジプト記の中で、「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。(19:4)」という主の御言葉があります。鳥の雛が親鳥の翼に守られる、そのイメージです。鷲は、雛が巣立つとき、地面に落ちることがないように、下で自分の翼を広げるそうです。
ダビデは自分が弱いことを知っています。それでその弱さ、その脆さを主の守りの中に持っていっています。
57:2 私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。57:3 神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。セラ 神は恵みとまことを送られるのです。
ダビデが見上げたのは、天です。コロサイ書3章には、「・・・もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(1-2節)」とあります。
天にあるものを思い巡らすだけで、私たちの視点は180度変えられます。いかに主の栄光がすばらしいものか、そしていかに、私たちに蓄えられている天の資産が貴いものか、それが分かれば私たちは、どんな苦難の中にいてもなお喜んでいることができます。
どうか、祈ってください。御霊の啓示によって、主がいかに栄光に輝いておられるのか、自分たちが相続する財産がいかに偉大なものかを知ってください。聖書に、数多く天の情景が書かれています。黙示録にたくさん書かれています。
57:4 私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。
映画などで、人食い人種のいけにえの儀式で、まもなく自分がほふられようとしている場面がありますが、まさにそのような心境の中にダビデはいました。
ペテロの第一の手紙5章に、獅子が人を食い尽くそうとしている場面が出てきます。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。(1ペテロ5:8-9)」
日本では一般的に、私たちの信仰上の問題は世の思い煩いでしょう。何を食べるか、何を着るか、どうしようかという気づかいが、いばらのように私たちの成長を阻んでしまうのです。けれども、信仰をもって人々に伝道するものなら、学校や会社をやめなければいけなくなったり、牢屋に入らなければいけなかったり、ある時は殺されることもある国は今の時代たくさんあります。そういう国では、祈るときは誰が見ているかを気にしながら慎重に行動し、伝道するときは、祈りつつ霊的に緊迫した状態で伝道しなければいけません。
目を覚ましなさい、身を慎みなさい、というのはそういう意味です。けれども実は、信教の自由が保障されている日本でもどの国でも、悪魔は働いています。目を覚まして身を慎まなければ、私たちの信仰は骨抜きにされてしまいます。
57:5 神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
再びダビデは天を見上げています。自分の周囲がどんなに恐ろしいことになっても、天を見上げれば、そこには自由があります。ステパノが石打の刑を受けているとき、天を見上げて、神の右の座から立ち上がった主イエスを見ました。このような自由です。
2B 主へのほめ歌 6−11
57:6 彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。セラ
自分が食い殺される危険を見ながら、何度も天を見上げたダビデは、ついに神が敵に対して行なおうとされる将来のことを見ることができました。自分に網を仕掛けたサウルが、その仕掛けに自分がひっかかるという幻です。事実、サウルはペリシテ人によって首を切られてさらし者となりました。
私たちは、苦難の中にいるとき、その目に見えるところから視線をはずして天をみあげるなら、今見えていることにかれも救われる、逃れの道も見えてくるようになります。霊的に正しいものを見ていると、実際の物事の見方にも影響を与えます。自分で一生懸命、積極的に、肯定的に考え方を変えよう、物事を見ていこうとしてもだめです。これは主がしてくださることなのです。私たちが思いを天に向けているときに、主が地上における物事の見方をも変えてくださいます。
57:7 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。57:8 私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。
祈りと願いは賛美の歌に変わりました。
57:9 主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
異邦人の国々の前でも神に感謝して、イスラエルの民の中でも賛美をします。
57:10 あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
恵みとまことです。主のご性質と働きは、恵みであり真理です。
57:11 神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。
3A 不正なさばき 58
58 指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。ダビデのミクタム
ここの詩篇は、サウルが死んだ後にダビデが王となった後に書かれたものだと言われています。サウルが治めていた時に裁きつかさたちが腐敗しました。自分が王となり、人々をさばく立場に立ったとき、これら裁きつかさたちが不正を働き、人々に暴虐を働いていたことを見て、憤っています。
1B 心から出る毒 1−5
58:1 力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。58:2 いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。58:3 悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。
彼らの不正と暴虐は生まれつきのものだ、とダビデは言っています。前回学んだ、ダビデの罪の告白のところでも学びましたが、人は罪を犯したから罪人になるのではなく、もともと罪人だから罪を犯します。罪の性質を持っているから罪を犯します。
58:4 彼らは、蛇の毒のような毒を持ち、その耳をふさぐ耳しいのコブラのようだ。58:5 これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない。
すごい表現ですね。猛毒のコブラも、蛇使いの声を聞いたらそのとおりにしますが、それさえもしない蛇に、ダビデはこれら裁きつかさらを例えています。人の話を二度と聞けないぐらい腐敗してしまったようです。
2B 消え去る悪者 6−11
58:6 神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。58:7 彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。58:8 彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。58:9 おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる。
これらの例えはすべて、彼らが行なおうとしていることがことごとくなくなってしまうことを指しています。同じような裁きの言葉が、ペテロ第二の手紙とユダの手紙に書いてあります。ユダの手紙のほうを読みます。「彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。(12-13節)」ペテロの手紙もユダの手紙も、異端をもちこんで人々を迷わせ放縦にさせる人々に対して、語られている言葉です。
58:10 正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。58:11 こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」
これは厳粛な場面です。詩篇でこれまで読んだところに何度か出てきましたが、黙示録にもたくさん出てきます。主が再臨されるとき天にいる人々が大歓声を上げて、悪者が滅びるのを喜びます。神を恐れかしこみつつ、そのさばきを喜びます。
4A 敵のうろつき 59
59 指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデを殺そうと、サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに
ダビデがまだサウルに仕えていたときのことです。覚えていますか、サウルのためにダビデが琴をひいていると、サウルが槍をもってダビデに投げつけました。一度ではなく二度、そんなことが起こりました。その後、サウルはダビデの家に人々を遣わし、夜の間ダビデを見張らせ、朝になって彼を殺そうとしました。そのことがダビデの妻ミカルの知るところとなりました。ミカルは、ダビデを窓からおろさせて、ダビデの寝床には布団の下にものを入れて、彼が寝ていると思わせました。このときのことについての詩篇です。
1B 救いの呼びかけ 1−5
59:1 わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。59:2 不法を行なう者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。
見張って周りを歩いている者たち、またサウルからの救いを叫んでいます。
59:3 今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。59:4 私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。どうか目をさまして、私を助けてください。どうか、見てください。
ダビデはサウルに対して何ら罪を犯していません。むしろ彼は、サウルの忠実なしもべでした。そして勇士でした。
59:5 あなたは万軍の神、主。イスラエルの神。どうか目をさまして、すべての国々を罰してください。悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください。セラ
ダビデは再び、神を敬わない異教徒のことを「すべての国々」と総称しています。罰してください、と祈っています。
私たちが苦しいとき、このような祈りが必要です。ローマ13章に復讐は主のものであることが書かれています。私たちが自分で戦うのではなく、主に戦ってくださるようお願いします。主が裁いてくださるようお願いします。自分はただ、あわれむだけです。ダビデはサウルが死ぬときまで、いや死んだあとまで、彼に対する敬意を失いませんでした。それは、このような主にすべての復讐をお任せする祈りがあったからです。
2B 高慢なくちびる 6−13
59:6 彼らは、夕べには帰って来て、犬のようにほえ、町をうろつき回る。59:7 見よ。彼らは自分の口で放言し、彼らのくちびるには、剣がある。そして、「だれが聞くものか。」と言っている。
神への恐れがありません。だれも自分が言っていることは聞いていない、神も聞いていない、という高ぶりです。けれども私たちは、主がいつも聞いておられるという恐れを持つべきです。イエス様が言われました。「ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(12:3)」すべてが明るみに出されます。
59:8 しかし主よ。あなたは、彼らを笑い、すべての国々を、あざけられます。59:9 私の力、あなたを私は、見守ります。神は私のとりでです。
私たちは視線を上げなければいけません。いつも自分と敵の比較を行なってはなりません。もっと高いところには主がおられます。敵が自分のやりたいようにしていると思っているけれども、実は主が敵をご自分の思うままに操られておられるのです。
59:10 私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。神は、私の敵の敗北を見せてくださる。59:11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が、忘れることのないためです。御力によって、彼らを放浪させてください。彼らを打ち倒してください。主よ。私たちの盾よ。
私の民、つまり本当に神を信じているイスラエルが、敵の敗北を見ることができるように、彼らが卑しめられた姿を見ることができるようにと祈っています。
59:12 彼らの口の罪は、彼らのくちびるのことばです。彼らは高慢に取りつかれるがよい。彼らの述べる、のろいとへつらいのために。
言葉の罪、口の罪です。
59:13 激しい憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くして、彼らをなくしてください。そうして、神が地の果て果てまでもヤコブを治められることを、彼らが知るようにしてください。セラ
イスラエルに神がおられることを世界中に知らしめてください、という祈りです。エジプトに災いがくだったときに、世界中にイスラエルに神がおられることが伝わりました。
3B 喜びの賛歌 14−17
59:14 こうして、彼らは夕べには帰って来て、犬のようにほえ、町をうろつき回る。59:15 彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。
先にも、ダビデの見張りをしている者たちが犬に例えられていました。聖書の中には他に、ユダヤ主義を教える者たちが、犬と呼ばれているところがあります。ピリピの教会の人たちにパウロは、「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。(3:2)」と言いました。パウロが行くところどこに言っても、これらユダヤ主義者らはついて行き、教会の信者たちを惑わしていました。だから獰猛な犬のようであったのです。
私たちも食いちぎられないように、また食いちぎることがないように気をつけたいものです。ガラテヤ書5章15節に、「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いに間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」とあります。聖書の些細な部分について、激しい論争をし、中傷合戦をする。そこにはねたみがあります。人の肉を食いちぎる行為です。
59:16 しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。
夜にダビデを見張っていたので、ダビデは夜に祈っていました。その祈りは答えられ、彼は守られ朝を迎えます。そのたびに彼は喜びの歌をうたいました。
59:17 私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。
再び賛美で終わっています。
初めは苦しみ、苦悶、苦闘からの祈りから始まりました。けれども最後は賛美で終わっています。これが苦しむときの祈りです。ヤコブの手紙に、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。(5:13)」との勧めがあります。もう自分は敵に四方を囲まれている、だめだ、と思うとき祈ってください。いろいろなプレッシャーを受けてどうすればよいか分からなくなったときダビデのように心を広げて祈ってください。神さまはその祈りに必ず答えてくださいます。
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