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詩篇65篇を開いてください、今日は65篇から68篇までを学びます。ここでのテーマは、「私たちから国々へ」です。
しばらく私たちは、苦しみの中から神に呼ばわるダビデの祈りを読んできました。けれども65篇から内容が変わります。あらゆる苦しみや敵の虐げから解放されて、神が王となり主となっていることを賛美している詩歌へと変わっています。それぞれが、収穫が与えられたときに歌ったものや、戦争で勝利したときに歌ったものでありますが、それ以上に、主があらゆる国々を支配される神の国、イエス様が地上に再臨された後の千年王国を遠くに見るような内容になっています。
1A 神の良いもの 65
65 指揮者のために。ダビデの賛歌。歌
この詩篇は、初穂の祭りのときに歌われたものと考えられます。レビ記23章に主への例祭が書かれていますが、初めに出てくるのは過越の祭りですね。それから種なしパンの祝いで、そして大麦の初穂を主にささげる、初穂の祭りがあります。
1B 聖なる宮において 1−4
65:1a 神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。
黙示録に出てくる天の情景を思い出してください。そこでは天使たちが、大声で主を賛美している姿が描かれていますが、静けさもあります。小羊が第七の封印を解いたときに、「天に半時間ばかりの静けさがあった。(8:1)」とあります。神への賛美は、やたらに声を上げて歌うだけで成り立っているのではありません。主がなさることに畏怖の念を持ち、静まる時もあります。
そしてここの場所は「シオン」です。これから読む詩篇にもシオンが出てきますが、これはエルサレムの町の南側にある、小高い丘です。シオンの山に立っても、そこが山だと分からないほど小さいところです。けれどもそこが、神が、ご自分が住まわれるところとしてお定めになっているところであり、実に全世界の中心地です。
65:1bあなたに誓いが果たされますように。
「誓い」と聞くと、すぐにイエス様の言葉を思い出されるかと思います。「決して誓ってはいけません。(マタイ5:34)」「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。(同5:37)」イエス様は、旧約の律法に反したことを言われたのではなく、「誓い」の本当の意味を失ってしまった当時の習慣に対してお語りになっていました。つまり、心がともなっていないのに、口だけで神様に対して約束することを戒めておられたのです。
「誓い」を今の言葉で言い換えるなら「応答」でしょう。主が語ってくださいます、それで自分はふさわしい形で応答します。神を賛美しても、自分が変わっていなかったら、それは口だけのものです。主のご臨在に触れられて、私たちは応答し、生活の中でもその影響が及びます。
65:2 祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。
誓いは、主が自分の「祈り」を聞いてくださるときに、しばしば行なわれるものです。主に自分の願いを申し上げて、主が聞いてくださるとき、私たちはその祈りの答えに対して応答します。
65:3 咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
祈りが聞かれることについて、最もすばらしい祈りへの答えは罪の赦しです。私たちの物理的な必要に対して主が答えてくださるのも、すばらしいことでしょう。けれども、神と自分との仕切りとなっている罪が取り除かれること、その赦しから出てくる安堵感、平安、癒し、そして喜びは言葉に言い尽くせないものです。
65:4a 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。
シオンの山の北東に神殿がありますが、そこで礼拝するようになる人は、神が選ばれた人です。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)」私たちは、自分の罪が赦され、その喜びのゆえに主を礼拝していますが、実はこれらはみな、主が先に私たちを選んでいてくださったことに基づきます。だからダビデは「幸いなことよ」と言っています。
65:4b私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。
主の宮の中にはあらゆる良いものがありますね。今引用した、キリストにあって選ばれるという聖句はエペソ書1章4節からのものですが、エペソ書1章には、キリストにあってあらゆる霊的祝福をもって、神が私たちを祝福してくださったことが書かれています。私たちが主に礼拝をささげているとき、あらゆる良いもので満ち足りているでしょうか?
2B 地の果てにおける義 5−8
場面は主における賛美と礼拝から、一気に地の果て、遠い海に至る神の義に移っています。けれどもこの移行が非常に大事です。続く詩篇でも認めることができますが、私たちが御霊によって親密に交わるその主は、全世界を、力をもって支配する大いなる神であるということです。まず本文を読んでみましょう。
65:5a 私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。
「恐ろしい事柄」というのは、「畏れ多い」と言い換えることができますね。恐怖というより畏敬です。
65:5bあなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。
地の果て果て、遠い大海です。
65:6 あなたは、御力によって山々を堅く建て、力を帯びておられます。65:7 あなたは、海のとどろき、その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます。
力強くそびえる山々を保っておられるのは主ご自身です。そして、私たちが飛行機に乗って太平洋を渡って、何時間も延々と続く海を眺めるとき、それらを静めておられるのは私たちの神、主です。
それから「国々の民の騒ぎ」を静められます。今、必要な御言葉です。国々が騒いでいます。ロシア、中国、北朝鮮、イラン、シリアなどなど。だれもが、世界情勢の不安定要因を新聞やニュースで見て、不安になっています。けれども、山々を堅く保っておられ、大海を静めておられる主は、これらの国々をも静めてくださいます。
65:8 地の果て果てに住む者もあなたの数々のしるしを恐れます。あなたは、朝と夕べの起こる所を、高らかに歌うようにされます。
全世界の人たちが、主によって引き起こされる数々のしるしを見て、主をあがめます。日の出も日没も、神である主である方が引き起こされることを知って、あがめます。
かなり前ですが、日本のテレビ番組で、少し食べてもいいぐらい土壌が豊かな山を案内する人が出てきました。彼はクリスチャンだそうです。そして、山のてっぺんから日の出のほうを向いて、その太陽ではなく、太陽を造られた神に対して祈っている姿が出てきました。イエス様のお名前によって祈りました。
イスラエルから見たら、東の地の果てである日本において、このように主をあがめる人たちが出ています。私たちはまだ、すべての人がこのようにしているのは見ることはできませんが、しかし、すべての人が神をあがめるときがやって来ます。イエス様が地上に戻ってこられて、神の国を建てられるときに、すべての日本人も神をあがめ、神を賛美するのです!
3B 水の豊かな土地 9−13
次は、土地が水分によって豊かになる神の恵みについて歌っている部分です。
65:9 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。
「神の川」というのは、水が豊富な川は神から与えられているもの、ということです。
65:10 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます。65:11 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。
水分を豊富に含んだ土によって、その年は豊作になっている姿です。
65:12 荒野の牧場はしたたり、もろもろの丘も喜びをまとっています。65:13 牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。人々は喜び叫んでいます。まことに、歌を歌っています。
イスラエルは地中海性気候ですから、水はいつも死活的な問題になっています。荒野、砂漠と隣り合わせの土地です。しかし主がそこを真っ青な緑にしてくださって、豊かに穀物を実らせてくださることを、人々が喜び叫んでいます。
今ここに書かれていることは、ダビデが生きていた当時のことだけでなく、完全な形で千年王国において実現します。例えばイザヤ書30章23,24節にはこう書いてあります。「主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。(イザヤ書30:23-24)」
私たちが今、直面している環境問題、温暖化現象なども、神の国においてはすべて解決するのです!
2A 畏れ多い御業 66
66 指揮者のために。歌。賛歌
この詩篇を書いた著者は、ヒゼキヤ王ではないかという意見があります。ユダがアッシリヤから奇跡的に救い出されたとき、ヒゼキヤが歌ったものではないかと言われています。
ここは神殿における賛美、聖歌隊によって歌われたものではないかと言われています。1節から4節が歌の一番、5節から7節が二番目の歌詞、そして8節から12節までが聖歌隊のコーラスになっています。そして13節から主語が変わります。1節から12節までは「私たち」が主語ですが13節から「私」になります。おそらくヒゼキヤ王自身が王個人としての主への思いをそこに歌っているのでしょう。
1B 賛美への呼びかけ 1−12
1C 全地に対して 1−7
66:1 全地よ。神に向かって喜び叫べ。66:2 御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。
賛美への呼びかけは、全地に対して行なわれています。
66:3 神に申し上げよ。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。
ヒゼキヤにとっては、敵はアッシリヤでしたが、もっと普遍的な、全体的な出来事が将来に起こります。そうです主イエス・キリストの再臨と、その後の神の国です。敵はみな、キリストの王権の前に屈服します。
66:4 全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。」セラ
そして次から同じメロディーで、二番目の歌詞になります。
66:5 さあ、神のみわざを見よ。神の人の子らになさることは恐ろしい。
人の子らとありますが、次の6節を見ますと、彼らはイスラエルの人々であることがわかります。
66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。
神が海を変えて、かわいた地とされた出来事は、イスラエルの民がエジプトから出て、分かれた紅海を渡ったことです。そして「川の中を歩いて渡る」のは、ヨシュア率いるイスラエルが、ヨルダン川を渡ったときのことです。
66:7 神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。頑迷な者を、高ぶらせないでください。セラ
「その権力をもって」です。紅海を分けた力、川をせき止めた力、その力をもって神はご自分の国を統治されます。そして国々を監視されます。今、アメリカが軍事衛星やその他の諜報手段によって、北朝鮮やイランの核開発や核実験の活動を監視していますが、もちろん完全でできているわけではありません。人間の手による監視は不完全です。けれども主イエス・キリストが行われる監視は完全なものです。
2C 国々に対して 8−12
次に聖歌隊によるコーラスの部分に入ります。
66:8 国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。
1節から4節が全地に対しての呼びかけで、5節から7節がイスラエルの民についての事でしたが、ここは「国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ」つまり、国々の、イスラエルの民への対応についての呼びかけです。
66:9 神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。66:10 神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。66:11 あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。66:12 あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。
ここで書かれていることは分かりますか?イスラエルの民が、国々の虐げや迫害の中でなおも生き残り、最後には救い出されることを歌っているところです。エジプトでの奴隷生活から始まり、士師記でのカナン人、モアブ人、ペリシテ人からの虐げ、そしてアッシリヤ、バビロン、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマ、そして世界離散。十字軍、スペインでの異端審問、ロシアでのポグロム、そしてナチスによるホロコーストがあります。そして現在はパレスチナ人や周辺イスラム諸国による、激しい反ユダヤ主義があります。
このような中で彼らは、ここに書かれているとおり、神によって練られ、網に入れられ、人々が彼らの頭を通るようにされ、火の中、水の中を通らせるようにされました。そしてこれからもされます。大患難のときは、ヤコブによって苦難の時であります。彼らが絶滅の危機に瀕するとき、主イエスが来られ、彼らを救い出され、彼らを攻めてきた世界の軍隊と戦われ、敵をことごとく滅ぼされます。そして御霊によって新生したイスラエルは、神の国の中に入れられます。
2B 自分の誓い 13−20
1C 全焼のささげもの 13−15
66:13 私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします。66:14 それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、私の口が申し上げた誓いです。
ちょうどこの誓いは、サムソンの母ハンナが行なった誓いと似ています。彼女が不妊でなき悲しんでいたとき、彼女はうめくような祈りの中で、「男の子をお与えください。与えてくださったら、この子をあなたにおささげいたします。」と祈りました。そうして生まれてきたのがサムエルですが、彼女はその誓いのとおり、幼いサムエルを祭司エリのもとに預けました。
66:15 私はあなたに肥えた獣の全焼のいけにえを、雄羊のいけにえの煙とともにささげます。雄牛を雄やぎといっしょに、ささげます。セラ
全焼のいけにえは、自分をすべて神におささげする意味があります。そしてその犠牲の動物は高価なものです。ダビデが後に神殿になる敷地を購入するときに、そこの土地の所有者であるアラウナは、「すべて差し上げます。」と言いました。けれどもダビデは、「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(2サムエル24:24)」と言いました。
主への礼拝には、犠牲がともないます。例えば、金持ちの人がささげる一万円の献金と、母子家庭の人がささげる一万円の献金は、主の前でその価値は、何十倍にも何百倍にも変わります。要は、あのマリヤが主に対して高価な香油を注いだように、主へみな注ぎだす犠牲が伴うのです。
2C 祈りの答え 16−20
66:16 さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。66:17 私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。
自分の証しをしようとしています。証しは口によるものですが、その前に自分は同じ口で神を呼ばわり、そしてその祈りに答えてくださったことを感謝し、同じ口で神をあがめた、と言っています。
66:18 もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。66:19 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
非常に大切な原則がここに書かれていますね。不義があるなら、祈りを主は聞き入れてくださらない、という原則です。もちろん私たちは、悔い改めて主イエスの御名を信じたら、罪が赦されて、神の子どもとされ、キリストにあって神との平和を持っています。祈りはそのまま、御座におられる神のところに届きます。
けれども、体験的に私たちが神との交わりをするとき、罪があるならそれを楽しむことができません。祈りが妨げられるのです。例えば、パウロは牧者テモテに公の礼拝における指導を与えましたが、こう言いました。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2:8)」言い争いをしているときに、私たちは祈ることができるでしょうか?できませんね。
また、ペテロはこう言っています。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。(1ペテロ3:7)」夫婦喧嘩をしているとき、どうでしょうか・・・。祈ることはできないですよね。
66:20 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。
こうやって祈りに答えてくださった神を、著者はほめたたえています。
3A 神の祝福 67
67 指揮者のために。弦楽器によって。賛歌。歌
1B 知られる道 1−4
67:1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ
この順番が大切ですね。神の民が神に対してまず、「あわれみ」を求めています。私たちがそのままの姿で神に対面するなら、たちまち滅ぼされてしまいます。イスラエルの歴史が、その罪の姿をさらけだしていますが、異邦人の私たちも同じ、いやそれ以下です。エペソ書2章には、生まれながらにして神の怒りを受けるべき子らであった、と書いてあります。
だから私たちにまず必要なのは、「あわれみ」です。神のあわれみがなければ、私たちは次の日を生きることもできません。一歩も前に進めません。
そして次に、「祝福し」てくださいと祈っています。同じくエペソ書で、神が私たちを、キリストにあって、天にあるあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださった、と書いてあります。そしてそれは、神の恵みの栄光がほめたたえられるため、とも書かれています。受けるべきさばきを受けなくてすむ、「あわれみ」から一歩進み出て、今度は受けるに値しない祝福を受ける、つまり「恵み」の領域に進みます。
そして、あわれみと祝福を受けた私たちに、「み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように」と祈っています。つまり神の栄光が私たちから反射しますように、ということです。コリント第二3章18節で、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。
今、中東で御霊の力が現われています。激しい迫害を受けているにも関わらず、イスラム教徒がキリストに回心する数は飛躍的に伸びています。その中の一つに、エジプトにある洞窟で、一万人単位の人がやってきている教会がありますが、そのリーダーは、たった一人のごみ漁りの人をとおして救われました。
彼はビジネスマンでした。腕には100万円以上する腕時計を着けていました。それをなくしてしまったのですが、それを、ごみ漁りをしている男が見つけて、彼に返してきたのです。彼は驚きました。ごみ漁りは言いました。「私のキリストが、死に至るまで正直でありなさいと言われたんです。」それでそのビジネスマンが「あなたはクリスチャンですか?」と聞くと、ごみ漁りは「はい」と答えました。
そしてビジネスマンはイエス様を信じました。そのごみ漁りに、「私はキリストを見た」と言いました。神の御顔が自分に照り輝いている一例です。物理的には栄光どころか、悪臭を放って、不潔な服を着ているような風貌だったに違いありません。けれども、彼は光り輝いていたのです。
67:2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。
ここが非常に大事です。65篇の詩篇で言及しましたが、私たちが主との親しい関係を持っていることは、全世界における神の義につながる、という話でした。それは、私たちを個人的に救う神は、世界を救う神でもあられるからです。
その神の国が建てられるまでの間、主は、ご聖霊によって、教会をとおして人々にご自分の道を知らせておられます。これが神様のデザインです。だから、私たちは周りの人に嫌なことを言われたり無視されたりするから、自分の仲間内のクリスチャンだけで信仰を保っておこうという守りの姿勢は、神のみこころではありません。私たちが祝福されるのは、人々にその祝福を分かち合うためのもの、主の道を知らせるためのものなのです。
67:3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。67:4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ
すべての国々がやがて、キリストに服従します。この神の国の到来を思いながら、私たちは一人でも多くの人に福音を伝えます。
2B 地の産物 5−7
67:5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。67:6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。
再び収穫による神の恵み、祝福のことが書いてあります。
67:7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
私たちに与えられる祝福が、地の果て果てに及ぶ神への恐れにつながります。メッセージの題のとおり「私たちから国々へ」です。
4A 神の勝利
68 指揮者のために。ダビデの賛歌。歌
この最後の詩篇は、勝利の歌、凱旋の歌です。
1B 来臨 1−14
1C 正しい者の喜び 1−4
68:1 神よ。立ち上がってください。神の敵は、散りうせよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。68:2 煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。
悪者が滅びることへの祈りです。
68:3 しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。68:4 神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。
主が来られることによって、神の敵は恐怖に包まれ、滅びていきますが、同じく主が来られることによって、正しい者たちは喜び楽しみます。
この詩篇は再臨の預言です。「雲に乗って来られる方のために道を備えよ」とありますね。これは主イエス・キリストのご再臨の預言です。「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。(マタイ24:30)」そしてテサロニケ人への手紙第二1章には、「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。(10節)」とあります。主は、福音に従わない人々に報復される一方、信じた者たちの感嘆の的となられます。
2C 悩む者のための備え 5−10
68:5 みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。68:6 神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。
神の国が到来したとき、一番慰めを受けるのは、ここに書かれている、みなしご、やもめ、孤独な者たちです。主はいつも、このような弱い人々の味方であられますが、神の国では栄えある者としてくださる約束を与えています。
ヤコブの手紙に、「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。(2:5)」とありますが、貧しくなれば御国で自動的に豊かになる、という意味ではありません。貧しいとき、私たちは財産ではなく、神ご自身により頼みやすくなる、という意味です。目で見えるものは貧しいですが、信仰では富んでいます。
私たちの生活では、不都合が生じます。自分が思うようにうまくいかないことが起こります。けれどもヤコブが手紙の中で言っているように、「試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい。(1:2)」なのです。そのときに、私たちは神さまにより頼みやすくなります。神さまの働きをはっきりと見ることができやすくなります。順風満帆なら、かえって神から離れる危険があります。
68:7 神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、荒れ地を進み行かれたとき、セラ68:8 地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。
エジプトでの荒野の旅についての言及です。地震が起こったときもありますし、雨が降ったのは・・・約束の地に入ってからですが、シナイ山では主が現われたとき震えました。
68:9 神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。
「疲れきった」・・・なんと今までのイスラエルの地を表現するのに適切な言葉でしょうか。日照りによって乾ききったときは長く続きました。また戦争によって踏み荒らされたときが長く続きました。土地は疲れきっていますが、けれども主は豊かな雨を注いでくださいます。
68:10 あなたの群れはその地に住みました。神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。
イスラエル人たちが住みます。詳しいことはエゼキエル書36章と37章に書かれていますが、この預言は一部成就しました。長年、荒れ果てた土地にユダヤ人が帰還してきました。そしてイスラエル国が建国され、今は、豊かな農業の地になっており、たくさんのイスラエル人たちが住んでいます。
そして、貧しいユダヤ人がイスラエルに帰還して、そうした悩む人々も備えがイスラエルの地にあります。預言の成就です。
3C 王たちの退避 11−14
68:11 主はみことばを賜わる。良いおとずれを告げる女たちは大きな群れをなしている。68:12 万軍の王たちは逃げ去り、また逃げ去る。そして家に居残っている女が獲物を分ける。
主による勝利において、女性たちが活躍しています。11節の、「良いおとずれを告げる女たち」とありますが、思い出すのは主の復活を弟子たちに伝えたマグダラのマリヤ、そして墓にやってきた女たちです。
そして12節で思い出すのは、士師記に出てくるデボラです。カナン人の将軍シセラを、天幕でそのこめかみに杭を打ったヤエルがいます。主の圧倒的勝利の中では、万軍の王たち、つなり国々の王は逃げ去り、戦争で銃後の守りのようにして家に隠れている女たちが出てきて解放を告げるような、自由が与えられます。
68:13 あなたがたは羊のおりの間に横たわるとき、銀でおおわれた、鳩の翼。その羽はきらめく黄金でおおわれている。
ここは難しい箇所なのですが、おそらくデボラが戦いに出たときに、ルベンが戦いに出なかったときのことを話しているのであろうと思われます。(似たような表現が、デボラの歌、士師記5章16節に出てきます。)戦いに出なかったルベンでさえ、銀で覆われた鳩の翼のように、羽がきらめく黄金のように輝いていた、ということです。
68:14 全能者が王たちをかしこで散らされたとき、ツァルモンには雪が降っていた。
圧倒的な勝利の中で、敵が敗走して、ツァルモンに雪が積もっているのを見ることができる平穏が取り戻されたことを歌っているのでしょう。
2B 救い 15−27
1C 主が住まわれる山 15−18
68:15 神の山はバシャンの山。峰々の連なる山はバシャンの山。
バシャンの山とは、ヘルモン山のことです。イスラエルとレバノン、シリアの国境にあります。イスラエルで一番高い山です。
68:16 峰々の連なる山々。なぜ、おまえたちは神がその住まいとして望まれたあの山を、ねたみ見るのか。まことに、主はとこしえに住まわれる。68:17 神のいくさ車は幾千万と数知れず、主がその中に、おられる。シナイが聖の中にあるように。
今はスキー場としても有名なヘルモン山ですが、この優雅な山がうらやむ山があるというのです。それがシオンの山です。何の変哲もない丘みたいなところですが、ヘルモン山やうらやみます。理由は、「主が住まわれる」からです。そして、神のいくさ車が数知れずあり、神の聖さがあるからです。
私たちは、主が住まわれるところをこれだけ貴重だと思っているでしょうか?「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。(詩篇84:10)」とダビデは言いましたが、私たちはどうでしょうか?巨額のお金が自分の口座に入るのと、日曜の礼拝はどちらが貴重でしょうか?主がおられない栄光、繁栄と、主がおられるところにある貧しさは、どちらが貴重でしょうか。私たちもダビデのように、「私たちの霊的富は、世界の大金持ちもうらやむものだ。」と高らかに歌えたらいいですね。
68:18 あなたは、いと高き所に上り、捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。
この箇所は、エペソ書4章で引用されています。そこを読んでみましょう。4章7節から読みます。「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』・・この『上られた。』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・(7-10節)」ここは、主が昇天されたときの記述です。主はまず、地の低い所、すなわちハデスに下られました。そこで旧約の時代、メシヤが来られるという神の約束を信じている人たちに、神の勝利の宣言を行なわれました。それで旧約の聖徒たちはキリストとともに、天に引き上げられました。
そして主は今、天の神の右の座に着いておられます。そこから主は再び地上に戻ってこられます。
2C 敵の打撃 19−27
68:19 ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ
主は、日々、私たちの重荷をになってくださることによって救われます。私たちが自分の重荷を自分で負いつづけたら、いつか潰れてしまうでしょう。けれども主が私たちを支えてくださいます。
68:20 神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。
そして主の救いは、死からの救いです。罪のとげは死ですが、罪を取り除かれたことによって、死そのものにも勝利を与えてくださいます。キリストにつく者は、死んでもよみがえります。
68:21 神は必ず敵の頭を打ち砕かれる。おのれの罪過のうちを歩む者の毛深い脳天を。68:22 主は仰せられた。「わたしはバシャンから彼らを連れ帰る。わたしは海の底から連れ帰る。68:23 それは、あなたが、足を血に染めて、彼らを打ち砕くために。あなたの犬の舌が敵からその分け前を得るために。」
モーセが率いるイスラエルは、バシャンにて王オグと戦い打ち勝ちましたが、同じように主は終わりの時に、あらゆる敵を引きずりだして、鉄槌を加えられます。
68:24 神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。68:25 歌う者が先に立ち、楽人があとになり、その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。
凱旋の喜びです。ダビデがエルサレムに帰ってくるとき、それは自分の勝利ではなく神の勝利でした。
68:26 「相つどうて、神をほめたたえよ。イスラエルの泉から出た者よ。主をほめたたえよ。」68:27 そこには、彼らを導く末子のベニヤミンがおり、その群れの中にはユダの君主たち、ゼブルンの君主たち、ナフタリの君主たちもいる。
全イスラエルがそこにいます。南からはベニヤミンとユダ、北からはゼブルンとナフタリ、どちらも代表的な部族です。
3B 御力 28−35
圧倒的な勝利をもたらされた主は王位に着かれます。そこで国々のおうが貢ぎ物を持ってきます。
1C 王の贈り物 28−30
68:28 神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行なわれた神よ。御力を示してください。68:29 エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。68:30 葦の中の獣、それに、国々の民の子牛とともにいる雄牛の群れを、叱ってください。銀の品々を踏み汚す戦いを喜ぶ、国々の民を散らしてください。
「葦の中の獣」とはエジプトのことでしょう。神に歯向かう国々、暴虐を働く国々に対する神のさばきです。
2C 王のほめ歌 31−35
68:31 使節らはエジプトから来、クシュはその手を神に向かって急いで差し伸ばす。68:32 この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。セラ
王たちは、貢ぎ物を持ってくるだけでなく、賛美の歌をささげます。エジプトも、またクシュ、今のスーダンやエチオピヤもみな、手を神に向けて賛美する時がやってきます。
私たちはこういう幻を思いに抱いているでしょうか?私たちが賛美で手をあげるとき、それは自分の内心のことだと思っているでしょうか?日本政府はかつて、国歌・国旗法案通過のための答弁のとき、「内心と外側の行為は別に考えるべきである」というようなことを言いましたが、これは欺きです。終わりの時は、すべての王が、今私たちが手を上げて賛美しているのと同じように手をあげるのです!
68:33 昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。聞け。神は御声を発せられる。力強い声を。
ここにも地上に戻ってこられるのを待っておられる主の姿が描かれています。
68:34 神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。68:35 神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。
この第68篇だけでなく、65篇からの詩篇のまとめになっています。イスラエルの神は、ご自分の民に力を与えられる。そしてその力を全世界にお現わしになる、ということです。
この順序は、肉によるイスラエルのみならず、教会にも当てはめることができるものです。教会にキリストはご自分の力を現わされます。そしてその力は全世界を覆うものです。イエス様は昇天される前に、弟子たちに言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:18-20)」
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