詩篇69−72篇 「晩年の祈り」

アウトライン

1A 泥沼の中から 69
   1B 叫び 1−18
      1C 魂の衰え 1−4
      2C 主への熱心 5−12
      3C 豊かな恵み 13−18
   2B 救い 19−36
      1C 敵のそしり 19−21
      2C 敵の滅び 22−28
      3C 感謝のいけにえ 29−36
2A 急ぎの助け 70
   1B あざ笑う者 1−3
   2B 主を慕い求める人 4−5
3A 年老いてから 71
   1B 敵からの救い 1−13
      1C 強い砦 1−3
      2C 若い頃の信頼の的 4−8
      3C 見捨てられた者 9−13
   2B 神の義 14−24
      1C 賛美 14−16
      2C 告げ知らせ 17−20
      3C ほめ歌 21−24
4A 世継ぎの子 72
   1B 公正な裁き 1−7
      1C 王への祈り 1−4
      2C 民への祈り 5−7
   2B 王たちの貢ぎ物 8−17
      1C 地の果てまでの統治 8−11
      2C 貧しい者への救い 12−15
      3C 繁栄 16−17
   3B 頌栄 18−20

本文

 詩篇69篇を開いてください、今日は69篇から72篇までを学びます。ここでのテーマは「晩年の祈り」です。第72篇で、詩篇の第二巻が終了します。その最後のところに、「エッセイの子ダビデの祈りは終わった。(20節)」とあります。第三巻にもダビデの祈りは出てきますが、おそらくダビデが編纂に深く関わった詩篇としては、この第二巻までではないかと思われます。今日学ぶ箇所には、彼がその生涯の晩年に祈ったであろう祈りが記されています。

1A 泥沼の中から 69
69 指揮者のために。「ゆりの花」の調べに合わせて。ダビデの調べ

 この詩篇には、キリストの苦しみについて新約聖書で引用されている箇所がたくさんあります。キリストの苦しみ、受難についての詩篇で有名なのは第22篇ですが、22篇に次いで数多く引用されている詩篇です。

 書かれた背景としては、ダビデが、アブシャロム、あるいはアドニヤによって自分の王位を奪われそうになった事があります。アブシャロムについてはすでに数多く言及してきましたが、アドニヤについては列王記第一1章に書かれています。

 ダビデ王が年老いているときに、彼の息子アドニヤが、ヨアブや祭司エブヤタルなどを取り組んで、自分が王になろうと企てました。しかしダビデは、口約束でバテ・シェバに対して、彼女の子ソロモンを跡継ぎの子にすると定めていました。ダビデが年老いていることを良いことに、彼らはダビデの王位を覆そうとしたのです。

 あるいはこの詩篇は、アブシャロムがダビデを差し置いて、自分が王であると宣言し、エルサレムに入ったときに書かれたのかもしれません。いずれにしても、ダビデがどん底に突き落とされる中で歌われたものです。しかし、その中で、ご聖霊の導きによって、彼はキリストの苦難についての預言を数多く行ないました。

1B 叫び 1−18
1C 魂の衰え 1−4
69:1 神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。69:2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。

 ダビデが、自分ではどうしようもできないどん底に突き落とされた様子を描いています。

69:3 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。

 救いのために神に叫び求め、目を神に向けていたので、その声はかれて、目は疲れました。

69:4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。

 ダビデが盗まなかったものとは、自分の王位のことです。彼はこれを自分で獲得したのではありません。一方的な神の選びによって、また神の主権によって、彼は王となりました。覚えていますか、彼はサウルに手を出すことを一切拒みました。そしてサウルが死んだ後も、サウルについている者を滅ぼそうとしませんでした。もともと、彼が少年のとき、預言者サムエルによって王となるための油注ぎを受けていました。だから彼は王位を盗まなかったのです。けれども、今、アブシャロム、あるいはアドニヤによって彼は王位を奪われそうになっています。

 そして、「ゆえもなく私を憎む」という言葉は、主イエス様によって引用されています。イエス様が弟子たちと、十字架につけられる前の最後の夜を過ごしておられた時、ユダヤ人たちがご自分を憎んでいるのは根拠がないことをお話になられました。父なる神のことを語り、また他の誰も行ったことのない業を行なったのにも関わらず、彼らはわたしを憎んでいる。「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。(ヨハネ15:25」とイエス様は言われました。

2C 主への熱心 5−12
69:5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。69:6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。

 ダビデは自分がもっと若かった時の愚かしさを思い出しています。バテ・シェバとの姦淫と、彼女の夫ウリヤを殺した罪です。預言者ナタンが彼にその罪を指摘したときに、「あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせた(2サムエル12:14」と言いました。

 クリスチャンが、特に教会の指導的立場にいる人が罪を犯したら、他のクリスチャン、神を信じて愛している人々が恥を見ることになります。「キリスト教なんて、所詮こんなものなのだ。」という侮りの心をこの世の人たちに起こさせます。そのためにダビデはここで、「あなたを待ち望む人たちが、恥を見ませんように。あなたを慕い求める人たちが、卑しめられないように。」と祈っています。

69:7 私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。69:8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。

 ダビデは自分の境遇を話していると同時に、主が通られた苦しみを預言しています。主が受けられたそしりは、「あなたのため」つまり父なる神のためです。父の御心を行なうために、そしりを受けられました。

 そして、主は、ご自分の半兄弟からのけ者にされました。(今、私が半兄弟と言ったのは、主はご聖霊によって、マリヤの胎からお生まれになりましたが、後に出てくる兄弟はヨセフとマリヤの夫婦関係によって生まれた者たちだからです。)主が、ご自分の父のみこころを行なうために行なっていることを、兄弟たちは理解しませんでした。

 仮庵の祭りが近づいていた時、主は少しエルサレムに行くのを躊躇しておられました。なぜなら、ユダヤ人たちがご自分を殺そうとしていたからです。けれども兄弟たちはイエス様にこう言いました。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。(ヨハネ7:3-4

 そして、著者ヨハネの注釈に、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(5節)」と書いてあります。彼らは後に、主が復活された後に信じますが、信じていないために彼らは結果的に、自分たちの兄弟を死の危険へ追い込むようなことを言っていたのです。主は、「家族の者がその人の敵となります。(マタイ10:36」と言われましたが、主ご自身も兄弟から同じ仕打ちを受けておられました。

69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。

 「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし」は、ヨハネ2章にて、主が怒られて両替人の台をひっくり返したりされた時に、弟子たちが思い起こした御言葉であり、「人々のそしりが、私に降りかかった」というのは、ローマ人への手紙14章にて、パウロが弱い人の弱さを担わなければいけないところで、キリストが模範であることを示すときに引用した御言葉です。

 ダビデは、非常に神の家を思い慕っていました。彼が契約の箱をエルサレムに運んだとき、主の前で踊ったあの姿によく現われています。それは主イエスがご自分の父の家に対して思っておられた熱情と同じであり、それゆえに神殿を管理するユダヤ人指導者の反感と憎しみを買われました。

69:10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。69:11 私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。

 ダビデが自分の悲しみを主の前で表現しているとき、断食や荒布をまとって表している時、それが物笑いの種になりました。私たちが祈っている時、自分が神を礼拝している時、その熱心さが人々のそしりを買うことがあるでしょう。

69:12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。

 町の城壁の門は、いつも行政的な手続きが行なわれていました。だからそこは、長老や裁きつかさらが集まっているところでした。地位の高い者たちは自分のうわさ話をしているし、また酔っ払いからもばかにされているという事を、ダビデは言っています。

3C 豊かな恵み 13−18
69:13 しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。

 「みこころの時に」です。今でないかもしれないけれども、主がちょうど良いと思われる時に救ってください、と祈っています。

69:14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。69:15 大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。

 大水の底から深い淵に入って、それから栓が閉められるようなことはないように、と祈っています。つまり死んで、陰府に下ることがないように、ということです。

69:16 主よ。私に答えてください。あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。

 ダビデは救いを、神の豊かな恵みと豊かな憐れみに求めています。私たちは罪からの救いの時、神が豊かな憐れみによって、キリストと共に生かしてくださったことを知っています(エペソ2章参照)。けれども、罪からの救いだけでなく、敵からの攻撃、試練、誘惑などにおいても、神の豊かな恵みとあわれみにしたがって、どうか救ってください、と祈ることができます。自分には何も力がありません。自分には救われるのにふさわしい徳があるのでもありません。しかし、神ご自身には、一方的な好意、恵みというご性質があります。

69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。私は苦しんでいます。早く私に答えてください。69:18 どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。私の敵のゆえに、私を贖ってください。

 切迫した状況の中で、緊急を要する祈りをささげています。

2B 救い 19−36
1C 敵のそしり 19−21
69:19 あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。69:20 そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。

 イエス様が、十字架への道を歩かれていた時、このような御思いになっていたことは確かです。ゲッセマネの園での祈りの時、ペテロとヨハネとヤコブに共に祈ってほしいと願われましたが、彼らは見事に眠ってしまいました。同情者、慰める者が誰もいなかった状態です。

69:21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。

 これは、主が十字架につけられている時、ローマ兵が酸いぶどう酒を葦の棒につけて、イエス様に飲ませようとした場面の預言です。主が、人々のそしりの全てを受けておられます。

2C 敵の滅び 22−28
69:22 彼らの前の食卓はわなとなれ。彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。69:23 彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。彼らの腰をいつもよろけさせてください。

 この箇所は、パウロがローマ人への手紙11章で引用している箇所です。イスラエル人で残りの者として選ばれた人は福音を信じているが、その他の人々はかなくなにされた、と論じている部分で出てきます。つまり、福音を信じないで、かたくなになっている者たちがどのようになるかを、ダビデは預言していたのです。

69:24 あなたの憤りを彼らの上に注いでください。あなたの燃える怒りが、彼らに追いつくようにしてください。69:25 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。

 この預言は紀元後70年に成就しました。ユダヤ人たちが自分たちの陣営であり宿営であるエルサレムから引き離され、世界に離散することになった事の預言です。それは、彼らがイエス・キリストの福音を受け入れなかったことによります。

69:26 彼らはあなたが打った者を迫害し、あなたに傷つけられた者の痛みを数え上げるからです。

 「あなたが打った者」また「あなたに傷つけられた者」とは、イエス様のことです。イザヤ書53章に、「彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。(10節)」とあります。したがって、「あなたが打った者を迫害する」とか、「あなたに傷つけられた者の痛みを数え上げる」というのは、御父のみこころによって十字架につけられたキリストを侮る、ということです。

 パウロはこのことに関して、自分の福音宣教に反対し、彼を迫害した者たちについて話しています。テサロニケ人への手紙第一2章14節です。「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。(1テサロニケ2:14-16」この神の御怒りが、紀元70年のエルサレムの破壊によって実現してしまいました。

 ここの箇所を使って、ユダヤ人に対する迫害や虐殺はいわれのある事であるとする輩が、教会の中にあります。たわけたことです。パウロは、ユダヤ人に対して憎んでいたどころか、自分が代わりに地獄に行っても構わないと思うほど彼らを愛していました(ローマ9章参照)。パウロがここで気にしているのは、福音を信じないこと、そして福音を他の人が信じるのを妨げることが、いかに神の怒りを買うかということです。

69:27 どうか、彼らの咎に咎を加え、彼らをあなたの義の中に入れないでください。69:28 彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。

 福音を拒んだらどのようになるか、その重大な結末がここに書かれています。咎は積み上げられていきます。そして、いのちの書からその名は消し去られます。黙示録20章にそのような人々は、火の池に投げ込まれることが書かれています(15節)。

3C 感謝のいけにえ 29−36
69:29 しかし私は悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。

 他の詩篇でもそうですが、ダビデの祈りは、途中で主に聞かれています。主からの明確な答えをいただいたら、彼は苦しみの中の叫びの祈りから、感謝、賛美の祈りを捧げ始めます。

69:30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。69:31 それは雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。

 雄牛は高価な動物です。「割れたひずめのある」というのは、この牛がきよいことを強調しています。レビ記11章にて、ひずめが分かれ、そのひずめが完全に割れているものが、食べることができる、と書いてあります(3節)。

 つまり、ここでダビデは、自分のささげる感謝のいけにえは、どんなに清く、高価な動物のいけにえよりも、さらに主に喜ばれるものだ、ということです。私たちは、主の恵みに対して単純に感謝しているかと思いますが、それがどんなに主を喜ばせているかご存知でしょうか。主はお心の中で、高額の献金よりもずっとずっと貴いものとしておられるのです。だからヘブル書に、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名に感謝するくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル13:15 英語のgiving thanks to His nameから翻訳)」と書いてあります。

69:32 心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。69:33 主は、貧しい者に耳を傾け、その捕われ人らをさげすみなさらないのだから。

 山上の垂訓の始まり、「心の貧しい者は幸いです。」のとおりです。

69:34 天と地は、主をほめたたえよ。海とその中に動くすべてのものも。69:35 まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。69:36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、御名を愛する者たちはそこに住みつこう。

 主の再臨後の神の国の預言です。けれども、この預言の一部がすでに成就しているのを私たちは見ます。荒地と沼地でしかなかったイスラエルの地が、今はユダヤ人が住みつく町々に変わっています。後は彼らが、メシヤがイエスであることを知り、この方によって救われるのを待つだけです。

2A 急ぎの助け 70
70 指揮者のために。ダビデによる。記念のために

 ここの詩篇は、実はすでに出てきているものです。詩篇第40篇の最後のところに出てきています。この70篇の題名が「記念のために」とあるように、彼は自分の記念のために、記憶のためにこの一部を書き記したのでしょう。

 これは敵からの救いを願った祈りですが、もしかして次の71篇を意識してここに書き置いているのかもしれません。71篇には、アドニヤによって王位を奪われそうになっているダビデの祈りが書かれています。同じ救いを求める思いがここにも書かれています。

1B あざ笑う者 1−3
70:1 神よ。私を救い出してください。主よ。急いで私を助けてください。

 「急いで」という言葉を使っています。この詩篇の最後にも、「主よ。遅れないでください。(5節)」とあります。もちろん、神様はご自分の時に、一番適切だとお考えになる時に、祈りに答えられます。けれども私たちは、その時までの間、差し迫った必要について独りで堪えていなければいけない、ということでしょうか?いいえ、ここのダビデのように、私たちは差し迫った問題がある、必要があることを主に申し上げてよいのです。大事なのは、あきらめずにたゆみなく祈ること、主によりすがって祈ることです。

70:2
私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。70:3 「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のためにうしろに退きますように。

 人を卑しめるようなことをしている者、あざ笑うようなことを行なっている者について、私たちがいつも頭に入れておかなければいけないのは、その人は間もなく倒れる寸前になっている、ということです。危ない場所に立っていて、その場所がいまにも地震で崩れてなくなってしまうことを知る必要があります。主が、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれる。(マタイ7:2」と言われましたが、自分に戻ってきます。

2B 主を慕い求める人 4−5
70:4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。

 私たちが敵を見ていると忘れてしまうのが、自分たちの仲間です。共に主にあって楽しみ、喜ぶことです。敵のあざ笑いから目を離して、互いに「神をあがめよう。」という言葉に耳を傾けるようにしたいものです。

70:5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

 ダビデは王ですから物質的には貧しくないですが、霊的には自分は貧しいことを知っていました。主がおられなければ自分には何もないことを彼はよく知っていました。

3A 年老いてから 71
 そして71篇です。この詩篇は「老人の祈り」とも呼ばれています。ダビデが老年の時に祈ったのは間違いありません。

1B 敵からの救い 1−13
1C 強い砦 1−3
71:1 主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。71:2 あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。

 彼は今、アドニヤから王位を奪われそうになっています。けれどもダビデは、神の義に訴えています。神が自分を王として選んでくださったことを知っています。神の正義がここでは支配しますように、という祈りです。

71:3 私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。

 箴言に「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。(18:10」とあります。主が砦となってくださいます。

2C 若い頃の信頼の的 4−8
71:4 わが神よ。私を悪者の手から助け出してください。不正をする者や残虐な者の手からも。71:5 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。

 今、老年のダビデは若い時のことを思い出しています。若いダビデのことを思い出せますね。勇敢に獣と戦い、そしてペリシテ人ゴリヤテをやっつけ、それから戦いにはことごとく勝利をもたらしました。それは、主が若い彼にとっての望みであったし、信頼の的だったからです。

71:6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。

 彼は、自分が誕生することはすべて神の御手によるものであり、その命はすべて神に拠り頼んでいることを知っていました。また彼は生まれた時から、神が選びの手を動かしておられたことも知っていました。パウロは、自分が異邦人に福音を宣べ伝えるのに、神が「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった(ガラテヤ1:15」と言っています。主は、私たちが生まれる時からクリスチャンになることを選んでおられて、そしてご自分の栄光のための働きを用意してくださっています。

71:7 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。71:8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。

 ゴリヤテを倒したのは、多くの人にとっては奇蹟と思われました。このように、ダビデの若い時は主に完全に頼りきったものでした。

3C 見捨てられた者 9−13
 では年老いた自分はどうなのか?神は年を取ったら自分を見捨てられるのか?いや、そうではない、若い時に自分を助けてくださった主は、同じように今の自分も助けてくださる、と信じて祈る祈りが次からです。

71:9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。71:10 私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。71:11 彼らはこう言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕えよ。救い出す者はいないから。」71:12 神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。71:13 私をなじる者どもが恥を見、消えうせますように。私を痛めつけようとする者どもが、そしりと侮辱で、おおわれますように。

 年を取った人がダビデと同じように感じることがあるかもしれません。自分の体が思うように動かない。だから、かつて自分が神に用いられたようには用いられることはできない、と感じることがあるかもしれません。また、たとえ自分がそう思わなくても、老人の体力の低下を巧みに利用して、自分の個人的な利得を求める輩が自分の周りに出てくるかもしれません。

2B 神の義 14−24
 しかしダビデは、主への信頼は歳によって弱められるものではないことを、次に宣言します。

1C 賛美 14−16
71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。

 ダビデは再び、祈りの中で神からの答えを得たようです。賛美が再び自分の口に戻ってきました。

 彼は一日中、神の義を賛美すると言っています。でも、その全部を知ってはいない、と言っています。神様のすばらしさを一日中語っているが、他にもまだまだたくさん神の義はある。語り尽くすことはできない、ということです。

71:16 神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。

 神のみの義だけを心に留めましょう、と言っています。ローマ人への手紙は、信仰による義についての教えが書かれていますが、それは神の義であることが書かれています。ダビデは旧約時代に生きていた人ですが、信仰による義をよく分かっている人でした。自分ではなく、神のみが義である。だから、この方に信頼することのみが自分を義とすることができる、という考えです。

2C 告げ知らせ 17−20
71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。

 ダビデは自分が若かったことの事を思い出し、そして同じように、今もあなたに拠り頼む、と言っています。主はエペソにある教会に対して、「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示1:5」と言って、叱られました。

 私たちが信仰の年数を経ると、信仰のマンネリ化を引き起こす危険があります。初めは必死になって主に信頼して、その結果、神さまによっていろいろな御業を見せていただいていたのに、そのことを忘れて、このようにやっておけばクリスチャン生活は安泰だ、という過信に陥ります。主ではなく自分に拠り頼む傾向が、信仰年数を経るごとに強まってきます。

 だから、初めの愛、若いときの主への信頼を思い出す必要があるのです。信仰生活において、年は取りません。いつまでも若いのです、幼子のようでなければいけないのです。

71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。

 すばらしいですね、これは年を取った信仰者だからこそできる働きです。次の世代に、神のことを教える働きです。モーセが申命記を書き記し、その働きを行いました。ヨシュアに引き継がれ、神の働きは続きました。ダビデがソロモンに教えて、ソロモンは神の知恵によって国を治めました。パウロがテモテを教えました。次の世代に伝えるのです。

71:19 神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。71:20 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。

 主は決して自分を裏切るようなことはなさらない。主はいつまでも変わることがなく、真実を尽くしてくださいます。

3C ほめ歌 21−24
71:21 あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。

 アドニヤの一件によって、王位が揺らいだが、まだその権威と秩序を取り戻してください、ということです。

71:22 私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。

 ダビデは幼い時から立琴を持って、主にほめ歌をうたっていました。すばらしいですね、少年のときからのその思いを、今も神に対して捧げたいと思っています。

71:23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。71:24 私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表わしましょう。それは彼らが恥を見、私を痛めつけようとする者どもがはずかしめを受けるからです。

 敵が辱めを受けるのは、自分自身が主を高らかに、全身でほめたたえている時であると言っています。私たちは、敵を倒すことに集中しなくてよいのです。敵が恥を見るのは、私たちがしっかりと主にあって立っている時です。ネヘミヤ記にて、周囲の住民がネヘミヤとユダヤ人たちに嫌がらせをしましたが、城壁の再建が完成した時、「みな恐れ、大いに面目を失った。この工事が神によってなされたことを知ったからである。(ネヘミヤ6:16」とあります。

4A 世継ぎの子 72
72 ソロモンによる

 ここの題名は英語の欽定訳では、Psalm for Solomonとなっていて、「ソロモンのための詩歌」になっています。なぜなら、詩篇の内容を読むとダビデが自分の世継ぎの子ソロモンのことを思って祈っている内容になっているからです。そして72篇の最後には、「エッセイの子ダビデの祈りは終わった」とあります。だからダビデが祈ったものなのですが、おそらくソロモンが後で自分のものとして編集したのでしょう。

 ですからこれが、ダビデの最後の最後の祈りになります。彼が最後の最後まで、自分の王位を脅かされていましたが、神はそれらの苦難から彼を救い出し、今、ソロモンに王位を継承できるようになりました。

 私たちはソロモンに対するダビデの言葉で、覚えておかなければいけないことがあります。それは、ダビデには世継ぎの子についての神様の約束を受けていたからです。サムエル記第二7章を開いてください。12節から読みます。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(12-16節)

 ダビデは自分の王座がとこしえまで続くことを、自分の子ソロモンを越えて、メシヤ、キリストによって実現することを知っていました。かつて先祖アブラハムに、「あなたの子孫によって、祝福される」という約束は、ダビデの家系から出る子であり、この方が永遠の神の国を統べ治められることを知ったのです。

 ですから次から読むダビデの祈りは、単にソロモンについてのものではありません。ソロモンを超えて、メシヤ、キリストが御国を治められる預言になっています。

1B 公正な裁き 1−7
1C 王への祈り 1−4
72:1 神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。

 ダビデが自分の王朝に求めていたものは、公正です。神の公正と神の義をもって王が国を治めるように願いました。王の判断が、神の判断を反映したものになるように。王の知恵が神から来たものであるように願いました。

 これは上に立つ人が、だれもが求めなければいけない祈りですね。女の頭は男であり、男の頭はキリストである、という夫婦関係が書かれています。妻が自分に従うのは、自分自身がキリストに従うのにかかっています。コロサイ書4章には、主人が、自分たちの上にも主がおられることを知っているのだから、奴隷にも正義と公平を示しなさい、という勧めがあります(1節)。

72:2 彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。

 ソロモンが神に知恵を求めて、その祈りが聞かれました。二人の女がソロモンのところにやってきました。二人は同じところに住んでいます。一人の女に赤ちゃんが生まれました。三日後にもう一人の女に赤ちゃんが生まれました。ところが、夜の間にこの赤ちゃんが一人死にました。その女が赤ちゃんを寝ている間に押しつぶしてしまったからです。そしてこの女は、もう一人の女の赤ちゃんを取って、自分の赤ちゃんだと言っている、と主張しています。二人とも、これは自分の赤ちゃんだと言いました。

 そこでソロモンは、剣でその赤ちゃんを二つに切って、半分を一人の女に、半分をもう一人の女に与えなさい、と言いました。一人の女は、「どうぞそうしてください。」と言いましたが、もう一人の女は、「どうか、その子をあの女にあげてください。殺さないでください。」と言いました。それでソロモンは、「その子をあの女にあげてください。」と言ったほうが本当の母親である、と言いました。

 これが神の知恵であり、神の正義です。主は、悩む者たちを公正をもってさばいてくださいます。

72:3 山々、丘々は義によって、民に平和をもたらしますように。

 山々、丘々は、周囲の敵によって平和が脅かされていましたが、これも同じく神の正義によって、平和が保たれますように、と祈っています。

 イザヤ書には、正義による統治と、それにともなう平和について預言がいっぱいあります。例えば、有名なクリスマスの時に読まれる預言で、「その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。(9:6」とありますね。その続きはこうです。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(7節)

72:4 彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。

 ソロモンは晩年に、民に重税を課しました。神から離れてしまいました。けれども、メシヤ、キリストは悩む者、貧しい者の子らを救われます。虐げる者どもを打ち砕かれます。

2C 民への祈り 5−7
 このように世継ぎの子、王のための祈りが書かれていましたが、次にこの王に支配される民のためにダビデは祈ります。

72:5 彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。72:6 彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。72:7 彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。

 日と月の続く限り、月のなくなるときまで、・・・といったら永遠を意味していますね。メシヤの支配が専制の中の恐怖ではなく、私たちに潤いをもたらします。

 そして正しい者が栄えます。今は悪者が栄えていますが、神の国では逆です。

2B 王たちの貢ぎ物 8−17
 ここまではイスラエルの国へのキリストの統治について書かれていましたが、次は地の果て果てに至る支配、国々への支配についての預言が書かれています。

1C 地の果てまでの統治 8−11
72:8 彼は海から海に至るまで、また、川から地の果て果てに至るまで統べ治めますように。72:9 荒野の民は彼の前にひざをつき、彼の敵はちりをなめますように。

 荒野の民、とは、エドムとかモアブとか、イスラエルを事あるごとに攻めてきた敵どもです。

72:10 タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。

 タルシシュは、スペインのことですが、ヨーロッパ全域と考えてもいいでしょう。シェバとセバはサウジアラビアのことです。ソロモンに、シェバの女王が貢ぎ物を持ってきましたが、同じようにキリストのところにも数多くの財宝が貢ぎ物として持ってこられます。

72:11 こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。

 すばらしいです、すべての王がひれ伏します。日本は違う、神道と仏教がある、天皇がいる、ではないのです!どの国の王もキリストにひれ伏します。

2C 貧しい者への救い 12−15
72:12 これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。72:13 彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。72:14 彼はしいたげと暴虐とから、彼らのいのちを贖い出し、彼らの血は彼の目に尊ばれましょう。

 王が全世界を治めることができる理由がここに書かれています。弱い者たちを憐れみ、助けるからだ、とあります。なんとすばらしい国でしょうか!世界あちこちで聞かれる、弱い人々の悲惨な状態は、キリストの統治の中で完全に解決されます!

72:15 それゆえ、彼が生きながらえ、彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のためにいつも彼らは祈り、一日中、彼をほめたたえますように。

 世界の王たちが、まことのキリストに捧げ物を持ってきて、祈り、ほめたたえます。

3C 繁栄 16−17
72:16 地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで、町の人々は地の青草のように栄えますように。

 山のてっぺんは大抵、はげています。けれどもそのようなところにも穀物が豊かに実ります。前回の学びにも出てきましたが、千年王国では豊かな農業生産が行なわれます。

72:17 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。

 イエス様の名が、いつまでも続きます。

 これがイエス様が、弟子たちに「御国が来ますように。」と祈りなさいと言われた、その御国です。そして、「神の国とその義をまず求めなさい。」と言われた、神の国の正義です。今の国とは全然違います。けれども、主が戻られたら、必ずこの国が実現します!だから、私たちは希望を持って、この国に入ることができるよう、人々にキリストを紹介するのです!

3B 頌栄 18−20
 最後は頌栄です。

72:18 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。72:19 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。

 第一巻も「アーメン。アーメン。」で終わりましたが、ここも同じです。

 こうして「晩年の祈り」という題で学びましたが、私たちは信仰の年数を重ねます。そうしたら、若いときにはなかった、いろいろな問題や課題が出てきます。ダビデがいろいろな問題があったようにです。けれども、私たちはその問題の中にとどまる必要はありません。若いときに働いてくださった主は、同じように、いやそれ以上に私たちを祝福してくださろうと待っておられます。


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