詩篇73−76篇 「弱った足」

アウトライン

1A 悪者の栄え 73
   1B ねたむ私 1−16
      1C 神の慈愛 1
      2C 苦痛なき人生 2−12
      3C むなしい奉仕 13−16
   2B 聖所の中で 17−28
      1C 滅ぶ運命 17−20
      2C 支える主 21−28
2A 聖所の汚れ 74
   1B 敵の仕業 1−11
      1C 害を加える敵 1−8
      2B 預言者の不在 9−11
   2B 神の御業 12−23
      1C 昔からの王 12−17
      2C 報復 18−23
3A 奇しいわざ 75
   1B 立ち上がられる主 1−5
   2B 高く上げられる方 6−10
4A 敵の沈黙 76
   1B 恐ろしい怒り 1−10
   2B 王たちの贈呈 11−12

本文

 詩篇73篇を開いてください、今日は73篇から76篇までを学んでみたいと思います。ここでのメッセージの題は「弱った足」です。

 今日の学びから詩篇の新しい部分、第三巻に入ります。第一巻や第二巻においては、ダビデの祈りが詩篇の多くを占めていましたが、第三巻ではアサフによる賛歌が多くあります。アサフは、ダビデが礼拝における賛美のために任命したレビ人の中の一人です。その後アサフの子孫が、礼拝の賛美を導くようになります。

 前回の学びまでは、ダビデの生前の出来事が主な背景でした。サウルに追われているときにいのった祈りであるとか、アブシャロムの反逆であるとか、ダビデがまだ生きている時のことです。第二巻の終わりである第72篇は、ソロモンのためにダビデがいのった祈りで終わりました。

 第三巻の背景はその後の出来事です。ソロモンの家来であったヤロブアムは、ソロモンから逃亡していたエジプトから戻ってきました。そしてソロモンの子レハブアムに、ソロモンが重税を課していたけれども、それを和らげてくださいとお願いした。けれどもレハブアムはまだ若く、彼は同じ意見を持っていた長老たちの意見ではなく、他の若者の意見を取り入れました。厳しい態度で臨まなければいけないと。

 それで分裂が起こりました。ヤロブアムを王とするイスラエル十部族と、南のユダ国に分かれたのです。そしてそれぞれの国がしだいに弱くなっていきました。主に従わない王が出てくるにつれて、周囲の敵に敗北し、ついに北イスラエルはアッシリヤの前に倒れ、南ユダはバビロンによって倒れました。これが第三巻にある詩篇の背景です。

 イスラエルの国の興亡の歴史を読めば、それは私たち個人の信仰の歩み、また教会としての歩みとの共通項を見出すことができます。主によって懲らしめられ、弱くなったイスラエルの国は、主に懲らしめられ、弱くなった私たちに似ています。その中でどのように主に立ち返り、また主がどのように私たちを顧みてくださるのかを知ることができます。

1A 悪者の栄え 73
73 アサフの賛歌

 第73篇は、礼拝賛美を導くアサフにふさわしい、私たちの礼拝がもたらす祝福について書いてある詩篇です。17節をご覧ください、「私は、神の聖所に入り」とありますね。神の聖所に入る前のアサフの悩みと苦しみが前半部分、1節から16節までに書いてあります。そして聖所の入って分かったこと、新しい見方について書いてあります。

1B ねたむ私 1−16
73:1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。73:2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。73:3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。

1C 神の慈愛 1
 アサフが抱えていた悩みは、悪者が栄えているのを見ることでした。悪者が栄えているのを見て、自分が神に仕えているのがむなしく思えてきた悩みがありました。彼は、「この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。」と言っていますね。

 こうした経験は、皆さんにもあるのではないでしょうか?私にはあります。クリスチャン人口が1パーセント未満と言われているこの日本で、クリスチャンとして生きていくことが、どれほど自分に祝福をもたらすのか分からない時があります。特に教会生活がそれほど順調に行っていない時、この世で普通に生きている他の人々のほうが、よほど幸せなのではないかと思ってしまうことがありました。これが「足がたわみそうで、歩みは滑るばかり」というアサフの心境です。ともすれば信仰から離れてしまうかもしれないという、弱気になっている状態です。

 しかしアサフは、完全に神から離れることはありませんでした。絶対にこの真理からは離れないという、根本的な信仰の土台がありました。それは1節に書いてある、「神は、いつくしみ深い」という真理です。ヘブル語ではトーブ、英語のgoodです。神は良い方であられる、善であられるという根本真理があります。自分の観察では、どうしても善とは思えないようなことが起こっても、それでも神は良い方であることには変わりない、という理解が自分を支える根っこにあります。

 牧者チャック・スミスはしばしば、「自分に理解できないことが起こったら、理解できるところに戻りなさい。」と言います。自分の家族や近しい人が突然の事故で死んだ時、私たちはなんでそんなことを主が許されるのか理解できません。けれども理解できることはあります。主は良い方であり、最善をいつもお心の中に持っておられる、という事実です。

2C 苦痛なき人生 2−12
3節から読みます。73:3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。73:4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。

 悪者が栄えている姿をアサフは具体的に述べていますが、その一つが苦痛の伴わない、安楽の死です。世の権力者がその悪事を裁かれることなく、その地位が安泰のまま死んでいく姿を私たちは見ます。もちろん裁かれる人たちもいますが、すべての人が裁かれるわけではありません。

 また、イエス様のことを親戚や友人・知人に伝えてもなかなか信じない人がいて、その人が病気になり苦しみの中にいたら、信仰を持ってくれるかもしれないのに、と思う時があります。けれどもいつまでも健全であり、依然として神様から離れているのを見て、がっかりすることもあるでしょう。

 この詩篇を書いた時点で、アサフはおそらく老年にいるか、病を患っていたと考えられます。26節に「この身とこの心とは尽き果てましょう」とあるので、彼の体に痛みが走っていたと考えられます。ですからなおさらのこと、悪事を働いているのに健康体でいる人たちに目が行ったのではないでしょうか。私たちにも、同じ誘惑があります。

73:5 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。

 多くの人が苦労しているのに、その人は世渡りが上手で、その苦しみを味わっていない姿も見るかもしれません。この不況の時、お金を儲けているかもしれません。

73:6 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。73:7 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。

 苦しみの中で人々は神の前で謙虚になることを学び、神様に従うことができやすいですが、人生が順風満帆なので、心の中は高慢の脂で肥え太っている状態の人たちがいます。周囲の人々を傷つけていることも省みることもなく、自分の事しか考えていません。

73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。73:9 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。

 自分がまるで神であるがごとく、高い所から物を語ります。

73:10 それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。

 神から与えられている恵み、豊かな水をことごとく自分の益のために使っている姿を、私たちは見ます。莫大なお金が動いている時、それはごく一部の人の豪奢のために使われているのを知っています。また、財産、人の知力や体力もみな良いものは神から来ているのに、神をあがめることなく自分のために使っているのが、不信者たちの姿です。

73:11 こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」

 自分中心に生きているのに何事も起こらないので、別に神がいることを意識しなくても良い状態です。今は主が言われたとおり「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださ(マタイ5:45」っている恵みの時です。悪いことをしても、次の日には太陽が昇り、自分の家の水道の蛇口をひねれば水は出るし、何事もなかったかのように会社に出勤できます。だから神なんかいない、と思ってしまうのです。

73:12 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。

 ここまでが彼の悪者についての観察でした。次に自分の生活を観察します。

3C むなしい奉仕 13−16
73:13 確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。

 自分が罪を犯して「主をごめんなさい、お赦しください。」と言って謝り、それから教会に集って自分のいたらなさを知り、それで毎日の仕事に取り掛かる、という生活が何ともむなしくなってくる、という状態が述べられています。

 自分が犯した罪と、一般の人が犯している罪は桁外れに違うのです。教会で「嘘をついてはいけない。」という説教を聴いて、仕事で少しついてしまった嘘で良心が痛んでいるのに、ビジネスの間では大きな嘘が堂々と横行している姿を見るわけです。だから「むなしく心をきよめ、手を洗っている」と感じます。

73:14 私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。

 自分が罪を犯したら、聖霊が内に住んでおられる人であれば惨めになります。もはや罪を楽しむことは出来ません。主による責めを受けます。罪からなかなか離れられず、もがいていると、私たちはいつも、主からの懲らしめを受けている状態にいることになります。

73:15 もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。73:16 私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。

 もしアサフが今、他の信仰者らに自分の気持ちを言い表してみなさいと言われたら、彼は「神を信じても報いはない。徒労に終わるだけだ。」と言ってしまうだろう、と、他の信仰者を裏切ってしまうだろう、ということです。そのようなことは、あまりにも辛いことで、苦役であると言っています。

2B 聖所の中で 17−28
 どうでしょうか、ここまで読んで心当たりはないでしょうか?信仰が弱まっている時、私たちが見るのはこの世界です。悪者が栄え、そして自分の主への献身がむなしくなる世界です。しかし次から全く違う世界が見えます。

1C 滅ぶ運命 17−20
73:17 私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。

 「聖所にはいり」という言葉がなんと重要なことでしょうか!旧約の時代の人たちの聖所は、現代の私たちにとっては、霊とまことを持って神を礼拝する、礼拝に当たります。そして賛美は、キリストを信じる者たちが集って歌う、賛美歌であり、プレイズであり、ワーシップです。

 私たちは日々、「何を見るか」という戦いの中に生きています。パウロは、エペソにいる聖徒たちのために、「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ1:17」と神に祈りました。神の御霊によって、信仰をとおして、私たちは目に見えない世界、霊の領域、神の真理を見ることができます。けれども肉眼から見える景色は、その真理を否定するかのような現実です。しかし、それは真実ではありません。否定するように見えても、一時的なものであり永続しません。

 私たちの心の目が神の世界に向くように手助けするのが、礼拝賛美です。私たちが主に礼拝をささげ、ほめ歌をうたう時に、主が私たちをご自分の臨在の中に導き入れてくださいます。私たちがこれまで見えなかった世界を、見ることができるようにしてくださいます。礼拝は、説教から始まるのではありません。祈りと賛美から始まります。そこで自分たちの霊と、主の御霊との躍動的な交流が始まるのです。

73:18 まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。

 アサフは先ほど、「私の歩みはすべるばかりだった。(3節)」と言いました。しかし実際は反対です。悪者たちがすべりやすい所にいるのです。

 私がクリスチャンになって間もない時、突然の恐怖が襲いかかりました。それは、99パーセント以上の日本人がイエス様を信じていない、ということであれば、ほとんど全てが地獄に突き落とされる、という恐怖です。街を歩いていても、いてもたってもいられなくなりました。

 もう一つは、主が地上に戻ってこられる、再臨について思い巡らしていた時です。その時も、日本の国が、ぶどうの実が酒ぶねの中で押しつぶされて、ぶどうの汁が出てくるように、神の怒りによって押しつぶされてしまう、幻のようなものでした。

 このどちらもが、実際に起こることとして聖書の中に描かれています。人は死んで、神の裁きを受けることが定まっており、また神が地上にご自分の怒りを下されます。

73:19 まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。

 バビロンが滅んだ時、それは一瞬の内で起こったことで、突然の恐怖でした。ベルシャツァルが大宴会を開いていた時、人の手が壁に物を書き、ダニエルがそれを解き明かしましたが、その夜にメディヤ・ペルシヤの連合軍がバビロンの町に入り、ベルシャツァルを殺しました。主が滅ぼされる時は、またたくまに滅ぼされます。

73:20 目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。

 夢はほとんどの場合、目覚めたらすぐ忘れてしまうものです。夢がどんなに鮮やかだったとしても、よほど意識して覚えておこうとしない限り忘れてしまいます。主は、その夢のように、今、栄えている悪者たちを消し去らせてしまわれます。

 これが、聖所に入った後アサフが見た霊的真実です。私たちの肉眼は、私たちをだまします。肉眼によって、私たちに残骸として残っている古い思考が働きます。そしてサタンがそれを上手に使って、私たちが神に仕えるのはむなしいとまで思わせます。けれども、聖所に入ると、永遠の領域が見えます。霊の世界が見えます。私たちの信仰生活を左右するのは、この心の目です。

2C 支える主 21−28
73:21 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、73:22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

 聖所の入ったアサフが、聖所に入る前の自分を振り返っています。それは獣のようだった、と彼は言っています。伝道者の書に、ソロモンが告白したことも同じでした。日の下にあるものは、みな空しい。「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。(伝道者3:19」と言いました。御霊による目を失ってしまったソロモンが観察した、人間の姿です。

 人が御霊に導かれていなければ、動物のように本能によって生きるしかありません。何を食べるか、何を着るか、どこに住むか、など、自分の肉体の生存に関わることしか考えません。そのように動物と同じレベルのことしか考えていなかった、とアサフは反省しています。

73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

 すばらしいですね、たとえ自分が信仰を失いかけていたような時でも、自分はむなしく手をきよめているのだと思っているような時でも、主がそこにおられます。そして自分の手をしっかりとつかまえてくださっています。あの有名なFootprints(足跡)」の詩の通りです。

 主は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16」と、ご自分がユダヤ人に引き渡される夜、弟子たちに言われました。ペテロはその直後、主を三回、否みました。他の弟子たちも逃げました。けれども主は彼らをお見捨てになりませんでした。彼らが希望を失っていたとき、エマオに行く途上の弟子たちに現われて、ご自分のことを聖書からお語りになりました。ユダヤ人を恐れて戸を閉じている弟子たちの中に、主は現われてくださいました。彼らの意思の力ではなく、主のご意思によって彼らは立ち返ることができたのです。

73:24 あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

 主は今、私たちを「諭し」によって導いてくださいます。ある時は右にずれ、ある時は左にずれてしまう私たちです。けれども、主は羊飼いのように、私たちを愛の杖をもって手引きしてくださいます。詩篇23篇に、「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」とある通りです。

 そして、主は私たちを受け入れてくださいます。「よくやった。忠実な良いしもべだ。(マタイ25:21」と言って、私たちを受け入れてくださいます。

 主が戻ってきて、私たちを受け入れてくださる時、私たちの姿は一瞬のうちに変えられます。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:20-21」栄光のうちに私たちを受け入れてくださるのです。

73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

 悪者の栄えを羨んでいたアサフですが、ここでは大胆に、主以外に自分が持つもの、自分が望むものはないと宣言しています。パウロもこう言いました。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:8

73:26 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

 先ほど話したように、アサフの心身はかなり衰えていたと考えられます。けれども、彼は主に拠り頼みました。再びパウロがこう言っています。「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない重い永遠の栄光をもたらすきあらです。(2コリント4:17

73:27 それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

 遠くにいたら滅びます。けれども近くにいたら幸せです。ヘブル書1037節以降にこう書いてあります。「『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル10:37-39

2A 聖所の汚れ 74
74 アサフのマスキール

 ここの詩篇は、いつの時に書かれたのかいくつかの見解があります。ヒゼキヤ王の時代、アッシリヤのセナケリブがエルサレムの町を包囲したときに書かれたという見方、またユダがネブカデネザルによって倒れて、エルサレムが廃墟となったときのものとも言われています。

 また、ソロモンの子レハブアムが王のとき、エジプトの王シシャクによってエルサレムの町が攻められた時のことであるとも言われています。歴代誌第二12章にこう書いてあります。「エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上って来て、主の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取り、何もかも奪って、ソロモンが作った金の盾をも奪い取った。それで、レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。(9-10節)」どの時代のものか分かりませんが、エルサレムの神殿が敵の手によって荒らされたことは間違いありません。

 アサフが聖所に入ることによって、主に立ち直りましたが、聖所そのものがなくなるというのは致命的です。私たち教会であれば、礼拝そのものがなくなることを意味します。

1B 敵の仕業 1−11
1C 害を加える敵 1−8
74:1 神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。74:2 どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。

 アサフ(アサフ本人あるいはアサフの子孫が、今、イスラエルの民のために執り成しの祈りをささげています。執り成しの祈りは、ちょうど王妃エステルがユダヤ人のために王の前に出てきたときと、同じ勇気と力と愛が必要になります。「自分が王の前に出れば、殺されてしまうかもしれない。けれども、王の憐れみにすがって、自分を前に出してみよう。ユダヤ人の救いのためならば、殺されてもよい。」という心構えです。

 私たちが、失われている人々のために祈るのもこの姿勢が必要です。その人はこのままだと滅んでしまいます。そして滅んで当然のことを行っています。しかしながら、主よ、この人をあわれんで救ってくださいと、主の前に進み出るのです。

 そして、アサフは、イスラエルの民のことを、神の牧場の羊、昔、神が買い取られた、神の会衆、神ご自身の贖いの民として、主の前に言い述べています。主ご自身がしてくださったこと、その約束や契約に訴え出ています。

 モーセが同じような執り成しを神にささげました。金の子牛を造ったイスラエルに対して主が、彼らを絶ち滅ぼし、モーセから大きな国民をつくると言われたとき、彼は、「ああ、そうか。かつてアブラハムを選んで大いなる国民とすると約束されたように、私を選んで大いなる国民にしてくださるのだな。」と思って、喜びませんでした!彼はここでアサフが祈ったような祈りをささげました。「「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。(出エジプト32:11-13」主の御業、主の約束、主の名誉に訴え出ました。

74:3 永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。74:4 あなたに敵対する者どもは、あなたの集会のただ中でほえたけり、おのれらの目じるしを、しるしとして掲げ、74:5 森の中で斧を振り上げるかのようです。74:6 そうして今や、手斧と槌で、聖所の彫り物をことごとく打ち砕き、74:7 あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。

 エルサレムが敵によって完全に征服された様子です。敵の旗がエルサレムの町になびき、聖所はことごとく破壊されています。

74:8 彼らは心の中で、「彼らを、ことごとく征服しよう。」と言い、国中の神の集会所をみな、焼き払いました。

 「集会所」は、シナゴーグのことです。ここから、この詩篇はアンティオコス・エピファネスが神殿を荒らした、外典マカバイ記に書かれている出来事ではないかと推測する人たちもいます。シナゴーグは、バビロン捕囚後、神殿を失ったユダヤ人が律法の朗読を中心にした礼拝を始めたものだからです。

2B 預言者の不在 9−11
 そしてエルサレムの破壊は、神殿だけではなく、預言者の不在も意味していました。

74:9 もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。74:10 神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。敵は、永久に御名を侮るのでしょうか。74:11 なぜ、あなたは御手を、右の御手を、引っ込めておられるのですか。その手をふところから出して彼らを滅ぼし尽くしてください。

 この詩篇がバビロン捕囚のときのことであれば、確かに預言者はエルサレムにいなくなりました。ダニエルとエゼキエルはすでにバビロンにいます。エレミヤはエジプトに下りました。もはや、神のみことばを取り次ぐ人がいなくなりました。だからアサフの子は、「いつまで、エルサレムがこのように荒らされているのか、その終わりを知る者がいなくなった。」と嘆いているのです。

 アモス書に、「見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。(8:11」とあります。物理的に何かが破壊されること以上に、もっと恐ろしいのは、主の御言葉が聞くことができなくなることです。この箇所であるように、「敵が永久に御名を侮るのか」と、これからの望み、将来における希望が見えなくなってしまいます。

2B 神の御業 12−23
 アサフは最初のイスラエルの頃に戻っています。

1C 昔からの王 12−17
74:12 確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。74:13 あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。74:14 あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。

 これはイスラエルが、分かれた紅海を渡り、エジプト軍が海の中に沈んだ時の出来事です。レビヤタンを滅ぼされたことをアサフは言っていますが、イザヤ書には「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。(27:1」とあります。つまり、竜、蛇、海の巨獣はみな同じものを指しており、黙示録12章によれば、これは悪魔であることが分かります。

 エジプトの王パロを支配していたのは、悪魔です。そしてイスラエルを滅ぼそうとしていたエジプトは悪魔に突き動かされていたものでした。エジプトからの救いは、悪魔のよる滅びからの救いだったのです。

74:15 あなたは泉と谷を切り開き、絶えず流れる川をからされました。

 イスラエルの荒野の旅と、ヨルダン川を渡った時の出来事です。

74:16 昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。74:17 あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られました。

 イスラエルに対する働きだけでなく、天地そのものに対する神の御業もあります。

 ネヘミヤ記には、バビロン捕囚からエルサレムに帰還したユダヤ人の民が、神殿と城壁の再建後に、悔い改めの祈りをささげている部分を読むことができます。9章に長い祈りが記載されていますが、そのほとんどが、神がアブラハムを選ばれて、それからエジプトにいるイスラエルを救い出されて、それから約束の地に入ったことを思い出す祈りになっています。なぜなら、それが彼らの救いの土台であり、彼らのアイデンティティー(存在証明)だからです。

 私たちはモーセ五書の学びにて、これらがすべて後に来るキリストの救いを予め表わすものであることを説明しました。キリストの死とよみがえり、そしてキリストにつく者は、キリストの死とよみがえりにもつながることを学びました。イスラエルが主に立ち返るのに、エジプトからの救いと約束の地への旅を思い出したように、私たちが主に立ち返るためには、キリストの十字架とその後の復活を思い出さなければいけません。

 これが、私たちが今生きていることの意味そのものであり、存在証明だからです。使徒パウロが言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20

2C 報復 18−23
74:18 主よ。どうか、心に留めてください。敵がそしり、愚かな民が御名を侮っていることを。

 これからアサフは、「心に留めてください」「目に留めてください」「忘れないでください」という祈り、叫びを上げます。

74:19 あなたの山鳩のいのちを獣に引き渡さないでください。あなたの悩む者たちのいのちを永久に忘れないでください。

 「山鳩のいのち」「悩む者たちのいのち」とは、イスラエルの残された民のことです。

74:20 どうか、契約に目を留めてください。地の暗い所には暴虐が横行していますから。

 イスラエルに与えられた「契約」は、アブラハムに与えられた契約、そしてモーセ契約、それからダビデと交わされた契約です。主が子孫を祝福し、国を大きくし、土地を所有させるところの約束です。

74:21 しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。

 他のダビデの詩篇にあるように、悩む者、貧しい者が、主の祝福にあずかります。

74:22 神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください。74:23 あなたに敵対する者どもの声や、あなたに立ち向かう者どもの絶えずあげる叫びを、お忘れにならないでください。

 敵に対する報復をお願いしています。

3A 奇しいわざ 75
 そして75篇です。74篇における祈りへの主の答えは、74篇には書かれていませんでした。けれども75篇に書かれています。

75 指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。アサフの賛歌。歌

1B 立ち上がられる主 1−5
75:1 私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。

 アサフは、感謝の祈りから始めています。「御名は、近くにあり」というのは、主がその本質を持って人々に近づいていてくださっている、ということです。

 そしてアサフは神の奇しいわざ、不思議なわざを語り始めます。

75:2 「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。

 アサフは、預言として神から語りかけを受けたようです。主が語っておられることを、そのまま話しています。

 主が悪者を裁いて、公正にさばくことを約束してくださっています。

75:3 地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

 主の日、大患難、終わりの日のことを語っています。大地震などによって、地に住む者はみな揺れ動きます。そして、決して終わることのない、揺らぐことのない国を、神ご自身が立ててくださいます。

75:4 わたしは、誇る者には、『誇るな。』と言い、悪者には、『角を上げるな。75:5 おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな。』と言う。

 主が世界を支配される時は、すべて高ぶる者がその口をつぐむ時でもあります。これまで、神が与えられているものを我が物のように使い、自分が神であるかのように振る舞っていた者の立場や場所がなくなってしまいます。

 ピリピ書に、主が十字架に至るまでへりくだられたことを述べる箇所があります。その後で、神がイエス様を高く上げられたことが書かれています。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(2:9-11」この「イエス・キリストは主である」と告白する口の中には、進んで喜びをもって告白するのではない、強制的に言わされているものもあります。自分が自分の人生において主人だと思っていた人は、高く上げられたキリストを見て、ただ口をつぐみ、言われるがままに告白することになります。

2B 高く上げられる方 6−10
75:6 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。75:7 それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。

 非常に重要な真理です。ペテロ第一5章6節に、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とあります。

75:8 主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。

 これは黙示録にも引用されている、大患難における神の裁きです。神の怒りのぶどう酒を、余すところなく飲む、つまり神の怒りのすべてをことごとく受ける預言です。

75:9 しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。75:10 悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。

4A 敵の沈黙 76
 次も、高ぶる者たちに対する神の裁きの預言です。

76 指揮者のために。弦楽器によって。アサフの賛歌。歌

1B 恐ろしい怒り 1−10
76:1 神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。76:2 神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

 シャレムとはサレムのことで、シャローム「平和」を意味します。アブラムのところにサレムの王メルキゼデクが来たことを思い出してください。このサレムの前に「神」の意味を表わすエルを付けると「エルサレム」です。神の平和、です。

76:3 その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ

 この詩篇は、アッシリヤがユダを攻めに来たとき、エルサレムの町を18万5千人の軍隊が包囲しました。神は、一人の御使いによって、一夜にしてその軍勢を滅ぼされました。

76:4 あなたは輝かしく、えじきの山々にまさって威厳があります。76:5 剛胆な者らは略奪に会い、彼らは全く眠りこけました。勇士たちはだれも、手の施しようがありませんでした。76:6 ヤコブの神よ。あなたが、お叱りになると、騎手も馬も、深い眠りに陥りました。76:7 あなたは、あなたは、恐ろしい方。あなたが怒られたら、だれが御前に立ちえましょう。

 主の威光が現われる時、高ぶっている者の口は閉ざされます。主を愛する人の口は、主をほめたたえる言葉でいっぱいになる一方、高ぶる人は何も言えなくなって、ついに、ここに書いているように眠ることさえあります。自分の気力や体力がまったく役に立たないからです。

76:8 あなたの宣告が天から聞こえると、地は恐れて、沈黙を守りました。76:9 神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。セラ76:10 まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。

 パロのことを思い出してください。彼は主が下される災いに対して、なおも心をかたくなにして、イスラエルの民を出て行かせることをしませんでした。しかしローマ人への手紙9章によると、主はこの怒りの器にさえ用いて、ご自分の栄光を現わされたことが分かります。

 黙示録においても、11章の最後において諸国の民が怒った、とあります。イスラエルに対して、またイエスの証しを立てる者に対して諸国が怒るのですが、その怒りさえも神は用いられて最後の裁きを行なわれます。ハルマゲドンの戦いにおいていきり立つ諸国の軍隊に対して、ご自分の怒りを完全に発散されるのです。それが、ここに書かれている「人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ」るの意味です。

2B 王たちの贈呈 11−12
76:11 あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。主の回りにいる者はみな、恐るべき方に、贈り物をささげよ。

 以前の詩篇の預言にもありましたが、終わりの日には、神の国にて王たちがメシヤ・イエスに贈り物を携えて、エルサレムに参ります。

76:12 主は君主たちのいのちを絶たれる。地の王たちにとって、恐ろしい方。

 アッシリヤの王を主は滅ぼされました。同じように、どんな力強い王も、主の前に立てば殺されてしまいます。

 以上ですが、私たちは聖所の中に入れば、今の神の預言、神の栄光、神の義、神の裁きを見ることができます。主は、私たちが立ち上がることを願っておられます。自分が信仰的に弱くなっていると感じても、どうかまっすぐに立ってみてください。主がその立ち上がる力を与えてくださいます。最後にヘブル人への手紙1212節と13節を読みます。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。


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