詩篇77−80篇 「思い出す祈り」

アウトライン

1A 聞かれない祈り 77
   1B 心の乱れ 1−9
      1C 祈りを聞かれる神 1
      2C 慰めを拒む自分 2−9
   2B 昔からの奇しい業 10−20
      1C 神の御手 10−12
      2C 御力 13−20
2A 先祖からの話 78
   1B 言い伝えの義務 1−8
   2B 人の反抗と神の憐れみ 9−72
      1C 荒野の旅 9−41
      2C 出エジプト 42−53
      3C 約束の地 54−72
3A 破滅からの祈り 79
   1B 惨状 1−4
   2B 神の復讐 5−13
4A 御顔の輝き 80
   1B イスラエルの帰還 1−3
   2B 涙のパン 4−7
   3B 切り倒されたぶどうの木 8−19

本文

 詩篇第77篇を開いてください。今日は77篇から80篇までを学びます。メッセージ題は「思い出す祈り」です。前回に引き続き、アサフの賛歌です。ダビデによって任命された礼拝賛美を導く奉仕者の一人であり、アサフの子孫も礼拝賛美を導く者になりました。

1A 聞かれない祈り 77
77 指揮者のために。エドトンの調べによって。アサフの賛歌

 第77篇は、詩篇第三巻の始まりの73篇に似ています。アサフは、悪者が栄えているのを見て自分が主に仕えているのがむなしくなりました。けれども聖所に入ったら、まったく別の世界が見えました。悪者がたちまち滅んでしまう姿を見ました。がっかりして、神様にさえ落胆しかけているところを、主の憐れみによって引き上げられる内容です。

 77篇も同じです。彼は信仰を捨てたわけではありませんが、神への疑いが生じます。信仰が弱くなっています。けれども祈りの中で回復します。「私たちが受ける試練で世の常のものでないものはない」とあるとおり、私たちもよく知っている体験ですね。それでは読み進めましょう。

1B 心の乱れ 1−9
1C 祈りを聞かれる神 1
77:1 私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。

 70篇でもそうであったように、アサフは神についての根本的な真理から書き始めています。それは、神が私たちの祈りを聞いてくださるという真理です。聖書の中で、祈りに答えてくださる約束は至るところにありますね。歴代誌第二7章14節には、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」とあります。イエス様は弟子たちに、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。(ヨハネ16:23」と言われました。

2C 慰めを拒む自分 2−9
 しかし、どうでしょうか?自分が祈ったことがその通りにならないことがありますね。アサフ(あるいはアサフの子孫)はその時の苦悩を言い表します。

77:2 苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。77:3 私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。セラ

 「慰めを拒む」「霊が衰え果てる」という状態、つまり、彼は落ち込んでいます。

77:4 あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。

 祈りが天ではなく、自分の家の天井にぶつかってしまっていると感じる時があるでしょう。その時、私たちは、「もの言うこともできない」つまり祈ることができなくなります。周りの人が、「神様に祈りなよ」と励ましても、一度、そのような感情の状態に陥ると、誰の声も聞こえなくなります。

77:5 私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。77:6 夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私のたましいは問いかける。

 ここに「私」「自分」という言葉が何度も出てきますね。「は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。77:6 夜にはの歌を思い起こし、自分の心と語り合い、のたましいは問いかける。」全部、自分の世界です。自己憐憫です。

 先日ある方から相談を受けました。自分の知人がうつ病で苦しんでいて、どうやってその人に語りかけたらよいか、と言うものでした。私自身、信仰を持ったきっかけは、うつ病にかかったことなのでよく分かりますが、問題は「自分」なのです。自分を見つめすぎることが、うつ病の問題です。自分を愛するところから、その意識の固着している部分を、神を愛することへ、そして自分の周りの人々、隣人を愛することへ動かせば、うつ病はすぐに治ります。

 電車の中でしばしば、独り言をいっている人を見かけることがありますね。外界との接触から生じるストレスに耐え切れなくなって、自分の中で会話をしてしまうからです。アサフが持っていた問題は、まさに今の問題であります。

77:7 「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。77:8 主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。77:9 神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ

 感情的な問題、精神的な問題から、霊的な問題へと移っています。神が私たちをキリストにあって受け入れてくださる。神が私たちを大きな愛で愛してくださっている。主の恵みは永遠に続く。約束は必ず果たされる。主の慈しみは尽きない。憐み深い方である。すべてが真理です。聖書の中で、言葉をもって、また出来事を通して、何度も何度もご自分がそのような属性があることを神は示しておられます。

 けれども私たちが祈りから離れて、自分の殻に閉じこもるとき、サタンはいろいろな考えを私たちの思いに吹き込んで来ます。神の御言葉に対抗する言葉や疑いの思いを私たちの中に入れていきます。「神は、食べてはならないと、ほんとうに言われたのですか。」「あなたがたは決して死にません。」と蛇がエバに言った、疑い、嘘が悪魔の常套手段です。

2B 昔からの奇しい業 10−20
 しかしアサフは、これは自分の弱さであることを認めています。

1C 神の御手 10−12
77:10 そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

 ここの訳で、「変わったことによる」という言葉はありません。直訳すると、「これが私の弱さである。いと高き方の右の手」です。彼は、自分が今落ち込んでいて、自己憐憫になっていて、神に疑いをかけていることが自分の弱さであることを認めました。

 そして、神の右の手があることを認めました。自分の祈りが聞かれていないように感じるとき、それは神が自分を見捨てたのでもなく、耳を塞いでしまわれたのでもなく、神の力強い御手、神の主権があって、そのようになっているのです。ペテロ書第一に、「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。(5:6」とあります。神の御手の下でのへりくだりが必要なのです。

 ヨブのことを思い出してください。彼が続けざまに災いをこうむった時、彼は自分が生まれた日をのろいました。そして友人らとの論争の中で、いかに自分が無実であるかを主張しました。そうです、ヨブは確かに無実なのです、けれども神は彼を、灰とちりの中に導かれました。主のご計画、摂理が自分には悟りえないことを知りました。そして彼がへりくだった時、主は彼を高く引き上げてくださり、元の祝福を上回る二倍の祝福をお与えになったのです。

 私たちは、祈りが聞かれないと感じることがあります。けれども、私たちには知りえない、主のお考えがあるのです。主は私たちの最善を願っておられます。ですから、私たちが考える通りに反応する召使いではなく、私たちの願うこと、思うことを遥かに越えてかなえてくださる父として動いてくださるのです(エペソ3:20参照)。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:8-9

77:11 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。77:12 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

 アサフが詩篇を書いた時の背景を思い出してください。ダビデとソロモンによる統一イスラエルではなく、北イスラエルと南ユダに分裂したイスラエルがその背景です。北イスラエルはアッシリヤに捕え移され、南ユダはバビロンに捕え移されました。

 エレミヤが預言した捕囚の期間70年が経ち、エルサレムに帰還したユダヤ人たちには、過去の栄光は何もありませんでした。そこで彼らが立ち返ったのは「律法」です。律法、そうイスラエルが民族として誕生した時に、神がモーセによって与えてくださった律法です。帰還した民は皆、一日の四分の一は律法の朗読に費やし、その後の四分の一を、律法の朗読によって示された罪を告白し、主を礼拝することに費やしました(ネヘミヤ9:3参照)。

 そこでアサフは、イスラエルの初めの歴史を思い出しています。昔からの奇しい業を思い起こしました。

 私たちが初めに戻る、基本に戻ることは何と大事なことでしょうか。主はイスラエルに、「湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(エレミヤ2:13」と言われましたが、湧き水であるキリストではなく、他のもので自分を満たそうとする過ちを犯します。そして、自分のしていることが空回りするのです。けれども、私たちが何をもって信仰を持っているのか深く吟味する時に、私たちは、命の源泉はキリストご自身にあり、キリストを知ることこそが自分のすべてであることを発見するのです。

 「思い出す」働きは、実は聖霊がしてくださいます。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26」と主は言われました。そしてまだ聖霊が注がれていなかったころ、主が復活されてすぐの時、エマオの途上にいた弟子たちは、イエス様が聖書の初めからご自分について解き明かされたのを聞いて、「心が燃えていたではないか」と言いました。主がなされたことを御言葉によって思い出すことは、私たちに回復をもたらします。

2C 御力 13−20
77:13 神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。77:14 あなたは奇しいわざを行なわれる神、国々の民の中に御力を現わされる方です。77:15 あなたは御腕をもって、ご自分の民、ヤコブとヨセフの子らを贖われました。セラ

 今からアサフは、イスラエルがエジプトから贖い出された話を始めます。主がエジプトからイスラエルを救われたことによって、この方が聖なる、大いなる神であることが、世界の国々に知れ渡りました。

77:16 神よ。水はあなたを見たのです。水はあなたを見て、わななきました。わたつみもまた、震え上がりました。77:17 雲は水を注ぎ出し、雷雲は雷をとどろかし、あなたの矢もまた、ひらめき飛びました。77:18 あなたの雷の声は、いくさ車のように鳴り、いなずまは世界を照らし、地は震え、揺れ動きました。

 これは、イスラエルの民が紅海によって先に進めなくなっている時、モーセが杖を伸ばして、主が風を起こされたときの出来事です。エジプト軍が後ろから追ってきましたが、雲の柱が後ろに回って、エジプト軍が前進できないようにされました。

77:19 あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません。77:20 あなたは、ご自分の民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれました。

 紅海が分かれ、その間をイスラエルの民が通り、そして荒野の旅を、モーセとアロンに率いられて始めたことを述べています。

2A 先祖からの話 78
 そこでアサフの魂は引き上げられます。今の状態は本当に悲惨だったのかもしれませんが、だからといって主が変わったのではありません。主は御座におられ、今も支配しておられるのです。そこで次の詩篇も、続けて主がイスラエルのために行なってくださったことを述べています。

 と同時に、イスラエルが弱まっているその原因も述べています。彼らの反抗です。主の御手が短いのではなく、罪が神と人との仕切りになっているとイザヤ書に書かれていますが、彼らが弱まっているのは彼ら自身の反抗の故です。けれども、主はそれでも救いの御手を差し伸ばされます。次の詩篇は、人の反抗とそれでも憐れむ主の情け深さを語っています。

78 アサフのマスキール

1B 言い伝えの義務 1−8
78:1 私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。78:2 私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

 イエス様が群集に対して、たとえでお語りになった時、マタイはここの詩篇の預言が成就したと言いました(マタイ13:35)。けれどもここの詩篇では、いわゆる私たちが考えるような喩え話は書かれていません。イスラエルの歴史についての教訓が書かれています。

78:3 それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。78:4 それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。

 アサフは、代々に言い伝えることの必要を強調しています。私たちは「伝統」という言葉を聞くと、生理的拒否感が出てくる人もいるかもしれません。「伝統的な教会」と言うと、硬直化して、新鮮な御霊が働かない教会というイメージを抱きます。けれども、それは神の戒めではなく、人の教えを言い伝えているからであって、言い伝えそのものが間違っているのではありません。

 実に、新約聖書で、使徒たちが言い伝えを守るように命じています。例えば、テサロニケ第二2章15節、「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」パウロたちが教えたこと、その手紙における命令、戒め、そして彼らが宣べ伝えたイエス・キリストの福音、これらはどんなことがあっても固守し、決して曲げてはならないのです。

78:5 主はヤコブのうちにさとしを置き、みおしえをイスラエルのうちに定め、私たちの先祖たちに命じて、これをその子らに教えるようにされた。

 これは申命記6章6節から9節にある言葉です。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」子供たちに、主の言葉を教え、忘れないようにすることが命じられています。

 新約聖書でも命令されています。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4」今日の風潮に、子供には自由がある、というものがあります。そして親と同じレベルに子供を置く傾向があります。しかし、聖書には「あなたは、あなたの父と母を敬え」とあるように、親は子供にとって神の代理人なのです。もし神から与えられた権威を行使しなければ、その子供はその内側の人格から破壊されるでしょう。

78:6 後の世代の者、生まれてくる子らが、これを知り、彼らが興り、これをその子らにまた語り告げるため、78:7 彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。78:8 また先祖たちのように、彼らが、かたくなで、逆らう世代の者、心定まらず、たましいが神に忠実でない世代の者とならないためである。

 子供に言い伝えるにあたって、二つの目的があります。一つは、神に信頼することです。神がしてくださったことや神ご自身について知るようになれば、それだけ神様を信頼することができます。私たちが誰かを信頼するとき、その人のことを知れば知るほど信頼しやくなるのと同じように、私たちが聖書から、御霊によって神を知れば、自ずと神に信頼できるようになるのです。

 そしてもう一つは、戒めのためです。先祖たちが心をかたくなにし、神に逆らったのを知って、自分たちがその過ちに陥らないように教訓とするためです。パウロがコリントにいる人々にも、同じように戒めを与えました。モーセがイスラエルを率いて紅海を渡り、荒野では岩から水も与えられたのに、イスラエル人はその反抗によって荒野で滅ぼされたこと言いました。「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。(1コリント10:6

2B 人の反抗と神の憐れみ 9−72
1C 荒野の旅 9−41
78:9 エフライムの人々は、矢をつがえて弓を射る者であったが、戦いの日には退却した。78:10 彼らは、神の契約を守らず、神のおしえに従って歩むことを拒み、78:11 神の数々のみわざと、神が見せてくださった多くの奇しいこととを忘れてしまった。

 エフライムは、北イスラエルにおける代表的な部族です。エフライム族はマナセ族とともに、ヨセフから出てきた者であり、ヤコブがヨセフに預言したように大いに祝福された者たちです。ゆえに、力もあり、戦う力も持っています。

 けれども、次のヨシュアとエフライム族との会話が、彼らの怠惰をよく表わしています。ヨシュア記1714節からです。「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。『主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。』ヨシュアは彼らに言った。『もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』ヨセフ族は答えた。『山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。』するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。『あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。』(14-18節)

 神から力が与えられながら、敵を倒し、相続地を切り開く努力を怠っていました。これがイスラエル、特にエフライムが抱えていた問題であり、性質でした。主によって金銭的に、時間的に祝福されているにも関わらず、神の国への投資、天に宝を積むことを行ないませんでした。このような霊的な怠惰が、神様とその戒めそのものをも忘れて、偶像礼拝に陥る原因となっていきます。

78:12 神は、彼らの先祖たちの前で、エジプトの地、ツォアンの野で、奇しいわざを行なわれた。78:13 神は海を分けて彼らを通らせ、せきのように水を立てられた。78:14 神は、昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた。78:15 荒野では岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませられた。78:16 また、岩から数々の流れを出し、水を川のように流された。

 主がエジプトからイスラエルを救い出し、荒野において彼らを養い、守られた記録です。

78:17 それなのに、彼らはなおも神に罪を犯し、砂漠で、いと高き方に逆らった。78:18 彼らは欲するままに食べ物を求め、心のうちで神を試みた。78:19 そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。「神は荒野の中で食事を備えることができようか。78:20 確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て流れがあふれた。だが、神は、パンをも与えることができようか。ご自分の民に肉を備えることができようか。」

 覚えていますか、民数記に書かれている記録です。「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』(民数記11:4-6」神は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲望は満たされません。けれども、イスラエルはむさぼって、肉を求める罪を犯しました。

78:21 それゆえ、主は、これを聞いて激しく怒られた。火はヤコブに向かって燃え上がり、怒りもまた、イスラエルに向かって立ち上った。78:22 これは、彼らが神を信ぜず、御救いに信頼しなかったからである。

 イスラエルの宿営に神が火を起こされた出来事です。

78:23 しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、78:24 食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。78:25 それで人々は御使いのパンを食べた。神は飽きるほど食物を送られた。78:26 神は、東風を天に起こし、御力をもって、南風を吹かせられた。78:27 神は彼らの上に肉をちりのように、翼のある鳥をも海辺の砂のように降らせた。

 うずらのことです。

78:28 それを宿営の中、住まいの回りに落とした。78:29 そこで彼らは食べ、十分に満ち足りた。こうして彼らの欲望を、かなえてくださった。78:30 彼らがその欲望から離れず、まだ、その食べ物が口にあるうちに、78:31 神の怒りは彼らに向かって燃え上がり、彼らのうちの最もがんじょうな者たちを殺し、イスラエルの若い男たちを打ちのめされた。

 神は、欲望をあり余るほど満たされ、それから彼らを罰しました。

78:32 このすべてのことにもかかわらず、彼らはなおも罪を犯し、神の奇しいわざを信じなかった。78:33 それで神は、彼らの日をひと息のうちに、彼らの齢を、突然の恐怖のうちに、終わらせた。

 約束の地に行く手前で、エジプトに帰ろうと言い出した出来事です。そこで主は、20歳以上の者たちが全員荒野で死に絶えるまで、40年間、荒野をさまようようにされました。

78:34 神が彼らを殺されると、彼らは神を尋ね求め、立ち返って、神を切に求めた。78:35 彼らは、神が自分たちの岩であり、いと高き神が自分たちを贖う方であることを思い出した。78:36 しかしまた彼らは、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。78:37 彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。

 悪いうわさを流した十人のイスラエル人のスパイは、その場で滅ぼされました。そして40年間の荒野での放浪を通して、彼らは神を求めました。けれども、それは口だけのもの、舌だけのものだったんですね。その後も彼らは同じ罪を犯しました。

78:38 しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押え、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。78:39 神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。

 ノアとその家族、動物たちが箱舟から出たとき、神はこう語られました。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(創世8:21」人間が悪に傾いていたので水で彼らを滅ぼされたのですが、そんなことをしていたら、何度も何度も彼らを滅ぼさなければいけません。だから、裁きの手を押さえることを決められました。神はこのように憐み深い方です。私たちが悪を行なってもすぐに裁かれないのは、私たちが滅びるのを見るに耐えないからです。

78:40 幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。78:41 彼らはくり返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。

 ここまでが荒地におけるイスラエルの反抗の記録です。イスラエル人も、アサフが詩篇78篇で行なったように、出エジプトの神の偉大な御業を少しでも思い出せばよかったのです。アサフは約1000年も前に起こったことを思い起こしているのに、彼らはほんの数週間前、数ヶ月前出来事を思い出せばよかったのです。そうすれば、自分たちの霊は新たにされて、神への感謝と賛美でいっぱいになります。その営みを怠ったために、肉の欲が働いて、神を試す結果になったのです。

2C 出エジプト 42−53
 アサフは再び、エジプトにおける神の大いなる業について述べ始めます。

78:42 彼らは神の力をも、神が敵から贖い出してくださった日をも、覚えてはいなかった。78:43 神が、エジプトでしるしを、ツォアンの野で奇蹟を行なわれたことを。78:44 神がそこの川を血に変えられたので、その流れを飲むことができなかった。78:45 神は彼らに、あぶの群れを送って彼らを食わせ、かえるを送って彼らを滅ぼされた。78:46 また、彼らの作物を、油虫に、彼らの勤労の実を、いなごに与えられた。78:47 神は、雹で、彼らのぶどうの木を、いなずまで、彼らのいちじく桑の木を滅ぼされた。78:48 神は、彼らの家畜を、雹に、彼らの家畜の群れを、疫病に渡された。78:49 神は、彼らの上に、燃える怒りと激しい怒り、憤りと苦しみ、それに、わざわいの御使いの群れを送られた。

 エジプトの上に下った数々の災いですが、ここ49節ではこれらの災いの背後に、災いの御使いがいたことが書かれています。黙示録にも書かれていますが、封印が解かれ、ラッパが吹き鳴らされ、鉢が地上にぶちまけられる時に、御使いがその災いの実行者でありました。

78:50 神は御怒りのために道をならし、彼らのたましいに死を免れさせず、彼らのいのちを疫病に渡された。78:51 また、エジプトのすべての初子、ハムの天幕の彼らの力の初めの子らを打ち殺された。

 エジプト人は、ノアの息子ハムの子孫です(創世10:6参照)。

78:52 しかし神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。78:53 彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。彼らの敵は、海が包んでしまった。

 イスラエルが無事にエジプトから出てくることができた記録です。

3C 約束の地 54−72
78:54 こうして神は、ご自分の聖なる国、右の御手で造られたこの山に、彼らを連れて行かれた。

 聖なる国とは、もちろんカナン人の地、約束の地のことで、この山とは約束の地にある山地のことです。

78:55 神はまた、彼らの前から国々を追い出し、その地を相続地として彼らに分け与え、イスラエルの諸族をおのおのの天幕に住まわせた。78:56 それなのに、彼らはいと高き神を試み、神に逆らって、神のさとしを守らず、78:57 もとに戻って、彼らの先祖たちのように裏切りをし、たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。

 約束の地に定住してからの歴史です。士師記に書かれていますね。覚えていますね、彼らは神から離れて、偶像を拝みはじめました。

78:58 また彼らは、高き所を築いて神の怒りを引き起こし、刻んだ像で、神のねたみを引き起こした。78:59 神は、聞いて激しく怒り、イスラエルを全く捨てられた。78:60 それで、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し、78:61 御力をとりこに、御栄えを敵の手に、ゆだねられた。

 シロは、先ほど出てきたエフライムの中にある町です。そこに、荒野から持ってきた幕屋が設置され、そこで主に礼拝をささげていました。覚えていますか、サムエル記第一1章に、ハンナと夫エルカナがエフライムに住んでいて、主を礼拝するためにシロに上っていった、と書かれています。

 そのシロから契約の箱が奪われました。ペリシテ人によってです。けれども、悪いのはイスラエルの方です。彼らは、まるで神社のお守りのように、契約の箱をペリシテ人の前に置けば戦争に勝つことができると思いました。それでペリシテ人に負けて、箱が取られたのです。

78:62 神はまた、御民を剣に渡し、ご自分のものである民に対して激しく怒られた。78:63 火はその若い男たちを食い尽くし、その若い女たちは婚姻の歌を歌わなかった。78:64 その祭司たちは剣に倒れ、やもめたちは泣き悲しむこともできなかった。

 罪を犯し続けていた、祭司エリの息子ホフニとピネハスが死にました。そしてピネハスの妻はみごもっており、男の子を産みましたが、箱が奪われ、舅のエリも夫プネハスも死んだことを知って、男の子の名を「イ・カボテ」と名づけました。「栄光がイスラエルから去った」という意味です。

78:65 そのとき主は眠りから目をさまされた。ぶどう酒に酔った勇士がさめたように。78:66 その敵を打ち退け、彼らに永遠のそしりを与えられた。

 契約の箱が安置されていたペリシテ人の町の至るところで、腫物が出来て非常に大きな大恐慌が起きたことが第一サムエル記に書かれています。それは主ご自身が敵を退けられたからです。

78:67 それで、ヨセフの天幕を捨て、エフライム族をお選びにならず、78:68 ユダ族を選び、主が愛されたシオンの山を、選ばれた。

 第一サムエル記を読むと、興味深いことに気づきます。その時期までは、イスラエルの中心は、地理的にも中心であるエフライムやマナセでした。しかし、このシロから契約の箱が取られた出来事を境にして、まずベニヤミン族のサウルが選ばれ、それから神ご自身がユダ族のダビデを選ばれました。そして、神を愛するダビデが、契約の箱を自分の町エルサレムに持ってきて、主への礼拝を中心にする国造りを行ないました。神の中心地が、エフライムからユダに移動しました。

 アサフが9節から、エフライムから書き始めたのは興味深いことです。彼らが、力があるにも関わらず自分たちの土地を切り開くことを嫌がったあの霊的怠慢は、イスラエルが荒野の生活をしているときのむさぼりにも通じるものであり、その後の約束の地における神への反抗に通じるものだったからです。

 これらはみな戒めです。私たちに与えられている良きものはすべて、神からのものです。もし私たちがそれを、さらなる神の国の広がり、みことばの広がりのために用いていかないのであれば、ヨシュアのように約束のものを攻め取っていかないのであれば、今度は私たち自身が自分たちのもので蝕まれていく道をたどります。攻めなければ、攻められてしまうのです。

78:69 主はその聖所を、高い天のように、ご自分が永遠に基を据えた堅い地のように、お建てになった。

 主はエルサレムに、ご自分の名を置かれて、エルサレムを永遠の都としてお定めになりました。エルサレムを神が選ばれたのは、すでにアブラハムの時代に、彼がエルサレムから来た王メルキゼデクに十分の一をささげたこと、また息子イサクをエルサレムにある、モリヤの山でささげようとしたところに表れていました。けれども今、ダビデが契約の箱を持ってきたところで、ダビデに永遠のダビデの王座の約束をされたところで、エルサレムの選びが明らかにされました。

78:70 主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、78:71 乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。78:72 彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。

 ダビデが、正しい心で、英知の手でイスラエルを治めることができた理由がここに書かれています。彼が少年の頃、羊を飼っていたときのように民を優しく導き、狼や敵に対しては果敢に戦って羊を守ったように、民を守ったからです。

3A 破滅からの祈り 79
 こうしてアサフは、エルサレムを神が永遠の都としてお定めになったこと知りました。彼の信仰の確信は、エルサレムは守られるというものでした。ところがユダの国はバビロンによって滅ぼされてしまいます。神殿はバビロンによって破壊されてしまいました。次は、エルサレムの破壊についてアサフが嘆き、泣き叫んでいる詩になっています。

 この詩篇で興味深いのは、エルサレムの破壊でアサフが信仰を失っていないことです。77篇に見られたような、信仰が揺れることはありません。むしろ、神がエルサレムを選ばれたのだから、それを荒らす敵を滅ぼしてくださいという情熱となって、その信仰が放出されています。

79 アサフの賛歌

1B 惨状 1−4
79:1 神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。79:2 彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、79:3 聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。79:4 私たちは隣人のそしりとなり、回りの者のあざけりとなり、笑いぐさとなりました。

 エルサレムの町の惨状です。エレミヤが書いた哀歌を読むと、ここに書かれてあることがさらに、生々しく書かれています。

 ここでアサフが、国々が「ご自身のものである」地に侵入し、「あなたの聖なる宮」を汚し、また、「あなたのしもべたち」のしかばね、「あなたの聖徒たちの肉」と言っていることに注目してください。神が選ばれ、神ご自身のものとなっているものが荒らされていることに対する憤りをここに見ます。ひいては、神ご自身によって引き起こされた義憤です。続けて読みます。

2B 神の復讐 5−13
79:5 主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。

 アサフは知っていました。このようにエルサレムが荒らされたのは、ユダが神に罪を犯し、偶像を拝んだからだということを。神は「ねたみ」を持っておられます。他の神々を私たちが拝むなら、ちょうど夫が、他の男と通じている妻のことを激しくねたむのと同じように、神はねたまれます。しかしアサフは今、神のものとされているものが荒らされていることに、神ゆえに怒りを抱いています。

79:6 どうか、あなたを知らない国々に、御名を呼び求めない王国の上に、あなたの激しい憤りを注ぎ出してください。79:7 彼らはヤコブを食い尽くし、その住む所を荒らしたからです。

 バビロンは、まことの神を知らない国々、御名を呼び求めない王国です。預言者ハバククも同じような怒りを神に申し上げました。ハバクク書を読みますと、ハバククが初めに、ユダが堕落していることを嘆き、そのままほおっておかれるのですか、と神に訴えているところから始まります。すると神は、「わたしは、自分のしていることを知っている。バビロンを、ユダをさばく器として選んでいる。」ということをお話になりました。すると、ユダを裁いてほしいとねがったハバククはかえってうろたえました。ユダは堕落しているが、ユダよりももっと邪悪なバビロンを、どうして裁きの器にするのか、という疑問です。

 それで彼は訳がわからなくなり、見張り台にいて主がなされようとすることを待っていました。すると主は、「義人は信仰によって生きる」と言われて、バビロンがことごとく裁かれることも彼に明らかにされたのです。それで彼は、今、ユダがひどい状況にあるのに関わらず、喜び踊りました。

 今アサフも、この、神を知らない国々に対するさばきを願って、神に訴えています。

79:8 先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。79:9 私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。

 自分たちのためではなく、御名のために救ってください。あわれみが私たちを迎えますように、と祈っています。同じ祈りをダニエルがささげました。エレミヤの預言により、エルサレム帰還が近づいていることを知って彼が祈った祈りは、神のさばきは正しいというものでした。けれども、どうか私たちをあわれんで、あなたの御名が置かれている所に目を留めてくださいとお願いしました。

79:10 なぜ、国々は、「彼らの神はどこにいるのか。」と言うのでしょう。あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、私たちの目の前で、国々に思い知らされますように。79:11 捕われ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください。

 捕囚の地で死んでいく人々の運命を変えてください、生きてエルサレムに返してくださいという願いです。

79:12 主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください。79:13 そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。

 このような、神ゆえの怒り、義憤は、新約聖書にも書かれているものです。黙示録を読みますと、イエス様のための証しを立てた人々が、反キリスト、またバビロンによって殺されている姿が描かれています。そこで神が最終的な裁きを下されると、天にいる者たちが、正しい裁きを行ってくださったといって喜び、神を賛美するのです。

 パウロも同じ怒りを言い表している箇所があります。テサロニケ人への手紙第一ですが、テサロニケの人たちが同胞の民から迫害を受けているように、エルサレムやユダヤにいる教会の人たちもユダヤ人によって迫害を受けている。それでユダヤ人たちに対する「御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。(16節)」と言っています。福音を信じないだけでなく、福音を伝えるのを妨げること、信じようとしている人たちの邪魔をすることに対する怒りです。

4A 御顔の輝き 80
 そしてアサフは次に、神様の「御顔の輝き」を求めています。今、虐げられているイスラエルに神が再びご自分の顔を輝かしてほしいと願っています。

80 指揮者のために。「さとしは、ゆりの花。」の調べに合わせて。アサフの賛歌

1B イスラエルの帰還 1−3
80:1 イスラエルの牧者よ。聞いてください。ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。光を放ってください。ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。

 神がケルビムの上に座しておられる方として描かれています。幕屋の至聖所にて、契約の箱の上にある贖いの蓋には、ケルビムがいます。エゼキエル書1章で、ケルビムの上におられるのはキリストです。そして黙示録4章でも、四つの生き物が御座のところで賛美と礼拝をささげていますが、彼らもケルビムです。

80:2 エフライムとベニヤミンとマナセの前で、御力を呼びさまし、私たちを救うために来てください。

 アサフの祈りは、イスラエル全体、特にイスラエルの中心に位置するエフライム、ベニヤミン、マナセのことを挙げておられます。

80:3 神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。

 御顔を照り輝かせる祈りは、イスラエルが荒野の旅をシナイ山から再開するときに、祭司アロンに主が命じられたものです。これを祈るならわたしは、イスラエルを祝福しようと神は約束されました。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。(民数6:24-26

 そして今アサフは、御顔の照り輝かしによってイスラエルが救われると言っています。これはいったい、どういうことでしょうか?

 これは再臨の預言です。黙示録1章にて、イエス様の顔が光り輝いているのを見ますが、その栄光の輝きをもって地上に戻ってこられます。「いなずまが東から出て、西にひらめくように(マタイ24:27」とイエス様はおっしゃられましたが、光をもって世界の人々が見えるような形で来られます。特にイスラエルはその御顔の輝きを見ながら、自分たちが救われるのを知ります。ゼカリヤ書12章9節と10節を読みます。「その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(ゼカリヤ12:9-10

 アサフの祈りは、聖霊の導きにより、主の再臨の預言を行っていたのです。

2B 涙のパン 4−7
80:4 万軍の神、主よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう。80:5 あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。80:6 あなたは、私たちを隣人らの争いの的とし、私たちの敵は敵で、私たちをあざけっています。80:7 万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。

 再び御顔の輝きによる救いですが、この箇所ではイスラエルの民が涙のパンを食べていること、隣人の敵が自分たちをあざけっている状態からの救いを述べています。イスラエルが自分の土地を失ったことによる、離散の地での迫害は、他の民族の例に見ないものでした。

 そして主が戻って来られるとき、ユダヤ人たちは迫害の地から戻ることが約束されています。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31」今、迫害の手を逃れてイスラエルに戻っている帰還民が大量に出ていますが、主が間もなく戻って来られることの予兆を見ることができます。

3B 切り倒されたぶどうの木 8−19
 そしてもう一回、アサフは、御顔の輝きによる神の救いを預言します。ここでは、イスラエルがぶどうの木に例えられています。イザヤ書にも5章で、イスラエルがぶどう園に例えられ、神が栽培された木であるとされています。主は、ご自分の弟子たちにぶどう園のことを語られました。

80:8 あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。80:9 あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。80:10 山々もその影におおわれ、神の杉の木もその大枝におおわれました。80:11 ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで伸ばしました。

 イスラエルはエジプトで数が増え、強くなっていきました。そしてその民族がカナン人の地にはいり、住民を追い出しました。それから国は大きくなり、ダビデの時代には周辺諸国を従わせるに至りました。「若枝」とはソロモン時代のことです。北のはるか向こう、ユーフラテス川のほうまで支配権を伸ばしました。

80:12 なぜ、あなたは、石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせなさるのですか。80:13 林のいのししはこれを食い荒らし、野に群がるものも、これを食べます。

 ぶどう園にとって石垣が欠かせません。石垣がなければ、通行人が取って食べてよいと言っているようなものです。けれどもイスラエルが、石垣がないかのように周囲の敵に略奪されてばかりいました。

80:14 万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。そして、このぶどうの木を育ててください。80:15 また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。

 イスラエルの回復を願っています。

80:16 それは火で焼かれ、切り倒されました。彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。

 ぶどうの木ではありませんが、オリーブの木にイスラエルを例えている部分がありますね。パウロがローマ人への手紙で、イスラエルを栽培種のオリーブの木、異邦人を野生のオリーブにたとえています。栽培種のオリーブの木の枝の一部が切り倒されて、野生のオリーブの木の枝が接ぎ木されたことが書かれています。具体的に紀元70年、エルサレムは破壊されて、霊的にも物理的にも枝は切り倒されてしまいました。

80:17 あなたの右の手の人の上に、御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に、御手がありますように。

 これはイエス・キリストの預言です。神の右にいる人の子に神の御手がある、つまり神の右に座しておられるキリストが、神の権威を携えてこの地上に戻って来られるということです。

80:18 そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。80:19 万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。

 主が戻って来られる時に、イスラエルは完全に回復して神の妻として栄えます。もう裏切ることがなく、主に仕えます。

 こうしてアサフは、絶えず、過去に神がしてくださったことを再び行ってくださいという切なる願いを持って祈りをささげました。これが私たちの祈りでもありますように。過去にキリストが行ってくださったことを、聖霊によって今、行ってくださいますように。過去に初代教会が行ったことが、今の教会でも行われますように祈ります。


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