祈りを聞いていただきたいその願いの理由は、今自分が悩み、貧しいからだ、と言っています。これが福音の初めです。イエス様が弟子たちに初めに教えられたのは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5:3)」という言葉です。この心の貧しさがなければ、その人は神に向くことはありません。
86:2a 私のたましいを守ってください。私は神を恐れる者です。
二つ目の願いは、魂を守ってください、というものです。自分の精神、すなわち感情や知性や意志において、悪い者による影響がないように、心が守られるようにという願いです。
その理由は「神を恐れている」からだとあります。箴言に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(4:23)」という言葉があります。そして心を見守ることができるのは、箴言によると神を恐れることによることが分かります。自分の前に神を置いている、神がおられることを意識している、これが自分の魂が守られる要素です。
86:2cわが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください。
三つ目の願いは、救ってください、という願いです。ダビデが意識しているのは、敵からの救いでしょう、後で出てきます。その願いの理由は、神に信頼しているからだ、ということです。ダニエルのことを思い出してください、彼は、ダリヨス以外に神であって人であっても祈願をする者は、獅子の穴に投げ込まれるという法令が出た事を知っても、それでも日に三度の祈りをいつもどおりに行ないました。それで獅子の穴に投げ込まれましたが、獅子は彼を食うことはしませんでした。その理由は、ダニエル書6章23節によると「彼が神に信頼していたからである。」と書いてあります。神への信頼が、私たちを救います。
86:3 主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。
四つ目の願いは、「あわれんでください」です。その理由が、神に一日中、つまり絶えず呼びかけているから、とあります。これは人間にとって根本的な願いです。自分のものがすべて剥ぎ取られるような過酷な仕打ちを受けても、それによって神を非難することはできません。自分がそのような裁きを受けてもおかしくない存在だからです。けれども、そのような仕打ちを受けなくても良いように祈ること、これが憐れみを受けることです。
例えば、自分が電車で会社に通っていて、それで電車が脱線する事故に遭わなかったこと、これは憐れみです。「無事に帰宅できますように。」と祈って、無事に帰宅できたらそれは憐れみです。事故に遭っても、誰も責めることはできないのですが、そうならないように神がしてくださったのですから憐れみなのです。生活の中の多くの祈りが、あわれみを受けるための祈りであります。
86:4 あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。
五つ目の願いは、「魂を喜ばせてください」です。理由は、自分の魂が神を仰いでいるからだ、というものです。ネヘミヤ記に書かれている有名な言葉を思い出してください。「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。(8:10別訳)」とあります。主を仰ぎ見ていることによってもたらされる実は喜びです。ハバククも、これからユダが困難に遭い、バビロンによって捕え移されることを知りながら、「主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。(3:18)」と言いました。主を見つめているところから出てきた喜びです。
そしてダビデは、これらすべての願いの基になっている、神の御性質について述べています。
86:5 主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。
主がモーセのところを通り過ぎられた時に、ご自分の名を宣言されました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(出エジプト34:6-7)」ご自分の名に、あわれみ深さ、情け深さ、怒るに遅く恵みとまことに富む、という性質が含まれているのです。神の名前はその本質を表わしますが、神の本質がいつくしみ、赦しであり、神はそれに富んでおられるのです。
私たちが神様を仰ぎ見るとき、この真理を決して忘れてはなりません。サタンは、そうではない意地悪な姿を、神に投影させようとします。エバを惑わしたとき、神は意地悪くして、私たちが賢くならないようにして、善悪の知識の木の実を食べさせないのだ、とそそのかしました。
2B 神のすばらしさ 6−11
86:6 主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。86:7 私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。
神が試練から、苦難から自分を救い出してくださる確信です。
86:8 主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。86:9 主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。86:10 まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。
神の偉大さ、すばらしさを述べています。「神々」とありますが、もちろん神々といっても本当の神ではなく、神は唯一、創造主しかいません。けれども、イスラエルはあらゆる神々と呼ばれているものに取り囲まれていました。だから対比することによって、彼らは神を選び取り、神を賛美していたのです。
私たち日本人が神を賛美するのも、この対比に拠ることが大きいでしょう。私たちを取り囲んでいるのは、神々と呼ばれるものです。先祖供養、神社参拝などなど、生活や人生の節目に必ず出てきます。私たちはその生活に空しさを感じたのではないでしょうか?だから創造主をあがめることの喜びはひとしおです。ペテロも、このような対比を行ないました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19)」
そして「国々が、あなたの前に出て伏し拝み」とあります。ユダヤ人は、神は自分たちだけの神であり、異邦人は関係ないのだ、と考えましたが、パウロはそうした考えに反論しました。「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。(ローマ3:29-30)」ユダヤ人用の神がおられて、異邦人には他の神がいる、と考えれば二人以上の神がいることになるが、それはおかしい。神はひとりなのだから、ユダヤ人の神は異邦人の神でもあるのだ、という反論です。
私たちも同じように考えたことはないでしょうか?「キリスト教は西洋人の神であり、日本人には仏教や神道がある。」というのが日本人の一般の考え方です。しかし違います、ここの聖書箇所によると、日本国もダビデの神であられる方、ヤハウェなる方の前に出て伏し拝むのです!具体的には、イエス様が再臨されてからのことになりますが、霊的には今から、イエス様を心に主をお迎えすることによって、個人的に神を伏し拝みます。
86:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
非常に大切な願いですね。苦難から救われることを祈る中で、ダビデは同時に、道と真理を教えてくださいと願っています。神は、私たちを苦しみから救われることを御心としておられますが、同時に、苦しみの中で私たちを訓練し、ご自分の道を教えられるのも御心としておられます。
「私の心を一つにしてください。」とダビデは願っていますが、私たちはある時には神様、そして他の時には自分の楽しみ、と言う風に二心になる性質を持っています。しかし私たちが主からの訓練を受ける時に、私たちは罪を悲しみ、それから離れたくなり、主の聖さの中で生きたいと強く願うようになります。道を、真理を教えてくださいという祈りは、私たちに聖めと成熟を与えることになります。
3B 敵からの救い 12−17
86:12 わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。86:13 それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
陰府の深み、つまり地獄からの救いがあるから、その恵みがあるから、とこしえに神の御名をあがめます。エペソ書2章にも、私たちが神の怒りを受けるはずなのが、豊かな憐れみによってキリストにあって生かされた、それは、「あとに来る世々において、・・・明らかにお示しになるため(2:7)」とあります。イエス様は、自分の目や手がつまずきを与えるなら、目をえぐりだし、手を切り取ってしまったほうがよい、全身が地獄に落ちるよりましだ、と言われました(マタイ5:27‐30参照)。これだけ地獄からの救いが聖書では強調されています。
私たちはとかく、日々の生活の中における救いばかりに目が向きがちですが、とこしえに至る感謝は、地獄からの救いから出てくるものなのです。
86:14 神よ。高ぶる者どもは私に逆らって立ち、横暴な者の群れは私のいのちを求めます。彼らは、あなたを自分の前に置いていません。
先に話しましたように、高ぶる者、横暴な者とは、神を自分の前に置いていない人たちです。世は、神を自分の前に置いていないプライド、高ぶりによって成り立っています。神の名ではなく、自分の名を上げようと考えて塔を建てようとしたバベルのように、「自分」が何よりも先に来ます。
ですから福音を聞き、それを信じることは、自分を弱くすることです。心が砕かれることであり、自分は神の前で弱い者なのです。そうすると周りはみな、自分の敵になります。魂のレベルにおけるいわば「弱肉強食」の世界の中で弱者に置かれることになります。だから、ダビデの祈りの中には高ぶる者から自分が救い出されるように、つまり世の圧力から自分が守られるようにという祈りが多くあるのです。
86:15 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。
敵が周囲にいるような、緊張した、ストレスのあるような状況にあって、神の本質を思い出します。神がどのような方であるかを思い巡らすだけで、私たちは敵から圧迫に耐えることができます。
86:16 私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。86:17 私に、いつくしみのしるしを行なってください。そうすれば、私を憎む者らは見て、恥を受けるでしょう。まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。
神がご自分の約束通りにご自分が憐れむ者を憐れまれる時、敵は恥を見ます。敵に対して戦うのではありません。敵の目論見は、私たちが主から命じられていることをしないようにすることです。これが目的です。ならば、敵をやっつける方法は、私たちが主から命じられていることを行なうことそのものです。目標から逸れることなく、黙々と、粛々と主から任せられていることを行なっていることなのです。
そして最後に、主が自分を慰めてくださる、という祈りで終わっています。主の御言葉どおりに、主が自分の身にしてくださることは大きな慰めです。
2A 天への住民登録 87
87 コラの子たちの賛歌。歌
第87篇は、神のシオン、エルサレムに対する愛と、その熱い想いが描かれています。
1B 仲間入り 1−4
87:1 主は聖なる山に基を置かれる。87:2 主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。
日本では、高い山のところに神社を見ます。そこに神々しさを感じた人々が霊の宿っているところとして、祀っています。それらはもちろん偶像礼拝であり、山に反映されている神の栄光を暗くするものです。けれども、山に上って神に礼拝をささげること自体は、聖書に書いてあります。それがシオンの山であり、そこを神がご自分の住まいとして定められました。
神がシオンを選ばれていたのが明らかにあったのは、ダビデの時代です。その前にかつて、アブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげようとしたところが、モリヤの山でありそこがエルサレムなのですが、はっきりと神が宣言されたのはダビデの時です。神はダビデを愛されて、ダビデの世継ぎの子がご自分の家を建てることを約束してくださいました。
旧約聖書には、数多く、メシヤが戻って来られてから建てられるシオンについて預言されています。千年期における神の国では、物理的にエルサレムが世界の中心になり、世界の国々がそこに行って、王であられるイエス様にひれ伏します。
そして天地万象が溶け崩れ、新しい天と新しい地が造られるとき、そこには新しいエルサレムがあります。黙示録21章に書かれていますが、高価な宝石によって成り立っている幾何学的な都です。ここ詩篇に、主が基を置かれシオンの門を愛されるとありますが、黙示録には土台には十二使徒の名が記されており、東西南北の十二の門にはイスラエル十二部族の名が記されていると書かれています。
87:3 神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られている。セラ87:4 「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」
ラハブは、エジプトのことを表わしていますが、エジプトとバビロン、そしてペリシテ、ツロ、クシュはみな、イスラエルの周りにいた人々です。そしてその多くが、イスラエルに敵対していた国々です。その国々から、神の都の住民として加えられる人々がいます。
バビロンに対する神の預言を読んだことがある人にとっては、これは驚くべき預言です。バビロンには、完全な破壊、滅びが宣言されています。イスラエルに対して行ったことのゆえ、神の復讐は完璧なまでになされます。しかしその中から、イスラエルの神に従うことを望む者が現われるなら、神は快くその人をご自分の都に招き入れてくださるのです。これが神の恵みであり、分け隔てすることのない神の心の広さです。
2B 出生証明 5−7
87:5 しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。87:6 主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた。」としるされる。セラ
神のすばらしい恵みがここに描かれていますが、もともとシオンの住民ではない他の国々の人々を住民登録するとき、シオンで生まれたものとして、出生証明を出してくださることがここに書かれています。考えてみてください、この世の国々ではこのような手続きは存在しません。例えばアメリカでは、どのような移民も米国市民になる権利が与えられていますが、出生が外国の人は大統領になることはできません。例えば、アーノルド・シュワルツネッガー、カリフォルニア州知事は州知事になることはできても、大統領になることはできません。米国生まれでなければいけないからです。
けれども神の都では違います。神の都で出生した者として登録されます。イエス様がニコデモに言われましたね、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。(ヨハネ3:3,5)」こんなふうに、つぶやいたことありませんか。「ああ、あの家庭に生まれていれば、優雅な生活ができたのに。」「ああ、あの国に生まれていれば、自由に暮らせたのに。」神はそれをしてくださったのです!今の私たちの肉がそのまま、神の国に入るのではありません。新たに生まれることによって、新しく造られて、まったく新しい人として、神の都に生きるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」
そして私たちは、自分がすでに神の都に住民登録されているかどうか知っている必要があります。黙示録に啓示されている新しいエルサレムについて、こう書かれています。「都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(21:25-27)」小羊のいのちの書に、自分の名が書いてあるかが重要です。自分の名は今、神の書物の中に記されている確信はあるでしょうか?同じ黙示録の箇所に、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(22:17)」とあります。このことを行えば、貴方も神の都の住人になることができます。
87:7 踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。
自分が頼りにしているもの、源が神の都にあるという意味が、「私の泉はことごとく、あなたにある」です。私たち信仰者が、天のシオンに自分の泉を置いているでしょうか?今日、キリスト教書店に並んでいる書物に、どれだけ私たちの召しの望み、天の栄光について述べられているものがあるでしょうか?良い結婚生活、カウンセリング、教会成長などなど、みな地上のものばかりです。天への望みが私たちの泉にならなければならないのに、それらを地上の泉で求めようとしているのが私たちの現実ではないでしょうか?コロサイ書には、「上にあるものを求めなさい。(3:1)」と書いてあります。求むべきところは、上にあるものです。
3A 欝からの叫び 88
88 歌。コラの子たちの賛歌。指揮者のため。マハラテ・レアノテの調べに合わせて。エズラフ人ヘマンのマスキール
ヘマンは、コラの子らと同じように神殿で賛美を指揮する奉仕者の一人です。この詩篇は、詩篇全体の中でもっとも“鬱”な詩篇と言っても良いでしょう。読んでみたら分かりますが、著者は落ち込んで、どん底のどん底まで行っています。もし鬱にかかったことがある人なら、ここに書かれてあることに同感できるでしょう。
詩篇、また聖書全体が、きれいごとを書いていないことは慰めです。積極的思考で、いつも笑って喜んでいるクリスチャンが霊的ですぐれた人だというのが、今日のキリスト教の理想です。かつては悲しんで、苦しそうで、暗い顔をしていると霊的に思われていたのですから、キリスト教の所謂「流行」がいかに頼りにならないかを思わされます。けれども聖書は、人間の生活、人生全般を取り扱っています。その現実を赤裸々に描いています。人間のいろいろな場面、レベルで、人が神に出会うことができる希望を与えているからです。
1B 陰府 1−8
88:1 主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。88:2 私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。
この詩篇の著者は、鬱に陥っていることは確かですが、しかし一般的に鬱に陥っている人との違いがここにはっきり出ています。彼は祈っていることです。そして神を「救いの神」と知って祈っていることです。では続けて読みましょう。
88:3 私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。
陰府、つまり死と死後の世界に触れている、ということです。
88:4 私は穴に下る者とともに数えられ、力のない者のようになっています。88:5 死人の中でも見放され、墓の中に横たわる殺された者のようになっています。あなたは彼らをもはや覚えてはおられません。彼らはあなたの御手から断ち切られています。
自分は墓の中に横たわっている死者のようになっている、ということです。
88:6 あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。88:7 あなたの激しい憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を悩ましておられます。セラ
陰府の中でも、最も深いところ、暗いところ、淵にいるとヘマンは言っています。地獄の世界を見ている、と言っているのです。そして、ちょうど海底に自分がいるかのように、波が自分を襲っています。神の怒りの波が自分を襲っています。
88:8 あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌みきらう者とされました。私は閉じ込められて、出て行くことができません。
神から見放されているだけではありません。親友からも見放されています。ここから、ある人はヘマンはらい病を患っていたのではないかと推測しています。イスラエルの会衆から、らい病人は離れなければいけないからです。そしてらい病の症状が進行し、死に至ろうとしていると推測する人がいます。
2B 死 9−12
88:9 私の目は悩みによって衰えています。主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。
再び、ヘマンは神に祈り求めている自分の様子を描いています。
88:10 あなたは死人のために奇しいわざを行なわれるでしょうか。亡霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ88:11 あなたの恵みが墓の中で宣べられましょうか、あなたの真実が滅びの中で。88:12 あなたの奇しいわざが、やみの中で知られるでしょうか、あなたの義が忘却の地で。
彼は生命に対する固執がありました。他の詩篇の箇所、いや旧約聖書全体に言えることですが、いくつかの箇所を除いて、復活の希望についてはっきりとした啓示が書かれていません。それは、キリストの十字架による贖いによって、初めて明らかになる真理だからです。
3B 神の怒り 13−18
88:13 しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。
三度目ですね、彼が祈り叫んでいます。
88:14 主よ。なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠されるのですか。88:15 私は若いころから悩み、そして死にひんしています。私はあなたの恐ろしさに耐えてきて、心が乱れています。88:16 あなたの燃える怒りが私の上を越え、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。88:17 これらが日夜、大水のように私を囲み、私を全く取り巻いてしまいました。88:18 あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました。私の知人たちは暗い所にいます。
これでこの詩篇は終わっています。他の詩篇の多くは、途中で救いの確信が与えられ、喜んだり、感謝したり、賛美したりして終わっていますが、ここは違います。
でも祈っているんですね、この著者は。ここが大事です。鬱の人は、その鬱の状態で生きた神に体当たりしているのです。これが大事です。本当に神に心から叫んでいるか?このことをしないままで、薬に頼り、薬中毒になっている人がたくさんいます。
鬱になっている人はどうか知ってください、すぐれた聖徒も鬱を通りました。ダビデが通りました。詩篇42篇を読んでください。パウロも通りました、ローマ7章を読むといいでしょう。そして主ご自身が、ある意味で鬱を通られました。先ほどの陰府の世界、親友から離れた状態は、まさに十字架への道で主が味わわれたものでした。そしてすべての人が、何よりも私たちの主が、その時に神に体当たりしておられるのです。神に叫んでいるのです。「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」と叫ばれたのです。
4A 約束と現実の葛藤 89
それでは次に行きましょう。詩篇第三巻の最後の詩篇です。
89 エズラフ人エタンのマスキール
エタンもヘマンと同様、レビ人で、礼拝賛美を導いていた人でした。ここの詩篇は、「ダビデ契約詩篇」と読んでも良いでしょう。神が、ダビデに与えられた契約について真実であられることを歌ったものです。
聖書の中には、いくつかの契約が出てきます。そして神の契約が与えられた時から、時代が変わります。神の世界と人に対する取り扱いが変わるからです。ノアに対する契約がありましたね、生き物に対しても、人に対しても、もはや洪水で滅ぼす事をしないという契約でした。そしてアブラハムに対する契約がありました。割礼がしるしですが、子孫によって祝福されるという契約です。この契約に基づいて、イスラエルが増えました。そしてモーセ契約です。イスラエルが、多くの民族の中で宝の民、祭司の国民になるために、律法が与えられました。
そしてダビデに対する契約です。彼は神のために住まいを造ろうと考えましたが、神は、ダビデのために家を、ダビデ王朝を与える約束を与えられました。ダビデから出てくる世継ぎの子が神の御子であり、王として君臨されるという約束です。
その後に新しい契約が、エレミヤを通して与えられました。律法によってイスラエルが神に従うことができなかったので、神はそれを古い契約とし、律法を心の中に置くという新しい契約を結ぶことを約束されました。この契約を元に、キリスト以後の聖書が新約聖書と呼ばれています。神が私たちに取り扱ってくださる方法が変わり、新しい時代に入ったのです。
1B 真実な約束 1−37
1C 永遠の賛美 1−4
89:1 私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。89:2 私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる。」と。89:3 「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。89:4 わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」セラ
繰り返されている言葉は、「とこしえ」であることにお気づきでしょうか?なぜとこしえに、例えば歌うことができるのか?それは、神が真実な方だからです。「真実」という言葉が、新改訳の聖書ではこの詩篇に9回も出てきます。神はご自分が約束されたことを必ず果たされる方です。途中で放棄するような方ではありません、真実な方です。
2C 力ある御腕 5−18
1D 奇しい業 5−10
89:5 主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。89:6 まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。89:7 主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。
二つの場所で、主が褒め称えられています。一つは天においてです。「力ある者の子ら」というのは、天使たちのことです。天使がいかに力強いかは、聖書を読めば一目瞭然です。一人の天使の力によって、アッシリヤ軍18万5千人が打たれて死にました。しかし、主はこれらの力強い天使とは比べ物にならないほど、力のある方です。
そしてもう一つ、褒め称えられている場所は聖徒たちの集いです。そこで、どんなものよりも主がもっとも恐れられている方であると言っています。
89:8 万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。89:9 あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます。89:10 あなたご自身が、ラハブを殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある御腕によって散らされました。
エジプトを打たれて、紅海を分けてくださった出来事について語っています。
2D 王なる神 11−18
89:11 天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。89:12 北と南、これらをあなたが造られました。タボルとヘルモンはあなたの御名を高らかに歌います。89:13 あなたは力ある腕を持っておられます。あなたの御手は強く、あなたの右の手は高く上げられています。
神の力が、世界の被造物、自然によって啓示されています。タボル山もヘルモン山もイスラエルの中で高い山として数えられています。実際、ヘルモン山が一番高いです。これらの山を見るときに、主の創造の力を見ることができます。
89:14 義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます。
神は創造の力を持っておられるだけでなく、義と公正で治められる王です。そして、恵みとまことを持っておられます。ヨハネがイエス様を説明する時にこう言いました。「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)」
89:15 幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。89:16 彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。89:17 あなたが彼らの力の光栄であり、あなたのご恩寵によって、私たちの角が高く上げられているからです。89:18 私たちの盾は主のもの、私たちの王はイスラエルの聖なる方のものだからです。
ここは、神がイスラエルの王であり、その王のご支配の中で喜び勇んでいることを歌っているものです。
3C 選ばれた者 19−37
このように神ご自身が王であることを歌った後で、ダビデが王として立てられたことを次から歌います。神が王なのですが、神が選ばれるダビデは油注がれており、彼がイスラエルを治めることによって、神ご自身がイスラエルを治めることができるという構図です。後で彼は神を自分の父であると言うところが出てきます。そのような父と子という近しい関係を持っているがゆえに、ダビデが王であることは神が王であることを意味しました。
これが、ダビデ契約の内容です。そして彼と神との関係を見ると、実は油注がれた方イエス様と父なる神との関係を予め示していることが分かります。イエス様がイスラエル、そして世界を治められることは、父なる神が世界を治めることであります。イエス様が油注がれた方、メシヤだからです。そしてイエス様は父なる神との近しい関係、一つになっている関係を持っておられ、神の御子であられ神の相続者であられます。
ですから、ダビデの子孫、世継ぎの子によって神の国が立てられる、という約束がありました。アブラハムに対しても、彼によってすべての国民が祝福されるという約束は、彼の子孫によって実現するとの約束でした。だから新約聖書の初めの言葉が、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図(マタイ1:1 英訳聖書から翻訳)」なのです。マタイ1章1節の言葉は、アブラハム契約とダビデ契約の実現の言葉なのです。
1D ダビデの角 19−28
89:19 あなたは、かつて、幻のうちに、あなたの敬虔な者たちに告げて、仰せられました。「わたしは、ひとりの勇士に助けを与え、民の中から選ばれた者を高く上げた。89:20 わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。89:21 わたしの手は彼とともに堅く立てられ、わたしの腕もまた彼を強くしよう。89:22 敵が彼に害を与えることはなく、不正な者も彼を悩ますことはない。89:23 わたしは彼の前で彼の仇を打ち砕き、彼を憎む者を打ち倒そう。
ダビデが勇士として、戦いに勝利する姿です。
89:24 わたしの真実とわたしの恵みとは彼とともにあり、わたしの名によって、彼の角は高く上げられる。89:25 わたしは彼の手を海の上に、彼の右の手を川の上に置こう。
ダビデが治める国が、海に至るまで、また川に至るまで広がるという意味です。ダビデとその子ソロモンの治世の時に、イスラエルの国は一番大きくなりました。北はユーフラテス川の上流付近まで、南はエジプトの川のところまで広がりました。
89:26 彼は、わたしを呼ぼう。『あなたはわが父、わが神、わが救いの岩。』と。89:27 わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。
ダビデが神を自分の父とし、自分の神とし、自分の救いの岩としたがゆえに、彼は神にとって長子であり、他の地の王たちをも治める者としてくださいました。詩篇2篇のメシヤ預言を思い出してください。「「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(7−8節)」そしてその後に、地上の王たちが御子に仕え、御子に口づけするという言葉が続きます。神とダビデの関係は、父なる神と子なるキリストの関係を予め示していたのです。
89:28 わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。
この恵みの契約は永遠のものであり、決して破棄されることのない真実なものです。ゆえに、神の約束は、彼の子孫にまで及びます。
2D とこしえの子孫 29−37
89:29 わたしは彼の子孫をいつまでも、彼の王座を天の日数のように、続かせよう。89:30 もし、その子孫がわたしのおしえを捨て、わたしの定めのうちを歩かないならば、89:31 また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、89:32 わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。89:33 しかし、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない。89:34 わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。
契約は永遠のものであり、無条件のものです。後の子孫の不従順によって破棄されるのではなく、必ず神が成し遂げてくださいます。
今でもそうです。アブラハム契約は、世界のあらゆる民族が祝福されていることで実現しつつあります。そしてアブラハムの血肉の子孫ユダヤ人の中に、イエスをメシヤと受け入れる人々が増え始めています。ダビデ契約は、イスラエルという国が造られたことで現実味を増してきました。世界が、イスラエルのために平和が来ない、秩序が保つことができないと考えています。それは、イスラエルから王が、世界の王が出てくることが間近になっているからです。
89:35 わたしは、かつて、わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わない。89:36 彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。89:37 それは月のようにとこしえに、堅く立てられる。雲の中の証人は真実である。」セラ
ダビデ契約が破棄されるためには、核兵器ミサイルか何かを飛ばして、太陽を破壊しなければいけません。月を、大量破壊兵器を搭載したロケットで打ち、破壊しなければいけません。それだけ契約は確かなものなのです。
2B 目前の現実 38−52
そして次からこの詩篇の雰囲気ががらっと変わります。前の88篇の詩篇のように、とことんまで落ち込む詩篇の著者の感情を読むことができます。
1C 捨てられた状態 38−45
89:38 しかし、あなたは拒んでお捨てになりました。あなたによって油そそがれた者に向かって、あなたは激しく怒っておられます。89:39 あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し、彼の冠を地に捨てて汚しておられます。89:40 あなたは彼の城壁をことごとく打ちこわし、その要塞を廃墟とされました。89:41 道を通り過ぎる者はみな、彼から奪い取り、彼は隣人のそしりとなっています。89:42 あなたは彼の仇の右の手を高く上げ、彼の敵をみな喜ばせておられます。89:43 そればかりか、あなたは彼の剣の刃を折り曲げ、彼が戦いに立てないようにされています。89:44 あなたは、彼の輝きを消し、彼の王座を地に投げ倒してしまわれました。89:45 あなたは、彼の若い日を短くし、恥で彼をおおわれました。セラ
これまでエタンがうたった歌が一体なんだったのか、と思われるように、ことごとくこれまでの言葉を否定する発言が続いています。今エタンが歌っているのは、ユダがバビロンによって捕え移されたか、あるいはその前でも王が周りの大国のしもべになっているかのどちらかの状態です。エタンは、これは王や民の不従順のためであることは分かっています。けれども、彼の中で、目の前に見える現実と、神の真実な約束との間で激しく葛藤しているのです。彼が強く、神の言葉を信じていればいるほど、その葛藤は激しくなります。
2C 「なぜ」という問いかけ 46−52
89:46 主よ。いつまででしょうか。あなたはいつまでも身をお隠しになるのでしょうか。いつまで、あなたの憤りは火のように燃えるのでしょう。
エタンは知っていました。この状態が期限付きであることを知っていました。けれども、あまりにも耐え難い姿です。見るに耐えません。そしてあまりにも長く感じられます。だから、「いつまででしょうか」と問うているのです。
89:47 どうか、心に留めていてください。私がどれだけ長く生きるかを。あなたはすべての人の子らをいかにむなしいものとして創造されたかを。89:48 いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。セラ
このまま長く続けば、私は老人だから、約束の実現を見る前に死んでしまう。何とかしてください、という叫びです。
89:49 主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。89:50 主よ。心に留めてください。あなたのしもべたちの受けるそしりを。私が多くの国々の民のすべてをこの胸にこらえていることを。89:51 主よ。あなたの敵どもは、そのようにそしり、そのように、あなたに油そそがれた者の足跡をそしりました。
エタンは、実際にそのそしりを見たままで死んでいったでしょう。けれども、彼の死後、何百年か経った後に、ダビデの町ベツレヘムで男の子が生まれました。イザヤ9章に預言されている通り、ダビデの契約はその男の子によって実現されました。王室のベットに寝かされたのではなく、家畜小屋の飼い葉おけですが、ダビデの世継ぎの子とはイエス様のことだったのです。
89:52 ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。
エタンは神への疑問を提示したまま、この詩篇の巻を終了しなければならないので(?)、かろうじて最後に頌栄を行いました。このような解決の道のないかたちでも、彼は神への賛美を忘れませんでした。
私たちの生活は、エタンのような葛藤の中にあります。神のすばらしい約束を知れば知るほど、そのようにはなっていない目の前の現実との間で苦しみます。しかし、神の時計は私たちの時計とは異なります。時があるのです。今は見ていませんが、神は必ずご自分が語られたことを成し遂げられます。いや、すでに実現しつつあるかもしれません。自分の目ではまだ見ていなくても、見えないところで主はすでに事を行われているかもしれません。
次回は第四巻、モーセの祈りから勉強します。
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME