詩篇90−94篇 「モーセの祈り」

アウトライン

1A 短い人生 90
   1B 永遠の神 1−6
   2B 御怒りの力 7−12
   3B 憐れみの日々 13−17
2A 危険からの救い 91
   1B 全能者の陰 1−13
   2B 主の応答 14−15
3A 安息日の喜び 92
   1B 主がなさったこと 1−6
   2B 油注がれる人生 7−15
4A 主の威厳 93
   1B 王座 1−2
   2B 水の轟き 3−5
5A 悪への復讐 94
   1B 悪者の勝ち誇り 1−11
   2B 主に戒められる者 12−19
   3B 破滅の法廷 20−23

本文

 詩篇90篇を開いてください。今日は90篇から94篇までを学びます。今日のメッセージ題は、「モーセの祈り」です。90篇から新しい巻、第四巻に入ります。

1A 短い人生 90
90 第四巻  神の人モーセの祈り

 これまで見てきた詩篇は、その多くがダビデと、神殿で礼拝賛美を導いていた人によって書かれていました。けれどもここは、ずっと前に書かれたものです。モーセによるものです。詩篇第四巻が編纂されたのは、おそらくバビロン捕囚後、ユダヤ人がエルサレムに帰還してからだと考えられますが、前にも話したとおり、彼らはモーセ五書を始め聖書の朗読に多くの時間を割きました。これまでないがしろにしてきた神の律法を、イスラエル誕生の歴史から辿って復興させる働きに従事したのです。

 そこでおそらく律法学者らが、記録として残っていたモーセの祈りを詩篇の中に取り組んだのでしょう。一部に、この詩篇はモーセによるものではないという意見がありますが、それを否定する理由を見出すことはできません。むしろモーセが歌った申命記32章にある歌にこの詩篇は似ています。

1B 永遠の神 1−6
90:1 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

 神の永遠を歌っています。

90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」90:4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。90:5 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。90:6 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。

 永遠である神と比べて、人間の人生がいかにはかないか、短いか嘆息しています。神にとっては、ここに書かれているように千年は一日のように過ぎ去ります。それに比べれば人間は移ろう草のようです。

2B 御怒りの力 7−12
 そしてモーセは、イスラエルの民に起こったある出来事を歌います。イスラエルの民の死を待つために40年も荒野でさまよった出来事です。覚えていますか、主がこう宣言されました。「一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。(民数14:3520歳以上の人々は40年のうちにみな死ななければならない、という宣言を受けたのです。

90:7 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

 彼らは荒野の中で自分が死んでいくことを知っていました。それが神の裁きの一環であることを知っていました。だから、その生活は神の怒りを感じながら生きるものだったのです。

90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

 モーセ自身は120年生きましたが、モーセが生きていた時はすでに平均寿命が今の私たちと同じぐらいになっていました。覚えていますか、アダムは900歳以上生きてアブラハムは175歳まで生きましたが、次第に寿命は短くなりました。

 荒野のイスラエルの民は神によって寿命が定められました。けれども、アダムが罪を犯した時から私たちは同じ呪いの中にいます。神のかたちに造られた人間は、初め永遠に生きるように造られました。しかしアダムが罪を犯したために死が世界に入り込みました。ですから、ある意味で私たちも神の怒りの中に住んでいると言えます。外なる人が衰えて、多くが病を患い、ついに死に絶えることは、神の意図ではありませんでした。この苦しみこそが、神の怒りの表れです。

90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

 非常に大切な箇所です。私たちはみな、まだ時間があると考えています。だから、一日を何となく過ごしてしまいます。けれども、私たちはそんなに長く生きられるのでしょうか?

 私たちは一年を単位として自分の歳を数えていますが、モーセが「日を数えることを教えてください」と言っているように、日数で数えてみてはどうでしょうか?ちょうどオリンピックまで何百何十何日の表示を町で見かけるように、自分の寿命があと何日、というふうに眺めてみると面白いかもしれません。自分の人生は時限付きであることを知ります。そうしたら、自分は無駄な時間を過ごすことはできないことを知ります。自分の日を正しく数えることができます。

 パウロが言いました。「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エペソ5:16 新共同訳)」あの不正の管理人の話も思い出します。彼は、主人の費用を乱費して間もなく首になりますが、失業後の生活についてよく考えました。主人に対して債務がある人に対して、その債権証書の額を小さくしてあげました。恩義を売ったのです。それで恩義を売った人々のコネで、もしかしたら次の職が得られるかもしれないと思ったのです。こうやって最後の最後まで不正を働いていますが、主人はこの抜け目なさを逆にほめました。それは、先のことのために今与えられている機会を十分に用いたからです。

 私たちは永遠のために、今の一日をどのように用いているか?という質問を自分に対してしたらいいと思います。たいした目的もなく、何時も同じ事をしているな、と退屈にさえなっていたら、神さまの永遠が見えなくなってしまっている、と思ってください。

3B 憐れみの日々 13−17
90:13 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。90:14 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。90:15 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。90:16 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。

 40年間の荒野の放浪で、モーセが叫んだ祈りです。これがいつまで続きますか、どうかあわれんでください、という嘆願です。けれども、ある意味で私たちはこの地上に生涯において、同じ叫びを上げています。苦しみや悩みが多いこの世において、私たちの魂は、さなぎが蝶になるように変貌することを待ち望み、うめいています。この古い、衰えていくからだから、栄光ある、朽ちない新しい体が与えられることを待って、うめいています。

90:17 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

 日々の生活の中で、私たちが行っていること、手のわざが確かなものであることを祈り願います。無駄な一日ではなく、一つ何か実を結ばせている日であることを願います。

2A 危険からの救い 91
 そして91篇です。だれが書いたかの題名はこれにはありません。けれども、90篇と同じモーセである可能性があります。ここに書かれている内容と、モーセ率いるイスラエルの荒野の旅とが合致しているからです。

1B 全能者の陰 1−13
91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

 90篇は、とこしえの神を住まいとするという言葉で始まりましたが、ここは全能者の陰に宿る、という言葉で始まります。神の全能です。

91:2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。

 イスラエルが荒野の旅をしている時、そこには様々な危険がありました。アマレク人が襲ってきました。またイスラエルの多くが疫病にかかることもありました。そのような危険から守って救ってくださる、という約束の言葉です。

 私たちの人生も、言うなれば狩人のわなや恐ろしい疫病と隣り合わせに生きています。悪魔が私たちを滅ぼそうとしていますが、それは罠のようであり、そして恐ろしい疫病のようであります。ある罪に私たちをひっかけ、そこから出られないようにし、そして最後に死に至らしめることを悪魔は行います。私たちが主を避け所としているとき、それらから守られるという約束です。

91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

 雛を親鳥が羽によって守るように、私たちを守ってくださいます。この比喩を使って、イエス様はエルサレムが破壊されるのを先に見て嘆いておられる箇所があります。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34」それでユダヤ人は、紀元70年にエルサレムはローマによって破壊され、二千年近くも世界に離散する結果を被ったのです。

91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

 夜は眠っている間に襲ってくる敵がいるかもしれないし、昼にも敵の矢が飛んでくるかもしれません。けれども、それら敵から守られます。

91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。

 覚えていますか、イスラエルの民がエジプトにまだいた時、あぶの群れがやってきたり、家畜が疫病にかかって倒れたり、また真っ暗になったりしました。けれども、イスラエルはこれらの災いすべてから守られました。自分の傍らで起こっている出来事なのに、自分は何の害も受けませんでした。

 私たちもこの世に住む者です。この世で起こっていることがどんなに酷くても、私たちは主にあって安全です。主がお定めになった日には、教会全体が空中に引き上げられて主にお会いします。それから災いがこの地上に下ります。

91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。

 覚えていますか、エジプトに下った災いの十番目は、初子、長子の死でした。自分の天幕すなわち自分の家の中でやみ、災いが降りかかったのです。けれども、門柱と鴨居に子羊の血が塗られているところには、災いは通り越します。

91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

 たとえ危険に陥りそうになっても、天使が来て支えてくれます。聖書には、天使が守っていることを示している箇所があります。例えば、子供に対してです。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10

 けれども天使が守るからと言って、意図的に危険を冒すのは間違っています。実にこの箇所は、悪魔が使ってイエス様を誘惑しようとした箇所です。イエス様を神殿の頂に立たせて、そこから飛び降りてみなさいとそそのかしました。イエス様は、主を試してはならない、という御言葉をもって反論されました。罪が赦されて恵みが増し加わるのだから、罪を犯してみようか、などなど、自分を危険な場所に置いたりしてはいけません。

91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

 獅子やコブラが自分を襲うどころか、自分が獅子やコブラを倒すほうに回る約束です。自分が防御する立場から、攻撃する立場に変わる瞬間です。私たちの人生の多くが、主にあって悪から守られることに費やされますが、そこから前に出て、悪魔や悪霊の要塞であるところに押し入る働きも行います。まだ誰も福音を伝えていない人に伝えること、まだイエス様に触れられていないところに出かけ、そこにキリストの土台を据えること、これらはみな攻撃です。

 そしてもちろん、獅子やコブラを踏みつけるのは、主イエスが悪魔の子孫の頭を踏みつけるとき、私たちも敵を踏みつける、再臨の時であることが約束されています。

2B 主の応答 14−15
 そして次に、このように主を避け所としている人に対して、次の言葉をかけられています。

91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

 主の速やかな、祈りへの答えです。わたしを愛しているから、わたしの名を知っているから、だから助け出そう、高く上げようと約束されています。私たちがいかに、主を親密に知っている必要があるかを思わされます。親密に知っていればいるほど、神が私たちにいかに応答してくださっているかを肌で知ることができます。

3A 安息日の喜び 92
92 賛歌。安息日のための歌

 92篇は、安息日のための歌です。安息日の意義、そしてそこにある祝福を歌っています。

1B 主がなさったこと 1−6
92:1 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。92:2 朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。92:3 十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。

 主に感謝して、ほめ歌を歌って、さらに口で言い表し、楽器を奏でます。

92:4 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。

 安息日はもともと、主が六日で天地を創造し、七日目に休みその完成された業を祝福するためでした。主が行われたことを眺めて、それを喜び祝うのが安息日の意義です。だからここの詩篇の著者も、主がなさったこと、御手のわざ、御業、御計らいを思いながら、ほめ歌を歌っています。

 安息は、創造の完成だけでなく、贖いの完成の中にもあります。主イエスが、十字架の上で「テテレスタイ」「完了した」と言われた時以来、私たちは救われるために行うべき業はいっさいなくなりました。ただ、神がキリストにあって行ってくださったところにとどまり、そのことで神に感謝し、喜び歌うのが礼拝です。

92:6 まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。

 まぬけ者、愚か者は何を知らないのか?それは、安息を知りません。主が行なってくださったことを知りません。

2B 油注がれる人生 7−15
92:7 悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。92:8 しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。92:9 おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。92:10 しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。

 悪者と、安息日を喜ぶ自分を比べています。自分は高く引き上げられ、新しく油が注がれます。

92:11 私の目は私を待ち伏せている者どもを見下し、私の耳は私に立ち向かう悪人どもの悲鳴を聞きます。92:12 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

 多くの実を、豊かに結ばせます。

92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

 年老いるとき、その人の人生が何に頼っていたかを如実に現わします。自分のために生きていた人が、どこまで疲れ果てているか分かります。けれども、主に拠り頼んでいた人は正反対の道を歩みます。

92:15 こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。

 主が正しい方であることを宣言しています。

 このように、安息日を喜んでいる人が大きく栄える約束です。私たちがどんなに大きな仕事をしていても、そして、それが主にあって成功していたとしても、一度、自分の働きを止める時が必要です。そして静かになって、ただ神がなさったことに想いを寄せることが必要です。エペソにある教会にイエス様がおっしゃった言葉を思い出してください。「初めの愛から離れてしまった。(黙示2)」です。よく忍耐して、疲れなかった、と主は彼らをほめる一方、初めの愛から離れてしまったから、わたしの燭台を取り除けると警告されたのです。

 私たちの生活は、神の安息によって保たれています。一度活動を止めて、ただ主を見つめます。主がなされたことを喜びます。そしてそれが、後の繁栄にもつながります。

4A 主の威厳 93
 次の詩篇は5節だけの短いものです。けれども、神が王であられること、そして王座に着いておられることが鮮やかに描かれています。

1B 王座 1−2
93:1 主は、王であられ、いつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。

 世界の中に、創造の世界の中に、主が王として君臨されています。

93:2 あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます。

 神が永遠なる方であることが歌われています。90篇もそうでした。

2B 水の轟き 3−5
93:3 主よ。川は、声をあげました。川は、叫び声をあげました。川は、とどろく声をあげています。93:4 大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます。

 詩篇の著者は、神の威厳、力、偉大さを歌うために、私たちが目にする力強いものの一つとして波を上げています。ナイアガラの滝から聞こえてくるような轟音。これよりも力強く神はあられる、と歌われています。

93:5 あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。

 全世界の創造物にある神の栄光が、神殿の中でほめたたえられています。これは詩篇に出てくる原則です。ソロモンが神殿奉献式で祈ったように、天の天も神を収めることはできません。けれども、神はご自分の名をそこに住まわせる、つまりご自分の本質をそこで表わすようにお決めになりました。

 教会に対してはどうでしょうか?エペソ1章にこう書いてあります。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(2223節)

 私たちが集まる教会もまた、いつをまとっておられ、世界を堅く保っておられ、滝の轟きよりもさらに力強い方を見ることができるところです。教会の小さい建物を見たら、教会の目的が一挙になくなってしまいます。被造物に反映されている神の威光を見つめるのです。

5A 悪への復讐 94
 最後94篇は、私たちが普段から抱いている怒りと叫びについて歌われています。つまり悪者がいることです。神がすみやかに裁いてくださればよいのに、と思うことが何回もあります。そうした悪や不義への怒りを、神にぶつける祈りを読むことができます。

1B 悪者の勝ち誇り 1−11
4:1 復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。94:2 地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。

 私たちの復讐の神です。聞こえが悪いかもしれませんが、これはクリスチャン生活にとって必ず知っておかなければいけない神の御性質です。なぜならローマ12章にて、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。(19節)」と書いてあり、この知識に基づいて、悪に対して善で報いよ、という命令があるからです。

 復讐という領域は、神のものです。ちょうど人の命を取る領域が神のものであり、寿命もすべて神が掌握されているように、復讐も神の専売特許です。この方にすべての復讐をゆだねていくとき、積極的にゆだねていくとき、私たちは悪を行なう者たちに対しても、積極的に善を行なうことができます。

94:3 主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。94:4 彼らは放言し、横柄に語り、不法を行なう者はみな自慢します。94:5 主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのものである民を悩まします。94:6 彼らは、やもめや在留異国人を殺し、みなしごたちを打ち殺します。

 悪者の特徴が書かれています。聖書、特に詩篇に出てくる悪者とは、一言でいえば、「神を認めない人」ということができるでしょう。神について、イエス・キリストについて、「なんだ、そいつは?よくわらないこと言っているな。」と侮蔑した態度を取る人のことです。日本の有名な政治家、有名人、批評家などから出てくる、キリスト教についてのコメントはそのことを如実に表わしています。

 ですから悪者の一つ目は横柄に語ることです。そしてもう一つは、神の民を打つことです。自分は迫害していると思っていないでしょう、けれども神の知識を自分の思いから否定しているために、キリスト者に対してその信仰を踏みにじるような事を平気で行ないます。

 そしてキリスト者への迫害は、そのまま社会全般への悪とも関連しています。近・現代にある人権・平等意識、また福祉などはそのままキリスト教価値観が土台になっている西洋からもたらされたものです。もしそれがなくなったどうなるのか?ということを想像したことがありません。

94:7 こうして彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」

 ここですね、私たちが悪を行なうことができる理由がここに書いてあります。私たちが罪を犯す時、神が見ていると思いながら、神を意識しながら犯すことはできません。主は見ていない、と自分を偽ってでも主を拒まなければできないことです。

94:8 気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。94:9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。94:10 国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。

 他の詩篇の箇所に、目に見えない神をあがめている人をあざ笑う者たちに対して、彼らが拝んでいる偶像がいかに空しいかを書いたところがあります。目があっても見えず、耳があっても聞こえない。口があっても物言うことができない、と。その逆に、私たちは神を見ることはできないけれども、神は私たちを見ておられる。神の耳は見ることはできないけれども、私たちの言葉を聞いてくださる。神の口は見えないが、話しかけてくださいます。すべてのものを造られた方です。

94:11 主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。

 非常に大事な箇所ですね。精神分析家は人の心がいかに深いかについて語り、政治評論家などは、世の指導者がいかに賢いかについて語りますが、主は、それらをみな空しいと見ておられます。

2B 主に戒められる者 12−19
94:12 主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。

 神は見ていないと思っていた悪者とは対照的に、神が自分に語りかけ、自分に教え、自分を戒めてくださることを知っている者が幸せです。私たちは、自分が王様のように振る舞い、自分の思うように行なうことが幸せだと思いますが、逆に主に支配され、戒められ、正されていくことのほうが幸せなのです。

 聖書は神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために益になる、と書いてありますね?教会における牧師の説教を聴いて、自分の自尊心がくすぐられるとき心地よさを感じますか?それとも、自分の足りなさが聖霊によって明らかにされたとき、心地よさを感じますか?後者が幸せな人です。自分が確かな道へ正されていくことを望む心は祝福されます。

94:13 わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。

 主の戒めを受けている人に結ばれる実は平安です。戒めは心に平安をもたらします。

94:14 まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。

 ご自分が所有しているものは、決して手放すことはないというすばらしい約束です。

94:15 さばきは再び義に戻り、心の直ぐな人はみな、これに従うでしょう。

 神がさばかれる時は、義を取り戻される時です。悪者が裁かれたら、その裁きを喜ぶのではなく、正義が回復されたことを喜びます。

94:16 だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。94:17 もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

 もし神がおられなかったら、この世のことはすべて不条理だということです。神がおられるから、不条理に見えるようなことも、主の御手の中で動いていると信じて、希望を持つことができます。

94:18 もしも私が、「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。

 悪者を見たら、その栄えを見たら、私たちは時にうらやましくなり、足がよろけてしまいます。けれども、その時に神の恵みがあるようにという願いです。

94:19 私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。

 悪が栄える時、私たちの心には思い煩いが増えます。けれども、神が彼らをことごとく滅ぼされるという約束を聞いて、慰めを受けます。

3B 破滅の法廷 20−23
94:20 おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷が、あなたを仲間に加えるでしょうか。94:21 彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。

 悪の世界は、法廷という正義を執行するはずの場所でさえ、法律を使ってかえって不正を行なうようになっています。

94:22 しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。94:23 主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。

 法廷を悪のために使っていることも、神が滞りなく裁いてくださいます。

 私たちがどこにいればよいか、もうこれで分かりますね。神のところです。神の戒めのところです。神の住まいのところです。そこには私たちを慰める鞭があります。そこには、神の永遠を思うところがあります。神の全能を思うところがあります。そして神の王権も考えることができます。世を羨んではいけません。世ばかりを見てはいけません。主の中にいましょう。


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