ルツ記1章1517節 「愛の忠誠」

アウトライン

1A ナオミの勧め
   1B モアブの民
   2B ケモシュ神
2A ルツの決断
   1B ナオミへの忠誠
   2B イスラエルの神
   3B イスラエルの民
   4B 「死んでも離れません」
3A 神の備えと導き

本文

 士師記は終わりルツ記に入ります。午後は12章を学んでみたいと思いますが、今朝は11517節に注目してみたいと思います。

15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」

 ルツ記は、士師の時代で起こった出来事です。私たちは前回、士師の時代に起こった二つの逸話を読みました。それは混乱と混沌の世界でした。けれども、ルツ記が描いているのは、主なる神に真実に従っていく人々の姿です。周りがどんなに暗くなっていても、主にあって輝くことができるという希望を与えてくれます。そこに隠されている秘訣は、「何があっても従っていくという決断」あるいは「忠誠」です。

 前回の学びで、ベツレヘムという町の名が出てきました。そこにエリメレクという人物の家族がいました。妻の名はナオミ、息子はマフロンとキルヨンです。イスラエルの地に飢饉が来ました。それで彼らは、モアブに移住したのです。モアブの地で不幸が続きました。エリメレクが死んでしまいました。その後、二人の息子がモアブの娘をそれぞれ娶りました。相手はルツとオルパという女性です。ところが何と、二人の息子も死んでしまったのです。

 そうこうしているうちに、飢饉は過ぎ去り、再び畑の収穫ができるようになった話を聞きました。それで帰郷しようと考えましたが、ナオミははふと、この二人の未亡人を連れ帰ってはならないと思いました。彼女たちにふさわしい花婿を新たに与えることは現実ではほぼ不可能に等しいものでした。そして彼女にとって、まったく見たこともないイスラエルの地であり、まったく見慣れないイスラエルの民、そしてイスラエル人が信じている神がいます。そんなことは決してできないと思いました。それで、実家に帰って、そこで新たに夫を得なさいと勧めました。

 ところが二人とも嫌だと言って聞かないのです。なんとすばらしいことでしょうか、二人とも姑であるナオミを愛し、彼女から離れたくないという忠誠心を持っていました。二人ともナオミを愛していました。けれどもナオミは現実的な話をします。当時のイスラエル社会では、私たちが以前律法で学んだように、息子が死んだのであれば、残された妻はその弟と結婚しなければいけないことになっていました。けれども、ナオミ自身未亡人です。今すぐに夫を得たとして子が生まれたとしても、その子が大きくなるまで待つということなのですか?とルツとオルパに迫りました。それで、オルパは折れました。彼女は自分の家に帰ったのです。

 ナオミはあなたもそのようにしなさい、とルツに勧めました。ところがルツは言うことを聞きませんでした。そこから出てくる言葉は、いま読んだように、彼女自身がイスラエルの神に従い、またイスラエルの民と一つになるという、回心の告白だったのです。彼女の、ナオミを愛するがゆえの忠誠心は、イスラエルの神とその民と一つになる決断を与えたのです。

 本当に神の選びと、その御霊の働きは不思議なものです。以前、私たちはカナン人のラハブの話を読みました。彼女も同じでした。彼女も異邦人であり、周りはもちろんイスラエルに敵対しているのに、イスラエル人の間諜をかくまい、イスラエルの神を信じる告白をしました。どれだけ強い圧迫が周りからあろうとも、主と波長を合わせた人は、このように大胆になることができるのです。そのような主の御霊の働きが、私たちにも与えられることを祈っていきましょう。

1A ナオミの勧め
 それでは、もう一度15節から少しずつ見ていきたいと思います。「ナオミは言った。『ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。』(15節)」

 ナオミは、ルツに対して自分の属するモアブ人に戻り、それからモアブ人の信ずる神に戻りなさいと強く勧めました。今日の私たちにもそのような概念があるかと思いますが、それぞれの民族や国にそれぞれの神がいるという考えから、「民」と「神」をいっしょにして話しています。日本であれば、神道の神話に根ざした建国物語がありますし、そして仏教によって国の形が形成されましたから、仏教と神道が日本の神だと思っています。同じように、当時はそれぞれの民族と国に神がいると考えられ、例えば戦争をするときは、それぞれの国を代表する神と神の戦いであると考えられていました。

 けれども聖書の神においては、異なります。どんな民族でも、民族である前に人です。初めから異なる民族から始まったのではなく、元は一つの民で、一つ言葉でした。そして一人の人から世界は始まりました。そしてその人を造られた神は唯一であり、この神がすべてを支配していると教えています。けれども、「だからキリスト教などの唯一神信仰は排他的なのだ。」と多くの人はいいます。けれども、ちょっと考えてみてください。民族や国が異なると、人間が変わってしまうのでしょうか?なぜ国がそれぞれ異なっても、全く同じ人体を持っているでしょうか?皮膚や体格が異なっても、医学の世界の中で異なる人体を持っていると話したら、それはあまりにも非科学的なこととして一笑に伏されます。異なる文化の中にも、なぜすべてに共通点があるのでしょうか?例えばいろいろな音楽がありますが、音楽をなぜ人は創造していくのでしょうか?同じ神がおられた、創造主がおられるからだと考えるほうが、はるかに理にかなっています。

 聖書は、神はイスラエルを選ばれたけれども、それはあくまでも選びであって、全世界に対して、ご自分しか神はないことを大きな力をもって示されました。エジプトにおいては、パロがイスラエルの民を奴隷として酷使していたので、「わたしの民を去らせなさい」と言われたのですが、パロが言うことを聞かなかったので、それでエジプトが頼りにしていたもの一つ一つに災いを下されました。ナイル川、かえる、家畜、天体など、そして最後は初めに生まれた男の子の死です。それぞれがみな、神として拝まれていたものでした。これらのものは神ではなく、天地万物を創造した神がおられることを表されたのです。

 そして今の時代は、イエスを死者の中からよみがえらせた、という事実によって、この神のみが真実であることを全世界に知らしめています。偶像が極めて多かったギリシヤのアテネで、パウロはこう宣言しました。「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(使徒17:29-31」イエスがよみがえったということ、このことが、これがどの国の人であってもイエスのみが救いであることを示す証拠です。

1B モアブの民
 とは言っても、自分にとって慣れ親しんだ民族や宗教があります。ナオミはルツに、「自分の民のところに戻りなさい」と言いました。別にルツがベツレヘムに行ったからと言って、彼女がイスラエル人になるのではありません。彼女がベツレヘムに移住後も、ルツ記ではずっと彼女が「モアブ人ルツ」となっており、民族を捨てたのではありません。けれども、自分の民族と共に生きることはとても快適です。同じ言葉を話し、同じ文化、同じ習慣、生まれたところ、幼い時に育ったところにいることは、その人々との一体感を持つことができます。

2B ケモシュ神
 さらに、同じ民族であることと共に、神がいます。モアブ人はケモシュという神を拝んでいました。快楽を得るところの神であり、人を犠牲にするなど恐ろしい面がありましたが、それでも、幼い頃から慣れ親しんでいる神だったわけです。私たち日本人であれば、神社の境内というところでしょうか?私はクリスチャンの家庭で育ったわけではないので、境内で遊んだり、元旦参りをした近所の神社のことが原体験となっています。

 ですから、ナオミが強く勧めていることは、人間的には、常識的にはその通りだったのです。彼女といっしょにいって、自分の民と自分の神を捨てるまでの価値はないであろう、ということです。そして何よりも、福祉制度のない当時、未亡人のところにいたところで乞食まで行かなくても非常に貧しい生活を強いられることになることは見え見えでした。彼女は、人間的はルツのことを思ってそう勧めたのです。

2A ルツの決断
 ところがルツは、そうではありませんでした。ルツは周りの環境や周囲の人々の流れの中で生きていくよりも、もっと大切な事があることを知っていました。それは「忠誠」です。忠誠というと、ちょっと武士道のように聞こえてしまうので、言い換えれば「愛をもって尽くす」ことであります。周りの流れに沿って普通に生きていく幸せよりも、不自然な生活になるかもしれないけれども、また不安がともなう生活になるかもしれないけれども、それよりももっと幸せなことがあることを知っていました。それは人格的な関係であり、真実な愛の中で生きていくことでした。

1B ナオミへの忠誠
「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。(16節)」

 ルツは、ナオミに愛をもって真実を尽くすことに決めていました。ルツ記における主題の一つは「ヘセド」というヘブル語ですが、それは「恵みによる決意」と訳せばよろしいでしょうか。単なる決まり事を越えて、それでも尽くしたい思いです。感情的な愛ではありません。もちろん感情はあります。けれども、自分が損をしても、自分にとって不利なことになっても、それでも見捨てず愛し続けることです。誓いに基づいた結婚の愛、あるいは親が子を育てるときの無私の愛に似ています。神のかたちに造られた人間は、いつも、この不変の、真実な愛に飢え乾いています。

2B イスラエルの神
 そしてルツは言いました。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」これは、とてつもなく大きな決断です。まず、「あなたの神は私の神です」という言葉から見ていきたいと思います。

 ルツは、エリメレク家に嫁ぐようになって、それでイスラエルの神、ヤハウェについてその多くを聞いたのだろうと思います。エリメレクが死んでから息子の一人の妻になりましたが、それから十年たって夫が死んだとありますので、少なくとも十年間、彼女は、イスラエルがどのようにしてエジプトから救い出され、シナイ山から律法を受け、そして約束の地に入ってきて住み始めたのかについて聞く機会があったことでしょう。そして、その話が単に抽象的なものではなく、家の中の生活のいろいろな面に反映されていたので、次第に彼女の魂の中に入っていったのだと思われます。

 もう、モアブ人としての生活には戻りたくない。この家族を作っている民であるイスラエルのところに行きたい、何よりもイスラエルが信じている神を自分の神としていきたいという渇望を抱いていました。それで、「あなたの神は私の神です」と告白したのです。

 神とキリストを信じる、というのも同じであります。確かに日本人であること、そしてその宗教というか慣習を持っているのはほっとすることです。けれども、その漫然とした生活の中で、果たして人が人として生きる意味を見出すことができるでしょうか?繰り返しますが、人は真実な愛を求めています。巷で言われている安価な「愛」と呼ばれるものではなく、いつまでも変わりない、どんな状況になっても同じように愛している真実を求めています。それを、漫然と周囲の人々と同じように生きていることによって得られるのではないことを、心の奥底ではそれとなく分かっています。

 その中で神は教会という共同体を与えてくださいました。キリストの体と呼ばれる共同体を与えてくださいました。そこにある人間関係の中で、私たちは次第にキリストの独自性を知ることになります。世の中の動きとはかなり異なるけれども、とらえどころがないのだけれども、なぜか一人一人に、世の移り変わりに影響されることのない、喜びと平安があることに気づきます。そして、それはキリストを信じる信仰から出ていることを知ります。キリストご自身が、信じている者たちの源になっていることを知ります。

 この方は、真実な愛を持っておられました。その言葉には偽りがありません。その行ないはすべてご自身が天から来られた方であることを証明していました。単なる人では成し遂げられないことを行なったからです。けれども十字架につけられました。悲惨な死を遂げたのですが、実はそれはたった三日間だけであり、三日後によみがえられたのです。今も生きておられるので、信じる者たちの心に今も生きて働くことができます。この方が内に生きておられるので、クリスチャンの中には変わらぬ喜びと平安、そして愛が宿っているのです。

3B イスラエルの民
 そして、「あなたの民は私の民」とも言いました。これは自分がモアブ人であることを捨てることではありません。そうではなく、イスラエルという民に与えられた、神の契約の中に入ることを意味しています。イスラエルは、人工的に造られた民族、いや神によって意図的に造られた民です。自然発生したのではありません。元はバビロンに住むアブラハムという、月の神を拝んでいた人に対して、「あなたは、父の故郷を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」という天地創造の神からの呼びかけに応えたところから始まったのです。それから神はアブラハム、その子イサク、その子ヤコブに約束を与えられ、その子孫であるイスラエルに神の掟である律法を与えられました。堅い契約を結ばれました。ちょうど男と女が結婚の誓約を交わすように、神はイスラエルに契約を結ばれました。

 ですからイスラエルの中に入ることは、意識的にその契約の中に生きることを意味します。その共同体に生きるのは、人間が自然に、無意識にできることはありません。自然に生きていくのであれば、即時に共同体から離れてしまうことでしょう。神のみことばにすがり、祈り、そしていけにえを捧げて礼拝を守るのです。

 そしてキリストは、弟子たちと新しい契約を結んでくださいました。ご自身の肉がむち打ちによって裂かれることで癒しが与えられるということと、十字架に釘刺されることによって出てくる血によって、罪の赦しが与えられることを約束した契約です。これを受け継いでいるのが教会です。ですから、教会はイスラエルと同様、契約によって成り立っている共同体です。「契約」というととても堅苦しく聞こえるかもしれませんが、御霊、神の霊が与えられているので、喜んで、新しい命をもってキリストの中に留まっています。

 日本の人々が普通に行なっているのとはかなり異なる生き方でしょう。年に一度だけ、神社でお賽銭を投げ入れて、手を打ち叩いて祈念すれば、その祈りによって一年間守られる、と信じているからです。けれども教会は毎週それを行なっています。いや日曜日だけでなく、日毎に祈り、主から聞いて生きていくことが奨励されています。この違いは何なのでしょうか?祈っている相手が、ちょうど24時間同じ屋根の下に暮らす伴侶と同じように、堅い結びつきの中にいるからです。それは、私たちを束縛するものではなく、むしろルツと同じように真実な愛に基づいているものです。たとえ眠くても、夫のために早く起きて朝食の用意をする妻のように、たとえ眠くても朝起きて、やはり祈りたいと願うのです。

 そして私たちは教会において、互いに責任を持っています。イエス様は教会に対して、新しい戒めとしてこう命じられました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 (ヨハネ13:34」ですから、私たちは集まります。互いのために祈り、互いを思って仕え、励まし、勧め、共に聖餐にあずかります。それを結びつけるのは愛です。キリストが私たちを愛してくださったことに基づいて動いていくところの愛です。

4B 「死んでも離れません」
 そして興味深いのは、ルツがナオミと死んだ後もいっしょにいたいと言ったことです。「あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。(17節)

 当時は、死んだ後にどのように葬られるかは、人の栄誉に深く関わることでした。もっとも惨めなのは、死んだ後に野垂れ死のまま放置されることです。戦いにおいて、その遺体を命をかけて引き取りにきた人々の話が聖書には出てきますが、それは死んだ後の葬られ方がその人の尊厳に深くつながっているからです。

 結婚の誓約の言葉で、「死が二人を別つまで」という文句がありますが、ルツはすごいことを入っています。死によって私があなたから離れるようなことがあってはいけない、と入っています。これはもちろん、ベツレヘムに葬られたい、姑のナオミのそばに葬られたいという強い意志の表れですが、同時に「死後の世界もあなたと同じところに行くのだ」ということを暗に示しています。死後、イスラエルの民と同じところに行きたいという願望の表れです。

 これを言い換えるなら、「真実な愛は、死んだ後も続く」ということです。死ぬことによって全てが終わるのではなく、死んでもキリストが共におられて、そしてこの体を復活させていただくという約束があります。今の生活だけを考えての信仰ではありません。死んだ後の命を考えての信仰であり、永遠に変わることのない愛を神はキリストにあって約束してくださっているのです。

3A 神の備えと導き
 このようにしてルツは、ナオミについていきました。人間的には、彼女はとんでもない決断をしました。外国に移り住むだけでなく、夫がいないので、当時の社会では乞食寸前の人になれといっているに等しかったのです。女性がこの決断をすることは、男性がするのと桁外れです。保証がないのです。けれども、彼女はナオミを通して知ったイスラエルの神、そしてイスラエルの民と自分を一つにしました。そのため、イスラエルの神が彼女を世話してくださったのです。たまたま、ボアズというエリメレクの親戚が持つ畑で、落穂拾いをすることになりました。彼は彼女によくしてやり、ついに彼女はボアズと結婚することになります。すべて神が備えてくださったものです。

 自分の周囲の状況よりも、人格的、個人的な関係を求めた人には、同じように人格的、個人的な導きと守りが与えられるのです。数多くの人が、祝福だけを求めます。よい生活が与えられたいと願います。信者でない人は、それでおみくじを引いたりするわけですが、クリスチャンであっても、祝福されることを求めます。けれども、神が求めておられるのは私たちとの真実な愛の関係です。神の与えられる祝福はその真実の表れであって、もし自分が神に自分自身を捧げていなければ、その祝福を与えても無益なのです。

 私たちは、周囲に合わせて、その流れに合わせて生きているでしょうか?それとも、ルツのように意識的に、この方のみを私の主とし、神とするという選択の中で生きているでしょうか?教会として集まることも、他の人々がしているからという理由ではなく、キリストの命令に従うからということで行なっているでしょうか?ナオミは、ルツに自分の民、自分の神に戻ることを勧めましたが、身近な人が信仰は持たないほうが良いのではないか、教会に熱心に通わなくても良いのではないかといわれても、それでも主を愛して生きていきたいと思っているでしょうか?真実な愛の中にどうか自分自身を捧げてみてください。

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