ルツ記3−4章 「真実な結婚」
アウトライン
1A ルツの求婚 3
1B ナオミの言いつけ 1−5
2B ボアズの受諾 6−13
3B ルツの報告 14−18
2A ボアズの婚姻 4
1B 親類との取引 1−6
2B 結婚宣言 7−12
3B 報いの子 13−22
本文
ルツ記3章を開いてください。前回私たちは、ルツがベツレヘムで落ち穂拾いをしている畑が、ナオミの近親者ボアズのところであったところまで読みました。ルツは、ボアズの畑でしばらくの間働いていました。大麦の刈り入れの時期から、小麦の刈り入れの時期までそこにいました。
1A ルツの求婚 3
1B ナオミの言いつけ 1−5
3:1 しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。3:2a ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。
ナオミがルツに行った、「身の落ち着くところ」というのは、「休むところ」と訳すことのできるものです。かつてナオミがモアブにいた時に、ルツとオルパに「それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように」と言いました(1:9)。夫を得ることが、安息を得ることができるところ、ということであります。これは、女の人が男に求める基本的な欲求であります。守られて、養われるところです。愛されるところです。ゆえに身の落ち着くところであります。
女だけでなく、実は教会にとってのキリストがそのような方であります。この方にあって安息を得ることができます。そして、この方が私たち教会にために戻って来られ、キリストのところに私たちがいるようになる時に安息を得ることができます。ヘブル書4章11節にはこう書いてあります。「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(4:11)」私たちの究極の休息は、天において初めて得られるのです。
そしてナオミは、ボアズが親戚であるから、あなたの夫になるのだということを言っていますが、それはもう学びましたね、エリメレクの名を残すために兄弟あるいは親戚が残された妻をめとらなければいけないという律法に基づいています。
3:2bちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。3:3 あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。3:4 あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてからはいって行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」3:5 ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」
ボアズに求婚するようにルツに言い付けました。場所は、大麦の刈り入れの打ち場のところです。麦の収穫には、聖書時代、打ち場がありました。他の地面より少し高くなっているところに平坦なところを作りました。そこで脱穀をするのです。しばしば聖書に出てくる表現で、「殻と麦をふるい分ける」という言葉がありますが、それは脱穀をした後に、空中に殻つきの麦を持ち上げて、殻を風に吹かれるようにします。この作業をしているとき、積み上げられた大麦を他の者に盗まれないようにその場でボアズは寝ていたのです。
そこに行きなさいとナオミは言いました。「あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。」美しく着飾ります。ルツは、これまで内なる美を持っていました。勤勉に働き、また純真で謙遜でした。姑には従順です。このような内なる美に加えて、今は外側を美しく着飾ります。ペテロはこう教えました。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(1ペテロ3:3-4)」けれども、これは着飾るなということではありません。内なる美にもっと心を使いなさいということであり、外なる美を求めるなということではありません。外なる美に気を使わなければいけない時もあります。
2B ボアズの受諾 6−13
3:6 こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。3:7 ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。3:8 夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。3:9 彼は言った。「あなたはだれか。」彼女は答えた。「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」
ナオミに従順な分だけ、直球に、大胆に求婚しました。ここで彼女が使っている「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」というのは、前回の学びに出てきた、ボアズのルツに対する祝福の言葉にありました。2章12節です、「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から報いがあるように。」翼の下に行くことと、覆うことは同じヘブル語が使われています。ボアズがルツに祝祷したことは、実はルツがボアズに対して、「あなたを通してその祈りがかなえられますように。」ということなのです。
コリント第一11章3節に、こういう言葉があります。「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。(1コリント11:3)」パウロは、霊的救いについて、イエス・キリストにあって男も女も一つであると話しました。女も、男とまったく同じようにキリストにあって神に近づくことができ、その報いも全く同じ永遠の命であります。けれども、この地上の生活の中でキリストを頭として生きて言うように、男をかしらとして女が生きる結婚の制度を神は与えられました。男は、キリストにしっかり結びつき、キリストにあって最終決断をする責任があります。そして女を守り、養い、彼女を尊ぶ責任を負っています。女は、男を敬い、キリストに従う男に自分も従わせる責任を持っているのです。
先日、あるクリスチャンの友人のブログにコメントがありました。姉妹が、自分の夫のことを「頼りにならない」と書いていました。その友人の兄弟は、優しく諭していました。「事実そうであっても、父親の威厳を落とすことを公の場でしてはいけないと思います。夫・父親は頭であるキリストの象徴です。どんな間抜けな夫・父親でもその立場・役割ゆえに尊敬した方がいいですよ。」姉妹は、謙虚にその言葉を受け止めておられましたが、すばらしい兄弟・姉妹間のやり取りです。夫を敬うのは、その夫の人格が優れているからそうするのではありません。神がその夫を与えられたという、神の権威に従うから敬うのです。
そしてもちろん、夫も妻を公の場で引き落とすような言葉を言うべきではありません。自分の体の一部になった人なのですから、彼女を引き落とすことは自分の体を痛めることです。このことは前回学びましたね、ボアズはルツを辱めないために、あらゆる配慮を払っていました。
ところで、ルツが行なった求婚行為は、性的な意味合いは含まれていません。「覆ってください」と言っても、それは法的に結婚してくださいという象徴的行為であります。
3:10 すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。
ボアズの一声は、「主があなたを祝福されるように」でありました。買い戻しの権利にしたがって動いていることから、それが神の律法にかなうことであることをそのまま理解し、そして主がこのことをなされていることをすぐに認めたのです。ボアズがいかに主に満たされていた人であるか、ここからよく分かります。
そして「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています」と言っていますが、先の真実とは、ナオミに従ってモアブからベツレヘムまで来たことです。姑に尽くす誠意を越えて、イスラエルの神、イスラエルの民と共に生きることを選び取りました。そして今は、それにまさる真実だと言っています。買い戻しの権利という、神の与えておられる掟に基づいて、自分の結婚人生を捧げようとしているからです。このように、真実を初めに示しただけでなく、継続して、一貫して示しているところにルツの優れた心があります。途中で、主から離れることがなかったのです。
そして「若い者たちのあとを追わなかった」と言っています。ボアズがルツを「娘さん」と言い続けているところから、かなり年が離れていました。ここにボアズの言った「真実」つまり、ヘセドという言葉が光っています。つまり、彼女は肉体的、感情的な側面によって結婚を選ばなかったということです。結婚の時に、男性は肉体的な側面、女性は感情的な側面で拙速に結婚して失敗する場合が極めて大きいです。それをも乗り越えて、真実は何かを主によって見極めていく必要があります。
3:11 さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。3:12 ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。3:13 今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」
ボアズはすぐに、結婚を受諾し、そしてそれが可能であることを、「町の人々は、あなたがしっかりした女であることを知っているからだ」と言っています。この「町の人々」は、町の長老たちのことです。ベツレヘムの町の長老らが、彼女の良い評判を聞いていました。
そしてボアズは、ルツに優しいです。「恐れはいけません」と彼は言っています。ルツは、ボアズに対するこの求婚がいかに勇気の要ったことかを知っていました。そして、彼女のしたことをほめ、またこれから必ず結婚に至るまでの手続きを踏むことを確証しました。
一つ、法律的に乗り越えなければいけないのは、さらに近い親戚がいることです。ですから、もしかしたらその人たちが親戚の役目を果たすことになるかもしれません。けれども、「主は生きておられる」と言っています。主がこれをみこころのままに行なわれるし、そしてそれは良い結果であることを教えました。
3B ルツの報告 14−18
3:14 こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。彼は、「打ち場にこの女の来たことが知られてはならない。」と思ったので、3:15 「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい。」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。
ボアズは、夜のうちは自分のところに寝かせました。なぜなら、彼女が夜、何者かに襲われる危険があったからです。けれども、日が十分に昇ってしまったら、変な噂が立ちます。それで彼女を守るために、まだ薄暗いうちに彼女を家に帰らせました。
そして大麦六杯を彼女に与えています。これはおそらく30キロ近い重さだったでしょう!聖書時代の女性は、例えばリベカが水がめをらくだ十頭のために飲ませたりと、かなり力持ちだったと思います。おそらくは、彼女は頭の上に載せて運んで行ったと思われます。
3:16 彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。「娘よ。どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、3:17 言った。「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」3:18 しゅうとめは言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。」
大麦六杯は、もちろん姑ナオミに対するメッセージです。ボアズはナオミに、「私はあなたの嫁を妻にします。そしてお母さん、あなたを扶養します。」ということを言っているに他なりません。そしてナオミは、ボアズが「このことを決めてしまわなければ、落ち着かない」と言っています。ボアズがルツのためにしてあげたいという、情熱を見ることができます。
2A ボアズの婚姻 4
1B 親類との取引 1−6
4:1 一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼にことばをかけた。「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。」彼は立ち寄ってすわった。4:2 それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、「ここにおすわりください。」と言ったので、彼らもすわった。
旧約聖書の中で町の「門」の話が出てくるならば、それはその町の役所だと考えてください。今でもイスラエルに行けば、城壁の入口の門はいくつもの部屋があることを遺跡で確認することができます。そこは行政手続きの場であったのです。そのためにボアズが買い戻しの権威のある親戚と話をする時に長老十人も招き、これを公的な手続きにしています。
4:3 そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。4:4 私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」
けれどもボアズは、爆弾発言をします。
4:5 そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」4:6 その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」
畑には、モアブの女ルツとの婚姻も包括されていました。午前礼拝で話しましたが、畑だけであれば同じ氏族の名を残すのみで、自分の所有の畑が少し大きくなるだけですが、自分自身がエリメレク家の夫になるなら、今持っている所有の畑までがエリメレク家のものになってしまいます。だからできないと断っているのです。ボアズはこれも見通していたことでした。そこで正式な手続きに入ります。
2B 結婚宣言 7−12
4:7 昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。4:8 それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分のはきものを脱いだ。
興味深い慣習です。これは申命記25章の、兄弟がなくなった妻をめとらなければいけないという掟の中に、その兄弟が望まなかった場合どうすればよいか教えているところがあります。「町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」彼の名は、イスラエルの中で、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる。(8-10節)」もちろん、この親類の人はボアズがルツを娶る義務を果たすことを知っていたので、むごいことはしていないのですが、とりあえず慣習として行なわなければいけないことでした。
4:9 そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。4:10 さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」
ボアズは、すべての人の前でルツを自分の妻としたことを宣言しました。彼は、「モアブの女」とルツがどこの出身であるかをはっきりと告げました。それでも、イスラエルの家の中に彼女が入ったのです。
この宣言を、実は神はキリストにあってしてくださったことを知っているでしょうか?「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)」義と認められるという言葉は、「正しいという宣言を受ける」と言い換えることができます。実際は罪ある者なのです。けれども、キリストによって贖ってくださったので、つまりキリストが罪の報酬である死をその身に受けてくださったので、罪はないという無罪宣告を受けました。ここで多くの人がここを混同します。自分が正しくならないと神の前にも正しいと認められないのだと思います。いいえ、自分が正しくなくても、正しいと宣言されるのです。ローマ4章にはこうも書いてあります。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(5節)」
4:11 すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。4:12 また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」
すばらしい祝福の言葉です。と同時に、これは預言的な言葉です。モアブの女ルツが、ラケルとレアのふたりのようにされますように、というのは、子をたくさん産み、かつ契約の民としての子をたくさん生むように、という意味です。ラケルとレアによって十二人の息子が与えられ、そして十二部族が出てきました。事実、ルツによって後にその子孫にダビデ王朝が現われるのです。
もう一つは、タマルがユダに産んだペレツの家、とありますが、これは二つの意味でルツに当てはまります。一つはタマルも異邦人でした。ユダがカナン人の所にいた時に、彼女が彼の息子の一人の妻になりました。そしてもう一つは、タマルも夫に先立たれてしまった人です。彼女の場合は、ユダの長男が死に、そして次男は何と精を地に流すことによって子孫を残すことを拒んだので死んだのです。けれども、タマルが直接、父ユダとの間に子を宿し、双子でしたがその一人がペレツでした。そしてペレツの子孫にルツも入り、そしてダビデが生まれることになります。
3B 報いの子 13−22
4:13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
すばらしい言葉です、「主は彼女をみごもらせた」とあります。子を宿してくださったのは主ご自身です。
4:14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。4:15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」4:16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
覚えていますか、ルツ記はある意味で「ナオミの書」と言っても良いかもしれません。彼女は、夫を失い、息子を失い、全てを失った後でモアブからベツレヘムに戻ってきました。ナオミ(快い)と呼ぶのではなく、マラU(苦い)と呼んでおくれ、と言いました。全てを失ったかに見えましたが、実はこのような大きな報いが備えられていました。
ここで大事なのは、すべてのことは益として神は働かせるということです。その約束は信仰生活をある程度経ている人は何度か聞いてきたことでしょう。けれども注意深く読みますと、条件があるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。神を愛してもいないのに、すべてのことが益になるのではないのです。神に背いている人ならば、自分が持っているものまでも取り上げられてしまいます。
ルツは、イスラエルの神を愛していました。この神を、自分の民、自分の民モアブの信じる神を捨ててでも敬っていました。そして、保証や安心を犠牲にして、すべて明け渡して生きていました。ゆえに、神がナオミが通った辛さに余りある慰めを与えられたのです。主を愛していれば、私たちは今、どの道を歩んでいるのかを悩む必要はありません。否定的に見える事でさえ、それは将来バラ色に輝きます。
4:17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた。」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
「オベデ」は「礼拝する者」という意味です。何と麗しい名でしょうか!そしてその孫がダビデですが、彼の名の意味は「愛された者」です。ダビデは神に愛され、神に知られた人でした。そして彼は礼拝をこよなく愛していました。
4:18 ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、4:19 ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、4:20 アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、4:21 サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、4:22 オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。
そして「ダビデ」が、イエス・キリストの系図の初めに出てくる人物です。新約聖書の初めの言葉は、正確に訳すと、「ダビデの子、アブラハムの子孫、イエス・キリストの系図」であります。
私たちが、人類に対する神の救いの計画を考える時に、その救いの歴史を考える時に必ず知らなければいけない人物二人が、アブラハムとダビデであります。アブラハムによって、その子孫によって全ての民が祝福されるというキリストの約束が与えられました。そして私たちは、その約束を信じてアブラハムが生きた、その信仰について学びました。次にダビデがサムエル記第一から始まります。ダビデによってイスラエルが、単なる共同体ではなく国として、国家として成り立ちます。そこでダビデによって浮き彫りにされるのが、「神の国」であります。神を王として、神の統べ治める中に生きることを私たちは学んでいきます。そして神はダビデの世継ぎの子が永遠の御国の王となることを約束してくださいました。キリストを王とする神の国の約束です。
このダビデの現れのために、先代の預言者は注意深く預言していきました。ヤコブが死ぬ前にユダについて語る時に、彼から王権が離れることなくシロ(メシヤ)が出てくると語りました。そしてユダのベツレヘムの話を士師記の著者は二つの逸話の中で書きました。そしてルツ記の著者も、ベツレヘムで起こったこの麗しい贖いの出来事を書き記したのです。
午前礼拝で贖いの壮大な計画について話しましたが、そこで網羅できなかった聖書箇所をここで分かち合いたいと思います。黙示録5章を開いてください。場面は天国になります。
5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
父なる神が今、巻き物を右手に持っておられます。この巻き物は封印がされていました。当時は、契約書などを巻き物に書きしるし、蝋を落として封印しました。そして、その巻き物の封印を解くことのできる権利のある者を天使が捜しているのですが、見つかりません。それで使徒ヨハネがむせび泣いています。世界のどこにもいなかったのです。これは、土地購入書を表しています。エレミヤ書に出てきますが、買い戻すための権利書です。その封印を解くことのできるのは、近親者のみです。ここの黙示録では巻き物が、全世界に対する購入権利書になっています。これを買い戻す権利のある人が世界どこを見ても見当たらなかったのです。
ヨハネがむせび泣いているのは、今の世界の現状を見ているからです。到底、神が初めに造られた世界と遠く離れています。この世界を良くしようとする試みは歴史の中で何度も行なわれました。その度に裏切られました。むしろもっと悪い方向に進んでいきました。このような大きなスケールで考えなくても、身近な人で自分が、「この人とだったら人生が変わるかも」という期待をもって付き合っても、まったく正反対のことが起こった、ということがあったかもしれません。この世界において期待を持ちたい、何か良い方向に持っていってくれる人がいてほしいと願って、うめいているのですが、誰もいないのです。
5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」5:6 さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
しかし天にいる長老の一人が、イエス・キリストを指し示しました。「ユダ族から出た獅子」というのは、先ほど私が言及したユダに対するヤコブの預言にあるものです。獅子とは王権のことです。そして「ダビデの根」とあります。これはイザヤ書11章にある預言で、ダビデの父エッサイの根株から新芽が生えて、若枝が出てきたという預言です。これがキリストを現し、「主の霊がその人にとどまる」と書かれています。この方が勝利を得ました。つまり、死んだけれどもよみがえられたのです。さらに、「ほふられたと見える小羊」とあります。キリストはよみがえられましたが、その手足には釘の跡、わき腹には槍で刺された痕跡が残っています。この方が人の罪のために死なれて、それでよみがえったので、この方には全世界の権利証書の封印を解く権利を持っておられるのです。
この方だけが、世界を立て直すことがおできになります。なぜなら、立て直すには、一人一人にある根っこにある問題、罪を取り除かなければいけないからです。この方が自らの命を捨てられて、その罪を取り除かれました。ゆえに、この方にあって人々が立ち直り、それから世界も立て直してくださるのです。次回は、キリストを生み出したダビデの生涯が書き記されているサムエル記を学びます。