ルツ記4章5-6節 「贖いにある愛の物語」
アウトライン
1A 人に与えられた豊かな祝福
1B 神の創造
2B 人の支配
2A 罪によって売られた財産
1B 奴隷
2B 貧しさ
3A 人に近づかれた神
1B 対価を伴った約束
2B 愛による犠牲
4A 万物の回復
1B 教会の贖い
2B 世界の贖い
本文
ルツ記4章を開いてください、5−6節を読みます。午後礼拝では3−4章を学びます。
5 そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」6 その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」
私たちは今、ルツ記を読んでいます。士師の時代において、一人一人がめいめい自分勝手なことを行っていたので、人々は大きな混迷と混乱の中にありました。けれどもその同じ時代に、麗しい男女の物語を読むことができています。士師記においては、レビ人が自分のそばめがなぶりものにされているのに放っておいたのですが、ルツ記においてはボアズがルツに対して、細心の注意を払い、彼女を守っていました。暗闇の中に輝く光のように、ルツ記は異彩を放っています。なぜでしょうか?私たちは学びました、「周囲の状況や環境に左右されない、主なる神との人格的な関係を第一にする」という献身です。ナオミに対して示した真実、決められたこと以上に彼女の尽くしたルツですが、そのような真実な愛、尽くす愛をルツ記は教えています。
そして前回、ルツがボアズの畑で落穂拾いするところを読みました。ボアズは、ナオミの亡き夫エリメレクの近い親戚です。そこでナオミはルツに、ボアズのところに行くように言いつけました。ボアズがエリメレクの畑を近親者として買い戻すためです。イスラエルの律法では、神の与えられた土地を貧しいという理由で他の者に売り渡して失ってしまうことのないように、近親者がそれを買い戻さなければいけないことを定めています。
けれども、問題は、買い戻してもその畑にはエリメレクの名が残らないのです。なぜなら、エリメレクは自分自身が死に、また息子二人も死んでしまっているからです。そこで律法には他の掟があります。それは長男が死ねば、残された妻を次男また近しい男が娶ることによって、その名を残さなければいけないという掟です。そこで、息子の嫁ルツがいます。したがって、この二つの掟を合わせますと、エリメレクの畑を買い戻すにあたって、ルツを自分の妻とすることによって、初めてエリメレクの名を残すことができます。それを今ボアズは、もっとエリメレクに近い親戚に話したのです。
エリメレクにもっと近い親戚の人は、買い戻すことについては自分の所有の畑が少し増えることはやぶさかではないと思い、その取り引きに同意しましたが、ルツの存在を知ったときに退きました。なぜなら、自分自身がエリメレクの家系の中に入ることになり、そうすれば自分自身の畑もエリメレク家のほうに入ってしまうおそれがあるからです。ちょっと複雑な内容ですが、不動産の取引、また遺産相続の取引の内容だと思ってください。畑の買い戻しの後にルツも娶らなければいけないといったボアズは、相手が身を引くであろうことは織り込み済みでした。こんな不利な取引を相手がするはずはないことを知りつつ、話したのです。なぜか?彼はルツを愛しており、彼女また姑ナオミのためなら自分の全財産を売り払ってもよい、と思っていたからです。
ここに、実は麗しい神の贖いの物語が織り込まれています。「贖い」というのは、「買い戻す」という意味です。何らかの理由で売り払ってしまって他者のものになってしまったものを、対価を支払って買い戻すことを意味します。人が罪を犯して、失われた人間性、あるいは魂を、神がいかにご自分のものとするのか、ご自分のものを売り払ってでも犠牲を払って取り戻そうとしておられる話が、まさに聖書全体の物語です。
1A 人に与えられた豊かな祝福
先ほど話した二つの律法についてですが、神は興味深い情熱を、ご自分が造りだされたイスラエルの民に対して持っておられます。それは、カナンの地にイスラエルを住ませること。そしてその土地を所有させることです。その地を失ってしまうかもしれない様々な状況を考えて、どんなことがあってもその地からイスラエルの名が失われることのないようにしておられます。それが、先ほど話した、近親者が貧しい兄弟のために土地を買い戻さなければいけないという掟です。同じように、イスラエルの各部族、各氏族、そして各家族の名が失われることがないように情熱を注いでおられます。それで長男が死んでも、残された妻を次男、あるいは三男、あるいは血縁上近しい男が彼女をめとらなければいけないことを教えています。
1B 神の創造
なぜ神はそこまで、イスラエルに所有するもの、また自分の名の記されたものを残すことを強く願っておられたのでしょうか?それは、天地創造の初めに神が人を造られた時に意図しておられたことです。神は六日で天地を創造しましたが、六日目に最後に人を造られました。それは他のあらゆる創造物の中で、唯一、ご自分に似せたものを造りたいと思われました。神が万物を支配し、管理し、それを養い、秩序をもって保っておられるように、地上にあるものを支配することのできる存在を造られました。それが人です。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』(創世1:28)」被造物を秩序と平和をもって治めることが、人にとっての祝福であります。
そして「名」についてですが、これは所有と管理の印です。私は今なんと、住んでいるマンションの理事長になっています。いつも役員会が土曜日で私は礼拝のための準備で忙しいので代理で妻が出席していますが、あらゆる書類について理事長の捺印と書名をしなければいけません。行政の文書もみな同じですね。そこの区の区長の名と書名があるのです。
このように話すと、所有すること、管理することにあまり面白みを感じませんね。どうしてそれが祝福なのか?と。自分の私的な生活を楽しんだほうがよっぽど祝福だと思うかもしれません。けれどもそうではありません。社会の中に生きていて、数多くある人々の中のごく一人にしか過ぎない自分がいます。自分がその中でどうして生きているのか、どうして存在しているのか分からなくなるときがいます。人は動物とは異なるのです。人はもともと創造的に物事を考え、計画を立て、そして何よりも物事を管理して、治めていくところに存在目的があるのです。
2B 人の支配
そこでエペソ書1章を開いてください。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(3節)」神はキリストにあって、あらゆる霊的祝福で祝福したいと願っておられます。そして、そのために7節を見てください。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」ここに、ルツ記の鍵となる言葉「贖い」が出てきました。そして10節を見てください。「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。(10-11節)」」すべてのものがキリストにあって集められ、その国を私たちが受け継ぐ者にする、というのです。つまり神が初め人に与えられた、「地上のものを支配させる」ことを回復させてくださいます。
そして、名前について考えてみましょう。イエス様が悪霊を追い出すことができて喜んで帰ってきた弟子たちに対して、このように答えられました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:19-20)」また黙示録にはいのちの書が天にあり、そこに人の名が書き記されていることを話しています(13:8)。このことを知るのは安心することです。神に自分の名が忘れられていない、そして私が天に属しており、神に受け入れられていることを知ることができるからです。
けれども、それだけに留まりません。天に名が記されているということは、自分の名によって治める領域が神の国に用意されていることを意味します。自分が神に属しているだけでなく、自分に属している地の相続があることを教えています。イエス様は、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5)」と言われました。
2A 罪によって売られた財産
そしてイスラエルに神が与えられた律法には、贖いについて二つの事柄を挙げておられます。一つは貧しくなり、土地を売り渡さなければいけないとき、近親者が買い戻す時のことです。もう一つは、同じく貧しくなるのですが、土地をなくなった者が自分の身を売る、つまり奴隷となっているときの掟です。六年間仕えた後は七年目はその負債を免除しなければいけない、つまり解放されなければいけないと教えておられます(申命記15:12‐15)。
1B 奴隷
なぜイスラエルの民に、奴隷となってほしくないのか?自由の身でいてほしいのか?これも全人類に対する神のご計画があるからです。人は自由を得るために神によって造られました。けれども、自由に自分が生きていると思いながら、実は何かにがんじがらめになっている自分を発見します。何かから逃れるように生きているのですが、逃れた先が実は自分をがんじがらめにした所に振り戻っているのです。
それは、人がもはや自由でなかったことを意味しています。自分を束縛しているのはまさに「自我」であって、自分の内にある自己中心性なのです。聖書では、それを「罪」と呼んでいます。アダムが神に背いて、自分自身で判断して自分自身で生きていくと決め手しまったその性質が、子孫である我々人間にも遺伝子のようにして受け継がれているのです。ですから、赤ん坊の時から始めるのが我が儘です。そして大きくなれば、親が教えていないのに嘘をついたり、親の言いつけていることとは正反対のことをしたり、周囲の人をぶってみたり、誰からもそうしなさいと命じられていないのに、自ら行なうのです。それが間違っていることを知りながら、行ないます。これが生まれながら罪の性質を持っているからであり、その罪でがんじがらめになっているからです。
人は主体的な存在のようでいて、実は何かに縛られているのです。聖書ははっきりと、人は罪に従っているか、あるいは罪から自由にされたければ、神に従うかのどちらかしかないことを教えています。罪の奴隷状態から解放されるために神の奴隷になり、神から離れ自由になりたければ、罪の中でがんじがらめの生活をしなければならないと教えています。
2B 貧しさ
そして私たちは罪のゆえに、多くのものを失います。自分の尊厳を失っています。自らを破壊する方向へ進んでいきます。自らを虐げる方向へ走っていきます。物はあるかもしれませんが、もっとも大切な自分の尊厳、人間としての尊厳を失う貧者となっていきます。ラオデキヤにある教会に対してイエス様はこう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示3:17)」
3A 人に近づかれた神
ですから、ルツ記にはこのような壮大な人類に対する神の熱情を見ることができます。夫を失ったナオミ、そして同じく夫を失ったルツが共にベツレヘムで生活を始めました。エリメレクの畑は売り渡さなければならない状況です。当時の福祉制度になっていた、神の定められた落ち穂拾いをルツは姑ナオミのために一生懸命行なっていました。そこに目を留めたのがボアズなのです。彼は有力者です。裕福な人です。しかし、外国から来たこの貧者に対して心を留めます。
そしてボアズのほうから、彼女に声をかけます。企業の社長が、トイレ掃除をしている女性に声をかけているようなものです。その真剣に仕事をしていて、実は外国人で姑のために働いているというというような話を聞き、それで彼女に心を留めたのです。同じように神は、このようなちっぽけな私たちに心を留めてくださいます。
1B 対価を伴った約束
そしてボアズは、この貧民に対して多大な犠牲を払おうとしています。それは自分の土地を手放す覚悟で行なったことです。エリメレクの土地を買い戻すだけでなく、エリメレク家に残った女ルツをめとることによって、ボアズ自身がエリメレク家の者になっていくということです。これは大きな対価であり、犠牲なのですが、彼はルツとナオミを愛するがゆえにそれを行なったのです。
対価のないものには価値がありません。イエスがベツレヘムに生まれたときに、その子はいと高き方の子になると天使が前もって母マリヤに告げていました。イエスは神から来た方であり、実に神ご自身が人となられたのです。この方が成人し、公にご自身が神の御子でありキリストであることを示すための宣教を行なわれました。水のバプテスマを受けられた後に、神の霊はイエスを荒野に導かれました。四十日、飲むことも食べることもしなかったのですが、その後に空腹を覚えました。すると悪魔が誘惑したのです。「その石をパンに変えなさい。あなたは神の子であるからできるのだ。」イエスは拒絶されました。そして次に、神殿の頂につれていきました。「ここから飛び降りなさい。あなただったら天使を呼んで、助けてもらうことができよう。」これも拒まれました。
そしてついに、悪魔は世界の国々とその栄華を見せたのです。「私を拝むなら、これらをすべて差し上げましょう。」これは嘘ではなく、本当にできることでした。人が初めに神に対して罪を犯して以来、世界は人ではなく悪魔の支配下に置かれていました。度重なる災害、この世にある悪、これらのものは悪魔がこの世界を牛耳っている結果なのです。そして神の跡継ぎの子であられるイエスが、この世を救うため、キリストとして来られたイエスが、この申し出を断らない理由はありません。けれどもイエス様は一蹴したのです。なぜか?悪魔を拝む事はできないこと、そして対価を支払わなければ、この世界を贖うことはできないことを知っておられたからです。
イエス様はご自身のことをこう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:45)」ちょうど誘拐された人を、身代金を支払って解放されるように、ご自身の命を身代金のようにして、贖いの代価として支払うからこそ、人々を罪から解放することができ、また世界を回復させることができることを知っていました。
私たちは、こういうことは面倒くさいと考えます。目的が叶えられるのであればそれでいいではないか、受け取れば良いではないか、という哲学の中に生きています。ちょうど、自分で料理を作るのは面倒くさいから、外食で済ませようとするのと同じように考えます。目の前にそれが叶えられる機会があるのに、それをあえて逸することなどできるものかという考えがあります。けれども現代社会の中で、「対価を支払う」というところに真実があることを見失っているのです。
世の終わりには、即席ラーメンのようにすぐに目的を叶えられる霊が強く働きます。悪魔は再び、ある人物にイエス様がかつて受けた誘惑を与えます。「竜(悪魔)は、この獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。(黙示13:2)」そしてこの獣と呼ばれる人物は、数々の奇蹟を行ないます。さらに死んだように見えていたのですが、なんと生き返ってしまいます。それで世界がこの人物こそ、救世主だと称賛するのです。その後が悲惨です。彼が自分を神だと公言し、自分の像を造らせ、それを拝むように強いるのです。そして世界に住む人々は、彼を拝まなければ殺されるというおぞましい全体主義の中に突入します。
神の救いは、まったく無代価です。私たちが何かを行ったから救われるのではありません。神は、罪からの救いを、この世界からの救いを、ただキリストによって私たちに提供しておられます。けれども、それは安価な救いではないのです。いや、ものすごい高くついたのです。ご自身の子を死に引き渡さなければいけないという、とてつもない代価だったのです。このことを忘れないでください。私たちは恵みをそのまま受け入れるべきです。自分が何かしなければ受け入れられない、と考えるべきではありません。けれども、決して代価を忘れてはならないのです。キリストが死なれたという大きな犠牲があって、初めて今の自分がいるのです。
2B 愛による犠牲
なぜボアズは、自分の所有地を失うこともありえる、この買い戻しの取引を敢行したのでしょうか?専らルツを愛しているからです。愛というものは、いかなる犠牲も厭わない力を秘めています。
チャック・スミス牧師の本「愛 − さらにすぐれた道」には面白い逸話が載っています。アメリカ人の旦那さんは、しばしば自分の奥さんのために花束を買って帰宅します。チャックは、葬儀の司式を行ないました。それで、そこに飾られた、まだ新鮮な、美しい、大きな花束を譲り受けました。帰っていって奥さんのケイに見せると、「あなた、今日、葬式があったのね。」という素っ気ない返答だったそうです。確かに物理的には大きな花束で、自分が花屋さんにいって買ってきたものよりもすばらしいものなのです。けれども、そこには犠牲が込められていませんでした。
真実な愛には、労苦が伴い、犠牲が伴います。そして、それが犠牲だと思わないほど尽くす力を持っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3:16-18)」
そして、これは百匹の羊を飼っている羊飼いが、迷った一匹の羊のために九十九匹を置いて捜しに出かけるという、物理的な計算をしない犠牲です。しばしば世界宣教の話で、日本人は信じる人が少ないから、そこで宣教をする価値はないというようなことを言う人に出会います。実に愛とは何かを分かっていない人です。愛は計算しないのです、たった一匹の迷える羊を捜す羊飼いのように、この世界にたった一人しか仮に自分がいなかったとしても、神はご自分の独り子を二千年前に十字架につけて、よみがえらせたことでしょう。このキリストを私たちは宣べ伝えています。
4A 万物の回復
ルツ記の物語を、イエス様は一つの喩えの中で似たような話を語られたことがあります。マタイ13章44節にあります。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)」畑の中に宝物を見つけた人がいました。その宝があまりにも貴いので、買いたいと思いました。ところが、他人の畑の中にあります。法律上は、その畑の所有者のものです。ですから、宝を得るためには、その畑の区画全体を購入しなければいけません。それでこの人は、畑全体を、全財産を売り払って購入しました。畑が欲しかったのではありません。畑の中にある宝が欲しかったのです。
ボアズも同じでした。エリメレクの畑が欲しかったのではありません。ルツが欲しかったのです。けれどもルツはエリメレク家の嫁です。ゆえに、エリメレクの畑を買い取ることによって、その所有の中にあるルツをも得ることができました。
1B 教会の贖い
ここに、神の愛があります。神は、すべての被造物の中で人をこよなく愛されました。ご自分のかたちに似せて造られた人を愛されました。しかし、人は罪を犯したのでこの世の神である悪魔に売られたものとなりました。
けれども神が目を留めておられる人々が、世界の中にいます。ご自分が愛している者たちが、その中にいます。そのために神は、キリストをこの世界に遣わしてくださいました。キリストのいのちと言う財産を惜しまずに捧げてくださいました。そうすることによって、世界の中にいる愛された者たち、つまり教会をご自分のものとするためです。
2B 世界の贖い
それで世界も贖ってくださいます。この世界を回復してくださいます。キリストはこの世界を神のもとへ買い戻すために、この世界に来てくださいました。けれども、神の眼目は、キリストのうちにある者たちなのです。
ローマ人への手紙8章にこのことが書かれています。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(ローマ8:19-21)」被造物は今、呻いています。自然界は、天災や気象異常で苦しんでいます。このような世界は、実は初めに神のかたちに造られた人が現われることを待ち望んでいます。神の子どもが現われ、世界を治めるのを待っています。その初穂として救われたのが教会です。今は霊は救われていますが、自分自身、アダムから受け継いだ体を持っています。だから肉の思いと霊の思いの中で葛藤しながら呻いているのです。
けれどもキリストが教会のために戻って来られる日が来ます。その時にはキリスト者は今の卑しい体から栄光の体に変えられるのです。そしてキリストはその栄光の姿に変えられた者たちを引き連れて、この地上に再び来られます。その時に地上は天変地異を経験します。けれども、それは破滅への道ではなく刷新の道です。地球が一挙に、神の望まれる原状に回復するのです。そこでキリストにある者たちが、キリストと共に神の国を治めるのです。
このようにこの世界と宇宙を造られた神が、あなたを愛しておられます。ご自分の子を押しますに捧げるほど愛しておられます。そしてこの世界を回復して、それを治めてほしいと願われるほど愛しておられます。どうか、この方に近づいてください。この方を受け入れてください。