聖書全体の中で、イスラエルは神にとっての妻であることが書かれていますね。そこで、ユダヤ教においては伝統的に、神とイスラエルとの愛の関係を表していると考えています。そして新約聖書においては、教会がキリストの花嫁であることが書かれています。黙示録の最後22章には、花嫁が「来てください」と言ったら、「しかり、わたしは来る。」と主がお応えになっている場面が出てきますが、そのような愛のやりとりを雅歌は表している、と言います。
そのように私たちが、キリストに対してロマンスをもっと持つべきだ、という見方で読むこともできるでしょう。けれども、基本的には男と女が結びつくこと、その求愛から結婚の完成までを描いている、神が願っておられる男女関係、結婚関係として読むことができるでしょう。
ソロモンは箴言においても、伝道者の書においても、自分の妻を愛し、彼女を楽しみなさいと勧めています。他国人の女がいかに自分を突き刺し、自分を闇に連れて行き、痛みをもたらすものであるかを教えていました。その一方、妻との愛の営みがいかに喜ばしいものであるかを教えています。箴言5章18節と19節には、「あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。」とあります。
肉体関係については、私たちは世の中において、その歪められた情報をいつも見聞きしています。その反動もあって、私たちは性的な営みについてはすべてが悪であるという捉え方をしがちです。けれども、実は、神が願っておられるようにその性の営みを楽しんでいない、そこに最高の悦びがあるのにそれを体験していないことを、雅歌を読むと理解できます。
ヘブル書13章4節には、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。」とあります。結婚した男女にとって、寝床は尊ばれるものであり神聖なところです。神が地上に置いておられる制度において、ご自分とご自分の民との愛を一番よく表しているのが、結婚の愛です。
1A 交際 1−2
今日学ぶ前半部分、1章から4章まで ― 正確には5章1節までですが ― シュラムの女とソロモンの求愛から始まり、それが婚約、結婚へと発展し、最後に床入りする場面が書かれています。そして後半部分5章から8章には、結婚後の夫婦の愛について、その危機と回復、そして円熟へと向かう過程が書かれています。
1B 出会い 1
1C 女の憧れ 1−8
1:1 ソロモンの雅歌1:2 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、1:3 あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。
「あの方」とはソロモン王のことです。ソロモンを慕っている一人の女がいます。他の箇所で「シュラムの女」と出てきます。イスラエルの町の名前で「シュネム」があります。メギドがあるイズレエル平野の西側にあり、北はガリラヤ、そしてヘルモン山があり、レバノンがあるという自然に恵まれたところです。おそらく、シュラムはシュネムのことを言っているのでしょう。
そうすると、ここの女は、もしかしたらアビシャグかもしれません。アビシャグについての紹介は、列王記第一1章にあります。1節から読みます。「ダビデ王は年を重ねて老人になっていた。それで夜着をいくら着せても暖まらなかった。そこで、彼の家来たちは彼に言った。『王さまのためにひとりの若い処女を捜して来て、王さまにはべらせ、王さまの世話をさせ、あなたのふところに寝させ、王さまを暖めるようにいたしましょう。』こうして、彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を捜し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ろうとしなかった。(1列王1:1-4)」家来は、ハーレムの一人としてアビシャグを王のもとに連れてきましたが、王はそれを拒みました。アビシャグは専ら、王の介護を行なっていました。
これをソロモンは、ずっと見ていたはずです。父が死に、その後、兄弟たちの間に権力闘争がありました。父の息子アドニヤが、他のダビデの家来たちを自分に引き寄せて、父の死後、王権を自分のものにしようと企てました。けれども、ソロモンの母バテ・シェバと預言者ナタンによる俊敏な対応によって、その危機は免れました。ソロモンが無事に王として即位しました。
ソロモンはアドニヤに猶予を与えました。今度、歯向かうようなことをしたら容赦しないことを告げました。ところがアドニヤはハテ・シェバに、「本当は私が王になるはずでしたのに、主がそうされませんでした。その代わりと言っては何ですが、シュネム人アビシャグを私に妻としてくれませんか。」と頼んだのです。そんなたいしたことではないでしょう、と。ところがそれを聞いたソロモンは非常に怒りました。そしてアドニヤを討ち取らせました(1列王2章参照)。
このようにソロモンは、アビシャグのことでかなり強い反応を示しました。王位が危ぶまれることもあったでしょうが、それだけではそんなに強い反応はしません。ソロモンは彼女を愛していたのであろうと思われます。
ソロモンは晩年、700人の妻と300人のそばめがいました。けれどもそのほとんどは、周囲の諸国との平和を保つためのものでした。その王の娘などと結婚する、つまり政略結婚でした。けれども、その中で彼の本命、本当に愛していた女がいたのです。
この1節から3節では、シュラムの女がソロモンを恋い慕って、あこがれている姿が描かれています。興味深いのは、彼の愛や彼の名がぶどう酒よりもまさると言っている点です。名前は聖書ではしばしば、その人の人格、性格そのものを表します。その人の外見以上に、その人の持っている富以上に、その人自身が慕わしいものになっているかどうか、これが本当の愛の始まりです。
1:4 私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。
ここに「私たち」とありますが、雅歌において歌をうたっているのは、シュラムの女、ソロモンの他に、次の5節にも出てくる「エルサレムの娘たち」がいます。ちょうどオペラのような形式で、ある人が独唱し、そしてまた別の人が独唱し、その合間に合唱団が合唱する、ように歌が進行します。彼女たちは、まだ結婚していない、結婚をいつかするであろう乙女たちを表しています。
今、シュラムの女は、自分がソロモンの特別な愛の注目を受け、彼の個室に連れて行かれることを願っています。
そして次から、彼女がソロモンに会って間もない時のことを話しています。
1:5 エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい。1:6 私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。
ここの「自分のぶどう畑」とは、自分自身のことです。彼女に兄たちがいたのでしょう、そして少女である彼女に母からのお手伝いを押し付けて、彼女はいつも外にいました。そのための日焼けが取れなくなっていました。
本来なら、女性なら自分の肌や容姿に気をつけたいです。けれども、働いてそんな世話もできなかったことを話しています。王の傍にいる女たちは、宮殿で生まれ育っているので、肌は白いでしょうが、アビシャグは家来たちがイスラエル中を巡って、一般の国民から抜擢した女の子です。自分の容姿について、引け目を感じていたのでしょう。
1:7 私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。
「顔おおいをつけた女」とは遊女、売春婦のことです。ユダの嫁ティムナが、ユダによって子を宿すために遊女の格好をしましたが、その時、彼女は顔をおおっていました(創世38:15)。ソロモンには自分が飼っている羊、つまり自分の正式な妻たちがいるのに、彼女はそのような守りがありません。よそ者のようにして宮殿にいなければいけません。その不安を、彼女は、「まるで自分は遊女のようだ。」と言い表しているのです。
男の人が、女の人について知らなければいけないことは、「安心」です。または「保証」です。女の人は、自分を愛している男の人から守られているという安心感と保証が必要なのです。いつも自分の妻、あるいは彼女を守り、かくまい、ほめて、彼女を養わなければいけません。エペソ書5章に、夫が妻を自分のからだのように愛さなければいけない、と書いてあります。私たちがキリストの愛を知るとき、キリストが私たちの不安をすべて覆ってくださり、完全な安心感を与えておられるのと同じように、です。
そこでソロモンは、彼女に、安心させ、保証を与える言葉を話します。
1:8 女のなかで最も美しい人よ。あなたがこれを知らないのなら、羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
自分の肌の色を気にしている彼女に、「女の中で最も美しい」と言っています。そして、私の女たちの中に入って子やぎ、すなわち自分自身を養いなさい、と励ましています。
2C 男の称賛 9−17
そして次にソロモンは、シュラムの女を非常に強い言葉で褒め称えます。
1:9 わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。1:10 あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。
古代エジプトにおいては、戦車はいつも雄の馬が引っ張りました。ですから、その中に雌馬がいれば、その華麗さで注目を浴びます。つまりソロモンは、「あなたは肌黒い卑しい女ではない。一番の美人だ。周囲の人々の目を奪うほどの美しさを持っている。」ということです。
1:11 私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。
エルサレムの娘たちが、彼女を着飾るのを手伝っています。
1:12 王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。
ソロモンの言葉によって、彼女は一挙に自分自身の見方を代えます。彼女はソロモンの愛のゆえに、自分から香りが、つまり美しさが放たれている、と言っています。
1:13 私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。1:14 私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。
ソロモンがいかに自分にとって特別な存在であるかを言い表しています。
1:15 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。
ソロモンも彼女の言葉に呼応して、彼女がどんなに美しいかを、再び言い表します。そして彼女の穏やかさを「目が鳩のようだ」と言い表しています。
1:16 私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。1:17 私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。
ソロモンにほめられることによって、彼女はますます彼を恋い慕います。ここの「長いいす」は「寝床」と訳すことができる言葉です。彼女は肉体的な交わりを慕い求めはじめています。
しかし、今、読み進めれば分かりますが、二人は結婚式の後まで、このような激しい感情の行き交いはあるものの、決して肉体関係には至りません。いや、むしろ、この抑制された恋愛感情こそが、結婚した後の夫婦の一体を最高のものとします。
結婚まで待つというのは、単なる禁欲ではなく、むしろかえって、神が与えてくださった賜物を十分に楽しむことにつながるのです。
2B 付き合い 2
1C 互いの敬愛 1−7
2:1 私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。
シュラムの女は、自分のことをこう表現しています。美しいけれども、至るところに見ることができる穏やかな美しさです。
2:2 わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。
ソロモンは、その美しさこそが、他の女たちの中で際立っていることを話しています。そうだ、確かに百合の花かもしれない。けれども、あなたが百合の花なら他の女たちは茨のようだ、ということです。そこでアビシャグも、ソロモンのことを同じように褒めます。
2:3 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
他の男たちは雑木林だ。けれどもあなたは、その中のりんごの木のように甘い存在です、と言っています。「その陰に座りたい」と彼女は言っていますね。日々の生活を歩んでいる中で、日に当たるような経験、ストレスや不安を生じさせるような外的要因がある中で、ソロモンのところにいれば本当にほっとできて、休むことができる、ということです。
2:4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
ソロモンは、公の場でも彼女を守ります。「旗印」とは戦いの時に使う、あの旗です。ソロモンは、公の場においても彼女を自分の愛する者として認めます。私たち男はとかく、私的な場においては妻を恋い慕っても、公の場においては、「散歩下がって歩きなさい」とばかりに彼女を目立たないようにさせます。しかし聖書的な愛は公の場でも彼女を認めさせるのです。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。2:6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。
愛に病んでいる・・・分かりますね。あまりにも愛しているので、体のエネルギーがそれに吸い取られているのです。そして、彼が自分を抱いてくださればよいのに、と言っています。けれども彼女はとてもタイミング、時期を大切にします。
2:7 エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。
かもしかや雌鹿は、非常に敏感な動物です。ちょっとした物音で飛び跳ねて逃げていきます。その動物に誓って、私を揺り動かしたり、かき立てたりしないで下さい、とお願いしています。つまり、ソロモンへの想いは非常に敏感で繊細なものなんだ、ということです。
「愛が目ざめたいと思うときまでは」とあります。目ざめる、つまり恣意的に起こすことがあってはならない、ということです。彼女は時を待っているのです。
この言い回しはまた後で出てきます。そして結婚式を挙げ、初めての夜を過ごした後には出てきません。つまり、愛が目ざめたいと思う時とは結婚のことです。その時に向かって、彼女は非常に敏感になり、繊細になっているのだ、ということです。肉体関係と結婚という契約関係は、密接に結びついている、というか、一つになっています。待って、待って、そしてその人に自分の一生涯を捧げるという誓いをした中で床入りする時に、結婚の奥義を私たちは知ることができます。
私たちも今、花婿であられるキリストを花嫁のようにして待っています。そしてその間、私たちは主に忍耐によって自分がきよめられ、整えられています。もし、この期間を飛ばして、主にお会いできたところで、私たちの喜びは半減してしまうことでしょう。主にお会いするということは、自分を清めることに他なりません。主との霊による交わりを深めることに他なりません。
2C 二人の思慕 8−17
2:8 愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。2:9 私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。
ここは、シュネムにいるアビシャグのところにソロモン王が訪ねに来ているところを描いています。デートをするためです。
彼が、かもしかや若い鹿のようであると言っています。無理やり彼女を引っ張るのであれば、他の猛獣を比喩にしたのでしょうが、彼女のことを気遣って、様子を伺っているところで、かもしかや鹿のようであるのです。
2:10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。2:11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。2:12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。2:13 いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
ソロモンは、もう時が熟していることを話しています。交際を始めてから、しばらくの月日が経ちました。それが熟する時が来ている、ということです。
2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
ここに、シュラムの女の優しさと控え目な態度が表れています。そして彼女はそこから出て行きます。
2:15 『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」
私たちだけのデートを邪魔する者は、みな出てゆけ、ということです。ぶどう畑は、二人だけの語り合いであり、触れ合いです。これまで離れ離れになっていて、十分、その恋が実ることを待っていた。そして今がその時なのだから、ここで妨げになるものは全て取り除けたい、ということです。
2:16 私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
二人が互いの所有権を主張しています。これが夫婦になる男女の関係です。夫婦になってからは、使徒パウロは、互いの体はもはや自分だけのものではないことを話しています。「妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(1コリント7:4)」
このように互いが互いの間の中にいる状態は、小羊の妻である天のエルサレムで実現しています。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、(また彼らの神となり)・・・(黙示21:3)」私たちは神と小羊と、霊において一体になるのです。
2:17 私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。
ソロモンが去っていくと、またすぐに来てください、という待ち焦がれる思いです。少しでも離れていれば、落ち着かなくなります。
2A 結婚 3−4
そしてまもなく結婚の段階に入ります。シュラムの女とソロモンは、すでに婚約を済ませているようです。この時がこれまで以上に、繊細で敏感です。なぜなら、互いの決意が本物であるかどうか試される時だからです。
1B 婚約 3
1C 別離の痛苦 1−5
3:1 私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
これは夢の中の出来事です。けれども、アビシャグが恐れている不安を実によく表しています。ソロモンがいなくなる、ということです。
3:2 「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。3:3 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」3:4 彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。
捜しても捜しても、なかなか見つかりませんでした。けれども、ついに見つけました。そして彼女はソロモンを、もっとも奥深い所へと連れて行きます。自分の母の家の中です。自分のもっとも安心できる部分、赤ん坊から育ち、幼い時期を過ごしたところ、ここに彼を連れて来れば、これほど安心できるところはありません。
私がこれまで結婚のことを真剣に考えている男女を見てきて、やってはいけないことをやっている男性の姿をよく見ました。それは優柔不断な態度です。女性は自分のすべてを投げ打って、男性にささげようとします。大きな不安もいっしょにして、男性に寄りかかろうとします。ところが男性は、それが大きな圧力となってのしかかってきます。しかし、このときその重荷を持ってあげなければいけません。しかし、男性はその女性の強い献身に耐え切れなくなり、結婚を破棄しようとします。このような姿をよく見ました。
しかし女性は、これから自分のそばにいて、自分を助け、自分に一生涯ついてきてくれるのです。そんな人の不安をどうして受け止めてあげることができないのでしょうか?なぜ自分のことだけを考えて恐れを抱くのでしょうか?ここのアビシャグの悪夢から学びましょう。
3:5 エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。
先ほどと同じ言い回しです。結婚式を経るまで、その直前まで、揺り動かしてはいけないのです。この緊張状態が本当に大事なのです。
2C 花婿の行進 6−11
そしてソロモンが、シュラムの女を引き連れにやって来ます。ユダヤ人の結婚は、初めに婚約があり、それは法的には結婚と同じぐらい拘束力があります。そして今度は、花婿が花嫁の家に行列を組んでやってきて、花嫁を迎えて自分の家に連れて行きます。それから結婚式です。結婚式の後は一週間ぐらい披露宴が続きますが、その式の後の夜は夫婦が共に過ごし結婚が完成します。
そして6節からは、ソロモンが花嫁を引き取りにやってくる場面になります。
3:6 没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。3:7 見なさい。あれはソロモンの乗るみこし。その回りには、イスラエルの勇士、六十人の勇士がいる。3:8 彼らはみな剣を帯びている練達の戦士たち。夜襲に備えて、おのおの腰に剣を帯びている。
ソロモンは王です。ですから彼を守る勇士たちが、彼が乗るみこしを守っています。キリスト教の結婚式では、花婿のところにウェディングドレスを着た花嫁がやってきて、花嫁に注目が寄せられますが、ここでは王自身がやってきて、その栄光と力強さに焦点が当てられています。
これはちょうど、教会の携挙のときのようです。キリストが来られる時、その周りには天使たちの軍勢がいます。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。(1テサロニケ4:16)」
3:9 ソロモン王は、レバノンの木で自分のためにみこしを作った。3:10 その支柱は銀、背は金、その座席は紫色の布で作った。その内側はエルサレムの娘たちによって美しく切りばめ細工がされている。3:11 シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。ご自分の婚礼の日、心の喜びの日のために、母上からかぶらせてもらった冠をかぶっている。
王としての威厳と栄光に富んでいます。
2B 床入り 4
そして場面は婚礼を終えて、二人だけとなって床入りへと移ります。ソロモンは、花嫁の美しさに完全にうっとりとします。
1C 花嫁の美 1−7
4:1 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、4:2 あなたの歯は、洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。
何と言う表現でしょうか!アビシャグがいるシュネムのあたりは、このような家畜や自然に富んでいます。それらの風景の描写の、ありとあらゆるものを使って彼女の各部分を見て、眺めます。
4:3 あなたのくちびるは紅の糸。あなたの口は愛らしい。あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。
彼女はまだ、顔おおいをしています。覚えていますか、イサクの花嫁リベカが、初めてイサクを目にしたとき、彼女はすかさず顔を覆いました。これから花嫁としてイサクのところに入るためでした。
4:4 あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。その上には千の盾が掛けられていて、みな勇士の丸い小盾だ。
すらっとした首筋です。そしてまた、首飾りでいっぱいだったのでしょう、それらを盾と例えています。
4:5 あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。
ここで胸の描写です。男性が大抵始めに飛びつくのは女性の胸ですが、本当の愛は女性のすべてを見ます。
4:6 そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。
先ほど、デートをしていたときに彼女が、「私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。 (雅歌2:17)」と言いました。ソロモンは今、それに応答しています。今こそ、あなたが願っていたことを私は行なうよ、ということです。
4:7 わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。
ソロモンは彼女のすべてを眺めました。一つ一つ、じっくりと見ました。それで、すべては美しく、何の汚れもない、と言っています。これが花婿が花嫁を見るときの目です。主が私たち教会を引き取られるときも、同じように私たちをご覧になられます。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:27)」
2C 夫の愛 8−5:1
4:8 花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りて来なさい。
ここからソロモンは彼女を、「花嫁よ」と呼びます。また「私の妹よ」と呼びます。
そして「レバノンから来なさい」というのは、彼女が住み慣れたイスラエルの北部から出てきて、私の宮殿に住みなさい、ということです。これから生涯に渡って、夫に従っていくという決断をするのです。夫に結ばれようとしているのです。
妻と夫の間には、神とキリストによって、誰にも引き離すことができないようにされます。それは親であっても立ち入ることができない結びつきです。自分が慣れ親しんだ故郷であっても、その関係を揺るがすものであってはいけません。父母のことも大切です。けれども優先順位は自分の相手なのです。
イエス様は、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26)」という激しい言葉を言われました。けれども、「憎む」という言葉を使わない限りは言い表すことのできない、主イエス・キリストのみを愛する愛があるのです。
4:9 私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。
きよく、そして整えられた花嫁の姿に心が奪われてしまいました。
4:10 私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。
これが、彼女が初めソロモンに対して抱いていた想いです。彼女が、今その想いをソロモンにすべてぶつけてきているので、ソロモンが同じように慕う心を持って反応しています。
4:11 花嫁よ。あなたのくちびるは蜂蜜をしたたらせ、あなたの舌の裏には蜜と乳がある。あなたの着物のかおりは、レバノンのかおりのようだ。
接吻から愛撫が始まりました。
4:12 私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。4:13 あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、4:14 ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、香料の最上のものすべて、4:15 庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。
12節の部分は、彼女が処女を守ってきたことを意味しています。一番隠されて、守られてきた部分です。隠され、守られ、閉じられていたからこそ、もっとも愛している人に開かれると、そこからあらゆる艶やかさが出てきます。
4:16 北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように。
シュラムの女は、自分がこれまで固く守ってきたものを、ソロモンの前ですべて全開になるように、咲き乱れるように願っています。そしてソロモンもこれに応答します。
5:1a 私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。
私も十分に楽しむよ、ということです。そして次に興味深い呼びかけがあります。
5:1b友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め。
婚宴は一週間続きます。二人が初めての夜を過ごしているときも、友たちは宴を楽しんでいます。今、二人にとって最上の悦びに達したことを、彼らにも知ってほしいという意味です。
もちろんこれは、友人たちに自分たちの姿を見てほしい、ということではありません。二人だけの営みです。けれども、これは皆が認めるところの営みです。そして何よりも、神が認めておられ、神が喜んでおられる営みです。
結婚における男女の関係は、このように恥ずかしくもなく、良心をきよく保ち、豊かに祝福されて保たれます。また、肉体的な結びつきを望みながらも、それを結婚という完成のときまでじっくりと待ち、その完成のときまでじっくりとその愛情を育てるという悦びもあります。抑制するところにあるロマンスとでも言いましょうか。この世がまったく別のことを教えているので、夫婦の関係、結婚があまりにも色あせて見える中、雅歌は輝いています。
次回は、結婚生活が始まった後の夫婦に訪れる危機からスタートします。
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