雅歌5−8章 「夫婦の円熟」
アウトライン
1A すれ違い 5−6
1B 愛の悩み 5
1C 片方の倦怠 2−8
2C いとしい人 9−16
2B 仲直り 6
1C 妻の服従 1−3
2C 夫の感動 4−13
2A 昇華する愛 7−8
1B 開放された関係 7
1C 全身の美 1−9
2C 妻の率先 10−13
2B 家族のような関係 8
1C 母の乳房 1−4
2C 出産の家 5−7
3C 兄たちの愛 8−14
本文
雅歌5章を開いてください。今日は最後、8章まで学びます。ここでのテーマは「夫婦の円熟」です。前回の学びにおいて、雅歌の前半部分を学びました。ソロモンと一人の女、おそらくはアビシャグが求愛をして、結婚し、床入りをするところまで学びました。今回の後半部分では、その後の話をします。
私が通っている教会の牧師が、こんな面白いことを話していました。「巷では、どのようにして結婚相手を探すのかという内容の本が売られているが、どうやったらむつまじく結婚生活を続けられるのかについての本は出ていないね。」恋愛や、結婚に至るまでの大事な期間については多くが語られますが、その後の夫婦の生活がそれ以上にいかにすばらしいものかが、あまり語られません。結婚後の生活が倦怠や無関心という話題の中で語られ、また、夫婦関係よりも子育てに目が向けられているせいではないかと思います。
そして私がアメリカにいたときに、驚くような祈りを聞きました。もう40代、50代になっているであろう牧師のためにスクール・オブ・ミニストリーの学生が祈るときに、「どうか奥様との間のロマンスをますます燃え立たせてください。」というものです。求婚、結婚、新婚の時にあった愛情以上の愛をもって二人が燃え上がることができますように、という大胆な祈りです。けれどもこれは決して、アメリカ人だから祈れることではなく、聖書的な祈りであることを私たちはこれからの雅歌を通して学ぶことができます。
また同時に、私たちがキリストに愛され、そして私たちがキリストに従うという愛の関係についても考えることができます。
1A すれ違い 5−6
1B 愛の悩み 5
前回は5章1節まで読みました。今日は、二節から始めます。
1C 片方の倦怠 2−8
5:2 私は眠っていましたが、心はさめていました。戸をたたいている愛する方の声。「わが妹、わが愛する者よ。戸をあけておくれ。私の鳩よ。汚れのないものよ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」
今、再びアビシャグは夢の中の話をしています。この出来事は実際には起こっていなかったであろうと思われますが、けれども彼女の心理状態をよく現している出来事であり、実際の夫婦生活でも起こっていたであろうことです。
場所は、王の妻たちや側室たちが寝る、特別な寝室です。そこはもちろん個室になっていまして、鍵があります。だから今、ソロモン王が戸を叩いて「戸をあけておくれ」と頼んでいるのです。そして、ソロモンは露また夜のしずくで濡れている、ということはかなり夜更け、あるいは朝方になっているのではないかと思われます。
5:3 私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。
当時の家の部屋は、家に戻ってくるたびに足を洗うのですが、ドアのところまで行ったら、また寝床に戻るのに足を洗わなければいけないという手間がかかる、ということです。だから彼女は「今晩はもう駄目」という断りを言ったのです。
5:4 私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。
戸の穴から手を差し入れる、というのは、ちょうど今のドアでいうとドアチェーンを外そうとする状態です。ドアの内鍵を外から開けようとしましたが、上手くいきませんでした。
5:5 私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。
かんぬきには、ソロモンが滴らせた没薬の液がありました。没薬は夫の愛情が、夫婦の営みをしたいという意思表示が表れています。
5:6 私が、愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。
アビシャグはようやく自分のしていたことに気づきました。「私は夫の気持ちにきちんと応えていなかった。」と。けれどもその時にはもう遅かったのです。夫が遠くから何か言葉を発したのでしょう。その言葉を聞いて、彼女はショックを受けました。夫婦のすれ違いを私たちはここで見るのです。
これは夫婦である人ならば誰でも通っている経験です。二人が必ずしも同時間に時を過ごしたいと思うのではありません。一方が疲れています。夫婦の時を過ごす体力、気力はありません。けれどもそこで応答しなければ、夫婦の関係に亀裂が走っていくのだよ、という警告がここにはあります。
パウロがコリントにある教会に、次のように手紙を書いています。「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。(1コリント7:3-5)」
なぜ姦淫という罪を犯してしまうのでしょうか?それはもちろん、私たちの罪の性質があるからなのですが、その罪は単に肉の欲望を抑えられなかったという自制の問題だけではなく、夫婦の義務を果たしていないという罪があるからです。夫婦になるということは、同じ屋根の下に住むということだけでなく、肉体関係においても義務が生じます。これからアビシャグとソロモンの回復と、その間にある深い性的結びつきを読みますが、睦まじい夫婦生活があるからこそ罪から離れることができるのです。
これは、主と私たちとの霊の交わりについても同じことが言えます。なぜ私たちが罪を犯してしまうのか?それは、主との初めの愛から離れてしまっているからです。主との霊による愛の関係が薄れているときに、罪の楽しみ、世の楽しみに引き寄せられ、罪を犯してしまいます。もちろん罪に抵抗することは大事ですが、それ以上に、主との愛の関係をどれだけ育むのかが問われているのです。
5:7 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。彼らは私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。
これは彼女の良心の呵責を表しています。夢の中のことですから、実際に彼女がぶたれてはいません。また、王の妻を表す「かぶり物」をはがされてはいません。けれども彼女の罪意識が、そのような夢を見させたのです。
5:8 エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。
彼女は、ソロモンへの愛を回復させています。「愛に病んでいる」と言っています。ソロモンに抱いていたけれども、自分の怠慢によって土に埋めていたソロモンへの愛情を再び掘り起こしています。
2C いとしい人 9−16
5:9 女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。
アビシャグがエルサレムの娘たちに、「あの方を探してください」と頼みました。これから彼女たちもいっしょにソロモンを探しにいくのですが、その前に「他の男の人より何がすぐれているのか。」と聞いています。
これは、単なる質問ではなくて、アビシャグにソロモンへの想いをはっきりさせてあげたいと思っているからです。「愛に病んでいる」と彼女が言ったその愛が、どのような愛なのかをはっきり口に出して、その意識を呼び起こしたいと願っているからです。
エルサレムの娘たちは、「女のなかで最も美しい人よ」とアビシャグのことを呼んでいます。これはかつてソロモンが、彼女と付き合い始める時に、肌が浅黒くて、宮廷の生活でも蚊帳の外にいて不安になっていた彼女に対して、彼が発した言葉です。結婚してかなり時を経ているのに、求愛し始めたときの言葉を彼女に呼び起こしてもらいたかったのです。
5:10 私の愛する方は、輝いて、赤く、万人よりすぐれ、5:11 その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く、5:12 その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。
これはもちろん、実際の容姿だけではなく、ソロモンから放たれている輝きを比喩的に表現しています。彼が実際に赤く輝いて、また純金だということではありません。
そしてアビシャグは、頭から下に向かって彼のすばらしさを眺めています。頭から髪の毛、それから目です。目の表現がいいですね、乳で洗われた鳩の目というのは純粋な目、ということです。
5:13 その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。
これまで接吻をし、じっと見つめていたソロモンの顔には、甘美さが漂っています。
5:14 その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。5:15 その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。
レバノンの杉は、そのすばらしさで有名です。神殿を建てるときも、レバノンからわざわざ杉を輸入して作ったことを思い出してください。現代でもレバノンの国旗には杉があり、今でこそ内戦で荒れてしまっていますが、その自然はものすごく美しいです。
そして彼女はソロモンの体を、金であるとか、宝石であるとか、大理石であるとか、また輝きが赤いルビーのような輝きとして表現しています。似たような容姿で描かれている人を私たちは知っています。そうですね、私たちの主イエス・キリストです。「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。(黙示1:13-15)」
5:16 そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。
最後は容姿ではなく「言葉」です。言葉が甘いぶどう酒のようであるのですが、ソロモンがどれだけ彼女に甘い言葉をかけていたかがわかります。妻は弱い器であることをペテロが手紙の中で言っていますが、言葉において男性より繊細です。私たち男なら気にならないようなことも、女性はとても傷ついたりします。だから男の役目は、彼女を言葉で守ってあげることです。それが、夫が妻にしてあげることです。
そして彼女は「すべてがいとしい」と言っています。この「いとしい」の言葉は原語のヘブル語で複数形になっています。つまりものすごく強調しているのです。私たちが伴侶を見て、このように言えるでしょうか?言えるのであれば、まだ初恋のころの愛情が生きていることの証拠です。
2B 仲直り 6
1C 妻の服従 1−3
6:1 女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたといっしょに捜しましょう。
エルサレムの娘たちの掛け声です。
6:2 私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました。庭の中で群れを飼い、ゆりの花を集めるために。
伝道者の書2章4−5節によると、ソロモンはぶどう畑や庭園を造る事業を持っていたことが書かれています。ソロモンはそこに行った、と言っています。
6:3 私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
以前彼女は、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。(2:16)」と自分の所有権を主張しました。ソロモンは私のものになった、という一体感の悦びを表していましたが、ここではまず、自分がソロモンのものになっていることを表明しています。
ここにアビシャグの、妻としての成長があります。夫といっしょにいることができるという喜びだけではなく、それ以上に自分が夫のものになれている、という喜びがあるのです。妻は、夫に従いなさいという勧め、夫は妻のかしらであるという秩序が、それぞれエペソ人への手紙、コリント第一に書いてあります。
結婚の後、夫は忙しくなります。仕事があります。ソロモンは夜遅く家に帰ってきて、また今もゆりの花の間で群れを飼っている、とありますが、普通の王の業務をしているのかもしれません。けれども妻は待ちます。「私は、私の愛する方のもの」と言って待つのです。これが、夫にとってどれだけうれしい言葉でしょうか。これだけ自分に対して自分をささげてくれていることを知れば、夫は妻の愛を感じます。
2C 夫の感動 4−13
次からソロモンのアビシャグに対する言葉になります。
6:4 わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。6:5a あなたの目を私からそらしておくれ。それが私をひきつける。
ティルツァは、北イスラエルにある町ですが、その自然と水の豊富さで知られています。そして、ソロモンはあまりにも彼女が美しくて見ていられないぐらいだ、と言っています。このようにソロモンはアビシャグのことを、前と同じように慕い、その美しさをほめています。
6:5bあなたの髪は、ギルアデから降りて来るやぎの群れのよう、6:6 あなたの歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのようだ。それはみな、ふたごを産み、ふたごを産まないものは一頭もいない。6:7 あなたの頬は、顔おおいのうしろにあって、ざくろの片割れのようだ。
この言葉は、結婚して床入りをするときに、花嫁アビシャグについて描写したときと同じです。つまり結婚して何年も経っても、結婚当時と同じように美しいことを彼はいま述べています。私たちはこのように自分の妻を見ることができるでしょうか?妻の美しさは若い時だけなのでしょうか?それとも今、その美しさはさらに増しているでしょうか?
6:8 王妃は六十人、そばめは八十人、おとめたちは数知れない。6:9 汚れのないもの、私の鳩はただひとり。彼女は、その母のひとり子、彼女を産んだ者の愛する子。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、そばめたちも彼女をほめた。
どれだけ数多く王妃、側室がいてもあなたは自分にとって特別な存在だよ、と言っています。しかもそれらの王妃たち、そばめたちが、彼女を認めています。「あなたは私にとってきれいだけど、客観的に見たらそうでもないからね。」ではないのです!二人だけでいるときも、そして皆の前にいるときも、夫は妻を守って、ほめます。
6:10 「暁の光のように見おろしている、月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」
再び、あまりにもその美しさがまぶしくて、恐ろしいぐらいだと言っています。
6:11 私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。6:12 私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。
先ほど、あの方は庭にいらっしゃると言っていたので、今、庭にやってきました。その時にソロモンが彼女を人車に乗せたのです。
6:13 帰れ。帰れ。シュラムの女よ。帰れ。帰れ。私たちはあなたを見たい。どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように。
戻されたアビシャグが、王の妻として、特別な愛を受けた人として人々に迎え入れられています。この「二つの陣営の舞」というのは、マハナイムの舞いと訳すことができますが、かつてヤコブが生まれ故郷に帰るときに、エサウに会う前に御使いたちが彼の周りにいました。自分たちの群れだけでなく、天からの群れ、つまり二つの陣営があることをヤコブは知ったわけですが、そのように自分が守られ、喜ばれていることを表す踊りがマハナイムの舞です。先ほど夜に通りに出て、打ち叩かれ、覆いをはずされた傷を離していましたが、今、元のところに引き上げられています。二人の関係の修復です。
また、ここの「シュラム」は、以前「シュネム」の派生ではないかと話しましたが、それだけでなく「ソロモン」の女性化がされた名詞でもあります。つまり「ミセス・ソロモン」と言う意味にもなります。ソロモンの女としての地位が表れています。
2A 昇華する愛 7−8
そして二人の関係が、ますます深められます。次からの場面は、幼い子には読ませないほうが良いところかもしれません。実際、ユダヤ人の子は13歳のミツパ(成人式)になるまで雅歌は読ませてもらえない、と聞きます。
1B 開放された関係 7
以前の結婚式の後の床入りのときを思い出して、それと比べながら読んでみてください。
1C 全身の美 1−9
7:1 高貴な人の娘よ。サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ。あなたの丸みを帯びたももは、名人の手で作られた飾りのようだ。7:2 あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯。あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。7:3 あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、二頭の子鹿。7:4 あなたの首は、象牙のやぐらのようだ。あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っているレバノンのやぐらのようだ。7:5 あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。
今、アビシャグは、サンダル以外はすべて裸体になっています。そしてソロモンにその体を完全に見せています。以前は花嫁衣装を着ているアビシャクを頭から胸へと観ましたが、今は足から上へ順番にじっくりと見つめています。
非常に開放されています。非常に、というよりも、完全に開放されています。夫婦の間にある関係は、このように完全に開かれたものです。何物をも妨げにならないし、してはいけない、完全に開かれたものです。
そしてこの関係が、アビシャグのソロモンへの完全な献身、そしてソロモンのアビシャグへの熱いまなざしに基づいていることに注意してください。私たちが互いに完全に自分を従わせているところにこそある、二人の深い交わりです。私たちが他のところに目をやっているのであれば、そこに恥が入り込み、完全に楽しむことはできません。
7:6 ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。7:7 あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。7:8 私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。
あなたを見るだけでなく、実際に触って楽しみたい、ということです。
7:9 あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」
これは実際には、ソロモンではなくてアビシャグの言葉でしょう。ソロモンがいま言った、アビシャグへの言葉が「良いぶどう酒のようです。その言葉が私の愛に対して、なめらかに流れています。」と彼女が応えています。
そして、「眠っている者のくちびるを流れる。」と言っていますが、二人が完全に愛に酔いしれた後の睡眠が完全に満足のいくものだ、ということです。何の恥じらいもなく、恐れも不安もなく、良心の呵責も感じることなく、完全な満足と安心感のもと眠りにつくことができます。
これが、神が結婚を祝福してくださっている方法です。その他の方法ではこのような満足は与えられません。むろん罪は楽しいですから、一時的なものはあるでしょう。けれどもあくまでも一時期だけです。結婚という、一生涯を共にする深い献身と結びつきの中にこそ、完全な満足が与えられます。
2C 妻の率先 10−13
7:10 私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。7:11 さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。
再び彼女は、自分が夫のものであるという発言をした後に、夜を過ごしましょうと誘っています。床入りをしたときは、ソロモンが率先しました。これまで堅く閉ざしていた戸を、夫に初めて開くわけですから、夫が率先します。けれども結婚後、女性のほうが率先するぐらい、大胆であり、開かれた関係になっています。
7:12 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。7:13 恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。
この畑は、彼ら二人が会う特別なところでもあるし、また、アビシャグが自分自身の体のことを話してもいます。咲き乱れている花が二人のロマンスを象徴しています。
2B 家族のような関係 8
そしてアビシャグは、このような開かれた関係が公のところでは表現できない苦しみを言い表しています。
1C 母の乳房 1−4
8:1 ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに。
ここの口づけは、単なる挨拶程度のものではなく、愛する男女が行なう類のものです。けれども、親密な触れ合いを公の場で許されるのは、中東においては家族の間だけです。夫婦であってもその親密度を表に出すことはまれです。
私も以前、日本で、妻といっしょに手をつないで歩いていたら、後ろから教会の人に引き離させられました。夫婦の男女が手をつなぐことを恥ずかしいものだと考えていたのです。
8:2 私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。
母が産みの苦しみをし、また自分の乳で養うような、非常に親密で、密着した関係に、ソロモンを誘っている場面です。私たちの生涯の中でそのような密着した関係は、乳幼児の時期とそして夫婦の間にしかありません。
8:3 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。8:4 エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。
この表現は求愛のときに彼女が語ったものと同じですが、けれども、今はエルサレムの娘たちに戒めとして語っています。このような開かれた関係、親密な関係は、「愛が目覚めたいと思うとき」つまり結婚の時までかき立ててはいけないよ、という戒めです。
これは何度も何度も思い起こさなければいけない境界線です。結婚した後でも、戸籍上結婚したこと以上に、結婚の意味するところ、つまり二人が完全に互いに献身しているという状態と保っている中で始めて酔いしれることができる、愛の交わりです。同じ性行為であってもこの楽しみは時を早めたら味わえないのです。
2C 出産の家 5−7
そして次から、これまで歌ってきたことのまとめが始まります。二人を支えているものが何かが、いくつかに分けて書かれてあります。
8:5 自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。
これはソロモンが話している言葉です。初めに、「荒野から上ってくるひと」とアビシャグのことを言っていますが、夫婦の間にも荒野のような時期がありました。けれども、それを乗り越えて上ってくることができました。
そして「りんごの木」つまり甘美なもの、そして「母の産みの苦しみ」のところ、つまり最も密着して親密なことを私はアビシャグに行なったことを表明しています。つまり完全な性の悦びと満足を与えている、ということです。
8:6 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。8:7 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。
これはアビシャグが言っている言葉です。とっても大事な言葉が連ねられています。一つは、「封印」です。これは「証印」と言い換えても良いでしょう。彼女は自分をソロモンのものである、ソロモンの心臓と腕に証印として押されているものであると告白しています。
私たちがここまで自分を相手にささげることによって、夫婦の愛、結婚愛が保たれます。この献身が弱いと結婚が崩れていきます。けれども結婚だけではなく、神との霊的な関係においても同じです。エペソ人への手紙1章13節に、「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。」とあります。
そして、二つ目は「ねたみ」です。「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。」と言っています。ねたみというと罪の中の一つに数えられるものですが、それとは違います。たった一人の人だけを愛していて、その人が離れていくようなものなら激しく燃え立つ、ということです。神ご自身が、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神(出エジプト20章)」と言われています。
そして三つ目は、「破壊できない、不滅だ」ということです。大水も、洪水も押し流すことができないものであると彼女は言っています。どんな試練があっても、決して消え去るものではありません。
そして四つ目は、「富に変えられないもの」です。
これら四つはみな、私たちとキリストとの関係にも当てはまりますね。私たちは神に証印を押されたものであり、ねたみの愛をもって愛されているものであり、決して滅びない愛であり、富に変えられるものではありません。
3C 兄たちの愛 8−14
8:8 私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。
この言葉は、アビシャグの兄たちのものです。覚えていますか1章において、彼女が兄たちに言いつけられて、ぶどう畑の見張りをさせられたことを言いましたが、兄たちは妹への気遣いと愛を持っていました。
8:9 もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。
お兄さんたちが、妹にふさわしい相手が出てくるまで、他の男を寄せ付けないように守ることをここで表明しています。「城壁」は、どんな男も寄せ付けない強い意志を意味しています。そして「戸」はその反対に、自分で心と体の戸を男に明け渡してしまう脆さを話しています。彼女が強い意志を持っているのなら、私たちはその上にさらに守りを固めよう。そして彼女が脆かったら、私たちが守ってあげよう、ということです。
8:10 私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。
アビシャグが応えています。「私は、強い意志で処女を守ってきた」ということで、「私は城壁」と言っています。また、「乳房がやぐら」というのは、もう結婚することができるほど大人になったことを表しています。
このことによって、相手であるソロモンには平安を与える、というのです。自分のために、処女性を守ってくれたということで、何ら心の迷いもなく彼女と結婚できる、ということです。
8:11 ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。
ソロモンの実際のぶどう畑のことです。
8:12 私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。
ここでは、彼女自身のことを「ぶどう畑」と言っています。ソロモンが自分の畑のために、銀千枚を納めさせていたように、私のために銀千枚を結納金として支払いなさい、という意味です。そして次はソロモンの言葉です。
8:13 庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。
雅歌の初めのところで、ソロモンと彼女はぶどう畑のところで出会ったことが書かれています。今、その話をしているわけです。彼が始めにアビシャグを求愛したときのことです。そしてアビシャグの求愛が書いてあります。
8:14 私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。
ソロモンを愛している言葉で終わっています。これがちょうど、キリストと教会の最後の言葉に似ています。
黙示録の最後に、「聖霊と花嫁も言う。『来てください。』」「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示22:17,20)」なぜ、エペソ人への手紙5章に夫と妻の関係が、キリストと教会の関係を表しているかが分かります。私たちがそれだけ夫婦関係を睦まじくさせているでしょうか?いつもと同じ、惰性でやっていることはないでしょうか?同じように、私たちとキリストとの関係はどうでしょうか?アビシャグとソロモンのように、完全に開かれたものでしょうか?
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME