ゼカリヤ書12−14章 「国々と戦われる主」

アウトライン

1A エルサレムの救い 12
   1B ユダに与えられる力 1−8
   2B 自分たちが突き刺した者 9−14
2A 清められる残りの民 13
   1B 偽預言者の取り除き 1−6
   2B 打ち殺される牧者 7−9
3A 主の日 14
   1B 出て来られる主 1−5
   2B 王となられる主 6−11
   3B 礼拝を受ける主 12−21

本文

 ゼカリヤ書12章を開いてください。私たちは、ゼカリヤによる神の宣告の二つ目を読みます。一つ目は9章から11章までにありました。そして12章から14章が二つ目です。「宣告」とは文字通りの意味は「重荷」です。国々にとってエルサレムが重荷となります。エルサレムを始末しようとする国々の勢力に対して、主がそれを重い石とされるという宣告です。 

バビロンからエルサレムに帰還した民に対して、ゼカリヤが、エルサレムをねたみ、激しく愛すると宣言してくださった神の慰めの言葉を1214章で完成させます。

1A エルサレムの救い 12
1B ユダに与えられる力 1−8
12:1 宣告。イスラエルについての主のことば。・・天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、主の御告げ。・・12:2 見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。12:3 その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。

 宣告を行なうに当たって、神は、ご自分のことを「天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方」と宣言しておられます。それは、エルサレムに関わるこれらの出来事が、全世界を取り巻くことになるからです。すべての民が注目することになります。

 エルサレムによって神はすべての国々を裁くようにされます。「よろめかす杯」というのは、神の怒りの杯のことです。彼らが、神の裁きを被ってよろめくことを意味しています。黙示録1410節には、こう書いてあります。「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 さらにエルサレムは、すべての国々にとって「重い石」となります。つまり、国々はエルサレム問題を処理すべく、これを滅ぼそうと企むのです。若者が自分の力を自慢したいので、重い石を持ったところ、重すぎて自分の足の上に落としてしまいひどく傷つく様子を想像してください。それが、ここに書いてある様子です。エルサレムに手を出して、大きな損害を被ることになる預言です。

 私たちは、この「国々が集まってくる」いう動きを、聖書の中で、そして現代世界の中で見ることができます。聖書の中では、いつもは敵同士の国々が、共通の敵を見つけることによって団結する様子が書かれています。

 ヨシュアがカナン人の地に入った時のことを思い出してください。「相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。(9:2」とあります。けれども、かえって彼らが一つになって戦うことによって、ヨシュア率いるイスラエル軍は、彼らを一気に滅ぼすことができました。これも神ご自身の主権の中にあったことを、ヨシュア記1120節がこう記しています。「彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。」終わりの日に、エルサレムにすべての国々が集まるのも同じように、神が彼らのかたくなさを用いてご自分の栄光を現わすためです。

 そして詩篇二篇には、彼らが相集まるのは、まさに神とキリストに対して反抗したいからだと宣言しています。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。(1-2節)」ここの箇所を引用して、初代教会の信徒たちは、ピラトとヘロデがいっしょになってイエス・キリストを十字架につけたことを祈りました(使徒4:2528)。事実、ルカによる福音書には、「この日、ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは互いに敵対していたのである。(23:12」と書いてあります。

 ですから、この世界では互いの利害の対立で敵対し合っているのですが、神とキリストのことになれば一つになって戦うことができる、という法則が働いています。物理的には、神がこの地上で選ばれたイスラエルの民とその地に対してであり、そして霊的には、神が天に召すべく選ばれたキリスト者らに対して働いています。世は、キリストの属する者を憎むのです。

 ですから、現代起こっていることは、私たちの信仰と無関係なことでは決してありません。なぜ、いつもアラブとイスラエルの紛争が世界情勢のニュースに出てくるのか?そして、その紛争の火種がいつもエルサレム問題なのか?を理解することができるのです。イスラエルは、1948年の独立と同時に、周囲の五カ国のアラブ諸国から攻撃を受けました。そして勝利を収めました。67年の時は、エジプト、ヨルダン、シリアからの同時攻撃を受けました。その時、イスラエルはエルサレムを奪取し、また領土が四倍になりました。

 そして今、レバノンのヒズボラと、ガザ地区のハマスがイスラエルに頻繁に攻撃をしかけ、その後ろで支援しているのがイランであり、イランと協力してイスラエルに迫っているのがロシアまたトルコです。そしてアメリカ合衆国は、エルサレムの町の中を切り裂くかのように、その住居建設について内政干渉しています。

 これらはみな、ここに出てくる「よろめく杯」「重い石」の一過程であります。終わりの日には、すべての国々はエルサレムによって神とキリストに敵対することになるのです。

12:4 その日、・・主の御告げ。・・わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる。しかし、わたしは、ユダの家の上に目を開き、国々の民のすべての馬を打って盲にする。12:5 ユダの首長たちは心の中で言おう。エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。12:6 その日、わたしは、ユダの首長たちを、たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのようにする。彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。

 12章から14章には、「その日」という言葉が連発して出てきます。3節、4節、6節、8,9,12節、そして13章も1,2,4節、そして14章はこれが「主の日」と言明しています。終わりの日に、神がご自分の計画を完成される、定められた期間のことを指します。

 すべての国々がエルサレムを攻めに来るときに、エルサレム以外の所にいるユダヤ人が力を受けます。それは、4節にあるように主がそのようにしてくださっているからです。自分たちがすべて滅ぼされるのではないかという絶体絶命の時に、主が来られてその攻撃を阻まれるのです 

 (出典:"The Footsteps of the Messiah" Arnold Fruchtenbaum, Ariel Ministries)

 具体的には、エルサレムは初め、メギド平野に集まってきた世界中の軍隊がエルサレムを攻め、半分を滅ぼすことができます(ゼカリヤ14:1)。そして、すでに今のヨルダンのペトラのところにあるボツラに逃げ隠れたユダヤ人たちを全て滅ぼそうとします。けれども、主がその時に介入されます。そして戦場は少しずつエルサレムに動きます。そして、最後にエルサレムを主が救われて、そして天変地異が起こるのです。

 そこで主がご介入してくださったことによって、エルサレム以外のところにいるユダヤ人は、倒されている敵に対して、次々と止めを刺します。「わたしは、ユダの首長たちを、たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのようにする。」とある通りです。

12:7 主は初めに、ユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである。12:8 その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。

 「ユダの天幕」というのは、エルサレム以外にいるユダヤ人たちのことです。まず彼らに勝利を与えられ、それから最後にエルサレムの住民を強められます。「よろめき倒れた者もダビデのようになり」というのは、ゴリヤテに対峙した少年ダビデのことを意識しています。住民のうちどんなに弱い者も、ゴリヤテを打ち殺したダビデのようになる、という約束です。そして、ダビデの家がエルサレムの中にいますが、彼らは、ヨシュアが約束の地に入った時に、先頭に立って戦ってくださったヤハウェの使いのように強くなります。

 だから、5節にある「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある」となるのです。私たちはどうでしょうか?もう自分たちの力は尽き果てたと感じる時、何か袋小路に入っているように感じている時、この万軍の主を呼び求めているでしょうか?彼らと同じ告白を行ってみましょう。

2B 自分たちが突き刺した者 9−14
12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

 これは、驚くべき預言です。ユダヤ人の、イエス・キリストご自身についての神のご計画の完成を表しています。主は彼らのために来られたのに、彼らがこの方を受け入れませんでした。けれども、再び来られるときは、自分たちが待ち望んでいたメシヤが、ナザレ人イエスであることを悟り、泣き崩れるのです。

 使徒行伝7章で、ステパノはユダヤ人議会で、旧約聖書の預言者たちの歴史を述べました。そこにある法則は、「神が選ばれた者がイスラエル人に遣わされた時に、彼らはその預言者を認めないで、拒むが、後に認めるようになる。」というものです。ヨセフは兄の嫉妬を買い、兄たちはエジプトに売りましたが、ヨセフがエジプトの総理になったときに彼の前でひれ伏しました。モーセが40歳の時にイスラエル人の奴隷を救おうとしたのに、その時イスラエル人はモーセを認めませんでした。けれども80歳の時に戻ってきた時、彼らは認めました。同じように、イエス・キリストをあなたたちは拒んでいる、とユダヤ人議会でステパノは責めたのです。

 イエス様ご自身も、このことを宣言されました。「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。(マタイ23:38-39

 ここゼカリヤの預言には、「自分たちが突き刺した者、わたし」とヤハウェなる主が明確に、ご自分が突き刺されたことをお語りになっています。どうやって、神であられるヤハウェである方を、彼らが突き刺すことができるのでしょうか?この宣言を行なわれたのがイエス様です。主が、何度となく「わたしはある」と言われたのを思い出すことが出来るでしょうか?ヨハネによる福音書の中で、「わたしは、世の光である」「わたしは、命のパンです」「わたしは、いのちです、よみがえりです」と言われましたが、はっきりと「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(ヨハネ8:58参照)」と言われたのです。出エジプト記314節に出てくるヤハウェの名前、「わたしは、『わたしはある』というものである。」を宣言されたのです。したがって、ヨハネはこのゼカリヤの預言を引用して、イエス様が突き刺されたことを証言しています(20:37)。

 彼らは、「恵みと哀願の霊」が自分たちに降り注がれることによって、この真理を悟ります。神の恵みによって救われるのです。ローマ人への手紙9,10章に書かれてあるような、彼らの根本的な問題、つまり律法の行ないによる義ではなく、恵みによって、信仰によって義と認められることを彼らは悟るのです。そして「哀願の霊」というのは、彼らが絶体絶命の窮地に立たせられている時に、彼らは自分たちの力ではなく、メシヤを心から切に願い求めるからです。この大患難を通して、彼らはメシヤを真に求めるようになるのです。

 ですから、彼らははるか昔に先祖たちが突き刺し、そしてその立場を自分たちも取り続けてきたことについての激しい後悔を、「初子を失って嘆く」ように嘆くことによって表します。その嘆きは全土にいるイスラエル人に広がります。

12:11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。12:12 この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。12:13 レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。12:14 残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。

 「メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆き」というのは、ヨシヤの死のことです。ユダの王ヨシヤが宗教改革を敢行して、その後、カルケミシュに向かって北上していたエジプトのパロ、ネコがやって来たとき、メギドの戦いで死にました。その時にユダヤ全土が悲しみに包まれました。

 そして、ここに出てくる氏族は、徹底的です「あの氏族もこの氏族もひとり嘆く」というのは、すべての氏族が悲しむこということです。イスラエルがみな悲しみ、そして救われるということです。

 そして代表的な氏族として「ダビデの家」が上がっています。次に「ナタンの氏族」とありますが、おそらくはダビデの息子のナタンのことを指しているのでしょう(2サムエル5:14)。それから、「レビの氏族」出てきて、「シムイの氏族」とは、レビの孫の氏族です(民数3:1718)。したがって、王族であるダビデの家系と、祭司職であるレビの家系が、いま一つになって嘆いている様子を描いています。どちらの氏族も、千年王国には神に仕える重要な役割を果たすことを、エレミヤが預言しています(エレミヤ33:1722)。

 そしてそれぞれの氏族が、ひとりひとり、また妻も嘆くと強調しているのは、個人的にキリストの死を嘆くということです。イスラエルのみなが救われると言っても、その構成員は個人として神の前に出て、キリストの死について悔い改めを行なうということです。これは大事な点です。異邦人であっても、ユダヤ人であっても、本人が、キリストを自分個人の罪のために死んでくださり、また復活してくださったことを信じなければなりません。

2A 清められる残りの民 13
1B 偽預言者の取り除き 1−6
13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

 御霊の新生によって、彼らの罪と汚れが清められます。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5

13:2 その日、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。13:3 なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから。」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。

 御霊の新生によって真理に目覚めた彼らは、今まで預言者だと思っていた者たちが、実は偽預言者だったことに気づきます。マタイ2424節にも、「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」とあります。選ばれた者たちまでが、その惑わしを信じそうになっていたのです。

 それで、たとえその偽預言者が自分たちの息子であっても、両親は息子を殺します。家族であっても、神に取って代えることはできないのです。ここは申命記にあるモーセの律法を意識したものだと思われます。「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、『さあ、ほかの神々に仕えよう。』と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。(13:6-9」イエス様も、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37」と言われました。

13:4 その日、その預言者たちはみな、預言するときに見るその幻で恥を見よう。彼らはもう人を欺くための毛衣を着なくなる。13:5 また、彼は、「私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若い時から土地を持っている。」と言う。13:6 だれかが彼に、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か。」と聞くなら、彼は、「私の愛人の家で打たれた傷です。」と言おう。

 新生したユダヤ人が、偽預言者を殺そうとしている時に、偽預言者は自分たちを救おうとして自分の身分を偽ります。「欺くための毛衣」とは、エリヤやバプテスマのヨハネのように、毛衣を着て預言者らしく振舞っていたのです。そして、ある者はただの農夫だ、土地を耕している、とごまかします。

 そしてある者は、「私の愛人の家で打たれた傷です。」と言います。自分の腕にある傷は、実はバアルの預言者のように、自分の身を傷つけて偶像の名を呼び求めていたから付いたものです。けれども「愛人の家」とありますが、これは「愛する者」と訳したほうがいいでしょう、「主は愛する者を懲らしめる(ヘブル12:6)」とあるように、主の訓戒によって受けた傷だとごまかしているのです。

2B 打ち殺される牧者 7−9
 このような預言者がいる中で、主はご自分の牧者も傷を受けたことをお語りになります。

13:7 剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。・・万軍の主の御告げ。・・牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。

 ここにも、傷を受け、殺されたキリストの鮮やかな預言があります。前回、11章の学びで、ゼカリヤ自身が演じた良い羊飼いが、ユダヤ人指導者との確執の中で、銀貨三十枚によって売られたキリストを表していることを学びました。神はここで、この方を「わたしの牧者」そして「わたしの仲間の者」と呼ばれています。

 後者の「わたしの仲間の者」とは、ヘブル語によると神と同じ位置にいる者という意味があるそうです。つまり、神ご自身、神と一つになっておられる方です。まさにイエス・キリストであり、ここにもメシヤが神のご性質を持っておられることが証しされています。

 そして、この方が死なれたことを、神は積極的に、「剣よ。攻めよ。」と命じられていることに注目してください。キリストを殺されたのは誰でしょうか?かつて、ヨーロッパの歴史の中で、キリスト教徒はユダヤ人たちを見て、「キリスト殺し」と呼んで彼らを迫害しました。それに対抗してユダヤ人は、ローマがイエスを十字架につけたのだと反論します。そして、キリスト者は、「いや、私たちの罪がキリストを殺したのだ。」と言います。最後の、私たちの罪がキリストを殺した、というのが正しいです。

 けれども、もっと正確に言うなら、私たちがキリストを殺したのではなく、キリストはご自分の命を自らお捨てになりました。イエス様は、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18」と言われました。キリストは、自ら進んで、私たちのためにご自分の命を捨てられたのであって、私たちがこの方を無理やりに殺したのではありません。

 この方を殺されたのは、唯一、ここゼカリヤの預言にあるように父なる神ご自身です。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(使徒2:23」神がこのことを計画し、予め知っておられたのです。神がそのように決められたから、その独り子イエス・キリストがご自分の命を自らお捧げになったのです。私たちは、ただ、この神の深遠なご計画と知恵の前で、ひれ伏すことしかできません!

 そして、ユダヤ人がキリストを拒んだがゆえに、11章でも学びましたが、羊は散っていきました。ローマによってエルサレムが破壊し、彼らは全土に離散したのです。

13:8 全地はこうなる。・・主の御告げ。・・その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。13:9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。

 ユダヤ人の世界離散は今に至るまで続いています。シオニズムによって大量のイスラエル人が約束の地に戻ってきましたが、それでもまだ世界に散らばっています。その全地にいるユダヤ人に対する神の御告げがこの御言葉です。

 これは、受け入れがたい厳しい現実ですが、終わりの日にはホロコーストよりも多いユダヤ人が死ぬことになります。「三分の二」が絶たれます。ホロコーストで死んだユダヤ人は三分の一だったと言われていますが、今度は三分の二が死ぬのです。

 けれども、これは彼らが救われるために必要なことです。この大患難を通して、残された三分の一が神に立ち返ります。大患難は単なる災いではなく、ここにあるように銀を練るように、金を試すように彼らを清めるためのものなのです。そして救いを得ます。「わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。」とありますが、これはエレミヤが預言した新しい契約によってもたらされるものです。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(31:33」このようなすばらしい約束が彼らを待っていますが、けれども、この患難の前に一人でも多くのユダヤ人がイエス様を信じて、教会として救われることを願ってやみません。

3A 主の日 14
1B 出て来られる主 1−5
14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。14:2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

 再び、主が来られる前のエルサレムの状態に戻っています。先に説明したように、エルサレムはハルマゲドンの戦いの初期の段階で、部分に破壊されます。けれども、神は残りの民をここに置いてくださいます。そして、彼ら自身もすべての国々の軍隊によって攻撃を受けて、絶体絶命になった時に、主がご介入されるのです。

14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

 主が戻って来られます。他の預言書によると、まずボツラに向かわれます(イザヤ63:16)。それから戦いがエルサレムに移り、主が完全に世界の軍隊を滅ぼされて、最後にオリーブ山に立たれます。そしてその一帯の地殻が大変動するのです。

 「オリーブ山」に、なぜ主が戻って来られるのでしょうか?それは、神の栄光をエルサレムに戻すためです。エゼキエル書で私たちは学びました。神殿の中で汚れたこと、忌み嫌うべきことを彼らが行なっていたために、主の栄光が少しずつ神殿から離れ、東の門を通り抜けて、そして最後は東の山にとどまります。「主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。(エゼキエル11:23」そして栄光がエルサレムから離れました。エゼキエル書43章には、この栄光が東の門から再び戻ってきて、聖所の中に入るのを見ることができます(15節)。

 したがってイエス様がなぜ、オリーブ山から昇天されたのかも理解できます。残された弟子たちに対して、二人の天使が「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11」イエス様をメシヤとして受け入れるのを拒んだユダヤ人は、再び神の栄光がオリーブ山から離れたことを経験したのです。 

 それで主がオリーブ山に戻って来られます。その時、地殻大変動が起こります。オリーブ山は、南北に走る山です。その真ん中が分かれて、東西に広がる谷ができます。そして最終的に、ユダの相続地全体が低地となって、エルサレムの所だけが高くなっている地形になります(10節)。この地形変動が起こる前に、エルサレムの住民は新しくできた谷を通って、エルサレムから逃げます。そして新しくできあがったエルサレムに戻ってくるのです。ウジヤの時代の地震は、列王記や歴代誌には記録されていませんが、アモス書に言及されています(1:1)。

 そして主が来られる時に、「すべての聖徒たちも主とともに来る」とあるのに注目してください。すでに聖徒たちは、主が地上に再臨されるときに主と共にいるのです。地上再臨と、空中で信者が主とお会いする携挙を同じだと考える人たちは、この箇所をどのように解釈しているのか理解できません。空中に引き上げられ、そこでお会いして、そして一緒に地上に戻ってくるのでしょうか?では、黙示録19章にある小羊の婚宴はいつ行なわれるのでしょうか?

  黙示録19章を開いてください。7,8節を読みます、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」そして、14節をご覧ください。「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。(黙示19:14」この白い麻布を着ている人々は、天にいる聖徒たちです。そして彼らは教会です(黙示3:4)。

2B 王となられる主 6−11
14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 ここからは、主が地上に神の国を立てられた千年の間の情景です。千年王国が、実は、イエス様が祈りなさいと命じられた祈りの中に含まれています。「御国が来ますように。みこころが天に行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10」私たち、今日のキリスト教会は、この幻を祈りとして生きているでしょうか?個人の願うこと、個人の幸せ、個人のビジョンは求めますが、聖書には、「神の国とその義を第一に求めなさい」とあります。

 そして、その国では光がものすごく輝いています。イザヤは、同じことをこう表現しています。「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。(30:26

14:8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。14:9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。14:10 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。14:11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。

 エルサレムが中心となりますが、その前に、9節「主は地上のすべての王となられる。」に注目しましょう。今は、キリストを自分の心にお迎えした人たちにとっては、この方が主ですが、すべてのものがこの方に服従しているのを私たちはまだ見ません。けれども、その時がいずれ来ます。黙示録でも、天において天使らがこう叫んでいます。「この世の国(々)は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。(11:15

 そしてエルサレムですが、その地形は先ほど読みましたように、オリーブ山は大きく東西に分かれて谷が出来ています。エゼキエル書40章には、東の死海に流れる川が神殿から流れ、その水によって死海に魚が生きるようになる幻が記されていますが、ここゼカリヤ書では西の海、すなわち地中海にも川が流れていることが分かります。

 そして先に話したように、エルサレムは高い所にとどまってユダの相続地全体がアラバのようになるとあります。アラバは、ヨルダン川と死海、そして紅海に至るまで続いている非常に低い所、渓谷のことです。実に多くの部分が水面下になっています。したがって、エルサレムの町が非常に高くなるのですが、それはイザヤ書またミカ書に預言されていることです。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(ミカ4:1-2

 そしてエルサレムの住民が最も望んでいること、「安らぎ」が与えられる約束がここにあります。これを聞いているのは、バビロンからの帰還民であることを思い出してください。彼らの現実は、ここに書かれてある姿とは程遠いものでしたが、けれども信仰を持っている者たちはこの幻を掲げて、勇気をもって生きていたはずです。私たちも同じではないでしょうか?信仰によって見る御国の幻があるからこそ、今の厳しい現実の生活を生き抜くことができるのではないでしょうか?

3B 礼拝を受ける主 12−21
14:12 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。14:13 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。14:14 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。14:15 馬、騾馬、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜のこうむる災害は、先の災害と同じである。

 再び、国々の民がエルサレムを攻めてくる場面に戻っています。主が彼らと戦われるのですが、その勢いがものすごいですね。まだ足で立っているうちに彼らは腐ります。目がまぶたの中で鎖、舌が口の中で腐ります。まるで原爆の放射能を一気に浴びているかのような光景です。

 そして、彼らは互いに殴りあいます。これは、イスラエルの戦争の中で数多く見てきたものです。ミデヤン人が、三百人のギデオンの軍隊に恐れをなし、互いに戦っていました。

 そして先に見てきたように、エルサレムのために主が戦われたことによって倒れた国々の軍隊を、エルサレムにいない周りのユダヤ人が止めを刺します。戦うというよりも、ここを見ると略奪するといったほうが良いでしょう。

 そして馬なども、人間と同じように、立っているうちに腐ってしまうようにして倒れます。

14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。14:17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。14:18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。14:19 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。

 千年王国には、大患難を通り抜けた人々がいます。マタイ26章を見ると、生き残った国々の民のうち、これら小さな者たちにしたものはわたしにしたのです、とイエス様が言われて御国に招かれる者もいれば、そうではなく地獄に投げ込まれる者もいます。こうして御国に招かれた者たちが、エルサレムにおられる王なるキリストを礼拝します。

 「仮庵の祭り」と具体的に書いてあります。これは元々、イスラエルの民が神に守られて荒野の旅を行なうことができたこと、そして無事に約束の地に入ることができたことを祝う祭りですが、終末には意味が異なります。神の国の至福を喜ぶ祭りになります。

 レビ記23章には、一年に行なう祭り、つまり例祭において、七つを守りなさいと主が命じられました。過越の祭り、種なしパンの祝い、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす日、贖罪日、そして仮庵の祭りです。そのうち春の祭りは初めの四つ、秋の祭りは残りの三つです。それぞれに、キリストの御業の預言があります。過越の祭りはキリストの十字架を、種なしパンの祝いは十字架の御業による罪の除去を、そして初穂の祭りはキリストの復活を表します。そして五旬節は聖霊降臨を表します。

 そして長い間隔を置いて秋の祭りがありますが、ラッパを吹き鳴らす日は携挙を表します。贖罪日はキリストの再臨を、そして仮庵の祭りが千年王国です。春と秋の祭りがそれぞれ間隔が空いているように、キリストの初臨と再臨も間隔が空いていますが、私たちはまさにその間に生きているのです。

 そして、仮庵の祭りに参加する異邦人の国々の代表的例としてエジプトが挙げられています。エジプトは、終わりの日に回心する国としてイザヤ書1916節以降に書いてあります。けれども、彼らがエルサレムに上っていかない可能性が書いてあります。このように、千年王国にはまだ罪が存在することを見ることができます。

 黙示録19章に、キリストが「鉄の杖」をもって国々を牧されることが預言されています。羊飼いは木の杖ですが、千年王国では鉄の杖なのです。これは、少しでも悪を行なえば速やかに罰せられ、その悪が他に広がっていくことのない正義を表しています。今、私たちは恵みの時代に生きています。だから悪を行なう者にも善を行なう者にも、太陽が同じように輝き同じ恩恵を受けていますが、その分、悪もはびこっているのです。千年王国では、悪魔が底知れぬ所で縛られていますから、誘惑が極端に減っていますが、それでもアダムから受け継いだ肉体のまま御国に入ってきた人たちがいるわけで、その子孫は罪を犯しえるのです。

 それでは最後の千年王国の説明を聞きましょう。

14:20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。14:21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

 主の御名が一つになるのは、王権だけではありません。現在は御霊によって、聖なる者とされた者たちがいる一方でその教会から離れれば、外は世俗の空間です。けれども、終わりの日には聖なるもの、俗なるものの区別がなくなります。すべてが神殿の敷地内にいるように、聖なるものとなります。「馬」は戦争に使われる動物ですが、それが大祭司のかぶるターバンにつける「主への聖なるもの」が刻まれます。また外庭で使われる鍋は、内庭の祭壇にある鉢のようになります。ゼカリヤは続けて鍋に注目していますが、エルサレムとユダのすべての鍋は、主への聖なるもの、つまり神殿奉仕に用いられるものになります。俗なるものがなくなるのです。

 それで「商人がいなくなる」と書いてあるのです。イエス様がなぜ、宮清めをされたかがここから分かりますね。安息日の律法も、商売をすることがないように荷物を運んではならないという戒めがありました。今のエルサレムは、到底、聖なるものとなっているとは言えません。商売人の騒がしさ、また聖墳墓教会などと呼ばれているところで、あまりもの混雑と教派間の争いで気が滅入りそうです。

 私たちは、この地上において、最大限、聖なるものとして主に捧げていくことを命じられています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31」私たちの、神から与えられた使命は大きいですね。けれども、使命が大きい分、その特権も大きいです。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME