1A 静められる御怒り 5−6
1B 選り分けの裁き 5
1C 飛んでいる巻き物 1−4
2C エパ枡の女 5−11
2B 帰還の民への慰め 6
1C 四台の戦車 1−8
2C 王なる祭司 9−15
2A 真実と正義の町エルサレム 7−8
1B 自分のための断食 7
1C 外側の献身 1−7
2C 互いの誠実 8−14
2B 激しいねたみの愛 8
1C シオンに帰られる主 1−8
2C 思い直された災い 9−17
3C うれしい例祭 18−23
本文
ゼカリヤ書5章を開いてください、今日は5章から8章までを学びます。ここでのメッセージ題は「主の神殿の建て直し」です。
ゼカリヤ書は、その預言者の名前のように「主が慰められる」という主題を持っています。バビロンから帰還した民が、エルサレムに神殿を建て直すにあたって、励ましと慰めを与えるために神がゼカリヤを用いられました。その内容は大きく二つに分かれます。一つは、黙示的な幻の部分です。1章から6章までに書かれています。夜に見た八つの幻ですが、私たちは前回、五つ目までを読みました。そして7章から14章までが言葉による預言の部分です。
後半の7章から14章まではさらに二つの預言に分けることができます。前半は7章と8章です。再建が開始されてから二年後、その途中で主への礼拝が形式的になっていた民に対して戒めと励ましを与える預言です。そして9章からは、終わりの日に至るまでのメシヤの働きを詳細に描いています。
したがって今日は、1章から6章までにある八つの幻の後半の部分、六つ目から八つ目までの幻と、7章、8章の形式的な礼拝に対する戒めの部分を読むことになります。
1A 静められる御怒り 5−6
1B 選り分けの裁き 5
1C 飛んでいる巻き物 1−4
5:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、巻き物が飛んでいた。5:2 彼は私に言った。「何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻き物を見ています。その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです。」5:3 すると彼は、私に言った。「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる。」5:4 「わたしが、それを出て行かせる。・・万軍の主の御告げ。・・それは、盗人の家にはいり、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家にはいり、その家の真中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。」
六つ目の幻と、次の七つ目の幻は一つながりになっています。それは、イスラエルが救いにあずかるにあたって、全てのイスラエル人が自動的に救われるのではないことを教えていることです。
五つ目までの幻を思い出しましょう。初めの幻で、谷にいる赤い馬に乗った方がおられました。そして他に三頭の馬がいましたが、三頭の馬は地を行き巡って、そこが安らかで、穏やかであることを報告しました。すると主の使いが、「いつまで、あなたはエルサレムとユダの町にあわれみを施されないのですか。(1:12)」と訴えました。主が答えられました。「わたしはエルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。(1:15)」イスラエルを虐げている諸国の民に対して裁きを行なわれ、それによってイスラエルの民に救いを与えるという約束を与えられたのです。
それで二つ目の幻と三つの目の幻があります。二つ目は、四つの角と四人の職人でした。それはユダヤ人たちを散らした諸国の民のことを表していました。バビロン、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマのことです。そして最後にローマを、神の国の王であられるキリストがその力を砕かれます。
そして三つ目がエルサレムの町の回復でした。人があまりにもたくさんいるので壁を建てることができず、その代わりに主が火の壁となってくださるという約束です。そしてバビロンにいる人たちはそこから逃げなさいという呼びかけを行なっておられます。
そして四つ目と五つ目の幻は、帰還民の指導者二人に対して、それぞれ与えられたものです。大祭司ヨシュアが汚れた服を着ていましたが、主が大祭司の装束に着替えさせてくださいました。そして総督ゼルバベルに対しては、二本のオリーブの木から管を通して流れる油によって、燭台の火が灯されつづける幻を通して、神殿の再建を主ご自身の御霊が成し遂げてくださるという励ましを与えられました。
ですから、イスラエルを完全に救ってくださる、回復してくださるという内容がこれらの幻です。けれども、ここ六つ目と七つ目の幻はイスラエルの民にとって「試み」の期間を示しています。まず、今、読んだ「飛んでいる巻き物」の幻について説明したいと思います。
この巻き物の大きさは、「その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです」と書いてあります。メートルになおすと、長さが約8.8メートル、幅が約4.4メートルです。かなり大きい巻き物です。おそらく巻かれているのではなく、封印が解かれて広がっています。この寸法は、幕屋の聖所の寸法と同じです。祭司が入って、主への礼拝を捧げる聖所は、大祭司が年に一度だけ入る至聖所と、祭司がパンや油を補充しにいく聖所に別れていますが、この祭司が日ごとに入る聖所の長さ・幅と同じです。
そしてその内容は「呪い」です。内容を読むと、これらは律法に照らして呪われるものであります。盗みであったり、偽りであったり、十戒に出てくるものです。
つまりこれは、神の御言葉の巻き物であり、神の聖所、つまり神の聖さにしたがって、つまり神の御言葉に照らして、悪を行なっている者であれば、主がその家の中に入って滅ぼす、というものであります。これは世にいる人々ではなく、「わたしの名を使って偽りの誓い」とあるとおり、信仰を持っているふりをしている人々、敬虔さを装ってその実を否定する人たちのことを表します。
主は、イスラエルのために諸国の民に対して戦われ、それを救われるのですが、その前にご自分の民の中にいる反逆者を選り分けた上で救われることを行なわれます。全ての人が自動的に救われるのではない、ということです。イスラエル人であっても、異邦人であっても、悔い改めて、主の御名を呼び求める人でなければ、神の国に入ることはできないのです(ローマ10:12参照)。
イスラエルの民にとって、その期間は「ヤコブの苦難の時」と呼ばれています。「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。 (エレミヤ30:7)」主が終わりの日に定めておられる大患難が、それです。イエス様もオリーブ山で、「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24:21)」と言われました。これは、「選ばれた者のために、その日数を少なくされます。(同22節)」とイエス様は約束されましたが、選ばれた民であっても、偽キリストや偽預言者によって惑わされると警告しておられます(同24節)。
この世にあって、イスラエルの民の中にも反キリストに惑わされ、そのまま世を愛していくイスラエル人はこの苦難の時に殺されるのです。エゼキエル書には、「あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者をえり分ける。(20:38)」とありますが、主は、反逆するユダヤ人は反キリストに殺されるに任せられるのです。
これは間違いなく、キリストの教会に対しても与えられています。終わりの日には困難な時代がやってきます。自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者などが現れますが、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるから」だと使徒パウロがテモテに書き記しました(2テモテ3:5)。終わりの日には、教会の中にいる者たちに世と変わりない悪いことを行なう者たちが現れることが警告されているのです。ですから、使徒ペテロは、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(1ペテロ4:17)」と言いました。
「世にあるものが、教会の中に入り込む」、このことに気をつけなければなりません。
2C エパ枡の女 5−11
5:5 私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」5:6 私が、「それは何ですか。」と尋ねると、彼は言った。「これは、出て行くエパ枡だ。」そして言った。「これは、全地にある彼らの罪だ。」5:7 見よ。鉛のふたが持ち上げられ、エパ枡の中にひとりの女がすわっていた。5:8 彼は、「これは罪悪だ。」と言って、その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた。5:9 それから、私が目を上げて見ると、なんと、ふたりの女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、彼女たちは、あのエパ枡を地と天との間に持ち上げた。5:10 そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。」5:11 彼は私に言った。「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。」
この「エパ枡の中の女」は、「世の制度」そのものを表しています。「エパ枡」は元々、計量のために使われるものです。これが「全地にある彼らの罪だ」と天使が言っていますが、神は律法の中で何度も何度も、「あなたの家に大小異なるエパを持っていてはならない。(申命記25:14)」と、計量をごまかすことに対しての戒めを語られました。つまり、このエパ枡は、不正によって商いをしている姿を表しているのです。
そしてその中にいるひとりの女は「罪悪だ」と呼ばれています。明らかに彼女は淫婦であることが分かります。そして、その女を入れているエパ枡を、今度は翼をもった二人の女が運んでいるのです。この女は、まるで私たちが普段目にする天使の姿のように見えます。けれども聖書に出てくる天使は男性名詞であり、力強く、女とは程遠いものです。彼女は、異教の中に現れる天使的な存在であり、堕落した天使であります。
そして彼女たちが連れて行くのが、「シヌアル」です。バビロンの地です。エパ枡が、「地と天の間」となっており「天と地の間」ではないことに気づいてください。つまり、天からのものではなく地からのものであり、けれども天に近づけている、つまり宗教性をもたせているのです。ちょうど、この地、シヌアルの平野で建てられたバベルの塔が、天に届こうとしたのと同じです。そしてさらに、「神殿」をその女のために建てます。確実に宗教性を持っています。
ここから分かるのは、この幻は、神が介在しない商業主義、そして偽りの宗教の姿を示していることです。聖書では、偶像礼拝をイスラエルの民が行なえばそれは姦淫の罪であると断罪されています。黙示録17章と18章をご覧ください、そこには獣である反キリストの上に乗って、王たちとの不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を持っている、大淫婦の幻が出てきます。彼女が、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン(17:6)」と呼ばれているのです。
使徒ヨハネは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:16)」と言いました。終わりの日に近づくにつれて、私たちはますますこの誘惑を強く受けるようになります。だからヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人にうちに御父を愛する愛はありません。(同15節)」と言いました。この世は過ぎ去ります。けれども、神のみこころを行なう者は生きながらえます(同17節)。
2B 帰還の民への慰め 6
1C 四台の戦車 1−8
6:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。6:2 第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、6:3
第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。6:4 私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。「主よ。これらは何ですか。」6:5 御使いは答えて言った。「これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。6:6 そのうち、黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬はそのあとに出て行き、まだら毛の馬は南の地へ出て行く。6:7 この強い馬が出て行き、地を駆け巡ろうとしているのだ。」そこで彼が、「行って、地を駆け巡れ。」と言うと、それらは地を駆け巡った。6:8 そのとき、彼は私にこう告げた。「見よ。北の地へ出て行ったものを。それらは北の地で、わたしの怒りを静める。」
これが最後の幻、八つ目の幻です。主はこの世に対して裁きを行なわれます。そして、一つ目の幻において言い表された「激しいねたみと怒り」をこの幻において、すべてぶちまけられます。
一つ目の幻で、四頭の馬が谷の中にいたことを思い出してください。「谷」にいたのは、おそらくは諸国の民の圧制の中にいたことを表しています。けれども今は、「二つの山の間」から出てきています。そしてそれは「青銅の山」です。青銅は神の裁きを表します。そして「山」は権力や力をしばしば表します。主が、これら天使的存在を通して、諸国の民に対して戦われるのです。それによって裁きを貫徹されるのです。
それぞれの馬の毛の色が「赤」、「黒」、「白」、そして「まだら毛」です。黙示録6章には、患難時代の始まりに出て行く戦車の姿がありますが、赤は戦争を表していました。黒は極端に食糧の値段が上がり、恐らくは人々が死んで黒くなることを表しています。そして白は、平和を装いながら実はこれらの戦争や混乱をもたらす偽りを表しています。黙示録6章では、具体的には反キリストです。そして「まだら毛」は6章には出てこないのですが、「青ざめた馬」が出てきます。それは死とハデスを表していました。
黒い馬と白い馬は、「北の地」に行くとあります。そしてまだら毛の馬は「南の地」へ行きます。これらはそれぞれ、バビロンとエジプトを表しています。帰還の民がこの幻の預言を聞けば、それは容易に想像できるものです。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書などは、一様にバビロンとエジプトを指し示しています。
この二つの大国が、イスラエルにとって頼るべきこの世でありました。何か危機に瀕すると軍事的に頼りましたが、これがかえって罠となり、彼らは自らを滅びに陥れてしまったのです。この二つの国に対して神が戦われます。そして前者は永遠の廃墟となり、後者のエジプトは主をあがめる、イスラエルの影響力の中にある国となることがイザヤ書19章で預言されています(19:16‐24)。
そしてこのことによって、主はご自分の霊を静められます。8節の「わたしの怒りを静める」は、「わたしの霊を休ませる」が直訳です。ちょうど六日で天地を創造し、七日目に休まれたように、ご自分の怒りをすべて現された後に、それに満足されるという意味を持っています。
これで、帰還の民は具体的に、自分が出てきたバビロンが主の御手の中で滅んだことを知ることができました。そしてまた、終わりの日に自分たちを脅かすこの世を滅ぼしてくださることを知ったのです。
2C 王なる祭司 9−15
そして次は、幻ではありません。預言者がしばしば行なった「実演による預言」です。人々の注意を引き寄せるような特異な行動をすることによって、主の言葉を伝えます。
6:9 ついで私に次のような主のことばがあった。6:10 「捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取り、その日、あなたはバビロンから帰って来たゼパニヤの子ヨシヤの家へ行け。6:11 あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、6:12 彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。6:13 彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』6:14 その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿のうちに残ろう。6:15 また、遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建て直そう。このとき、あなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。」
今、預言者ゼカリヤは、まず三人から金や銀のささげ物を受け取ります。「ヘルダイ、トビヤ、エダヤ」という三人の帰還の民です。この三人が「ゼパニヤの子ヨシヤ」の家を訪問しています。そこに、ゼカリヤは大祭司ヨシュアを連れてきています。そして自分でこしらえた冠を、彼の頭の上に置きました。
これは不具合な象徴です。王冠を祭司の上に置いているからです。旧約聖書をよく読んでいる人なら、これほど違和感を抱くような行動はないでしょう。ダビデの末裔が王冠をかむるべきであり、レビの子アロンの末裔である祭司とは、明確に区別を行なっています。これに違反した王が何人か現れました。例えば、サウル王が預言者サムエルを待てず、自分で全焼のいけにえをささげました。またウジヤ王は神殿の内庭の中に入って、いけにえを捧げようとしたので、彼はらい病にかかりました。
けれどもここでは、祭司が戴冠式を受けているのです。これは大祭司であり、かつ王となられるキリストを表しておられるのです。旧約聖書では、王族と祭司職が明確に分かれていると言いましたが、唯一、例外的な存在が出てきます。「メルキデゼク」です。アブラハムがロトを救出するためにダマスコの北まで行って四人の王から奪い取った後に、「シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。(創世14:18)」とあります。「シャレム」はエルサレムのことです。そこにいる「メルキデゼク」、つまり義の王です。そしていと高き神の祭司です。彼がパンとぶどう酒を持ってきて油ハムを祝福しているのです。そしてアブラハムは、彼に自分の十分の一を捧げています。
この王であり祭司である存在を、ヘブル書は詳細に説明しています。そこから分かるのは、この方はキリストご自身であるということです。詩篇にも、メシヤ預言としてこう書いてあります。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。(110:4)」このメルキデゼクまたはキリストを、大祭司ヨシュアの戴冠によって表していたのです。帰還の民がそのことの証人として立っていることは、帰還の民にこの神殿再建事業がメシヤへの待望によって実現することを示していました。彼らにとって大きな慰めです。
メシヤ預言は、「見よ。ひとりの人がいる。」から始まります。主イエスが十字架刑に処せられる前、総督ピラトが同じ言葉を発しました。「さあ、この人です。"Behold the Man."(ヨハネ19:5)」そして「その名は若枝」です。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書において、これがメシヤの称号として何度も表れます(例:イザヤ11:1、エレミヤ23:5、エゼキエル17:22)。そして、その多くがダビデの座に着かれる、王なるキリストの姿です。
この方が「主の神殿を建て直」されます!もちろん、主の御霊によってゼルバベルが率いている再建工事が完成するという励ましもありますが、それは、終わりの日にメシヤご自身が、神の国における神殿を建てられる、という将来に裏打ちされたものなのです。エゼキエル書40章以降に、その神殿の幻を詳しく見ることができます。
そして、この方は「尊厳を帯び」ているとあります。「栄光」と訳すことのできる言葉です。「神の栄光の輝き、また神の本質の現われ」である尊厳です(ヘブル1:3)。
そしてこの方が同時に「祭司」であられます。新改訳では「王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて」と訳されていますが、他の訳では「王座におられるひとりの祭司であり"He shall be a priest on His throne."」となっています。王であり、かつ祭司なのです。そこで、この二つの職の一致を、「このふたりの間には平和の一致がある。」と表現しています。私が先に説明した、王と祭司の役職のはっきりとした区分がここでは平和に一致を持っている、ということです。
ですから、主がエルサレムの慰めとして、大患難という試練を与えられるが、主が戦うために来られて、そして王として祭司としてエルサレムの神殿から君臨されるということです。
そして最後の15節には、終わりの日ではなく、帰還の民の時代の神殿再建のことを話しています。「遠く離れた者たち」というのは、バビロンにいる捕囚の民です。彼らが、バビロンからさらに来て、神殿再建に携わり、そしてこれを完成させる約束です。
そして重要なのは、「主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。」という言葉です。神殿建設そのものが大事なのではなく、主の御声に聞き従うという霊的内実に裏打ちされたものでなければいけないという戒めです。
2A 真実と正義の町エルサレム 7−8
そこで次の7章と8章は、建設工事も二年経った後に、言わば霊的に「中だるみ」していた彼らに対して、主が戒めと激励を与えておられる部分になります。
1B 自分のための断食 7
1C 外側の献身 1−7
7:1 ダリヨス王の第四年の第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。7:2 そのとき、ベテルは、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを、主に願うために遣わし、7:3 万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねさせた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」7:4 すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。7:5
「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。7:7 エルサレムとその回りの町々に人が住み、平和であったとき、また、ネゲブや低地に人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げられたのは、次のことではなかったか。」
時は「ダリヨス王の第四年の第九の月」です。神殿建設は、第二年の第六の月に始まりましたので(ハガイ1:15)、二年経過しています。具体的には紀元前518年のことで、神殿工事は520年から516年にかけて行なわれました。したがって、ちょうど中盤戦に差し掛かっている時です。
その時に、「ベテル」から人々がエルサレムにやって来ました。「ベテルは」となっていますが、これは人の名前ではなく、イスラエルにある町の名前です。覚えていますか、かつてヤコブが天のはしごを見たところであり、そして北イスラエルが金の子牛の祭壇を立てたのが、このベテルです。帰還の民は、もはやそこに祭壇を立てるのではなく、主が命じられたようにエルサレムまで来て礼拝を捧げていました。
そして、彼らは「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」と尋ねています。「長年」というのは、バビロン捕囚の期間である七十年の間のことです。そして「第五の月」は、バビロンのネブカデネザルがエルサレムの町を焼いた月であります(2列王25:8)。神に命じられた断食ではなく、自ら課した、エルサレム破壊を嘆き悲しむ断食です。ユダヤ教徒の中には、今でもこの日を守っている人々がいます。第五の月は「アブ」と言いますが、実にローマによって紀元70年の時にも同じ月に破壊されています。
帰還の民である彼らは、「すでに帰還したけれども、それでも神殿破壊のことを思って嘆き悲しまなければいけませんか。」という素朴な疑問を、預言者ゼカリヤたちに尋ねています。
この質問に対して、主は、「第五の月であろうが、第七の月であろうが、あなたがたはわたしのために断食しなかった。」と叱責しておられます。「第七の月」は、バビロンによって任命されたユダヤ人の総督ゲダルヤが、イシュマエルによって暗殺された月です(エレミヤ41:1)。主は、「これらの月や断食のことが、今、問題なのではない。あなたがたに今、欠けたところがある。忘れられているものがある。」と責めておられるのです。
おそらく彼らは、真面目にこの質問をしに、エルサレムに来たのだろうと思います。けれども、「真面目に」という副詞は、必ずしも神の前で正しいとされるものではないことを私たちは覚えるべきです。私たちも教会の活動のことで、とても真面目に行なっていても、その活動そのものが神の前に正しいとされるのではないのです。
主は、「わたしのためではなく、自分のために行なっていたのではないか。」と言われています。彼らは断食だけでなく、例祭も守っていましたが、その時、食べたり飲んだりしているけれども、「自分たちのためではなかったか。」と主は言われています。こうした儀式を守りながら、自分たちの中で見落とされている霊的な問題があると神は指摘しておられるのです。
これと似たような言葉が、ピリピ人への手紙に出てきます。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(2:21)」厳しい言葉ですが、ピリピの教会がそのようになっていたのです。具体的には、言い争いがありました。ユウオデヤとスントケという二人の女性の働き人の間で意見の対立があったようです。そして、パウロの周りで自分とともに働いているテモテはいるが、他に誰もいないという背景もあったようです。このような、人の必要に対する無関心や鈍感さ、また対立などは、表向き敬虔に見えることさえありますが、実は、「自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスを求めていない」姿なのです。
ゼカリヤは、捕囚前に預言者が語った言葉を思い起こさせています。次の預言の内容を読むと、イザヤのことであることは明らかです。
2C 互いの誠実 8−14
7:8 ついで、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。7:9 万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。7:10 やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」7:11 それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。
イザヤ書58章を開いてください。2節から読みます。「しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。(2-4節)」分かりますか、断食をしながら主を尋ね求めていたのですが、彼らは実際には言い争いをしたり、弱者を痛めつけていたのです。彼らが知らず知らずのうちに、断食が形式化していたのです。そしてゼカリヤが語ったのと同じ内容が、続けて6,7節にあります。
ゼカリヤ書に戻って、一つ一つ見たいと思います。一つ目は、「正しい裁き」です。これは正しく判断する、あるいは正しい人間関係を保つ、ということです。正しい歩みを行っていく、と言っても良いでしょう。そして二つ目は、「誠実と憐れみ」です。私たちは対人関係において、正しいだけでは足りません。弱っている人を強め、罪を犯した人を立ち上がらせ、憐れみを示します。
そして三つ目は、弱者に対する愛の行ないです。教会においては、奉仕を行なうことです。人々の必要を満たすために仕えることです。教会が内向きにならず、外向きになって、まだ福音を知らない人に福音を知らせ、問題を抱えた人のために祈り、外に働きかけることです。そして四つ目は、「互いに心の中で悪をたくらむな」ということです。言い争いや対立などは、心の中にある悪から始まります。
そして7章と8章における、主が語りかけておられる強調点は、この互いに対する真実です。8章では、エルサレムが「真実の町(3節)」と呼ばれています。ゼカリヤは繰り返し、「真実と平和のさばきを行なえ。(8:16)」「真実と平和を愛せよ。(19節)」と言っています。建設開始から二年経った今、仲間の間で対立が生じていたことが十分推測できます。そして、それは対立という問題だけに留まらず、そのように内向きになっていた彼らは、弱っている人々に対して救いの手を差し伸べることをせず、自分たちばかりを見ていたと考えられます。
イエス様は、黙示録の七つの教会に対して、「あなたには非難すべきことがある(2:4,14,20等)」と言われました。教会において主に仕えながら、いつのまにか焦点がキリストではなく自分自身に移り、主が命じておられる、互いに仕えること、互いに愛すること、互いに励ますこと、互いに御霊の一致を保つことなどをおろそかにしていったのです。当時のユダヤ人が、神殿建設の事業に携わっているうちに、その仕事をこなすことだけで満足し、肝心の正義や憐れみといったものが、おなざりにされていったように、教会も推進していくなかで、大切なことを、落し物の財布のように落としてしまうことがあります。
7:12 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。7:13 「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない。」と万軍の主は仰せられる。7:14 「わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを追い散らす。この国は、彼らが去ったあと、荒れすたれて、行き来する者もいなくなる。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」
これが、先祖たちが、主の命令に聞き従わなかったことによってもたらされた結果です。ハガイ書にて私たちは学びましたが、帰還の民はこのことを痛いほど分かっていました。それにも関わらず、同じ過ちをくり返しているではないか、という主の警告がここにはあります。
2B 激しいねたみの愛 8
そして、ハガイ書に出てきたユダの民は、警告の言葉にすぐに応答したように、ゼカリヤの言葉を聞いた民も、警告を恐れ、応答したのでしょう。次に主は豊かな慰めの言葉を与えられます。
1C シオンに帰られる主 1−8
8:1 次のような万軍の主のことばがあった。8:2 万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」8:3 主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」
主は、二年前、ゼカリヤを通して語られた同じ熱情をまた言い表しておられます。「シオンをねたむほど激しく愛」する、です。単なる、ほんわかした、不明瞭な「愛」ではありません。ねたみと憤りをともなった真剣な愛であり、激しい愛です。
何に対してねたんでおられるのでしょうか?エルサレムが廃墟となっていることに対してです。彼らの罪によって、エルサレムが滅茶苦茶になっていることに対して、です。罪によって生活がめちゃくちゃになり、人生が台無しになったことに対して、主は激しい憤りで怒りを抱かれます。それは、「わたしは、この尊い命をこのようになるために造ったのではない。わたしは絶対、死んでしまっているこの魂を生き返らせ、元通りにするのだ。」という強い憤りです。罪に対する怒りは、裏返すと真実の愛です。このねたみをもって、主はエルサレムを回復されます。
8:4 万軍の主はこう仰せられる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。8:5 町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」
すばらしいですね、廃墟となったエルサレムを目撃した帰還の民にとって、これは信じがたいことです。ただでさえ外敵に脅かされているのに、老人が憩い、子供が安全に遊ぶことのできる環境になることは、想像すらできなかったことでしょう。けれども、主はこれを成し遂げると強く決意しておられます。
今のイスラエルとその首都エルサレムを見るとき、私は考えさせられます。確かに老人が憩う姿を見ることができます。また子供たちが遊んでいる姿も見ることができます。主がこのようにしてくださったのだと、身にしみて感じることができます。けれども、やはりまだまだ理想から遠いです。銃をもったイスラエル兵士がいるから、かろうじて安全が守られています。お店にはかならずガードマンがいて、入ってくる一人一人のかばんをチェックします。けれども、主が再臨された後のエルサレムは、銃がなくてもこのような姿になるのだという希望を持っています。
8:6 万軍の主はこう仰せられる。「もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。・・万軍の主の御告げ。・・」8:7 万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、8:8 彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住ませる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」
この言葉を聞いた帰還の民は、半ば信じられませんでした。それで主は、「不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。」と言われています。そして、これは単にバビロンから帰ってきた民だけに対するものではありません。むしろ終わりの日に実現する、世界の四方から戻って来る帰還についての約束です。「日の出る地と日の入る地から救い」と言われています。そして先ほど話したように、主は繰り返し、「真実と正義をもって」と強調されています。これが今の彼らにとって必要な言葉だったからです。
2C 思い直された災い 9−17
8:9 万軍の主はこう仰せられる。「勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。8:10 その日以前は、人がかせいでも報酬がなく、家畜がかせいでも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。8:11 しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。・・万軍の主の御告げ。・・8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを継がせよう。8:13 ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」
覚えていますか、これはハガイがかつて行なった預言の内容です。彼らは神殿工事を、周辺住民の阻止活動によって中断して以来、自分の生活の向上だけを考えるようになっていきました。そのために、主は少しずつ注意喚起を行なわれました。モーセの律法に書かれてあるように、集めても奪い取られ、かせいでも報酬がなく、飢饉があるので収穫も多くありませんでした。
それで民は悔い改め、神殿工事を始めましたが、その後にハガイは、「あなたがたはこれまで、収穫は取れず、雹が降ったりして被害を受けたが、この日を覚えていなさい。この日から私は、収穫に祝福を与えよう。」ということを言われたのです。初めは認めることのできない変化だったかもしれませんが、振り返ってみれば、確かにあの日から祝福が始まっていたのだと知ることができるのです。
それと同じことをゼカリヤは今、ここで語っています。けれども強調点が少し違います。「敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。」やはり、平和について、争いについて語っているのです。彼らの間にあった疑心暗鬼、表向きの関係、これらを意識しながら語っているのです。
8:14 万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと考えた。・・万軍の主は仰せられる。・・そしてわたしは思い直さなかった。8:15 しかし、このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている。恐れるな。8:16 これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。8:17 互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。・・主の御告げ。・・」
主は、はっきりとした意志を二つ持っておられました。それは、エルサレムを滅ぼすという意志が一つです。これによってわたしはもう二度とわたしは怒るまい、という決心をされていました。そしてもう一つは、その後は幸いのことだけを考える、という意志です。そしてすでに彼らは、幸いの時代として主が定めておられる時に生きていたのです。ですから、あなたがたには、災いではなく祝福があるのだ、と励ましておられるのです。神は、同じことを私たちにしてくださいました。ご自分の御子キリストに対して、ご自分の怒りのすべてをぶちまけられました。それによって、金輪際、私たちを罪に定められることをしないという決心をしてくださいました。
その上で、主は、「互いに真実を語りなさい。平和を保ちなさい。心の中で悪を計ってはいけない。表向きの偽った愛を示してはいけない。」と言われています。大事ですね、教会の中でとても大切です。私たちは、表向きうまく付き合っていればよいと教会の中で思っていないでしょうか?使徒ペテロはこう言いました。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(1ペテロ1:22)」
3C うれしい例祭 18−23
8:18 さらに、私に次のような万軍の主のことばがあった。8:19 万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」
ここでようやく、主はベテルからやって来た人々に対する返答をしてくださっています。「断食はもういらない」ということです。楽しみと、喜びの例祭を守りなさい、ということです。ここに断食の月がさらに二つ加えられています。「第四の月」は包囲されたエルサレムの町が破れた時です(2列王25:3‐4)。そして、「第十の月」は、ネブカデネザルがエルサレムの町を包囲しはじめた月です(2列王25:1‐2)。
8:20 万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。8:21 一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう。』と言う。8:22 多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」8:23 万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」
すばらしいですね、エルサレムはユダヤ人にとって祝福の町になるだけでなく、その魅力は世界中の異邦人をもひきつけます。真実と平和に裏打ちされたその町には、「主の恵み」があります。それで諸国の民も行きたいと思うようになります。ちょうど真実な愛のある教会には、救われる人々が加えられていくのと同じです。
そして、主は、「強い国」も主を尋ね求めると強調されています。私たちが知らなければならないのは、私たちの贖い主は強い方だということです。どんなに影響力を持った存在であっても、主の前にあっては、ただひれ伏すしかない力を主が持っておられるということです。
そして、十人の異邦人が一人のユダヤ人をつかんで、「あなたといっしょにエルサレムに行きたい」と言います。よほど魅力があるのでしょう。その理由を異邦人が述べています。「神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。」です。すばらしいですね。
主は、このために帰還のユダヤ人に、真実と平和を愛しなさいと命じられたのだと思います。互いに真実をもって愛し、仕えているところで、主が共におられます。そのことを周りの人々が見聞きして、それで私も主を求めたいという渇望を持つようになります。イエス様が言われました。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:35)」
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