アウトライン
1A 戦いの中の平和 9
1B 虐げる者から守られる主 1−8
2B ろばに乗られる方 9−10
3B ヤワンを攻める勇士 11−17
2A 戦いの中の贖い 10
1B 戦う馬 1−7
2B 強国から贖われる主 8−12
3A 戦いをもたらす牧者たち 11
1B 羊を屠る羊飼いたち 1−6
2B 良き羊飼いを拒む者たち 7−14
3B 愚かな羊飼い 15−17
本文
ゼカリヤ書9章を開いてください。9章からゼカリヤの預言は、壮大な、はるか先に起こる事柄の預言になっています。9章1節、そして12章1節に「宣告」という言葉があります。これは元々「荷物」という言葉であり、「重荷」と訳すことのできるものです。それは、イスラエルの民に対しての警告でもありますが、それ以上に、イスラエルに対して戦う敵どもにとっての重荷となる裁きの宣告です。イスラエルの民が数ある戦いの中に巻き込まれて、そこに主がご介入されて彼らを救い、贖われる内容となっています。
その壮大な戦いの預言の中で、急に、平和な、へりくだった方が現れます。そして、この良い羊飼いを一度拒む愚かさをゼカリヤは預言しています。けれども、エルサレムが破滅に向かおうとしている時、敵に戦うためにこられた方が、まさに、自分たちが拒んだ方、へりくだった柔和な王、キリストであられる、というメシヤ預言がふんだんに織り込まれています。
ゼカリヤの預言は、このように非常に美しく、そして信じる者たちに慰めを与えるものです。預言の相手はイスラエルの民に対するものですが、信仰者であれば誰でも「戦いの中にある救いと平和」を知ることができるでしょう。
1A 戦いの中の平和 9
1B 虐げる者から守られる主 1−8
9:1 宣告。主のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、そのとどまる所。主の目は人に向けられ、イスラエルの全部族に向けられている。9:2 これに境を接するハマテにも、また、非常に知恵のあるツロやシドンにも向けられている。9:3 ツロは自分のために、とりでを築き、銀をちりのように積み、黄金を道ばたの泥のように積み上げた。9:4 見よ。主はツロを占領し、その塁を打ち倒して海に入れる。ツロは火で焼き尽くされる。9:5 アシュケロンは見て恐れ、ガザもひどくおののく。エクロンもそうだ。その頼みにしていたものがはずかしめられたのだから。ガザからは王が消えうせ、アシュケロンには人が住まなくなる。9:6 アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを絶やし、9:7 その口から流血の罪を除き、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。9:8 わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。
ゼカリヤの預言におけるすばらしさは、他の預言書でもそうですが、その歴史的な正確性です。今、読んだ箇所は、ギリシヤの王アレキサンダーによって実現したものです。シリヤからツロへ、そしてツロからペリシテ人の地へ南下して侵略を続けます。けれども、エルサレムの町に対しては虐げることなく平和裏に入ってきた、という歴史的事実があります。これを、150年以上前にすでにゼカリヤが預言していたのです。同じように預言したダニエルも、ギリシヤ帝国について預言しましたね。聖書にはギリシヤ時代に書き記されたものはありませんが、このように預言書によって前もって記録されています。
1,2節はシリヤにアレキサンダーが攻めてきた時の預言です。彼はシリヤの首都「ダマスコ」を攻めるべく、北にある町ハデラクから攻めてきました。彼の戦いの行程は、もちろんギリシヤから小アジヤ(つまりトルコ)、そしてパレスチナ地方です。だから北から南に下っています。
そして1節に、「主の目は人に向けられ」とありますが、ヘブル語ではその反対で「人の目は主に向けられ」となっています。人々が、主とイスラエルの全部族に注目している、ということです。主が自分たちに裁きを下されるが、イスラエルは回避されるのを目撃する、ということです。
そしてイスラエルの割り当てとして約束されている地の北の境である「ハマテ」が2節に出てきます。実際はシリヤの領土の中にあります。さらに南下して、「ツロやシドン」に向かっています。そして3,4節が、ツロに対する神の裁きです。エゼキエル書26章で以前詳しく学びましたが、アレキサンダーは、バビロンがここを包囲していた時に町全体を数百メートル沖にある島に移動させたツロを、土手道を作ることによって島に届き、そこを倒しました。「銀をちりのように積み、黄金を道ばたの泥のように積み上げた」というのは、ツロが極度に富を蓄えていたからです。神は、この誇りを忌み嫌われているのが分かります。
それからさらに南下して、地中海沿岸のペリシテ人の町々に攻めています。5節から7節です。ガテの町を除くペリシテ人の四つの町が出てきます。その中に「ガザから王が消えうせ」とあります。これは、「ガザの攻城」として有名な、アレキサンダーが行なった戦いに匹敵します。そしてここでも、主は、彼らが誇りとしていたものを取り除かれます。まず「混血の民が住むようになる」とあります。これは、ペリシテ人が純血主義と、自民族中心主義を持っていたからです。そして、「口から流血の罪を取り除く、歯の間から忌まわしいものを取り除く」というのは、偶像の血のついたいけにえのことを指しています。
そして興味深いことに、彼らは民族性を失う代わりに、ユダの中に住むようになるという約束があります。「エブス人のようになる」とありますが、エブス人の町をイスラエルが攻略した後も、わずかにエブス人が残っていました。けれども、例えばダビデが神殿の丘を購入したとき、その地は「エブス人アウラナの打ち場」であったことを思い出してください(2サムエル24:18)。その時にアウラナは、自分の地をすべて明け渡すことを申し出ました。ダビデは断りましたが、すでにイスラエルの共同体の一部として生きていたのです。ペリシテ人も後にそのようになるという約束です。
そして、このように北から洪水のように虐げる軍隊が押し寄せたのに、イスラエルの地だけは被害を免れています。それは8節にあるように、「わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。」ことをしてくださったからです。アレキサンダーはガザを攻略した後エジプトに行きましたが、エルサレムを包囲することはありませんでした。
ですから、主はご自分の民を虐げる者から守ってくださる、という約束を見ることができます。もちろん主が言われたように、世においては患難があります。そして迫害する者たちもいます。けれども、悪い者は神から生まれた者に決して触れることはできないのです(1ヨハネ5:18)。
2B ろばに乗られる方 9−10
そして次に、アレキサンダーによっては決して成就していない、エルサレムに入城する王の姿が出てきます。
9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。
軍馬に乗ったアレキサンダー大王は、エルサレムに来ることはありませんでしたが、ユダヤ人の王は馬ではなく、ろばに乗って来られます。そしてこの、へりくだられた方が、究極的に、あらゆる武力を打ち壊し、世界中に平和をもたらすという約束です。この驚くべき預言は、もちろんイエス・キリストによって成就しました。イエス様が十字架につけられる最後の週に、ろばの子に乗って入城されました。
私たちが王としてあがめている方は、このような方です。まず「正しい方」です。アレキサンダーは泥酔して死にましたが、私たちの王は正しい方です。そしてアレキサンダーと違い、破壊ではなく「救い」を賜ります。そして、高ぶったアレキサンダーとは違い「柔和」であられました。このような方を王にしているのですから、私たちの生活にもこのような特徴が現れていなければなりません。いかがでしょうか?
そして、10節の預言はキリストの再臨のときに実現します。エフライムとエルサレムから武力を絶やされますが、これは北イスラエルと南ユダのすべての地から、という意味です。そして、その平和は、「海から海へ、大川から地の果てに至る」つまり、ユーフラテス川と地中海のはるか先にまで至る、ということです。
3B ヤワンを攻める勇士 11−17
そして11節からの預言は、同じギリシヤ時代ですがもっと先の歴史で実現しました。まず読んでみましょう。
9:11 あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ。9:12 望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。9:13 わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる。ヤワンはあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする。9:14 主は彼らの上に現われ、その矢はいなずまのように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。9:15 万軍の主が彼らをかばうので、彼らは石投げを使う者を滅ぼして踏みつけ、彼らの血をぶどう酒のように飲み、鉢のように、祭壇の四隅の角のように、満たされる。9:16 その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。9:17 それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。
これは、まず捕囚の民であったユダヤ人を解放し、帰還させるという約束から始まります。11節に「あなたとの契約の血」とは、アブラハムと結んだ契約です。創世記15章にあります。動物を真っ二つに引き裂いて、その中を主ご自身の火が通り抜けて、そしてアブラハムに土地を与えられる約束を確証されました。そして「水のない穴」とは、エレミヤが落ちた穴のように、元々は貯水槽であったものを地下牢として用いていたものを指しています。つまり捕らわれの身から解放されるということです。
そして、その彼らは16,17節でその約束の地において王冠の宝石のようになり、穀物とぶどう酒とともに若者を栄えさせると神が約束されますが、その間で起こっていることが13節から15節までの戦いの大勝利の約束です。「ヤワン」とはギリシヤ人のことです。ギリシヤ人に対して戦うときに、主が彼らを強くしてくださるという約束です。
これは、マカバイ家によって実現しました。聖書の正典ではなく外典にありますが「マカバイ記」において、その勇猛な戦いを読むことができます。わずかな人々、非常に貧弱な武器によって、アンティオコス・エピファネスの軍隊をことごとく打ちのめしました。ダニエル書8章にも、この戦いについての預言があります。そしてこの戦いが、次の章10章にある、終わりの日におけるユダヤ人たちの戦いの予型となっています。
ところで、11節にある「望みのある捕らわれ人」は、我々キリスト者にも当てはまる約束です。私たちは、キリストと共に統治する王として、神の子として召されていながら、まだこの肉体の中でうめいている存在です。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:23)」私たちも、ここのユダヤ人たちのように後に「王冠の宝石」のような存在になります。そして、そうなるべく私たちを解き放ってくださる時が近づいています!主イエスが私たちのために来られて、私たちが引き上げられる時に、この卑しい体は栄光の体に変えられ、キリストに似た者になるのです。
2A 戦いの中の贖い 10
1B 戦う馬 1−7
10:1 後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。10:2 テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。10:3 わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。
主は、終わりの日に起こることを「後の雨」と例えておられます(1節)。後の雨とは「春の雨」と言い換えることができ、ちなみに「初めの雨」は「秋の雨」と言い換えることができます。収穫を終えた後、秋の雨は次の種を蒔くときに、その土壌を柔らかくしてくれます。そして春の雨は、だいたい三月下旬から四月初めに降る雨ですが、実を結ばせる勢いを与える雨です。ヨエル書において、この春の雨のように、神がご自分の霊をすべての人に注ぐと約束しておられます(2:23,28‐29)。
したがってここの箇所は、ご自分の御霊によってユダの民を強くして、戦いに勝利を与えてくださるという約束です。
けれども、その前に主は偽預言者や指導者に対して怒りを燃やされます。テラフィムや占いなどによって、むなしい言葉を語る者たちを取り除き、またそれを、羊をさまよわせた羊飼いに例えておられます。彼らに罰を与えた後に、主ご自身がユダの民を強くしてくださるという約束です。イエス様も終わりの日に、選びの民に対して偽預言者が現れることをお話になりました。「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:24)」
そして教会の中にも同じように偽教師が現れると使徒ペテロは警告しました。「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(2ペテロ2:1-3)」私たちは目を覚まして、教会にも偽教師が出ているのだということを見分けなければいけません。
10:4 この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。
これは、ただ一人の方について話しています。ユダの群れから出てこられる方、つまりイエス・キリストです。この方は「かしら石」でした。詩篇118篇にあり、福音書や使徒の書簡の中で引用されている、「家を建てる者が捨てた石。それが礎の石となった。(22節)」という御言葉です。
そして、「鉄のくい」は、神殿の中の器具を吊り下げるために打たれた杭のことであり、これもイザヤ書でエルヤキムに対する預言の中でありました。忠実なしもべエルヤキムがキリストを指し示していました。「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。(イザヤ22:23-24)」
そして「いくら弓」もキリストの呼び名です。詩篇45篇のメシヤ詩篇にこうあります。「あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(5節)」
10:5 道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。10:6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。10:7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。
主が戦われるので、ユダも敵との戦いに勝利します(5節)。このことについての預言が、具体的に12章4節から6節までにあります。次回の学びで見たいと思いますが、再臨のキリストが戻って来られる前に、エルサレムに攻めてくる世界中の軍隊に対して彼らが奮闘する姿を見ることができます。
そして、救われた人々が喜んでいます。ユダの家だけでなく、ヨセフの家、つまり北イスラエルの十部族も約束の地に戻って来ることができます。霊的な祝福がここに書かれていますね、「わたしが彼らをあわれむからだ」そして、「わたしに捨てられなかった者のようになる」さらに、「わたしが、・・・彼らに答えるからだ」です。このように、主との関係が確立した彼らは、主にあって大いに喜んでいます。
教会は、この霊的祝福を前もって味わっている神の民です。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(ローマ5:2)」キリストにあって、信仰によって父なる神に大胆に近づくことが許されています。この関係の中で、私たちはキリストの再臨に現れる神の栄光を、恐れるのではなく、むしろ大いに喜ぶことができるのです(2テサロニケ1:10)。
2B 強国から贖われる主 8−12
10:8 わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。10:9 わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る。10:10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。10:11 彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ。彼らはナイル川のすべての淵をからす。アッシリヤの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れる。10:12 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。・・主の御告げ。・・
主が彼らを離散の地から集めてくださる約束です。8節に「合図して」とありますが、御使いによるラッパの響きです。イエス様がこう言われました。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31)」
そして、彼らの数が非常に多くなることも約束してくださっています。戻ってきた民が、ヨルダン川の東側にあるギルアデの地、そしてイスラエルの北にあるレバノンに住まわせても、そこでも土地が足りなくなるほどだ、という嬉しい悲鳴を聞きます。
そして、主は強い方です。イスラエルを苦しめていた二つの代表的な強国から彼らを贖い出すことを約束してくださっています。北にあるアッシリヤ、そして南にあるエジプトです。イザヤがすでにこれを預言しましたが、アッシリヤからエジプトに至る一帯が、主をあがめるようになります(19:23‐25)。そして、離散しているイスラエルの民が約束の地に戻ることができるようにするため、ナイル川も枯らしてくださいます。
要は、彼らを虐げている力がいかに強くても、主は贖い出すことができるということです。「彼らの力は主にあり・・・」とあるとおりです。パウロが宣言しました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」そしてまた、こうも語っています。「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。(2コリント12:9)」
そして、「彼らは主の名によって歩き回る」とあります。どこに行っても、何をしていても、主の御名によって、神の栄光のために行ないます。これが物理的だけでなく、霊的にも贖われた姿です。
3A 戦いをもたらす牧者たち 11
9章、10章は、ギリシヤ時代を背景にした終わりの日の勝利の約束でした。けれども11章にて、ローマ時代に入ります。ダニエルがギリシヤ時代とローマ時代を預言して、油注がれた者が断ち切られる、その結果、君主の民がエルサレムを攻める、そして荒らす憎むべき者が現れる、という預言を行ないました。同じように、ゼカリヤもローマによってエルサレムが滅ぼされ、そして反キリストが現われることを預言します。
ここでは、その当時のユダヤ人指導者、つまりイエス様が地上におられた時の指導者の姿を預言しています。福音書に密接に関わる預言です。
1B 羊を屠る羊飼いたち 1−6
11:1 レバノンよ。おまえの門をあけよ。火が、おまえの杉の木を焼き尽くそう。11:2 もみの木よ。泣きわめけ。杉の木は倒れ、みごとな木々が荒らされたからだ。バシャンの樫の木よ。泣きわめけ。深い森が倒れたからだ。11:3 聞け。牧者たちの嘆きを。彼らのみごとな木々が荒らされたからだ。聞け。若い獅子のほえる声を。ヨルダンの茂みが荒らされたからだ。
これは、紀元66年から70年にかけて起こった、ユダヤ人反乱を鎮圧するローマの姿です。ローマ皇帝ネロが、総督ウェスパシアヌスをユダヤ属州へ遣わします。レバノンへ下りてきて、それからガリラヤ地方を攻略しました。ヨルダン側にも回りました。そして最後にエルサレムの城を攻略しました。その姿が、「レバノン」「バシャン(これはゴラン高原)」そして「ヨルダン」の地名の中に現れています。
そしてレバノンの杉の木は、エルサレムにある宮殿「レバノンの森(1列王7:2)」であるとも考えられます。ソロモンがレバノンの杉によって建てたエゼキエル書でエルサレムの王の宮殿のことを「レバノン」と例えています(17:3)。そう考えると「牧者たちの嘆き」というのは、文字通りの牧者だけでなく、ユダヤ人指導者らがエルサレムの破壊を嘆いている姿と見ることができます。
なぜ、こうなってしまったのか?そのいきさつを、「羊をほふる羊飼い」として主は例えておられます。
11:4 私の神、主は、こう仰せられる。「ほふるための羊の群れを養え。11:5 これを買った者が、これをほふっても、罪にならない。これを売る者は、『主はほむべきかな。私も富みますように。』と言っている。その牧者たちは、これを惜しまない。11:6 わたしが、もう、この地の住民を惜しまないからだ。・・主の御告げ。・・見よ。わたしは、人をそれぞれ隣人の手に渡し、王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」
エゼキエル書34章に、「牧者は羊を養わなければならないのではないか。」とあります。羊に食べさせてあげるのであって、自分たちが食べてはいけません。けれども、イスラエルの指導者らが民を虐げることによって、かえって彼らを食べ、またその羊毛を自分の着物にしたと主は咎めておられます。
この箇所も同じことを話しています。羊を売っている牧者は、ユダヤ人指導者です。「主はほむべきかな。私も富みますように。」と、図々しくも主の御名によって自分を肥やしています。そのために、主はこの地の住民、つまりローマのユダヤ属州にいるユダヤ人たちを、ローマの手に渡します。「王の手」とは、ローマ皇帝の手という意味です。紀元70年までに、ユダヤ人は110万人が殺され、9万7千人が奴隷として引き連れていかれました。
2B 良き羊飼いを拒む者たち 7−14
11:7 私は羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。こうして、私は群れを飼った。
主はゼカリヤに、実演による預言を行なわせています。演技を行なうことによって、主の言葉を伝えるという方法です。ゼカリヤに牧者になりなさいと命じています。ここに「羊の商人」と訳されている言葉は、「羊の悩む者たち」というのが元々の訳です。これは、神を敬っている残された民、ユダヤ人たちのことを指しています。彼らの前で、ゼカリヤは牧者の訳を演じ、一本が「慈愛」、もう一本が「結合」という名の杖を用意しています。
11:8 私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった。11:9 私は言った。「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。11:10 私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るためである。11:11 その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。
これは、イエス様がユダヤ人指導者を嫌い、そしてユダヤ人指導者もイエス様を嫌い、そして彼らがイエス様を嫌ったために、ユダヤ人らがローマ人の手に渡されたことを表しています。
8節の「三人の牧者」が誰であるか、二つの意見があります。一つは、当時のユダヤ教指導者の三派、つまりパリサイ派とサドカイ派と律法学者のことを指していると言います。もう一つは、指導者を構成する三つの役職、つまり、王、預言者、祭司を指しているというものです。エゼキエル書やエレミヤ書や他の預言書にも出てくる、「牧者」という言葉は王、預言者、祭司の総称として使われているからです。
いずれにしろ、イエス様とユダヤ人指導者との確執は熾烈になったことをここは表しています。イエス様が十字架で知られる数日前に、八回、「忌まわしいものだ。(マタイ23:13)」と言われて、彼らの行なっていることを咎められました。そして最後に、主は、彼らが流した血はこの時代が報いを受けると宣言されました(36節)。
そしてエルサレムがローマによって陥落するのを見通して、嘆いておられます。「ああ、エルサレム。エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。・・・(37節)」これが、ゼカリヤが行なった発言、「死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は相手の肉を食べるがよい。」と言った言葉です。メシヤ、良い牧者を拒んだがゆえに、ユダヤ人はローマによって殺されて、包囲されたエルサレムの中では互いに殺し合い、また飢えた人は赤子の肉を食べたりしました。
そして慈愛という杖をゼカリヤが折ったのは、イスラエルを神が慈愛の目を持って眺め、それを守られるという契約を破ることを意味していました。彼らは、また集められる時まで、神はこの契約を思い出されることはありません。
そして興味深いのは、「私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。」とあることです。ここの「羊の商人」は「羊の悩む者たち」ですね。もちろん、ゼカリヤがこれを行なうのを見ていた、ユダヤ人の残りの者たちが主の言葉であると悟ったという意味ですが、預言的にもエルサレムをローマが破壊することを、当時のイエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人たちは悟っていました。
彼らは、66年に始まったユダヤ人反乱、そしてローマがエルサレムを包囲した時に、ルカ21章20節から24節にあるイエス様の警告を思い出しました。「「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。・・・」それで、ローマが包囲を一時解除した時に、彼らはアラバのほうに逃げ、そしてヨルダン川沿いにあるデカポリスの町の一つである「ペラ」に共同体ごと避難しました。そのため、70年にローマがエルサレムを破壊した時に、信者は誰一人として死にませんでした。
11:12 私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。11:13 主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。
この預言も見事に成就したことを、私たちは福音書の中で確認することができます。イスカリオテのユダが、この金額で祭司長らからイエスを引き渡す任務を受け、その後に彼は後悔して、彼らにその金を返しました。祭司長らは、それを神殿に戻すことはできないとして、陶器師の畑を買うことにしました。
ところで「銀貨三十シェケル」という金額ですが、出エジプト記21章に、自分の家畜の牛が人の奴隷を突いたら、その奴隷の主人に銀貨三十シェケル支払いなさい、という定めがあります(32節)。つまり、値打ちは奴隷のそれと変わりないということを示していたのです。
11:14 そして私は、結合という私のもう一本の杖を折った。これはユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破るためであった。
ローマに対するユダヤ人反乱によって、ユダヤ人が滅んだのはローマのせいだけではありませんでした。エルサレムの中では、ユダヤ教の熱心党員が先鋭化し、分派・分裂しました。互いの備蓄を捨てたり、殺しあったりしました。「結合」という杖を折ったのは、そのためです。ユダヤ人の中に一致がなくなってしまいました。
3B 愚かな羊飼い 15−17
11:15 主は私に仰せられた。「あなたは、もう一度、愚かな牧者の道具を取れ。11:16 見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。11:17 ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」
良い牧者であるキリストの預言の後には、愚かな牧者が出てきます。彼は、偽キリスト、つまり反キリストです。ユダヤ人は、真のキリストを受け入れなかったから、偽のキリストを受け入れるようになるのです。「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5:43)」私たちは、真理を受け入れないと、代用の偽物を受け入れます(2テサロニケ2:10‐12)。
紀元135年に、第二ユダヤ人反乱が起こりました。シモン・バルコクバという指導者が現れました。多くの人が彼についていきましたが、ラビのアキバと言う人がバルコクバをメシヤだと宣言したのです。その時までこの反乱に同情的であったユダヤ人の信者たちはこれに賛同することができず、身を引きました。この後、イスラエルの土地全体が最悪の状態に陥り、ローマによって荒廃しました。
同じようなことが終わりの日に起こります。まことのキリストを受け入れないので、彼らは反キリストをメシヤとして受け入れるのです。ここにあるように、反キリストは傷ついた者を癒さず、飢えている者に食糧を与えず、かえって食べてしまう人物です。平和と救いを約束しながら、人々を虐げ、殺していく人物です。
けれども、主はこの愚かな牧者を滅ぼされます。「剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」とあります。腕は力、あるいは武力を表します。目は知力を表します。その二つとも神は反キリストのうちからなくしてしまわれます。反キリストは、再臨のキリストによって滅ぼされ、火と硫黄の池に投げ込まれます。
ここまでは9章から始まった一つ目の「宣告」あるいは「重荷」の内容です。なぜ重いのか?それは、平和の君、へりくだった柔和な方を、自分もへりくだって心にお迎えすれば救いがあるのに、むしろこの方を嫌がり、受け入れないことによって災いを自分の身に招くという重みです。
12章以降に、再臨の主の姿を見ることができます。そこで彼らは、自分たちが拒んだ者が実は、主ご自身であったことを悟り、初子を失った時のように嘆きます。初めて来られた時は拒みました。そして愚かな牧者の中で迫害を受けています。その中で救いを求めた時に現れてくださった方は、自分たちが突き刺したイエス・キリストご自身だったのです。そして主は、憐れみと恵みをもって彼らを敵の手から救い出してくださいます。
私たちにも、良い牧者についていくのか、愚かな牧者についていくのかの選択が与えられています。良い牧者に従えば、平和があります。愚かな牧者に従えば虐げがあります。良い牧者にしたがう羊は、自分自身も悩みの羊にならなければなりません。自分の心を貧しくしないといけません。自分には何もないことを告白しなければなりません。その砕かれた魂、へりくだった心に、神は慈しみの聖霊を注いでくださいます(ヤコブ4:6)。
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME