ゼカリヤ書1−6章 「エルサレムへの熱愛」


アウトライン


1A 主の怒り 1
   1B ご自分の民に対して 1−6
   2B 諸国の民に対して 7−21
      1C 馬の偵察 (第一の幻) 7−17
      2C 四人の職人 (第二の幻) 18−21
2A 主の守り 2
   1B 測り綱 (第三の幻) 1−5
   2B 只中の臨在 6−13
3A 主の義認 (ヨシュアの衣 第四の幻) 3
   1B きよい服 1−5
   2B 一つの若枝 6−10
4A 主による建て上げ (一つの燭台 第五の幻) 4
   1B 恵みの御霊 1−10
   2B 二人の油注がれた者 11−14
5A 主の裁き 5
   1B 巻物 (第六の幻) 1−4
   2B エパ枡の女 (第七の幻) 5−11
6A 主の来臨 6
  1B 四台の戦車 (第八の幻) 1−8
  2B ヨシュアの冠 9−15

本文

 これからゼカリヤ書を学びます。今回は1章から6章まで、ゼカリヤの「八つの幻」と呼ばれるところを学びます。

前置き

 黙示録を学び終えて私たちが知ったのは、黙示録は旧約聖書の預言の引用によって成り立っているということです。300以上あるという学者もおれば、700以上の引用があると言う人もいます。そこから分かるのは、私たちが信じる、主イエス・キリストは旧約の預言の成就である、ということです。

 黙示録には、旧約のいろいろな箇所からの引用がありますが、その最も重要な書物はダニエル書です。そこに描かれている、荒らす忌むべき者、反キリストについて克明に預言されています。そして第七十週の預言があります。その半週に反キリストがいけにえとささげものをやめさせる、との預言がありますが、その七年間と三年間半の期間が、黙示録に出てくる数ある幻を時系列的に理解するために必要な知識です。

 そこでダニエル書を学ぶことはもちろん有益ですが、今回はあえてゼカリヤ書にしました。なぜか?ダニエル書は、イスラエルを取り巻く周辺諸国、言い換えると当時の世界の超大国の興亡を中心に描いています。ダニエルがバビロンにいたときに、主がこれから世界に対してどのようなご計画を持っておられるのかが中心に描かれています。主が弟子たちに言われた、「異邦人の時」のことです。

 その一方、ゼカリヤ書はエルサレムの町を中心に描いています。ゼカリヤ書のテーマともなる聖句を開いてみましょう。8章2節と3節です。「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。』」分かりますか、これはものすごい感情です。自分が恋い慕っているガールフレンドが、何人かの男になぶりものにされているのを見たら、ものすごい勢いで怒り、憤りますね。主が同じ感情を、エルサレムの町に対して抱いておられます。

 聖書は、一つの町を中心に描いています。エルサレムです。聖書の中で最も多く出てくる町の名前です。主は、この町そしてイスラエルという国と軸にして世界の歴史を動かしておられます。ここで起こっていることが、直接、世界で起こっていることに影響を与えます。そして世界に対してだけでなく、キリスト教会に対しても、そして私たち一人ひとりの信仰者に対しても影響を与えます。

 どうしてキリスト教会にとって大切なのか?エルサレムを神がこよなく愛されている理由は、そこにご自分が住まれると約束されたからです。もちろん、主は全宇宙におられ、全宇宙を超越した方です。けれども、ご自分がどのような方かその栄光をはっきりと現わすところとして、また神の民に個人的、人格的にお会いするところとして、エルサレムを選ばれたのです。

 キリスト教会はもちろん、キリスト者が集まるところに存在します。私たちは神の御霊の宮であり、私たちが集まって主の御名で祈るところにご臨在されます。けれども私たちには望みがあります。天の望みです。地上のエルサレムに神がご自分の御名を置かれたように、天に神がご自分の御座を持っておられます。そして今、御霊によって、キリストにあって、キリスト者はこの天とつながっています。そしてキリストが戻られた時に、私たちは天に引き上げられます。天が私たちにとっての故郷なのです。

 そして、この故郷が、私たちが黙示録で学んだように「天のエルサレム」なのです。神なる主ご自身が、この都と一体になっておられます。ご自分がおられ、ご自分の民と交わり、一つのなるところとして、やはりエルサレムを選んでおられるのです。

 そしてゼカリヤ書のもう一つのテーマはキリストです。メシヤについての預言が、初臨・再臨ともにたくさん出てきます。しばしば、ダニエル書が旧約聖書の黙示録と呼ばれますが、ゼカリヤ書は、いわば旧約聖書の福音書と読んで良いでしょう。主がどのような働きをご自分の民のために行なってくださるかを、読むことができます。

歴史的背景

 ゼカリヤ書を読むにあたって、その背景となっている歴史を詳しく知る必要があります。

 イスラエルの歴史は、いくつか大きく区分することができますが、紀元前約1500年から約1000年までの間は、モーセなど預言者や士師が指導者となって、神が直接イスラエルの民を統治されていた神政の時代でした。けれどもイスラエルが王をサムエルに要求してから、サウル、そしてダビデと王が立てられました。王政の始まりです。そしてダビデの子ソロモンの死後、イスラエルの国は二分しました。北イスラエルと南ユダです。彼らは継続的に主なる神に背を向けたため、紀元前721年に北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされ、紀元前586年に南ユダ国と、その首都エルサレムがバビロンによって滅ぼされました。

 そして捕囚の時期に入ります。捕囚の時期で大切な数は「70」です。主は、イスラエルを裁くのに七十年間という期間を定められました。そして70年後、バビロンを倒したペルシヤ帝国の初代の王クロスが、自分の国にいるユダヤ人にエルサレムに帰還して、神殿を再建せよ、という布告を出します。そして総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアが率いるユダヤ人約4万2千人がエルサレムに戻ります。

 「総督」というのは政治の指導者であり、かつては王であった人々です。ダビデの家系の子息が総督になりました。そして大祭司は宗教における指導者であり、レビ族、アロンの家系に属する人が続けて担いました。この二人が指導者としてユダヤ人の上に立っていました。

 この歴史について詳しく書かれているのが、エズラ記です。エズラは律法の学者でしたが、神殿の再建された後に、律法を教えるためにエルサレムに帰還しました。ですから、エズラ記の前半部分にはエズラは登場せず、主要人物としてゼルバベルとヨシュアが出てきます。

 彼らは熱心に神殿の敷地に散らばっている残骸を除去し、神殿の基作りに取り組みました。彼らは初めに祭壇を築いて全焼のいけにえをささげ、それから二年後、礎を完成させました。ここで有名な出来事が起こります。礎の完成式の時に、民はみな大声で叫びました。

 けれども、二種類の声が聞こえます。一つは喜び叫ぶ声です。もう一つは嘆き悲しむ声です。喜び叫ぶ声は、若い世代から出ていました。もちろん、これから神殿が建てられることにわくわくして、その完成を喜んだのです。けれども古い世代は、かつてのソロモンの神殿を見ていました。その栄華と規模に比べると、ここにある礎はあまりにもみすぼらしかったのです。まったく同じものを見ているのに、何を体験してきたかによってまったく正反対の反応をしたのです。

 ところが、彼らは大きな障害にぶつかりました。エルサレム周辺の住民であるサマリヤ人が、彼らの神殿再建を阻んだのです。彼らは脅しをかけ、そして政治家を買収して、ペルシヤの王がこの建設を中止させるように仕向けました。その時はクロス王ではなく、他の人が王様になっており、クロスが出した法令に気づかずに、そのまま中止命令を出したのです。そして、とうとう神殿建設は中断し、16年近く経過しました。

 そこに現われたのが、預言者ゼカリヤとそしてハガイという人です。エズラ記5章を開いてください、1節から読みます。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。(1-2節)」このように、ハガイとともにゼカリヤはユダヤ人たちが神殿建設工事を再開するように、励まし、強く勧めたのです。

 この後、ユダヤ人は再び周囲の住民の反対を受けましたが、今度は毅然としていました。彼らの上に「神の目が注がれていた(5:5」とあります。彼らはクロス王からの発令で、これを行なっているのだと弁明しました。そこで住民は、当時のペルシヤの王ダリヨスに手紙を書き、そのことを問いただしました。ダリヨスは文書保管所から、クロスの文書を見つけました。そして、建設を止めさせるところか、クロスと同様、むしろ支援するようにと返事を書きました。

 そして神殿再建は完成します。紀元前516年のことです。エルサレムの神殿が破壊された紀元前586年から、ちょうど70年目のことです。

 このようにユダヤ人の心を奮い立たせ、神殿建設再開を行なわせた、ゼカリヤの言葉を私たちはこれから読んでいきます。彼らがなぜ、根強い反対運動と、途方もなく時間と労力がかかる神殿建設を成し遂げることができたのか、その動機となり力となった言葉を読んでいきます。

1A 主の怒り 1
1B ご自分の民に対して 1−6
1:1 ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。

 イドは祭司ですので、ゼカリヤは祭司の子です。また彼は預言を行なったとき、2章4節によると「若者」でした。そしてゼカリヤの名前の意味は、「主に覚えられる」です。まさに、神殿を建て直しているユダヤ人にとって慰めの預言をする人にふさわしい名前です。

1:2 主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。1:3 あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。・・万軍の主の御告げ。・・そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。

 ゼカリヤは、「わたしに帰れ」という主の呼びかけをまず、ユダヤ人に語りかけました。彼らが主から離れてしまっています。それでご自分のところに帰るように命じられています。

 そして主は、警告を発しておられますね。「先祖たちを激しく怒られた」と言われています。もし、彼らがこのままの姿でいたら、彼らは先祖たちと同じように神の怒りを受ける、ということです。続けて読みましょう。

1:4 あなたがたの先祖たちのようであってはならない。先の預言者たちが彼らに叫んで、「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ。」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。・・主の御告げ。・・1:5 あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。1:6 しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた。」と。

 イスラエルとユダの国がまだあった時のことです。主は、数々の預言者を彼らに遣わされました。しかし彼らの言葉に聞き従いませんでした。それら預言者は当の昔に死んでいますが、彼らの語った言葉はその通りになっています。そして、その通りになったことを捕囚の民は気づきます。

 ゼカリヤは何をもって、このような主からの警告の言葉を発したのでしょうか?これは、ゼカリヤとともに預言活動をしたハガイの言葉を読むと、すぐに理解できます。ハガイ書を開いてみましょう。1章1節から読みます。


ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。(1-11節)

 お分かりになりますか?ユダヤ人たちは、周囲の住民による強力な阻止行動によって、神殿建設を断念しました。そして、まだ神殿を建てる時は来ていない、と言って20年の間、自分のために生活設計を立てていたのです。マイホームはどのようなものにするかな?お金儲けもいいかもしれない、などなど。

 けれども主は、彼らがご自分に目を向けさせるように徴を送られました。その徴とは、彼らが自分たちのために行なっている努力が報われないようにされたのです。農作物が育たないように、日照りを与えられました。彼らはかなり働いていましたが、それに見合う報酬が得られていませんでした。彼らは、何か変だなと感じていたかもしれませんが、その原因をはっきりとハガイを通して主から教えられたのです。

 私たちにも同じような経験がないでしょうか?私たちが主にあって何か働きをしようとします。けれども、大きな壁にぶつかります。一向に前進することができません。がっかりして、もはや主のために何かをしようと思わなくなります。いや、自分では主のために何かをしていると思い込んでいるのですが、「だって、まだ時が来ていないから。」という言い訳をして、自分の事のために時間を費やしているのです。

 この主の御言葉を聞いたユダヤ人らは、まさに自分たちの身にハガイが言っていることが起こっていることに気づいて、非常に恐れました。主に対する健全な恐れを抱きました。そこで、指導者のゼルバベルとヨシュアも、一般の民もみな神殿建設を再開させたのです。主は、「わたしは、あなたがたとともにいる。(ハガイ1:13」と励まされました。

 この預言の言葉をハガイが語ったのは、ダリヨス王の治世第二年、第六の月のことです。翌月、第七の月にも、主は、神殿建設に着手したゼルバベルとヨシュアを励ます預言の言葉を、ハガイを通してお与えになりました。

 そしてゼカリヤ書1章1節に戻ってください。ゼカリヤからの言葉があったのは第八の月です。彼らが神殿再建に着手して二ヶ月が経とうとしています。つまりここ2節から6節にある預言の言葉は、ユダヤ人たちをさらに励まし、再び自分たちのために生きるような愚かな事をしないように、先祖にふりかかった災いを思い起こすことによって、戒めておられるのです。

 再び工事に着手したので、すぐ困難に遭ったことでしょう。大変な作業だし、周囲の住民からの圧力もあるし、再び止めたいという気持ちが生じてもおかしくなかったでしょう。けれども、続けて仕事をしなさいという励ましを、主はゼカリヤを通してユダヤ人に行なわれたのです。

2B 諸国の民に対して 7−21
 そしてこの三ヵ月後、主はゼカリヤに、数々の幻をお見せになります(紀元前519年2月15日)。これは、主がもはやご自分の民ではなく、ご自分の民とエルサレムを自分のほしいままにした諸国の民に対する怒りを表す幻でした。

 そしてユダヤ人が、今、自分たちが着手している工事が、主にあっていかに栄光に富んだものであるか、その偉大さを知らせるための幻でした。

1C 馬の偵察 (第一の幻) 7−17
1:7 ダリヨスの第二年のシェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。1:8 夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。

 ゼカリヤは、夜寝ているときに、何かによって突然目覚めたのでしょう。そして幻を見ました。そしていろいろな幻を連続的に見せられ、これが6章まで続きます。6章まで一夜に見た幻です。

 ゼカリヤは、これら幻を与える中心人物を見ました。赤い馬に乗ったひとりの人を見ました。そして彼はミルトスの木の間に立っています。この木は谷底にあります。ここのヘブル語は、「水の深いところ」とも訳すことができる箇所です。谷底にある水からミルトスの木が生え出ているのかもしれません。そして、この人のうしろには部下として、三頭の馬がいます。赤、栗毛、白い馬です。

 これらは一体、何なのでしょうか?ゼカリヤも次に同じ質問をしています。読んでみましょう。

1:9 私が、「主よ。これらは何ですか。」と尋ねると、私と話していた御使いが、「これらが何か、あなたに示そう。」と私に言った。1:10 ミルトスの木の間に立っていた人が答えて言った。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされたものだ。」

 地を行き巡るため・・・つまり偵察に行っていたのです。馬は軍馬です。戦うために、前もって偵察をしました。そして地上を行き巡って、今、ミルトスの木の間に立っていた指揮官のところに戻ってきたのです。

1:11 すると、これらは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えて言った。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした。」

 ミルトスの木の間に立っているのは、主の使い、ヤハウェの使いであることが分かりました。旧約聖書の中で、「ヤハウェの使い」が出てきたら、この方は受肉前の主イエス・キリストです。主イエス・キリストご自身が今、赤い馬に乗っておられて、戦う前に三頭の馬を行き巡らせておられたのです。

 そして偵察に行った軍馬は、「全地は安らかで、穏やかでした」と答えています。このときのペルシヤ帝国は平穏でした。バビロンは倒れ、周囲の国々も制圧し、メディヤ・ペルシヤ帝国は絶大な繁栄を誇っていました。

1:12 主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」

 当時のエルサレムの現状です。七十年の期間が過ぎて、ユダヤ人たちはエルサレムに戻ってくることができました。けれども、エルサレムの町は廃墟となっており、ユダヤ人の人たちは周囲の住民の中で細々と暮らしています。そしてかつての王国とは裏腹に、ペルシヤ帝国の支配の中で、外国人として抑圧されて生きていたのです。

1:13 すると主は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた。

 興味深いですね、今、いろいろな人物が登場しています。ゼカリヤのそばにいて、彼の質問に答えている御使いがいます。そして赤い馬に乗っておられる主の使い、イエス・キリストがおられます。その背後に、三頭の馬、天的存在がいます。そして、ここで父なる神、主がおられます。イエス・キリストが父なる神に対して、「なぜ憐れみを施されないのですか。」とお聞きになり、父なる神がお答えしているのです。

1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。1:15 しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。』

 ここで、谷底にあるミルトスの木、そして馬の意味が分かりました。ミルトスの木はイスラエルを表しています。エルサレムに帰還したユダヤ人のことを表しています。そして、水のある谷底は諸国の民です。(ダニエル書や黙示録でも、海や水は諸国を表していました。)イスラエルが、七十年の期間を経て、ようやくエルサレムに戻ってきたのに、彼らは異邦人のただ中にいて、苦しんだままだったのです。

 ここに、神のエルサレムに対する激しい感情が表れています。「ねたむほど激しく愛した」とあります。もし私たちが、列王記、歴代誌、そしてイスラエル王国時代に語られた預言書だけを読み、しかも丁寧に、注意して読まなければ、主はイスラエルに対して激しく怒っておられ、彼らから神の愛は去っていったかのように感じます。

 しかし注意深く読めば、彼らに対する主の愛は何ら変わることなく、御怒りを下している時でさえ主の内に抱かれていたことが分かります。私たちはしばしば、聖書を読む時にその意図を歪曲することがありますね。例えばパウロの手紙を読みその恵みの真理を聞いたら、罪を犯し続けても構わないと考える人たちが出てきます。事実、ペテロは第二の手紙でパウロの手紙を歪曲して滅びを自分の身に招いている者たちがいることを指摘しています。

 イスラエルに対して神は怒っておられ、神の選びはなくなった、神の愛はかつてのように注がれていないと考えるのは、同じように歪曲した読み方です。見捨てているどころか、先に説明しましたように、ガールフレンドが複数の男どもになぶりものにされている現場を見て、激しく怒り狂うような、ねたみの感情、熱情を抱いておられます。

 そして興味深い主の言葉は、「わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行なった。」との言葉です。主がイスラエルに対して怒りを現された時、しばしば周囲の敵に虐げるままにさせる方法を取られました。バビロンのネブカデネザルを、ご自分の「しもべ(エレミヤ27:6」とさえ呼ばれました。ご自分の御心を果たされるために、諸国のイスラエルに対する虐げをお許しになったのです。

 では、諸国の民自身は、イスラエルに対して行なった虐げが正当化されるのでしょうか?彼らが行なったことは、主の怒りを示すものであったのだから、彼らは正しいことをしたのではないか?と反論できるでしょう。いいえ、その反対です!ここに「彼らはほしいままに悪事を行なった。」とあります。この悪事に対する神の怒りは、イスラエルに対する怒り以上のものです。

 ゼカリヤが見た幻は、単に当時のペルシヤが支配する時代だけのことに限りません。主が再臨される時に、世界がどうなっているかの全般的な姿です。イスラエルは谷底に生えているミルトスの木です。イスラエルは、全世界の注目と、そして圧力を受けている小国です。そして、圧迫を受けているユダヤ人の周りで、世界の諸国が安逸を貪っています。

 どうでしょうか?今のイスラエルがまさにこの姿ではないでしょうか?イスラエルは、四国ほどの国も面積しかありません。そしてエルサレムはもちろん小さな町です。その町、そしてその国は、広大なアラブ諸国に取り囲まれています。これらの国はイスラエルを滅亡させることを切に願っている、イスラム教を信ずる国々です。

 そしてそれらイスラム諸国には豊富な石油があります。そのために、世界の諸国は容易にアラブに取り入ろうとします。去年11月に行なわれた、メリーランド州のアナポリス会議はその典型です。アメリカを含めて、世界が石油の利権のためにアラブに擦り寄り、その経済的繁栄の中で安逸をむさぼっています。そのために、イスラエルはいつも強い圧迫を受け、エルサレムの町は分割の危機にさらされています。

 その諸国の民に対して、主は怒りをもって臨まれます。黙示録19章で学んだとおり、主は馬に乗って諸国の民と戦われます。そして主はイスラエルを救い出し、エルサレムの町を回復してくださいます。

1:16 それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。・・万軍の主の御告げ。・・測りなわはエルサレムの上に張られる。』1:17 もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」

 これを聞いたゼルバベル、ヨシュア、そして残りの民はさぞかし慰められたことでしょう。現状を見たら、残骸が山となって積みあがっています。周囲の圧力を受けています。七十年の期間が過ぎて、せっかくエルサレムに帰還したのにこの様です。けれども主は、良い言葉、慰めの言葉を下さいました。主が、周囲の敵に戦ってくださり、また神殿を建て直してくださり、エルサレムの町は良いものが散り乱れるようになります。(四年後に神殿完成。七十五年後(紀元前441年)に城壁再建完成。)

 それだけではありません。これが、主が再臨された後のエルサレムの姿です。主が帰ってきてくださるというのは、ゼルバベルやヨシュアたちに霊的に臨んでくださるだけでなく、文字通り、目で見える形で、栄光の主イエス・キリストがエルサレムに王の王、主の主、そして偉大なる大祭司として戻ってこられ、そこから君臨されるのです。

2C 四人の職人 (第二の幻) 18−21
 ゼカリヤは別の幻を見ます。第二の幻です。諸国にご自分の怒りを示すことについての幻です。

1:18 私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。1:19 私が、私と話していた御使いに、「これらは何ですか。」と尋ねると、彼は私に言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ。」

 まず四つの角がありました。これらは雄羊や雄やぎの角でしょう。聖書では力の象徴であり、王国を表す時もあります。ここでは、その王国を表しています。ユダとイスラエル、またエルサレムを散らした国々として、四つ挙げられるとしたら何でしょうか?

 考えられるのは、ダニエル書2章と7章に出てくる四つの超大国です。ダニエル書2章には、ネブカデネザルが見た人の像の夢があります。金の頭、銀の胸と両腕、青銅の下腹、そして鉄の足でした。足の指は粘土が鉄と入り混じっています。そしてダニエル書7章には、獅子、熊、豹、そして鉄のきばを持ち、十の角を持っている獣でした。これらは共通の国々を指しています。つまり、バビロン、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、そしてローマです。

 これまでずっと王国としてイスラエルまたユダは生きていましたが、バビロン捕囚によって彼らは国としての主権を失いました。皆さんがイスラエル旅行に行ったら、テルアビブに「ディアスポラ博物館」に行くことができます。そこでは、ユダヤ人の離散の歴史はそのバビロン捕囚586年から始まります。そしてイスラエルが1948年に建国し、1967年にエルサレムをヨルダンから奪還してからはイスラエル国に主権が戻りましたが、厳密にはまだ離散の歴史は終わっていません。世界中にまだユダヤ人が散らばっているからです。

 ですから四つの角は、バビロン、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、ローマの四カ国であり、これらの国によってイスラエルは世界に散らされています。ローマという国は消えましたが、ダニエル書2章で、鉄と粘土による足の指の状態があるとおり、ローマ帝国の影響が今日に至るまで残っています。

1:20 そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。1:21 私が、「この者たちは、何をしに来たのですか。」と尋ねると、主はこう仰せられた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ。この者たちは、これらの角を恐れさせ、また、ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来たのだ。」

 四つの角の次は、四人の職人が出てきました。「職人」という言葉は、ヘブル語では木や石などを切ったり、彫ったりする職工を意味しています。つまり、威張り散らしている角の力を、完全に削ぎ落とし、思いのままにする存在が、それぞれの角に対して現れる、ということです。

 先ほどの、バビロン、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、ローマがそれぞれどのようにして滅んだかを思い出してください。バビロンは、ベルシャツァル王が大宴会を催し、金や銀、木などの偶像を賛美しているときに、壁に人の手の指が現れて、それがバビロン滅亡を予告するものでした。その夜にベルシャツァルは滅びました。メディヤ・ペルシヤは、ギリシヤのアレキサンドロス大王によって滅びました。そしてギリシヤは、ローマによって滅ぼされます。

 ローマはどうだったでしょうか?内部崩壊でしたが、本当の意味ではまだ滅んでいません。ダニエル書2章によると足の指があり、それは鉄ではなく、鉄と粘土が混ざりあった状態です。世界が一つの国にはなっていませんが、ゆるい連合、共同体のような状態になっています。現在のグローバル化がまさに、この状態です。

 そしてこのローマは、ダニエル書2章によると、人手によらず切り出された石が足の指を打ち、人の像は粉々に砕け散ります。そしてその石が大きな山となる、とあります。これがイエス・キリストによる再臨と、その後の神の国、メシヤ王国です。

 ですから、四つの角を打ち滅ぼす四人の職人とは、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、ローマ、そして神の国すなわちメシヤの国です。

 これが、神がユダとイスラエル、エルサレムを散らした国々に対する怒りです。ゼルバベルとヨシュア、またその他の指導者たちは苦しんでいました。エルサレムの町の城壁をネヘミヤの主導の下、完成した後でも、彼らがいのった祈りの中には、このように締めくくられています。ネヘミヤ記9章3637節です。「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りと、その良い物を食べるようにされたこの地で、ご覧ください、私たちは奴隷です。私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」ユダヤ人に対して比較的寛容な政策を取ったペルシヤ帝国の下でさえ、彼らはこのような苦しみの中にいました。

 ですから、これらの四つの角があるが、それらを打ち滅ぼす四人の職人がいるのだよ、というのは大きな慰めだったのです。けれども、最後の四人目の職人が現れるまで、彼らは苦しみ、耐え忍ばねばなりません。

 ペルシヤが滅んでギリシヤの国になっても、彼らはさらに酷い苦しみを受けました。ギリシヤが四つの国に分かれ、シリヤのセレウコス朝とエジプトのプトレマイオス朝の間の戦争のせいで、その中間に位置するイスラエルは踏み荒らされました。特にセレウコスのアンティオコス・エピファネスの時には、神殿の祭壇に豚をささげることを強要されて、荒らす忌むべきものが現れました。そしてローマになっても、もちろん彼らは苦しみます。

 そして、今もある意味、耐え忍んでいます。ホロコーストを終えた後のイスラエルが、その建国の第一日目が周囲のアラブ諸国による攻撃を受ける初日だったのです。そして今も、テロリズムの中に生きており、また世界からの政治的な圧力を受けながら生きており、角の影響を受けています。

 最後の四人目の職人が来て、初めての究極の解放が訪れますが、それがメシヤです。彼らは今もメシヤを待っています。一部の選ばれたユダヤ人は、イエスをメシヤであることを悟り、信じていますが、それでも大部分はかなくなにされており、まだメシヤを待っています。そして、そのメシヤが実は、二千年前に現れたナザレ人イエスであることを、彼らはこの方が再び来られる時に気づく、というシナリオがゼカリヤ書には克明に描かれています。

2A 主の守り 2
 こうしてユダを苦しめたことに対する主の怒りについての幻をゼカリヤは見ましたが、次は、エルサレムを主が建て直されることについての幻です。

1B 測り綱 (第三の幻) 1−5
2:1 私が目を上げて見ると、なんと、ひとりの人がいて、その手に一本の測り綱があった。2:2 私がその人に、「あなたはどこへ行かれるのですか。」と尋ねると、彼は答えた。「エルサレムを測りに行く。その幅と長さがどれほどあるかを見るために。」

 エルサレムの町の寸法を測るために、一人の人が出て行きました。その目的は、もちろんその地域の支配と主権を明確にするためです。その範囲内であれば、主が選ばれた町の中にいるということであり、主の臨在と守りの中にいる、ということです。

 聖書には、測り綱あるいは測り竿を使う場面がいくつか出てきます。そしてそれは、神殿か、あるいはエルサレムの町の大きさを測るためのものです。一つは、エゼキエル40章以降に、神殿の構造を知らせる、測り竿が出てきます。これは、イエス様が地上に戻ってこられた時にお建てになる、神の国の神殿です。

 そして、今読んでいるゼカリヤ書2章1節に、同じく千年王国におけるエルサレムの町の寸法を測る、測り綱が出てきます。

 そして黙示録11章にも、測り竿が出てきます。神殿の寸法を測るのですが、聖所や内庭の寸法を測るだけで、外庭はそのままにしておきなさい、という命令があります。なぜか?外庭は異邦人の管轄下にあったからです。

 この神殿はいわば偽物です。ユダヤ人たちの多くが、反キリストと契約を結び、自分たちが神殿の丘のところで神殿を建てることができる許可を得ます。けれども外庭の部分はイスラム教の岩のドームにあてがわれているゆえ、自分たちのものになりません。そして、このように神殿を建てることができるようにしてくれた反キリストを、彼らは待望のメシヤであると受け入れるのです。

 しかし黙示録11章を読むと、エルサレムの町は、霊的な意味でソドムとかエジプトとか呼ばれている、とあります。つまり道徳的に退廃していたのです。彼らは政治的に自分たちの自由を勝ち取ったと思っていましたが、それが神の御心ではなかったのです。政治的な解放よりも、もっと大事なのは霊的な解放であり、神の聖さにあずかることなのです。

 ゼカリヤ書を読み続ければ、ユダヤ人が、すぐに異邦人の抑圧から解放されることだけではなく、汚れが清められること、聖なる者とされることが大きな話題となっています。3章には、ヨシュアがきよい祭服を身に着けます。4章には、聖霊に満たされた二人の証人が現れます。現に、この証人二人が、退廃したエルサレムの町で、文字通り火を噴いて預言をするのです。外見だけで、聖さがなければ意味が全くないことを教えるためです。

 主が初めに来られた時に、主がユダヤ人と対峙されたことはこのことでした。主が、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31」と言われた時、彼らは、「私たちはアブラハムの子孫であって、一度も奴隷になったことはありません。」と答えました。そのこと自体間違っているのですが、彼らは主が、政治的な自由ではなく罪からの自由について話しておられたことに気づきませんでした。主は、「ならば、アブラハムが行なったように行ないなさい。」と言われました。彼らは心の中でイエスに対する殺意を抱いていたのです。その思いから解放されることがまず必要なことです。

 主は他の時には、「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5:43」と言われました。もし罪からの自由をお与えになる方を受け入れなかったら、他の人を受け入れることになる、ということです。そして事実、彼らはこれから偽メシヤを受け入れるのです。

 これは、今日の教会に対する警告でもあります。多くの教会が政治的になっています。環境問題、平和問題、エイズの問題など、社会的な活動によって神の国を大きくすることを目指すようになっています。そこに、キリストの十字架を付け足すように話している傾向を見ます。けれどもまず、罪の赦しという最も大事な人間の霊的必要が満たされずして、他のものを求めたらどうなるのでしょうか?偽キリストを受け入れるようになってしまうのです。主の再臨が来る前に、まず偽者が来臨します。気をつけなければいけません。

 測り綱の話に戻りますが、エゼキエル、ゼカリヤ、黙示録11章の他に、最後、天のエルサレムが測り竿で測られますね。金の測り竿でした。寸法はお話しましたように、一辺が2220キロメートルでした。そこに太陽はなく主の栄光があり、神と神の民が一つになっている究極のエルサレムの姿があります。

2:3 私と話していた御使いが出て行くと、すぐ、もうひとりの御使いが、彼に会うために出て行った。

 幻について、ゼカリヤの傍らで説明している御使いがいますね。彼が出て行ったら、また別の御使いが出て行って、彼に話しかけました。

2:4 そして彼に言った。「走って行って、あの若者にこう告げなさい。『エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。2:5 しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。・・主の御告げ。・・わたしがその中の栄光となる。』

 これは何とすばらしいことでしょうか?エルサレムが「城壁のない町」になるという約束です。当時の人たちにとって、城壁がない町というのは考えられませんでした。つねに外敵がおり、外敵から守られるためには城壁が必要でした。どの町にも自分たちを守るための城壁があるのです。けれども、そのような外敵からの攻撃を受ける心配が全くなくなるという意味が、「城壁のない町」にあります。周囲の敵に悩まされていたゼルバベルとヨシュアにとって、これは夢のような話だったでしょう。

 そして城壁がなくなる理由を話しています。「その中の多くの人と家畜のため」とあります。あまりにも多くのユダヤ人がエルサレムに戻ってきます。そして、彼らはとてつもなくすべてが豊かになり家畜も増えます。ですからあふれ出てしまい、城壁があっては邪魔になる、ということです。

 なんとすばらしい祝福と繁栄、平和の約束でしょうか!主は、離散のユダヤ人をエルサレムに戻してくださいます。「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。(エレミヤ書31:8」そして、家畜のことについては、イザヤ書3023節にはこう書いてあります。「主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。(23-24節)

 そして、主は、ご自分が火の城壁となるとおっしゃられます。覚えていますか、北イスラエルの預言者エリシャが、シリヤ軍に取り囲まれたときに、慌てふためいた自分のしもべに、こう祈りました。「『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(2列王記6:17」火の馬と戦車です。ゼカリヤが見た第一の幻の馬のように、天的な存在が火の中で現れています。

 ですから彼らは、あふれるばかりに祝福され、かつ主ご自身による守りがあります。この世では、このような理想の状態を望むことはできません。あふれるばかりの祝福を受ければ、その祝福を自分の欲望のために利用しようとする輩が出てきます。だから規制しなければいけなくなります。守らなければいけなくなります。壁を作らなければいけなくなります。けれども、主ご自身が守ってくださればそのような壁はなくなります。ゼカリヤ8章5節には、「広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」とあります。これを誰も監視をつけないで行なうことができるのです。

 そして主は、「わたしが、その中で栄光となる。」とも約束してくださいました。私たちは、今は、信仰によって、目に見えないものを見るようにして、主の栄光を眺めています。礼拝において、主を賛美し、また御言葉を聞きながら、主の栄光を見つめます。けれども主が再臨された後は、物理的に、目に見えるかたちで、主がエルサレムの王座のところで輝いておられるのを私たちは目撃するのです!なんとすばらしいことでしょうか!

2B 只中の臨在 6−13
 そして次に、エルサレムとは対照的なもう一つの大きな都について、主は言及されます。

2:6 さあ、さあ。北の国から逃げよ。・・主の御告げ。・・天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。・・主の御告げ。・・2:7 さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。

 「北の国」です。これはバビロンのことです。緯度的にはバビロンはむしろ東にありますが、エルサレムを滅ぼしたとき、彼らは北からやってきました。だから「北の国」という言葉が出てきたときは、バビロンのことを意味しています。

 今、主は「バビロンから逃げなさい」と命じておられます。当時この言葉を聞いたのは、すでにバビロンが滅んでペルシヤ帝国の中で生きていたユダヤ人の人たちです。エルサレムに帰還したユダヤ人は約四万二千人ですが、全体を考えるとごく少数でした。その他の人々は、バビロンで捕囚の民の生活をしながら、定住し、比較的安定した生活を送っていた人が少なくありませんでした。だからエルサレムに帰還しなさい、というクロス王からの発令を聞いても、今の生活を崩してまで行きたくないというのが、彼らの本音だったのです。

 ですから、バビロンという国はなくなっていますが、バビロン国で培った価値観はまだ生きていたのです。彼らはまだ、バビロンの影響下の中に生きていたのです。そこで主は、「シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。」と言われました。イザヤ書にも同じ呼びかけが書かれています(49:20)。

 黙示録18章に、バビロンがたちまち滅びる場面が出てきますね。バビロンが滅びるその理由は、「それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。(3節)」とあります。これを一言で言い表したら、「世の制度」です。自分たちが安逸をむさぼることができるように、他の善と呼ばれるものを踏みにじって成り立っている制度です。けれども、これに突然の破壊が襲います。

 このバビロンとエルサレムの町がいかに対照的であるかが、分かりますか?目で見えるところに従えば、エルサレムは今、廃墟なのです。どんなに一生懸命頑張っても、目に見える成果をあまり見ることができないのです。そして反対者がたくさんいます。しかし後には、輝かしい栄光が用意されています。

 バビロンは、今、栄華に満ちています。神なしで、自分で生きていくことができます。けれども、後には突然の破壊が訪れます。そして全てのものを失います。

 私たちはどちらに賭けるべきでしょうか?もちろんシオンですね。そして私たちに対する神の呼びかけは、当時のユダヤ人と同じ「バビロンから離れて、シオンに逃れよ。」です。私たちの生活で、どんどんバビロンが忍び込んでいます。これまでは普通の生活をしていたら、罪の中におぼれてしまう環境の中にいます。これまで楽しんでいたファミリータイムのテレビ番組にさえ、私たちを罪の中に引き込む誘惑に満ちています。

 では、私たちは修道僧のような生活をしなければいけないのでしょうか?いいえ、これをしてはいけないという規則を作る以上に、天を見上げてください。天から主が来られることに興奮してください。天のエルサレムをあこがれてください。神様のことで心をいっぱいにしてください。そうすれば、それらの罪が私たちの生活に力を失っていきます。

 私たちが主のことで興奮していれば、すべてがバラ色でないことを知るべきでしょう。当時のユダヤ人のように、主のために何かをしようとするなら反対にあいます。がっかりします。けれども、自分の生活を楽にしないでください。バビロンからは逃げてください。シオンに逃げてください。

2:8 主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。2:9 見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。

 「ひとみに触れる」とありますね。瞳は、非常に敏感なところであり、何か物が飛んできたら、すぐに目をつむって守ろうと反射的に体全体が動くところです。私が中学生の時、教室で目を怪我したことがあります。同級生二人が、プラスチックではなく金属の鉛筆削りをキャッチボールして遊んでいたのが、自分の目に飛び込んできたからです。そして、私が目をつむる前に飛び込んできたので、角膜に傷がついてしまいました。

 学校は親も集めました。そして、その同級生二人が私に謝りました。私はちょっと許せない気持ちが出ていました。彼らに対してもそうですが、それを反射的によけることができなかったこと自体が、くやしくてしょうがなかったのです。普通は目をつむるじゃないか・・・。と思ったのです。

 このように、瞳は非常に敏感です。かつて主は、荒野の旅をしているイスラエル人をご自分のひとみであると言われました。「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。(申命32:10」イスラエルに立ち向かった王たちは、ことごとく倒されました。

 主は、その後も同じようにイスラエルを守られました。先に、四つの角が打ち倒された幻を読みましたが、その理由は彼らがユダを散らしたからですね。バビロンの運命、メディヤ・ペルシヤの運命、ギリシヤの運命、そしてローマの運命が、彼らがユダヤ人に触れたことによって決まりました。

 ですから異邦人は、ユダヤ人について健全な、一定の恐れを抱いていなければいけません。聖書の中にそれを知っていた人たちがいました。例えばエジプトの助産婦らです。ヘブル人の男の子を、パロの命令に反して生まれるままにさせました。カナン人のラハブがいました。イスラエルからのスパイを自分の家にかくまいました。両者とも、神を恐れて手を出すことはできないと判断したからです。

 そしてそれは聖書時代だけでなく、今もそうです。近代には、ヨーロッパのキリスト教世界とナチスがいました。現代は、イスラム諸国から出てくる露骨な反ユダヤ発言があります。そしてパレスチナ・テロ組織は、それを実行に移しています。それを後押ししている周辺イスラム諸国があります。そして、世界中で静かな反ユダヤ主義が浸透しています。何か問題が起こると、それはイスラエルのせいである、ユダヤ人のせいであるという空気がよどんでいます。

 そしてこのことは他人事ではありません。終わりの時は、キリスト者が迫害されることも預言されているからです。福音が世界中に広まると同時に、キリスト者が憎まれる時になります。私たちは信仰の自由が許されているごく一部の地域に住んでいるわけですが、実は、例えばこのように私が話しているのを秘密警察やスパイが監視している所のほうが多いのです。

 そしてそのことに気づかずに安穏としている自由主義社会があります。その自由主義社会の中に、一切の自由を認めない破壊分子が入り込んで、内部から自由を奪い取っている時代に入っています。ある有名な聖書教師は、私たちは気づいたときには中世の暗黒時代のようになっていることに気づく、その時は何の身動きもできないだろう、と言っていました。けれども主は、こうした国々に対してご自分のこぶしを振り上げる、と約束されています。

 そしてまた、これらの国が反対にユダヤ人のしもべとなる、と約束してくださっています。興味深いのは、御国の福音は、すべての者を反対にすることです。自分を低くする者は高められます。今、泣いている人は笑うようになります。今、笑っている人は泣くようになります。そしてマタイ5章5節には、へりくだった人や柔和な人が、地を相続すると主が約束してくださっています。御国で多くの人を従えている人は、今の世において謙虚な人なのです。

2:10 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。・・主の御告げ。・・

 何をもって、シオンの娘は喜び歌いますか?そうです、主が彼らの只中に住まれるので、喜び歌うのです。これこそが福音です。罪のために、私たちが神から引き離されているのを、キリストの血が近づけてくださいました。そして、神と私たちが一つとなること、一つに交わりを保つことができることが福音です。主との交わりには喜びがあります。罪が清められたところには、喜びがあります。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。(1ヨハネ1:3-4

2:11 その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。

 ユダヤ人だけでなく、異邦人も主を礼拝して主に仕えます。これも、すばらしい福音です。アブラハムに対して主は、すべての民族があなたによって祝福される、と言われましたが、そのとおりになります。使徒行伝には、これから異邦人のところに行く、と言ったパウロとバルナバの言葉を聞いて、神をほめたたえる異邦人の姿を読むことができます。福音はイスラエルのためだけだと思っていた異邦人にとって、自分たちも救われることができる話を聞いて喜び踊ったのです(使徒13:48)。

 主が再臨されると、世界中から主を礼拝しにエルサレムに来ることがゼカリヤ書の最後のところに預言されています。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(ゼカリヤ14:16」他の預言書にもたくさん記録されていますが、例えばイザヤ書にはこう書いています。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。 (イザヤ2:3

 これらの預言は大患難を潜り抜けて、主を認めた民族のことです。教会は、こうした人々をキリストとともに治めることになります。黙示録19章で学んだ通りです。

2:12 主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」

 「聖なる地」とは、もちろんイスラエルのことです。私たちはイスラエルをしばしば「聖地」と呼びますが、その呼び名は聖書にここにしかありません。

 そして「割り当て地」とあります。主がアブラハムに約束してくださった境です。エジプトの川からユーフラテスまでと主が言われたところです。そして詳しい線引きを、エゼキエル書の最後の章で読むことができます。そこには、各部族がどこからどこまでを割り当てられるか詳細に記録されています。

 ダニエル書の最後にも、90歳以上になっていた晩年のダニエルに対して主が、「あなたは、時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。(12:13」と約束してくださいました。

2:13 すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。

 この「聖なる住まい」とは、何ですか?天のことです。神の御座があり、神の聖所があるところの天です。旧約時代の聖徒たちでさえ、エルサレムの地上の神殿に主が御座を持っておられるとは信じていませんでした。天と地が揺り動いても、びくともしないところに神の都があることを証ししています(詩篇46)。

 そこから主が戻ってこられます。イエス様は今、神の右に座しておられます。イエス様が立つときが来ます。今でもお立ちになることがありますが、それは殉教者を迎え入れる時です。ステパノが石打ちにあったとき、イエスが立っておられるのを見ました(使徒7章参照)。

 けれども、立ち上がってまた座ることなく、地上に戻って来られる時が来ます。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。(詩篇110:1」と父なる神が子なるキリストに言われましたが、全てのものを足台にするために戻って来られるのです。

 だから、「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。」と命じているのです。今は、主に立ち向かっている者たちがたくさんいます。多くの言葉で、なぜ神を受け入れないのかの言い訳をしています。けれども主が戻って来られたら、ただ黙して、ひれ伏すだけです。

 私たちには一つの選択しかありません。すべての人が、「イエス・キリストは主である。」と告白する選択しかありません。「いや、信じない選択もあるでしょう。」と言う人がいるでしょう。間違いです。すべての口と舌が、イエス・キリストを主であると告白すると、ピリピ書に書かれています。

 問題はどのように告白するかです。今、心に迎え入れれば、それは救いのための告白です。その悔い改めは、悔いのない喜びをもたらします。けれども、今、迎え入れなければ、それは悲しみの告白です。黙示録1章には、「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。(7節)」とあります。もはや後戻りできない、後悔の告白です。いずれにしても、認めます。喜びと救いに至る告白か、悲しみと後悔をもたらす告白かの、どちらかです。

3A 主の義認 (ヨシュアの衣 第四の幻) 3
 次に、場面は大祭司ヨシュア本人に入ります。第4章はゼルバベルのことについてですが、幻がマクロからミクロに移っていますね。第一の幻は、谷底のミルトスの木の下におられる主の使いでした。そして第二の幻では、四本の角と四人の職人ですが、これらはイスラエルの国が世界の国々の中でどのように翻弄されていたかを描いています。そして第2章はエルサレムの町全体についての幻でした。ですから世界にあるイスラエルから、エルサレムの町にズームをアップしています。そして3章と4章の舞台は、神殿です。神殿で仕える大祭司ヨシュアと、神殿再建を指揮するゼルバベルに焦点を当てています。

 そして、この二人が主から取り扱いを受けるにあたって、私たちが知らなければいけない、非常に大切な二つの教理について学びます。一つは、義認です。主の前に出ても、罪を咎められることなく、正しいと認めていただけるのか?という問題です。もう一つは、御霊による働きです。私たちの肉ではできなくなっていることを、キリストが御霊によって行なってくださる、という内容です。

1B きよい服 1−5
3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。

 この幻は、ちょうど法廷の場面になっています。主の使い、つまりイエス・キリストがここにおられます。そしてその前にヨシュアが立っています。彼は被告です。そしてヨシュアの右側に原告であるサタンがいます。そしてゼカリヤにこの幻を見せておられる父なる神、主がおられます。

 今、ヨシュアが大祭司としてサタンからの告発を受けていますが、大祭司は、イスラエルの民を代表して神の前のところに行く務めを担っています。「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。」とヘブル書5章1節にあります。今、彼が告発されているのは、彼本人だけの問題ではなく、彼が代表するイスラエルの民全体が告発されているに等しいです。

 そしてサタンが告発しているわけですが、これがサタンの主な働きです。ヘブル語で「サタン」は告発する意味があります。そして黙示録12章には、サタンが「兄弟たちの告発者(10節)」と呼ばれています。

 具体的にどのように告発するのかを見てみましょう。ヨブ記1章を開いてください。サタンがヨブを告発する場面が出てきます。8節から読んでみましょう。「主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。』サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。』(8-11節)」サタンの告発内容は、人間には罪があり過ちがある。だから、彼らは神に受けられることはない、というものです。これを他の言葉では、「罪に定める」とか「断罪」と言います。

 どうでしょうか?私たちにとって、サタンは非常に身近な存在ではないでしょうか。自分の過去の過ちについて、私たちは思い出します。そして苦しみ、悩みます。主が罪を赦されたことを頭では知っているのに、それでも自分が行なったことで自分を責めます。

 そこでもし私たちが、「私はもはや、キリストの弟子として主についていくに値しない人間だ。これ以上、主に従ったらキリストの御名が汚される。もうクリスチャンでいるのをやめよう。」と考えたら、それがサタンの仕事の成功です。私たちが、キリストの御業ではなく自分たちの行ないに注目させ、それで神には到底、到達することはできないと思わせ、それで私たちをキリストから離すように仕向けるのが、サタンの役目です。

 罪に定めるのと似ているようで、全く別の働きを聖霊は行なわれます。それは、「罪の自覚」です。英語ではconvictionと言います。罪に定めるほうは英語ではcondemnationと言いますが、同じCから始まる単語ですね。

 ご聖霊も、罪について、世に誤りを認めさせる働きをされることを主が言われました(ヨハネ16:8)。けれどもその罪とは、「彼らがわたしを信じないからです。(同9節)」と主は言われます。つまり、ご聖霊は必ず、私たちに罪の自覚をお与えになるのと同時に、その罪の罰をキリストがご自分の肉体に受けられたことをお知らせになります。そのことによって、私たちは神のあわれみを受けるために、キリストの十字架へと走っていくことができるのです。

 サタンが、私たちが犯した罪について行なうのは私たちをキリストから引き離すことであり、神の聖霊が行なわれることは、私たちをキリストに近づけることなのです。

 サタンが行なう告発は、非常に効果的です。なぜなら、実際に聖なる神の前では、人間は義人ではなく罪人だからです。神の裁きに服さなければいけない存在です。先ほど読んだヨブ記においても、主はサタンが行なった告発に対して、「ヨブは神を呪うようなことは決してしない。あなたは間違っている。」と告発を封じることはありませんでした。ヨブが、そのままのヨブであれば、神の憐れみの覆いをまとっていないヨブであれば、彼は神を呪うかもしれない可能性はあったのです。

 ですから、サタンが検察人である神の法廷においては、私たちが目にする法廷とは異なる場面を見ます。被告は必ず、自分が告発されるようなことを行なっていないと主張するわけですが、それはできません。ただその罪に対する刑罰の判決を、どうするべきかが審理されるのみです。

3:2 主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」

 初めに出てくる「主」は、主の使いのことです。そして、「主がおまえをとがめている」と主の使いが言われているのは、父なる神である主です。

 今、裁判官であられる主が、訴えている原告のサタンを反対に咎めておられます。この告発はルール違反であり、今すぐにでも取り下げなければいけないと命じておられます。ヨシュアは確かに、罪を負っているのです。次の3節には、彼はよごれた服を着ている、とあります。なのに、ルール違反である、その告発こそ罰せられなければいけない、と責めておられるのです。なぜでしょうか?神が持っておられるその根拠を一つ一つ、見ていきましょう。

 一つ目は、「エルサレムを選んだ主が」とあります。2章で学びましたね、主は再びエルサレムを選んでくださいました。これは、サタンを咎めておられることとどういう関係があるのでしょうか?エペソ書1章を開いてみましょう。4節です。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(下線筆者)」ここに「選んだ」とありますね。何の目的のために神は選ばれましたか?「御前で聖く、傷のない者にする」ためです。

 そして2章も見てみましょう、3節から読みます。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・(3-5節)

 つまり、神は一方的に私たちを憐れみ、聖い者にしようと一方的に定められたのです。裁判官であり、人を殺すことも生かすこともできる権威を持っておられる主ご自身が、この者を殺さない、生かして聖なる者とする、と決められたのです。だから、サタンがいくら告発しようとも、神がもう聖くすると決められたのですから、どうすることもできません。ペテロの手紙第一には、「キリストに従うように、またその血を注ぎかけを受けるように選ばれた(1:2」とあります。キリストの血によって、すべての罪が清められるように選ばれたのです。

 そして神がサタンを咎めておられるもう一つの根拠は、「これは、火から取り出した燃えさしではないか。」というものです。この表現は、アモス書4章11節にもあります。「わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・」主がイスラエルに対して、激しい試練を与えられました。彼らが神に立ち返らないので、外敵によって打たれるようにされました。そして残りの民を神が完全に燃えつくされないように、拾い出してくださる、というのです。

 これは、主が再臨される前に、ユダヤ人が大きな試練の中に入れられます。私たちは黙示録12章でも学びましたが、ユダヤ人はホロコースト以上の患難に入らなければいけません。ゼカリヤ書13章9節にそのことが書いてあります。「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う。」主は、ご自分の御名を呼ぶ者を救ってくださると約束してくださいましたね。そして、主は心砕かれた者を憐れまないようにすることは、決してありません。

 ですからどんなに恐ろしい罪を犯したとしても、私たちがへりくだって、主の前に悔いて、憐れみを請うなら、これまでの罪が怒涛のごとく自分を押し寄せてきたとしても、主はそれらの罪をすべてお赦しになり、まったくきれいにしてくださるのです。イスラエルの罪がどんなに重くても、御名を呼び求める残りの民の願いを主が聞いてくださいます。それなのにサタンが告発しているので、主は今、サタンを咎めておられるのです。そして3節を読みます。

3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。

 この「よごれた」と訳されている元々の意味は、「肥溜め」のことです。トイレから流れてくる、汚水を溜めているところです。ものすごくグロテスクな表現ですが、罪に汚れているというのは肥溜めのようにグロテスクなのです。それだけ人は堕落しています。

 宗教改革者、ルターが好きな詩篇として選んだのが、130篇です。こう書いてあります。「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(1-4節)」深い淵、つまりどん底に落ちてしまった状態です。自分ではどうすることもできない状態です。ただ主が御手を穴の底に降ろしてくださって、自分を引き上げてくださらない限り何もすることができません。

3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」

 主がサタンの告発を退けられた三つ目の根拠は、「汚れた服を脱がせる」ことです。罪を完全に清めてくださることです。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12」「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:22

 そして主は、汚れた服を脱がせてくださるだけではありません。ヨシュアに「礼服」を着させてくださいます。この礼服は、出エジプト記28章に大祭司が身につける、聖なる装束のことです。胸当て、エポデ、青服、飾り帯など、非常に美しく、栄光に富んだ服装であります。胸当てには、イスラエル12部族を表す宝石が埋め込まれています。エポデは、金、青、紫、緋色の糸で織られています。肩当てにも、イスラエルの名を刻んだ宝石が使われます。鎖は純金で作られています。これらはみな民が聖なる神の前に出るときに、神の栄光を反映させていることを象徴しています。

 これが、聖書が教える義認です。義認は、単に神が私たちの罪を見過ごしてくださることだけに終わりません。キリストの義を着物のようにして、私たちが見につけることを意味します。キリストの義です。大祭司が身に着けた礼服のように、栄光と美に輝いたところの義です。

 ですからこれは私たちの義ではありません。神の義なのです。神の義が、私たちのものであるかのように転嫁されたものなのです。サタンは、私たちのありのままの姿を使って告発します。そうなんです、私たちはありのままの姿では決して神に近づくことはできません。私たちは汚水槽なのです。けれども、神はご自分の御子キリストの上にそのすべての汚れを注がれたのです。十字架はなんとむごたらしいことでしょうか。それもそのはず、私たちの汚水をすべて受けているのですから。そして私たちが、代わりにキリストの正しさを身にまといました。

 ですから私たちは、キリストにあって神に大胆に近づくことができます。なぜなら、神が私たちを見るときに、キリストにある私たちを見てくださるからです。キリストの義は完全ですから、私たちを完全な者としてみなしてくださるのです。

3:5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。

 ゼカリヤは興奮しました。これは何とすばらしいことか!と思いました。そこで彼は、思わず、「きよいターバンもかぶせなければいけません。」と言いました。ゼカリヤは祭司ですから、装束についてよく知っています。きよいターバンはかぶり物のことです。出エジプト記28章にはこう書いてあります。36節からです。「また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が主の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。(36-38節)

 頭に、「主への聖なるもの」と彫られた純金の札が、このかぶり物にはついています。主の前に大祭司が出るときに、イスラエルの罪を贖うための儀式を終わらせた祭司が、主の前に頭を上げて出て行くことができます。

2B 一つの若枝 6−10
3:6 主の使いはヨシュアをさとして言った。3:7 「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。

 主が回復の業を行なってくださいました。汚れた服を着ていたヨシュアが、聖なる装束を着て、神の宮で奉仕をすることができるようになりました。今、主がヨシュアを諭しておられます。ちょうど、主イエスが、姦淫の現場で捕らえられた女に、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われた後、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(ヨハネ8:11」と言われたのと同じです。

 そして大祭司として三つのことを約束してくださいました。一つは、「宮を治める」ことです。治めるということは、権威が与えられたということです。神の宮の責任者となりました。そして二つ目は、「主の庭を守る」ことです。神殿の外に内庭があり、その外には外庭がありますが、それらを守っていくことです。 そして三つ目は、「宮に出入りする者」となったことです。主の前に、自由に出て行くことができることです。近づくことができる、接触することができる、アクセスすることができる、という意味です。この約束が、「これら立っている者たちの間で」つまり、天使たちの間で行なわれます。天使たちが見ている中で行ないます。

 なんという約束でしょうか!キリスト者にも神の祭司として同じことが約束されています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(ローマ5:2 下線筆者)」天使たちは、このことを驚いてみています。「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。(1ペテロ1:12

3:8 聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。

 回復し、宮の奉仕を再開するヨシュアは、一つの徴となる、と主は言われます。それは、ヨシュアが一人の人物を指し示すことになるからです。その人物とは、「わたしのしもべ」そして「一つの若枝」です。

 イザヤ書に、「主のしもべ」の預言が詳細に行なわれています。「慰めよ。慰めよ。」から始まるイザヤ書40章以降に数多く出てきます。421節から、こう書かれています。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(1-3節)

 もうお分かりですね。私たちの主、イエス・キリストがこのしもべです。イザヤ書5213節からは、しもべが高く上げられることが預言されています。「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、・・その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。・・そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。(13-15節)」お分かりですね、高く上げられるとは栄光の輝く王の姿ではなく、そこなわれた顔立ち、とても人間とは思えないような悲惨な姿として上げられることです。そうです、十字架です。

 そして読み続けると、53章からこう書かれています。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(1-2節)」ここに出てきました「若枝」です。ヨシュアに対してゼカリヤが預言した、もう一つのメシヤの呼び名です。主のしもべである方は、若枝のように芽生え、出てこられました。

3:9 見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。・・万軍の主の御告げ。・・わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く。

 メシヤのもう一つの呼び名は「石」です。イスラエル旅行に行かれた方は、イスラエルという国が石だらけであることに驚いたでしょう。家々も主に石でできています。イエス様が大工の息子と聞くときに、それは石を切り刻む石工でした。

 そのため、聖書にはたくさん「石」の比喩が使われています。神は救いの岩とも呼ばれます。そしてダニエル書2章には、再臨されるときの主が、「人手によらず切り出された石(34節)」と形容されています。この方が石として、異邦人の国々をことごとく砕かれるのです。

 そしてこの石には「七つの目」があります。これは、御霊が全知の目をもって世界をご覧になっていることを意味しています。次の章4章に、御霊の働きとして「全地を行き巡る主の目」と書いてあります(10節)。そして黙示録には、子羊に七つの目があり、その目は全世界に遣わされた御霊である、とあります(5:6)。

 そして石には、神から彫り物を刻まれている、とあります。父なる神が御子イエスをこう呼ばれました。「これは、わたしの愛する子。(マルコ9:7など)」御子の名が刻まれています。

 そして、イスラエルの不義は一日にして取り除くという約束をしてくださっています。すばらしいです、一日です。たった一日で、これまで犯した罪が清められるのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9

3:10 その日には、・・万軍の主の御告げ。・・あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。」

 木の下に人を招くのは、平和のしるしでした。アブラハムがマムレと盟友関係を結んでいたとき、彼はマムレの樫の木の下に住んでいたことが書かれています(創世13:18)。そしてミカ書4章にこう預言されています。「主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。(3-4節)

4A 主による建て上げ (一つの燭台 第五の幻) 
 この幻を見た後に、ゼカリヤは少し眠くなったのでしょうか?次の幻を見るときに、彼は御使いから起こされたようになります。

1B 恵みの御霊 1−10
4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」

 これで第五番目の幻ですね。今、読んだとおり、第五の幻は燭台でした。ここの描写は、皆さんもよく目にするミノラです。主がモーセを通して、幕屋の聖所の中に燭台を置くことを命じられました。そしてソロモンが神殿を建てた時にも、燭台が聖所の右側に五つ、もう左側に五つ置きます。

 けれども、ここでミノラと異なる点があります。それはともしび皿に油を補充するのは祭司です。祭司が来て、火が消えることがないように日ごとに油を補います。それがここでは、オリーブの木から直接管がつながっており、その管から間断なく油が注がれているのです。つまり、人が働きかけなければ消えてしまうようなものではなく、絶えず注がれ、光っている、ということです。

4:4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」

 祭司であるゼカリヤは、もちろんミノラについては知っていました。ここでゼカリヤが尋ねているのは、オリーブの木からなぜ、このように油が流れているのか?ということです。

 ミノラの光は、イスラエルが国々の光になることを意味します(イザヤ42:6)。そして教会では、キリストが教会の中に臨在されていることを意味します。黙示録1章には、栄光の主が七つの金の燭台の真ん中におられることが書かれています(13節)。けれども、ここでオリーブの木から絶えず油が注がれている姿は、何を意味しているのかが分からなかったのです。

4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」

 子供みたいに素直ですね。ゼカリヤは分からないことを、そのまま分かりませんと答えています。そして、御使いはここであえて、「これらが何か知らないのか」と確認しています。次の大事な真理をゼカリヤに宣言するためです。

4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

 「わたしの霊」つまり、このオリーブの木から絶えず注がれる油は、主の御霊を表していました。ヨハネの第一の手紙にも、御霊のことを油と呼んでいるところがあります。「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。(1ヨハネ2:27

 そして、この幻は「ゼルバベル」に対するものでした。ヨシュアが宗教的指導者、霊的指導者であるのに対し、ゼルバベルは政治的な指導者です。彼は、神殿の実際的な建築を指揮し、そのために必要な実務的な手続き、またそれに伴う政治的な調整、そして敵からの攻撃に備えて軍事的な力も考えなければいけませんでした。そして工事を行なうにあたって、数多くの人材が必要でした。

 先に説明しましたように、この神殿再建プロジェクトは困難を極めました。瓦礫の山から出発して、これでもか、これでもかというばかりに、その工事に反対する要素が出てきました。自分の手をたくさん動かしても、成果として目に見えるものがあまりありません。そのような中で主が、ゼルバベルに、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われたのです。

 権力というのは、政治的な力、また軍事的な力です。そして能力というのは人材です。人間の能力のことです。これらのものによって神殿再建プロジェクトを進めるのではなく、主の御霊によって成し遂げられる、という約束がここでの言葉です。

 先ほど3章ではクリスチャンにとって、非常に大切な教理である「義認」について学びました。ここ4章では、もう一つ大切な教理である「御霊の働き」について学ぶことができます。

 新約聖書は福音書から始まり、その次は使徒行伝と続きます。口語訳は「使徒行伝」と呼び、新改訳は「使徒の働き」そして共同訳は「使徒言行録」です。この題名であれば、使徒の働きとその活躍が中心に描かれていると思われてしまいます。けれども、実際は聖霊の働きが中心です。

 確かに使徒たちはたくさん動きます。前半はペテロやヨハネが、後半は使徒パウロが活躍します。けれども私が初めて使徒行伝を読んだとき、非常に驚いたことがあります。それは、主の弟子たちであった彼らが、福音書で主だけが行なわれた業を行なっていることでした。福音書で記録されている奇蹟としるしが、使徒行伝においても継続していることでした。

 これがご聖霊の働きなのです。主は御霊の約束を弟子たちに与えられたとき、「もうひとりの助け主(ヨハネ14:16」と呼ばれました。この「助け主」のギリシヤ語パラクレトスは、「助けるためにそばに来る」という意味があります。主が地上におられたとき、主が彼らの助け主であられました。いつも彼らの弟子たちのそばにいて、いろいろ助けてくださいました。

 けれども主がこれから十字架につけられ、よみがえられ、そして天に昇られます。彼らは一人ぼっちになってしまいます。けれども主は、「わたしはあなたがたを孤児にしない。もうひとり、助け主が来られる」と約束してくださったのです。そして、この「もうひとり」のギリシヤ語は、「同じ性質でありながら違うもの」という意味があります。キリストと全く同じ性質を持ちながら、別の人格、位格を持っておられる方です。

 主は、復活されてから約束されました。「わたしは、世の終わりまであなたがたとともにいる」と。そしてマルコ伝では、「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(16:20」と記録されています。聖霊が彼らのそばにおられて助けてくださったのですが、それはキリストが彼らのそばにおられたのと同じだ、ということです。三位一体の神です。

 だから、使徒行伝を読んでも、主が物理的におられなくても、福音書と同じような奇蹟としるしを読むことができるのです。主は昇天される前に、弟子たちに約束されました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8」上から臨まれる聖霊の働きがあります。この働きによって、私たちは主が命じられていることを行なうことができるのです。

 そして御霊は、外側で働きかけるだけの方ではありません。私たちが主を信じた時に、御霊は私たちの内に住んでくださいます。私たちが肉の弱さによってできなくなっていることを、キリストは十字架の上で肉のからだにおいてその罰を受けてくださいました。そして御霊に従うことによって、肉の行ないを殺すことができるようになった、とローマ8章に書かれています。ガラテヤ書5章16節には、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」との約束があります。

 クリスチャンとしての成長は、いったい何を意味するのでしょうか?もっと良い人間になることなのでしょうか?違いますね、その反対です。自分で何とかできるようになるという肉がいかに弱いものであるかを知ることが、成長の過程です。自分の肉はキリストとともに十字架につけられたことを知り、それによって自分ではなく、御霊に拠り頼むことができるようになっていくことが成長です。ちょうど、ローマ人への手紙7章にて「わたしはしたいと思っていることをすることができず、憎んでいることをしているのです。」という嘆きから、ローマ8章、「いのちの御霊の原理によって、罪と死の原理から解放された」という喜びに移ることです。

4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

 この「大いなる山」とは、神殿再建を阻むいろいろな障壁のことを意味します。その山がゼルバベルの前で平地になります。これが、御霊が行なわれることです。私たちがこれまで一生懸命伝道してきた相手がなかなか信じません。日本ではクリスチャンの人口が1パーセント未満です。こういう伝道をしよう、ああいう教会形成をしようと努力します。けれども、それは大きな山のようにびくともしないのです。

 けれども、御霊が働けば、その問題は一秒で解決します。いや、瞬時に解決します。カルバリーチャペルの牧師たちや、そこに集っている人々の証しが、それを物語っていますね。私の知り合いで、ホモだった人がある牧師の説教を聴いて、一瞬にして回心した人も知っています。私の両親も、神のみことばを聞いているときに御霊に打たれて、号泣しながら回心しました。

 ですから、ゼルバベルは「恵みだ!恵みだ!」と叫んでいるのです。自分で行なったことではないのです。祭司が日ごとに油を注入しなければ消えてしまうものではなく、完全に一方的な主の働きによるのです。

 御霊と恵みは切っても切り離すことができません。御霊は恵みの御霊です。「信仰」と「恵み」と「御霊」これは切り離すことができません。信仰によって生きるとは、神の恵みの中に生きることであり、御霊に導かれることと同義語です。神が主体的に働かれるところに、自分が置かれている状態です。自分は動いているのですが、その動きとはまったく関係なく物事が進んでいきます。

 ゼルバベルが運び出している「かしら石」とは、礎石のことです。建築物の完成を意味しています。神殿建設が御霊の働きによって完成するという約束です。

4:8 ついで私に次のような主のことばがあった。4:9 「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。

 この預言はゼルバベル自身が運び出す、つまり建築が完成する、という預言。四年後に実現しました。ピリピ書にある約束の通りです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6

 ここに、「ゼルバベルの手」とありますね。次の節にも、「ゼルバベルの手にある下げ振り」とあります。仕事をしている手です。これが大事です。主が恵みの業を行なってくださるとき、私たちの役目は、つかんでいる手を離さないことです。自分たちにはどうしようもできないことを分かりながらも、なおつかんで離さない手です。どんなに成果が現れていないように見えても、どんなに些細なことのように見えても、なお離さない手です。手を離さなければ、主が成し遂げてくださいます。ガラテヤ6章9節にこう書いてあります。「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

4:10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」

 その日を小さな事としてさげすんだのは、老年のユダヤ人たちです。先に言及しましたが、神殿の基が据えられたときに、彼らは定礎式を行ないました。そこで喜びの声と嘆きの声が混じりあいました。喜びは若者のユダヤ人から出ていますが、嘆きはソロモン神殿を見た事のある老年のユダヤ人から出ています。ソロモンの神殿と比べたら、あまりにもお粗末だったからです。けれども今言いましたように、小さなことのように見えても、それをやり続けることが大事です。

 そしてゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜んでいるのは、七つのともしび油です。つまり聖霊ご自身のことです。この方が、全地を行き巡り主の目になっておられます。4章では、石に目がついているとありましたが、主キリストに御霊がとどまっておられることを意味しています。

2B 二人の油注がれた者 11−14
4:11 私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」

 油が不足することなく注がれることが御霊であることはわかった。けれども、その油を供給しているオリーブの木は何ですか、と聞いています。

4:12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」4:13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」

 これもまた、御使いがオリーブの木について大切なことを話すので、あえて確かめています。

4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」

 油を注いでいた、ということで、油注がれた者という意味でした。ヘブル語では「メシヤ」です。

 油注がれた者とは、もともと神による任命を受けるとき、王、祭司、預言者などが油注ぎを受けるところから始まります。そこから発展して、神がご自分から引き離されて呪いを受けているじを再び癒し、回復し、ご自分のものにする、贖い主をメシヤと呼んでいます。

 ゼルバベルとヨシュアは、神に油注がれた二人であると言えます。霊的にイスラエルを神のところに連れて行く祭司の働きとしてヨシュアが任命を受け、政治的な働きにおいてはゼルバベルが油注ぎを受けています。

 けれども、ふたりの油注がれた者は「全地の主のそばに立つ」とあります。先ほどの御霊の働きも「全地を行き巡る目」とあります。これは、当時の神殿再建のときだけを描き、エルサレムの町における働きを超えて、全世界的な、終わりの時の働きに言及しているのです。

 新約聖書にここの箇所を引用しているところがあります。黙示録11章に出てくる、二人の証人です。2章の学びでも言及しました。エルサレムに神殿が建てられますが、外庭はまだ異邦人の手に渡されています。エルサレムの町はソドム、エジプトと呼ばれるぐらい退廃しています。そのイスラエルにリバイバルをもたらすため、イスラエルが再び世界の光になるようにするため、二人の証人が文字通り火を吹いて預言します。


それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。(3-6節)

 彼らは一度殺されますが、三日半後によみがえり、天に引き上げられます。それを見ていたエルサレムの住民が、「恐怖に満たされ、天の神をあがめた。(13節)」とあります。この出来事を通して、また14万4千人のイスラエルの伝道者らの働きを通して、イスラエル人の中で霊的復興が起こります。最終的に、主が戻ってこられる時にイスラエル国民がイエスをメシヤとして認めて、霊の救いを受けます。そして神の国において、イスラエルが実際に世界の光となるのです。

5A 主の裁き 5
 こうして私たちは、イスラエルが霊的にも物理的にも終わりの時に回復する幻を見てきました。そして4章の最後には、その回復の前に、偽物を暴く二人の証人が現われることを読みました。次から読む5章は、この偽物に対する裁きについての預言です。

 前にも言及しましたが、私たちが主の再臨について考えるときに、知らなければいけないことが一つあります。それは、「本物が来る前に、偽物がやってくる。」ということです。本物はすでにやってきました。私たちの主、イエス・キリストです。この方こそが人類にとっての福音であり、平和であり、正義です。そして再び戻ってこられるときに、すべての問題を清算し、処理してくださいます。

 そして神は、この福音の真理を受け入れない人たちに対して裁きを行なわれます。その裁きとは、彼らが自分たちの望むような救世主を送ることです。自分が罪人であり、死後に裁きを受けなければいけないことを受け入れたくない人。キリストの十字架が、自分の罪のためであることを受け入れたくない人。そしてキリストが三日目によみがえられたことを信じたくない人。終わりに主が戻ってこられることをあざ笑うひと。このような人たちが望むような、代わりのメシヤを神は裁きとして送られるのです。

 私たちは、神の裁きについてよく知らなければいけません。神の裁きというと、何か悪いことが起こり、災難が降りかかり、それで神からの罰であると考える人が多いです。けれども、それは間違いです。神はしばしば、そのような災いを通して人々が目を覚まし、ご自分に立ち返ってくれることを願っておられます。神はご自分の愛のゆえに懲らしめとして災いをもたらすことがあり、必ずしもそれが神の最終的な裁きではないのです。

 神の裁きは、ご自分を認めない人が、自分のやりたいように生きるようにさせて、その結果として自らに死を招くようにさせることです。彼らが望むのであれば、その通りにしたらよいという裁きです。これこそ、最も恐ろしいことです。(ローマ1章後半参照)

 そこで終わりの時に、神は福音の真理を受け入れない人に、キリストに代わる偽者のキリストを信じるがままにされます。テサロニケの第二の手紙2章を開いてみましょう。9節からです。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(9-12節)

 ですから私たちが気をつけなければいけないのは、キリストの十字架、キリストの福音なしの平和、正義、愛などです。偽キリストは、これら平和、正義、愛を、キリストの十字架と復活、再臨なしに提供しようとして、多くの人がそれを信じてしまうのです。先に言及しましたが、キリスト教会にでさえ、キリストの血が語られないで、愛、平和、正義が語られる傾向を見ます。そしてユダヤ人社会にも、彼らが信じている旧約聖書から離れて、人間的な理屈で平和、正義を求めている傾向があります。

 神は終わりの時に世に裁きを行なわれますが、その時にキリスト教会やユダヤ人をも振るいにかけられます。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(1ペテロ4:17」これから、神の家を含む、神の裁きの裁きを読みます。

1B 巻物 (第六の幻) 1−4
5:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、巻き物が飛んでいた。5:2 彼は私に言った。「何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻き物を見ています。その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです。」

 第六の幻は、飛んでいる巻き物です。当時はもちろん、私たちが手にしているような本のように綴じられているのではなく、巻き物に書き記していました。

 そしてこの巻き物の大きさは、長さが二十キュビト、幅が十キュビトあると書いてあります。メートルになおすと、長さが約8.8メートル、幅が約4.4メートルです。かなり大きい巻き物ですね。おそらく巻かれているのではなく、封印が解かれて広がっています。

 この二十キュビトと十キュビトという寸法は、幕屋の聖所の寸法と同じです。祭司が入って、主への礼拝を捧げる聖所は、大祭司が年に一度だけ入る至聖所と、祭司がパンや油を補充しにいく聖所に別れていますが、この祭司が日ごとに入る聖所の長さ・幅と同じです。

 ここから、やはり神の家に対する裁きが始まることを暗示しています。

5:3 すると彼は、私に言った。「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる。」

 巻き物には呪いが書かれていました。神の御言葉で呪いが書いてあるところは、モーセの律法の申命記ですね。あなたがわたしに背を向けて、偶像を拝み、命じることに聞き従わないならば、これこれ、こういうことが起こる、という呪いです。主の御言葉に照らして、その通りに行なっていない者たちが取り除かれます。

 ここ新改訳にははっきり出てきませんが、この巻き物には裏と表、どちらにも文字があります。新共同訳を読むと、「すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される。」とあります。エゼキエルに手渡された巻き物にも、同じように表裏に字が書いてあり、「哀歌と、嘆きと、悲しみがそれに書いてあった。(エゼキエル2:10」とあります。

 また黙示録でも同じように、巻き物の「内側にも外側にも文字が書き記され」ている、とあります(5:1)。そして覚えていますね、その巻き物には七つの封印があり、神の小羊がその一つ一つを解かれると、地上に災いが下りました。これも、ゼカリヤの預言にあるのと同じ考えです。神の御言葉にしたがって、地上で行なわれている不義や不正を裁かれる、ということです。

 そしてもう一つ、表裏に神の文字が書かれているものがあります。十戒の石の板です。シナイ山から戻ってきたモーセの手には、二枚の石の板がありました。そこには、神ご自身が書き記された文字がありました。そして、今、裁かれている具体的な内容を見てください。「盗む者」と「偽って誓う者」です。どちらも十戒に書かれている背きの罪です。おそらくこの二つは、他のあらゆる罪を代表したものでしょう。そして次をご覧下さい。

5:4 「わたしが、それを出て行かせる。・・万軍の主の御告げ。・・それは、盗人の家にはいり、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家にはいり、その家の真中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。」

 「わたしの名を使って」とあります。主の名を使っているのに、偽りの生活を送っている、というのはどういう人ですか?キリスト教会とはまったく関係のない、世の中の人の話をしているのではありません。いわゆる教会の人たち、宗教の人たちの話をしているのです。

 山上の垂訓の最後で主が厳かな警告をしておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21-23

 そして終わりの時、困難な時代になると教えたパウロは、こう教えています。「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:2-5 下線筆者)」見えるところは敬虔であっても、というのは、やはり教会や宗教を装っている人々の間に、今読んだような悪を行なっている人が出てくるという預言です。

 ここは具体的には、イスラエルの家のことを考えてゼカリヤは預言していると思われますが、本物のキリストが来られる前に、彼らに大患難が襲います。その時に彼らに対する選り分けが行なわれます。エゼキエル書20章です。「わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。・・神である主の御告げ。・・わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(36-38節)」大患難は、残りの民がメシヤを受け入れるための準備であると同時に、反逆者が誰であるかを明らかにする出来事であります。

 そして私たちキリスト教会も、世界に裁きが来る前に振り分けが行なわれるのですが、教会は神に裁かれることがないように、自分自身で裁くことを命じられています。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」裁く、といっても、自虐的に自分自身を責め立てることではありません。神の御言葉に自分自身を照らして、客観的に判断する、ということです。

 御言葉に照らすと、自分が今何をしているのか、どんな存在なのかを、そのありのままの姿が見えてきます。そして自分はこんな人間なんだ、という聖書的な自己像が見えてきます。それにしたがって、私たちは神の憐れみを請い求めれば良いわけです。

2B エパ枡の女 (第七の幻) 5−11
 そして次の幻も、偽りの姿を描いています。

5:5 私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」5:6 私が、「それは何ですか。」と尋ねると、彼は言った。「これは、出て行くエパ枡だ。」そして言った。「これは、全地にある彼らの罪だ。」

 エパ枡が出てきました。計量のための器です。一エパは約23リットルです。ですからかなり大きい器なのですが、全地にいる人々の罪が入っています。全地の罪ですから、確かに大きいはずです。

5:7 見よ。鉛のふたが持ち上げられ、エパ枡の中にひとりの女がすわっていた。5:8 彼は、「これは罪悪だ。」と言って、その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた。

 売春婦だったのでしょうか、御使いは女を見るやいなや「罪悪だ」と言って閉じ込めてしまいました。そして決して出てくることのないように、鉛の重しをかぶせています。

5:9 それから、私が目を上げて見ると、なんと、ふたりの女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、彼女たちは、あのエパ枡を地と天との間に持ち上げた。

 この二人の女の姿は、まさに私たちが一般に目にする天使の姿です。どれだけ私たちが、ユダヤ・キリスト教的な象徴ではなく、異教的な象徴に触れているかが、ここからも分かります。

 この二人の女は、エパ枡を「地と天の間に持ち上げた」と言っています。天と地の間、と言わずに、地と天の間と言っているところが味噌です。もともと天にあったものが地に降りてきたのではなく、地に属する者が神格化されることを意味しています。

5:10 そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。」5:11 彼は私に言った。「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。」

 シヌアルの地、どこだか分かりますか?そうです、バビロンです。あのシヌアルの地に人々が集まって、天にまで届く塔を建てようと言って、神の名ではなく自分たちの名を馳せようと言った、あのバベルの地です。当時、バビロンが滅んだ後もなおもそこに居留するユダヤ人にとって、この言葉は大きな警告となったことでしょう。

 これまでの幻の描写を総合すると次のようになります。人々の罪が、一人の女のところに集合しています。その女はバビロンに移されます。そして神としてあがめられます。誰のことかお分かりになる人はいるでしょうか?そうです、黙示録17章に出てくる、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン(5節)」です。

 聖書には二つの町の名前が数多く出てきます。一番出てくるのは、エルサレムです。そしてその次に出てくるのがこのバビロンの町です。神の救済の計画と歴史の中で、この二つの都市が大きな役割を演じます。

 神が、洪水の後にノアに対して、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。」と命じられて、ノアの息子らから子孫が出てきました。けれどもその「地に満ちよ」という命令に反して、一つのところに集まり、神の祭壇を造り、主の御名によって祈るのではなく、天に届き、自分のたちの名をあげる塔を作ったのです。ここから、まことの神に真っ向から反対する、この世の制度、また偶像礼拝の宗教が始まりました。

 この世界を見ると、偶像礼拝は実に共通しています。私たちがメキシコ旅行に行ったときに、何気なくカトリックの聖堂に入りました。その中のきらびやかな装飾、ミイラ化された聖人への祈り、香のにおい、などなど、その中身が実に日本で見る仏教の寺院とそっくりであることに驚きました。互いに相談して作ったのではないのに、ここまでどうして類似しているのか、と思ったのです。

 けれどもそれは、考えてみれば当たり前のことです。すべての偶像礼拝と宗教が、一つのバビロンを起源としているからです。

 そして、そのようなバビロンの地で、月を神として拝んでいたウルという町から、まことの神がアブラハムを召し出して、まことの神を信じるためにユーフラテス川を渡らせて、カナン人の地に来させました。「渡る」という意味から派生したヘブルは、ここから始まりました。そして神は、エルサレム、「神の平和」という町を、このバビロンに対抗してお建てになったのです。

 そこでエルサレムの町の回復の前に、偽物がその正体を露にします。バビロンがはっきりとした形で終わりの時には表れます。これは偽宗教であり、まことの信者らを殺し、その血で酔いしれる者たちです。国の指導者らを誘って淫行を行ない、自分自身は富で着飾っています。

 終わりの時に知らなければいけないことは、世界中で信仰者らが迫害を受ける、ということです。前にも話したとおり、ここは自由があると思われる国々で、知らないうちにじわじわとその自由が侵食されて、ついには窒息状態になっていきます。

 私は、アメリカ合衆国も例外に漏れないと思っています。だからいって、不安になることはありません。むしろ、もともと世界はそういうものなんだ、ということを前提にして、この限られた時間にどれだけ人々を救いに導くことができるかを考えればよいのです。あらゆる機会を用いて、不法行為すれすれのところで福音を伝えていくというのは、イスラム国や共産国にいるクリスチャンだけの話ではなく、世界中すべてのクリスチャンの特権でもあるのです。ユダヤ人共同体、ローマ社会の中で使徒たちが福音を伝えたことを考えれば、これが本来の教会の姿なのです。

 その一方「キリスト教界」という世界は、どんどん広がっていきます。自分の生活をとくに変えなくても、どこかの団体の会員制のごとくクリスチャンとして認められます。いわゆる教会がこの世の制度に組み込まれる形で広がっていくからです。

6A 主の来臨 6
 そして八つの幻の最後に入ります。クライマックスです。八つ目の幻は、実は一つ目の幻の続きになります。イスラエルが諸国の民の只中にあり、抑圧されている幻から、この八つの幻が始まりました。そして、その抑圧している諸国に対して、神がエルサレムをねたむその激しい愛のゆえに、戦いを挑まれます。

1B 四台の戦車 (第八の幻) 1−8
6:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。

 第一の幻では馬は谷底にいましたが、今は戦車が二つの山の間から出てきています。山は聖書では権威や力を表していることが多いですが、この山は青銅でできています。青銅は、神の裁きを表しています。(幕屋において青銅でできた祭壇は、私たちの罪が裁かれることを意味していました。)したがって、今、神がご自分の力と権威によって、裁きを行なわれることを表しています。

6:2 第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、6:3 第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。

 戦車を引っ張っている馬は英語ではhorsesと複数形になっています。したがって、一台の戦車を二頭以上の馬が引っ張っています。第一の幻に出てきた馬だけではなく、他の馬もいます。

6:4 私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。「主よ。これらは何ですか。」6:5 御使いは答えて言った。「これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。

 天の四方、すなわち世界中至る所に出て行きます。これら戦車と馬は、主のために戦う天的な存在です。黙示録6章を開いてみましょう。同じ色の馬が出てきます。1節から読みます。


また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。(18節)

 ですから、それぞれの馬の色には意味があります。赤い馬は火を意味しており、それは「平和を奪い取る」つまり戦争を意味しています。黒い馬は、日用食品が暴騰しているのですが、インフレーション、経済混乱をもたらします。白い馬は、「勝利の上にさらに勝利」とありますが、これはキリストに代わる偽物、反キリストであることを黙示録の学びで学びました。そしてまだら毛の馬は、おそらく第四の青ざめた馬と同じでしょう、飢饉と死病をもたらします。

6:6 そのうち、黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬はそのあとに出て行き、まだら毛の馬は南の地へ出て行く。

 北の地は、2章に「北の国」と出てきましたがバビロンのことです。そして「南の地」とはエジプトのことです。当時、すでにバビロンという国はなくなっているのですが、バビロン、また南のエジプトが代表しているように、イスラエルはいつも北と南から攻撃を受けて、踏み荒らされていました。

 地形的にそうなのです。東は砂漠ですから、そこを通ってくる国はありません。また、西は地中海ですからそこも脅威になりません。イスラエルが攻撃を受ける時は必ず北からか、南からかだったのです。

 そして北と南にいる大国の中間地点にあるイスラエルは、大国の攻防戦に押しはさまれて、踏み荒らされていました。ペルシヤ帝国が終わりギリシヤ帝国になった後で、ダニエル書が預言していますが、シリヤのセレウコス朝とエジプトのプトレマイオス朝がしばしば争い、そのため多くの被害を受けました。特にセレウコス朝のアンティオコス・エピファネスは、祭壇に豚をささげることを強要し、「荒らす忌むべきこと」を行なったのです。

 そこで、イスラエルを圧する国々を倒すために、黒い馬、白い馬、まだら毛の馬が出陣しました。

6:7 この強い馬が出て行き、地を駆け巡ろうとしているのだ。」そこで彼が、「行って、地を駆け巡れ。」と言うと、それらは地を駆け巡った。

 この強い馬」がどれだけ分からないのですが、残りの赤い馬かもしれません。そして、「駆け巡れ」と命じている「彼」は、神ご自身のことです。最終的な究極のさばきを行なうために、強い馬を地を駆け巡らせているのです。

6:8 そのとき、彼は私にこう告げた。「見よ。北の地へ出て行ったものを。それらは北の地で、わたしの怒りを静める。」

 これは、終わりの時のバビロンの破滅を預言するものです。黙示録18章を思い出してください。バビロンが一瞬のうちに倒れ、荒れ廃れます。

 そして、ここに「わたしの怒りを静める」とあります。これは意訳ですね、私はあまり好きではありません。直訳は「わたしの霊を休ませる」です。ここで、1章における問題が完全に解決されています。1章では諸国が、イスラエルを抑圧しているという犠牲の下、安楽に暮らしていました。それが今逆転しています。主が彼らを押しつぶされて、そして主ご自身が休んでおられるのです。

 このようにエルサレムを守るための戦いが行なわれます。黙示録もこのことを描いています。先ほど読んだ箇所は、患難時代が始まるところの幻でした。白い馬から始まりますが、それは反キリストで、それから始まる数々の災いがあります。そして患難は黙示録19章、ハルマゲドンの戦いの終焉で幕を閉じます。白い馬に乗られたイエス様が終わらせます。このときに、地上の不義に対する神の裁きが貫徹します。

 当時、苦しんでいたユダヤ人にとって、これらの幻の全てが良い知らせであったに違いありません。慰めを受けたに違いありません。そしてキリスト者にとっても慰めでしょう。テサロニケの手紙第二を開いてください。4節から読みます。


それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます。(4-10節)

2B ヨシュアの冠 9−15
 最後の部分に差し掛かりました。最後は幻ではなく、象徴的な行為です。主が諸国の民に怒りを現された後に行なわれることを象徴的に表すために、捕囚の民を何人か選んで行なわせます。

6:9 ついで私に次のような主のことばがあった。6:10 「捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取り、その日、あなたはバビロンから帰って来たゼパニヤの子ヨシヤの家へ行け。

 これら捕囚からの帰還の民は、聖書の他の箇所に出てくるわけでもない無名の人々です。けれども、主は彼らを用いて、これから行なう戴冠式に関わらせます。

 聖書にはこのような人たちが、数多く出てきます。主の働きにおいて、分岐点になるような重要な出来事が起こるとき、その時にしか出てこない人々です。例えばパウロが回心をして、水のバプテスマを受けなければいけないときに、アナニヤという弟子がいました。あの、いわば「パウロ大先生」のバプテスマを授けたのが、有名でも何でもない弟子一人だったのです。「牧師先生でなければ、バプテスマを授けることはできない。」という言葉を日本では数多く聞きますが、聖書的ではありません。

 ここで大事なのは、捕囚から帰還したという事実だけです。私たちも同じです。神の働きに携わっていること自体が大事です。どんなに人に認められていなくても、私たちの名は神に覚えられています。

6:11 あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、6:12a 彼にこう言え。

 ここの「冠」はヘブル語では複数形になっています。いわゆる冠を二つ以上載せたのかどうか分かりませんが、いくつもの部分に分かれているものを一つに組み合わせた冠かもしれません。

 黙示録19章で主が地上に戻ってこられるとき、白い馬に乗って諸国の民に対して戦われるとき、主は複数の冠をかむっておられます。「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。(12節)」とあります。

6:12b『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。6:13 彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』

 祭司職のヨシュアに王冠をかぶせることは、あってはならないことでした。王ではないからです。だからこれは、まさに象徴的な行為なのです。「ひとりの人。その名は若枝。」とありますね。4章にも預言されたイエス・キリストを表しているのです。 この方は祭司の働きをなされると同時に王であられる方です。続けて、「彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。」とあります。エレミヤ書には、「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。(23:5」とあります。若枝はダビデの直系であられる方です。

 興味深いことに、「見よ。ひとりの人がいる。」という言葉は、十字架につけることを要求したユダヤ人たちがピラトの官邸にイエス様を連れていったときに、ピラトが人々にイエス様を見せた時に言った発言です。エケ・ホモ、という有名な言葉が、今ここゼカリヤ書に預言されています。

 そしてこの方は神殿を建て直す、と預言されていますが、これは主が初めに来られた時にも実現なさいました。エルサレムで両替人の台を倒したりして宮きよめを行なわれた時、ユダヤ人たちに「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(ヨハネ2:19」と言われました。これは聖霊の宮である肉体が三日目によみがえることを言われたものでした。けれども主が再び戻られるときは、ゼカリヤが神殿を建て直したように、千年王国の神殿をお建てになります。

 そして、「その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。」というのは二人がいる、とうことではありません。偉大な大祭司である主ご自身が王でもあられる、ということです。

 これまでの一連の幻によって次第に明らかにされたのは、ゼルバベルとヨシュアは実に良いコンビであり、二人はひとりの人を表していたことでした。王でありかつ祭司であられるメシヤを、予め示していたのです。

 ユダヤ教の律法の中では、王が祭司の務めを行なっては決してあってはいけません。王はユダ族から出ますが、祭司職はレビ族のアロンの直系が行なわなければいけませんでした。この祭司の働きに干渉した王が聖書に出てきます。一人はサウル王です。彼はサムエルが来るまで待たなければいけなかったのに、自分でいけにえをささげ、それによって彼は王位を剥奪されました(1サムエル13:14)。また民から人気を得ていたウジヤ王は、聖所で香を焚いたことによって、らい病にかかりました(2歴代26:1620)。

 けれども現に、ここゼカリヤ書にあるように、確かに王であり祭司である方が出てくることを預言しています。律法ではこの二つを一つにしてはいけないと教える一方で、預言では平和の一致を教えているのです。

 この矛盾を、あのヘブル人への手紙の著者がユダヤ人に提起し、また解決しています。それは律法では、アロンの直系でなければいけない祭司の他に、実は創世記と詩篇に、別の位の祭司職があることを解き明かしたのです。それが「メルキゼデクの位」です。創世記によると、メルキゼデクはエルサレムの王です。そしてその名前は「義の王」です。でも彼は同時に神の祭司であり、アブラハムは彼に十分の一をささげ、メルキゼデクはアブラハムを祝福し、ぶどう酒の杯にあずからせました。まさに祭司の働きをアブラハムに対して行ないました。

 けれどもこの出来事の約千年後に、ダビデが「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』(詩篇110:4」と預言しました。

 ところで現在、私たちが生きている世界は、教会と政治が離れています。ブッシュ大統領がアメリカ合衆国教会の主教にはなっていません。ローマ13章に書かれているように、すべて上にあるものは、神から来た権威であり、神は一般的な事項については政府にその権威を任せておられます。そして霊的な事柄について、つまり罪の赦しを宣言したりすることについては教会にその権威を委ねておられます。

 ヘブル人への手紙2章8節には、「万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」とあります。私たちは、キリスト者たちが集まるところから一歩外に出れば、そこはいわゆる「世の中」です。フリーウェイに乗ったら、そこはキリスト政府ではなくカリフォルニア政府の管轄です。もちろん神がカリフォルニア政府に権威をお与えになっており、私たちはその規則に従わなければいけません。

 けれどもカリフォルニア政府は完全ではありません。もちろん連邦政府も他の国の政府も完全ではありません。ダニエル書に出てくるように、国の権威はいつでも獣になる危険を帯びており、悪の天使どもがその長になっているのです。

 この問題が解決するのが、キリストの千年王国です。霊的な事柄において私たちに接してくださるだけでなく、政治的な領域において、また生活のあらゆる面において、隅々に渡り神の知識であふれさせてくださいます。イザヤ書に「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(11:9」とあります。

 まだその時代は来ていません。今は、キリストが頭であられる場は唯一教会です。どうかこのれ霊的な特権を、十分に楽しんでください。私たちが純粋に、何の咎めもなく、真にキリストが王であると告白できるのは教会のみなのです。教会において、もちろん伝道も大切です。まだ教会に行ったことのない人のために、いろいろな工夫をすることも大事です。けれども、私たちが神から今、与えられている特権は、完全な形でキリストを王として賛美し、歌い、ひれ伏し、ささげ物をすることができることです。この自由を神が教会に与えておられます。教会の第一目的は神をあがめることです。

6:14 その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿のうちに残ろう。6:15 また、遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建て直そう。このとき、あなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。」

 ゼカリヤの預言の言葉は、まずそこで建築工事をしている人々に語りかけられています。主の神殿を建て直すことを励ますための言葉で、この働きを貫徹できるという約束であり、また貫徹しなさいという勧めの言葉です。

 そして興味深いのは、「もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら」とあることです。彼らは、初めにハガイやゼカリヤの言葉を聞いたときだけでなく、継続的に聞き従うことが必要でした。彼らは奮起しましたが、その奮い立った心を継続的に保っていなければいけなかったのです。

 言い換えれば、リバイバルを継続しなさい、ということです。リバイバルは一時期的なものではありません。続いていくものです。初めに事を始められた方は、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるのです。だから、おそれおののいて救いを達成する義務が私たちにあります。

 そのためには、御言葉を聞き続けなければいけません。そして、心を奮い立たせ続けなければいけません。主が来られるのがもし遅れるなら、来年もここでお話できると思います。その時もなお、良い実を結ばせていくことができますようお祈りします。


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