ゼカリヤ書11−12章 「突き刺さされた方」

アウトライン

1A 散らされる羊 11
   1B 泣き喚く牧者 1−3
   2B 良き牧者 4−17
      1C 羊をほふる羊飼い 4−6
      2C 折られる杖 7−14
   3B 愚かな牧者 15−17
2A 守られる主 12
   1B 重い石エルサレム 1−9
   2B 激しい嘆き 10−14

本文

 ゼカリヤ書11章を開いてください、今回は11章と12章を学びますが、ここでのメッセージ題は「突き刺された方」です。

 私たちは前回の学び、9章と10章にて、ゼカリヤが生きている時代の後のエルサレムそしてイスラエルの姿を、預言の中で見ました。ゼカリヤが預言を行なったのは、ペルシヤの初期の時代です。けれども9章は、ギリシヤを世界帝国にしたアレキサンダー大王がイスラエルの周辺に攻め入った時に、シリヤ、ツロ、ペリシテを倒したのに、エルサレムには平和の入城をしたという預言があります。アレキサンダーが死んだ後に、ギリシヤは四つに分割され、そのうちの一つ、シリヤのセレウコス朝がエルサレムを攻め、アンティオコス・エピファネスは神殿を汚しますが、マカバイ家の勇士たちによって奪還し、宮清めをしました。

 ですから9章はギリシヤ時代についての預言です。しかし、ここで聖書の預言でしばしばある神の啓示の仕方ですが、メシヤ、キリストの預言をゼカリヤは行ないます。アレキサンダーの平和の入城から、一気にさらに三百年以上飛び、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城されたことを語りました。そしてその平和は、主が再臨された後に続くことも預言しました。

 さらに10章では、マカバイ家の奇跡的な勝利を飛び越えて、一気に私たちにとっても将来のことを語りました。主が再臨される時、彼らのために敵に対して戦ってくださることです。このように、主はゼカリヤを通して、歴史を追って預言を与え、さらにメシヤについての預言も順番に啓示されています。

 ということで11章と12章に進みます。11章では、ギリシヤ時代からさらに進みローマ時代に入ります。ゼカリヤの第二の幻を思い出してください、四つの角ですが、それは、バビロン、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマを表していることを学びました。ダニエル書を読まれた方も思い出せるかと思います。ネブカデネザルが見た夢は、頭が金、胸と両腕が銀、腹が青銅で、足が鉄でした。さらにダニエルが見た夢は、獅子、熊、豹、そして鉄の牙を持ち、十本の角を持つ獣でした。それぞれみな、バビロン、ペルシヤ、ギリシヤ、ローマを表しています。そしてその後に必ず、メシヤ、人の子が神の国を立てられるという結末になります。

 
ですからギリシヤ時代の次はローマですが、その時にキリストが来られましたね。けれども、この方を宗教指導者が拒みました。その結果、紀元70年にエルサレムはローマによって破壊、ユダヤ人は世界離散の民となりました。このことが11章に預言されています。そして12章は終わりの時、主が再臨される時です。10章と同じように、主がエルサレムのために戦ってくださるのですが、その御姿を見て、彼らは自分たちの先祖が突き刺した方、ナザレのイエスがメシヤであることを悟るのです。

1A 散らされる羊 11
1B 泣き喚く牧者 1−3
11:1 レバノンよ。おまえの門をあけよ。火が、おまえの杉の木を焼き尽くそう。11:2 もみの木よ。泣きわめけ。杉の木は倒れ、みごとな木々が荒らされたからだ。バシャンの樫の木よ。泣きわめけ。深い森が倒れたからだ。11:3 聞け。牧者たちの嘆きを。彼らのみごとな木々が荒らされたからだ。聞け。若い獅子のほえる声を。ヨルダンの茂みが荒らされたからだ。

 木々が荒らされ森が倒れたという預言ですが、その地域を見てみましょう。まずレバノンです。イスラエルの北にあります。そしてバシャンです。これは今のゴラン高原です。レバノンの杉の木は、国旗にもなっているほど本当にすばらしいものですが、ゴラン高原もその自然は非常にすばらしいです。春に、終わりの雨、春の雨が降った後のゴランは、一面が花に包まれて、ものすごく緑できれいになるそうです。それからヨルダンですが、ヨルダンにも緑があります。

 これらが荒らされたという預言を、私たちは世界史の中で見ることができます。ローマが、ユダヤ人反乱を鎮圧するために、遠征してきた、紀元66年から70年(マサダの篭城を合わせると73年まで)のことです。まず、反乱は地中海沿いの町カイザリヤでの事件が発端になりました。それからエルサレムでローマに対するクーデターをユダヤ人が行ない、そしてローマ皇帝ネロが、総督ウェスパシアヌスにユダヤ属州へ遣わします。レバノンへ下りてきて、それからガリラヤ地方を攻略です。その時にユダヤ人反乱の軍人であったヨセフス・フラウィウスが降参し、ローマ側につきました。そして後に、「ユダヤ戦記」という非常に貴重な当時の記録を残したのです。

 そしてウェスパシアヌスはゴラン高原のガムラを攻略するのに苦労しました。けれども息子のティトスがやってきて、倒すことができました。そしてエルサレムを直接叩かずに、その回りの地から徐々に、徐々に攻めて行き、エルサレムを孤立化させました。その時に、ヨルダンにも渡っています。その間にネロが死んでしまったので、彼が皇帝となり、息子ティトスにエルサレム陥落を委ねたのです。

 分かりますか、ここで、森が切り倒されて叫んでいる牧者たちは、実際の牧者だけでなく、実はエルサレムにいるユダヤ人指導者を暗示しているのです。彼らが、自分たちの羊であるユダヤ人をきちんと養うことをせず、自分の利益だけを求めたため、このような破壊が始まったことを教えています。

 レバノンの杉の木が倒れたというのも象徴的です。エルサレムの神殿に使われている木は、ソロモンが建てた時のことを思い出していただきたいのですが、ツロの王ヒラムが与えてくれたものでした。杉の木が倒れるのは、エルサレムの神殿が破壊されることも暗示されているのです。

2B 良き牧者 4−17
 なぜこのような結果を招いてしまったのか?次から理由を読むことができます。

1C 羊をほふる羊飼い 4−6
11:4 私の神、主は、こう仰せられる。「ほふるための羊の群れを養え。11:5 これを買った者が、これをほふっても、罪にならない。これを売る者は、『主はほむべきかな。私も富みますように。』と言っている。その牧者たちは、これを惜しまない。

 今ゼカリヤが牧者になるように、主から命じられています。預言者はこのように、言葉だけでなく、しばしば実演でこれからのことを告げるように主から命じられることがありますね。

 そして他の牧者が出てきます。彼らは、自分たちの羊がほふられても、何をされても別に構わない。自分たちの利益になればそれで良いと考えています。これは誰の姿を表しているか、お分かりですか?そうです、当時のユダヤ人指導者らの姿です。

 前回私たちは学びましたが、終わりの時に偽教師らが主からの裁きを受けて、ユダヤ人の中から取り除かれることを話しました。そこの箇所をもう一度見てください。10章2節からです、「テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。(2-3節)」羊飼いがきちんと羊を養っておらず羊がさまよっている話をされています。これは、ユダヤ人指導者がきちんとイスラエルの人々を主の道へ導いていないために、彼らが痛めつけられているという意味です。

 同じことが、イエス様が地上におられる時に起こっていました。主が、ご自分のことを良い牧者であるとお話になりましたが、雇われ牧者のことも話しています。ヨハネ1012節からです。「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。(12-14節)

 イエス様は、良い牧者であられました。ガリラヤにおられた時、主がどのように群衆をご覧になっておられたか、覚えていますか。マタイ9章35節からです。「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』(35-38節)」羊たちが弱り果てて倒れていた、とみなしておられたのです。それはなぜでしょうか?本来、彼らを養うべきユダヤ人宗教指導者らが自分勝手なことをしていたからです。

 イエス様はどのような態度を取られたでしょうか?ここに「かわいそうに」とありますが、これは「内臓に来るほど、同情して」という意味です。腹で感じるほど、彼らと痛みを感じておられました。これがまことの羊飼いであり、私たちが模範として仰いでいる方です。

 もし私たちが、周りの人々に無関心であるなら、ユダヤ人指導者と同じです。福音を知らない人は、実は苦しみ、悩み、枯渇しています。幸せそうに見えても、実は違います。このイスラエルの群衆と同じなのです。だからイエス様は、収穫ができるように働き手のために祈りなさいと言われました。ただ自分が霊的食物を食べるだけでなく、その豊かさでもって人々に仕えていく必要があるのです。

 けれども当時のユダヤ人指導者は自分たちのことしか考えていませんでした。彼らは当時、富んでいました。今、エルサレムのイスラエル博物館に当時のエルサレムの模型がありますが、町の南部分に、「下町」と「上町」があります。下町は貧しい人たちが、上町は富んだ人々が住んでいましたが、彼らは祭司などだったのです。

 そしてラザロがよみがえって、ユダヤ人が彼らの家のところでイエス様を信じていった時に、彼らはサンヘドリンでこう話しました。「『もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』(ヨハネ11:48-50」自分たちの地位を守るために、イエス様を殺すことを決定したのです(マタイ21:38、主人の息子を農夫が殺したところも同じ。財産を手に入れるため。)。

11:6 わたしが、もう、この地の住民を惜しまないからだ。・・主の御告げ。・・見よ。わたしは、人をそれぞれ隣人の手に渡し、王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」

 ここの「王の手」というのが、ローマ皇帝のことです。具体的には総督ティトスであり、主は、ティトスによるエルサレム破壊からユダヤ人を救うことは行なわれませんでした。イエス様がエルサレムに入城されるために、オリーブ山からろばの子に乗って降りてこられました。その後、イエス様は涙を流されておられます。ルカ1941節からです。「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。』(ルカ19:41-44

2C 折られる杖 7−14
11:7 私は羊の商人たちのために、ほふられる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、他の一本を、「結合」と名づけた。こうして、私は群れを飼った。

 ここの「商人」という訳をどうして行なったのかわからないのですが、下の説明部分を見てください、「それゆえ羊の悩むものたち」とありますね。これが正しい訳です。羊の悩むものたち、そうです、先ほど引用しました、イスラエルの群衆でイエス様を求めている人々、つまりイスラエルの残りの者たち、イエスを自分のメシヤ、救い主と信じている人々のことです。

 そしてゼカリヤは二本の杖を持っていますが、どちらも羊飼いが羊を導くときに使うものですね。一本の名前を「慈愛」とありますが、「好意」とか「心地好い」とか訳すこともできます。イスラエルに対する好意、恵み、親しみを表しています。もう一つの「結合」は、後で出てきますがイスラエルとユダのことです。イスラエルが北と南に分裂しているのではなく、統一されているということです。

11:8 私は一月のうちに三人の牧者を消し去った。私の心は、彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった。

 この「三人の牧者」が何を表しているのか、いろいろな意見があります。私が可能性があると思ったのは、二つです。一つは、当時のユダヤ人指導者で主な人々はパリサイ派、サドカイ派、そして律法学者でした。

 もう一つは、ユダヤ人の指導者を表す、祭司、預言者、そして王です。私は後者ではないか、と思っています。聖書の他の箇所で、指導者はこの三つの職務として出てくるからです。そしてそれを一まとめに「牧者」と、エゼキエル書などで言っているからです。イエス様も、預言者として地上を歩まれ、今は父なる神の右の座で祭司として私たちのために執り成しをし、そして王として再臨されます。

 「彼らにがまんできなくなり、彼らの心も、私をいやがった」というのは、主がエルサレムに入城されてから頂点に達しました。主は、パリサイ派、律法学者らを八度「忌まわしいものよ」と呼ばれ、呪いを宣言されました。また彼らもイエス様を煙たがり、十字架につけました。

11:9 私は言った。「私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」

 エルサレムが包囲された時、このことが起こりました。大勢の人が飢えで死にました。反乱を指揮するユダヤ人たちは、士気を高めるため、あえて備蓄の食糧を捨てたという記事も残っています。そして隠されたい者は隠され、また互いの肉も食べています。これらはすべて史実として確認できます。

 結果、ユダヤ人は110万人が死に、97千人が捕囚の民となって連れて行かれています。

11:10 私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るためである。

 イスラエルに対する契約です。彼らを特別な民として守られることをお止めになりました。けれどもこれは一時的であり、主は契約を思い出され、彼らを再び救われます。

11:11 その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。

 この「商人」は「羊の悩むものたち」ですが、これは紀元70年、エルサレム破壊の時に起こりました。イエス様がオリーブ山にて、次のことを弟子に話されました。ルカ2120節からです。「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:20-24

 この言葉をユダヤ人の信者たちは、66年ユダヤ人反乱が起こり、ローマによってエルサレムが包囲された時、その通りになったと確認したのです。包囲が一時的に解除されました。その時に、エルサレムのユダヤ人信者は共同体ごと町から出て行きました。そしてイスラエルの他の地域の信者も合わせて、合計10万人ぐらいヨルダンにあるペラという町に逃げたのです。(ペラは、ガリラヤ湖から南下してヨルダン川沿いにバスが走ると、2030分ほどしてベテ・シェアンという町の遺跡に出会います。そのベテ・シェアンの向こう岸に、ペラの町があります。)

11:12 私は彼らに言った。「あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。」すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。

 羊を飼っていた賃金としての銀三十シェケルは、あまりの少ないものでした。出エジプト記21章に、自分の家畜の牛が人の奴隷を突いたら、その奴隷の主人に銀貨三十シェケル支払いなさい、という定めがあります(32節)。つまり、値打ちは奴隷のそれと変わりないということを示していたのです。それだけ見下された、ということです。

11:13 主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。

 はい、見てください、値積りされたのは誰ですか?そうです、主ご自身です。ゼカリヤが羊飼いとなっていましたが、実はこれは主イエス・キリストご自身を表すためでした。

 このすべての話は、詳細に成就しました。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは、祭司長らから受け取った銀貨三十枚でイエス様を売りました。そしてユダは後悔して、その銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んでいます。祭司長たちは、これは血の代価だからということで、神殿の金庫に入れることをせず、陶器師の畑を買ったとあります(マタイ27:310)。

11:14 そして私は、結合という私のもう一本の杖を折った。これはユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破るためであった。

 66年にユダヤ人反乱が始まった時、ユダヤ人の間では激しい分裂が起こっていました。熱心党の人たちは自分たちの考えを非常に先鋭化させ、互いの間で戦い始めました。少しでも意見が異なると相手の食糧の備蓄を襲い、また殺しもしたのです。

 今のユダヤ人の人たちは、マサダとガムラを非常に大切にします。マサダは73年まで篭城したところ、ガムラもローマに対して徹底抗戦したところです。けれども、やはりキリスト者にとっては、イエス様の警告が頭の中で鳴り響くのです。

 主はユダヤ人を愛しておられます。そしてゼカリヤ書に見るように、エルサレムを守ってくださいます。けれども霊的な裏打ちがあってこそ、主はエルサレムの中に住まわれるのです。彼らが私たちの主イエス・キリストに立ち上がってこそ、真実の方を仰ぎ見てこそ、エルサレムの町も回復するということを覚えたいです。

3C 愚かな牧者 15−17
11:15 主は私に仰せられた。「あなたは、もう一度、愚かな牧者の道具を取れ。11:16 見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。

 良い牧者を彼らが拒んで後、今度彼らが受け入れるのは愚かな牧者です。イエス様をメシヤであることを受け入れなかったら、いったい他に誰をメシヤとするのでしょうか?イエス様は、ユダヤ人指導者らにこう言われました。ヨハネ5章43節です、「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

 ユダヤ人反乱は66年から73年までのものだけで終わりませんでした。シモン・バルコクバと言う人が135年に再びローマの反乱を率いました。多くの人が彼についていきましたが、ラビのアキバと言う人がバルコクバをメシヤであると宣言したのです。その時までこの反乱に同情的であったユダヤ人の信者たちはこれに賛同することができず、身を引いたのです。そしてユダヤ人の議会は、ユダヤ人信者との関わりを一切経つようにという決定をし、ここでユダヤ教とキリスト教がはっきりと分かれたのです。この後、イスラエルの土地全体が最悪の状態に陥り、ローマによって荒廃しました。

 ヨハネ5章43節のイエス様の御言葉は、終わりの時に完全なかたちで実現します。ダニエル書9章27節にて、ローマから出てくる君主が、ユダヤ人の多くの者と堅い契約を結ぶことが書かれています。その後、三年半後にその契約を破り、荒らす忌むべきことを行なうことが預言されています。これが、イエス様がオリーブ山で預言された大患難の始まりです。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24:15-21」メシヤだと思っていた人が、かえって自分たちを苦しめました。愚かな牧者です。

 けれども、ここから主の恵みが始まります。このように、まことのメシヤを拒み、偽のメシヤを受け入れ、その結果、非常に困難な状況に置かれているユダヤ人に、主が救いの御手を差し伸べてくださいます。次をご覧ください。

11:17 ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」

 この「」は知性を表し「」は力を表しています。腕がなえ、視力が衰えるというのは、反キリストの最期です。先ほどのダニエル書9章に、「定められた絶滅が、荒らす者のうえにふりかかる。(27節)」とあります。黙示録19章には、獣は捕えられ、「硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれる。(21節)」とあります。パウロは、「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。(2テサロニケ2:8」と言いました。

2A 守られる主 12
 そして12章です。ここからまた新しい「宣告」が始まります。9章から11章までが一つの宣告、12章から最後14章までがもう一つの宣告です。けれども内容はそのままつながっています。

1B 重い石エルサレム 1−9
12:1 宣告。イスラエルについての主のことば。・・天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方、主の御告げ。・・

 なぜ主は、ご自分を改めて天と地、そして人に命を与える創造主として表現しておられるのでしょうか?それは、次から始まる世界的出来事のゆえです。聖書の預言に、何度も何度も何度も描かれているハルマゲドンの戦いです。

 まず、「ハルマゲドン」という言葉が出てくる、代表的な聖書箇所を開きましょう。黙示録1612節からです。「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(12-16節)

 ハルマゲドンの戦いは、全世界の国々が寄り集まって神に対して戦争を行なう、最終的な世界戦争です。キリストが彼らと戦われ、彼らを滅ぼし、そしてこの地上に神の国を打ち立てられます。もう一つ代表的な聖書箇所を読みます。詩篇第二篇です。「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」(1-9節)

 聖書には、すべての人が罪を犯し、神の栄誉を受けられなくなった、と書いてあります。つまり、一人ひとりの人間が神に敵対して、神と戦っているのです。自分ではそう意識していなくても、すべてのものを支配し、自分の今吸っている息さえ支配されている神を自分が認めていなければ、それは既に神に対して反抗していることなのです。だから、キリストを信じて義と認められた人々は、神との平和を持っているとパウロは論じています(ローマ5:1)。

 この神への戦いは、今は心の中で起こっており、はっきり認めることはできません。けれども、終わりの時は精算の時です。全てのことが明らかにされます。個々人の心の中で起こっていることが、終わりの時には家族の中で、社会の中で、国の中で、そして世界規模の出来事の中で明らかにされます。これがハルマゲドンの戦いであり、世界の軍隊が文字通り、神とキリストに向かって戦争をしかけるのです。

 そして、ハルマゲドンという舞台のことを考えましょう。これは、今でも存在する具体的な地域です。これはヘブル語で「メギドの丘」という意味であり、今のイスラエルのイズレエル平野にある町のことです。全世界の軍隊がそこに集結します。

 なぜ、イスラエルに集まるのでしょうか?それは、イスラエルという国を貪りたいからです。もう一つハルマゲドンの戦いについての代表的な聖書箇所を開きます。ヨエル書3章です。まず、1節から3節を読みます。「見よ。わたしがユダとエルサレムの捕われ人を返す、その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子どもを遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ。」このヨシャパテの谷とは、神殿の丘とオリーブ山の間を通っているケデロンの谷であると言われています。

 そして9節に飛んでください。「諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鍬を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ。」と言わせよ。回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。・・主よ。あなたの勇士たちを下してください。・・諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。(9-12節)」分かりましたか、イスラエルを貪ることが、これそのものが神とキリストに反抗することであり、神の裁きを受けることにつながるのです。

 そしてゼカリヤ書は、エルサレムの町そのものがハルマゲドンの戦いの中心地点であり、最終的な戦いの場であることを教えている貴重な預言です。2節を読んでみましょう。

12:2 見よ。わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。ユダについてもそうなる。エルサレムの包囲されるときに。

 「よろめかす杯」です。皆さん、これはすぐ想像できるのではないでしょうか、お酒を飲んでふらふらになり千鳥足になって歩く、その杯です。

 神はこれを、ご自分の裁きを下すときに、その裁きによってよろめく様を、このように形容されています。例えば黙示録1410節には、「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。」と書かれています。「混ぜ物なしのぶどう酒」とは、つまり純正のワインであり、アルコール度の高い強い酒のことです。黙示録166節には、「彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」とあります。神の裁き、神の復讐をまともに受けることを、「飲む」という行為で言い表しているのです。

12:3 その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう。

 次に主はエルサレムを「重い石」と表現されています。これは、若者たちが自分の力を試して、また見せびらかすために重い石を持ち上げようとしている様子を想像してください。「よし、持ち上げてやる」と意気込んでいましたが、あまりにも重くて落としてしまい、足に当たって、足の骨が粉々に折れてしまった、という様子です。

 すべての国が、エルサレムをこのようにみなし、集まって来ます。自分たちの力比べをするために、自分たちの軍隊の力を見せるために集まって来ます。けれども、彼らはかえってひどく傷を受けるのです。

 もし私たちが、この2節と3節の言葉を知っていたら、今、イスラエルを取り巻く中東情勢についてその全てを知ることができます。去年、こちらにお伺いしたときは、ちょうどパレスチナの選挙でハマスが選ばれたニュースがありました。世間の人たちはみな驚いていました。ここで「これはどのように見ますか。」というご質問を受けました。私の答えは、「当然起こるべくして、起こることです」と答えました。そして今は、イスラエルがガザ地区に攻撃を加えています。これも、起こるべくして起こっていることなのです。

 イスラエルの昔からの歴史を辿ると、モーセがイスラエルの民を荒野の中で率いていました。放浪の旅を四十年間終えて、四十年目に死海の南から東へ迂回し、それからヨルダン川の東岸に来て、約束の地に入る旅程を取りました。そして、その間にいるカナン人やエモリ人、そしてモアブ人の王、バシャンの王もいます。イスラエルはただその領土を通過することを願いました。「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がってはいることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。(民数21:22」けれども、王はそれを許しません。許さないどころか、イスラエルに対して戦います。そこでイスラエルが応戦して、その結果、イスラエルがその地を占領して、彼らはヨルダン川の西にあるカナン人の地だけでなく、ヨルダン川の東側も自分たちの領土としました。

 イスラエルは、自分たちの土地を拡張しようとか、他の人々のものを奪い取ろうとはしません。けれども相手がイスラエルから奪い取ろうと戦い、イスラエルが応戦するので、結局、イスラエルのものとなっていく・・・これがパターンなのです。

 現代における中東戦争はその連続です。最も典型的なのは1967年に起こった六日戦争でした。エジプト、ヨルダン、シリアが攻撃してきましたが、その結果、シナイ半島、ヨルダン川西岸地域、そしてゴラン高原をイスラエルのものとなりました。イスラエルが苦戦を強いられた73年のヨム・キプール戦争でさえ、ゴラン高原からイスラエルは戦車をさらに北上させ、シリアの首都ダマスコの目と鼻の先まで進出しました。シナイ半島では、首都カイロのすぐそばまで戦車を進めていたのです。

 イスラエルが譲歩すれば、必ず周囲の敵はイスラエルを攻撃します。それでイスラエルは応酬します。するとイスラエルの支配が広がります。イスラエルが、交渉によって決まったことに従って、レバノンから軍を撤退させます。するとヒズボラがイスラエルにミサイルを撃ち込みます。それで戦争が起きます。そしてイスラエルがガザ地区から軍を撤退させ、ユダヤ人の寄留地まで引き抜きました。その結果ハマスが勝ち、ハマスがイスラエルの地にミサイルを撃ち込むので、今イスラエルが応戦しているのです。

 今は周囲のアラブ人との関係、中東地域だけの話をしましたが、これからこの動きが世界規模に広がっていきます。今でも国際世論がこの動きの中でイスラエルを非難しています。これが、反キリストが出現した時に一気に加速化して、エルサレムを全世界の軍隊が攻撃するという最終段階にまで至るのです。

12:4 その日、・・主の御告げ。・・わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる。しかし、わたしは、ユダの家の上に目を開き、国々の民のすべての馬を打って盲にする。12:5 ユダの首長たちは心の中で言おう。エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。

 ここからユダヤ人の間に霊的覚醒が起こり始めます。反キリストを自分たちのメシヤだと思い受け入れた結果、彼らはとてつもない苦難に遭います。そして反キリストが至聖所に入り、自分こそが神であると宣言した時に、彼らの多くが荒野に逃げます。

 他の聖書箇所から、その荒野は、昔のエドム、今のヨルダンの南にあるボツラという所であることが分かっています。けれども、ボツラにも反キリスト率いる軍隊が押し寄せて攻めてきます。その地形から彼らは一時期かろうじて守られますが、けれども全滅の危機に瀕します。エルサレムもエルサレムで軍隊に攻められて、もう駄目だというところまで行きます。

 ところが、この光景を目にするのです。馬が騒ぎ始めて、その乗り手が馬を操ることができなくなります。ちょうどそれは、分かれた紅海を渡るイスラエルを追うエジプト軍が、戦車の車輪がはずれ、それ以上前に進むことができなくなったように、です。

 それは、主が「目を開かれた」からです。もちろん主はずっとユダの家を見ておられます。けれども、彼らをお救いになる行動をこの時になって起こされました。それでユダの軍事的指導者は、これは自分たちではない、「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある」と悟るのです。

 注意深く、ハルマゲドンの戦いについての預言を読めば、それは私たちの主、神が行なわれていることであることを発見します。わたしが集める、とか、わたしがエルサレムを重い石にする、とか、主ご自身が行なわれていることとして描かれています。なぜか?彼らが自分たちの力が主にあることを悟るようにされるためです。

 力は自分たちの内にあるのではなく主にあるということを、彼らが自分たちでは何もできないことを知ることによって、初めて悟ることができます。

 ダニエル書には、大患難は「聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。(12:7」とあります。イスラエルに対する大患難の目的は、彼らの力が砕かれることです。エレミヤ書には、「それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(30:7」とあります。苦難なのですが、それを通って初めて自分は救われなければいけない存在なのだ、と悟ることができるのです。

 ユダヤ人の問題は、むろん私たち人間全員の問題でもあります。律法の行ないによって義と認められようとしたことにあるとパウロは言いました。ローマ9章30節から読みます。「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。(ローマ9:30-32

 Hope For Todayのデービッド・ホーキングは、イスラエルのすべての動きの根底にあるものは「生き残りだ」と言ったことがあります。彼らの歴史はまさに、出エジプトから始まりました。男の子の赤ん坊をナイル川に投げ入れられて、奴隷として苦しみを受けることからの救いから始まりました。彼らが行なっている軍事行動、またモサドの諜報活動、また外交、すべてが「自分たちで自分たちを守らなければ、だれも守ってくれない。」という意識が根底に横たわっています。

 けれども、それでは救いが得られないのです。自分ではなく神が守ってくださるのだ、というところに立たなければ救いは来ないのです。福音に対してかたくなになっている時代もずっと、神は彼らを選ばれたその愛のゆえ、彼らを通して大いなることをしてくださいました。けれども、神が願っておられることは、彼らがご自分に自分たちのすべてを委ねることなのです。

 けれども今、ハルマゲドンの戦いにおいて全世界の軍隊に囲まれている時に、主の救いに目覚めはじめます。

12:6 その日、わたしは、ユダの首長たちを、たきぎの中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えているたいまつのようにする。彼らは右も左も、回りのすべての国々の民を焼き尽くす。しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る。

 主が敵どもの力を弱められているのを知って、彼らは反撃します。ゼカリヤ書10章5節にも書いてありました。「道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。」(またミカ書4:113にも)

 国々の民を火で焼き尽くすことについては、マラキ書4章1節にこう書かれています。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。

12:7 主は初めに、ユダの天幕を救われる。それは、ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである。

 ユダが戦うので、まずユダを救われます。その後でエルサレムの住民を救われますが、今イスラエルの人々がエルサレムだけでなく、ボツラなど他の場所に数多くいることを思い出してください。まずその地域一体で主が戦ってくださいます。それから最後にエルサレムに来てくださいます。

 イザヤ63章を開いてください。「「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。(1-4節)」ボツラから主はエルサレムに来られます。

12:8 その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。

 「かばわれる」すばらしい言葉です。「盾になってあげる」という意味です。そして、彼らは一気に強められます。「ダビデのようになる」とありますが、少年ダビデがゴリヤテと戦った時のことを考えてください。ダビデが、自分の力ではなく、力ある主を信じていたから、ゴリヤテに勝つことができました。同じようにエルサレムの住民も、主を信じる信仰が与えられます。

 そして「ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる」とありますが、これは一体どういうことでしょうか?神がモーセに対して、「わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。(出エジプト33:2-3a」と言われました。実際、ヨシュアが約束の地に入ったとき、エリコをどうやって攻略するか考えていた時、「主の軍の将(ヨシュア1:14」が現われました。この方は単なる御使いではなく、ヨシュアはこの方を拝み、モーセが燃える柴の前で履物を脱いだように履物を脱ぎました。

 この主の使いはイエス・キリストご自身だったのです。旧約聖書には数多く出てきますが、「主の使い」と出てきているところは、そのまま「主」ご自身がお語りになり、人々も「私は神を見てしまった」と告白しています。

 つまりここの箇所は、ダビデの家にその世継ぎの子キリストが戻ってきてくださる、ということです。そしてその方は神であられ、かつての主の使いであられた方だ、ということです。

12:9 その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。

 「捜して滅ぼそう」つまり、隅々まで、ことごとく滅ぼされるということです。ゼカリヤと共に預言したハガイも、こう言っています。「もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。(ハガイ2:22

2B 激しい嘆き 10−14
 そしてエルサレムの住民、いやイスラエルの民全体にとってのメイン・イベントがやって来ます。

12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

 主の再臨の光景です。黙示録に同じ出来事が書かれています。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示1:7

 全世界の人々がこの方を仰ぎ見ますが、ユダヤ人にとっては特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだった、という事実に出会うからです。「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」とあります。ここで語られている「わたし」は、もちろん主、ヤハウェですね。イエス様を突き刺した、ということはヤハウェを突き刺したのです。

 ユダヤ人議会でカヤパがイエス様に尋ねました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」イエス様は答えられました。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(以上、マルコ14:6162)「ほむべき方の子」つまり神の子、そしてメシヤであるという言葉を聞いて、彼らはこの方を死刑に定めました。

 実際に突き刺しを行なったのはローマ兵ですが、ヨハネがこのゼカリヤ書の言葉が成就したことを述べています。ヨハネ19章によると、安息日が近づいているから、十字架に死体を残しておかないようにという要請をユダヤ人がピラトに出しました。そこで、ピラトは兵に命じました。まだ息が残っているであろうことを考えて、囚人のすねを折りましたが、イエス様のところに来ると、既に死んでおられました。それで、わき腹を槍で突き刺しました。そして使徒ヨハネは、これは「『彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。』(ヨハネ19:37」と証言しています。

 こうして彼らは、何千年もの間、自分たちが待ち望んでいたメシヤが、実は自分たちが突き刺した者であることに気づき、愕然とします。それで、ひとり子を失ったかのように激しく泣くのです。悔い改めです。

 彼らがこのように悔い改められたのは、御霊が注がれたという事実に気づいてください。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。(1コリント12:3」そして、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(1コリント2:14」ユダヤ人は、イエス様のことについて知識的には知っています。イスラエルのユダヤ人ガイドは、私たちよりも新約聖書の知識があり、正確に分かっています。でもイエス様がメシヤであると信じないのです。御霊がまだ降り注がれていないからです。

 そして御霊は「恵みと哀願の霊」であると表現されています。神の恵みというところで、ユダヤ人は上からの啓示を受けていないのです。けれども、主が彼らにその悟りを与えてくださいます。ここで彼らは初めて、神の恵みを知ります。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8

 そしてこの悔い改めは、イスラエル全体に及びます。

12:11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。

 これはユダの国の尊敬すべき王、ヨシヤが倒れた時のことです。カルケミシュに向かっているエジプトのパロ、ネコに対して、ヨシヤは戦いを挑みました。けれどもメギドの地で彼は倒れました。この後、ユダはみなが悲しみました。同じように全体が悲しみます。

12:12 この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。12:13 レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。

 ダビデの家は、王の家系です。ナタンはダビデの友人でありかつ預言者でした。預言者の家系です。そしてレビはもちろん祭司を出した家系です。シメイもレビから出たものです。つまり、先ほど三人の牧者として出てきた、王、預言者、祭司というイスラエルの指導者がみな、悔い改めの祈りをささげたのです。イスラエルが国をあげて悔い改めています。

12:14 残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。

 なぜ、先ほどから「ひとり」そして「妻たち」が繰り返されているのでしょうか?これは、個人的なものだからです。誰かが自分の代わりに悔い改めることはできません。自分自身が悔い改めて、初めて上からの罪の赦しと清めをいただくことができます。

 このようにユダヤ人は、最後は国をあげて、全ての人が悔い改めます。そして、次の章で罪と汚れをきよめる泉が開かれる、とあります。つまり、御霊による新たな誕生です。イスラエルは終わりの日に、このようにみなが救われるのです。


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