ゼカリヤ書13−14章 「主が来られる」

1A 罪と汚れの清め 13
   1B 偽預言者の除去 1−6
   2B 試される民 7−9
2A 着座される王 14
   1B 高められるエルサレム 1−11
      1C 立たれる主 1−5
      2C すべての王 6−11
   2B 主の宮への参拝 12−21
      1C 敵の間の恐慌 12−15
      2C 仮庵の祭り 16−21

本文

 ゼカリヤ書13章と14章を学びます。ついにクライマックスが来ました。ここでのメッセージ題名は、「主が来られる」です。

1A 罪と汚れの清め 13

 13章は、12章の終わりの続きになります。エルサレムの住民のために戦う主を彼らが見たら、それは先祖が突き刺したイエスでありました。それで彼らは、とてつもない罪を犯したことで激しく泣きます。その嘆きは、イスラエルの指導層、そして一般の人々、あらゆる人々に及び、しかも、家族の中でも一人ひとりが個人的に泣き、表面的ではない、徹底した霊的覚醒が起こります。

 13章はその後の続きです。

1B 偽預言者の除去 1−6
13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

 1210節に、主が御霊を彼らの上に降り注がれることが書かれています。その注ぎによって、彼らはメシヤがイエス様であることを悟るのですが、それにともない、罪と汚れを清める泉も開かれます。もちろん、この泉はキリストご自身です。キリストが流された血が彼らの心にも注がれます。こうして彼らは、今私たちが経験する御霊による新生を経験するのです。

 御霊の洗い清めについては、例えばテトスへの手紙にこう書かれています。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5」また、コリント第一6章11節には、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」とあります。

 イエス様がこの御霊の新生についてお語りになった時、ユダヤ人指導者のニコデモは理解できませんでした。「どうして、そのようなことがありえるのでしょう。(ヨハネ3:9」と答えています。そこでイエス様は尋ねられました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(同10節)」イスラエルの教師であれば分かって当然のこと、そうです、旧約聖書の中にこのことがしっかりと書かれているのです。

 エゼキエル書36章を開いてください。エゼキエルは、36章からイスラエルが回復する幻を見ます。36章には、彼らが土地に戻ってくることの約束が、37章には彼らの国が再び建てられることの約束、そして38章と39章には周囲の敵がイスラエルを攻めるが、神が介入してくださり、彼らが救われる約束です。それぞれの約束で、最後に、「わたしは彼らをきよめる」という約束も神は与えてくださっています。

 その一つを見たいと思いますが、3625節からです。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25-27節)

 ここで大事なのは「」です。私たちは自分の行ないを改めようと思っても、心が堕落しているので罪を犯さざるを得なくなっています。けれども神がご自分の霊によって私たちの心、そして霊を新しくしてくださるなら、私たちは神の命令に従うことができるようになります。それはもはや、その側の律法の行ないではなく、神を個人的に知っている愛の関係のゆえに可能となります。

 今度はエレミヤ書31章を開いてください。ユダが堕落してしまい、もう神に従っていくことはできないと神は判断されました。それでユダをバビロンに捕え移されることを決められましたが、けれども神は、新たな約束を与えてくださっています。「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・

 神は、「新しい契約」と呼ばれています。新約聖書という言葉はここから来ていますが、イエス様が最後の晩餐において弟子たちに杯を回された時、「これは、あなたがたのために流される新しい契約の血です。」と言われました。イエス様は、ここのエレミヤの預言のことを思いながら、そうお語りになったのです。

 どうして、「新しい契約」と呼ばれているのでしょうか?その前に契約があるからですね。それがシナイ山のところで主がイスラエルの民に与えられた契約であり、律法に基づくものです。けれども、イスラエルの民はずっと律法に背きつづけ、今、戻ることができない所まで来てしまいました。続けて読みましょう。

 
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(以上31-34節)」モーセは二枚の石の板をもってシナイ山から降りてきました。けれども律法やもはや、石に刻まれている文字ではなく、心に刻まれるのだ、と言われるのです。先ほどのエゼキエルの預言と同じです。

 そのため、どう書いてありますか?「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」です。もはや、律法と言う規則を守って主とつながろうとする主人と僕の関係ではなく、妻が夫を知っているように、子が父を知っているように、個人的な、人格的な関係に入るのです。

 そして神様は、罪の完全な赦しを宣言してくださっています。もう思い出さない、とまで言われます。「でも神様は、私はこんなに酷い罪を犯しんですよ!」と訴えても、「何それ?」と言われるだけです。もう二度と思い出さないのですから。

 このように、すばらしい御霊の新生がイスラエルの人々に与えられます。

13:2 その日、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは、偶像の名をこの国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。

 偶像と偽預言者らが取り除かれます。まず偶像についてですが、既に10章2節で偶像がイスラエルに終わりの時に至るまで存在することを見ました。現代のイスラエルにも、偶像はたくさんあります。実際に東洋神秘に凝っている人々は多いし、また不品行も充満しています。イスラエルでは、売春は合法、中絶も部分的に認められており、異邦人の国と何ら変わらない状況です。

 そして終わりの時にも偶像があります。黙示録9章には、底知れぬ所から出てきたいなごのような、さそりの毒をもつ悪霊に苦しめられ、そして二億人の軍隊が世界の人々を殺しますが、それでも「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(20-21節)」とあります。

 そして何よりも、獣、反キリストの国そのものが偶像礼拝です。反キリストが聖所の中に入り、自分こそが神であると宣言し、そしてもう一匹の獣が獣を拝むように仕向けます。獣の像を作り、その像がものを言うようにさせ、この像を拝まないものは殺しました。

 そして偽預言者です。偽預言者と「汚れの霊」が共に語られていますが、これは偽りの教えには、必ず悪霊がその背後にいるからです。パウロが言いました。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(1テモテ4:1

 そして偽預言者らが、終わりの時、特に大患難の時に、イスラエルの残りの民を惑わすことをイエス様は警告されました。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:23-24」これも、今のイスラエルはあらゆるカルトを受け入れている現状を見ると、その徴候を見るのです。けれども、彼らが殺されます。

13:3 なお預言する者があれば、彼を生んだ父と母とが彼に向かって言うであろう。「あなたは生きていてはならない。主の名を使ってうそを告げたから。」と。彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう。

 これは申命記に書かれている戒めです。偽預言者は殺されなければいけないのですが、それが家族の間から出てきたら、その家族が殺しなさいという命令です。「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。(申命13:6-9

 非常に厳しい戒めですが、家族という単位はその社会、国を強くすることもできれば、逆に堕落させることもできるのです。家族の一人が主に仕えていても、他の家族の反対によってその信仰が殺されてしまうからです。だからイエス様が、こう言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34-37

 これは私が信仰を持つかどうか悩んでいた時に与えられた御言葉です。親はパブレストランを経営していました。お酒を売っていますから、クリスチャンになったらいつか対立する時が来るだろうと思っていました。私は長男なので、お墓の問題があります。でも、「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふわさしくない。」と主は言われるのです。それで、この言葉に従いました。

 その約15年後、今度は、父と母が同じ決断をしました。自分自身がイエス様を救い主と信じました。実家に戻った時、神棚の上のものはすべてきれいになくなり、仏壇は閉じられていました。この彼らに試練がありました。私の姉、つまり娘に強く反対されたことです。ものすごい剣幕だったそうです。「息子(つまり孫)に会わせないからね。」と姉は母に詰め寄りました。母は、「いいよ、孫に会えなくても。」と答えました。これがどれだけ辛い決断でしょうか。けれども姉は、父も母も決心が堅いのを知ると、それから穏やかになりました。今でも三人、いや私の妻と合わせて四人で、彼女と彼女の家族の救いのために祈っています。

 ですから、家族の中でさえ偽預言者がいれば殺さなければいけないという命令は、イスラエルの国を神の国たらしめるためには、行なわなければいけない決断なのです。

13:4 その日、その預言者たちはみな、預言するときに見るその幻で恥を見よう。彼らはもう人を欺くための毛衣を着なくなる。

 自分たちの預言は全く嘘なことが発覚したのですから、恥ずかしいでしょう。それで「毛衣を着なくなる」とありますが、エリヤがバプテスマのヨハネが毛衣を着ていたことを思い出してください。それなりの格好を彼らはしていたのです。イエス様が警告されましたね。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。(マタイ7:15

13:5 また、彼は、「私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若い時から土地を持っている。」と言う。

 自分が偽預言者であることがばれないように、職業を偽って答えています。農民だ、と言っています。まあ、アモスは羊飼いだったのに預言者に召されていますから、本当に隠しているわけではないのですが。

13:6 だれかが彼に、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か。」と聞くなら、彼は、「私の愛人の家で打たれた傷です。」と言おう。

 彼らに「打ち傷」があるのは、異教のならわしでしばしば体に傷をつけていたからです。エリヤがバアルの預言者と対決した時のことを思い出してください、彼らはバアルが祭壇のいけにえに火をつけるように祈りましたが、全然反応がなかったので、体に傷をつけて叫びました。

 モーセの律法の中に、「ひげをそり落としてはいけない。」とか、「刺青をしてはいけない」という戒めがありますが、異教のならわしを意識して、神がそれらから遠ざかるように命じたものです。

 彼らは言い訳をして、「愛人の家で打たれた傷です」と答えています。ここの「愛人」という訳はちょっと変です。「愛する者」と言い換えたほうがよいでしょう。箴言に、「愛する子にむちを加えよ。」という命令がありますが、愛する者から受けた懲らしめの傷跡であるとごまかしたのです。

2B 試される民 7−9
 ところがこのごまかしが、実は次に続く、メシヤの預言につながっています。再び驚くべき、メシヤ預言があります。

13:7 剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。・・万軍の主の御告げ。・・牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。

 主は剣に語りかけ、「わたしの牧者」を攻めよと命じておられます。わたしの牧者とは誰ですか?そうです、既に11章で学んだ良い牧者であるイエス様です。イエス様は打ち傷を負われて、しかもご自分を愛しておられる父なる神のご計画と定めにしたがって傷を受けられました。

 そしてこの方は殺されました。キリストを殺したのは誰でしょうか?これは、比較的最近も、映画「パッション」が上映されるにあたって、アメリカで大きな議論になったことです。ユダヤ人でしょうか?それともローマ人でしょうか?クリスチャンは、「いいや、私たち一人ひとりの罪です。」と答えます。けれども、この十字架をすべて作り上げられたのは、他でもなく父なる神ご自身です。

 ペテロは、イスラエル人たちに福音を伝えた時、「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(使徒2:23」と言いました。あなたがた、つまりユダヤ人が十字架につけて殺しました。けれども、それを仕掛けたのは、「神の定めた計画と神の予知とによって」とあります。神ご自身が、ご自分の牧者を攻めるようにされたのです。

 イザヤ書53章の、受難のメシヤ預言を見ても明らかです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(4-6節)

 その目的は、飛んで10節にあります。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(10-11節)」私たちや罪の赦しを受け、神の子供になり、そして義と認められるために、神はキリストを殺されたのです。そしてキリストご自身もそのことをご存知で、今は満足しておられます。

 ゼカリヤ書13章7節に戻ります。ここの預言の際立っていることは、もう一つあります。主が、「わたしの牧者」と言われた後に、「わたしの仲間」と言われていることです。この「仲間」は、「同等の者」と言う意味です。ヘブル語を見れば、牧者と仲間の者は同じ人物として語っているそうです。つまり、牧者は神と同等の者ということです。

 12章でも、「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見(10節)」とありましたが、突き刺された方がヤハウェご自身、神ご自身であることを示していましたが、ここでもはっきりと示しています。

 そして英語には、”Against the Man, who is My Companion”となっています。「私の仲間であるこの男に」となっていて、ヘブル語は男を表す「ガバル」が使われています。つまり、人であり神であることを、この箇所ほど明確に宣言しているところはないのです。

 そして「そうすれば、羊は散ってゆき」とあります。ここの箇所をイエス様が引用されました。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。(マタイ26:31

 けれども、これはこの預言の成就の一部であり、続けて「わたしは、この手を子どもたちに向ける。」とあります。これは私たちが既に見た、紀元70年のローマによるユダヤ人の世界離散です。弟子たちがイエス様から散り散りになったように、ユダヤ人がイスラエルの地から散り散りになりました。

 そして次にユダヤ人の歴史、そしてこれからの行く末を知るのに非常に重要な預言があります。

13:8 全地はこうなる。・・主の御告げ。・・その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。13:9 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。

 「全地」とあります。世界に散らばっているユダヤ人に対する言葉です。「三分の一が断たれ、三分の一のみがそこに残る」とあります。紀元70年の時には、約100万人のユダヤ人が死にました。そして彼らは数々の迫害と虐殺を経験し、ナチスドイツの手によって600万人が死にました。

 けれども、これは終わりの時に比べればまだ少ないほうなのです。2007年の世界のユダヤ人人口は1320万人だそうです。でもシナゴーグに通うなど、自分がユダヤ人であると明らかにしている人たちの人数ですからもっといると思います。でも、この少なく見積もっている人数でさえ、三分の二と言えば880万人になります。

 ユダヤ人の人たちは、自分たちが世界の人々に憎まれているということを、心のどこかで知っています。私たちがイスラエルのホロコースト博物館である「ヤド・バシェム」に行ったとき、ユダヤ人ガイドはこんなことを話しました。「理由は分からないけれども、ユダヤ人は憎まれている。ユダヤ人がほとんどいない日本においても、同じです。イスラエルに旅行で来た日本人が、『私はユダヤ人が憎たらしい。』と言いました。なぜか尋ねると『世界を支配しているから。』とのことです。日本のほうがよっぽど、経済大国として世界に君臨していると思いますが。」とおっしゃっていました。

 私は日本と言う現場にいますからこの反応がよく分かります。イスラエルのことユダヤのことを知ろうとすると、必ず、世界制覇をたくらむユダヤ人の陰謀という内容のものにぶつかります。ウィキペディアでも「ホロコースト」の記事には、ホロコースト否定論を同じぐらいの紙面を割いて掲示しているのです。このようなことを言っている本人たちは「私は反ユダヤ主義者ではない」と否定しますが、実を見ると明らかなのです。そのような説を読んだり、聞いたりしている人の心には、ユダヤ人に対する漠然とした敵愾心が植えつけられているのです。

  そして反ユダヤ主義は今、「反イスラエル主義」に取って変えられています。イスラム諸国にある反ユダヤ主義に後押しされた形で、昔からの反ユダヤ主義を継承しています。

 ユダヤ人がなぜこのように憎まれるのか、聖書は明確に答えを与えています。黙示録12章には、イスラエルを表す女を追いかけ、滅ぼそうとしている竜が、「悪魔とか、サタンとかと呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇(9節)」と書かれています。悪魔がすべての仕掛け人です。

 そして、その黙示録12章には、女が荒野に逃げて、そこでひと時、半時、二時の間、養われると書かれています。竜は彼女に大水を流して押し出そうとしたが、地がその道を飲み込んでしまった、とあります。これは、地形がそうさせているからです。彼らが逃れるボツラ、今のヨルダンのペトラのところは、地形的に軍隊がなだれ込むことはできないようになっています。だから、民は残されるのですが、それでも多くの人は殺されるでしょう。

 しかし、次からが大事です。「その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。」とあります。患難は悪魔が引き起こしているものですが、けれども神はそれを練り清めるために用いられます。私たちの信仰も、試練によって純化していくことを聖書は教えています。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(1ペテ1:7」試練は嫌ですが、試練によってキリストが自分のうちに形造られていくのを感じる時、かえってそれは感謝であり、喜ばしいことだと感じます。

 エゼキエル書にも、患難を練り清めとして神が用いられることを語られています。2033節からです。「わたしは生きている、・・神である主の御告げ。・・わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。・・神である主の御告げ。・・わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(33-38節)」反逆者の選り分けです。死んでいくのは反逆者であり、生き残るのは、主を求めていく残された者たちです。

 ですから、「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。」とあります。イエス様は、「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。(マタイ24:22」と言われましたが、彼らは、自分たちが絶滅してしまうのではないかという切迫感から、主を願い求め始めるのです。これが神の精錬、練り清めの働きです。

 そして、「わたしは「これはわたしの民。」と言い、彼らは「主は私の神。」と言う。」とあります。彼らはこの試練を通して神を個人的に、人格的に知るようになります。エレミヤ書でも同じことが預言されていて、「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(30:7」と、苦難によって救いが与えられることを教えています。そしてマラキ書3章2,3節には、こうあります。「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。(マラキ3:2-3」苦難が彼らを純粋にします。

 それで先ほどの、御霊による新しい誕生、きよめの泉が開かれることにつながるのです。

2A 着座される王 14
 では14章に入りましょう。ここでは主が再臨されるだけでなく、再臨された後に神の国が立てられるというすばらしい預言です。ゼカリヤの人たちが一番求めていた神殿礼拝の再開を、神の国の中で行なうことができるという希望に満ちた預言です。

1B 高められるエルサレム 1−11
1C 立たれる主 1−5
14:1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。14:2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

 「主の日」という非常に大切な言葉が出てきました。韓国系の教会では「主日」と呼んで、それを、礼拝をささげる日曜日の日であるとしていますが、聖書では違います。大患難時代、そして主の再臨と千年王国が立てられるその時期を指して使っています。

 
預言箇所はたくさんありますが、ゼパニヤ書1章14節から読んでみたいと思います。「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。(14-18節)」とてつもなく恐ろしいですね。

 そしてここゼカリヤ書では、主は、ハルマゲドンの戦いのことを話しておられます。全地が滅ぼしつくされるのですが、エルサレムも同じように大きな被害を受けます。国々によって攻められて、略奪に遭い、婦女は強姦を受けますが、ここで大事なのは最後の部分です。「しかし、残りの民は町から絶ち滅ぼされない。

 エルサレムの町はハルマゲドンの戦いの初期においては、このように攻撃を受けます。けれども、神はあえてそれを許されています。先ほどから話している通り、彼らが主を求め、神の名を呼び求めるようになるためです。そして彼らが、救ってくださるのは主であって、自分たちではないことを悟るためです。

14:3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。

 すばらしいです、主が戦われます。この様子を詳しく見るために、黙示録19章を読むべきでしょう。「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。(11-16節)」そして軍隊はたちまち滅び、その死体が積みあがります。猛禽に対して、そこで大宴会を開きなさいと御使いが言います。そして反キリストも偽預言者も、燃える硫黄の池に投げ込まれます。

14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。

 イエス様の再臨は、瞬時に起こるものではありません。天の雲に乗ってこられる方は、まずボツラにいる世界の軍隊と戦われ、それからエルサレムに来られ最後の決定打を加えられます。そして地上着陸です。主はオリーブ山に立たれます。主は天に昇られた時と同じところに戻ってこられるのです。主が昇天された後、弟子たちに二人の白い衣を着た人がこう言いました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11

 そして地殻変動が起こります。大患難時代、特にその終わりには天変地異が起こることが特徴です。イエス様が言われました。「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。(マタイ24:29」黙示録の最後の裁きはこうです。「すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。(16:18」ペテロは主の日についてこう言いました。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(2ペテロ3:10」天も地もすべてがめちゃくちゃになります。

 けれどもそれには、積極的な意味があります。今の天と地が過ぎ去って、神が新たに天と地を始められるからです。新しいものが来るために、古いものが過ぎ去らなければいけないのです。季節が変われば衣替えをするように、古いものを脱ぎ捨てるのです。詩篇の著者はこう言い表しました。「これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。(102:26

 私たちは一度、こういう問いをしなければいけません。「はたしてこの地球が滅んでも、自分が残っているか?」自分がこの地に属している者であれば、共に滅びます。けれども、新たに生まれて天に属していれば、生きながらえます。使徒ヨハネは言いました。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:17

 それで、イエス様がオリーブ山に立たれると、地殻変動が起こります。もう一度読みます。「エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」オリーブ山は、神殿の丘の東に、ケデロンの谷を挟んで南北に延びています。けれども、主が足をそこに着かれることによって、大きな谷ができます。山は北と南に移っていきます。

14:5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

 「アツァル」がどこにあるか、分かっていません。けれども、エルサレムにいる残された民は、これから主が行なわれるエルサレムの作り変えを避けるために、この谷を通って逃げます。主がこれから、新しいエルサレム、千年王国のエルサレムを建てられるのです。

 そして、「すべての聖徒たちも主とともに来る」とありますが、この聖徒たちは誰でしょうか?そうです、私たち教会です。黙示録によると、七つの封印をキリストが解かれる前に、天において教会が主を賛美しています。すでにキリストが私たち教会を空中にまで引き上げてくださったからです。そして天において小羊との婚姻があり、主が地上に降りてこられる時、ともに戻ってくることが19章に書かれています。

2C すべての王 6−11
14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。14:7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 ここからが千年王国の姿です。キリストが戻られて、地上に立てられる神の国の姿です。黙示録20章にはこれが「千年」の期間であるということで、しばしば「千年王国」と呼ばれています。

 旧約聖書には神の御国について実に数多くの啓示があります。けれども教会では、この地上における成功法を多く聞きますが、神の国の至福についてはあまり語りません。けれどもイエス様は何とおっしゃられたでしょうか?「だからこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』(マタイ6:910」パウロは、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。(使徒14:22」と言いました。御国における至福を知っているからこそ、今の苦しみに耐えることができるのです。

 そしてイエス様は、八つの幸せ、八福について語られました。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に餓え渇く者、あわれむ者、心のきよい者、平和を造る者、そして義のゆえに迫害される者です。これらのものは「幸い」であると言われるのです。この世は、また私たち自身は、この全く逆のことを考えます。このような徹底的な自己否認に立つことができるその原動力は、自分が神の御国の市民であるであるという所属意識から出てくるものなのです。

 ですから千年王国について知ることは、非常に大切です。数多くの預言がありますが、ここではゼカリヤの預言で取り上げられている特徴に焦点を当ててみたいと思います。

 6節の「光も、寒さも、霜もなくなる」というのは、これまで私たちが受けている日光とは比較にならないほどの明るさが与えられるということです。他の預言の箇所を読めば、この様子がさらに分かると思います。イザヤ書4章4,5節です。「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。(イザヤ4:4-5」主ご自身が、かつてイスラエルの宿営の中に火の柱としてご臨在しておられたように、エルサレムの真ん中にご臨在されます。その光のため、昼夜もなく、夕暮れにも光があるのです。

 次はイザヤ書3026節です。「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」太陽の月も、それぞれ七倍の光を放ちます。そしてこの日によって、人々が罪によって傷ついたものが癒される、というのです。

 最後にイザヤ書6019,20節です。「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」主ご自身がその栄光で輝いておられます。その光によって私たちの嘆き、罪や死から来る嘆きは終わります。

14:8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。

 イスラエルに行かれた方はよくご存知ですが、水の確保が至上課題です。水をガリラヤ湖から汲み、運河を造ってイスラエル南部の農場に運んでいます。そのためにガリラヤ湖の水位が下がり、また死海の水位も急激に下がっています。聖書時代も、イスラエルが従順の時に主が雨を降らせて下さり、そうでなければ降らせないと神は言われました。それだけ水が貴重なのです。

 千年王国では、この心配がありません。エルサレムから湧き水が流れ出ます。そして東は死海に、西は地中海に流れ出ています。これは、実は主が建てられる神殿の中から出ているものです。エゼキエル書47章にこの様子が詳しく書かれています。「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。(1-12節)

 今は、この姿は霊的に私たちのうちで実現します。私たちの体が神殿であると書いてあります。イエス様は、ご自分を信じる者は、ご聖霊の満たしによって、私たちのうちから生ける水がほとばしり出ることを約束されました。けれども終わりの日には、このように物理的に、命の水が神殿から流れ出て、イスラエル全域を潤すのです。(その他、ヨエル3:18

14:9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

 これは、現代の風潮ではもっとも嫌がられる啓示でしょう。アメリカがイラクを攻撃したことなどについて「一国主義」であると非難した世界は、イスラエルの主である方が世界の王であるという考えには到底付いていけないでしょう。だから、最終的にイスラエルを攻めてくることになります。けれども、これが聖書における一貫した啓示なのです。

 このことをはっきりと証ししたのはダニエルです。バビロン捕囚によってユダヤ人が祖国を失って、神は世界の帝国の王たちにご自分のことを啓示されました。ネブカデネザルもダニエルの神を認め、メディヤの王ダリヨスも認めました。ダニエル書7章1314節には、こう書いてあります。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」イスラエルの主は、もろもろの国、民族、国語の王なのです。

 そして主が、諸国の軍隊と戦われる時、その着物にも腿にも「王の王、主の主」と書かれています(黙示19:16)。

 そして「主はひとり、御名は一つ」ということも、現代の人々は嫌います。宗教者らは互いに対話をしていかなければならない、という圧力をかけます。いいえ違います。対話ではなく、回心です。福音を伝えて、その人がキリストに自分の身を明け渡すように願うことが、真実の平和を求めるものです。ペテロは何と言いましたか?「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12」たった一つなのです。

14:10 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。エルサレムは高められ、もとの所にあって、ベニヤミンの門から第一の門まで、隅の門まで、またハナヌエルのやぐらから王の酒ぶねのところまで、そのまま残る。

 「ゲバ」はユダ族の割り当て地の一番北の町です。そして「リモン」は一番南の町です。これが「アラバ」のようになるというのは、低くなり、平らになるということです。アラバは、イスラエルのガリラヤ湖、ヨルダン川、死海、そして紅海に渡る、シリヤ・アフリカ地溝によって非常に高度が低くなっている地帯のことです。死海が世界で最も低い陸地であることは皆さんご存知だと思います。死海だけでなく、ヨルダン川渓谷も、ガリラヤ湖も低いです。ユダの地は高い山々が連なっています。ベツレヘムも、ヘブロンも山々の上にありますが、これらがみなアラバのように低くなります。

 そしてエルサレムだけが、平地の中にそびえる台地のようになって高くそびえます。理由は、そこに主が神殿を建てられるからです。町の城壁が、ネヘミヤ時代のものと同じ門が残されていることに注目してください。エルサレムが、他のところよりも高くなるのです。

 その目的は何でしょうか?ミカ書4章を開いてください。1,2節を読みます。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(ミカ4:1-2」そこが礼拝の場になるのです。

 日本人が山に寺や神社を建ててそこに参拝に行きますが、終わりの日にはまことの神、まことの主の教えをいただくために、高い山にあるエルサレムに参拝しに行くのです。

14:11 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、エルサレムは安らかに住む。

 これまで異邦人に踏み荒らされてきたエルサレムは、もはやその心配はありません。安らかにすむことができます。8章で、老人や子供たちが広場で遊ぶことができるようになります。

 イザヤ書33章は、その安全性を「杭が抜かれることのない天幕」に例えています。「私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。(イザヤ33:20

 分かりますか、今見てきた御言葉は、ごくごく一部でしかありません。この御国の姿を聖書の中で見つけて、ただ読んでいくだけで、私たちが一体どういうところに行くのか、自分の生き方のも気的と指針をはっきりさせることができます。

2B 主の宮への参拝 12−21
 そして次に再び、ハルマゲドンの戦いの最後の部分から話が始まり、そして再び千年王国の中に入ります。ここでは、今読んだ「主がすべての王である。主がただひとり、一つの御名となる」という部分を強調しています。主が力強い御腕によって、諸国の民を従え、すべてのものを支配される姿を見ます。

1C 敵の間の恐慌 12−15
14:12 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。

 私はここを読んで、本当に驚きました。映画の特殊映像でも見ているような気分でした。けれども先に私たちは、主が火によって敵を焼き尽くすことを見ましたが(12:6)、その凄まじさがここに描かれているのです。あまりにも速く、しかも勢いをもって襲うので、そのまま体の内臓が燃え尽きていきます。

 主が滅ぼすことをお考えになれば、瞬時に滅ぼすことができることを教えています。

14:13 その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。

 これは主がイスラエルに勝利を与えられる時に、常に使ってくださった方法です。ギデオンのときもしかり、ヨナタンが道具持ちとペリシテ人の陣営に行ったときもしかり、です。

14:14 ユダもエルサレムに戦いをしかけ、回りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。

 エルサレムに攻めてきた敵どもが慌てふためき、たじろいているので周りにいるユダがエルサレムにいる敵どもと戦います。そして多くの略奪品を手にします。

14:15 馬、騾馬、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜のこうむる災害は、先の災害と同じである。

 「先の災害」とは、立っているうちに腐っていくという災害です。彼らの馬や家畜もみなこの被害に遭います。こうして、反抗する者たちに対して容赦ない裁きを行なわれることを見ました。

2C 仮庵の祭り 16−21
14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

 「生き残った」とありますが、今見た、主の戦いとここの王への礼拝の間には、一つの大きな出来事があります。羊と山羊を選り分ける裁きです。それは、「すべての国々の民が、その御前に集められる。(マタイ25:31」とあり、ハルマゲドンの戦いで生き残った民に対する裁きです。羊は、弱った人、困った人を助けたために御国の中へ、山羊はそれを行なわなかったので地獄に投げ込まれます。

 ですから生き残った人々は、王なる主に絶対服従する立場に置かれています。主は「鉄の杖で彼らを牧される。(黙示19:15」とありますが、千年王国ではキリストに絶対主権が与えられています。逆らえば罰せられ、悪がはびこることは一切ありません。

 ここでは「仮庵の祭り」を祝うとあります。千年王国これはもともと、イスラエルの民が荒野の旅をしていて、約束の地に入るまでに主が彼らを守ってくださったことを祝うものです。これを行なうことは、千年王国にて、「私たちも大患難を経て、今、ようやく約束の御国の中に入ることができた。」という意味合いを持ちます。

14:17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。14:18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。14:19 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。

 かつてエジプトが主に逆らったために、災いを受けたことを持ち出して、この仮庵の祭りに参加しないで逆らえば災いがあることを教えています。このようにして主が、これらの諸国の民を従えておられるのです。

 ところでこのとき、キリストの教会がどうなっているのでしょうか?テアテラにある教会で、信仰を保っている者たちに主がこのような約束を与えられました。「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。(黙示2:26-27」分かりますか、教会は絶対服従の立場にいるのではなく、キリストとともに従えさせている立場のほうにいます。

 すべての人はいずれ、「イエス・キリストは主である」と告白します(ピリピ2:10)。この告白を私たちが今、自ら進んで行なうのであれば、そこには自由があります。強制されてではなく、主が初めに私たちを愛してくださったから、私たちはこの方を愛して、仕え、従うのです。そして終わりの時には、多くのものを任される管理者となり、行政者となります。

 イエス・キリストは主であるという告白を遅らせる人は、強いられて告白することになります。私たちはいつかどこかの時点で、イエス様の主権を認めるのですが、今なのか後なのかで、これだけの違いが出てくるのです。今であれば、自らの意思です。後であれば強制です。

14:20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。14:21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

 主の御名が一つになるのは、王権においてだけではありません。祭司的な働きにおいてでもです。かつては、会見の天幕だけが聖なる所であり、そしてその外は世俗的な空間であると人々は考えていました。それでネヘミヤの時代には、安息日に、しかもエルサレムの城壁の中で商売をしようとした人までいました。

 けれども終わりの日には違います。イエス様が王としてまた祭司としてエルサレムに着座されている時、一般の生活で使っている馬の鈴までが「主への聖なるもの」という、大祭司のかぶり物の額につける札と同じ文字が刻み込まれます。そして主の宮で使われているなべは、礼拝の要になっている祭壇の鉢のように聖別されます。

 そして驚くことに、一般の人々のなべまでが礼拝のためのなべとして用いられます。ですから、公の生活においても、私的な生活においても、すべてのものが礼拝生活に変わるのです。それだけ主がすべての分野にその聖なるご性質を浸透させておられるのです。

 私たちは今、霊的にはそのような生活を送るように命令されています。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31」とあります。私たちに、キリストを礼拝する時間と、キリストのことを考えなくてよい時間との区別はないのです。教会に通って、すべての奉仕が終わって、「ああ、これで終わりだ!」と、もう神様のことを考えないでテレビを見ていたら、神の国に入るものとしてはふさわしくないのです。すべてのものが聖なるものとしてささげられる・・・これがキリスト者の姿勢です。

 どうでしょうか?これらすべての幻と預言を、今、神殿の再建工事をしている人々が、またこれからエルサレムの城壁を再建しようと考えている人々が聞いた言葉です。預言を聞くと、人々は励まされます。慰められます。徳が高められます。私たちもキリスト者として、多くの戒めと励ましを受けたのではないでしょうか?イスラエルが行き着くところと、クリスチャンが行き着くことろは同じです。神の国、そしてそこで君臨されるキリストご自身です。この御国に入るにふさわしい者として歩もうではありませんか。


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