ゼカリヤ書7−8章 「真の断食」

アウトライン

1A 悔い改め 7
   1B 自分のための断食 1−7
   2B 真実と憐れみ 8−14
2A 回復 8
   1B エルサレムの再建 1−8
   2B 平和の種 9−17
   3B 楽しみと喜びの例祭 18−23

本文

 今回の学びは、ゼカリヤ書の後半部分7章から14章までです。

 私が、このゼカリヤ書を皆さんの学び会において選んだのは、皆さんがイスラエルのために、そしてエルサレムのために祈りを捧げているからです。ゼカリヤ書のテーマは、今日学ぶところにありますが、8章23節です。「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。』主はこう仰せられる。『わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。』」主が、ねたむほどエルサレムを愛しておられる、そしてそこを真実の町、聖なる山として回復したいという神の熱情を、私たちはゼカリヤ書を通して読むことができます。

 ゼカリヤ書の背景を思い出してください。時は、ユダヤ人が七十年のバビロン捕囚を経て、エルサレムに帰還した直後のことです。総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを指導者また指揮者として、約五万人のユダヤ人が戻りました。そして、神殿の礎を据えるところまではできたのですが、周囲の住民による激しい反対に遭ったため、工事を中断せざるを得なくなりました。

 それから十六年の月日が経ち、二人の預言者が主の言葉を告げました。ハガイとゼカリヤです。この二人を通して、主からの叱責と励ましをユダヤ人たちは受け、神殿再建工事を再開させました。再び反対に遭いましたが、今度は黙々と工事を続けたのです。そして、紀元前516年、ちょうどエルサレム神殿破壊の紀元前586年の七十年後に、神殿が完成しました。

 この預言がどのような内容のものであったのかを、私たちはゼカリヤ書で読むことができます。十六年も意気消沈して、何もしていなかったところを、どのような言葉を聞いて行動に移すことができるようになったのかを知ることができます。

 そして私たちは、前半の1章から6章までを前回学びました。ゼカリヤ書は大きく二つに分けることができますが、前半部分は幻による預言です。八つの幻がありました。初めの幻は、主を真ん中にして、戦に出る馬が地上を偵察しました。これがゼカリヤ書の基調です。エルサレムを踏みにじる諸国に対して、主がいかに戦い、彼らを守り、救われるかをゼカリヤ書は描いています。

 そして二つ目の幻は、四つの角と四人の職人の幻です。四つの角は、バビロン、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、そしてローマです。ダニエル書を学んだことがある方はこの四大国はご存知でしょう。イスラエルが祖国を失い、離散と民となってから世界を支配した大国です。そして、四人の職人は、メディヤ・ペルシヤ、ギリシヤ、ローマ、そして神の国です。角を職人が刻むように、バビロンをメディヤ・ペルシヤが倒しました。ペルシヤをギリシヤが倒しました。ギリシヤをローマが倒しました。けれどもローマ、すなわち復興ローマはキリストによって倒されます。

 それから三つ目の幻は、火の城壁を持つエルサレムです。主ご自身がエルサレムの安全を守られます。四つ目と五つ目は、それぞれ大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルに対する励ましの幻です。汚れた着物をまとっていたヨシュアを訴えるサタンを主が責めて、ヨシュアに礼服を着させました。そしてゼルバベルについては、七つの枝がついている燭台が、オリーブの木から直接、灯火用の油を注がれている幻をゼカリヤに見せ、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と励まされたのです。遅々として進まない神殿工事を、主の御霊が成し遂げてくださるということです。

 そして六つ目と七つ目は、エルサレムにとって試練となる幻となっています。六つ目は、飛んでいる巻き物です。イスラエルの中で悪を行なっているものが、巻き物に記されている神の掟にしたがって裁かれる場面です。大患難の時代、主に歯向かうイスラエル人の反逆者を取り除かれる神の働きを示しています。そして七つ目は、エパ枡とその中にいる汚れた女の幻です。これはシヌアルに運ばれます。すなわち患難期のバビロンの姿であります。黙示録17章と18章に預言されているものです。

 そして最後の八番目の幻は、偵察に出ていた一番目の幻の馬が、実際に諸国の民に戦いに出て行くものです。これがハルマゲドンの戦いで、主がそれら全世界の軍隊と戦われることを示しています。

 最後、6章9節以降に、締めくくりとして象徴的な行為が記されています。捕囚から帰ってきた民が、大祭司ヨシュアに王冠をかぶらせることです。これは、王でありまた大祭司であられるメシヤ、キリストが神の国を統治される、千年王国の姿を表しています。

 分かりますか、このようにエルサレムに帰還して、遅々としてその再建が進まない民に対して、主がエルサレムの復興を確証し、約束してくださっているのです。

1A 悔い改め 7
 そして7章に入ります。1章から続くこの八つの幻が与えられてから、すでにほぼ二年が経っています。八つの幻は、ペルシヤのダリヨス王が第二年の時にゼカリヤに与えられたものですが、7章1節には、「ダリヨス王の第四年」とあります。(注:まず一節ずつ、7−8章を読んでもらう。その時、録音は一時停止。)

1B 自分のための断食 1−7
7:1 ダリヨス王の第四年の第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。7:2 そのとき、ベテルは、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを、主に願うために遣わし、7:3 万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねさせた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」

 神殿再建を再開したのは、ダリヨス王第二年の六月です(ハガイ1:15)。そして神殿の完成は、ダリヨス王第六年のことです(エズラ6:15)。ですから、これら捕囚からの帰還民は、神殿を建設している時に、断食を続けるべきかどうか伺いに来ました。

 「ベテルは」とありますが、これは人ではなく町の名前です。ベテルが町として、主に伺いを立てに来たということになります。ベテルは、北イスラエルの南端に位置する町でした。覚えていますか、ソロモンの死後イスラエルが北と南に分裂したとき、北イスラエルの初代の王ヤロブアムは、民が神を礼拝しにエルサレムに行けば、その心は南に傾くことを恐れて、北イスラエル領土内に高き所を設けたのです。北端の町ダンと、南端の町ベテルにそれぞれ金の子牛を据えました。

 ですからベテルは偶像礼拝の中心の町であり、彼らは自分たちの身に起こった災いを痛恨の念を持って断食していたのであろうと見受けられます。

 そしてその代表者の名前「サル・エツェル」と「レゲム・メレク」は、バビロンの影響を受けたものです。彼らは帰還の民です。そして、「断食を第五の月に長年やってきた」と言っています。神の律法では、贖罪日、ヨム・キプールの時のみユダヤ人に断食を命じておられますが(レビ23:32)、紀元前586年、第五の月にネブカデネザルは、エルサレムを破壊しました(2列王25:8)。それで、彼らはそのことを悲しむために自主的に断食を行なって、バビロンの地でずっと行ない続けていたのです。

 それを、エルサレムに帰還して、すでに神殿が建てられている今、続けて行くべきかという質問です。これに対する、主からの答えはどうでしょうか?

7:4 すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。7:5 「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。

 いかがでしょうか?彼らは誠実に主を求め、そして主から聞こうとしてやってきたのに、神ははっきりと、「それはわたしのために行なったのではない、自分たちのために行なっていたことだ。」と責められたのです。断食という、罪を悲しむはずの行為さえ形式的なものになっていたことを主は、はっきりとお語りになりました。

 この形式化、儀式化の問題をお話しする前に、主がお叱りになること、責められることについてお話したいと思います。英語ですとrebukeですね。ゼカリヤ書の冒頭、1章1節から6節は、彼らが主に立ち返ることを促す、主からの叱責の言葉になっています。そして、共に預言していたハガイは、彼らが神の家ではなく、自分たちの家を建てて、自分たちのために暮らしていることを、主にあってはっきりと述べました。そしてハガイ書によると、「彼らは主の御声に聴き従って、主の前に恐れた(1:12参照)」とあります。

 人間的に見れば、ベテルの人々が主に伺いを立てに来たことから、彼らが敬虔な人々であり、主を誠実に求めている人のように見えます。そして実際に、私がその場にいたらそうみなしたと思います。けれども、人間の尺度と神の尺度は異なります。人はうわべを見るが、神は私たちの心の中をすべて見ておられます。

 ヘブル書4章12節によると、神の言葉は何であると言っていますか?「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:12-13

 このように私たちは、はっきりと自分の姿を照らし出す、心の中もすべて明らかにする神の御言葉を聞く心の用意が必要です。パウロが、自分の霊の子テモテにこう書き残しました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(2テモテ4:2」責めなさい、戒めなさい、そして勧めなさい、という命令です。これは何も牧師や教師が、個々人を責め立てることではありません。そうではなく、私たちの心をはっきりと示す、神の御言葉をしっかりと、はっきりと宣べ伝えていきなさい、という意味です。そして、この言葉を私たちは、ご聖霊によって受け入れ、信じ、そして従うのです。

 そしてこの断食についてですが、第五の月だけでなく第七の月にも行なっていたようです。エレミヤ書41章によりますと、この月に、エルサレムにわずかに残っていたユダヤ人が、バビロンによって総督に任命されたゲダルヤを殺しました。この出来事によって、彼らはエジプトに逃れて行きました。この暗殺によって、イスラエルにさらなる災いがもたらされたことを悲しんで断食したのです。

 さらに彼らは、「食べたり、飲んだりしていた」とありますが、これは主の律法に定められている例祭のことでしょう。申命記1257節に、例祭の時に家族ごとでお祝いしなさいという命令があります。これらのこともみな、彼らは主のためではなく、自分のために行なっていたと主は責められます。

7:7 エルサレムとその回りの町々に人が住み、平和であったとき、また、ネゲブや低地に人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げられたのは、次のことではなかったか。」

 捕囚前に預言者が語っていたということです。ちなみに、ここの「低地」は「シェフェラ」という地域です。イスラエルは中心に南北に山脈が連なっていて、その山々にエルサレムやベツレヘム、ヘブロンなどがありますが、その高地と地中海の海岸地域、昔はペリシテ人が住み、今はガザ地区になっている海岸地域の間を「シェフェラ」と呼びます。ダビデがゴリヤテを倒したエラの谷もここにあります。

 数々の預言者が、彼らがいけにえを捧げることが形式化して、心が神から離れていることを語りました。例えばイザヤは、こう言っています。「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙・・それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日・・会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。(イザヤ1:13-15」ホセア書ではこう言っています。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(6:6

2B 真実と憐れみ 8−14
7:8 ついで、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。7:9 万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。7:10 やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

 主が願っておられることは、正しい裁き、誠実、憐れみです。そして弱い人を虐げてはいけないこと。また心に相手に対して悪をたくらまないことです。そしてゼカリヤは、「互いに」という言葉を加えています。ユダヤ人の間で、神の民の間でこのようなことがあってはならない、と教えているのです。

 このことは、信じている者たち、教会の人たちに非常に重要な教えを与えています。私たちに問題が起こるのは、教会の中の人間関係です。教会の活動の中で起こります。その目的は、互いに愛し合い、仕え合い、励まし合い、慰め合い、時に互いに罪を告白し、互いに祈り、互いに訓戒することです。正しいさばきを行ない、誠実を尽くし、憐れみ合うことです。

 けれども、その目的がなくなって、教会のことで兄弟同士が裁き合い、ねたみ、悪口を言い、またつまずきを与えます。やっていることが儀式だけになって、実がともなっていないのです。正しいさばきをし、誠実を尽くし、憐れむというキリスト者としての使命、義務に徹していないのです。

 そして具体的にゼカリヤは、やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい人を虐げるなと戒めています。私たち教会が教会として機能しないとき、それは自分たちの周りにいる、必要を持っている人々に手を伸ばしていないことにあります。私たちはキリストを知っていますが、知らない人々に私たちがどれだけ骨を折っているでしょうか?自分が教会で人々に仕えていないのに、教会の批評ばかりを行なっていないでしょうか。このように裁きあうことによって、実際に福音が必要な人々に福音が届かなくさせ、教会に壁を作り、教会を自分たちだけの世界にさせています。

 そしてその背後にあるのは、互いにある疑心です。「互いに心の中で悪をたくらむな」とありますね。使徒ペテロは何と言ったでしょうか、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。(1ペテロ1:22」表向き、愛しているようにふるまってもいけないのです。私たちは心から、真実をもって愛するように命じられています。

 
この過ちを、神殿建設を続けている時のユダヤ人が犯していました。神殿の工事は本当に大変でした。その遅々として進まない工事で、内部での不満がたまっていたかもしれません。だから、「正しくさばき、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え」という言葉が必要だったのでしょう。

7:11 それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」7:12 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。

 これは当時、バビロンによってエルサレムが破壊される前に、ユダヤ人が取り続けていた態度です。「金剛石」とありますが、聖書では当時もっとも硬い物質として描かれています。

 なぜここまでかたくなだったのか、と、私は例えばエレミヤ書を読んで以前は思っていました。けれども、このようなとてつもないかたくなさが、自分の内にもあることを発見しました。ローマ書8章7節には、「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。肉は、決して妥協しないのです。神が命じられることに、とことんまで従わないのです。

 
ですから私たちに必要なのは、自分を自分の力で変えようとすることではなく、砕かれることです。肉ではなく、御霊に従うことです。主にすべてを明け渡すことです。

7:13 「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない。」と万軍の主は仰せられる。7:14 「わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを追い散らす。この国は、彼らが去ったあと、荒れすたれて、行き来する者もいなくなる。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」

 エレミヤ書を読めば、このことがはっきり書かれています。彼らがかたくなに主の御声に聞き従うことを拒んだので、バビロンに捕え移され、そしてイスラエルは荒らされました。

2A 回復 8
 けれども、ゼカリヤ書における主の御言葉は、叱責や戒めよりも慰めと励ましがその多くを占めています。理由は、そのような時代になったからです。主がお定めになった七十年というバビロン捕囚の期間はすでに満了していました。これからは回復の働きを主は行なわれます。

 しばしば、説教者の役割は、「快適にしている人を悩まして、悩んでいる人を慰める」と言われます。英語では”Afflict the comfortable; comfort the afflicted.”です。これから、主は彼らに慰めの御言葉を与えられます。

1B エルサレムの再建 1−8
8:1 次のような万軍の主のことばがあった。8:2 万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」

 これは私たちの心に刻まなければいけない、大切な御言葉です。エルサレムは主にとって、どのようなところでしょうか?「ねたむほど激しく愛し、ひどい憤りにねたむ」町であります。エルサレムの町が、外国の民、敵によって踏み荒らされているのを、主が凍った心で遠くから見届けておられたのでしょうか?いいえ、違います。

 確かに主は、イスラエルとユダを怒られました。彼らに裁きを下されました。けれども、彼らに対する愛がなくなったから、それを行なわれたのでしょうか?絶対に違います、その反対です。彼らに対する激しい言葉が記されているエレミヤ書には、エレミヤの涙、いや主ご自身の涙でみなぎっています。彼らをどれほど愛しておられたのか、ねたむほど愛しておられたのかを知ることができるのです。

 パウロがイスラエルについてこう言いました。「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。(ローマ11:28」この二つを私たちは事実をして受け止めなければいけません。第一に、彼らは福音に敵対しているのです。これを言って「その発言は反ユダヤ主義だ」と言われたら、それは神の御言葉に反対していることです。

 私がイスラエル旅行に行ったとき、メシアニック・ジューの人たちが経営する”Galilee Experience(ガリラヤ体験)というお店に行きました。そこの店長さんとお話しましたが、私は日本人にいかにクリスチャンが少ないかを教えるために、「1%以下しかいません」と言いました。そうしたら店長さんは、「イスラエルには0.1%以下しかいません。」と応えられたのです。それでも、以前よりはましで、増えてきているとのこと。日本でさえどれだけ福音宣教が大変か知れませんが、イスラエルまたユダヤ人は、もっともっと大変なのです。

けれどももう一つの事実があります。それは「神は彼らを一方的に愛しておられる。」ということです。「選び」とありますが、これは言い換えると、「何の働きもないのに、一方的にあわれみ、愛してくださった。」という意味になります。世界はこれに対してねたみ、怒り、そして憎むのです。けれども、どちらも真実であり事実なのです。

 だから、福音をユダヤ人に伝えるということは、つまり「嘆いて、泣いて、叫んで祈る」働きだ、ということです。自分の愛する人々が福音にかたくなである時、私たちは泣いていますか?あるいは一度信仰を持ったのに離れてしまったら、どうでしょうか?私たちは泣いて祈ります。嘆いて祈ります。主の前に泣き崩れます。主ご自身はこの心をよく知っておられます。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23:37

8:3 主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」

 何をもって、エルサレムは優れた町になるのでしょうか?「エルサレムの只中に住もう」そうです、主がそこに着座される、主がそこにおられるということで、世界の注目の的となる町になるのです。これはもちろん、イエス様が地上に再臨され、神の国を建てられる時に実現します。教会も同じですね、何において私たちは優れた者たちになれるのでしょうか?何に特長があるのでしょうか?「私たちの間に、キリストがおられる」ということによってですね。

 そしてここで、エルサレムが「真実の町」そして主の山は「聖なる山」となっていることに気をつけてください。物理的にエルサレムが回復するのでは全く不十分です。そこには真実があり、聖さがあって初めて、栄光に輝く町になります。

 ところで「万軍の主の山」とありますが、エルサレムは山にあります。イスラエル旅行に行かれた方はすぐ分かりますが、テルアビブからエルサレムに向かっても、南からエルサレムに入っても、北からも、東からも、必ず幹線道路は上り坂になっています。

 そしてエルサレムの町の中で、「シオン」というのは「ダビデの町」と呼ばれるところです。今はイスラム教の岩のドームが建っている神殿の丘がありますが、その南に位置するオフェルと呼ばれる丘です。そこにダビデがやってきて、町を造りました。主が戻ってこられる時に、地殻変動によってここが世界の中心の町であり、高い山となります。詳しいことは14章に出てきます。

8:4 万軍の主はこう仰せられる。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。8:5 町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」

 当時、荒れてしまったエルサレムの町で、このことは想像すらできないことでした。いつ何時、敵から攻撃されるか分かりませんでした。けれども、主が再臨されれば、主ご自身が火の城壁を設けてくださいます。このような、完全に安全で、憩うことのできる町になります。

 今、私たちがエルサレムに行けば、少し複雑な気持ちになります。マスコミは、いかにイスラエルやエルサレムが危険であるか煽り立てますが、一歩足を踏み入れれば、いかに平穏であるかに気づきます。エルサレム・バス・ステーションで、私はユダヤ人の中学生ぐらいの子たちと一緒に写真を撮りました。その笑顔を見て、私はここの「男の子や女の子でいっぱいになろう」を思い出しました。けれども、その建物に入るにはセキュリティー・チェックを通らなければいけません。ちょうど空港で受けるものと同じです。この御言葉が完全に実現するには、まだまだの状態です。

8:6 万軍の主はこう仰せられる。「もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。・・万軍の主の御告げ。・・」8:7 万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、8:8 彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住ませる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」

 この約束は、ユダヤ人のバビロンからの帰還を飛び越えています。彼らは北から戻ってきましたが、ここには「日の出る地と日の入る地から救い」とあります。地の果てから、世界中からの帰還です。これはもちろん、現在も進行中です。そして主が戻って来られる時に完全に実現します。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31

 ここでも再び、「真実と正義をもって」と強調されています。今、彼らに必要だったのは、真実と正義、誠実と憐れみだったのです。

2B 平和の種 9−17
8:9 万軍の主はこう仰せられる。「勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。8:10 その日以前は、人がかせいでも報酬がなく、家畜がかせいでも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。

 この「預言者たちの口」というのは、自分とそして預言者ハガイのことです。ハガイ書の中に、これと同じ言葉があります。「さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。(2:15-19

 帰還したユダヤ人は、神殿建設において激しい反対に遭って、その工事を中断していたわけですが、「主の時はまだ来ていない」と言って、いつの間にか自分の生活に集中していきました。けれども、何かがおかしかったのです。空回りしていました。ここでハガイが言っているように、働いても、生産性があがらなかったのです。また農作物に被害が出ました。

 けれども、これらはすべて主が彼らに与えらた注意喚起でした。彼らが主のためではなく、自分たちのために生きていた時、ご自分のところに戻ってくるよう、祝福と安全をあえて止めておられたのです。

 私たちにも、そういうことはないでしょうか?「自分は比較的、快適な領域で過ごしたい。だから、主のためにこれこれのことをしたいと思っているが、やりはじめたら困難もあるし、反対もあるだろう。だから、主が戸を開いてくださる時まで待ってみよう。」ところが、その快適な領域もなかなか確保できません。この問題が起きたら、今度はまた別の問題も起こる・・・。これは重要な、神からの注意喚起なのです。

 主は、私たちの快適な領域を打ち壊されます。私たちが、自分で満足している領域に安住しているとき、それを壊されます。そして私たちが主を求めて、心が砕かれて、その魂の主の恵みと憐れみの御霊を注ぎたいと願われているのです。私たちが霊的に満足するのではなく、成長するのを願っておられるのです。ですから何か問題が起こっていたら、感謝しましょう。試練があったら、喜びましょう。実際には喜べないのですが、けれども私たちが心砕かれた時に、実は喜べることが分かります。これらのことを通して、自分がさらにキリストの似姿に変えられることを知るからです。

8:11 しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。・・万軍の主の御告げ。・・8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを継がせよう。

 日本にいるとなかなか分からないことですが、イスラエルに行くと、ここに書かれていることの意味を深く知ることができます。周りの国々が砂漠一色のところに、イスラエルの地だけに緑があります。モーセたちがそこを「乳と蜜の流れる地」と言ったその理由がわかります。荒野だらけでもなく、緑地で生い茂っているわけでもない、その中間にある土地です。ですから、少し雨が降ると、一面が緑に覆われます。けれどもすぐにはげ山にもなってしまいます。神がそこを潤されるのか、そうでないのか、如実に分かる土地なのです。

 そこで主は、ご自分の律法の中に、ご自分に従順の時と不従順の時の、それぞれ祝福と呪いの約束を与えられました(例:レビ26:310、申命28:1112)。そして今は、この祝福を注ぐことを約束されています。

8:13 ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」

 すばらしいですね、神の呪いの中に彼らが散らされた地で、「恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう(申命28:37」というものがありました。けれども、今はかえって諸国の民の中で祝福となる、というのです。反ユダヤ主義がなくなります。今は、物質的には祝福されたイスラエルですが、反ユダヤ主義はしつこく残っています。けれどもなくなる日が来るのです。

8:14 万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと考えた。・・万軍の主は仰せられる。・・そしてわたしは思い直さなかった。8:15 しかし、このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている。恐れるな。

 これはエレミヤ書を読むとよく分かりますが、主は、どんなに悔い改めを迫っても、かたくなになっていたユダヤ人に対して、バビロンによって裁くことを思い直されませんでした。主はエレミヤに、「この民のために祈ってはならない。(7:16」とまで言われました。これは、私たちが罪を犯したら、どんなに悔い改めて、罪を告白しようとも赦されない、という意味ではありません。当時のユダヤ人は、口では主をあがめているように振舞いながら、一向に自分たちの行いを改めなかったという問題があったのです。そして彼らが滅びなければ、死ななければ直らない、というところまで行ってしまったのです。

 その期間が七十年でした。そして主がこれから回復の業を始められます。新しい世代を通して、これまでの過ちを繰り返すことのないよう強く戒めて、新しく事を行なおうとされているのです。

8:16 これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。8:17 互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。・・主の御告げ。・・」

 主は、真実な行ないを再び繰り返されています。そしてここで加えられているのは、「平和」です。私たちが正しいさばきをし、互いに真実を尽くし、誠実を尽くし、憐れみを示すのであれば、そこに結ばれる実は「平和」です。教会で、兄弟をさばくという問題がローマにある教会にありました。安息日のこと、そして肉を食べることについて、意見が分かれました。パウロは、「肉になんら汚れたものはないが、私は、主が愛しておられる兄弟のために、野菜しか食べません。」と言いました。

 そしてパウロは、「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばすべきではありません。私たちひとりひとり隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(ローマ15:12」と言いました。このお宅のように、人々におもてなしをするのも、人々の弱さをになう行為です。主を知らない人が主を知り、知っている人はもっと徳が高められるようにただ願っておられるから、犠牲と奉仕を喜んでささげることができます。

 すると平和になります。パウロも、互いに重荷をになうことによって、私たちの思いが一致し、神をほめたたえることができるようになると話しています(ローマ15:6)。これがここで主がゼカリヤを通して言われている、「真実と平和のさばき」です。互いに自分の利益と権利を主張して、「愛している」という言葉が空回りするような偽りの言葉ではなく、愛し、仕え、徳を高めていくように努めることです。

3B 楽しみと喜びの例祭 18−23
8:18 さらに、私に次のような万軍の主のことばがあった。8:19 万軍の主はこう仰せられる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとっては、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛せよ。」

 主は、ここまで話されてようやく、彼らの質問に対する回答を与えられます。断食は続けるべきなのかどうかという質問に対して、「断食ではなく、楽しみと喜びの、うれしい例祭になる」とおっしゃられます。

 先ほど言及された第五の月の断食と、第七の月の断食の他に、第四の断食と第十の月の断食もありました。第十の月は、ネブカデネザルがエルサレムの町を包囲しはじめた月です(2列王25:12)。第四の月は、包囲されたエルサレムの町が破れた時です(2列王25:34)。

 しつこいですが、ここでもまた主は「だから真実と平和を愛せよ」と言われています。私たちに与えられる楽しみと喜びは、真実と平和に裏打ちされています。主の真実に触れ、私たちの心がへりくだり、砕かれる時に初めて、真の喜びと平安を手にすることができます。

8:20 万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。8:21 一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう。』と言う。8:22 多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」

 これはもちろん、主が再臨された後の出来事です。主がシオンに戻られ、そこに神殿を建てられ、王座に着かれます。この方を尋ね求めるために来るのです。

 けれども、彼らがそれほど主に引き付けられる理由がここに書かれています。「主の恵みを請うために来よう」です。主の恵みが満ち溢れているところに、人々は集まってきます。心が砕かれ、主をあがめ、真実と平和を愛している人々のところに、人々が引きつけられます。

 私はダビデのことを思います。主はダビデの王座に着かれるのですが、主はダビデを「ご自分の心にかなう人(1サムエル13:14」と呼ばれました。なぜダビデはご自分の心にかなっていたのでしょうか?彼は、その心が主に完全に明け渡されていた人だからです。自分は王だけれども、何よりも神が自分の生活、人生において王であられることを一番よく知っている人でした。だから、彼はサウルに追われた身であっても、サウルが自分の隠れている洞穴に来ても、彼を打ち殺すことはできませんでした。真実と平和の人だったのです。

 だから、この人がささげる賛美には力がありました。喜びがあり、楽しみがありました。エルサレムに神の箱を運んでくるときの彼は、躍り上がっていました。

 彼の周りには、数多くの異邦人がいます。彼の息子アブシャロムがエルサレムを父から奪ったとき、彼についていった人々、彼を助けた人々には異邦人がたくさんいました。次、20節を見ると、異邦の諸国が引き付けられてエルサレムに来ることが書かれていますが、このように彼のうちにある砕かれた、へりくだった心は、周りの人々を引き付けることとなったのです。

8:23 万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」

 なんというすばらしい約束でしょうか!ここに、ユダヤ人が真に、霊的に神のものとなる回復が書かれています。彼らがエルサレムに主を礼拝しに行こうとすると、他の国々の人々がこぞって、「いっしょに行かせてくれ」と頼みます。理由が、「神があなたがたとともにおられる」です。

 ユダヤ人は選びの民ですが、彼らの完成がいかにすばらしいものであるかを、パウロはローマ11章で論じています。「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。(ローマ11:12」今、世界中で、世界中の人々がキリストをあがめています。それを可能にしたのは、当時のユダヤ人が福音を拒んだからです。それで異邦人に福音が宣べ伝えられました。ですからユダヤ人が失敗したことによって、これだけの霊的富が与えられたのです。

 ならば、失敗ではなく彼らが完成するとき、つまりイエス様を自分のメシヤとして受け入れて、霊的な救いを得るときは、どんなにすばらしいものをもたらすことか、と言っているのです。それがここに書かれている、十人の異邦人が一人のユダヤ人のところに、「あなたといっしょに神を礼拝しに行きたい。」という状態です。

 「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』(ローマ11:25-27」このことについて、ゼカリヤはさらに後の章で預言します。

 ですから「真の断食」は、「正しいさばき、誠実、あわれみ、平和」という特質です。そしてそれに裏づけされた、「楽しみと喜び」です。これから何度も、エルサレムの回復の預言を私たちは読んでいきます。それは物理的な回復のみならず、霊的な回復があることを忘れてはなりません。

 私たちも同じです。真の礼拝は、正しいさばき、互いへの誠実、憐れみ、平和です。ここの中に私たちが自分の魂を明け渡す時に、神の恵みが私たちを通して流れ出て、そして人々が神を慕い求めるようになります。


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