ゼカリヤ書9−10章 「イスラエルを守られる主」

アウトライン

1A ギリシヤに打ち勝つ御民 9
   1B 通り過ぎる災い 1−10
      1C 次々に倒れる国々 1−8
      2C ろばに乗られる王 9−10
   2B 勝利の約束 11−17
2A 戦われる主 10
   1B 御民と共に 1−7
   2B 帰還と繁栄 8−12

本文

 ゼカリヤ書9章から、また新たな預言になります。9章1節に「宣告」とありますが、これが9章から11章まで続き、それから12章から新たに別の「宣告」が始まります。英訳の聖書では”burden(重荷)に訳されています。普通、この言葉が使われるとき、主が警告や裁きをお語りになるのですが、ゼカリヤ書ではイスラエルに対してではなく、イスラエルの敵に対して向けられたものとなっています。

 ゼカリヤ書は一貫して、主がエルサレムに戻られ、救いを完成してくださるという慰めと望みに満ちたメッセージになっており、ここからも同じです。14章におけるクライマックスに向かって、主がいかにイスラエルを守り、救い、イスラエルのために戦ってくださるのかを示しています。そこでメッセージの題は「イスラエルを守られる主」としました。

1A ギリシヤに打ち勝つ御民 9
1B 通り過ぎる災い 1−10
 まず、一気に1節から8節まで読んでみたいと思います。

1C 次々に倒れる国々 1−8
9:1 宣告。主のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、そのとどまる所。主の目は人に向けられ、イスラエルの全部族に向けられている。9:2 これに境を接するハマテにも、また、非常に知恵のあるツロやシドンにも向けられている。9:3 ツロは自分のために、とりでを築き、銀をちりのように積み、黄金を道ばたの泥のように積み上げた。9:4 見よ。主はツロを占領し、その塁を打ち倒して海に入れる。ツロは火で焼き尽くされる。9:5 アシュケロンは見て恐れ、ガザもひどくおののく。エクロンもそうだ。その頼みにしていたものがはずかしめられたのだから。ガザからは王が消えうせ、アシュケロンには人が住まなくなる。9:6 アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを絶やし、9:7 その口から流血の罪を除き、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。9:8 わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。

 これは一体、何を描いているものなのでしょうか?いくつかの国々を主が打ち倒されていますが、1,2節はシリヤの町々です。ハデラク、ダマスコ、そしてハマテがそうです。ダマスコは今でもシリアの首都ですね。

 そして、次にツロとシドンです。いつもツロとシドンがいっしょに出てくることが多いですが、ちょうど「ソドムとゴモラ」のように、隣接し、相互に深い関係があり、同じ特徴を持っているからです。彼らはカナン人であり、特にこのレバノンの地中海地域の人々はフェニキア人と呼ばれます。

次に出てくるのは、ペリシテ人の町々です。アシュケロン、ガザ、エシュロン、そしてアシュドテですが、みなペリシテ人の国々です。今のシェフェラと呼ばれている低地とガザ地区にまたがる、イスラエル南部の地中海沿岸地域に住んでいた人々です。

 そして最後、「わたしの家」とあります。これは神殿が位置するところ、つまりエルサレムであり、イスラエルです。先の、シリヤ、ツロとシドン、そしてペリシテは破壊されますが、主がそこを見張ってくださるので、そこに災いは通らないと約束してくださっています。

 これは、今は世界史の一部になっている大きな出来事を預言したものです。ギリシヤのアレキサンダー大王がこの地域一体を遠征した時、いま読んだとおりに行ないました。彼はギリシヤから、今のトルコにあたる小アジヤへと攻め込み、それから東に行きペルシヤと戦います。そしてペルシヤとの決戦を小アジアのイッソスというところで行います。アレキサンダーは、大国ペルシヤを決定的に叩く前に、そこから南下しました。まずシリヤ、ツロ、それからガザの王と戦いました。そしてさらに南下し、エジプトを攻めています。このシリヤ、ツロ、ガザへの南下をこの預言は描いているのです。

 今、私たちは世界史の中にこの出来事を読むことができるのであんまり感動しないかもしれませんが、ゼカリヤがこの預言を行なったのが、紀元前500年初頭であることを思い出してください。アレキサンダーがこの地域に攻めてきたのは紀元前332年のことですから、ほぼ二百年前にこのことを語ったという事実を知ってください。詳細に渡り、あまりも正確にこれらの預言が成就しているのです。

 預言について、今日の教会は実に否定的に語ります。けれども、それは神の心そのものを傷つける行為です。主は、「後に起こる事」を告げることによって、他の神々と呼ばれているものと対峙し、ご自分が神であることを証明しておられるのです。

 イザヤ書412124節をご覧ください。「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。(イザヤ41:21-24」お分かりですか、神がちょうど他の偶像の神々に挑戦状を突きつけておられるのです。ちょうど預言者エリヤがバアルの預言者と対決したようにです。

 この箇所の後で、主は、ペルシヤの初代の王クロスが世界を支配して平定し、ユダヤ人を解放して、エルサレムに帰還させることを告げられます。イザヤが生きていた紀元前700年代に、紀元前536年に起こることを告げておられたのです。約150年前にこのことによって、主は、「わたしこそが神である」と何度も何度も主張されています。

 ですから預言の学びはとても大切です。信じていない人々に対して、無神論者や他の神々を拝んでいる人たちに対して、私たちの神が生きておられることの強力な証言になっています。

 それでは、ゼカリヤの預言に戻りましょう。1節、2節ではアレキサンダーはシリヤを攻めていますが、次に3節、4節はツロを攻めています。

 ツロは都市国家です。非常に小さな土地しか持っていませんが、海すなわち地中海を自分たちの勢力圏としていました。地中海沿岸全体に植民都市を有していました。世界貿易の中心の都市として膨大な富を蓄積し、その経済力によって世界を動かしていました。今で言ったら、クェートとかドバイのような石油国の存在でしょうか。

 3節に「自分のために、とりでを築き」とあります。この町を当時の大国はその経済力のゆえ奪い取ろうとしていましたが、失敗しています。アッシリヤ帝国が七年間そこを包囲し、ツロを破壊しましたが、七十年後に復活します。今度はバビロンが包囲して、破壊はしました。ところがツロは、バビロンが包囲している13年の間に、陸地から数百メートル離れた島に財産や物資を移動しており、ネブカデネザルが攻め入った時には、そこには何もなかったのです。

 ですから旧ツロと海に浮かぶ島である新シロの二つができました。アッシリヤもバビロンも、海からは攻めることができませんでした。ツロは海軍に優れていたからです。地中海の軍事はツロに握られていました。

 ところが、アレキサンダーが五ヶ月という包囲の期間で、滅ぼしたのです。4節に「その塁を打ち倒して海に入れる」とありますね。島でしたから「海」に入れたのです。彼は、陸地から数百メートル離れたその島に、旧いツロの中にある瓦礫によって海を埋め立てていき、土手道を人工的に作っていったのです。

 今、レバノンのツロに行きますと、そこは突き出た小さな半島のようになっています。二百年頃前まで、それは天然の半島だと思われていました。ところが、考古学者が、網を乾かしている漁師に話しかけたとき、自分たちが立っている岩が天然のものではなく、人工のものであることに気づいたのです。つまり、その土手道が長年に渡って固着して、半島のように陸続きになっていたのです。

 この様子は、イザヤ書23章にも、エゼキエル26章にも詳しく描かれています。特にエゼキエル書には、バビロンによる破壊とギリシヤによる破壊のどちらもが描かれており、「おまえは網の引く場所となる(エゼキエル26:14」という言葉まであります。

 それでは次に、ペリシテ人の都市を見ていきましょう。複数の町が列挙されているのですが、5節に「ガザからは王が消えうせ」とあります。アレキサンダーに反抗したのは、ガザの王バティスでした。

 そして、6節には「アシュドデには混血の民が住むようになる」とあります。ペリシテ人は非常に民族至上主義的な考えを持っていて、純血を誇っていました。ナチスのアーリア人説のようなものです。ですから、混血の民になることは彼らの「誇り」を絶やすことだったのです。

 7節には、「流血の罪を除き、歯の間から忌まわしいものを取り除く」とあります。これは続けて読むと彼らがユダヤ人の神をあがめるようになるとあるので、この箇所は彼らの異教の神へのいけにえを指していることがわかります。

 そして彼らが「エブス人のようになる」とあります。覚えていますか、エルサレムの町はもともとエブス人が住んでいました。その町をダビデが奪取して、「ダビデの町」としたのがエルサレムの始まりです。エブス人の残りの者たちは、ダビデの統治に協力的でした。覚えていますか、彼が、後に神殿の敷地になるところを、主の祭壇を立てるために購入しようとしましたが、そこは「エブス人アウラナの打ち場」であったと、サムエル記第二2418節にあります。彼は、代金をもらわずにすべて王様に差し上げると申し出たのです。ダビデはもちろんそれを断って、代金を払いました。

 したがって、ごくわずかに残されたペリシテ人はユダの支配の中に入って、そのアイデンティティーを失うことになります。ペリシテ人はもはや、民族としては存在しない人々になっています。

 そして、その中で主は、エルサレムに行き来する者を見張る衛所に立つ、と約束してくださっています。ヨセフスの「ユダヤ古代誌」の中に、アレキサンダーは非常に宗教的な人間であり、エルサレムに行く時は、畏敬を示したという記事があります。そして祭司らは行列を組み、アレキサンダーに敬意を表したことが書かれています。

 このように、主はイスラエルをギリシヤの王の手から守ってくださったのです。

 もう一つ興味深いのは、これらシリヤ、ツロ、ペリシテはみな、イスラエルの宿敵であったことです。シリヤあるいはアラムが、何度となくイスラエルを攻めたことはご存知でしょう。そしてペリシテは、言わずもがなです。

 そしてツロやシドンは、イスラエルを攻めていません。その富のゆえに、ダビデもソロモンとも友好関係を保っていました。けれども、イスラエルの敵であると私はみなします。なぜなら彼らは、物理的には攻撃しませんでしたが霊的な攻撃をしました。シドンの娘イゼベルが、イスラエルにバアル崇拝を持ち込み、イスラエルが神に裁かれるその大きな原因を作ったからです。私たちキリスト者にとっても、敵は、物理的に迫害をする者たち以上に、偶像礼拝や富が私たちをだめにするのです。

2C ろばに乗られる王 9−10
 そして、私たちがよく知るメシヤ預言が次に出てきます。

9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

 ちょうど、アレキサンダー大王をエルサレムの住民が喜び迎え入れたように、彼らはメシヤを自分たちの町に迎え入れます。もちろんこの「あなたの王」はアレキサンダー大王ではありません。この方は馬ではなく「ろば」に乗ってこられます。当時、平和な時に王はろばに乗りました。

 この方は、「正しい」方であります。そして「救い」を賜っておられます。さらに、「柔和」あるいは「へりくだって」おられます。そうです、この方が私たちの主イエス・キリストです。

 イエス様は、オリーブ山のところまで来られた時、弟子たちに、ろばの子を連れてくるように命じられました。そして、弟子たちはろばの背に自分の上着を敷いて、イエス様をお乗せしました。そして、オリーブ山のてっぺんからエルサレムに入って来られました。そこには、ユダヤ人の墓地があります。そこに群集が来て、王を迎えるときに行なう棕櫚の木の枝を道に敷いて、そして「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(マルコ11:9」と叫びました。

 これは詩篇118篇のメシヤ詩篇からの引用です。メシヤを、歓喜をもって迎え入れる言葉です。けれども詩篇118篇は非常に興味深い言葉もそこで言っています。「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。(22節)」イエス様は、神殿にいる宗教指導者らの挑発的な言葉に応答しておられました。そしてぶどう園の農夫たちのたとえを話され、農夫らが主人のしもべらを殺し、ついに主人の息子までを殺した話をされました。そしてこの「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」を引用されたのです。事実、彼らはイエス様が神の御子キリストであるという証言を聞いて、この方をピラトに引き渡したのです。

 主が力をもってイスラエルの敵を倒されることを約束されている中で、このへりくだった、救いを賜るご自分の姿を啓示されています。これは、今、終わりの時に生きる私たちに大きなことを教えています。主は、どんな超大国をも支配されている力ある方です。そしてはびこっている悪に対して、容赦ない裁きを加えられる方です。けれども、私たちの態度は、そのような反抗する人々、罪人に対して忍耐し、へりくだった態度で接していかなければいけない、ということです。そうすれば、主がその人を罪の縄目の中から救ってくださいます。

9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。

 新約聖書に入ると明確になりますが、メシヤの来臨は二回あります。旧約聖書には一つの預言として一まとまりになっている所でも、実はキリストの初臨と再臨を同時に語っている場合がほとんどです。ここもその典型的な一例であり、10節は、キリストの再臨を描いています。

 イザヤ書など、他の預言書でも描かれている、神の国、千年王国の姿です。あらゆる武器はみな農作業の道具に使われる、という平和が世界全体を支配します。「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2:4」そしてゼカリヤ書では、その平和はエルサレムとイスラエルから始まることを描いています。戦車がエフライムから、軍馬がエルサレムから絶やす、と主は言われます。

 すばらしいですね、世界中の人々が平和を望み、平和を叫んでいますが、それをもたらす方は、私たちの主、イエス・キリストです。パウロは、「キリストこそ私たちの平和(エペソ2:14」と言いました。政治的な平和は平和をもたらしません。第二次世界大戦後、欧米列強の支配から解放された数々のアフリカ諸国は、今も内紛や虐殺に明け暮れています。政治的に解放されても、人の内にある罪が争いへと駆り立てるのです。だから、私たちは平和の君であられるイエス・キリストを、人々に証ししていかなければいけません。そして、すべての人、世界中の人々に伝えなければいけません。

2B 勝利の約束 11−17
9:11 あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ。9:12 望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。

 これは捕囚の民となったユダヤ人が、エルサレムに帰還するのを促す言葉です。もうすでに、五万人近くの人々はエルサレムに戻っていますが、まだまだたくさんの人が依然として離散の地にいました。そしてまだ、たくさんのユダヤ人が離散の地にいます。このアメリカにもたくさんいますね?しかも神を信ぜず、罪の中にいる状態で。

 11節の「契約の血」というのは、アブラハムに与えられた、土地についての神の契約を指しています。さらわれたロトを奪取したアブラハムに対して、主は、「恐れるな、報いが大きい」と言われました。アブラハムは、「私には息子がおらず、跡取りがいないのに・・・」と答えたところ、主は彼に空の星を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。

 そして、「わたしは、この地をあなたの所有として与えた」と言われました。アブラハムは、「どうして、それが分かりましょう。」と聞きました。そうしたら神は、牛とやぎ、羊、そして鳥を持ってきなさいと命じられて、牛とやぎと羊を真っ二つに切り、その半分を互いに向かい合わせにしました。これは当時の契約の結び方だったのです。契約を破れば、この動物のようになるという意味がありました。

 ところが、その間をアブラハムは通らずに、夜に、かまだとたいまつだけがその間を通り、そして主が約束されました。主が一方的に、無条件に、命がかかっているこの契約を結ばれたのです。そしてこう言われました。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。(創世15:18」これが「契約」の内容で、「血」は動物を真っ二つに引き裂いた血です。

 「水のない穴」というのは、地下牢として使われることが多くありました。バビロンにいることが、地下牢にいると表現しています。

 けれども彼らには望みがあります。「望みを持つ捕われ人」とあります。帰還できるという望みです。けれども、これはもっと一般的に、キリストにある望みを持っているから捕らわれ人になっている、と言うこともできるのではないかと思います。

パウロは、自分の肉のために、罪と死の法則の中でがんじがらめになっていることを嘆きましたが、いのちの御霊の法則が、罪と死の法則から、私たちを解放したことを話しました。御霊に従えば、からだの行ないを殺すことができ、生きることができることを、ローマ8章で話しました。

 けれども、この肉体はまだ残っています。この肉体そのものから、罪と死の法則が働いている法則そのものがなくなる日、その日を待ち望んで私たちは、今うめいているということを書いています。8章23節です。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 私たちも、当時のユダヤ人と同じく「望みを持つ捕らわれ人」であると言えます。もし、自分はキリストを信じているとしながら、今の自分の姿に満足している人がいるなら、ちょっと考え直したほうが良いと思います。パウロは、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。(ピリピ3:12」と言っています。キリストを知ったゆえに、そのすばらしさを知ったゆえに、「もう自分はこれで十分だ」と言うことができない、最後の最後まで走りぬくランナーになったのだ、ということです。

 私たちは、その理想の姿に自分が達していないので、もどかしいことはないでしょうか?そうです、そのもどがしさが大切なのです。主に飢え渇き、願い求め、自分を御霊で満たしてくださることを熱心に求めていくように、主があえてしてくださっているのです。

 そして「とりで」というのは、エルサレムのことです。主ご自身が砦となってくださる町です。

 そして、「二倍のものをあなたの返す」と主は言われます。失ったものをすべて補うだけではありません。さらに多く与えてくださる、という約束です。ちょうどヨブが最後に二倍のものを受け取ったようです。

 これが、前回の910章の学びで出てきた「イスラエルの完成」です。主は、イスラエルが福音を拒んだので失ったものをすべて取り返してくださるだけでなく、それ以上のもので彼らを満たしてくださいます。どんなにすばらしいものか、私たちは預言書などに書かれている、イスラエルとユダヤ人へのとてつもない祝福と栄光の約束の中に見つけることができます。

 
そしてこれが、神の恵みのご性質です。私たちが罪によって失ったものを、すべて回復してくださるだけでなく、さらに祝福を与えてくださいます。これは私たち人間の感覚だと信じられないことです。でも、神はそうしてくださるのです!

9:13 わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる。ヤワンはあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする。

 「エフライム」は北イスラエルの代表的な部族です。ですからここでは、ユダとイスラエルが一緒になって戦うことを意味しています。そして「ヤワン」はギリシヤのことです。

 先ほどは、ギリシヤのアレキサンダー大王についての預言でしたが、ここはその後に出てくるギリシヤの王たちのことです。アレキサンダーは30歳そこそこで死にました。後に残された総督が、広大なギリシヤの国を四分割しました。これらはみな、ダニエルの預言の中に預言されています。8章の雄やぎ、そして11章の北の国と南の国です。南はエジプトにあるプトレマイオス朝であり、北はシリヤにあるセレウコス朝です。この二国が戦いますが、その間にあるイスラエルを踏みにじります。

 その中で一番卑劣なのが、アンティオコス・エピファネスです。彼はユダヤ人を完全にギリシヤ化しようとして、神殿の祭壇に豚をささげさせました。この彼が「荒らす忌むべきもの」と呼ばれ、終わりの時に出てくる反キリストの予型(予め示す型)になっているのです。

 けれども、この時代にユダヤ人のマカベア家の者たちが立ち上がり、戦いを始めます。わずかな武器しか持っていなかった彼らが連勝します。そしてついに、神殿を取り戻すことができました。神殿を清めて再び神に奉献するときに、聖所の燭台のともし火が、油が足りなかったのに八日間もついていた、という奇蹟から、「ハヌカー」という祭りが始まりました。イエス様もこの祭りに参加されています(ヨハネ10:22)。

 この話について知りたければ、ダニエル書8章の預言と、そして聖書外典に「マカバイ記」というのがあります。ぜひ、読んでみてください。

9:14 主は彼らの上に現われ、その矢はいなずまのように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。9:15 万軍の主が彼らをかばうので、彼らは石投げを使う者を滅ぼして踏みつけ、彼らの血をぶどう酒のように飲み、鉢のように、祭壇の四隅の角のように、満たされる。

 すばらしいのは、「万軍の主が彼らをかばう」という箇所です。だから圧倒的な勝利を得ることができています。私たちは知っているでしょうか、「神が私たちの味方」とローマ8章31節に書いてあるのです。だから、パウロは、どんな困難、苦しみ、迫害、飢え、そして死があろうとも、必ず神は私たちを勝利へと導いてくださると約束してくださっています。「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(37節)」と言っています。

 皆さんは、今、困難の中におられるでしょうか?神が自分に反対されているのでしょうか?いいえ、その逆です。味方になっておられます。だから、必ず勝利を与えてくださいます。

9:16 その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。

 「その日」という言葉が出てきました。これは、終わりの日、完成の日を指しています。マカベヤ家の戦いを超えて、終わりの日に、攻められるユダヤ人が主によって救われるという約束になっています。

 「主の民の群れ」というのは、全体的、国民的に救ってくださるということです。今の時代は、異邦人もユダヤ人も、個々人がイエス・キリストを自分の救い主として心で信じて、口で告白することによって救われます。ここには差別はありません。けれども、イスラエルに対しては、主は、全体的にこの霊的覚醒を与えられる日を定めておられます。

 ヤコブの息子ヨセフは、自分が王になることを兄たちに告げたことによって、兄によってエジプトに売られました。けれども再び会ったとき、兄たちはヨセフの前にひれ伏しました。モーセは四十歳の時に一人のイスラエル人をエジプト人から救おうとして、拒まれました。けれども、再びイスラエル人の前に現れた時は、イスラエル人は彼を自分たちの解放者として受け入れました。

 同じように、ユダヤ人はイエス様を初めは拒みました。けれども主が再び来られる時は、群れとしてこの方を救い主として受け入れます。

 そして彼らは「きらめく王冠の宝石となる」とあります。すばらしいですね、贖われたイスラエルはメシヤとともに共同統治をすることになります。同じように、キリスト教会も、異邦人である私たちもキリストとともに統べ治めることが約束されています。

9:17 それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。

 農産物の生産性がとてつもなく上がり、若者たちを豊かにするという約束です。今でもその萌芽を私は見ますが、キブツに行けば、イスラエル人の若者が農作物に囲まれているのを見ます。

2A 戦われる主 10
 そして10章ですが、9章の続きになっています。ユダヤ人たちが戦って、主が戦う彼らと共におられることを、もっと詳しく語っています。

1B 御民と共に 1−7
10:1 後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。

 イスラエルの土地に行かれた方はよくご存知でしょうが、イスラエルには水が非常に貴重です。遺跡には貯水槽の跡がたくさん出てきます。また私は、ガリラヤ湖から出ている運河を見ました。イスラエルの南部に運んでいくそうです。ただでさえ水位の低いガリラヤ湖から水を汲み出している状態です。

 ですから、彼らにとって雨は自分たちの生命にも関わる死活問題です。主は、雨が降るか降らないかを、彼らの従順によって定められました。「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。・・・』(申命11:13-14

 この「後の雨」また「先の雨」というのは、それぞれ「春の雨」「秋の雨」と言い換えることができます。秋の雨は主に12月に降る雨です。これで収穫を終えた土地に潤いが与えられ、次の作物の種を蒔くことができます。そして冬には断続的に雨が降りますが、主に四月に、まとまった雨が降ります。これを「春の雨」あるいは「終の雨」と言い、作物が収穫前にこの雨によって実を結び、また夏の乾季を通り越す準備となります。

 したがって聖書では、「後の雨」が収穫を最終的にもたらす原動力として描かれており、神様の救済のご計画でも、救いの完成をもたらす雨としても描かれているのです。この「後の雨」を、今求めなさいと主は言われています。

10:2 テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。10:3aわたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。

 イスラエルが回復する時に、他の預言でも必ず出てくる話題が「偽預言者」です。ゼカリヤ書の中でも5章に、飛んでいる巻き物の幻がありました。盗む者、主の御名を使って偽る者は取り除かれる、とあります。イエス様も言われました。「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。(マタイ24:24

 私たちが去年の8月にイスラエル旅行に行く前に、東京の駅のところに大きな阿含宗のポスターが貼られていました。イスラエル建国60周年ということで、その創始者がエルサレムを訪れ、彼らの宗教行事を行なう、という内容でした。このことを私はイスラエルで、デービッド・ホーキングに聞きました。彼は驚きもせず、「イスラエルにはあらゆるカルトが入ってくる。」との答えでした。

 イスラエルの人、またユダヤ人は宗教慣れしています。異なる宗教の人に対しても、その人たちに上手に合わせる術を身に着けています。では、その信仰に入るのかと言えばそうではなく、最後の最後のところでは相手に自分の身を任せることはしないそうです。イスラエルの国益のため、またユダヤ人の利益になるのであれば、何でもするという傾向を持っています。

 そして私たちにとって、神社や仏教というと偶像礼拝との戦いという大きな課題を持っていますが、彼らは東洋思想が神秘的であり、引き寄せられるのも事実です。99年に初代首相ベングリオンの生家に行きましたが、彼のコレクションの中には仏教関連が非常に多く、仏像もありました。偶像礼拝については、ある意味、アメリカ人よりもナイーブであると言って良いでしょう。

 ですから、彼らの中に偶像や占いが終わりの時にはびこっているという預言は、その通りなのです。また、道徳的にも退廃することも、その徴候を私たちはイスラエルの中に見ます。カルバリーチャペル・テルアビブの牧師は、「自分はサンフランシスコやラスベガスに住んだことがあるが、テルアビブのほうがもっと世俗的だ。」と言いました。不道徳においては世界の五大都市の一つに数えられているのです。中絶も非常に多いです。主はまず、これらの汚れを大患難時代において取り除かれます。

 もちろん希望はあります。イエス様が地上におられた頃、悔い改めて福音を信じたユダヤ人はどのような人たちでしたか?遊女、取税人、そしてあらゆる罪人でした。カルバリーチャペル・テルアビブでも、数多くの人が福音を聞いて信じているそうです。

 そしてこの偽預言、偽の教えという問題は、キリスト教会に対しても、主は何度も何度も警鐘を鳴らしておられます。終わりの日には惑わしがあります。キリスト教会の中で、多くの人々にすばらしい主の働きだとして認められているものの中で、実は、真理の柱として信じられているものから逸脱している場合が多いのです。

 もちろん、私たちはキリストにあって一つです。はっきりと聖書で語られていないことで、兄弟をさばいてはいけません。けれども同時に教会で語られているからと言って、それがみな正しいのだと受け入れては、この終わりの時代に生きられないのだということも知っておかなければいけません。これは非常に厳しいことです。自分の近しい人、愛している人の中であっても、十分起こりえるからです。だから愛が必要です。真理に堅く立ちながら、同時に愛が冷えないように祈る必要があります。

10:3b万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。10:4 この群れからかしら石が、この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。

 主が、偽預言者を選り分けられた後に、ユダのために戦ってくださいます。「ともどもに出て来る」とありますが、実はひとりの人のことを話しています。イエス様はユダ族から出ましたね。そして、「かしら石」はイエス様です。先ほど読んだ詩篇118篇の、「家を建てる者が捨てた石」のところがそうです。

 そして「鉄のくい」もイエス様です。イザヤ書222324節にこうあります。「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。(イザヤ22:23-24」神殿には、鉄のくいが打たれていました。そこに鉢など、神殿で使う器具を掛けていました。同じように、キリストにダビデの家がすべてかけられる、という預言です。

 そして「いくさ弓」もイエス様です。一人の人について語っているのですが、その働きがいろいろあるということです。

10:5 道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。

 ここで大事なのは、「主が彼らとともにおられるからだ」です。聖書に記述されているイスラエルの戦いの歴史は、少人数のユダヤ人が大きな敵に打ち勝つものです。ギデオンしかり、ペリシテ人と戦うヨナタンしかり、そして羊飼いダビデがゴリヤテに立ち向かいました。理由はただ一つです、「主が彼らとともにおられる」からです。

10:6 わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ。

 「ヨセフ」とありますが、これはエフライムとマナセ、つまり北イスラエルのことです。ここにすばらしい神の憐れみの約束があります。「彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。」です。まるで罪をまったく犯さなかったようにみなされる、ということです。

 
どうですか、これが、私たちの神がキリストにあって私たちに行なってくださることなのです!私たちは、必ず自分の過去を引きずって歩いています。自分が失敗したこと、しでかした愚かなこと、あらゆる忌まわしい罪と汚れ、これらを思い出しては、自分は神の好意と祝福にあずかることはできないのではないか、と思います。けれども、神の御言葉の真理によれば、そうではありません。まったく罪を犯さなかったようにしてくださいます。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(イザヤ1:18

10:7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は主にあって大いに楽しむ。

 「大いに楽しみ、大いに喜ぶ」とあります。先ほど9章の終わりは、「しあわせ」「麗しい」「栄えさせる」とありました。主の憐れみを受けた人、神によって義と認められた人は、この神の光栄にあずかることができます。

 ローマ5章2節には、「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」とあります。これは、天における栄光です。私たちは喜び踊っているでしょうか?今から主の栄光を眺めて、今、踊っているでしょうか?神とあなたとの隔てになっている罪は、キリストの血によってすべて取り除かれたのです!まっすぐ神のところに行くことができ、神の栄光を大いにほめたたえることができるのです!

2B 帰還と繁栄 8−12
10:8 わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。彼らは以前のように数がふえる。10:9 わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る。

 再びユダヤ人が帰還する約束です。「彼らを国々の民の間にまき散らす」とあり、ゼカリヤの時代以後も離散があることを主はほのめかしておられます。事実、ローマによってユダヤ人は再び離散の民となりました。

 けれどもすばらしいことは、「数がふえる」という約束です。その離散の地でユダヤ人は多くの子孫を持ち、その子孫たちが大勢帰ってくるということです。

 この帰還の約束には、「わたしを思い出し」という条件がともなっています。物理的に帰還するだけでなく、霊的にも神のところに戻ってきます。ちょうど放蕩息子のようにです。父から離れて放蕩の限りを尽くし、自分が惨めな状態になってから父を思い出し、罪を悔い改め、父のところに戻っていきました。同じように、悔い改めたユダヤ人がイスラエルに戻ってきます。

 今、この時代は、移行期にあります。戻っているユダヤ人たちは、そのほとんどが不信仰のままです。ですから、キリスト教会だけでなく正統派ユダヤ教徒の中でさえ、シオニズムは神の御心ではないと言います。けれども、次回以降のゼカリヤ書の学びでご説明しますが、主が再臨される前に彼らの一部は帰還していなければならず、不信仰のままでいなければ帰っていなければいけません。帰還にも段階があるのです。

 ここが聖書預言の難しいところで、主は、時間的には大きな隔たりがある出来事もまとめて語られることが多いのです。キリストの初臨と再臨しかり、再臨でも教会の携挙と地上再臨は違います。神は、まずはじめに大まかなこと、全体的なことを語り、それからその内部を詳しく語られるという方法を取られています。黙示録に顕著ですが、ここゼカリヤ書でも同じです。

10:10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリヤから彼らを寄せ集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。

 イザヤ書から始まる預言ですが、異邦人の国からの帰還、そして世界中からの帰還を、このように「エジプト」と「アッシリヤ」からの帰還として語られています。イスラエルは南にエジプト、北にアッシリヤという二つの大国に挟まれて存在していました。

 それで、イザヤは終わりの日についてこう預言しています。192325節です。「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。』(イザヤ19:23-25」エジプトもアッシリヤも回心し、イスラエルはその回心した国々に挟まれて祝福を受けるという約束です。それで、もちろんイスラエルへの帰還も何の問題もなく、容易にできます。

 そして帰還する民の数があまりに多いので、イスラエル領土内では収めきれず、ヨルダン川東のギルアデ、そしてイスラエルの北に隣接するレバノンに連れて行かれますが、それでも足りなくなります。

10:11 彼らは苦難の海を渡り、海では波を打つ。彼らはナイル川のすべての淵をからす。アッシリヤの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れる。

 これはもちろん出エジプトのことを思い出して、離散の地からの解放を語られています。エジプトで奴隷状態であったとき、紅海を分けて約束の地への道を開かれたように、主が、離散の地で課せられた苦難や束縛を取り除いてくださり、イスラエルに帰還することができるようにしてくださる、ということです。

10:12 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。・・主の御告げ。・・

 後で同じ言葉が出てきます。ユダヤ人たちが、自分たちの力ではなく、主にあることを悟ることが書かれています。ここが、彼らが物理的に救われるだけでなく、霊的に救われる、一つの鍵となる言葉です。

 これは私たちにも大切な言葉です。自分たちの力が主にある。そして主の名によって歩む。この二つを行なっていれば、信仰者の生活は完全なものとなります。私たちは、自分たちの力が主ではなく、他のものにあると思っているから、いろいろな悩みが生じます。また、主の名ではなく、自分自身で勝手に行なっているから、問題が生じます。この二つさえ行なっていれば、全き者となれます。すべてを主に任せてください。明け渡してください。そうすれば、この平安と安息に満ちた、主のみの世界で生きることができます。


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