アウトライン
1A 主の大いなる日 1
1B 絶ち滅ぼす手 1−6
2B 屠られる獣 7−13
3B 激しい御怒り 14−18
2A 生き残りの民 2
1B 義と柔和への呼びかけ 1−3
2B 国々の荒廃 4−15
3A 只中におられる主 3
1B 懲らしめを受ける民 1−7
2B 口の清め 8−13
3B 大いなる喜び 14−20
本文
ゼパニヤ書を開いてください、今日は全て、1章から3章までを学びます。今日のメッセージ題は、「主の日にかくまわれる者」です。旧約聖書の預言書、いや新約聖書にも、「主の日」という言葉が頻繁に出ます。主が、終わりの日にすべてのことを完成させるために定められた期間です。小預言書の中では、「ヨエル書」がこのことを強調していました。私たちの学びでのメッセージ題は「主の日」でした。そしてゼパニヤ書は、ヨエル書よりもこの言葉が多く出てきます。「主の日」がこの書の主題です。
けれども、その中でも主の日の大いなる神の怒りに遭うことのないように、免れることができるように、主を尋ね求めよ、という呼びかけを預言者ゼパニヤが行なっています。主の日は恐ろしいものだが、あなたがたは主を求めて、正義と柔和を求めて、それからかくまわれる事ができる、と訴えています。実に、ゼパニヤという名前の意味は、「ヤハウェはかくまう」であります。「ヤハウェは隠される」あるいは「ヤハウェは大切にされる」と訳すこともできます。その匿われた者たちが、後に主によって大いなる慰めを受けることを、最後にゼパニヤは預言しています。
1A 主の大いなる日 1
1B 絶ち滅ぼす手 1−6
1:1 ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった主のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。
ゼパニヤは、他の預言者と異なり、自分の系図を四代にまでさかのぼっています。その目的は明白です。「ヒゼキヤ」の子孫であることを示すためです。彼は王族にいるものであり、彼が預言を行なったヨシヤ王とも縁戚であることを示しています。
ヨシヤの時代のことを思い出してください。ヒゼキヤが行なった宗教改革にも関わらず、マナセがすべてを変えてしまいました。彼はバアルに仕えました。天にある万象のために祭壇を築きました。アシェラの像を宮に安置しました。そしてマナセの行なった最も酷いことは、自分の子どもに火の中をくぐらせて、まじないをしたことです(以上2列王21:1‐7)。彼の子アモンも、同じように悪を行ないましたが、暗殺されました。
それでヨシヤは八歳で王になりました。彼は、マナセ、アモンが行なったことを全て破壊せしめ、ソロモンが造った高き所もこわし、それだけでなく、既にアッシリヤによって滅んだ北イスラエルある祭壇までも打ちこわし、祭司を殺しました。そしてモーセの律法のとおりに過越の祭りも行なって、抜本的な宗教改革を敢行したのです。
けれども、同時代の預言者であるエレミヤも預言したことですが、人々の心を変えるまでには至りませんでした。彼らはマナセが始めた偶像礼拝とその他の悪を継続して行なっていたのです。キリスト教においても宗教改革がありましたが、あくまでも「改革」であり、人の心を変える「霊的復興」ではないことは、その後の教会史また現在の教会を見ればお分かりの通りです。同じような状態にユダがありました。
1:2 わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。・・主の御告げ。・・1:3 わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。・・主の御告げ。・・1:4 わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちとともに断ち滅ぼす。1:5 また、屋上で天の万象を拝む者ども、また、主に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者ども、1:6 また、主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもを断ち滅ぼす。
主は、人々の偶像礼拝またその悪のゆえに、全世界に破滅をもたらす裁きを与えられます。その日を定めておられます。けれどもその裁きは、まずユダの家から始めると語っておられるのがこの箇所です。地上で行なわれている悪のゆえに主は裁かれますが、その悪を神の家であるはずのユダが行なっていたからです。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(1ペテロ4:17)」とあるとおりです。
エルサレムでは、いま話したように、ヨシヤの宗教改革にも関わらずバアルを拝んでいました。「残りの者」とありますね、ヨシヤが取り除いたにも関わらず残党がいたのです。そして偶像に仕える祭司がおり、また天の万象を拝む者もいます。「屋上で」とありますが、その地域の家は屋上が平らになっており、洗濯物を干したり、いろいろなことをします。そこで月や星を見て、拝んでいたのです。そして「ミルコム」はアモン人の神です(1列王11:33)。モアブ人の「モレク」と同じ神です。
2B 屠られる獣 7−13
1:7 神である主の前に静まれ。主の日は近い。主が一頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されたからだ。1:8 主が獣をほふる日に、わたしは首長たちや王子たち、外国の服をまとったすべての者を罰する。1:9 その日、わたしは、神殿の敷居によじのぼるすべての者、自分の主人の家を暴虐と欺きで満たす者どもを罰する。
この「一頭のほえる獣」とは誰のことでしょうか?ユダの家のことです。そして「主に招かれた者を聖別された」というのは、バビロンのことです。バビロンがユダの王族またすべての住民を滅ぼすことを、なんと主に対していけにえをほふる祭司となぞらえているのです。
首長や王子たちが「外国の服をまとっている」とありますが、外国に頼っている彼らの姿を見ます。そして「神殿の敷居によじのぼる」とありますが、「神殿」は原語にはありません。これは単に、他人の家のものを強奪する者のことを指しています。
そしてゼパニヤが強調しているのは、「神である主の前に静まれ」です。立ち止まって、この方が主であり神であることを認めよ、ということです。6節には、「主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもを断ち滅ぼす。」とありました。自分のしていることをやめないこと、主にある安息を取っていないことが彼らの問題でした。私たちが罪を犯しているとき、そうではないでしょうか?「これをやらずにはいられない」ということで衝動によって動いています。これを止めなさい、ということです。
1:10 その日には、・・主の御告げ。・・魚の門から叫び声が、第二区から嘆き声が、丘からは大いなる破滅の響きが起こる。1:11 泣きわめけ。マクテシュ区に住む者どもよ。商人はみな滅びうせ、銀を量る者もみな断ち滅ぼされるからだ。1:12 その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、「主は良いことも、悪いこともしない。」と心の中で言っている者どもを罰する。1:13 彼らの財産は略奪され、彼らの家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、それに住めず、ぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない。
ここは、彼らが富を貪っているところを神がバビロンを通して罰しておられる部分です。「魚の門」はエルサレムの城の北の門です。バビロンは北から攻めてきました。「第二区」も北の部分ですが、ちなみに、ここは王ヨシヤに預言を行なった女預言者フルダがいたところです(2歴代33:14)。彼女も同じようにエルサレムの破壊を預言しました。「マクテシュ区」は、ショッピング・センターです。そのため商人たちが経ち滅ぼされます。
そして主は、彼らのことを「ぶどう酒のかすの家によどんでい」ると表現されています。ぶどう酒をそのまま置いておくと、下に沈殿物が溜まります。そのため他の器に入れ替えて、ぶどう酒がだめになるのを防ぎます。けれども、他の器に入れ替えることなくそのままでいるため、ぶどう酒がだめになっている姿をここは描いています。エレミヤもモアブについて預言したとき、同じ例えを用いました(48:11‐13)。つまり、なんの変化もなく平穏でいるので、霊的に怠惰な状態になっている、ということです。それで「主は良いことも、悪いこともしない。」と心の中で言っています。完全に神に対して無関心な状態です。私の生活に神は何の関わりもない、という発言です。
そして「家を建てても住めず、ぶどう畑を作っても、ぶどう酒を飲めない」とありますが、これが主を尋ね求めない者の姿です。「自分が持っているものまでも取り上げられる(マタイ25:29)」からです。あるいは、「すべてが空しい」とソロモンが伝道者の書で言ったとおり、すべての労苦が無益になることを意味しています。
3B 激しい御怒り 14−18
1:14 主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。1:15 その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、1:16 角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。1:17 わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。1:18 彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。
これが「主の日」の姿です。これは本質的に「激しい怒りの日」です。主が地上で人が行なっている悪に対する報いのため日であります。そして、人々にとっては「苦難と苦悩の日」です。感情面の話をしています。そして「荒廃と滅亡」の日です。物理的側面です。そして「やみと暗黒の日」は心理的側面を話しています。そして、「雲と暗やみの日」とは地球的規模、宇宙的規模における破滅です。そして、「角笛とときの声の日」とは軍事的側面です。また主は、「銀も金も救い出せない」と強調しておられますが、お金さえあれば何でもできるという人間の金に対する信仰をここで粉砕されます。
そしてゼパニヤは、これが「近く、非常に早く来る」と言っていますね。確かに、ヨシヤの時代、紀元前620年頃にこの預言を行なったので、605年のバビロン捕囚が十数年後、そして586年のエルサレム破壊が30数年後に迫っています。けれども、この態度は今の人々も持っていなければいけない危機感なのです。
主の日は、当時の破壊を予告しているだけでなく、この世界の究極的な終末を教えているからです。イエス様は、「人の子は、思いがけない時に来るのです。(マタイ24:44)」と言われました。使徒パウロは、「人々が、『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。(1テサロニケ4:3)」と言いました。まだまだ時間がある、あるいはそんな時は来ないと思っている人たちには、あまりにも苦難に満ちたものになります。
2A 生き残りの民 2
けれども主が、ゼパニヤ書で強調されているのは、運命的に、宿命的に彼らを滅ぼすことではありません。むしろ、現実的に非常に多くの者たちが滅びるのは知っているが、それでもご自分を求めて、生き残る者が出て来て欲しいという心からの嘆願の思いを言い表しておられるのです。
1B 義と柔和への呼びかけ 1−3
2:1 恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。2:2 昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。2:3 主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。
主が、心からの悔い改めを呼びかけておられます。「集まれ、集まれ」と言われていますが、それはへりくだって主を尋ね求める集会を開きなさい、という意味です。「恥知らずの国民よ」と主は呼びかけておられますが、ここの「国民」のヘブル語は、普通、異邦の国民のことを指す時の言葉が使われています。つまり、「あなたたちは、異邦人と何ら変らない行ないをしているよ。」と言われているに等しいのです。
そして主が強調されているのは、「うちに」ですね。もみがらのようにならなううちに、主の怒りが襲わないうちに、と言われています。主が時を定めておられて、そのうちに悔い改めなさいと呼びかけておられます。イエス様が言われました。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。(ヨハネ12:36)」もう遅すぎる、となる前に信じなさいということです。
そして大事な呼びかけがあります。「主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」です。「尋ね求める」とは、心を尽くして願うことです。心を砕いて、心を注ぎだして、心を一つにすることです。何となく、中途半端に求めるのではありません。そして「主を」尋ね求めよ、とあります。主ご自身以外のものを尋ね求めることは、例えそれが良いことであってもすべて失敗します。なぜなら、すべて良いものは主から出るからです。それから、「義を求めよ」です。主が与えておられる基準を求めます。そして「柔和」です。神に対しては謙ること、そして人に対しては憐れむことです。
そうすれば「主の怒りの日にかくまわれる」かもしれません。主を尋ね求める者には、この主の日を免れることを神は約束してくださっています。イエス様は大患難について語られた後、「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36)」といわれました。免れることができるのです。そしてフィラデルフィヤにある教会に対しては、「わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には(あるいは試練の時から)、あなたを守ろう。(黙示3:10)」と言われました。そしてテサロニケ人の教会に対してパウロは、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(1テサロニケ5:9)」と言いました。つまりゼパニヤの名のごとく、「ヤハウェは匿われる」のです!具体的には、主が天から降りてきて、教会を空中にまで引き上げてくださることによって、かくまってくださいます(1テサロニケ4:16‐17)。
2B 国々の荒廃 4−15
そして次から、主が具体的に国々を滅ぼされる宣告を行なわれます。これらの国々は、イスラエルを四方に囲む国々です。4節から7節には、イスラエルの西にあるペリシテ人の国です。8節からは、イスラエルの東にあるアモンとモアブに対してです。12節にはイスラエルの南にあるエチオピヤ、そしてはるか北にあるアッシリヤに対してであります。ユダの残された民のために、主がこれらの国々を滅ぼしてくださいます。
2:4 だが、ガザは捨てられ、アシュケロンは荒れ果てる。アシュドデは真昼に追い払われ、エクロンは根こぎにされる。2:5 ああ。海辺に住む者たち。ケレテ人の国。主のことばはおまえたちに向けられている。ペリシテ人の国カナン。わたしはおまえを消し去って、住む者がいないようにする。2:6 海辺よ。おまえは牧場となり、牧者たちの牧草地となり、羊の囲い場となる。2:7 海辺はユダの家の残りの者の所有となる。彼らは海辺で羊を飼い、日が暮れると、アシュケロンの家々で横になる。彼らの神、主が、彼らを訪れ、彼らの捕われ人を帰すからだ。
ペリシテ人には五つの町がありました。主なものはガザ、そしてアシュケロン、アシュドテ、エクロン、そしてガテです。ガテだけがここにありませんが、おそらくユダのウジヤ王がペリシテ人の町を倒した後にガテの町がまだ再建されていないからではないか、と考えられます(2歴代26:6)。そして彼らは「ケレテ人」とありますが、クレテ島のことであり彼らの出身地です。彼らはそこから来て、イスラエルの海岸地域、ことに今、「ガザ地区」があるその地域に住み着きました。
けれども主は、そこを住むことができなくすると言われます。ペリシテ人は究極的に、ギリシヤのアレキサンダー大王がガザを打ち滅ぼした後に、民族を失いました。そして、残りの民、世界の離散の地から帰還する民にそこを与えると約束されています。そして海辺にまで牧草地が広がります。エゼキエルも34章でイスラエルの地全体がそのようになることを預言しました。この預言は、イエス様の再臨を待たねばなりません。
2:8 わたしはモアブのそしりと、アモン人のののしりを聞いた。彼らはわたしの民をそしり、その領土に向かって高ぶった。2:9 それゆえ、わたしは誓って言う。・・イスラエルの神、万軍の主の御告げ。・・モアブは必ずソドムのようになり、アモン人はゴモラのようになり、いらくさの茂る所、塩の穴、とこしえの荒れ果てた地となる。わたしの民の残りの者が、そこをかすめ奪う。わたしの国民の生き残りの者が、そこを受け継ぐ。
モアブもアモンも、エルサレムが破壊された時に喜びました。エゼキエル書25章に書いてありますが、彼らはバビロンに反逆したとき、ユダと共に行なったのに、エルサレムが破壊されると喜んだのです。それに対して神は、死海の南にある、モアブの地のそばにあるソドムとゴモラのようにすると宣言されます。この二つの民族も、バビロン、ペルシヤ、そしてギリシヤによってその地が襲われ、民族性を失いました。
そして、そこもユダの残りの民が受け継ぎます。エゼキエル書の最後には、千年王国期には死海に魚が棲むようになることが約束されています。ヨルダン一帯も緑豊かな地となるのです。
2:10 これは、彼らの高慢のためだ。彼らが万軍の主の民をそしり、これに向かって高ぶったからだ。2:11 主は彼らを脅かし、地のすべての神々を消し去る。そのとき、人々はみな、自分のいる所で主を礼拝し、国々のすべての島々も主を礼拝する。
主は、ユダの残りの民に対してだけでなく、国々に対しても救いの手を伸ばされます。千年王国において、エルサレムにおられるイエス・キリストを礼拝するのはイスラエルの民だけではなく、世界中の人々です(ミカ4:1‐2)。主は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。(2ペテロ3:9)」
ここで主が強調されているのは、「地のすべての神々を消し去る」ことです。イスラエルとユダの問題は、すでに主を知っていたのに、この方から離れたことでした。異邦人の問題は、まだ神を知らないことです。神ではないものを神として崇めていることです。これは、私たち福音宣教者の務めです。まだ知らない人々に、まことの神を伝えます。
2:12 あなたがた、クシュ人も、わたしの剣で刺し殺される。
クシュはエチオピヤのことです。今のエチオピヤだけでなく、エジプトの南部とスーダンを含む国でした。エゼキエル書で、エジプトにまでバビロンがやってきて、クシュが震えおののくことが預言されています(エゼキエル30:9)。
2:13 主は手を北に差し伸べ、アッシリヤを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし、荒野のようにし、砂漠とする。2:14 その中に、獣の群れ、あらゆる地の獣が伏し、ペリカンと針ねずみはその柱頭をねぐらとし、ふくろうはその窓で鳴き、烏は敷居で鳴く。主が、杉でつくったこの町をあばかれたからだ。2:15 これが、安らかに過ごし、心の中で、「私だけは特別だ。」と言ったあのおごった町なのか。ああ、その町は荒れ果てて、獣の伏す所となる。そこを通り過ぎる者はみな、あざけって、手を振ろう。
私たちは既にナホム書で学びましたね、ニネベの破壊です。メディヤが紀元前612年に、バビロンと共にニネベを倒しました。その廃墟の様子がここに書いてありますが、今もその遺跡の所は何も建てられていません。
ここに「私だけは特別だ」という独り言が書かれています。上手な日本語訳だと思いますが、直訳は、「私だけで、ほかにはいない」です。これはイザヤ書に多く出てきた、主ご自身の宣言でした(イザヤ44:8等)。これをバビロンも使っていました。それでバビロンは滅ぼされました。同じようにアッシリヤが今ここで使っています。それゆえに裁かれます。
けれども私たち人間は、これを心の中に思っていないでしょうか?世界のどこかで、いや、自分の住んでいるところで何か事件が起こったり、災いが下ったりしたとき、「いや、私は大丈夫だ。」と言い聞かせることはないでしょうか?「私にも変わりなく、災いが下るのだ。」とは思わないのでしょうか?この類の安心感は、驕りそのものなのです。
3A 只中におられる主 3
1B 懲らしめを受ける民 1−7
3:1 ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。3:2
呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。3:3 その首長たちは、町の中にあってほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない。3:4 その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。
主は再び、エルサレムの町に焦点を当てておられます。2章1節で「恥知らずの民よ。こぞって集まれ、集まれ。」と呼びかけても、応答しない人々の姿をご覧になっているからです。そして三つの罪を取り上げておられます。一つは「反逆」です。すでに神の言葉によって知られている御心に背いています。次に「汚れ」です。神に区別された聖なる民なのに、この世のものと一つになっている姿です。そして「暴力」です。貧しい人、やもめ、その他、弱っている人を助けていません。
首長たちとさばきつかさたちが猛獣に例えられていますが、それは今話した暴力を貧しい人たちに行なっているからです。彼らを窮状から救い出すどころか、押しつぶしてしまっています。それから預言者は、これらのことを責め立てなければならないのに、何も言わず認めてしまっています。そして祭司は、聖なるものと汚れたものを区別しなければいけないのにしていません。
3:5 主は、その町の中にあって正しく、不正を行なわない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す。しかし、不正をする者は恥を知らない。
ここに福音があります。ユダの指導者らが不正を行なっていましたが、主ご自身はその悪にまったく影響を受けていない状態を表しています。私たちは、不正がはびこると「ここに神はおられるのでしょうか?」と叫びたくなります。答えはいつも「おられる」のです。
「朝ごとに、ご自分の公義を」明らかにするとありますが、これは王、また、さばきつかさが民のために裁きを行なうことを表しています。当時は、人々が朝から列を並んで、門のところで裁きを行なう王を待っていたのです。エレミヤ書にその務めが書いてあります。「ダビデの家よ。主はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいない。(21:12)」王は、このように虐げられている人を救うのが使命だったのです。
3:6 わたしは諸国の民を断ち滅ぼした。その四隅の塔は荒れ果てた。わたしが彼らの通りを廃墟としたので、通り過ぎる者はだれもいない。彼らの町々は荒れすたれてひとりの人もおらず、住む者もない。3:7 わたしは言った。「あなたはただ、わたしを恐れ、懲らしめを受けよ。そうすれば、わたしがこの町を罰したにもかかわらず、その住まいは断ち滅ぼされまい。確かに、彼らは、くり返してあらゆる悪事を行なったが。」
今、ユダの周りの国々、また周りの町々がバビロンによって滅ぼされています。このことをもって、主はエルサレムの住民に警告を送っておられます。今からでも間に合う、と。けれども彼らは、繰り返し悪を行なっています。
2B 口の清め 8−13
けれども主は、これら滅ぼされる者たちではなく、先に、悔い改めの呼びかけに応じた数少ない人々に焦点を当てられます。
3:8 それゆえ、わたしを待て。・・主の御告げ。・・わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。3:9 そのとき、わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。3:10 クシュの川の向こうから、わたしに願い事をする者、わたしに散らされた者たちが贈り物を持って来る。
主は初めに「待て」と言われます。エルサレムがどんなに悪くなっても、朝ごとに公義を行なわれる主はおられます。ご自分が生きていることを現す日を定めておられ、それが諸国の民を裁かれる時です。
けれども、イスラエルの残された民と共に、世界の国々の民も大患難によって清められる人々が出てきます。「国々の民のくちびるを変えてきよくする」とありますが、これは他の神々の名を唱えない、ということです。そして「一つになって」主に仕えます。すばらしいですね、日本人であっても、何人であっても、同じイスラエルの神、主の御名によって祈り、同じ主に仕えるのです。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)」
そして「クシュの川の向こうから、わたしに散らされた者たちが贈り物を持って来る」とありますが、これは正確に訳すと、「わたしに願い事をする者、わたしに散らされた者たちを、贈り物を持って来る。」と訳すことができます。つまり、クシュにまで散らされていたイスラエルの民が、回心したクシュ人によって、その帰還の後押しを受けるという意味です。イスラエルの民自身が、クシュ人にとって主に対する贈り物となります(イザヤ18:7、60:4‐5参照)。
3:11 その日には、あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない。そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。3:12 わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。3:13 イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。
国々の民の中に主に立ち返る人々が出て来て、そしてイスラエルの中にも残された民が慰めを受けます。イスラエルの中にいる「高ぶる者ども」は取り去られます。イザヤ書にも、エゼキエル書にも、そして次の次に学ぶゼカリヤ書にも、イスラエルが大患難の時に、反逆者とそうではない者に神が選り分け、反逆者は滅びるが、残された者を救われることが約束されています(イザヤ4:3‐6、エゼキエル20:33‐38、ゼカリヤ13:8‐9等)。
そして残された者たちは、「へりくだった、寄るべのない民」です。これが、神の変わることのない救いの方法です。「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:3‐5)」。
そして残された者たちは、その口と行ないが清められます。偽りを言わず、不正を行わなくなります。そして安全が保障されます。ちょうど羊や山羊が草を食べるように、彼らも敵の脅威を考えることなく平和に住むことができます。
3B 大いなる喜び 14−20
そして、このようになったエルサレム、シオンをものすごく喜んでおられるのが、誰でもない主ご自身なのです!
3:14 シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。3:15 主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。3:16 その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。3:17 あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
これが、主が私たちに対して抱いておられる心です。私たち自身を喜び、そして私たち自身に対して喜んで歌までうたっておられます!主は、だれも滅びることを喜んでいないことがここに表れています。むしろ主に立ち返って、生きることを願っておられます。ですから、どんなに恐ろしい主の日を定めておられるとしても、そこから免れることを切に願っておられるのです!
舌と行ないを清められた者には、この喜びの特権があります。「喜び歌え、喜び叫べ、心の底から喜び勝ち誇れ」と主が呼びかけられているのは、先に「不正を行なわず、偽りを言わない。」ようにされているからです。キリストの血潮により、また罪の告白により、御霊のきよめを受けている人です。良心に咎めを持っているままで、心から喜んで賛美することはできません。たとえ元気に歌ったとしても、自分で力がないことを分かっています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きがないその人は。(詩篇32:1‐2)」
そして主はここで、「あなたのただ中におられる」とくり返しておられます。イエス様が再臨されたら、そのご臨在の栄光は物理的に存在します。この日が待ち遠しいです。けれども、今は教会によって御霊によって、主がただ中におられることを前味として楽しむことができます。それは、ここにいる残りの者と同じく、へりくだり、主を尋ね求め、義と柔和を尋ね求める人に与えられている特権です。
3:18 例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたからのもの。そしりはシオンへの警告である。3:19 見よ。その時、わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、足なえを救い、散らされた者を集める。わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう。3:20 その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、その時、わたしはあなたがたを集める。わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの捕われ人を帰すとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる。
これは、離散の民に対する神の慰めの言葉です。「例祭から離れて悲しむ」とは、離散の地にあってイスラエルで主に対する祭りに参加できないことを意味しています。彼らが受けた恥に対して、まず彼らを苦しめた者たちを罰せられます。それから、彼らに栄誉を与えられます。このことによって、彼らの恥辱が拭われます。
この大きな出来事は、イエス様の再臨を待たなければなりません。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31)」とあるからです。18世紀の終わりから始まったユダヤ人の帰還は、この大きな出来事の前触れでしょう。けれどもこの預言の成就ではありません。今、イスラエルの地に戻ってもそれはすばらしいことですが、大事なのはここに書いてあるように、真に「例祭から離れて悲しむ者」、つまり主を慕い求める人々になることです。イスラエルの人たちの魂の救いを願うこともそうですし、そして国々の民が主の御名だけを呼び求めるように願うこともそうです。
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