キリスト者と「左翼・右翼」 2011/09/01

昨日、興味深い説明をネットで見つけました。

用語解説:「右翼と左翼」

以前、ブログで「日本の福音派教会の政治的立場」という題名で、教会にある政治的立場を紹介しましたが、自分は聖書的だ、キリスト者にふさわしいと言っている主張が、実は時流に合わせた意見であることがしばしばあります。「靖国神社反対」「憲法改悪」「歴史認識と謝罪」「沖縄との共生」「イラク戦争反対」「反核」そして最近は「反原発」なのですが、これらの運動と聖書にある価値観とが表面的に合致している部分はあるのですが、私たちが信じている福音から純粋に出てきたものとは思えないものが多いです。戦後日本に、政治や世界を見る物差しとして、マルクス主義の唯物史観に基づく文化人が数多く出てきたため、それが今でも社会現象やマスコミの情報を大きく動かしています。

誰に悔い改めたのか?

例えば、日本の福音派教会は、過去に、日本の教会が国家神道に基づく神社参拝に迎合したことを悔い改める、という表明を出しています。(「真実に福音に生きるために − 戦責告白と「悔い改め」を問う」でも取り扱いました。)このこと自体は良いことですが、けれども私たちの日常の牧会の場でその表明が生かされているとは到底思えないことがあります。

信徒の方々がどれだけ仏教や神道に基づく慣習に対して知恵をもって避けているか、一見、伝統や礼儀と思われる行為の中にある偶像性に気づいているかを考えてみると分かるかと思います。「靖国神社反対」を表に掲げている教団の教会に通っている信徒の多くが、仏式の葬儀のすべてに関わっているという現状を知るにつけ、私は、「いったい、あの悔い改めとは何なのか?」と首をかしげてしまいます。

そして、「美濃ミッション事件」や「ホーリネス弾圧事件」など、神社参拝拒否をするなどして迫害を受けた教会の歴史を辿ってみますと、実は、彼らへの迫害の原因は、一図に聖書に拘る信仰を持っていたためであることが分かっています。(参照:「何を予期すべきか 1、2〜5」「靖国神社について 3」)そして、その信仰は、先代のアメリカ人宣教師もしくはアメリカで教育を受けた教役者によってもたらされたものであったので、アメリカと戦争をしていた日本は、彼らをアメリカのスパイとみなすようになりました。

そして諸教会は、そうした団体を「アメリカ輸入の偏った神学」であるとして、迫害されている兄弟姉妹と苦しみを共にするのではなく、距離を置いたという大きな罪があるのです(ヘブル10:33-35参照)。そして、実際自分たちは、「キリストの再臨は霊的なことであり、私たちの心にキリストが王となることであり、物理的なことではない。」と言って、使徒信条の告白にも反する異端的傾向へと走ったのです。今そうした諸教会、諸教団は、アメリカの対外戦争に対しても反対表明をしていますが、「アメリカの神学」という弁解によって、聖書にはっきり書いてある真理を捨ててしまう危険がいつも潜んでいるのです。

これらに対する悔い改めや謝罪は、私はキリスト教会全体からは聞いたことがありません。そして、罪を犯すというのは、たとえそこに人が関わっていても、究極的には「神に対する」ものです。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに告白した詩篇の言葉には、「私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。(51:4」とあります。また「罪の赦し」も、たとえ人が自分を赦してくれても、神のみが実行することができるものです。イエス様が中風の人に対して、「あなたの罪は赦されました。」と言われたところ、パリサイ人は、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」とつぶやきました(マルコ2:5-7)。

日本の精神土壌に横たわっている、いつまでも「対人」という人間主義に終始してしまっているのではないかと思うのです。つまり、戦後日本の流れが戦争責任という話題が出てきたこと。また中国や韓国という近隣の国々が過去の歴史認識を正すよう強く訴えていること、また他の教会が謝罪しているから自分たちの教団や教会も謝罪しなければいけない、等々。本当に、聖霊による罪の自覚として告白しているのか、教会の主体性はどこにあるのか、厳しく問わなければいけません。

もし、意味している悔い改めが「偶像崇拝」に対する罪であれば、悔い改めの実としては、「日頃からキリストを心に主としてあがめる」という、確固とした信仰生活を聖徒たちに勧める。そしてこの地上には支配者がいるが、「キリストこそが王の王、主の主」であるという強い告白、つまり再臨信仰を教えることです。

けれども日本の教会に、その牧会現場において、どれだけその信仰が養われているでしょうか?ただでさえキリストの再臨を強調すると、偏っているとあしらわれる雰囲気が教会の指導者の間にさえ漂っているのに、国家権力の前で、なおその国家よりもさらに力強い、その上にあるキリストの権力を告白できるのでしょうか?家庭の仏壇や神棚をどうすればよいのか、仏式の行事をどうするのか?そうした日常の問題に直面し、奮闘し、知恵をもって、なお妥協せず生きる道を身に付けることなく、実に軽々しくもっと大きなスケールで試練を味わった過去の先人らの過ちを取り上げられるものだと思います。

慎みある抵抗

さらに、私たちはこの世が邪悪になっても、温和で争うことなく、主にある希望を弁明するという思慮深さが必要とされます。

かつて日本は米国と戦争していましたが、戦後、「反米」というイデオロギーが出来上がりました。お隣の朝鮮半島ではそのイデオロギーが朝鮮戦争という物理的戦いにまで発展してしまい、国是として反米を掲げる北朝鮮が出来てしまったわけですが、日本にもその考えは深く浸透しています。それは、「弱者が強者に対して闘争によって自由を得る」というマルクス主義的な考えに基づいています。ゆえに反対運動を行ないます。反対意見を詰め寄るようにして訴えます。唯物観に支配されているので、「物理的事象にはいろいろな見方がある」という余地はなく、すべて白黒はっきりさせ、きれいに相手を切り裂くことができます。

例えば、反核運動を取り上げてみましょう。広島における反核運動に反して、長崎はそこまで盛り上がりません。強固なカトリック信仰を持っている長崎では、「平和」=「反対運動」ではなく、「平和」=「赦しと愛」という考えを持っているからです。

そして、確かに聖書には、「強い者が弱い者の弱さをになう」といういたわりの原則がありますが、同時に、「すべての人は平等に神の前に罪人」であるという峻厳な事実もあります。たとえ困難な環境にいたとしても、その人が犯す罪はその環境のせいではなく、その人のものであること。そしてどんなに困難な状況にいたとしても、そこから自由にされて生きることのできる力を福音が持っていることを教えています。

そして政治思想や国の民族の違いを超えて、ただキリストによって一体とされているというのが福音の大きな特徴です。

ゆえに、キリスト者はどんな人に対しても、自分とは考えが異なる人に対しても、その人を自分よりもすぐれていると尊敬し、愛をもって仕えるという姿勢が求められています。そして、そこにこそ、キリスト者としての光があり、強者に対しても輝かすことができるものなのです。ペテロは、ローマの迫害の中にいるキリスト者に対して、こう勧めました。

いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。(ペテロの手紙第一3:14-16

キリスト者の抵抗が、いわゆる市民的な反対運動ではないことが、ここで分かるでしょう。

日本はまだ迫害を受けない

「日本は右傾化している」「国家主義が恐ろしい」という声が、キリスト教界においてもなされるようになりました。私個人は恐ろしくありません。むしろ、日本人の宗教観、自らがしようとしていることが宗教的であるにも関わらず、それが宗教だと気づいていないという矛盾に危険が孕んでいると思います。死者を弔う祭儀にそれが顕著に現れますが、国民儀礼の中にも出てくるのか、という問いをする必要があります。日の丸と君が代問題では確かに浮上しているでしょう。キリスト者でさえもが、その偶像性に気づかずに行ってしまうことがあることでしょう。教職員の方々、また学生や生徒のキリスト者は、祈り深くして自らの行動を決断しなければならないでしょう。

けれども、右傾化そのものが恐ろしいとは私は思いません。国歌国旗そのものが間違っているとは決して思わないし、国に仕える自衛隊の献身には敬意を表したいです。むしろ、このキリスト者の立場を、純粋に福音的なものとして提示しないから、福音のためというよりも、左翼活動家による「日の丸・君が代」反対運動の反動として、政治的な理由で締め付けをしてくると思います。それでは、信仰の証しを立てるという面ではかなりの損失であります。

靖国神社問題にしても同じです。たとえ負け戦であっても、そして一般的に間違った戦争という評価を受けても、国のために殉死した兵士は、国が敬意を払って葬るべきであると私は思います。(参照「靖国神社について その1」)このごく当たり前な自然な感情を無視して反対表明をするならば、やはり、国そのものを侮辱している態度とみられても仕方がないでしょう。キリスト者が靖国を拒否するのは、純粋に、「死者を神として祭られるのは、キリスト者の信仰とは相いれない。」という理由であるべきです。

けれども、全体的に迫害の手はまだ日本には来ていません。このようにインターネット上に、監視の目を恐れることなく、自由に信条を表明できています。私は自分の信仰や聖書理解を表明して、同じキリスト者と称する者たちから嫌がらせを受けたことはありこそすれ(実に悲しい事実です)、未信者の人からはほとんどなく、ましてや公的機関から監視されたという覚えは一つもありません。政府の目を気にすることなく、思想と良心の自由を謳歌できているのです。

そして、「国による迫害」などという大きな言葉を使ったら、他の迫害国や全体主義国の中に生きている兄弟姉妹に対して、「あなたたち、何をもって迫害だと言っているのですか?」と唖然とさせてしまうことでしょう。しばしば、「私たちはキリスト者として政府に声を挙げなければいけない。」「バプテスマのヨハネのように、義に立たなければいけない。」という言葉を聞きますが、本当に自分の首がすっとぶという危険を踏まえて、そのようなことを言っていないことは確かです。

本当に迫害がやって来たら、空騒ぎはしなくなります。ただ黙って、静かにしています。そして、本当に良心にしたがって抵抗しなければいけない時まで、その手段を取っておきます。最大限、知恵を用いて、そのような対立的な状況にならないように避けます。そして、打算的にならぬよう、心の動機を確かめます。

私は、日本で迫害されるには、キリスト者がもっと増えていなければならないと思います。政治勢力にとって、不穏な分子とみなされるには数がそれだけいないといけません。今ではぜんぜん脅威に思っていないことでしょう。むしろ、今の迫害は対決的なものではなく、自由があるがゆえに、信仰的な証しを、効果的に立てることができていない「なし崩し」であります。

町の書記役は、群衆を押し静めてこう言った。「エペソの皆さん。エペソの町が、大女神アルテミスと天から下ったそのご神体との守護者であることを知らない者が、いったいいるでしょうか。これは否定できない事実ですから、皆さんは静かにして、軽はずみなことをしないようにしなければいけません。皆さんがここに引き連れて来たこの人たちは、宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもないのです。

 

それで、もしデメテリオとその仲間の職人たちが、だれかに文句があるのなら、裁判の日があるし、地方総督たちもいることですから、互いに訴え出たらよいのです。もしあなたがたに、これ以上何か要求することがあるなら、正式の議会で決めてもらわなければいけません。きょうの事件については、正当な理由がないのですから、騒擾罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動の弁護はできません。」こう言って、その集まりを解散させた。(使徒の働き19:35-41

使徒パウロは、ローマによって迫害から守られました。けれども、その自由を得た代わりに、信仰の証しをさらにエペソで行う機会を失いました。私は、このことが今の日本では頻繁に起こっていると思っています。自由があるので、かえって、キリスト者がキリスト者であることの、他の人たちとの間にある違いを示せないでいるのです。

いろいろな分野に表れている左翼的考え

聖書では確かに「弱者」とされている人々に対する、神の強い思い入れを読むことができます。これは決して無視することはできません。それで「弱者」と思われている人であれば、その政治的権利を拡大させようとする運動にキリスト者は共鳴してしまいがちです。

けれども、一次的にその命令が与えられているのは神の民に対してであり、今の時代であれば教会に対してであります。教会が積極的に、弱者と言われている人々に働きかける、そうした伝統が代々西洋キリスト教の中では続いていました。ゆえに、近代国家の学校、病院、孤児院はその発端がキリスト教の働きによるものです。教会が行うことによる利点は、その動機が「愛」に基づいているものです。自発的であり、自己犠牲的であります。そして受益者も、愛を与える神を知る機会となり、奉仕を受けることの真の霊的意味を知ります。

教育は純粋な公共空間なのか?

教育などの公共の空間で、市場原理を持ち込むことに危惧を発している人たちがいます。キリスト者がその問題について話すとき、それはオリジナルの発想ではなく社会主義的な考えを持っている人たちの意見を踏襲しているだけです。そのような人たちは今の動きを「新自由主義」と言います。「金」の動機を「教育」という場に持って来て良いのか?という問いです。けれども、公的機関の問題も逆にあります。「動機をなくす」という弊害を持っています。「お金」なのか「動機なし」なのか、の違いだけです。

私は、信仰を持った時に怒りの感情を抱きました。それは、これまでとてつもない時間を費やしてきた学校の勉強時間の中で、何一つ「真理」が教えられていなかったということです。学校では勉強の意義を教えてくれませんでしたから、父親の背中を見て漠然と「良い会社に入ることがその意義であろう。」と自分に言い聞かせていました。けれども、その思いだけでは勉強のストレスを耐えることはできなかったのです。

そしてクリスチャンになってから、真理は真理として他の機関が教え、学校は基礎的学力を身につける場として(もちろん、ある程度の社会性と人格育成は必要ですが)分けたほうが良いではないか?と思いました。そしてその「他の機関」というのは、もちろん教会であり教会学校です。私は大学生の時に信仰を持ちましたが、幼少の頃から、勉強をすることの意味を「神の栄光のため」と教えられていたら、神から与えられた務めとして学校に通うことができたのであれば、と少し悔しい思いもします。

教育は生来、神が親を通して子に与えるものだ、という信念によって、「ホームスクーリング」運動がアメリカで起こりました。そして日本においても、それを積極的に行っているキリスト者家庭は多いです。また、そこまで行かなくても教会が教育を受け持つ「チャーチ・スクール」、そしてキリスト教の学校機関があります。私はこのような機関こそ、真の「人格形成」を施すことができるのであり、公の機関のは自ずと厳しい限界が伴うものと考えます。

そして、私は小学校から高校まで公立学校に通いましたが、「学校」という空間は一般社会の経済活動からあまりにも遊離していると感じました。将来、働く存在として生涯の長い期間生きなければいけないのに、「経済」というのは常に下位に置かれているような印象を私は抱きました。こうした考えは、「経済とは国がくれるものだ」という意識があるからではないか、と、社会主義とは対極にあるリバタリアンの人がこう述べています。

かつての日本は世界史上に残るほどの経済成長を成し遂げたし、世界的な企業もたくさん輩出した。しかしそれは、一部の優れた経営者と、献身的な労働者、それを国策的にバックアップする政府、そのすべてが一丸となって、いわば「国を挙げて」努力した結果だろう。それはガムシャラな努力と、一丸となる協力体制、労働の集約によって成し遂げられたもので、いわば戦時の「挙国一致」の方向を変えたものだった。つまりそれは、国民的な努力の賜物ではあったが、その「アーキテクチャ」は政治体制と同様に、やはり「中央集権的」だったのである。

つまり、経済成長はしたものの、「経済」や「ビジネス」というものが、国民の文化レベルで「腹におちる」ところまでは行かなかった。大半の人にとって、それは政治と同様、「誰かがやってくれる」もの、「自分とは関係ない」ものでありつづけ、よって「言われた通りにやる」だけの、「受け身」のものだったのだ。その理由は、文化人や論壇、アカデミズムなどのオピニオンリーダーたちが、「経済」や「ビジネス」に対する無知、あるいはそれへの嫌悪から、脱することができなかった、というのが大きいように思う。その結果、文化や学問と、経済や実業のあいだに断絶ができてしまった。
(http://mojix.org/2010/09/26/uchida-sayoku)

 私は学校というものは「人格形成」でもあり、また「人材育成」でもあると思います。特に高校以降の教育は後者の側面が大きいと思います。

労働組合は?

労働組合も、労働者が賃金の向上を企業に要求するために、設けられた制度ですが、例えば賀川豊彦は、労働運動や生活協同組合運動でも力を発揮したキリスト者です。

私も短い期間ですが企業生活をしましたが、労働組合という組織の在り方に疑問を抱きました。まず、それは加入するかしないかの選択肢は全くなかったことです。課長以上の経営陣でなければ無条件で労働組合員になっています。そして仕事を続けたいのに、タイムカードを押して一時退勤状態にして、強制的に会議に出席させられます。そして職場では昼休み以外は禁煙なのに、その時間は会社の規約外にあるので、部屋はタバコの煙でいっぱいでした。

もちろん労働組合が全然なかったらまずいです。労働者を代表する賃金交渉をする組織は僕も必要だと思います。けれども、「労働者の権利」と称して作った組織が、そこに何ら民主主義がないという矛盾が起こっているのではないかと感じています。例えば社会主義国家や政党にある民主集中制は、右翼の独裁制よりもっと酷いです。参照リンク

左翼的考えの間違いは、「弱者」の上にある権威を認めないことです。聖書では、上から来る権威はすべて神からのものであり、それに従うように命じられており、全ての人がそれぞれの立場で(奴隷の主人であろうとも)、権威に服従します。けれどもそれを認めないので、強者であると思われる存在に対しては対決姿勢を示します。その権力を倒してこそ解放と自由があるのだ、と考えます。けれども、これは非常に危険な考えです。それはとどのつまり「私が神なのだ」と言っているに等しいからです。ゆえに、本人が少しでも力を得ると、初めから権威をふるまっていると分かっている権威主義者よりも、さらに酷い絶対服従を強いらせます。自らが常に「弱者」なのですから、異論はすべて反動分子になるのです。そこにアカンタビリティー(説明責任)がありません。

社会主義国においては、神のみが立ち入ることのできる経済活動に政府が入り込むことができると考えています。それで介入することによって、その人の経済活動意欲を削ぎ落します。すると人々は何も先の展望を考えることができず、たった今のことしか考えられなくなります。そこには究極の非人間化と物質主義が残るのみです。

生活保護制度など

これは、世界にもまれにみる素晴らしい制度です。貧しい人が飢え死にすることは決してない、生活最低限の生活がかなりの確率で保証されています。また医療も国民保険制度、社会保険制度もあり、お金がないから病死するということも非常に限られています。

左翼的な考えを持っているキリスト者であれば、この制度を絶賛します。まさに聖書に書かれている、「貧者への救済」です。けれども、私は、「働かざる者は食べるべからず」というパウロの言葉を思い出します。生活保護制度は、「働いていない」という条件で支給が決まる制度ですから、働かないという強い動機が作用します。すると、生活保障を政府に依存するようになり、「日々の糧を与えたまえ。」という主が命じられた祈りを捧げることができない状態になります。信仰者であれば、政府を通して与えられているお金なのだと神に感謝することができますが、そうでなければ、政府が神の役割を担っていることにあり、いわゆる「依存の構造」ができます。

「働いている人が福利を得ることができず、働いていない人が得ることができる。」という不公平感も拭うことができません。

反対運動における、弱者の疎外

「反核」「反戦」「反原発」など何でも良いですが、反対運動の中で、自分たちはいかに弱者の立場に基づいて動いているかを唱えながら活動しているなかで、当人たちを無視していることがしばしばあります。

私の家の近所に、福島からの被災者の集まる避難所がありました。そこにはボランティアだけでなく、マスコミや市民団体も大勢来ました。あるボランティアの方が教えてくださいましたが、その入り口のところで市民団体であろう人々が、いかに政府が福島に対して不手際な対応を取っているかを滔々と演説していたそうです。またマスコミは、「今回の政府の対応についてどう思われますか。」と、まず「政府悪しき」で質問をしてきたそうです。ボランティアを本格的にやっている人は誰でも知っている事ですが、被災者の方々への援助は、「そばに寄り添い、話を聞く」ことから始まります。自分たちの活動をやり棄てるのではなく、彼らが何を必要としているかに耳を傾け、それにそって動いていく態勢が必要です。

同じように、イラク戦争においても反対するために現地に入った人が、「そんなこと、やめろ!」と咎められた話も聞いています。

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 人生には、たまに、男らしく自分は間違っていたというべきときがあると思います。人は、自分は割と正しいと思い、正義に燃えていると思っているものですが、今回イラクの状況に対して、自分が間違っていたということを述べるべきだと私は思いました。

 特に、日本の憲法が世界のお手本になるべきだと思っている者の一人として、そして戦争は絶対に起こしてはいけないという立場である一人として、この度、イラク問題が活発になってきたときに、精一杯戦争に反対しました。私は何年か前に「だいじょうぶ日本」という本を書きました。そのテーマは日本が平和憲法を基本とした外交をやるべきということでした。これまで反戦のデモに参加し、いろいろな自分の持っている番組の中で、またはコラムなどオピニオンを書く場などでも多くを書きましたし、せいいっぱい戦争に反対してきました。

 たぶん、物事を一番わかりやすく説明する方法は実際、歴史で何が起こったのかということを説明するのが一番だと思います。実は私は祖父、祖母がアッシリア人でイラクのモスル出身なのです。アッシリア人はキリスト教徒なので、1917年に、イラクで大虐殺がありまして、彼らはそこから逃げて、遂にアメリカのシカゴにたどり着きました。私の父はそののち、戦後マッカーサーが日本の復興のために一万人の若者によびかけた時に、その一陣として1952年に日本に来ました。実は、日本とイラクは昔から交流があります。日本書紀には、アッシリアの神父が日本の天皇と面会したとの記述があります。そして、今回は、ロンドンでのイラク関係の会合に、アジアの代表として出席しました。

 アッシリアというのは、国家をもたない民族の一つで世界には約600万人おります。イスラエル国家ができたときに同時にキリスト教の国アッシリアが出来るはずでしたが、うまくいかずいまだにアッシリア人には国がない状態です。

 そういうこともあって、私はイラクに行くことにしました。それは、アッシリア教会とまた自分の親戚に対して日本からの救援物資をもっていくことが主な目的でした。後で気が付いたことでしたが、イラク国内にいるときは通常、必ず24時間の監視がつきます。報道陣にも人間の盾にもすべて監視が24時間あります。でも、私たちには、イラクに親戚がいるということもあり、まったく最初から最後まで監視がつきませんでした。自分の祖父祖母の生まれ故郷にいって、自分のルーツをたどるという、とても素晴らしい経験でした。

 着いてすぐに教会で平和集会がありました。私は、喜んで戦争に反対する平和集会に参加しました。熱心なみなさんといっしょに参加していました。そのときは各国からの平和団体を招いての平和集会でした。集会が終わった後、隣の部屋で食事会がありました。隣にいるおじさんが、座っていまして、突然私にへんなことをいいだしました。

 『勘違いしないでください。今日の集会は私たちは好きで来ているわけではありませんからね。』
 と周囲を確かめながら静かな声で言いました。

 『神父さんが、平和集会を外国の方を招いてやるから、みんな参加してくださいと呼びかけたときに、私たちはみんな断りましたよ。』

 私は、びっくりして、『どういうことですか?』と尋ねました。

 『だってみんな平和をのぞんでいるでしょう?』

 『違いますよ。なんでみんな平和集会を断ったかというと、みんな今のような「平和」をのぞんでいませんよ』と彼がいいました。

 『私たちは一日も早い戦争を望んでいます。』
 (http://www.belltown.co.jp/town/culture/heiwa/iraq/iraq_1.html)

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参照1:バグダットに入っている海外のメディアや反戦団体には必ずイラク当局の人間が付きその行動は常に監視されているというものだった。イラク当局の監視下では自由な意見など聞けるはずも無い事を考えれば、そこから伝えられるイラク国民の姿は実情を反映してないと考えたほうがいいだろう。
参照2:オックスフォード・リサーチ・インターナショナル

 このように本当の弱者は、声なき声となっています。彼らのそばに近寄らないかぎり、その声は聞こえてこないのです。「反対」のための反対運動は、当事者にとって益とならないのです。

社会差別の問題

「差別用語」も、弱者を代表する団体から主張されています。そこで出てきたのが、例えば「差別用語を用いない聖書翻訳」です。これは本文の改変という翻訳の原則そのものを根本的に曲げる深刻な問題であると同時に、「差別」に対する神の福音の意義を削ぎ落しています。「差別」というのは、差別用語を無くしたから無くなるものではなく人間の現実です。むしろ、その差別に置かれている人に対してイエス様が近づいてくださったというところに神の福音があるのです。したがってその用語が聖書から無くなれば、「差別のない世界」という架空の世界を作りあげてしまうのであり。現実の問題に触れてくださる神の御手を見ることはできなくなります。

そして社会的弱者と言いながら、実は強者となっていく場合もあります。米国である黒人の評論家は、「アメリカで言えないタブー」として「黒人のほうが白人よりも人種差別的だ」ということを挙げていました。また、「黒人」と「韓国人」の間にある人種対立など、弱者と言われる人々の間でいじめがあったり、事は複雑なのです。

そして「・・・利権」という中に、弱者を代表する団体名が入ることがあります。「差別だ!」と怒号を上げながら、裏ではとてつもない悪を行なっている場合もあります。そしてその「弱者」は、真の弱者に対して徹底的な差別を行なっている場合が多々あるのです。

そして、日本においてなぜ、中東の情報がパレスチナ寄りになるのかと言いますと、その情勢を発信している人たちが、左翼的考えを持っているからです。(参照リンク)「パレスチナ=弱者」「イスラエル=強者」という単純図式は、とても分かり易いからです。けれども、故アラファト議長が、世界に名を連ねる富者であったという事実はどうするのでしょうか?援助のお金が豪邸や豪奢に流れていったという事実は?自らを「弱者」といって印象操作を行うことによって、本当の弱者をさらに苦しめる、というのは人間の現実社会ではよくあることなのです。

これは中国、北朝鮮また韓国にも当てはまります。左翼の人たちは、日本の右傾化を警戒するために、中国や北朝鮮への批判へ牽制をかけます。けれども、中国や北朝鮮をありのままで、事実起こっていることを見ているわけではありません。実際に行なわれていることがばれたら、その反動があります。拉致事件はその典型的なものであり、一挙にナショナリズムが噴出しました。相手をありのままの姿で、良いことも悪いこともひっくるめて見て、それでどのように付き合っていくかを考えているというプロセスを踏まないと、右傾化を牽制しているようで実は促進させてしまった、という結果になるのです。

そして、それらの国を擁護しているようで、実はその政府に対する擁護であり、必ずしも一般民衆のことを思ってではありません。むしろ、その政権を擁護することによって、さらに一般民衆を苦しめることに加担することもあります。独裁者は得てして、外部勢力のせいにして国内の批判をかわそうとします。

「反米」は国粋主義へとつながる

そして先に「反米」という言葉を使いましたが、その根っこにあるのはナショナリズムなのです。「米軍を日本から撤退させよ」と言えば、それは必ず「日本の軍事化」につながります。原爆の犯罪性を訴えているのは、左翼や反核団体のみならず、東京裁判を批判している右翼も同じなのです。戦前と戦時中に抱いていた日本人の欧米人に対する敵愾心は、日本のキリスト教会が、真に迫害を受けている教会に対して、「アメリカからの、学問の程度の低い神学」と揶揄した、その根っこにあります。

私が、イラク戦争をアメリカ人の側に立って同情するような意見を発したところ、ものすごい反発がありました。脅迫のメールも教会関係者であろう人から受け取りました。陰湿な掲示板荒らしもありました。戦争に反対し、平和を唱えながら、実はその動機は怒りと憎しみ、そして争いであることを、私はまざまざと知りました。私の聖書理解に対しても、批判が加えられました。それはまさに、戦前を彷彿させるものでした。

さらに民主党が当時、創憲草案に、イラク戦争を踏まえた一神教に対する批判を取り入れていたことが明らかにされました。キリスト教会が動き、クリスチャン議員も動いたことによって取り消されたようですが、私は、戦前の状態の再現を少し見たなと思いました。右寄りの動きとまったく同じように左寄りの動きにも必ず出てくることを確信しました。

歴史認識

左翼と右翼で真っ向から対立するのは、歴史認識問題です。近代国家日本が、最後敗戦にまで辿った道をどのように解釈するのかによって意見が分かれます。とくに左翼は、日韓併合によって韓国民に苦痛を味わせてしまったこと、同じように満州国や日本軍侵略によって中国の人々に対しても、とてつもない苦痛を味あわせたことを強調します。そして、謝罪運動も展開させています。そして日本福音派の教会の謝罪文には必ず、これらの行動に対する後悔と謝罪が含まれています。

私はこの分野については、妻が大学院で東アジア近代史の専攻であったことと、また、自分自身が韓国の友人が多く、韓国にもしばしば訪問していることなどから、個人的な思い入れがあります。それで私の今の立場は、「知り続けている」ということです。左翼の人たちは右翼の自由主義史観を警戒し、対抗する形で歴史を述べていき、右翼も自虐史観として左翼の歴史認識に強く対抗しているので、中庸に、客観的に見ることが難しいなと感じているからです。どちらが正しいという判断を下さずに、知り続けていこうと思っています。

私は漠然と、韓国民に対しては、その民族的誇りや尊厳を踏みにじることをしてしまったことで、すまないという思いはありますが、それよりも私は敗戦後の朝鮮半島の歴史とその悲劇に興味があります。日本人が半島から離れて、その後、南北に分裂し、同民族同士の殺し合いが起こり、韓国は当時独裁制でしたが経済開発によって豊かになり、民主化もされた一方で、北朝鮮は、かつての日本の植民地の状況よりも、はるかに酷い全体主義の中で生きていることを思うと、いたたまれなくなります。過去に起こったことをごめんなさいと謝ることは簡単ですが、今起こって苦しんでいるのに、そしてすぐ近くに彼らはいるのに、自分は何の助けも与えることができないのかというじれったさがあります。

私の場合は、謝罪というよりも、彼ら本人たちに対する愛着と言ってよいでしょうか、ありのままの彼らが好きだし、愛していきたいと思っています。

それでも、愛していると言っている日本人の中でも、私も含めて、韓国が嫌になることがたくさんあります。西大門刑務所を案内してくださった、日本人の教会奉仕者の方が、「日本人が、原爆のこと、いつまでもいつまでも恨みに思っているかしら。」と不満をこぼしておられました。なぜなら、彼女は教会の中で、嫌味たらしく、過去日本が行ったことを彼女個人に話す人がいたからです。韓国人に触れた日本人は、多かれ少なれ、こうした失礼に思える彼らの発言に接しています。

私は恒常的にそのような環境にいました。私は、日本の右翼よりも韓国の民族主義のほうがはるかに排他的であると感じました。一番辛かったのは、教会の中で反日発言を説教壇からされることです。「そんなに憎しみの感情をよくも抱いていられるな?あなた方はキリスト者ですか?」と問いたくなることが何度もありました。

歴史を改竄することについても、韓国の人たちと話していると平気で行ないますから(例えば、小さなレベルでは、『韓国の人は温泉に入るのが好きだから、銭湯は韓国起源で日本に伝わった』と言った人もいました。)、どちらが歴史改竄をしているのか?と思ってしまいます。

そして韓国でも中国に対しても感じることですが、彼らが戦後の日本の歩んだ道について、ほとんど知らないし、教えられていないことです。どれだけ日本が数多くの経済援助を行なってきたか、そして今はそれぞれの国が発展して、相互の経済依存があり、また文化交流も発達しているかしれません。けれども、今の日本を知らない彼らは、今でも通りに日本軍が軍靴の音をかき鳴らしながら歩いている、と思っている人たちも多いのです!もちろん日本の経済発展はニュース、また娯楽では映画やドラマで知られていますが、日頃から学校で反日教育を受けていますから、そのイメージを払拭することができていないのです。ある姉妹から私たち夫婦は、「日本人のイメージとあなたがたは合わない。」と言われましたが、彼女の日本のイメージは恐ろしい日本の軍人であり、それを私たちが穏やかすぎて合わない、とのことです!

それでも、私は彼らが好きです。そして愛しています。共に生きていきたい人々です。けれども、日本の教会の人々の「謝罪発言」に、どれだけ彼らに対する愛が含まれているでしょうか?私は、謝罪するよりも、嫌な目にあっても愛していくという選択をしていきたいと思います。

外国人参政権について

私はすでにこの論点について、「在日韓国人の参政権」と、「韓国・朝鮮関連の書籍 その4 呉善花氏の著書」で述べています。「反対」の立場です。理由は、「帰化すれば済む問題であること」次に「帰化が今、実に簡単にすることができる」ということ、そして、「参政権というのは国民が行うもので、それがなくなれば国家という単位が崩れてしまう」というものです。民族差別とか、そういう類の問題では全然ありません。

日本は外国の人たちが住むことができるような、いろいろな制度が存在しています。普通なら国民にしか与えないようなものも、彼らに与えています。

天皇問題

私は現代この制度があることそのものが不思議に思う位です。この領域はタブーが非常に多く、ここでは多くを書きません。そして神道の祭儀を行なっていることについても、私には拒否反応があります。

けれども、、天皇陛下やその他の皇族が行われているその他の公式的な行事は、日本国として益に働いていると思います。人間国王としての機能性を認め、実際にお会いするようなときは、その地位のゆえに敬意を払いたいと思います。

最後に

大体、このぐらいでしょうか?結局のところ、「キリスト者として」と言っていても、必ずしもそうではない、ということがお分かりになられたでしょうか?教会の指導者は、日本の現実の社会生活を歩まれている人々の中には、確かに左翼的な考えを持っている人も多いですが、右寄りの考えを持っている人も多いということを知ってください。そして右寄りが必ずしも非キリスト教的とは限らないのです。すべての人に対して私たちは仕えるように召されています。

以前、救う会の会長であり、かつ福音派教会の信者でもある西岡力教授が、次の詩篇の個所を引用しました。

主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。(詩篇131:1

これはちなみに、家族会の横田早紀江さんの著書にも引用されていました。西岡さんは、イラク戦争において、キリスト教会がそれを支持するのと反対するのに真っ向から分かれたことによって、「すべてのことは私たちには知らされていない、ということを教えている。」というようなことを仰っていました。

ですから私は、左翼的な見方をするキリスト者もその意見を尊重するし、また右寄りの意見を言う人の声も傾聴したいと思っています。それぞれが、それぞれ与えられている知識に応じて、良心に基づいて意見していると信じたいですから。大事なのは、たとい反対意見であっても、相手への敬意を忘れないことです。


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