三つのPro 2012/07/25
"Pro"は英語の接頭辞で、「賛成の」「ひいきの」という意味があります。何かを支持する立場です。三つの立場を取り上げてみたいと思います。
プロ・チョイス(Pro-Choice)
母親が中絶という選択権を主張する人々
プロ・ゲイ(Pro-Gay)
ゲイ(同性愛者)の権利を拡張しようとする人々
プロ・パレスチナ(Pro-Palestine)
パレスチナ人の地をイスラエルが占領していると考えている人々
もちろん、プロ・チョイスに対してプロ・ライフ(生命尊重)、プロ・パレスチナに対してプロ・イスラエル(親イスラエル)という言葉があります。
“Pro”の主張する「寛容」という名の非寛容
聖書によれば、中絶は「殺してはならない」という第六戒に違反する行為であり、同性愛は「男と男が寝る」「男色」などの戒めに違反する行為です。戒めの強度は減りますが、イスラエルの地はユダヤ人に与えられているというのは、聖書全体に貫かれている神の約束であり、それを奪う諸国に対して神は容赦ない裁きを与えておられます。
聖書の前提は、「全ての人が罪を犯した」というものです。したがって、聖書は上の過ちだけを特定して罪に定めているのではなく、他にも過ちを教えています。けれども、まことの聖なる、義なる方の前に出て行くということは、自らが罪を犯したことを認めるというへりくだる行為が前提になります。
ですから、「中絶は罪である」「同性愛行為は罪である」と言っても、それは数ある罪の中の具体的事項を述べているだけであって、少数者に対して罪定めをしているのではありません。いや、全ての人に対して罪定めを、神の律法はしているのです。
「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。『私たちも盲目なのですか。』イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』」(ヨハネ9:40-41)」
キリスト教会が罪を指摘すると、聖書知識をある程度持った人であれば、「あなたがたは、パリサイ人のように他者を裁く人たちだ。イエスのようではなく、偽善的だ。」と反発します。けれども、イエス様ご自身によれば、罪を罪ではないとする態度こそがパリサイ的であると仰っているのです。パリサイ人は、キリストが義を説かれると妬みと怒りからこの方を裁きましたが、聖書に書かれている明確なことが提示されると、いかに偏狭であるかと猛烈に反発する態度は、むしろパリサイ派そのものなのです。
(誤解のないようにもう一度言いますが、「罪を罪としない」というのは、上記のような主義主張を持っている人だけの問題ではなく、私自身を含む人間みなが持っているものです。人間は本来、パリサイ派的なのです。)
自らを罪人だと神の前で告白する人が、神の前で義と認められます。
義を求めることと政治的になることの違い
確かにプロ・チョイスの人々の主張には、正しい部分があります。その声を聞く耳を持たなければいけません。なぜなら、たとえ男女間の失敗であっても、女性の方が一方的に性的欲望の結末を負わなければならないからです。男性は逃げればよいだけです。女性に極めて不利でしょう。
プロ・ゲイの人たちの主張にも一理あります。同性に対して魅かれるという思いは、現実に多くの人が抱いているものです。このこと自体を責めたら、私たちはあまりにも現実に無知であり、確かに彼らの存在を否定することになります。それこそが、彼らにとてつもない心理的圧迫を与えています。
プロ・パレスチナにも一理あります。パレスチナの住民は確かにイスラエル建国に際して、数々の不正義と抑圧を受けてきました。実際は、イスラエルによってのみ引き起こされたのではなく、周囲のアラブ諸国がその問題を作り上げたことも大きな原因となっているのですが、その窮状自体を否定することはできません。
しかし、三つの主義・主張には、そうした圧迫における純粋な感情の発露と苦境の訴えではなく、政治化しているところに問題があります。
知り合いの人で、世界の難民を助けるために関わった方がおられます。パレスチナの難民キャンプで奉仕活動をしたこともあったそうです。そこで占領反対デモに参加するように促されたとのこと。違和感があった、とのことでした。おそらくご本人は、パレスチナ人に限らず難民の苦境に寄り添い、自活と自立を手助けすることに意義を感じており、そのような弱者をそっちのけでデモに出ていること自体がおかしいと思われたと思います。
クリスチャンであれば、あまりにも明白な神の約束があり、それはユダヤ人にその地を与えられているということがあります。しかし、それは在留異国人の排除を意味するのではなく、むしろ在留異国人には手厚く保護すべきであるという律法が聖書には満載です。問題は、「ユダヤ人にその地が与えられている」という聖書の言葉ではなく、「在留異国人への憐れみに欠けている」という、別の律法違反に関することが、パレスチナ問題の本質です。ところが世の中は、領土問題一点に焦点を絞っています。これが問題です。
親パレスチナの人々は、土地に関する聖書の言葉を全く度外視し、そしてクリスチャンと言われている人たちまでが、イスラエルに対する神の契約が無効になったなどと、真理の教えの歪曲を行なっているのです。
プロ・ゲイも同じです。同性に魅力を感じるという思いがあるというのと、それが生まれるときにすでに与えられていたと考えるのは、全く別物です。ましてや、自分をクリスチャンだと名乗っている人々が、同性愛を持つように“神”が造られたといっているのは、「罪を罪ではない」としているだけでなく、神の御名をみだりに唱えていることです。これは周囲の人々の心を引き裂き、何よりも神ご自身の心を引き裂く行為です。聖書には創世記から黙示録までに貫かれている、あまりにも明確な男女の区別と秩序を土台とした世界がありますが、その根底をなし崩しにする神学を構築していています。
(参考記事:「同性愛と教会」 "Pro-Gay Theology Overview""Problems with Pro-Gay Theology")
そしてプロ・チョイスにおいては、女性にある苦しみは妥当ですが、聖書では男性の身勝手な振る舞いを厳しく抑制する律法に溢れています。神は女性の権利を保護しておられるのです。これと、胎児の命を取るとは別問題です。聖書では幼児を偶像のいけにえにささげる行為が、神にとって最も忌み嫌うべきものの一つとして数えられるだけに、胎児の命を取ることは極めて深刻な罪であると考えなければいけません。
(参考記事:「中絶天国日本(胎児はごみ) VS 中絶された胎児のいる天国(胎児は神の子ども) 1/3」「2/3」「3/3」)
人の苦しみや悩みの境遇を、神が真剣に受け止めておられて、その苦しみや弱さに対して真っ向から取り組んでくださっておられるのにも関わらず、その神の心をしばしばキリスト者が見失っていることがあります。私たちはそのことを反省し、真剣に悔い改めなければいければいけません。しかし、そうした苦しみや悩みを梃子にして、神の定められた法を乗り越えるということは「不法(lawless)」であり、反キリスト的です。終わりの日の反キリストは、「不法の人」と呼ばれています。
教会が受け入れるべき人と、忍耐すべき人
教会に本当に来ていただきたい人々がいます。彼氏との間に妊娠してしまったけれども、彼氏に逃げられたという人。あるいは中絶を過去にしてしまって後悔している人。あるいは、中絶をしたが、それが神の目から見てどのようなものなのか謙虚に見ていきたいと願っている人。ぜひ教会にいらしてください!共に祈り、私たちができることを最大限手助けしていきたいと願っています。
同性愛者の方も大歓迎です!同性愛的傾向を持っていることで悩んでいる人。あるいは彼氏あるいは彼女との関係を持ってしまった人。その関係から脱却したいと願っている人。ぜひ教会にいらしてください。ともに祈っていきましょう。そして御言葉によって、真に神を喜ばせることができるよう共に奮闘していきましょう。
パレスチナについては外国なので、日本の教会が取り組むことは少ないと思いますが、アラブ人の人々に対する思いはあります。または政治的に日本に敵性的である国や民族の方々が教会に来られることも、大歓迎です。私自身の個人的信条はありますが、それはキリストにあって全く無にすることができます。主はこんな私をも救われたのですから、ましてやそうした人々を神はこよなく愛しておられるのは明白です。
けれども、反抗する人々がいます。「なぜ中絶を罪だというのだ!」と反発する人。「同性愛を罪だと言うことは、同性愛者の存在を否定することだ!」という人々。パレスチナに肩入れするばかりに、ユダヤ人にこの土地が与えられているという聖書の言葉に悪態をつく人々がいます。忍耐して、教えていきなさいというのが、パウロがテモテに命じたことばです(2テモテ2:25)。けれども、彼は加えて「もしかしたら、悔い改めるかもしれない」と言っています。悔い改めることが保証されているのではありません。けれども可能性はゼロではないのです。