「あなたは、どこにいるのか」


 この言葉は、創世記3章9節に出てくる、神がアダムに呼びかけているものです。神は、エデンの園にアダムを置き、また、アダムから女、エバを造られました。そして、園の真ん中には二本の木があり、一本は、いのちの木であり、もう一本は善悪の知識の木でした。主である神は、アダムに、「善悪の知識の木から実を取って食べてはならない。食べると、必ずあなたは死ぬ。」と警告しておられました。けれども、エバが蛇に惑わされて、その木から実を取って食べて、またアダムにもその実を渡して、アダムも食べました。

 すると、アダムとエバは、自分たちが裸であることに気づきました。そこで彼らは、いちじくの木の葉をつづり合わせて、腰のおおいをつくりました。けれども、自分のうちから出てきた恥と罪意識は取り除かれません。その時に、いつもの神の声が聞こえて来ました。以前なら、「神さま!」と言って、神に近づいたに違いありません。何のお咎めもなく、大胆に神に近づきました。けれども、今、主の声を聞いて、恐くなって木の間に身を隠したのです。

 その時に主は、「あなたは、どこにいるのか?」とアダムに声をかけられたのです。

 貴方は、ご自分がアダムだったら、この声をどのようにお聞きになるでしょうか?怒った顔をした神を思い起こすでしょうか?警官が犯人を探しているような、尋問の声として、「お前は、どこにいるのだ!」と叫んでいる声に聞こえるでしょうか?それとも、迷子になった子を探す父親の声に聞こえるでしょうか。愛する子を失い、涙があふれ出て、声がからからになって、「おまえは、どこにいるのかね?」と優しく語りかける声に聞こえるでしょうか?

 同じ、「あなたは、どこにいるのか?」という言葉でも、自分がどのように神を見ているかによって、その声の聞こえ方は歴然と変わってしまいます。

 もちろん、聖書の神は、後者の、父親の悲痛の叫び声のような声を上げられました。聖書には、「神は愛です。」(1ヨハネ4:16)とあります。そして、ご自分の名前が紹介するとき、神は、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み・・・。」(出エジプト34:6)と言われました。主は、父なる神と呼ばれており、子を愛し、訓練し、子が成長するのを喜び、自分の財産をすべて相続させる存在として、私たちに接してくださいます。

 けれども貴方は、「あなたは、どこにいるのか。」という言葉を、聖書が明らかにしているようにではなく、恐ろしく、少しでも過ちを犯すとそこを暴き、あら探しをするような、意地悪い存在からの声として聞いたかもしれません。けれども、それは、悪魔から出た、歪められた神のイメージなのです。

 エバが蛇に惑わされました。聖書では、この蛇が悪魔であることが書かれています(黙示12:9)。悪魔は、エバに、「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と問いました。神がたくさんの木を造り、実を結ばせているのに、それを与えないぞ、と意地悪をしているように見せかけようとしています。

 エバは、そんなことはないと反論したのですが、悪魔はこう言いました。「あなたは、その木の実を食べても、決して死にません。あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神が知っているのです。」神は、あなたが頭がよくなって、自分のようになるのを恐れているのだ。あなたをわざと知能が低いように造り、そして、自分であなたを操作できるようにしたいだけなのだ。だから、「死ぬ」などと脅しているのだ。これは全く嘘で、あなたは神のように頭が良くなるのだ、と言っているのです。

 このような神のイメージを、悪魔は人の思いに植えつけます。そして、人は、自分が犯したその罪があり、その罪を捨てたくないので、神を自分から何かを取り上げるような意地悪い方であると言って、神に非があるように決めつけるのです。

 イエスさまは、かつて、弟子たちに、ご自分が戻って来られることをお話しになりました。戻るときには、主に仕えてきた者たちに、多くの報酬をお与えになります。たとえが、マタイによる福音書25章に書かれていますが、5タラント預かった者、2タラント預かった者が登場します。二人は、それぞれ商売をしてもうけたその利潤を、戻ってきた主人にお返ししました。主人は喜び、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」と言いました。ところが、1タラント預かっていた者は、商売も何もせずに、その1タラントを地の中に隠していました。そして主人が戻ってきたときに、こう言って、もうけがなかった言い訳をしました。

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』(25:24−25)

 蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方・・・これは、まさに、悪魔がエバに惑わしたときに植え付けた、神のイメージです。そのイメージに恐れをいだき、彼は商売、すなわち、主イエスを信じて、心に受け入れ、この方についていくことを拒びました。

 そこで主人はこう言いました。「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。(マタイ25:26−29)」主人が言いたいことは、「あなたが、そのような悪いイメージを持って、私を信用しなかったのだから、その悪いイメージの通りに、あなたに災いがふりかかる。持っているものまでが、取り上げられる。」ということです。自分で恐れて、商売することを避けたのだから、もうけとしての報酬はあるわけはないし、預けた1タラントも返してもらわなければならない、と言うことです。

 ここから大切なことを学ばないといけません。私たちには一人一人、神が愛であり、惜しみなく与えて施してくださる方であることを信じるか、それとも、恐れ退くかの二つの選択がある、ということです。聖書が明らかにしているとおりに、神が愛であるというほうに自分を賭けてみれば、そのとおりに、永遠のいのちが貴方に与えられます。もし神が恐い存在であるとみなして、信じなければ、実際に、恐ろしい仕打ちを受けなければいけません。

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10:39)

 どうか、神を信頼してみてください。神が愛であるほうに、自分を賭けてみてください。その前提をもって聖書を読めば、貴方は、まるで違う神の姿を聖書の中に見出すでしょう。そして、この神に、キリストによって近づきたいと願うでしょう。人は、自分を愛している存在には近づきたいですが、自分を嫌っている存在からは離れたいです。神は貴方を愛しておられます。恐れずに、神を信じ、キリストを信じてください。

(参照文献:"Where are you" in "Answer For Today" by Chuck Smith




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