“HE IS NOT HERE. FOR HE IS RISEN.”
(ここにはおられません。よみがえられたのです。)
私がクリスチャンになって間もなくのころ、教会で、イスラエル旅行から戻って来られた方に、その写真を見させていただきました。イスラエル国のエルサレムという町には、イエスが死なれ、三日目によみがえられた「園の墓」という場所があります。その墓の入り口の戸に、上の英語の言葉(ルカによる福音書24章6節)が書かれています。私はこれを見たとき、その場に倒れそうになるほど胸がつまりました。なぜなら、自分が信じているイエス・キリストは、死んでしまって墓に葬られている人ではなく、よみがえり、現に今も生きておられることを知ったからです。
主イエスが生きておられる − これがクリスチャンの希望であり、また、全人類の唯一の救いです。
では、どのようにして私たちは、今も生きておられる主にお会いすることができるのでしょうか?多くの人は、「私は目で見なければ、信じない。」と言います。しかし、聖書には、目で見ても信じられない人たちが、たくさん出てきます。実は、イエスに従っていた弟子たちや、女たちも、信じられていなかったのです。イエスは三日目によみがえられてから、ご自分についてきた女たちと12人の弟子、そしてその他の弟子たちに現われました。そして、彼らは、本当の意味で、主イエス・キリストに出会い、言葉に言い表すことのできない喜びに満たされ、その人生が180度変えられたのです。
その出来事の一部を、ルカによる福音書24章から読んでみたいと思います。
安息日には、戒めに従って、休んだが、週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓のわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。(23:56b-24:4)
上の出来事は、イエスがむごたらしい十字架刑を受け、墓に葬られてから三日目のことです。彼女たちは、イスラエルの北部にあるガリラヤ地方から、自分のすべてを捨ててイエスに従い、イエスと弟子たちの世話をしていました。例えば、マグダラというところにいたマリヤは、七つの悪霊にとりつかれていたのを、イエスに追い出していただき解放されました。ですから、彼女たちのイエスに対する敬慕の情はとても深かったのです。しかし、この方が十字架にかけられ、もうこの世にいない人になってしまいました。
今、女たちは香料をもって、墓のところにやって来たのです。
当時のイスラエルの墓は、洞窟を使っており、入口を石で閉じていました。ところが、見ると、石が転がしてあったのです。これは、イエスがよみがえられて、墓の中から出てこられたことを示していました。けれども、女たちは、「途方にくれて」いた、と書いてあります。イエスが死なれたことで悲しみにくれていた彼女たちは、墓にイエスのからだがないという事実を、自分の頭の中でどのように整理すればよいか分からなくなってしまったのです。
そこで、そこに天からの使いがやって来ました。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』女たちは、イエスのみことばを思い出した。(24:4-8)
女たちにとっての転機は、この「イエスのみことばを思い出した」ことによってもたらされます。彼女たちは、こう考えたでしょう。「そうだ、主は、三日目によみがえされるとおっしゃっておられた!それなのに、なぜ私たちは、死人の中にイエスさまを捜して、悲しんでいるのか。主が十字架につけられたのは、主のみことば通りのことではないか。なぜ、主が敗北されたかのように考えているのか。」と。
そして、「墓から戻って、11弟子とその他の人たち全部に、一部始終を報告した。(24:9)」とあります。「主がよみがえられたのです。」と言って、世界で最初に福音を宣べ伝えたのは、この女たちでした。この女たちの心は変えられ、希望と喜びで満たされ、跳び上がりたいほどになっていたでしょう。こうして、自分を愛し、お救いなさってくださったイエスさまが、今も生きておられることを、イエスのみことばを思い起こすことによって知ったのです。
この後に、エルサレムから離れて、暗い顔つきをしてエマオという村に歩いている、ふたりの弟子の話しが載っています。主イエスが彼らとともに歩かれて、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がら
を彼らに説き明かされ」ました(24:27)。そして、ふたりは後で、「聖書を説明してくださった間も、私たちの心は燃えていたではないか。(24:32)」と言っています。彼らも、女たちと同じように、聖書のことばによって、イエスが生きておられることを知り、心燃やされたのです。
主イエス・キリストとの出会いは、物理的にいることによってはもたらされませんでした。聖書と、イエスがお語りになることばを、信仰をもって聞き、また、思い出すことによって、もたらされたのです。なぜなら、「ことば」という媒体が、私たちと神を結びつけるからです。神は霊であり、目に見えない方です。しかし、物理的に見えることよりも、はるかに豊かな祝福を受け取ることができます。
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたし(イエス)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネによる福音書6:63)
主イエスにお会いすることは出来ます。「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあ」る、と聖書には書かれています(申命記30:14)。自分の罪のためにキリストが死なれ、三日目によみがえられたことを信じ、そして口で言い表すなら、主は、あなたのうちに入ってきてくださいます。そして、あなたのうちに住み、生きてくださいます。
また、信仰をもっているクリスチャンも、途方にくれている女たちのように、暗い顔つきをしていた二人の弟子のように、十字架だけ見て復活を見ていないことが、しばしばあります。みことばを思い起こしてください。そして、聖書全体に書かれている神のご計画を知ってください。そうすれば、御霊があなたを真理に導いて下さり、主が今までにもまして身近で、現実な方として生きておられることを知るでしょう。