ロゴス・ミニストリーと日本の教会

 私たちロゴス・ミニストリーは三つの段階を経て、今に至っています。

1)教会開拓
 自宅で日曜日に聖書を開き、ロゴス・ミニストリーが始まりました。子供英会話教室を開いて、聖書を教え、そこから未信者の方々への働きかけを行ないました。

2)他教会での奉仕と教会間の働きかけ
 日曜日での礼拝を他教会で行うようになりました。そこでは主に通訳の奉仕をし、続けて子供英会話による伝道を続けました。また、他の諸教会に通われている方々に聖書の学びを行なうようになっていきました。

3)海外と日本での働き
 海外と日本の間を行き来して、福音宣教の働きを始めました。日本にいる時は、継続して教会間の聖書の学びを行ないました。(現在の活動は、「ロゴス・ミニストリーの働き」をご参照ください。)

 これらの経験と聖書的考察から、私たちが日本においてどのような働きを行なうべきか、教会にある課題を考えながら、私たち自身の祈りと願いとして書き記したいと思います。

1.教会に通わない人々

 これは「聖書の学び はじめに」の「教会に通っていないへ」に記しました。まだ読まれていない方はまず、これを読んでください。

 聖書を学んでいる人が教会という共同体の中に入るために、いかに橋渡しができるのかが、私たちに与えられた課題であり挑戦です。

2.「マイホーム」的教会

 一方、私たちが海外から日本の教会に戻るとすぐに感じるのは、ある窮屈さです。それは「小さい」ことから来ています。単に規模のことではなく教会のあり方、教会に与えられている幻、使命などが小さく、その中に自分たちが入り込むのが難しいと感じる時があります。

 それは、教会が何か間違ったことを行なっているということではありません。私たちが触れてきた教会とそこの牧師さんは、みな主にあって奮闘しており、尊敬できる人たちばかりです。けれども、もし仮にその教会に居続けるならば、例えば、「あなた方は礼拝に出て、そこの小さい席に座っていれば十分です。」という雰囲気を感じ取ります。

 例えば、外国であれば、教会で礼拝出席者として牧師の説教を聴きながら、かつ聖書を教える奉仕者として他の信者の霊的成長を助ける働きを行なうことができます。まさに「キリストの体の一部」になれるのです。主に与えられた賜物を生かしながら、教会全体の益になることをすることができます。

 けれども日本においては、教えることは牧師の専売特許であり、「まず滅私奉公をしてから考えなさい。」という雰囲気があります。もちろん牧師の下で仕えることは非常に大切です。私自身は、そうできたらと本当に願います。モーセの下にいたヨシュアがそうでした。

 けれども教会には、牧師一人では決して補うことのできない教える部分が、つまり「弟子」からもう一人の「弟子」に教えていく必要が無限に広がっています。そして牧師は大きく視野を持ち、その羊の間における働きを大観すべきだと考えます。けれども、牧師本人が意図しているかしていないかに関わらず、それらも牧師が全て行なわなければいけないという圧力を感じます。そのため、自分から遠慮してしまうのが現状です。

 この雰囲気を一言で言い表すならやはり「小さい」であり、「小さくまとまっている」とも言えます。「マイホーム」主義と呼んでも良いかと思います。つまり「自分の教会だけ」という主張です。

外から内に向かう力

 誤解していただきたくないのは私がここで、牧会者のやり方に批判を加えたいのでは決してありません。私が自分で教会を行なおうとしていたとき、自分自身がそうなっていたと痛感しています。そうではなく、日本で福音宣教の働きをするときに、本人の意思とは関係なく自分を引っ張る強い力を感じる、ということを話したいと思います。

 それは「外」ではなく「内」に向けさせる力です。以前、「『人』ではなく『神』」というエッセイを書きました。神に目を向けるのではなく、人に向けさせる力が働いている、という内容です。それが教会内に広がっています。

内から外へ向かう御力

 主の働きについて考えるとき、特に宣教について考えるとき、神は「内」から「外」へその幻を押し広げさせます。使徒の働き1章8節に、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。エルサレムから地の果てにまで拡大する幻です。

 エルサレムで祈っていた弟子たちが聖霊を受けて、そしてエルサレムにイエス様の教えをいっぱいにしました。けれども、彼らが他のユダヤ地方やサマリヤ地方にまで広げる意図を見ることができません。御霊が、ステパノの殉教を通してエルサレムにいる者たちを散らされたのです。

 そして迫害者であるサウロ(後のパウロ)を捕えて、異邦人伝道への道を開かれました。けれどもそのパウロでさえ、自分の陣地である小アジヤ(今のトルコ)のみの宣教しか考えていませんでした。ところが、「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ」、「ひとりのマケドニヤ人」を夢の中で見て、ヨーロッパへの宣教を開始したのです(使徒16:6,9)。

 預言者イザヤも同じでした。イザヤ書はしばしば「聖書の中の聖書」と呼ばれますが、新約聖書に数多く引用されている預言です。彼は、ユダとエルサレムの町のみを見て、そこに下る神の裁きを預言しましたが、6章にて、御座におられる主の栄光を見て心砕かれた彼は、北イスラエルを含むイスラエル全体への神の幻を見ました。そして次に13章から、周囲の諸国への神の裁きを、そして24章から全世界に対する神の裁きを語りました。

 そして40章以降は、「慰めよ、慰めよ」から始まる福音メッセージですが、シオン(エルサレム)を慰めることのみならず、島々に対して、地の果てに対して主が救いを与えられるという幻にまで拡大、発展しています。ユダヤ人のみならず、すべての人への救いを啓示しています。

 神が愛されたのは、「」に対してです(ヨハネ3:16)。つまり世界に対してです。自分の教会だけではありません。

 そして使徒パウロは、コリントにある教会に対して、「全ての教会の中にある一教会」という意識を植え付けるべく、言葉を選んでこう挨拶を書いています。「コリントにある教会へ。すなわち、私たち主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。(1コリント1:2

 その当時、使徒たちはもちろんのこと、他の伝道者や預言者も、教会間を巡回して奉仕しました。ですから、他の教会の情報もすぐ入ってくるし、自分たちが全教会の中の一つだという意識も身に付けることができました。

内にこもる教会

 けれども現在、日本において御国の広がりの幻を抱いている教会が少ないです。宣教どころか、たった一つの自分の教会での働き以上の幻を見ることがありません。ここに教会が矮小化、縮小化していく原因があるのではないかと、おぼろげながら感じています。

 主が与えられる幻は、教会の持つ実力(霊的にも、財政的にも)によって与えられるものではありません。たった十一人の使徒たちに対して、「地の果てまでわたしの証人となります」という使命を与えられたのはイエス様です。また弟子たちに対して、彼らでは到底できない、五千人に五つのパンと二匹の魚をもって食事を与えなければならない命令を主は与えられたのです。

 したがって、例えば海外宣教は、米国や韓国のような実質的な力を持つ所だけが行なう特権があるというのは間違っています。日本については、日本人本人も外国人も、「日本人が国外宣教を行なうのはおかしい。まず自分の民に対する伝道をしなければいけない。」という考えを多かれ少なかれ持っています。けれども「あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19」という主の命令は、日本人キリスト者や霊的弱小民族に対しては特例として外されているのでしょうか?いや、すべて信じる者に対して与えられました。

 この御国の広がりの幻を持っている教会こそ、その教会内の細事においても解決できる力を与えられると感じます。

牧師の裁定?

 教会の中では、牧師に対する「裁定」なるものが信徒の中で自然に行なわれます。「私たちの牧師はここの部分は良いが、あの部分においては弱点だ。」など、神を見つめるのではなく牧師の人格を焦点に当てます。けれども大事なのは牧師ではなく、神の国です。牧師の弱さに関わらず、神はご自分の国を広げていかれるのです。

 聖書の人物として、パウロとバルナバの例を挙げましょう。彼らはマルコのことで、激しい反目に陥りました。そしてパウロはシラスを選び小アジヤに、バルナバはマルコを連れてキプロスに行きました(使徒15:3641)。

 もし日本的に(?)上手に整理するなら、こう評定するでしょう。「パウロ先生は反目を起こすような弱さを持っている。このままでは未信者につまずきを与える。彼は変わらなければいけない。」一見、高潔な人格者になるべく自己改革をする勧めに聞こえます。そして、役員会は彼の次の宣教の働きに反対票を投じるでしょう。そしてパウロ自身も自己内省(?)を始めて、「確かにその通りだ」と思って、次の宣教への一歩を踏むのをためらったかもしれません!

 けれども実際は、「主のみことばの広がり」という大きな使命をパウロもバルナバも優先させました。それぞれ助っ人を連れて、他の地域に向かったのです。その結果パウロはテモテに会い、さらにマケドニヤ人の夢を見て、ヨーロッパへの宣教という大きな道が開かれたのです。そしてバルナバももちろん独自の宣教を行なったのだから、神の国は二倍、三倍へと広がったのです。

 そして大事なのは、後でパウロは、マルコについての見方をパウロは変えていることです!「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(2テモテ4:11」神の国を第一に求めたので、マルコについてのパウロの心も主が変えてくださったのです。

 もう一人の例としてダビデを挙げましょう。ゴリヤテと戦うとき、彼は兄の叱責を聞きませんでした。またサウル王のよろいも身につけませんでした。彼の思いは一つに集中し、「生ける神をなぶったこのペリシテ人と対峙する」ことだったのです。

 彼は確かにいろいろな過ちを犯しました。例えば、ナバルに対して復讐しようとしたとき、妻アビガイルの執り成しによってその思いを留めました(1サムエル25章)。サウルの手から逃れるため、ペリシテ人の地に行き偽りの生活を送りました。そして、後にあの有名な、姦淫と殺人の罪を犯しました。

 けれども、彼はそうした自分を見つめることによって「主」ご自身を求めることを止めませんでした。むしろ、もっぱら主を仰ぎ見つづけました。そうして結果として「主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。(2サムエル5:12」のです。

 ダビデの過ちや罪を数多く指摘する人たちが多い中で、ただ独りこの人を「わたしの心にかなった者(使徒13:22」と判断されたのは主ご自身です。主の心は広いのです。そしてそのお心を精いっぱい受け取ったのがダビデです。その心を主は喜ばれました。細かい部分における欠点は、主が後で直してくださるのです。

 これが御国の広がりであり、御霊の働きです。そこで牧師のことに戻りますが、私たちもその御霊の流れに自分自身を置けば、自然と、牧会者に対する健全な親しみと尊敬が芽生えます。「このような弱点を持っているけれども、御国の広がりには関係のないことだ。とにかく、この人は主に用いられている器だ。」と素直に喜べるのです。そして牧師もそのような信徒たちを喜ぶことができ、互いに愛し、互いに仕え合う麗しい関係を結ぶことができるのです。そして弱点も後で修正できる余裕が生まれます。

 これが「内から外に向かう」神の働きであり、「大事を見ず小事にこだわる」逆流に打ち勝つ力ではないか、と考えます。

2.牧師と信徒間にある直接的つながり

 「教会に通っていない方々へ」に関連することですが、信者で教会を離れる人々の多くは、牧師や他の信徒の間にある人間関係を上手に持つことができず、離れているようです。

 そこで引用した「指導者に服従する」という聖書の命令について注意を喚起したいと思います。使徒たちは教会への手紙の中で、人間関係を取り扱うとき「双方」にそれぞれ勧めを行なっており、指導者に従い、尊敬を払うという聖書箇所を信徒に一方的に振りかざすことはできません。

 ちょうど夫妻の関係を使徒が語るときに、「夫に従いなさい」と妻に対して勧めているだけでなく、「妻を自分の体のように愛しなさい」「共に生活して、尊敬しなさい。」と夫に対して命じています。当たり前のことですが、自分に対して命じられているものをまず先に読むのです。もしそれをせず相手に対するものだけを要求するならば、片手落ちであるばかりでなく危険です。

 その問題の底辺にあるのは、日本人また他のアジア人の精神土壌となっている「情」です。人が人につながろうとする強い結びつきです。信徒が牧師を通して神につながるのではなく、直接つながろうとし、逆に牧師も神によって牧会するのではなく、自分が直接、羊を支配しようとします。そこから権威主義が生まれますが、それは健全な霊的権威とは別物です。

「支配」ではなく「模範」

 パウロは、エペソから来た牧者たちにこう言いました。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(使徒20:28」ここに見ると、羊の群れの所有者はあくまでも「神」です。自分はあくまでも管理者にしか過ぎません。

 しかし牧師は、自分が手塩をかけて育てていると思っている人が、突然、教会に来るのをやめてしまったりすることを経験するうちに、自分の囲いの中に入れなければ、という恐れを抱き始めます。けれども、自分ではなく神ご自身の手の中にある人々を、私たちが支配することは決してできないのです。

 現に牧師は支配する者ではなく、模範者であることを聖書は教えます。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(1ペテロ5:2-3」「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(1テモテ4:12

 そして気をつけるべきは、その羊が教会につながっているかどうかではなく、「自分自身にも、教える事にもよく気をつけなさい。(1テモテ1:16」です。自分自身が、日ごとに、いや瞬間ごとに御霊に満たされ、愛によって歩んでいるかどうか、よくよく注意しながら歩むことが牧者の務めである、ということができます。

真の霊的権威

 そして真の指導は、信徒たちが牧者の模範を見ることができるという特権から来ます。「信徒たちが、私の指導になかなか従ってくれない。」というストレスを感じておられる方がいらっしゃるかもしれません。けれどもそれは、信徒が模範にすべき人を見ることができず、真の霊的権威に枯渇しているからなのです。しばしば牧師やクリスチャンは「私を見ないで、イエス様を見てください。」と言います。それは究極的には正しいのですが、実際上は間違っています。

 聖書には「倣いなさい」という言葉がたくさん出てきます。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならなってください。(1コリント11:1」「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。(1テサロニケ1:6」人は、聞くだけでは分からないのです。けれども見れば、すぐに分かります。そしてそれを真似することができるので、すぐに付いていくことができます。

 次のペテロの言葉を読むとき、「私を見ないで、イエス様を見なさい。」と言っている自分が恥ずかしくなります。「ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて。『私たちを見なさい。』と言った。・・・すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。(使徒3:4,6」私のうちに、これまでしっかりしたイエス・キリストの権威を持っているのかと考えさせられます。

 先に引用したテサロニケ人への手紙ですが、テサロニケ人は新しい信者でした。その人たちに対してパウロやシラス、そしてテモテがどのように接してきたかをパウロは説明しています。第一の手紙2章ですが、彼はまず御言葉をまっすぐに伝えたことを述べ、それからこう言っています。

1)権威を主張しなかった。「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの栄誉を受けようとはしませんでした。(6節)

2)母親のように優しく接した。「あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。(7節)

3)自分を犠牲する思い。「私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。(8節)

4)負担をかけさなかった。「私たちはあなたがたのだれにも負担をかけさせまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたに宣べ伝えました。(9節)

5)正しく生きた。「信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められることがないようにふるまった(10節)

6)父の権威を持っていた。「私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光に召しておられる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

 私は、カルバリーチャペル・コスタメサの教会でこの恩恵にいっぱい与りました。主任牧師のチャック・スミスはもちろんですが、私は、直接、毎日会っていたスクール・オブ・ミニストリーの校長である副牧師、カール・ウェスタランドから学びました。上のテサロニケ人への手紙を使って指導者の心得を教えたのは彼ですが、彼の態度や生活からその教えがにじみ出ていました。彼は優しい人でした。また、いっしょに教会の建物の掃除をする時がありましたが、小僧どもの私たち学生に命じることを一つもせず、率先して掃除をしていきました。けれども、御言葉を伝える時は威厳がありました。だから彼を倣うことができ、従うことができました。

これが真の霊的権威です。自分で従わせようとしなくても、自ら羊は付いてくるのです。

羊の囲い込み

 けれども、そのことは分かりつつも、彼らがなかなか付いてこない状況をずっと経験して羊を囲い込みたいという欲が出てきます。この現象はいろいろな形で出てきますが、一つは母教会主義です。ある人が仕事などの関係で他の地域に引っ越して、その地域の教会に通っているのに、いつまでも初めにいた教会を「母教会」と呼び、献金まで母教会に捧げるのです。

 また、信徒が一個の教会での活動のみしか参加することができないようにする教会もあります。確かに地域教会が第一でありますが、第二も第三もなく、すべて「一個の教会のみ」を強制できるものなのか?と思います。本人が、教会が好きでその教会を愛し、他のものには関心がないという状況であれば十分に理解できます。これはすばらしいことです。けれども、用意されているあらゆるリソース(霊的に整えるための資料)を活用することは、本人の霊的成長に益になると考えます。

 牧師本人も、自力で説教の準備をするのではなく、他の教会の説教者の内容を読んだり、注解書を読んだり、あらゆる用意された資料を読んで、養われているはずです。牧師にはそれが自由で信徒に与えないというのはいかがなものでしょうか?

 先ほどコリントの教会へのパウロの手紙の冒頭を見たように、全体の諸教会の中で自分たちの集まりを見るように促しています。それぞれの教会にはつながりがあり、助け合いがあり、それによってキリストの体を感じるようにさせていたのです。一個教会は聖書的ではないのです。

 もう一つ今、問題になっている教会の「カルト化」にも触れなければなりません。教会の監督者の資格には、社会性も含まれています。「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(1テモテ3:2-5,7

 どんなに美辞麗句を並べ立てても、一般社会が非常識だと思われることは非聖書的なのです。物理的に、また言葉で暴力をふるう、会計が不明瞭だ、女性との関係などの領域で社会常識から外れるとき、当然、神の御心から逸脱しているのです。

 実は、いつも牧者は誘惑を受けています。これらの非社会的行為の根っこは「高慢」だからです。牧会者ですから、当然ながら神に用いられます。すると必ず祝福されます。神から来ているからです。そこで称賛を受けます。下から持ち上げられる強い力を感じます。そのとき、その称賛を受け入れないという勇気が必要です。「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35」という、イエス様が弟子たちに語られた戒めを思い出し、人々が自分の支配の対象ではないことを常に思い出す必要があります。

信徒は牧師を愛してください

 以上の一般的な問題と課題を牧師は多かれ少なかれ持っていますが、それでも、自分の弱さを自覚しつつ、謙虚に邁進している牧師さんはたくさんおられます。上に私が書いたことを基にして、自分の牧師の見方を変えないように願うばかりです。牧師が一方的に信徒に服従することを要求するのは危険だと書きましたが、同じように、信徒が牧師を一方的に裁くのも悪いことです。

 「牧師に傷ついた」と言われる方が大勢います。それを当然の権利のように話している時、私の心はどんよりします。なぜなら、牧師は、その立場のゆえ「信徒に傷ついた」という言葉は口が避けても公にできないからです。

 ある時、知り合いの牧師夫人に久しぶりにお会いしました。ある教会の牧師さんでしたが、その教会から追い出されブライダルで生計を立てておられるそうです。後で聞いたところによると、家庭訪問をしていなかったのが追放の原因だとか。私は開いた口が塞がりませんでした。聖書によれば、教会の金の横領だとか、姦淫の罪だとか、よほどのことがなければ教会は牧師や長老を否認することはできません(1テモテ5:1921)。

 また他の教会では、牧師が就任してから教勢が伸びなかったという理由で、役員会で牧師解雇の決定が下されました。(教勢は牧師の仕事ではありません。信徒たちと牧師の協力による結実ですから、本末転倒もいいところです。)その家族は食べていくことができなくなり、実家に居候させてもらいながら、他の小さな教会を牧会してまたパートをして何とか食いつないでいるそうです。

 インターネット掲示板やブログなどで、このような話は出てくるでしょうか?「牧師の悪事」なるものの話はわんさとありますが「信徒の悪事」はでてきません。牧師はただ一人、あるいは家族の中で泣いているだけです。

 胃潰瘍になったという牧師の話はよく聞きます。精神病にかかった牧師夫人はかなりおられることも聞いています。牧師の自殺の話も聞きました。でも、表には出てきません。どうか自分の牧師を愛し、また尊敬してください。力を尽くして祈ってください。彼にはそれが必要なのです。

兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。(1テサロニケ5:12)

信徒の甘え

 牧師が信徒に直接つながろうとするとき「支配」という形を取りますが、信徒が牧師に直接つながるときは「甘え」という形で出てきます。牧会者はあくまでも、神の羊を任されている管理者です。羊の所有者は神です。したがって、神に拠り頼むことを前提に、牧者に接するべきです。ところが、その「神への拠り頼み」がどこかにすっとんで、牧師のところに行くことがあります。

 自分の悩みを打ち明ける時にそれは起こります。その前提は、「私の言っていることを受け止めてほしい。」というものです。だから否定的な助言は絶対に受け付けません。それを牧師が言うと、「なんという牧師だ。牧師は愛の人でなければならないのではないか。」と怒ります。

 けれども、もともと「自分のことを受け止めてほしい」という期待そのものが、牧会という務めの中に入っていないのです。彼はあくまでも管理者なのです。所有者は神ご自身であられ、キリストが良き羊飼いなのです。ですから、牧師としては「では、いっしょに祈りましょう。」あるいは「神の御言葉によれば、その悩みについてはこういうことですよ。」という助言だけをすることができます。

 ある牧師が、午前23時頃、夫婦喧嘩をしている教会員から電話を受け取ったとおっしゃっていました。もちろん牧師は、そのような電話相談にも親切に応答しなければいけませんが、そんな時間帯に他人の家に電話すること自体が社会的に非常識なことだと思わないのでしょうか?社会では一人の大人として責任ある生活を送っている人が、教会の中では子供のようになってしまいます。それは「愛」と「甘え」を混同しているからです。

 「甘え」は主に対して行なうべきです。神はあなたのお父さんであられ、「アバ(お父ちゃん)」と呼ぶことのできる御霊を私たちはいただきました(ローマ8:15)。この、主との交わりが希薄なために、甘えが牧師に向かって噴き出してしまうのです。

3.信徒の自意識

 これまでいろいろな国の人と接してきましたが、日本人は比べると自意識の強い人たちだと感じています。例えば、電車やバスで人に触れれば、反射的にさっとよけます。けれども他の国では、相手が若い女性であろうと何も気にしません(もちろん程度の問題ですが)。

 自分の家に人を招くときに国民性の違いがよく表れますが、私のアメリカ人の知人の家には、普段から誰かしら寝泊りしていました。"Make yourself at home."という言い回しがあるように、「自分の家のようにしてください」という気軽さが特徴です。またある国の人は、お客さんが来れば自分たちの家計が傾くほど食事を用意します。「豊かさ」が特徴です。では、日本人はどうでしょうか?もてなした後、とても疲れます。神経をかなり使ったからです。

 このように、日本人は自分が他人にどんな影響を与えているのかが気になり、また自分を他人がどのように接してきたかを意識している人たちなのではないかと思います。対人関係の中で「自分」が非常に大きくなっています。

 教会においても、「言われたこと」と「されたこと」がことに気になります。また、「こう言ってしまったが・・・」と、他の人に対する言動をいつも気にしています。その過程でストレスが溜まり、それで「人間関係で疲れる」という現象が起こります。(もちろん他の国でも同じことは起こりますが、その度合いが日本では大きいです。)

日本語という難しさ

 とくに日本語は、言葉遣いの微妙な差、いわゆる「言葉のあや」によって大きな誤解を生みやすい言語です。

 例えば、こんなことが起こりました。ある信者が、他の教会の人の家に招かれました。その人は、家の中にある置き物や飾り物、また衣服に付いていたブローチに至るまで、「こんなん、欲しいわ。」と言いました。この時点で、「ああこの人、大阪の人ね。」と分かる人は全く問題ありません。けれども、家に迎え入れた人は関東出身でした。それで、その言葉をそのままの意味で受け入れてしまい、「なんという失礼な人なのだ!」と何年間も不快感を露にしていました。けれども、その真意は何のこともない「このようなものを欲しいほど、すばらしいですよ。」と褒め言葉です。

 この例は方言や言い回しの地域差に拠るものですが、もちろん同じ地域で、同じ標準語でも、立場の違い、年齢差、男女差など、いろいろな要因で誤解が生じます。「牧師がこんな酷いことを言った。」「あの兄弟(姉妹)が、こんな酷いことを言った。」という言葉を私たちはしばしば聞きます。でも、「本当にそう言ったのか?」と私たちは半分しか受け入れません。

 ある時、「こんな酷いことを言った」と他の人から言われている本人から、たまたまその発言に関わる状況について既に私は聞いていました。それで、その話を他の人が話してきたとき即座に誤解であることが分かりました。それで私は状況説明をしました。その方は説明を聞いて少しほっとしていましたが、私は、同じ日本語なのにまるで通訳をしている気分になりました。

 似たようなことを体験した方は多いと思います。すると私たちはこう反論します。「でも言い方が良くない。そのように言われたら、こう受け止めるしか仕方がなかった。」その通りなのです、これが日本語の難しさで、内容や真意よりも「言い方」に注意しなければいけない言語なのです。

 けれども、その困難を私たちは日本語を話すキリスト者として乗り越えなければいけません。なぜなら、信仰は言辞によるものではなく、その背後の内容に基づくものだからです。真意に基づくものであり、霊的な知識と理解に至らせるものだからです。

 次の御言葉を読んでください。「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。 (コロサイ2:2

 この聖句によるとキリストという真の理解に至るための過程は、「心に励ましを受け」「愛によって結び合わされる」ことです。言い方についての議論をしている間、疑いを持っている間は、心に励ましを受けることもないし、愛に結び合わされることもありません。兄弟や姉妹を励ますことに力を注いでください。そして御霊によって愛していくことに力を注いでください。その中においてのみ、理解をもった豊かな確信に達することでき、そしてキリストを真に知る(=体験する)ことができるのです。

根に持つ文化

 そして次に私たちは「根に持つ」過ちを犯します。多少の誤解や誤認は、人間同士の付き合いで起こるのはやむを得ないでしょう。けれども、「あの人がこう言った!」と恨むような感じで心に抱き続けるなら、それは「赦さない心」というまた別の罪を犯していることになります。

 ある韓国人の兄弟と話していたとき、「韓国の人は言いたいことを言い放題言って、その後、すっきり忘れる、ってよく言いますね。でも日本人は、いつまでも根に持つんですよ。」と私が言ったら、「それって、聖書の教えに反することじゃないんですか?」と聞きました。私ははっとしました。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:13」「何よりもまず。互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。(1ペテロ4:9

 「赦し」は簡単に一言で言うと、「過ぎ去らせる」ことです。握っているものを手放すことです。いらだたしくなっても、忘れてしまうことです。心にとどめないことです。そして、またこれまでと変わらぬ付き合いをするのです。それに根に持っている事の多くが、よく考えてみれば、たいした内容ではありません。だから、たいした内容ではないように軽くあしらえばよいのです。

他人との距離

 意思疎通の難しさ中で、私たちはストレスを感じます。その対処法として、他の人たちと距離を置きます。人間関係を疎遠して、自分の私的空間の中にこもる傾向が日本人はあります。日本人に「マニア」指向が多いと言われる所以です。それ自体は良いとも悪いとも言えません。この国民性のゆえ小さな事や細かい事に能力を発揮でき、それゆえ日本はたくさんの良質の製品を生み出しました。

 けれども、霊的な領域にまで推し進めると不健全になります。これが、「教会に行かなくなる」理由になっているからです。そして自分独りでも礼拝を守れると思ってしまうからです。そして、その「自分」はしっかり守っていますから、キリストにある成長は望めません。

 キリストは私たちの平和です。それは神と私たちとの間にある平和だけではなく、横のつながりの平和でもあります。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ1:1415」言い争いをしていないことが平和なのではなく、「隔ての壁」を作っていれば平和ではないのです。

 「キリストにあって一つ(ガラテヤ3:29参照)」を単に霊的事実としてだけではなく、目に見える形で実践するとき、私たちはキリストの平和を知ることができるようになります。

平気で他人を裁く

 そして「他人を裁く」という問題を、再び最後に取り上げたいと思います。なぜなら、これを行なうことによって教会の力が激減し、御霊の推進力が減退するからです。教会の存在意義は、「キリストが愛されたように、互いに愛し合う」ことです。裁きは愛と正反対の行為です。

 自意識が強いゆえ、私たちはその自我を守るために相手を裁きます。「自分」が迷惑を被ったとしていろいろなことを言います。

 「あの人は、・・・のくせに・・・ができていない」
 「あの人は、クリスチャンらしくない」
 「(尊敬する)あの人だったら、この人のようなことはしないのに」

 批評や比較をしている言葉です。他人を自分が好むような料理にすべく、包丁でめった切りにします。その判断に自分自身が含まれていないのですから、こんなに簡単で容易なことはありません。相手に変化を求めますが、自分自身は何も変えなくてよいからです。

 そして裁く罪は人を盲目にします。次の例はどうでしょうか?

 「あの人は、すぐに人を裁く」
   (・・・と言って、自分がその人を怒り、裁いていることには気づいていない)
 「この牧師は愛が足りない。」
   (・・・と言いながら、自分が牧師を愛していないことに気づいていない)

 イエス様の言葉を思い出しましょう。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:3-5 下線筆者)

 この類の罪は他の罪よりやっかいです。「自分は正しい」という前提で話しているからです。間違っていると認識していない人の間違いを正すことほど難しいことはありません。嘘をついた、盗んだ、不品行をしたなどはすぐに罪悪感を抱くことができますが、自分が「裁く」という加害行為を行なっていながら自分は被害者と思っているので、悔い改めが難しいのです。

 先ほど引用した御言葉をもう一度引用します。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:13」不満を過ぎ去らせ、赦していくのに、私たちは多くの忍耐と、謙遜と、寛容と、柔和と、深い同情心を必要とします(同12節)。この「赦し」という血の吐くような努力をして、初めて私たちはキリストの弟子としてふさわしい者になることができます。

 相手を赦していこうと努める過程の中で、私たちは、いかに自分が愛のない人間なのか、その愚かさと醜さを悟ります。これが福音の始まりです。魂が砕かれ、へりくだることができるからです。「自意識」を捨てて、キリストに拠り頼もうとするからです。ここで初めて「私が生きているのではなく、キリストが(ガラテヤ2:20」というパウロの告白をすることができます。

黙って鬱に・・・

 口に出して、人の悪口を言えている人はまだ良いかもしれません。なぜなら、自分が言葉に出して言っているので、他人を裁いていることに気づいて悔い改めることができる可能性を残しているからです。

 けれども、ある人は心にそのような悪い思いを抱いているのに、その事実さえ認めず素直に言葉にも出さないことがあります。それで内に押し留めて鬱になります。「自分はクリスチャンだから、こんな悪いことを思うことはできない。」と、もう既に思っているのに頑張っています。あるいは、「こんなことを言ったら相手が気づいたら傷つけてしまう。」と思って言わないのですが、もう既に思っている事実が罪であることを認めません。

 その「自意識」が実はそのまま神が最も憎んでおられる「プライド(高慢)」なのです(箴言6:16)。日本人は控えめで静かだと言われていますが、それがそのまま謙虚ではないのです。むしろ内向きの性向の中に、大きなプライドの塊が据わっている場合が多いのです。

 王子のための結婚の披露宴の例えを思い出してください。招かれた人々は出席を断りました。それで王は大通りにいる人々を片っ端から招待しました。けれども、ひとり礼服を着ていない人がいました。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいってきたのですか。」と王が尋ねました。すると、

 「しかし、彼は黙っていた。(マタイ22:12

 とあります。礼服を着ていないことを「ああ、すみません。失礼しました。」という素直に認めませんでした。黙るという行為には、自分のありのままの姿を認めないという頑固さがあります。

 私たちは認めるべきです。人のことを悪く言うとき、実は十字架につけられたイエスの前で罵っている祭司長らと同じになっていることを。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。(マタイ27:40」そして、この罵る彼らを十字架の上で、父なる神に、赦しの祈りを捧げられたのがイエス様です。

 真の謙虚とは、この、どうしようもないどす黒い自分をそのまま認めることです。それだけなのです。「愛さなければいけない・・・」と頑張るのではなく、「愛していないどころか、とことん憎んでいる醜い自分がここにいます。主よ、どうかこの罪人を憐れんでください。」とそのまま、素直に認めることです。そうすれば主が約束してくださったとおり、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9

 この繰り返しです。主の前に泣いて出て行って、それで憐れみの御霊で清めていただき、そしてキリストにあって新たな力を得て前進するのです。日本のクリスチャンは、もっともっと泣いて、叫んで祈る必要があります。これを「はしたない」と思わないでください。

 詩篇の中にあるダビデの祈りは、涙であふれています。自分の罪の重さで疲れ目になっています。でも、必ず神からの応えを得ています。そして感謝し、賛美しています。「子供のように神を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10:15」と主は言われましたが、子供のように素直に泣くのです。自分のいたらなさを泣き、それによって主の深い憐れみをいただきます。

あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:9-10

最後に

 以上が、私たちが日本への宣教を考えるときに感じる霊的な戦いでした。もちろん他の国々にもある問題であり、日本だけが特別なわけではありません。そして、他の人々の例を多く使いましたが、これらは私たち自身の問題であり課題です。それらを乗り越えなければ、主にある勝利を私たちが得ることができないと感じている次第です。

 
これからも、ロゴス・ミニストリーを主にあって宜しくお願いします!

(2010年4月記)


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