ピリピ人への手紙3章 「目標なるキリスト」


アウトライン

1A キリストのすばらしさ 1−11
   1B 気をつけること 1−3
   2B 達するべきこと 4−11
      1C ちりあくたなる肉 4−6
      2C 十字架と復活の姿 7−11
2A 神の栄冠 12−21
   1B ひたむきな心 12−16
   2B 天に向かう思い 17−21

本文

 ピリピ人への手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「目標なるキリスト」です。

 しばらくピリピ書の学びをしていませんでしたので、思い出していただくために、おさらいをしたいと思います。パウロは今、ローマにいます。鎖につながれていて、ローマ皇帝の前に立つのを待っています。けれども、彼は喜びに満たされていました。いや、喜ぶように自分を堅く保っていました。それは、自分がキリストのうちにいることをはっきりと認め、また、キリストから離れて物事を見ないようにする姿勢でした。彼はピリピの手紙で、「喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」と喜ぶことを繰り返しています。

 彼は、自分を監視していた看守のローマ兵たちが、主を信じていったことをとても喜んでいました。そして、皇帝直属の親衛隊にキリスト者がたくさん与えられたことを喜んでいました。パウロのことを悪くいう者たちもたくさんいましたが、彼は、それでもキリストが宣べ伝えられていることを喜んでいます。また、彼は皇帝の前に出て、死刑を宣告されるかもしれないことを知りながらも、「死ぬこともまた益です」と言って、喜んでいました。

 そして、彼はピリピ人たちのことも喜んでいます。彼らこそ、パウロが宣教の働きをしていて、その大変さを知っていて、彼に物質的な支援を送っていた人たちだったのです。パウロは、その与えるところに現われている恵みを感じ取り、自分もうれしくなっていたのです。

 けれども、そのような御霊が働いておられるところの教会にも問題があり、教会の中で確執がありました。影響力のある二人の姉妹が一致しないで、対立していたのです。そこでパウロは2章において、一致することの必要性を話しています。それは、自分のことを求めるのではなく、他の人のことも顧みる心です。キリストがご自分をむなしくして仕える姿を取られたように、彼らも自分を求めないで、キリストの思いになるように促しました。

 これが、これまでの手紙の内容です。それでは3章に入りたいと思います。

1A キリストのすばらしさ 1−11
1B 気をつけること 1−3
 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

 パウロは、再び繰り返しています。「喜びなさい!」と。自分でもくどいと思っているのでしょうか、「前と同じことを書きますが」と言っています。けれども、私たちにはこのくどさが必要なのです。私たちには絶えず、励ましと勧めが必要です。頭で分かっていても、実際の生活の場面でつねに思い出さなければいけないからです。ペテロも、第二の手紙を書いたときに、こう言っています。「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。(1:12-13)」奮い立たせるために、必要なことですね。

 私が電子メールで、ここでのミニストリーについてのニュースレターを月に一回、主にアメリカにいる人々に送信します。そこで、先日も、二人の人から返信がありました。一人は、"Stay encouraged."(がっかりこないで、いつも元気でいて!)もう一人は、"Trust Him. He loves you so much."(イエスさまを信頼して。ほんとうに愛してくださっているのだから。)という文でした。私は、この二つの言葉を聞いただけでも、自分がキリストにあってどういうところに立っているのかを思い出すことができます。そして、喜んでいることができるのです。このような励ましが私たちはいつも、必要です。

 そして、ここでパウロは、「主にあって喜びなさい。」と言っていることに注目してください。周りの状況にあって喜ぶのではなく、主にあって喜ぶのです。ここが鍵です。主の御前には喜びが満ちています。主の右には、楽しみがとこしえにあります(詩篇16:11)。私たちが主のことを思い巡らすときに、心の底から喜びが湧き出て、私たちを強くしてくれます。周りの状況がたとい悪くとも、そして悲しみがあっても、その下にある確固とした平安と安息を、いつも保ち続けることができます。

 パウロは、この喜ぶことが「安全のため」である、と言っていますね。その理由を2節に書いています。どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。

 聖書では「」が、悪い意味で使われています。獰猛な野良犬のイメージです。悪い働き人がいて、彼らは自分たちがユダヤ人であること、割礼を受けていることを誇りとしています。ユダヤ主義者たちは、パウロが福音を宣べ伝えた地域には、どこにもいました。そして、パウロの信用を引き落としながら、異邦人も割礼を受けるべきであることを教えていました。

 私たちが、主にあって喜んでいないとき、私たちは危険なところにいます。主ではないほかのもので自分を満たそうとしているからです。そのときに、私たちの肉を誇らせるような偽りの教えは、私たちを魅了します。しかし、喜びの泉は、唯一キリストのうちにしか見出されないのです。キリストのうちに自分がいて、自分がキリストのうちにいるという単純なところに、あらゆる富と栄光と、いのち、知恵と知識が隠されているのです。ですから、パウロは、主にあって喜ぶところに自分を保っていないさいと勧めているのです。

 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

 エルサレムにある神殿礼拝ではなく、御霊によって上から生まれ、御霊によって礼拝する私たちのほうこそが、まことの割礼者であると言っています。そして、イエス・キリストが自分のためにしてくださったことを知り、イエス・キリストを誇っている者が、ほんとうの割礼者であると言っています。肉の割礼ではなく、心の割礼こそ大事なのです。

2B 達するべきこと 4−11
 そして、パウロは、自分のことを例にとって、肉ではなくイエス・キリストを誇りとすることを次に話しています。
1C ちりあくたなる肉 4−6
 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

 ユダヤ主義者たちは、自分たちがアブラハムの子孫であること、また、自分たちがエルサレムで教育を受けた者であること、また、ペテロやヨハネやヤコブのような大使徒と呼ばれるような者とつながりを持っていることを誇っていました。

 このように肉を誇るようなことが、キリスト者たちの間にもあることは悲しいことです。自分がだれだれ牧師とつながっていることを誇りにしたり、また、どこどこ神学校を卒業したことを誇り、そのような外側のものによって、自分に権威を持たせようとする人たちがいます。そして、そのような人脈と資格のない人たちを見下します。

 けれどもパウロは、もし、そのようなもので誇るのであれば、私は彼らよりも誇ることができる、と言っています。八日目の割礼を受けました。また、イスラエル民族のベニヤミン族のものです。きっすいのヘブル人で、律法を厳格に守ったパリサイ派でありました。神に対しても熱心であり、教会を迫害したほどです。そして、パウロは次に、「律法による義についてならば、非難されるところがない者です。」と言っています。

 非難されることのないのは、パリサイ派が律法を解釈しているところに従ってでありました。パリサイ派は、律法はすべて外側の行ないについてのものであると考えていました。外側の行ないによって、内実が決まってくる、神との関係が決まってくると思っていたのです。けれども、パウロはキリストに出会いました。そのときから、彼は、律法は、そのような肉に関することではなく、霊に関するものであることを知りました。「殺すな」という戒めがあれば、それは「殺したいと願う、心の状態」をも取り扱っていることを知ったのです。そこでローマ書7章において、彼は、このことを悟ったときの心の葛藤を書いています。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。(ローマ7:12-13)」こうして彼は、律法による行ない、また肉を誇ることが一切できなくなったのです。

2C 十字架と復活の姿 7−11
 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

 パウロは、比べています。パウロは、イスラエル人であることの誇り、パリサイ人、非難されることのないそのすべての人生を、キリストと比べています。そして、人間的にはこれらすべての光栄をみな、「」であり、「ちりあくた」であるとさえ思っています。

 ここでの大事な点は、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」です。私たちクリスチャンが陥る過ちは、品行方正で清貧になることが霊的にすばらしいと思っていることです。牧師が開拓をしていたときに、こんなに貧しかった、苦しかった、ということがもてはやされたり、このような苦しみが一つのトレードマークのようになっています。そのような話を聞いて、私たちは、その牧師先生はすばらしい、となるかもしれませんが、「キリストがすばらしい」となるでしょうか?いいえ。ここが、パウロが言いたいところなのです。

 パウロは、キリストのすばらしさを天秤のもう一つの皿に乗っけています。どんなに人間的にすばらしい偉業をもっていても、キリストのすばらしさにかけてはちりあくたなのですよ、と言っています。大事なのは、キリストの栄光の重みをどこまで知っているかにかかっているのです。パウロは、キリストがあまりにもすばらしく、イエス・キリストにある神との関係が、いかに生きており、豊かで、栄光に富み、楽しみに満ちているかを彼は発見したのです。

 それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 パウロのパラダイムが変わったことが、ここに示されています。キリストに出会う前は、彼のパラダイムは、自分がどれだけのことを行なったのか、というものでした。しかし、ここのパウロの言葉に注目してください。「キリストを得、キリストの中にある者と認められ」とあります。また、「キリストを信じる信仰の義」とあります。キリストとの交わりなのです。イエスさまとの生きた関係が、パウロの頭を占めたのです。私たちは、「自分の行ない」の中に生きているのか、それとも、「イエスさまとの関係」の中に生きているのか、自分を吟味してみなければなりません。

 そして、ここに「信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができるという望み」とありますね。これは、イエスさまが教会のために戻ってこられるときのこと、つまり携挙のことを話しています。私たちの義は、そのときに持つことができます。ここが、強調しすぎることのないほど重要なポイントです。私たちは、携挙に至るまでは、決して正しい者となることはないのです。正しい者と認められてはいます。正しい者と、認められ、数えられているけれども正しい者ではない、との明確な違いができていることが重要です。この違いが明確でないと、クリスチャンになってから、より正しくなろうとする努力をしてしまいます。そして、果てしないジレンマを帯びながら、クリスチャン生活を送らなければいけなくなってしまうのです。いいえ、私たちはただ、義を持つことができるという望みがあるだけです。正しくなるのは、将来を待たねばならぬのです。

 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

 ここに、キリストとの交わりの具体的な方法について書いてあります。それは、キリストの死と復活の姿にあやかることです。私たちは、御霊によってキリストに結びつけられた者となりました。妻が夫に結ばれているように、キリストに結ばれた者となったのです。それゆえ、キリストの御霊は、私たちの生活の中で、ある意味で、キリストの生涯を再現しようとされるのです。

 ここに「キリストの苦しみにあずかる」とありますね。例えば、私の場合は、日本に住み、ここで伝道することを考えれば考えるほど、大きなジレンマを覚えます。暗やみの深みを見るような思いをし、何にも関わらず、人々を愛し、人々に仕えていくという御霊の導きを感じます。けれども、私は肉では、高みの見物をしたいのです。「どうせ日本人は・・・」と(自分が日本人のくせに)批評したいのです。しかし、御霊はそれをお許しになりません。私が、まさにキリストが苦しまれたその苦しみを、追体験するように導かれるわけです。聖霊は、私たちひとりひとりのクリスチャンに、それぞれの生活で、何らかの追体験を与えられます。それにしたがって生きるときに、私たちはキリストの死と復活の交わりにあずかることでき、キリストを人格的に、深く知ることができるのです。

2A 神の栄冠 12−21
  そしてパウロは次に、このようなキリストとの交わりを、競走としてたとえています。
1B ひたむきな心 12−16
 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

 私たちがキリストにある者となったときから、捕らえどころのない、ある意味で不安定なところに置かれることのなります。絶えず、安住の場から追い出され、キリストを求めざるを得ないところに導かれます。

 日本の教会では、「求道者」という用語が使われています。求道者が礼拝に参加しつづけて、洗礼をいつ受けようかなあと考えて、ころあいを見計らって洗礼を受けます。そして、一人前の信者として、教会の中でつぶしを利かせるのです。けれども、これはどんでもない間違いです。私たちは、みな求道者なのです。キリストにあって、私たちはいつまでも罪人です。そして、キリストにあって、私たちは常に、正しい者と数えられています。キリストの十字架の影につねにとどまっていなければいけない存在であります。求道を続けているのです。これが、パウロが、「ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っていることです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 私たちは人生の目標をどのように立てたらようのでしょうか?クリスチャンになりました。では、次に何をすればよいのでしょうか。答えはここに書いてあります。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」です。つまり、イエス・キリストご自身を知ること、これが私たちの人生の目標なのです。

 私たちは、初めにイエスさまを信じたときから、どれだけイエスさまをよりよく知っているでしょうか。聖書の知識のことを話しているのではありません。人格的に、どれだけ深くイエスさまを知るようになったでしょうか。結婚生活は年数を経るごとに、その深みが増すとよく言われますが、イエスさまを知ることもこれと同じことなのです。まず人生の目標に、イエスさまを知る、ということを念頭に置いてください。イエスさまを知っていくことを最大の目標に掲げているとき、その人は、自分が歩むべき具体的な道も、はっきりとしてきます。

 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

 ここでパウロは、少しトーンを低くしています。一心に目標を目指して走っている自分の姿に、すべての人が追いつくことはできない、としています。それぞれの人に走るべき行程があり、その人が走ってきたところから、出発しましょうと言っています。

 他のクリスチャンを見て、「私は、そのようなところにまで達していない。」とか、他のクリスチャンと同じところにまでジャンプしようとか、いろいろ努力しようとしてしまいます。けれども、パウロがここで言っているように、今自分が立っているところから一歩を踏み出すことによって、初めて前に進むことができるのです。分からないところは分からないとしてよいのです。そして、分かっている部分、示されている部分に責任をもって、一歩ずつ前に進むことが大切です。

2B 天に向かう思い 17−21
 こうしてパウロは、肉を誇りとしている者たちを、気をつけなさいと勧めましたが、次は、また別の警告を与えています。

 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

 パウロは、今、肉の欲望にしたがって生きている者たちがいるので、注意するように呼びかけています。パウロは、律法の行ないではなく、信仰による義であることを強調していました。それでは、行ないはどのようになっても良いのだ、と考えるやからが存在したわけです。「恵みが増し加わるために、罪を犯そうではないか。」と考える者たちがいたのです。

 しかし、パウロは、「私を見ならう者になってください」と言っています。信仰による義を宣べ伝えているパウロは、罪の中どころか、聖潔のなかに生きていました。信仰による義を求める者は、罪の中で生きるようなことはできないはずなのです。そこで、パウロは、自分たちの生活スタイルに目を留めてください、と言っています。

 ここでパウロは、彼らの思いが地上のものだけと言っています。ここに彼らが、パウロの教えを歪曲している理由を発見することができます。地上のものと見ているからです。これが、私たちクリスチャンの問題なのです。律法主義的になることも、放縦になることも、どちらになることにも共通して言える問題は、地上のことを思っていることです。

 そこでパウロは、信仰の義によって生きることがどのようなことであるかを、次に話しています。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 天のことです。先ほど、「神から与えられる義を持つことができる、という望み」が携挙のことを具体的には指していることを、お話しましたね。その携挙は、イエスさまが天から空中に戻って来られることであります。信仰による義とは、この地上に義を見出さないことであります。すべてを天国に賭けているのです。それゆえに、自ずと地上から目を離すことができ、自ずと地上のもので自分を満たそうと思わなくなるのです。私たちの目がどこを向いているのか、それが聖い生活を歩むことができるかどうかの鍵であります。

 そして、キリストが天から来られたとき、私たちのからだは、キリストに似たからだに変えられます。このことも考えてください。このことを考えるとき、私たちは罪を楽しもうという気が失せてしまいます。

 こうして私たちは、キリストを目標にする生き方を見ました。自分が何をするべきかという、自分の世界から、キリストを知っていくという関係の世界へ入ります。地上のことから、天のことを思います。


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