民数記10−12章 「反抗の始まり」
アウトライン
1A 旅の出発 10
1B ラッパの音 1−10
2B 軍団の旅立ち 11−28
3B 道案内 29−36
2A 不平 11
1B 燃え上がる火 1−3
2B 貪り 4−35
1C エジプトの食べ物 4−9
2C モーセの落胆 10−30
3C 欲望の墓 31−34
3A 非難 12
1B ねたむミリヤム 1−8
2B らい病の隔離 9−16
本文
民数記10章を開いてください。私たちは今、イスラエルの民がシナイ山の麓から旅立つ備えのところを読んでいます。そして今日は実際に旅立ち、そして旅の始めに起こった出来事について学びます。
1A 旅の出発 10
1B ラッパの音 1−10
10:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。10:2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。10:3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。10:4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。10:5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。10:6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。10:7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。10:8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。10:9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。10:10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」
イスラエルが旅立つ時、また召集する時、戦いの時、また祭りの時に、このようにラッパを吹き鳴らすように主は命じておられます。ラッパは通常、雄牛の角で作られた角笛を用いていましたが、特別に銀によるラッパを作りなさいと主は命じられています。そして祭司たちがそれを吹き鳴らします。そして回数や吹き鳴らす長さによって、どのような用なにかを判別できるようにしています。
このラッパは、主ご自身の呼びかけ、または主ご自身の声を物理的な音で聞くことができるようにしたものです。ですから、これは神と人の仲介者である祭司が行うものです。主が会衆をご自分の天幕に引き寄せたいと願われる時に、その音を鳴り響かせるようにさせます。主が自分たちにお語りになろうとされているのだ、と民は理解するのです。
そして、戦いが主のものであり、主が彼らを救ってくださることを示すために、ラッパを吹き鳴らします。ヨシュアがエリコを攻略する時にラッパを祭司が吹き鳴らしましたね。ときの声を上げただけで、城壁が崩れ落ちました。ギデオンがミデヤン人と戦う時も吹き鳴らしましたが、十三万五千人の敵に対して三百人が打ち勝つには、それは主の戦いであることを彼らは知っていたからです。
そして宿営の地から次の目的地まで旅を始める時も、主がこれから自分たちを導かれることを彼らは感じ取ることができました。さらに、祭りの時には、いけにえを捧げている間ずっとそれを吹き鳴らしているのですが、それは主がここに臨在されている、主がこのいけにえを快く受け取ってくださっていることを感じ取ることができたのです。
事実、主は終わりの日に、天使に対して、またご自身がラッパを吹き鳴らすことを命じておられます。教会を天に召集する時、つまり携挙の時に大きなラッパの音がします。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17)」そして主が地上に、ご自分に反抗する者たちに対して戦われる時に、七つのラッパをもって、天使を通して地上に災いをくだされました(黙示7章参照)。
私たちは、神の声をどのように聞いているでしょうか?黙示録、いや福音書においてでさえ、イエス様は大声で私たちに語りかけます。目が覚めるような、ラッパの吹き鳴らす甲高い声です。私たちは、御言葉を聞き、そこで自分の思いや良心に強く語りかけられる体験を持たなければいけません。そこにこそ、主が共におられ、主の栄光をはっきりと見ることができるからです。
2B 軍団の旅立ち 11−28
10:11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。10:12 それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。
ついに第二年目の第二月の二十日に、イスラエルは旅立ちました。第二年目の一月一日に幕屋が完成し、第二月の第二月の一日に人口調査をしなさいと主はモーセに命じられました。そして二十日に旅たちます。
前回、9章の後半部分で学んだように、彼らの旅立ちはすべて主の雲によって行います。あかしの幕屋に雲がとどまります。夜には火になります。雲が離れていったら、その時に身支度を始めます。そして次の雲が立ち止まるまで、旅を続けます。
シナイの荒野から旅立ち、そしてパランの荒野で雲がとどまった、とあります。シナイ半島の下端がシナイの荒野ですが、北部はパランの荒野と呼ばれています。パランの荒野はイスラエルの南端です。私はエジプトのカイロからイスラエルの南端の町エイラットを陸路で渡ったことがありますが、そこはパランの荒野です。砂漠と言えども、実に数多くの地形や景色があります。そのパランの荒野にとどまるまでの話が、ここから12章まで続きます。
10:13 彼らは、モーセを通して示された主の命令によって初めて旅立ち、10:14 まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。10:15 イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタヌエル。10:16 ゼブルン部族の軍団長はヘロンの子エリアブ。10:17 幕屋が取りはずされ、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。10:18 ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。10:19 シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。10:20 ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。10:21 聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。10:22 また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。10:23 マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。10:24 ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。10:25 ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。10:26 アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。10:27 ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。10:28 以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。
先ほど読んだとおり、ラッパを短く吹き鳴らすと、東側に宿営しているユダ族を始めとする三部族が出発します。それからまた短く吹き鳴らすと南側の三部族が旅立ちます。そして西側の三部族、最後に北側の三部族が出発します。実に主の呼びかけによって、麗しく、秩序をもって旅立つのです。教会の秩序のことをパウロが話しているときに、私たちの神は平和と秩序の神であることを彼は話しました(1コリント14:33)。
そして彼らの行進の間に、レビ族が幕屋の部品を運んでいきます。初めの三部族の後に、17節によるとゲルション族とメラリ族が幕屋を取り外し、運びます。ゲルション族は幕を、メラリ族は板や横木、台座などを運びます。そして、南に宿営していたルベン族を代表する三部族の後に、ケハテ族が出発します。興味深いのは、21節に「彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる」とあることです。つまり、まずゲルション族とメラリ族が到着します。そこでメラリ族が台座に板を入れ、横木を通し、柱を外庭に立てます。それからゲルション族が幕を掛けます。ですから、ケハテ族が到着することには、彼らは祭具をただ中に入れるだけでよくなるのです。
ところで、この行進全体を眺めても、宿営の時と同じように主の天幕が真ん中に来ています。主が真ん中におられることを表しています。
3B 道案内 29−36
10:29 さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」10:30 彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」10:31 そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。10:32 私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」
覚えていますか、モーセの舅はイテロあるいは別名レウエルでした。モーセ率いるイスラエルの民がシナイの山に近づいた時に、イテロは自分の娘で、モーセの妻になったチッポラまた息子二人を連れて、迎えに行きました。ミデヤン人はアラビヤ半島に住み、またシナイ半島も自分たちの行動範囲としていていました。チッポラはモーセといっしょにエジプトに行こうとしましたが、まだ心の備えがなかったようです。モーセが死にそうになって、そこでようやく息子に割礼を施し、その包皮をモーセの両足につけ、「あなたは私にとって血の花婿です」と言いました。けれども、今はチッポラと息子は同行しています。
その他に、チッポラの兄弟ホバブがいました。彼らは砂漠の民であり、私たちには全く同じように見える砂漠でも、まるで細かい道路が定められているかのように、正確に知っていました。そこでモーセは彼に道案内を頼んでいるのです。ここはモーセの弱さです。彼はかつて、主が彼によってパロに語ると約束された時に、「私は口下手です」と言って拒みました。彼は二・三百万人の民を率いていくという圧倒的な重責感の中にいたことは確かです。彼の気持ちは人間的には理解できます。けれども霊的には、この民は神の民だということで過ちでした。
思い出すのが、チャック・スミス牧師の話です。教会の建物が小さくなり、新しい土地と建物を得なければいけませんでした。現在、教会堂が立っているところの敷地ですが、あまりにも巨額であり、彼はその敷地の横で、どうすればよいのかという不安に駆られたそうです。けれども主が答えられました。「これは誰の教会か?」チャックは答えました。「あなたの教会です。」主が起こしてくださった問題なのだから、主が必ず解決してくださるという認識を彼は抱くようになりました。
ところで、ホバブは約束の地に入る所までイスラエルの民と共にいて、そしてイスラエルの民と共に生きるようになりました。士師記1章16節と4章11節には、ケニ人と呼ばれてユダ族と共にユダの荒野に住みついたことが記されています。
10:33 こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。10:34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間は主の雲が彼らの上にあった。10:35 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」10:36 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」
主はとても優しい方です。契約の箱は、ケハテ族が運ぶのですから真ん中に位置するはずでしたが、モーセの不安を解消するために、主は先頭に立って進むようにされました。33節を見ると、契約の箱がまるで生きているかのように「休息の場所を捜した」と記されています。そして雲は、昼間の間は彼らの上にあって守っています。モーセが完全に主に拠り頼めなかったけれども、主は彼を責めることなくかえってご自分の真実を示されました。
そしてモーセの祈りがあります。契約の箱が出発する時には、敵から主が自分たちを救ってくださるように願う祈りをささげ、留まる時には、主が共にいて休むことができるように願っています。これはまさに、イエス・キリストの教会も同じです。外に出て行く時には敵との戦いがあります。この世における戦いがあります。主が戦ってくださるように、という祈りです。
2A 不平 11
そして11章から、この旅立ちから間もない時に起こった出来事を描いています。
1B 燃え上がる火 1−3
11:1 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。11:2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。11:3 主の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。
実に、イスラエルへの神の守りと養いは、出エジプト記からありました。主が彼らに律法を与え、備えを与え、守りを与え、敵からの救いを与えられ、そして約束の地までは歩いて11日しかかかりません(申命記1:2)。けれども、私たちはこれから人の心にある悪を見ていきます。私たちのありのままの姿である「肉」を見ていきます。
その肉は、主が新たな動きを始められる時に動きます。私たちは常に、御霊に導かれるか、それとも肉に反応するかの二つの選択が与えられています。肉というのは、私たちが生まれた時から持っている性質であり、神を信じることのない、自分の能力や知恵によってのみ生きてきた中で培われたものです。主が新たな働きをする時には、それは主が行なわれることであり、私たちの能力や知恵をもちろん超えています。けれども、それを私たちの能力や知恵で見計らおうとします。それで、ものすごい葛藤を覚えるのです。
主が導き、守っておられるのに、主の働きを信じることなく生きることはできません。クリスチャン生活を、神とキリストが行なってくださると信じることなく、自分の力で行なおうとするほど、苦しく惨めなことはありません。私たちは自分の頑張りで表向きはクリスチャンらしく振る舞うことが一時できるかもしれませんが、荒野の旅のように、何かが起こると、必ずそれが本物か偽物かが明らかにされます。聖霊によれば必ず実が結ばれます。それは自然であり、自分が汗水流して勝ち得るものではありません。
荒野の旅では、具体的に「不平」あるいは「つぶやき」という問題が発生しました。不平は、一度行うと病気にかかったようなもので、いつまでも、自分が駄目になってしまうまで行ない続けます。あらゆる状況に不平の種はありますから、いつまでも言い続けることができるのです。けれども、そのような状況をつくられたのは主ご自身であります。もちろん、その状況が喜ばしいものではなく、ある時は他の人の悪であったり罪であったりします。けれども、それが神から来たものであることを知れば、私たちはただただ主の前にへりくだり、平安と慰めを得て、そこにある主からの訓練を受けることができるのです。
パウロは言いました。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2:14-16)」主の御心を行なうにあたって、労苦があります。けれども、必ずそれに報いがあります。だから、つぶやかず、疑わずに行うのです。
そして、ここでは「ひどく不平を鳴らして」とあるように、かなり強い不平の声でありました。ちょっと、つぶやいた、という程度ではありません。強い意思をもって、今ある状況を否定しはじめたのです。それで主は火を送られました。彼らを滅ぼすことはなく、宿営の端から始められました。彼らの不平を聞いたら、彼らはシナイの荒野で敵に襲われ、あるいは灼熱の太陽によって野垂れ死にます。そしてエジプトに戻ったとしても、彼らは再び奴隷になります。主に自分たちの命を委ねたのなら、主の臨在の中にいるしか生きる方法はないのです。それは、飛行機の中で恐ろしくなって、「これから飛び降りる、扉を開け!」とわめき騒いでいる人に、静めるために殴って気を失わせるようなものです。
そして、モーセは彼らのわめきを聞いて、主に祈りました。すばらしい忍耐であり、そして執り成し手です。私たちは不平を鳴らしたり、あるいは恐れて喚いているでしょうか?それとも、あらゆる思い煩いを主に持っていき、祈り願っているでしょうか?そして、そこの地名はタブエラと呼ばれました。「燃える」という言葉から派生しています。
2B 貪り 4−35
1C エジプトの食べ物 4−9
11:4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。11:6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」11:7 マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。11:8 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。11:9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。
昨日の第一礼拝の説教をお聞きください。制御されることのない強い欲望の結末について詳しく話しました。このイスラエルの民の対応に対して、モーセはひどく落胆します。
2C モーセの落胆 10−30
11:10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。11:11 モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。11:12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。11:13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。11:14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。11:15 私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」
可愛そうなモーセです、がっかり来ています。神の家に仕えているモーセですが、彼は彼らの要求に到底応えることができず、もう自分は駄目だと意気消沈しています。自分には負いきれない重荷であると主に告白しています。そこで主はとても興味深い解決法を与えられます。
11:16 主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。11:17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
以前、舅イテロが、モーセが全ての民をさばいているのを見て、これではいけないと助言しました。神を畏れる、力のある人々、誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十の長、十の長として民の上に立てなさい、と言いました。同じように、ここでも主は責任を七十人の長老に分け与えようとされています。
興味深いのは、モーセの上にある霊のいくらかを彼らに分け与える、ということです。モーセの働きは専ら、聖なる御霊によって行われていたことを示すものです。モーセに対して働いてくださっている神の御霊が、他の七十人の長老にもとどまり、それでモーセが行っていることのいくらかを行うことができるようにする、というものです。私たちが、主への奉仕を行う時に御霊の賜物がいかに必要であるかを物語っている場面です。コリント第一12章を初めとして、教会に対して神が御霊の賜物を分け与えられたことを教えています。
そして主は、民が肉を食べたいと欲している問題に答えられます。
11:18 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった。』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。11:19 あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、11:20 一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう。』と言ったからだ。」
主は、彼らに肉を与えないことで裁きを与えられるのではなく、その反対であり、彼が望むままをそのまま与えることで裁きを下されます。私たちは、神が自分に何かを与えるのを制限しているとつぶやくのですが、では制限なしに与えられたらどうなるのか?と反対に考えると良いのです。人間駄目になります。
11:21 しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。11:22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」11:23 主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」
モーセは意気消沈していましたが、彼が見失っていたのは、これは主が行われることなのだ、ということです。自分が行わなければいけないことだ、という意識がものすごく強かったのです。これは霊的指導者にありがちな過ちであり、指導者だけでなくキリスト者であれば陥る過ちです。自分自身が行わなければいけないという症候群に陥るのです。けれども、ここにあるように、彼ではなく主ご自身が行ってくださいます。
11:24 ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。11:25 すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。11:26 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。・・彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。・・彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。11:27 それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で恍惚状態で預言しています。」11:28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」11:29 しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」11:30 それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。
主がモーセの上に働かせていたご自身の御霊を、七十人の長老たちにも降らせました。彼らは恍惚状態で預言しています。使徒の働きにおいても、聖霊のバプテスマを受けた人々が預言をし、また異言を語りました。
そして二人が、主の天幕のところではなく自分の宿営のところで預言を語ったものだから、ヨシュアがそれはいけないと思ったのですが、モーセの言葉がとても興味深いです。「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」ここに、旧約時代の神の御霊の働きの限界があります。そして、キリストによって神の贖いを成し遂げた後に降り注がれた御霊の働きへの願いがあります。
旧約時代においては、神は特定の人々に御霊を注がれて、それでご自分の働きを行なわれました。これからも、主が大いに用いられる器が出てきますが、彼らの働きを通して、イスラエルの民は神の栄光と祝福にあずかりましたが、必ずしも自分自身が主に用いられる、ということではなかったのです。
けれども旧約聖書の中で、御霊についての二つの働きの預言があります。一つは、御霊による新生です。エゼキエル36章26節に、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。つまり、これまでは主の戒めは外側にあったけれども、神ご自身の霊が自分の内に入ってきてくださり、そして外の行ないではなく、内側からの変化によって神の命令を守ることができるようにしてくださる、ということです。
もう一つは、御霊による外に対する働きかけです。今、モーセが行なっているようなこと、他の人々に主のことを証しするために御霊が働いてくださることについての約束です。なんと、それが一部の人ではなく、あらゆる人々に御霊が与えられると約束されました。ヨエル書2章28-29節です。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」すべての人に注ぐことを強調するために、息子や娘、年寄り、若者もすべてが御霊を受けることを宣言しておられます。
この内側の変化をもたらす御霊の働きと、外側に働きかけるための御霊の働きの二つの約束が、新約時代において主が実現してくださいました。イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました。彼らに御霊が内に住んでくださいました。それだけでなく、「聖霊があなたがたの上に臨まれる」と約束してくださり、彼らは聖霊で満たされました。これは、すべての信じる者に与えられています。イエス様を信じれば御霊が内に住んでくださいます。それだけでなく、聖霊を求めれば、上から臨まれ、イエス様の証しをするための力を付与してくださるのです。
3C 欲望の墓 31−34
11:31 さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。11:32 民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、・・最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた。・・彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。
一キュビトは肘から人差し指までの長さで、約44センチです。ですから約90センチぐらいのうずらが降りてきました。そして一ホメルは230リットルなので、彼らは最も少なく集めたものでも2300リットルのうずらを集めたのです!彼らの欲望はおぞましいものがありますが、これこそが人間の欲望の姿です。
11:33 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。11:34 こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。
第一礼拝で話しました、これが欲望の行き着くところです。地名も「欲望の墓」という意味を持っていますが、自分自身を滅ぼすことになります。
3A 非難 12
1B ねたむミリヤム 1−8
12:1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。12:2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。
次から次へと、民の不平は吹き出ます。初めはひどい不平、そして次は激しい欲望、そしてここでは強い非難です。
その張本人はモーセの姉ミリヤムでした。覚えていますか、モーセを母がかごに入れてナイル川に置いたのですが、それを遠くから見ていた姉はミリヤムです。その時に彼女は十三歳でした。今はもう九十三歳のおばあさんです。そして、紅海が分かれ、民がそこを渡り、水が戻ってエジプト軍が溺れ死んだ後に、モーセの歌に合わせてタンバリンで主をほめたたえ、女たちを導いたのもミリヤムです。
ミリヤムは、長老七十人に御霊が注がれたのを見て、妬みが生じたのかもしれません。そして彼女の攻撃の的は同じ女でした。モーセの妻です。「クシュ人」とはエチオピヤ人のことですが、チッポラはミデヤン人であり、ハム系のクシュ人ではなく、アブラハムのサラではない他の妻から生まれた子です。けれども、しばしばアラビヤ半島にいる人々が、エチオピヤに近いことから、蔑称としてクシュ人と呼ぶことがあったようです。
興味深いことですが、キリスト教会の中においても牧師の奥さんが批判や非難の的になります。そしてしばしば、同じ女性が避難します。それは多くの場合、奥さんが何かをしたかしないかではなくて他の事が問題になっており、その本当の意図を隠すために標的にするのです。
12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
ここに驚くべき発言があります。モーセは地上のだれにもまさって謙遜だった、というのです。ここからなぜ、モーセが多くの人々の不満や非難を受けて来たかを知ることができます。彼は力で抑え込んで自分に従わせるような人ではなく、むしろ優しく、へりくだっており、その一見弱く見えるところを、高慢になっている人々は批判しやすく、非難の矛先を向けやすいのです。
けれども、ここに霊的権威と人間の世界にある権威との大きな違いがあります。霊的権威は、あくまでも神から来るものです。本人が主張するものではありません。けれども、霊的権威は逆らえば、それは自分がその人に逆らっているのではなく、神ご自身に逆らっていることになります。モーセは地上でもっとも謙遜でありましたが、同時に、申命記の最後でモーセの死後、彼のことを書いた言葉は、「モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。(34:12)」とあります。
それゆえに、新約聖書でも教会の指導者に敬意を払うことを命じています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。(1テサロニケ5:12-13)」
ところで、アロンがミリヤムと共にモーセを非難しています。アロンの弱さは、すでに金の子牛の事件で露呈しました。人々が悪を行なっても、それを勇気をもって止めることができないのです。その強い要求にたやすく屈してしまう弱さを持っています。それで、ミリヤムが強くモーセを非難したときに、自分も同調してしまったのです。
そして2節の最後には、「主はこれを聞かれた」とありました。先の11章の初めにも「主はこれを聞いて」とありました。自分自身が不満を鳴らしているつもりでいるけれども、主は聞いておられるのです。状況に不満を言う、また人を非難するなど、これは主ご自身の心を傷つける行為なのです。
12:4 そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ。」と言われたので、彼ら三人は出て行った。12:5 主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、12:6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。12:7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。12:8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
ミリヤムとアロンに対して、彼らに与えられる啓示とモーセに与えられる啓示の大きな違いを教えられました。不確かな、あやふな夢や幻ではなく、口と口で語り、主の姿を彼は仰ぎ見ている、と主は言われます。これは、物理的に見ていることではありません。以前、主の栄光を見たいとモーセが言ったところ、主は後姿のみをお見せになり、彼が見ることのないようにされました。ここでは、それだけ親しい、明らかな交わりをしている、ということです。
主はモーセのことを、「わたしのしもべ」と呼んでおられます。ここには主の自慢があるし、また主がモーセへの非難を個人的に受け止めたことの表れであります。イエス様も、弟子たちが世から憎まれたら、それはイエス様が憎まれているからだ、と言われました。個人的に受け止められるのです。
そしてなんでそのような霊的権威が付与されているかというと、7節に「わたしの全家を通じて忠実な者である」というところにあります。忠実な人には、神は管理するものを与えられます。私たちがたとえ小さな事だと思っていることでも、それに忠実になれば、自分ではなく、神が与えられる権威があるのです。
2B らい病の隔離 9−16
12:9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病にかかっていた。12:11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。12:12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」12:13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」
アロンが自分たちの愚かさに気づきました。モーセに神に癒しを求めるよう、頼んでいます。そしてすばらしいのはモーセです。彼はミリヤムからそのような非難を受けたにも関わらず、彼は彼女の癒しのために必死になって祈ったのです。何という柔和さでしょうか。また何という忠実な奉仕者でしょうか。彼は、どんな人に対しても忠実にその人のために祈ったのです。
12:14 しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」12:15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。
律法の中に、死刑ではないけれども、軽減された刑でつばきをかけられるということがあります。ミリヤムはらい病にかけられましたが、その刑は軽減されて七日間の隔離だけになりました。このことによって、神のしもべを非難するということがいかに主の宿営の中にふさわしくないかを教えたのです。そして、そのことをミリヤム本人だけでなく、イスラエルが七日間そこにいっしょに留まることによって、厳粛に受け止めたのです。
12:16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。
先ほど話しましたように、これでパランの荒野に到着しました。ここからカデシュ・バルネアはもうすぐです。そこに約束の地の入口があります。
いかがでししたでしょうか。私たちが教訓にしなければいけないことは、いくつかあります。私たちに主が変化を与えられる時に、荒野の旅のような変化を与えられる時に、私たちは不平を鳴らす危険があります。また、過去のことが恋しくなり、過去に戻りたいという欲望が生じる危険があります。そして、主から与えられた権威に逆らい、非難するという危険もあります。彼らが倒れたのは、私たちへの教訓のため、戒めのためであると、コリント第一10章に書いてあります。私たちが、心に細心の注意を払って守っていくべき事項です。