エジプト・イスラエル旅行記 − 8月12日その2
エルサレムからベツレヘムまでは、バスで20分ぐらいのところにあります。私が99年にイスラエルに来た後に、2000年にパレスチナによる連続自爆テロが起こり、それ以来、ベツレヘムに入ることさえ危険な時があったと聞いていました。けれども今回は行けるということで、私は本当に嬉しかったです。
分離壁
その自爆テロの消耗戦があってから、イスラエルに起こった大きな出来事はあの分離壁です。パレスチナ自治区からイスラエル領土内にテロリストが侵入するのを防ぐ目的で造られたわけですが、その目的通りの役目を果たしているようです。自爆テロは激減しました。その間にアラファト議長も死んだので、その減少に拍車をかけました。
けれども私はこの壁を見る心の準備をしていませんでした。実際に見たとき、驚き、そして悲しみました。以前は、検問所があって同じバスでそのままパレスチナ自治区内に入ることができました。途中にあるラケルの墓も見ることができました。けれども以前の面影がこの壁のせいで全く分かりません。あの喧騒な雰囲気が ― 検問所を越えて自治区に入ると人やごみが多くなること、イスラエル内に出稼ぎに行く人々の車の列、アッラーに祈りをささげる人々、物売り、ラケルの墓などが ― かえって懐かしくなるぐらい、あまりにも静かで、整頓されていました。
検問所のところにバスの駐車場があります。そこで以前は自治区内にそのまま入って、ガイドもそのまま入って生誕教会のことを説明していたのに、バスもガイドも、イスラエル、ユダヤ人関係はみな入れなくなりました。そしてイスラエル兵士がバスの中に入ってきたとき、私たちは自分たちの旅券を広げて見せて、自分がイスラエル人でないことを証明します。このように検査するのは、パレスチナ人ではなく、イスラエル人がパレスチナ自治区に入らないようにイスラエル側が規制しているためです。
つまり、まるで二つの国家に分離して、しかも互いに行き来できなくなったようになっています。ちょうど韓国と北朝鮮のように、外国人は入れても当人たちがかえって入ることができない状態です。アメリカ等、世界の国々は、パレスチナ国家樹立を目指して、さもこれが平和への道であるかのように唱っていますが、私にとっては悲劇にしか思えません。イスラエル国の支配下に自治区があり、比較的行き来の自由が与えられているほうが、イスラエル人だけでなくパレスチナの人々にとっても幸せなはずです。
私たちはパレスチナ側から来たバスに乗り換えました。そしてガイドも、パレスチナ人の方です。
ベツレヘムへ
中に入って、以前の風景をようやく思い出すことができました。同じChristmas
Treeというファラフェルのお店に入ったからです。ここで昼食です。以前は、若い青年のメンバーが、物売りの売っている物を店の中まで持ち込んで、しかもアラファトと同じようなスカーフをまといながら売っていたというジョークをやってくれましたが、今回はまじめで静かなメンバーです。
ここでいっしょのテーブルになったのは、どちらも歯医者というご夫婦でした。二人とも旅行が好きで、そして釣りも趣味らしく刺身がいかにおいしいかを話してくれました。印象的なのは歯が、モデルになりそうな、歯並びが良く白かったことです。さすが歯医者さんです。
そしてバスに再び乗り、ベツレヘム市の中を走りましたがどうみても閑散としています。昔の喧騒がありません。ガイドさんによると、みな生活難で海外に出ていってしまうそうです。出たら、もう二度と戻ってきません。そしてクリスチャンの人口比率は35パーセントで、イスラム教徒が65パーセントです。以前はほとんど全員がクリスチャンであったのに、本当に残念です。
私は、あの「神の密輸商人」の著者
ブラザー・アンドリューが書いた
"Light Force(光の力)"を読んで、パレスチナ人クリスチャンの窮状を知っていました。連続自爆テロが起こってからイスラエル軍による圧力が強くなり、そして何よりもパレスチナ自治区内のイスラムの力が強くなりました。それでますます、アラブ人クリスチャンの存在が小さくなっていることが書いてありました。今回の旅行でこのことを確認してしまった感じです。
聖誕教会(Church of Nativity)
そして聖誕教会に着きました。パレスチナ人のガイドさんは、英語が非常にきれいで、知識が豊富、そして何よりも神の御言葉をしっかりと信じている人でした。一つ一つ、この建物について詳しい説明をしてくださいました。
まず教会に入る手前で、聖誕にまつわる聖書的背景を話してくださいました(音声は
こちら)。
住民登録をするためにヨセフとマリヤはナザレからベツレヘムに下ってきたのですが、当時のベツレヘムは地上に小さい町で二、三百人しかいなかったそうです。どこも混雑していて、泊まる場所がありませんでした。砂漠ではなく洞窟でも寝泊りしていましたから、そこに泊まったらどうかと言われたのです。この場所は洞窟があるところでキリスト以前800年頃から知られていたそうです。
洞窟に入ったら既に人が泊まっていて、奥へ奥へ進んで、家畜がいるところまで来ました。家畜はたいてい洞窟の奥に追いやっていたみたいです。なぜなら入口付近にいたら、出入りに邪魔になるからです。
その時にマリヤの月が満ちて、子を産みました。ルカ2章7節には、「
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」とあります。この一語一語が大事です。日本語では「布(swaddling
cloths)」としかなっていませんが、英語のそれは赤ん坊の動きを抑える巻き布を意味する言葉であり、しかもこれは複数形になっています。当時、普通は一枚の巻き布を使っていましたが、それがなく複数の布を使ったということは、ヨセフの家族が経済的に低階層の人たちであったことが分かります。
そして「飼葉おけ」というのが大事ですが、家畜のえさを入れる桶に寝かせたわけです。おそらくわら等が敷かれていたでしょうから外気に当たるよりも暖かかったでしょうし、霊的にはキリストがいのちの「パン」としてお生まれになったことを示しています。
そして、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」というのも重要です。宿屋は旅人が使うものであり、一、二泊すれば出ていく所ですが、他のベツレヘムの定住者と同じようなところに泊まり、すぐに立ち去ったわけではありませんでした。
ローマがキリスト教に関するものを破壊しても、初代教会の人々や教父らはここが主のご降誕の場であることを知って、巡礼に来ていました。そこでここが主がお生まれになった所として伝えられています。
313年にコンスタンティヌスがローマを国教化してから、東西のクリスチャンが聖地やって来るようになり、彼の母ヘレナが三つの教会を建てました。聖墳墓教会と聖誕教会とオリーブ山にある昇天教会?です。・・・
この後は建物そのものの歴史を説明してくださいましたが、興味深いのはイスラムやペルシヤによる侵略の時もここが奇跡的に破壊されなかったことです。ペルシヤ軍が来た時は、東方の博士の絵を見て、「これは私たちの仲間だ」ということで破壊しなかったとのことです。現在はギリシア正教とアルメニア教会とフランシスコ会(カトリック)の教会が入っています。
そして屈まないと入れない小さな入口から建物の中に入ります。ところでガイドさんが、帽子を取ってくださいとおっしゃいましたが、カトリックなど伝統的教派の教会では帽子を取らなければならず、ユダヤ教の会堂やその他聖地では帽子をむしろ被らなければいけません。時々混乱して、教会内でも帽子を被ったままでいたことがありました。
中に入るとまず
ギリシア正教会の礼拝堂があります。床の一部が剥がされていますが、それは当時の教会にあったモザイクが見えるようにするためです。そしてその横壁には、
十字軍による装飾があります。天使がかがんでいる絵が並んでいますが、それは主がお生まれになった場所の方向を向いています。そして
正教会の聖壇の右側を廻って、その後ろに洞窟の一番奥の部分があります。それがご降誕の場所とのことです。中に入ると右側に
お生まれになった地点が、左側に
飼葉おけがあります。お生まれになった地点はダビデの星があり、その光の数が14あるのは、マタイ1章のイエス・キリストの系図が14世代ごとに分かれているからです。
そしてガイドさんは、「ちょうどここで、神が私たちと同じ人間になられた地点、着陸した地点です。ここで輪になって手を握って、キリストにある一つの家族として主の祈りをしましょう。」と言って、共に主の祈りをしました。
そして右側に
フランシスコ会の礼拝堂があります。ガイドさんによると、クリスマスの時、ベツレヘムのクリスマスの礼拝風景がテレビ中継されますが、この礼拝堂の様子が撮られているそうです。ここでデービッドが聖書的クリスマスについてのメッセージをしました。右の写真は、羊飼いがキリスト降誕の告知を受けた丘ですが、メッセージの音声はこの写真をクリックすると聞けます。(礼拝堂の中のため、少し声が響いていることをお許しください。)箇所はルカ2章1-14節です。
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
クリスマスについての言い伝えが数多くあります。第一に、「クリスマス」という名前さえも聖書的な用語ではありません。実は初代教会の信者は、「光の祭り」と呼ばれていたハヌカー祭を祝っていました。ハヌカーを代表する燭台の光は、イザヤ42章からメシヤを表していました。メシヤが異邦人の光となります(6節)。闇の中を歩んでいた者たちが光を見ました(イザヤ9:2)。真理は伝承と随分違いますね。
ヘレナ(コンスタンティヌスの母)は、聖書のことを知らなかったようです。自分でこれらのものを作り上げてしまいました。そしてこれらが伝承となったのです。イエス様は言われました。「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。(マルコ7:8)」
そして、ヨセフとマリヤがベツレヘムに来なければいけなかった理由から話しましょう。皇帝アウグストの勅令でした。紀元前30年にこの帝国が始まりました。ローマの全世界支配の時代でした。誰に対しても税を徴収したかったのですが、一番手こずったのはユダヤ人でした。そこでローマには彼らには厳しく対応しました。
ところで、「クレミオがシリヤの総督」というのはあり得ないと批評する人がいます。クレミオは確かに総督でしたが、キリスト生後のずっと後で総督になっています。けれどもギリシヤ語の原文には「総督」という地位として書かれておらず、動名詞になっています。「クレミオがシリヤを統べ率いていた」となっています。そして実際にクレミオが統べ治めていました。他の人が総督でクレミオが代理に統治していたのです。つまり聖書の記述は、伝承のいわゆる罠よりも、細部に至るまで正確だということです。
そして、動物がいた洞窟であったと伝えられています。そして動物が使っていた桶に寝かせられたと。けれども、ここの丘には、主がお生まれになったと考えられる洞窟は、いくつもあるのです。ここにもありますが、私は、主がおられた洞窟に大理石がたくさんあったとは思えません。
さらに、ヨセフとマリヤがここに来たのは、彼らがダビデの家系の者だからです。ダビデの町はベツレヘムです。「パンの家」という意味です。ヨセフは、ダビデの息子ソロモンの系列です。けれども、紀元前586年のバビロン捕囚の直前に、この系列は呪いを受けました。エコヌヤ王が、「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。(エレミヤ22:30)」と言われました、非常に邪悪だったからです。このために、イスラエルにとって神学問題だったわけです。メシヤがソロモンに至る王系の者でなければいけないのに、どうやってメシヤが輩出されるのか、ということです。
しかし神は永遠の昔から答えを持っておられました。ミリヤム ― これがマリヤの正しい名前です ― ミリヤムもダビデの家系の者であり、ダビデの息子ナタンの系列です(ルカ3:23‐38参照)。だから上の呪いを受けなくてよいのです。詩篇132篇11節によると、メシヤはダビデの身、つまり女から出る子でなければいけません。ミリヤムの胎からこの方は出てきました。
けれども彼女は結婚していませんでした。ヨセフはまだ許婚の彼女が身ごもった時、自分の子ではないことを知っていたので離縁しようと思っていたのです。
バビロン捕囚の前に、イザヤは幻を見ました。高く上げられた主の王座の幻であり、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」という叫び声がします。ウジヤ王にはヨタムという息子がいましたが、ウジヤが最期の15年間らい病で打たれていたので、ヨタムが共同統治をしていました。ヨタムに小さな子がいましたが、非常に悪者でした。アハズという名前です。アハズにはヒゼキヤという偉大な王になる子が生まれましたが。イザヤがアハズに語りました。アハズは、アッシリヤだけでも十分なのに、イスラエルとシリヤが攻めてくるなんて、もうこれで終わりだと思っていました。神は、「わたしから求めよ。そうすれば、あなたを救い出すしるしを与える。」と言われました。アハズは、「そんなことはしません。試みたりするのは嫌です。」と言いました。主は、「なら、わたし自身がしるしを与える。」と言われました。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:14)」
つまり言い換えれば、イスラエルが救われえる唯一の希望は、メシヤにあるということです。そして新約聖書マタイ伝でこの箇所「処女がみごもっている」が引用されています。なぜそんなに重要な箇所なんでしょう?ダビデ家系にある呪いの問題を、このことによって解決できるからです。
ヨセフもダビデ家系では?そうです、けれどもイエス様はヨセフの精子によって生まれたのではありません。まだ処女であったマリヤからお生まれになったのです。
ということは、イエス様はマリヤの遺伝子を受け継いでおられるのだ!と思われるでしょうか。今日皆さんが訪問したところ(注:つまり、ギリシヤ正教会もアルメニア教会もカトリックも)では信じられていることなのです。いいえ、これも嘘です。聖書は明確です、これは卵子が受精したことによらず受肉に拠ったのです。神は肉となって、私たちの間に宿られました。つまり、人々の間に住まわれる前にイエス様は既に存在しておられた、ということです。
「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)」この驚くべき奇蹟は、マリヤの無原罪懐胎の保証となるのでしょうか?いいえ、これは偽りの教えです。これは、祝福された、私たちの主イェシュアの無罪性を保証しているのです。この方には罪はなく、それゆえ私たちの罪を負うことがおできになったのです。
マリヤは罪人でした、聖書にも書いてあります。あのすばらしいマニフィカト(マリヤの賛歌)で、「わが救い主なる神を喜びたたえます。(ルカ1:47)」と彼女は言いました。
ここに来る度に私は、「頭の整理が必要だ」と感じるのです。マリヤは共同救済者ではありません。聖書は、マリヤに祈れと言っていません。メシヤから離れて希望はありません。この方こそ私たちの救い主であり、私たちの罪を処理してくださる唯一のお方です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」
最後にもう一つ。ベツレヘムに来る時「ミクダル・エデル」という標識があります。ミグダルは見張り台のことです。エデルは羊の群れのことです。ミカ書4章によると、メシヤはミグダル・エデルから来られるのです(8節)。そして5章に入ってもミグダル・エデルについて話していて、そして「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。(1節)」
なぜこれが重要なのでしょう?エルサレムで羊をささげる時、その羊はどこで生まれ、飼育のでしょうか?ここベツレヘムにおいてです。ちょっとこの谷を越えると、エルサレムです。過越のいえにえの羊は、傷も欠陥もあってはなりませんでした。聖書は、メシヤは「傷もなく汚れもない小羊(1ペテロ1:18)」と教えています。羊が生まれ飼育されたところが、メシヤがお生まれになった所なのです!そしてこれら羊がモリヤの山でほふられたのですが、メシヤが死なれた同じ所なのです。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:6)」
この後で、「イエス、あなたの名は、何よりもすばらしい。イマヌエル、主は私と、共にいる、いつまでも。」の賛美を歌いました。
それにしても、デービッドはやります!カトリック教会の礼拝堂の中で、カトリックの伝承に反して御言葉の真理を語りました。99年の旅では、カルメル山の修道院の屋上で、その修道院のバビロン宗教の由来を話しましたが、私はこの人はいったい何なんでしょう?と時々思います。御言葉の真理に関しては、人の顔色を一切見ない人です。エゼキエルに対する主の言葉を思い出します。「
わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。(3:9)」
そして外に出ると、再び先ほどのガイドさんが中庭に立っている男性の彫像について説明してくださいました。聖書を、当時の一般人が使っていたラテン語に翻訳したヒエロニムスの像です。いわゆるウルガタ聖書です。ずっと洞窟の中にこもって、翻訳していたとか。
でも、当時は一般人が使っていたでしょうが、それからカトリックはずっとこれを使って、一部の聖職者しか理解できない言葉にしてしまったんですよね。けれども、ずっと後で、同じく一般のドイツ人に理解できるように翻訳したのがあの宗教改革者ルターです。
Three Archesへ
この後、私たちはまたバスに戻りますが、実は一人の男の子に約束していました。1.5リットルの水を売っていたんですが、「後で買うからね」と言っていたのです。その約束を果たすと、「お父さん、売れたよ!」と言っているであろう喜びの声を上げていました。で、値段は1ドル。イスラエルの中で一番安く買った水です。しかも冷やされていました。メーカー名はJericho(エリコ)です。あそこもパレスチナ自治区の中にあるから、パレスチナ産の水というわけですね。
そして99年にも立ち寄った同じパレスチナ・クリスチャン経営のお店、Three
Archesに入りました。このお店にお金を落とすことによって、店員だけでなくその背後で働いている数多くのパレスチナ・クリスチャンを経済的に助けることになる、というのが主旨です。このようなことをしなければ、彼らはますますこの町から離れてしまうというのではないかという危機を、私も感じました。
けれども、夜に妻と話し合ったのですが、やはりこれは健全な状況ではないと思います。彼らが本当に自立しなければ、根本的な解決になりません。先ほど言及した、ブラザー・アンドリューのLight
Forceにも、この自立の問題が指摘されていました。本当は彼らこそムスリムに伝道する力を持つ教会を建て上げなければいけません。けれども、それはできないという恐れがあるようです。
再びエルサレムを散歩
ベツレヘムから帰って、ホテルで夕食、それからジョン、シャーリーご夫婦と近所を歩きました。ホテルの部屋で手で服を洗濯しているのだが、洗剤がもっと必要とのこと。私たちと同じことをしているな、と思いました。それで、ヨッパ通りの雑貨屋まで一緒に歩きました。ちなみに、お二人は私と同じようにイスラエルが好きになって、もうこれで四回目です。一回は自分の教会の旅行で来たようですが、残りの三回はみなデービッドの旅行です。
彼らの二回目の時の話をよく思い出します。何と、当時のイスラエル閣僚がデービッドたちが泊まっていたホテルの部屋のすぐそばで暗殺されて、デービッドが奥さん以外に第一の目撃者となりました(リンクつける)。その時もベツレヘムに行ったそうですが、その直後にイスラエル軍の戦車がベツレヘムに入ってきたそうです。イスラエルに行くのを恐がっている人は、「主が共におられる」ことを忘れないようにしましょう、必ず守ってくださいます!