エジプト・イスラエル旅行記 − 8月16日その1

 それでは8月16日の旅行記を書きたいと思います。これまでのエルサレム旅行で網羅できなかった部分を埋める日となります。主に、私たちの主の受難の道を辿ります。

1.シオンの山(屋上の間、ダビデの墓)
2.ベテスダの池(聖アン教会)
3.アントニア要塞(ピラトの官邸)
4.ビア・ドドローサ(十字架を担がれた道)
5.聖墳墓教会(磔、埋葬)
6.園の墓(ゴルゴダの丘、ヨセフの園の墓)
7.西壁トンネル


1.シオンの山
 シオンについては、私たちはすでに神殿の丘の南にあるオフィルの丘「ダビデの町」に行きました。そこが正確な意味でのシオンです。けれども、もう一つ「シオンの山」と呼ばれているところがあります。それは、今は南壁の外にあり、ヒノムの谷の北の丘がそう呼ばれています。実際、現在のエルサレムではこちらがシオンの丘と呼ばれています。12日の旅行記に掲載した地図をご覧ください。私たちが訪れたカヤパ邸(St. Peterと書いてあるところ)がその丘の上にありますね。そして今日、訪れるダビデの墓(David's Tomb)もそこにあります。ここがシオンの山(Mount Zion)と呼ばれているのです。

 なぜこうなってしまったのかと言いますと、ビザンチン時代、キリスト教が迫害の中から国教と認められて後、イスラエルの各地に巡礼、そして教会建設を行なっていきました。その時に彼らの聖書の解釈で、この丘がシオンであったと考えて「シオンの山」と呼ぶようになったのです。ヘロデ時代、つまりイエス様が地上におられた時代には「上町」と呼ばれていたところです。オフィルの丘がダビデの町、シオンであると分かってからもここがずっとシオンの丘と呼ばれ続けました。(エルサレムの模型の動画はこちらです。)

 ですから名称としては間違っているのですが、ヘロデ時代の時からここにダビデの墓(塔)がありました。ダビデは自分の町に葬られたことが聖書にありますから(1列王2:10)、遺骨はここにはないのですが、当時から伝承としてここに墓があったのです。このことに関して、私たちにとって聖書的に、霊的に非常に重要な出来事が起こりました。

 シオンの山を、現在のエルサレムの中で眺めている写真を見つけましたので、リンクします

 ところでこの旅行記を書いている間に、このリンク先"Near East Tourist Angency"が、非常に充実した聖地旅行サイトであることが分かりましたので、ここにご紹介しておきます。このサイトでは、この名称について混乱をさけるために、写真では、ダビデの町を「最初のエルサレム(Earliest Jerusalem)」、今のシオンの山を「ビザンチン時代のシオン山(Byzantine Mt.Zion)」と言い換えています。


屋上の間

 ところで、「屋上の間」という言葉を聞いた時に、何を思い出すでしょうか?「アッパールーム(Upper Room)」とかいうデボーションの小冊子もありますね、これは英訳聖書ですと、二つの出来事の中で出てきます。一つは最後の晩餐の部屋(日本語では、「二階の広間」とか訳されています)、もう一つは主の昇天後、使徒たちが集まって祈って、彼らに聖霊がお降になった部屋です(使徒1:13)。

 そして今、私たちはその部屋に行くことができます。建物そのものは十字軍による教会ですが、その歴史を遡ると初代ユダヤ人クリスチャンたちが会堂を建てていたという記録があるらしいです。そして非常に興味深いことに、同じ建物の一階に、今話した「ダビデの墓」があるのです。

 ヘロデ時代、エルサレムが祭りのために非常に多くの人々でいっぱいになる時期が三回ありました。律法によると、ユダヤ成年男子は、過越の祭り、五旬節、そして仮庵の祭には必ず参加することが主に命じられていました(出エジプト34:23)。ユダヤ人が離散の歴史を辿り始めてから、この三つの時節に世界中からのユダヤ人でこの町がいっぱいになったのです。

 主が十字架につけられたのは、過越の祭りの日です。最後の晩餐において、他の巡礼者と同じように、宿泊や、過越の食事をする時に一般のエルサレム住民の部屋を借りました。ルカ22章10節を見ると、「水がめを運んでいる男に会う」と主が弟子に言われています。イスラエル博物館のエルサレムの模型でガイドのドランが、このシオンの山は、クムランで地震が起こってから後にエルサレムに移り住んだエッセネ派の人が住んでいる、エルサレム南西の区だからエッセネ派の人ではないかと説明していました。このエッセネ派の人のものであろう部屋を借りて、聖餐にあずかったのです。

 そしてその五十日後、つまり五旬節の時、弟子たちが集まって、心を一つにして祈っていました。するとあの聖霊ご降臨の出来事が起こったのです。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:1-4)
 なぜ、彼らが語っていた外国の言葉をユダヤ人は聞き取ることができたのでしょうか?彼らは世界中から五旬節の祭りを祝うために来ていたからです。自分が住んでいる所で話している言葉を聞くことができたからです。

 そしてペテロは立ち上がって、御言葉を伝えました。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒2:24-32)
 ここに、「その墓は今日まで私たちのところにあります。」と言いましたね。彼らがいた広間の下にまさにダビデの墓があったから、彼はダビデについて語ったのです。2章33節以降も、ダビデと対比させてメシヤご自身がよみがえられ、そのメシヤをあなたがたは殺したのだと責めたのです。

 ペテロは非常に直感的な人であったと私は思います。目の前にある事柄を取り上げて、そこからキリストを宣べ伝えることができたからです。そして御言葉に精通していました。旧約聖書の預言をいろいろなところから引っ張ってきて、イエスがメシヤであることを力強く論証しました。三年ぐらい、主ご自身と共にいて、かつ復活の後に、主が聖書の初めから終わりまでご自身について書かれていることを教えられたのですから(ルカ24:44-45)。

 そしてダビデは、五旬節の時に覚えられる重要な人物です。ユダヤ教では、五旬節というとルツ記を思い出します。ルツが落穂拾いをしていたのは、大麦と小麦の刈り入れの時期です。小麦の初穂を主に捧げるのが五旬節であり、モアブ人ルツはユダ族ボアズと結婚してダビデの曾祖母になったのですから、ダビデが思い起こされるのです。

 ですからダビデの墓の周りにユダヤ人が集まり、かつダビデのことを思いながら集まっているのですから、ペテロの論証はどれほど力強いものか知れません。

 ところでデービッドは、ソ連時代、モスクワでレーニンの墓の前に列をなして待っているところで、現地ガイドに聞いたそうです。「なぜ死んだ人を見に、待たなければいけないのか。」と。「私が信奉している創始者は生き返ったんだけど。」と言ってから、イエス様のことを伝え、彼女は主を信じたとのことです。(その後、KGBによって捕まえられたとか。)似たような論証ですね。

 ここでデービッドの小メッセージがありました。(右の写真をクリックすると音声が始まります)

 始めに、使徒1章12節から14節まで、それから2章までを、注解を入れながら読みました。その注解の中では、例えば、1)異言のこと。コリントの人たちは外国の言葉ではなかった。使徒2章は本当に超自然的な出来事だった。2)パウロが12使徒の一人ではないこと(2:14)、3)ヨエルの預言についてについて話していました。

 ヨエルの預言は、「終わりの日にすべての人に、わたしの霊を注ぐ。」とありますが、これは異邦人を含みます。そして終わりの日は聖霊が降られたその日から始まり、大患難時代に至るその期間であります。その間何をしているか?ペテロがまさに行なっているように、キリストを宣べ伝えるのです。そしてイスラエルの民にも御霊が注がれますが、それは大患難の終わりの時です。

第一に、弟子たちは祈りました。神の視点からすると、私たちの霊的な弱さは祈り不足から来ます。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。(1サムエル12:23)」とある通りです。祈りは、新生した人がごく普通に行なうことです。習慣であり、息を吸ったり出したりすることです。すべてのことについて主にお話します。

けれども、ここで起こったことは祈りの結果ではありません。祈りに専念すれば、ここで起こったのと同じようなことを聖霊はしてくださると信じている人たちがいますが、ご聖霊は、主が来ると仰られたまさにその日に来られたのです。ルカ24章と使徒1章で、ご聖霊が「父の約束」によって来られたことが書かれています。主は、「もうひとりの助け主を遣わします。」と言われたから、ご聖霊が来られたのです。

ここに集まっていた120人の人たちは信者だったでしょうか?違う、という人たちがいます。なぜなら、聖霊が内に住んでおられなければ、その人は信者ではないからです(ローマ8:9)。

そして多くの人が、彼らは弟子だったから信者だったのだろう、と言いますがそれも違います。「弟子」というのは、ただ学んでいる人です。イエス様の弟子は、主が地上で働かれていた時は信者ではありませんでした。彼らは、主が復活されるまで信じなかったのです。

主がよみがえられたから、弟子たちに行なわれたことを覚えていますか?「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』(ヨハネ20:22)」多くのクリスチャンが、「聖霊を受けたのはその夜ではなく、50日後、五旬節の時だ。」と言います。けれどもはっきりさせましょう。主が息を吹きかけたら、宇宙ができました。同じ方が彼らに息を吹きかけたなら、何かを弟子たちは得たはずです!ここで彼らは救われたのです。人の子が引き渡され、異邦人によって十字架につけられ、三日目によみがえられるということを主は弟子たちに言われていましたが、今ここで彼らは信じたのです。トマスも八日後に主を信じました。

ですから、ここで彼らは聖霊を受けたのではありません。では何が起こったのか?「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)」ここで起こったのは、ご聖霊の力です。4章には、「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(31節)」この「大胆」というのは、法廷において自分は隠し立てするようなものはなく、自由に証言することができる、という意味があります。自分に隠れた動機がなく、キリストの福音を世界に宣べ伝え、力と自由をもって語れるというのはなんとすばらしいことでしょうか。「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。(マルコ13:11)

第二に、弟子たちはイスカリオテのユダに代わる使徒を考えていました。

第三に、いろいろな国語で神の大いなる御業を宣べていました。

第四に、ご聖霊の力は、ペテロや他の者たちが主を否んだのに、変えられたその証拠を示しています。数日後、彼らを捕えた時、ペテロとヨハネの大胆さに驚きました。「イエスといっしょにいたんだな。」との結論を出しました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」五旬節の日に、女や子どもは入れず三千人の男が主を知りました。

皆さんが真の信者であれば、ご聖霊が内に住んでおられます。けれども、内に住んでいられるということだけで、聖霊が力をもって上から臨まれているわけではないのです。御霊を消すことができます。自分の罪ある言葉や行動によってです。聖霊を悲しませます。そうではなく、私たちは聖霊に満たされて、自由に、大胆に、主イエス・キリストのすばらしい福音を伝えるのです。

 ここで最後に救いの招きを少し言及しました。

「イエスを信じりゃいんだろう。」と言ってきた人がいましたが、違いますよ!メキシコには数千の「イエス」という名前の人がいますが、彼らはあなたを救うことはできません。ここイスラエルの聖地に来た理由は、私たちを自由にする真理を知るためです。

 すでに信じている者は、今大変なところを通っていても、それを主にすべて投げ出すことを勧めました。そして御霊の歌をうたいました。

  御霊の注ぎ、今我に
  御霊の命、溢れ出る。
  清め、満たし、遣わしたまえ。
  御霊の注ぎ、今我に


ダビデの墓

 この後、私たちは一階に降りて、ダビデの墓を見ました。上はキリスト教の建物なのに一階は、ユダヤ教一色になります。墓の入口は男性と女性に分かれます。どちらも頭に被り物をしなければいけません。そして入る途中に、たくさんの本が本棚に並んでいました。今回はいませんでしたが、99年には墓の前で、体を前後に動かしながら祈祷書によって祈っている人がいました。


2.ベテスダの池(聖アン教会)

 そして私たちはバスに乗りました。次に行くのは、旧市街の東にあるベテスダの池です。私たちは、東壁に属する獅子門(あるいは聖ステパノ門)と呼ばれている門から入りました。


旧市街(日本語のウィキペディア)

 ここで旧市街の、特に門について、ちょっとご説明しましょう。こちらの地図をクリックして開いてみてください。

 現在の城壁の中を旧市街(The Old City)と呼びますが、これはオスマントルコの時代に建てられたものです。前にも話しましたように、ヘロデ時代の城壁と重なる部分もありますが、入り組んだり、あるいははみ出している部分もあります。

 旧市街の中は四つの地区に分かれています。ユダヤ人地区(Jewish Quarter)、アルメニア人地区(Armenian Quarter)、クリスチャン地区(Christian Quarter)、そしてムスリム地区(Muslim Quarter)です。アルメニアは古代キリスト教の一派です。そしてクリスチャン地区は、ギリシヤ正教やカトリックなどです。私たちはいわゆる福音派(Evangelical)と呼ばれる信仰を持っていますが、そのような団体が所有しているものは、エルサレム市内には極少です。だから「クリスチャン」という言葉が出てきても、私たちと同じだと考えない方がいいです。

 一度来られると分かりますが、900平方メートルという非常に小さい面積の中に、こじんまりといろいろなものが整えられて収まっている感じを受けます。狭い路地が張り巡らされ、まるで遊園地にある子供用の迷路のようです。その中に宗教も民族も全く違う人々が住んでおり、特に争うわけでもなく平穏に過ごしています。少し移動すると、まったく違う世界が広がります。ダビデが「エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。(詩篇122:3)」と歌った通りです。

 私たちが先ほどいたダビデの墓は、南壁の外側にあります。当時は、ヒノムの谷のところまで壁が伸びていたのですが、いわゆるシオンの丘は残してオスマントルコは壁を建ててしまいました。そこにある、旧市街への入口の門が「シオン門(Zion Gate)」と呼ばれます。この門の壁には弾痕がたくさん残っています。1967年の六日戦争の時、イスラエル軍とヨルダン軍の間で激しい戦闘が繰り広げられたからです。イスラエル軍がここから旧市街へ入り、エルサレムを取り返した記念すべき門です。

 そして南壁の右側、つまり東に進むと「糞門(Dung Gate)」があります。この名前の由来は、排泄物をこの門を通って捨てたからとか。この門は私たちが西壁に行く時によく使います。ユダヤ人地区にあり、西壁に一番行き来がしやすい所です。

 そして西側に飛びましょう。ところで嘆きの壁のことを「西壁」と呼んでいますが、これはあくまでもヘロデ時代の城壁で、かつ神殿の丘を囲む擁壁です。旧市街の西壁と混同しないでください。旧市街の西壁には、旧市街の中で一番開けている「ヨッパ門(Jaffa Gate)」があります。(11日の旅行記であるいたヨッパ通りのどん詰まりです。)ダビデの塔があり、たくさんホステルがあります。ここに、聖公会の「クライスト・チャーチ」があり、クライスト・チャーチにはホステルもあり、またメシアニックの書籍を並べている本屋もあります。

 今度は北に飛びます。北にも大きな門「ダマスコ門(Damascus Gate)」があります。この門から、後にパウロになるサウロがこの門を出て、クリスチャンを捕縛するためダマスコに向けて歩いた、とか聞きました。現在、ここはムスリム地区になっており、この門から入ると非常に賑わいのあるアラブ人の市場になっています。そして、ここのすぐそばに後で行く「園の墓」があります。

 そして東壁に戻ります。東壁には閉じている門があります。オリーブ山から見た「黄金門(Golden Gate)」です。ここからメシヤが来られるというユダヤ人の信仰を阻むため、当時のオスマントルコ(イスラム教徒)は、メシヤの入城を阻むために閉じて作ったとされています。目の前にはムスリムの墓地になっていますが、これも前に説明したように、死体に触れることで汚れると信じるユダヤ人のメシヤが、ここを通ることができないようにするためです。

 そしてこの黄金門の北、つまり上のほうに「獅子門」があります。また、ステパノを石打にして殺したと言い伝えられており「聖ステパノ門」とも呼ばれています。これは、神殿の丘の北側にあり、この門がかつてネヘミヤ記、そしてヨハネ5章に出てくる「羊の門」であり、神殿で捧げられる羊を洗っていたところで、1990年頃までこの門の外で羊の市場もありました。ここにベテスダの池があります。(音声による説明)

 またアントニア要塞もここにあります。ローマ軍が、神殿の敷地を北のほうから監視していたのですが、ここでイエス様が鞭打たれたのです。ベテスダの次に、ここも訪問します。では、エルサレムの町の模型で、ベテスダの池とアントニア要塞を確認してください。 → ここをクリック


ベテスダの池

 これまで私たちは、イスラエルにおいて、特にユダヤ人にとって「水」が不可欠のものであることを学びました。乾燥した気候ということだけでなく、生活用水以外にユダヤ教の儀式において必要だからです。クムランでは、彼らは毎日浸礼にあずかりましたが貯水槽を作りました。エルサレムには、祭りごとに数多くの巡礼者が来ます。そして神殿ですから、ミクバ(浸礼槽)だけでなく、犠牲の動物が流した血を洗浄する水も必要でした。そこで水源をいつも探し求めていたわけです。

 地形的に、エルサレムの町の北の方から神殿の丘の北のところを通ってケデロンの谷に流れる水がありました。これを堰き止めて貯めたのがベテスダの池の始まりです。イザヤ書7章3節には、アハズ王にイザヤが会った場所が「布さらし野への大路のそばにある上の池の水道の端」とあります。この「上の池」がベテスダの池です。さらに後に別の人がこの池にさらに南側に池を作りました。そのため、上のエルサレムの町の模型の写真では、二つの池があるわけです。

 ここの遺跡には、五つの回廊が見つかっています。ヨハネ5章に書いてある通りです。そして、日本語訳の聖書には抜けていますが、5章の四節に、「彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。」とあります。そのために、この池の回りに多くの病人がいたのです。ベテスダの名前は、「ベテ」=「家」で、スダの部分は「恵み」「慈しみ」の意味で、「慈しみの家」ということです。癒しに関わる池として有名でした。

 ここでデービッドが、ヨハネ5章1-16節から小メッセージを語りました。(メッセージの途中で、バックにアラブの歌が聞こえました。ムスリム地区にあるからです。写真をクリックしてください、音声が始まります。)

ヨハネの福音書で「ユダヤ人(the Jews)」と書かれてあるところを読むと、一般のユダヤ人ではなくユダヤ人の宗教指導者であることが分かります。この出来事は、イエス様と彼らとの敵対関係の始まりでした。安息日に癒されたからです。七つのことを話します。

第一に、この奇蹟の背後にある状況です。場所は「慈しみの家」です。スパのような癒し系の水でした。そして池そのものですが、彼には力がなく、水がかき回されたとき、自分を池の中に入れてくれる人がいませんでした。ここの「病人」はギリシヤ語では、まったく回復の力がない意味を持っています。大勢の人がそういう状態でした。ヤコブ書にも同じ言葉が使われています。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。(5:14-15)」肉体的に回復不能の人がそこにたくさんいました。

第二に、主がこの人に同情されました。38年間、誰に彼を池の中に押し入れてくれることもありませんでした。主は私たちの弱さに同情できないような方ではありません。

アメリカでベストセラーになり続けている本で、ラビが書いた本「良い人に悪いことが起こった時」という題名のものがあります。ヨブ記についてのものです。息子が老化症にかかっていました。彼はテレビに出て、息子のために祈ってくれと頼みました。けれども息子は死にました。彼はこう結論付けます。「癒す力があるのに、それをしない神は要らない。せめて、癒したいと思っているけれども、それをする能力がないのなら、自分のことを気にかけてくれてるだけましだ。」と。けれども、神が癒す力をお持ちであることを見失っているのです。

上の聖句にあるように、オリーブ油を塗って、回復不能の人が瞬時に癒されたのを見たことがあるのか?とお聞きになるかもしれません。答えは、あります。その一つですが、聖地旅行にいた時のことでした。両親はアルゼンチン人で娘さんが脊髄膜炎にかかっていました。末期の状態でした。医者が、「それ何なの?」と聞くので「オリーブ油です」と答えました。この医者の態度を見て、何だか分かりませんが「神様はこの子を直してくださる。」と思ったのです。「この人たちは私のしていることを疑っていますから、主よ、たった今、彼女を癒してください。」と声を出して祈りました。彼女は即座にベットから立ち上がり、「私は癒された」と言いました。

医者が怒っているので私は、「今、検査をしてください。」とお願いしました。脊髄膜炎の痕跡は全くありませんでした。

なんと、また同じ病院で、同じお医者さんにあったのです。今度はおじいさんが死に掛けています。お医者さんは立って見ています。おじいさんは、「たった今、神が私の命を取ってくださるように祈ってください。」と頼みました。私はためらいましたが、祈ったら、何と祈っている間に息を引き取ったのです。同じことが三回起こりました。

この病人が、「私を入れてくれる人がいません」と言いました。この言葉が私の耳に響きます。けれども主はこの人に憐れみを示されました。

第三に、主の命令は単純でした。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」主は、これが彼らの考える安息日を破っていることはご存知でした。実際は破っていません。ネヘミヤ記に、安息日に物を持ち運んで、売買をしてはいけないという戒めがありますが、それは商売をしてはいけないという戒めであり、何も運んではいけないということではありません。ですからここには、イエス様と、神から離れた似非の信心の対比です。

第四に、その結果この人は癒されました。彼らは、この人が38年間病人だったのに、主をほめたたえることもなく、小さい床を持ち歩いていたことで怒り狂ったのです。律法によれば、ろばが穴に落ちたら、取り出すことができます。あわれみの行ないです。この場所の名前は、「慈しみの家」です。

第五に、この人に対する主の促しは、「もう罪を犯してはなりません。」でした。この人の問題は、この病気に至らせた彼の罪の習慣だったのです。すべての病人が罪によるのでしょうか?いいえ。ヨハネ9章、生まれつきの盲人について主は、「神のわざが現れるためです。」と答えられました。反対に言うと、罪によって、病気になることはあるのです。パウロは、「あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。(1コリント11:30)」と言いました。

けれども病気だからといって罪を犯したのではありません。実にこのことを言ったパウロ自身が病気持ちでした。キリストの力が現れるために、私たちの弱さをほこりましょうと言いました。痛みの中でも耐えることができるように、その力が現れます。ヨブの話がそれです。彼は、主は与え、取られることを習いました。

ここから彼らは敵意を抱きました。問題は癒しでしょうか?いいえ、安息日に起こったからです。ですから宗教指導者らの間で、安息日が主ご自身よりも大事にされたのです。今日でも、ありえるでしょうか?宗教まがいのことを、今でも行ないえます。「私たちが滅び失せなかったのは、神のあわれみによる。」です。

そして私たちは、ここが終わったら、彼らがイエス様に何を行なったかを見ます。受け入れがたいことかもしれませんが、真理はあなたを自由にします。キリストは私たちのために苦しみを受けられたのです。

 こういう話を聞くと、ああ、初めの信仰に戻らなければいけないと感じました。主が行なわれたことは、今も同じことを行なわれるかもしれないという信仰です。そして、メッセージを聞いた後その遺跡を見ましたが、ものすごく深い部分もあり驚きました。


聖アン教会

 この後に、その池の目の前にある聖アン教会の中に入りました。ベテスダの池での出来事を記念するカトリックの教会ですが、デービッドはここの司祭の人と仲が良いようです。前回もそうでしたが、この教会でアカペラで賛美の歌をうたいました。その建物の構造のため、歌がエコーして全体に響き渡ります(音声)。


3.アントニア要塞

 ついに私たちは、主の受難の道を歩みます。12日には、主の最後の週、棕櫚の聖日から涙の場、ゲッセマネの園そしてカヤパ邸まで訪ねました。そしてそこからの道をそこで少し見ましたね。13日、エルサレム考古学公園にてその道からつながる西壁沿いの歩道を見ました。今晩、その西壁を地下まで掘っているトンネルでさらに見ます。そして神殿の丘の擁壁の北側まで来て、ここアントニア要塞に主が連れて来られます。
さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。(ヨハネ18:28)
 先ほどの「シオン門」を入ると、それがそのままビア・ドロローサ(十字架の道)になります。右側に、「エッケ・ホモ教会」があります。右の写真を見てください、正面にアーチがありますね。


それが伝承的に、ピラトがエッケ・ホモと言った所とされています。「エッケ・ホモ」とは、「さあ、この人です。(ヨハネ19:5)」とピラトが言ったその言葉から来ています。カトリックの修道院が運営する教会です。地下に、当時のローマの歩道があります。ここがまさに、ピラトの官邸だったところです。

 ヘロデが神殿を建てる時に、これをユダヤ人に手放しに引き渡しはしませんでした。神殿の丘で起こっていることを見張ることができるように、この北側が神殿の敷地よりも少し高くなっているので、ここに見張り台の建物を造ったのです。ここからだと敷地をすべて眺めることができます。ヘロデは、彼が親しくしていたマルコ・アントニウスにちなんで「アントニア要塞」と名づけました。

 ヘロデ大王が死に、イスラエルは息子三人の分割統治になりました。けれどもローマは、特にユダヤ地方を統治するヘロデが気に入らず、自ら直接、総督をここに送って監視を始めました。普段は地中海沿岸のカイザリヤに駐屯していましたが、過越の祭りのようなユダヤ人の民族意識が高まる時になると、騒乱を懼れて必ずエルサレムに来て、この要塞を拠点にしていました。

 今の旧市街の道より3メートル下に当時の場所があります。そこで、この教会の地下に、ギリシヤ語でリソストロトス(Lithostrotos)と呼ばれるところがあります。敷石の意味です。ピラトが裁判の席についたガバタ、そして囚人を兵士が打った所があります。(以上、ガイドによる説明の音声

 地下に降りると、その敷石の部屋が広がっています。手すりがあり長いすも並べられていますが、ここで主の苦しみを想い、礼拝を捧げられるようにするためです。私たちが来た時にも前にも後ろにも団体が来て、ここで賛美を歌ったりしていました。デービッドがここからまた聖書朗読と注解をします。マタイ27章1−31節です。(音声はこちら

今座っている所のすぐ横に、敷石に直線状の傷がついている所がありますが、これは戦車が通った跡です。そしてローマ兵が囚人を嘲弄した時に落書きした「王のゲーム」と呼ばれるものがあります。ここに来られる前に、主は既にカヤパ邸で鞭打ちを受けておられました。このゲームの落書きがあるので、正確な地点は分かりませんが、主がここでローマ兵から鞭打ちを受けられた可能性は大きいです。

ローマ人は9つの皮鞭を一つに括り、それに石や金属片を混ぜました。それゆえ鞭で背中を打つとき、肉を引きちぎります。鞭打ちの後、多くの人が死にました。これで十字架につけなくても良くなった理由にします。イエス様はこれにすべて耐えられました。

イエス様の顔はそこなわれて人のようではありませんでした(イザヤ52:14)。彼らは主を葦の棒で打ち、拳で殴り、イエス様は人々を癒された同じ方だと分からない程になりました。茨の冠を頭に押し込みました。そして、すでに鞭打たれているその体にさらに鞭を打ち込みました。ユダヤ人は39回と言う制限がありますが、ローマ人には制限がありません。

メルギブソンの「パッション」には、史実的に正しくないものが沢山ありますが、けれども非常に正確なものが一つ有り、それがまさに批評家たちがこの映画を批判した理由なのですが、鞭打ちなのです。

ティム・ラヘイ(「レフト・ビハインド」の著者。デービッドとも知り合い。)はメル・ギブソンに伝道しました。彼らは一緒に、ハヌカーの祭りを生み出したマカバイの反乱に関する映画を作製することになっていますが、実際出てくるかどうが分かりません。メルギブソンは、この鞭打ちと十字架の場面を撮影した時、感情的に引き裂かれてしまいました。十字架のイエス様に釘を打っているその手は、メルギブソンの手です。メルギブソンは熱心なカトリック教徒で、また非常に感情的な人です。アルコールや麻薬の問題がありますが、彼が行なったことには大きな意味があります。ティム・ラヘイに彼は言いました。「私が本当はこの十字架にかかっていなければいけなかったことを、皆に知らせたかった。」

主は、私たちのそむきの罪のために刺し通されました(イザヤ53:5)。この方には罪はありませんでした、多くの人がそう証言しました。そして、私たちの咎のために砕かれました。ここの言葉は、「さんざん殴りつける」という意味です。主がどのような顔立ちになっておられたか想像することすらできません。兵士が主を連打し、嘲弄し、唾を吐きかけます。

ピラトは、この血だらけの王を踊り場に連れて行き、「エッケ・ホモ」この人を見なさい、と言いました。この無残な姿を見れば「これで十分だ、バラバを十字架につけて彼は釈放して欲しい。」と言うことをピラトは期待していましたが、ユダヤ人指導者らは満足できませんでした。これらすべての事が預言の成就だったのです。

イザヤは言いました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(53:6)」これを皆さんにお伝えしたいのですが、この方は貴方のために死なれたのです。貴方の罪を取り除くのは、私の救い主の血以外には他には一切ありません。どんなに自分で頑張っても、私たちの義は不潔な着物のようなのです(イザヤ64:6)。

墓はこの方を閉じ込めておくことはできませんでした、主はよみがえられました。後で、私たちはこのお祝いをします。理解していただきたいのは、あなたが教会員であるとか宗教的理解で救われるのではなく、お救いになるのはイエス・キリストなのです。

「信仰があれば救われるんでしょ。」と言うかもしれません。けれどもはっきりさせたいのは、信仰があなたを救うのではないのです、イエス様が救われるのです。ここのベンチに皆さんが座るときに、このベンチがしっかりしているか確かめてから座った人はいませんでした。ベンチに対するあなたの信仰があなたを今支えているのではなく、ベンチが支えているのです。私たちがしていることではなく、イエス様がしてくださったことに私たちは信頼を置いているのです。

信仰と言うのは、何かふわふわしたものではなく、証拠があるのです。これが聖地旅行の目的ですが、証拠があるのです。これは空想話ではなく実際に起こったことなのです。

後で墓の洞穴を見ますが、家畜をそこに入れた形跡が一つもありません。それでそれが主の墓である確証にはなりませんが、ある家族がそれを墓のために取っておき、使わなかったということははっきりしています。他にも、そこには聖書が記録しているものがたくさんあります。園だったわけですが、ぶどう園の跡があります。昔のぶどうの酒ぶねがまだあります。250ガロン(約950リットル)の貯水庫もあり、このような貯水庫はエルサレムで三つしかありません。

そしてどくろの丘があります。実際にどくろの形をしています。通りに面していて、ここは石打の刑の場であったことは否定できない事実です。主は、そこで十字架刑に処せられたのです。パウロはガラテヤ書で、キリストが私たちを律法の呪いから贖いだされたと言いましたが、律法の中で最も呪われた死に方は、木にかけられることです(ガラテヤ3:13)。主は、最悪の呪いを受けられることによって、私たちを解放してくださいました。

けれども、なぜ二千年前の人が、二十一世紀に住む私の罪を贖うことができるのか、と聞かれるかもしれません。ちょっと拡大解釈ではないかと。第一に、聖書には、罪を犯す魂は死ぬ、とあります(エゼキエル18:4)。もし自分自身が罪を犯していたら、自分のために死ななければならないのであり、他の人の犠牲になることはできません。仮に完全な人がいたとしたら、その人が贖えるのは、他のたった一人です。けれどもその犠牲者がは神であれば、ご自分で造られた全ての人の命の代わりに、ご自分の無限の命を捧げることができます。これが福音なのです!「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。(2コリント5:18)

 最後に、「私たちの為に砕かれた」という歌をうたって終わりました。

 デービッドがメルギブソンの「パッション」について触れていましたが、以前、この映画の内容の解説詳しく行なわせていただきました。

 パッションの感想・解説
 (「2.ピラト官邸から十字架刑宣告まで」のところに詳しく説明しています。)

 さらに、メルギブソンは、次から行く「ビア・ドロローサ」に忠実に従って撮影しました、「3.十字架刑宣告から最後まで」もお読みください。


4.ビア・ドロローサ(日本語による説明)

 「ビア・ドロローサ」は、「悲しみの道」という意味のラテン語です。主がピラトによって十字架刑の判決を受けられてから、ご自分がつけられる十字架を背負い、ゴルゴダの丘、そして墓に葬られる所までの道を指してそう呼んでいます。

 現在、十字架刑の場所として主に二つの可能性が語られています。一つはこれから行く聖墳墓教会です。もう一つは「園の墓(ゴルドンのカルバリ)」です。聖墳墓教会は旧市街のクリスチャン地区にありますが、アントニア要塞からそこに行くビア・ドロローサ自体はムスリム地区を通ります。もう一つの園の丘は、旧市街の北壁のダマスコ門の向こうにあります。デービッドは、神殿の垂れ幕が上から下へ引き裂かれたのを目撃できる地点はオリーブの山しかなく、しかも十字架の木はオリーブの木に主がつけられたことが考えられるので、オリーブの山ではないかと言っています。けれども確証的なことは何も言えません。

 大事なのは、主がピラトの官邸において十字架刑の宣告をお受けになったこと。それからエルサレムの町の中を十字架をかつぎながら歩かれ、それから町の外、つまり城壁の外で十字架につけられたことです。
ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(ヘブル13:12)
 聖墳墓教会は今は城壁内にありますが、当時は外にありました。園の墓はもちろん城外にあります。皆さんがお持ちの聖書の最後のところに地図があると思いますが、それで「ゴルゴタ・カルバリ(聖墳墓教会)」と、「ゴルドンのカルバリ」をお探しください。

 またイスラエル博物館のエルサレムの町の模型の写真でも確認できます。

 1.「新町」− 右の真ん中辺り、城壁のすぐ外にあるのが「聖墳墓教会」、上の真ん中よりやや左にある窪みが「ゴルドンのカルバリ」
 2.「聖墳墓教会」 − 左下の窪みです。左上にあるのがアントニア要塞
 3.「園の墓」 − 手前に見えている岩でごつごつした部分がカルバリ、その先にある建物がアントニア要塞

 お分かりでしょうか、ですから主の十字架の道は3.によれば、アントニア要塞から北の方角に歩かれたであろうと考えられ、2.によれば西の方角に歩かれました。これから行くビア・ドロローサは2.の道です。正確な道筋ははっきりしませんが、大事なのは、聖書に書かれているこの道に記述を思い巡らせながら歩くことです。

 と言っても、ビア・ドロローサはこれを行なうことがかえって難しいところです。非常に狭い路地であり、その両側に巡礼者や観光客目当てのお店が立ち並んでいます。そして、そこはムスリム地区です。(聖墳墓教会自体はクリスチャン地区にありますが、行くまでの道はムスリム地区です。)ですからアラブ人たちの気性というか、やけに人懐っこく、時にしつこいです。そして人でごった返しているため、スリに遭わないように気をつけるのが、実際のところ精一杯です。

 さらに、ビア・ドロローサはあくまでも、カトリックの伝承に基づいて作られたものであり、聖書記述以外の出来事も記念しています。先ほど言及しましたメルギブソンのパッションを観れば、実際の主の十字架の道よりも、このカトリック版の受難の道を学ぶことができるほどです。合計14の留所がありますが、聖書引用のないところは純粋に伝承です。

第一留 イエス、死刑の宣告を受ける (マルコ15:1−20等)
第二留 イエス、十字架を担わされる (ヨハネ19:17)
第三留 イエス、初めて倒れる
第四留 イエス、母マリヤに会う
第五留 イエス、クレネのシモンの助力を受ける (マタイ27:32等)
第六留 イエス、ヴェロニカより布を受け取る
第七留 イエス、再び倒れる
第八留 イエス、エルサレムの婦人らを慰める (ルカ23:28)
第九留 イエス、三度目倒れる
第十留 イエス、布を剥がれる (ヨハネ19:13等)
第十一留 イエス、十字架に釘付けされる (ヨハネ20:25,27等)
第十二留 イエス、十字架に死す (マルコ15:37等)
第十三留 イエス、十字架より下ろされる (ヨハネ19:31-38)
第十四留 イエス、墓に葬られる (マタイ27:59-60等)

 ここを毎週金曜日の午後三時頃、カトリックのフランシスコ会が行列を組んで、各留所で立ち止まり祈りを捧げるそうです。

 次のサイトに、順番に写真がきれいに掲載されています。 → Biblewalks.com

 99年の旅行では、ここは良い印象を持っていませんでした(途中で、子供をびんたして叱っている人を見たりと・・・)。けれども、今回は妻と二人でエジプトに行って来たばかりです。ですから、同じアラブ人、同じムスリムの人たちが集まるこの場所が、エジプトの人たちより静かで、穏やかであることに気づきました。エジプトは、全身黒尽くめの服を着ていたりと本当にイスラーム!という強烈な印象が残っていますが、ここはイスラエルの中にあるからでしょうか、同じアラブ人でもこれだけ違うんだな、と二人で感じていました。

 後で聞いたら、トルコ旅行に行った人はイスタンブールの雰囲気に似てたでしょう?とガイドが聞いていました。オスマントルコが作ったこの旧市街ですから、それもそのはず、トルコのムスリム街の雰囲気が漂っていることを知りました。

 そして聖墳墓教会に到着する直前に、再びお店の中に入りました。今回の旅行で次の不満が出てきました・・・ショッピングのし過ぎです!私たちは聖地を見に来たのであって、お金を落とすために来たのではない、という気持ちになりました。このショッピングのため、見学地を一つ、二つ見損なっているのではないかと思いました。といっても、やはり暑さには適いません、このお店でジュースももらって、涼むことにしました。


5.聖墳墓教会(日本語の説明)

 上のビア・ドロローサの第十留以降は聖墳墓教会の中にあります。ここでデービッドは手前の道を左に行き、そこで一休みするようです。私たちがガイドと共に聖墳墓教会の前の広場に来ました。

 そこでヤコブさんが説明してくださいましたが、まずここをクリックしてください。これは、ビアドロローサの各留所を示した地図です。ちょうど第七留(Z)の辺り、商店がたくさんあるところがかつての城壁だったそうです。お店や教会の下にその痕跡があるそうです。だから当時の城壁からはもう出てきました。

 そして、第七留のところで私たちは左に曲がりましたが、もしゴルドンのカルバリが十字架の場所であったなら、そこを左ではなく右に曲がればそこに行く、とのことでした。なるほど!

 そして、ここは丘になっていました。十字架刑の目的の一つに見せしめにすることがありましたが、とても目立つ場所にあります。そして片面は27種類ぐらいの種類の石で出来ており、石切り場になっていました。それで窪みが出来ていましたが、そこの窪みが十字架刑に処せられた者たちの墓場になっていた、というのがカトリック版のゴルゴタです。

 第十留にて、兵士たちがイエス様の着物を分け、第十一留で主が十字架に釘付けにされ、第十二が十字架の場所そのものです。

 ここが紀元135年、ローマ皇帝ハドリアヌスがこの墳墓を崩し、平らにしてしまいました。彼は異教徒であり、ここに何があるか気に留めなかったそうです。

 200年後、皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を国教にしました。母へレナが聖地を巡礼しました。そしてここは記念しなければいけない、教会を建てなければいけないと言いました。

 ここは世界戦争の的になりました。イスラム教がここを破壊しましたが、後に十字軍がここを奪回しました。私たちが見ているのは、十字軍が再建したものです。200年前に中にある沢山のろうそくの一つによる出火し、改築したそうです。

 ここはたくさんの教派が管理しています。ほとんど再度宗教戦争が起こるのではないか?とヤコブさんは言いました。(以上の音声

 中に入ったら、すぐ右に曲がります。そこにある急な階段を上がると、右側と左側に聖壇があります。既に第十留所は教会の門の手前にありました。右側が第十一留所でありそこで主の体に十字架上で釘が打たれました。絵画があります。そして下のところにはアブラハムがイサクを捧げる絵が書かれていますが、お分かりですね、イサクは神の御子ご自身を指し示していたからです。

 そして左側は東方正教の祭壇で、実際に主が十字架につけられていた場所です。これが第十二留所です。祭壇の土台は石になっており、そして真ん中に祭壇があり中にしゃがんで入れるようになっています。そこにさらに小さな箱、祭壇があります。これはマリヤがそこに立ったとされる地点です。

 そして先ほど階段を上がってきた一階に下がります。教会の入口の正面に石があり、そこを触ったり接吻をする人が跡を絶ちません。十字架で死なれたイエス様を、その石で香油を塗った場所と考えられているからです。

 そしてなぜこの石が一階で、十字架の磔の場が二階にあるかと言いますと、先ほど話しましたようにここが石切り場の丘になっていたと考えられるからです。今でこそ建物の中にありますが、実際は磔の場は丘の上にあり高い所にありました。主の遺体を取り降ろし、麓で香油を塗ったと考えているからです。

 そしてこの石の後ろに、非常に最近かけられたモザイク絵画があります。大きく横に長いので、まず右側から。主が十字架からとり降ろされているその下に骸骨がありますね。これはアダムの死を意味しているそうです。アダムの死、つまり罪が入ったところに、罪なき方が贖いの死を遂げられたことを意味しています。そしてこれが真ん中の部分。主が取り降ろされて香油を塗っています。当時のユダヤ人は、洞窟の中に遺体を入れるだけであり、それが腐敗した後に遺骨を集めるため、腐敗臭を消すために香油を塗ることは必要なのです。それから左側に主が墓に運ばれる場面です。布にくるまれていますね。(以上の音声

 そして第十四留所に行きます。第十三はすでに第十一と十二の間にあったそうです。十四は実際のアリマタヤのヨセフの墓です。これを見ての通り、墓の形跡はまったく見られません。墓を聖堂そのものにして、建物で取り囲んでしまっているためです。しかも入口がいくつかります。諸教派が寄り集まっているからです。一番強いのは東方正教、そしてカトリックとアルメニア派が続き、コプト教会もあります。あの、エジプトで私たちが訪ねた博物館の教派です。(音声

 そしてその横に、黒くすすけた洞穴があります。これはアリマテヤのヨセフ自身の墓と考えられているところです。遺体を安置する穴はいくつかあり、その前で人々が哀悼できるもっと大きな穴があり、そこに私たちは立っていました(音声)。これが紀元一世紀のものであることは確かであるそうで、聖墳墓教会が真正な十字架の場所であると考える人が多いようです。

 ・・・ここまで読まれた方はいかがだったでしょうか?確かに実際の十字架の場所だったのかもしれませんが、ビア・ドロローサから始まって、どうしても主の死を思い巡らすことはできないです。装飾や儀式がこれだけ詰まっていますと、何も考えられなくなってしまいます。その反面、次に行く園の墓は、実際の場所ではないという人が多いですが、話を聞けば、かえって聖書通りに主の死、いや、そのよみがえりをお祝いできる、記念すべき所です。

 私たちは、この後、ファラフェルの昼食を取りました。お腹がまだ減っていないというのと、ちょっと節約もかねて一個を二人で分けようと思ったら、よく分からないのですが、エリサベツさんが私たちに一個おごってくれました。アメリカ人のメンバーは、野菜しか入っていないファラフェルではなく、もう一つお肉が入っているのを好んで食べます。沢山食べて、しかも太るのを食べますから、図体も大きくなるのは当然でしょう。

 昼食の後は、ムスリム地区で少しお買い物です。休んでいるデービッドの周りにメンバーが集まって、だべっています。