エジプト・イスラエル旅行記 − 8月15日その2

1.マサダ

2.エン・ゲディ(写真と説明)

 ユダの荒野、死海の西岸において、唯一、木々で生い茂っているオアシスが、ここエン・ゲディです。
 このエン・ゲディに関する主な聖書箇所は、サムエル記第一24章です。ダビデがサウルの手から逃れるために、ユダの荒野を歩き回っていましたが、ここを要害にして住んだと23章の最後に書いてあります。サウルはえり抜きの精鋭隊をなんと三千人も送ってダビデをくまなく探しましたが、何と、彼を見つけるどころか、彼に見つけられてしまいました。ダビデが隠れていた洞穴にサウル自身がやって来て、そこで一休みしたのです。

 これが神の導きでなくて何なのか、と思うのはダビデの部下たちだけではありません。エン・ゲディに来ると、至る所に、数多くの洞穴があります。こんなに沢山あるところに、ちょうどサウルがダビデのいるところに入ってきたのですから。

 そして、その導きを部下たちは、サウルに手を下す導きだと考えましたが、ダビデはそう考えませんでした。むしろ、サウルに手を出さない、ダビデの正しさと柔和さを示す機会だと考えたのです。このことについてデービッドがメッセージで詳しく話します。

 そして、このエン・ゲディにいる時にダビデが記した詩歌が、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたをしたいあえぎます。」で始まる詩篇42篇です。エン・ゲディの名前の意味は「鹿の泉」です。鹿を始め、様々な動植物を観察することができます。

 99年にここに来た時にも思ったのですが、ユダの荒野の中で渇ききっている喉を潤したい、その「慕い喘ぎ」が何であるかがここに来ると分かります。ダビデはこれを霊的な比喩とし、自分がエルサレムで民とともに主を賛美したあの時から離れてしまっている渇きを言い表しています。

 ここは、イスラエルの国定自然公園になっています。そして現地のイスラエル人にとって、ここは水遊びの場としての憩いの場になっています。水着姿で滝の方面から降りてくる人にたくさん出会いました。

 私たちは暑い日差しを避けて木陰に動き、デービッドがメッセージをしました。(音声はこちら

八つの要点を話します。第一に、サウルはわざわざ、エン・ゲディまでダビデを追いました。ユダの荒野を越えて来たのです。命を落とすかもしれない砂漠です。三千人を連れてきました。ダビデには六百人いました。困窮な者、負債のある者、不満のある者たちでしたが、イスラエルの偉大な人たちになっていきました。

第二に、サウルは、気づかずに、自分が害を被るところに自ら入っていったことです。神がすべてを掌握しておられます。ここを上がって行って、洞窟を見てください。こんなにたくさんあるのに、サウルが休んでいたところに、ダビデが隠れていたのです。

第三に、ダビデは、サウルの衣の一部を切り取って、自分の心を痛めました。ダビデは力ある戦士でしたが、柔らかい心を持っていました。詩篇で、ダビデが「心」について語っているところを読みますと、砕かれた心、慈しみの心、へりくだった心について話しています。ゴリヤテをやっつけ、獅子や熊を殺したこのダビデは、後に王になり、神に対する柔らかな心を抱いていたのです。どんなに能力があって、才能があったとしても、自分の心が神の前に正しくなっていることを忘れないでください。

第四に、ダビデは、サウルに手を出さない理由を部下に話します。「今が、手を下す時です。」と部下は言いましたが、「正しいことを行なう時が来た時に、手段を誤って目的を達成させてはいけない。」という原則があります。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

パウロのことを思い出しますが、アガポがやって来て帯で自分を縛り、「あなたがエルサレムに行けば、このようになるのです。」と言いました(使徒21:11参照)。パウロは、「なぜ私の心をくじくのですか。」と言いました。彼は、神の御心が自分の内に成ることを願ったのです。

ダビデは、「サウルは、主に油注がれた者だ」と言いました。つまり、上に立てられている権威者を、私たちがその人の生活の仕方が気に食わなくても、尊ばなければならないことを意味しています。お父さんやお母さんが、自分に良くしてくれなかったという人がいるかもしれませんが、それでもあなたの父であり母なのです。夫もそうです。

第五に、ダビデは何が起こったかサウルに宣言しました。

第六に、ダビデは、自分が脅威にはならないことをサウルに嘆願しました。「死んだ犬や蚤があなたを悩ましますか。」と聞きました。害を与えることはない、と。

第七に、サウルはすぐに、ダビデは神の心にかなう人であるとし、神が彼を王にすることを認めました。彼は知っていたのです。

サウルは、私たちの肉的な部分をよく表している人です。彼は背丈が他の人より高く、容姿も良かったのです。尊敬されるような人でした。すぐれた軍を王国に建て上げました。けれども、何でもない羊飼いの男の子が、自分のしたことよりさらに優れたことを行なったのです。彼はその日に、王はダビデになることを知ったのです。

最後に、サウルは、「私の家族を断たないでくれ。」と頼んで、ダビデは了解しました。メフィボシェテに対して後にダビデがしたことを思い出してください。どんな王でも必ず殺したはずの、前の王の子を自分の王子と同じように取り扱ったのです。

 そしてデービッドが最後に、面白い逸話を話してくれましたが、以前、水のほとりで詩篇42篇を読み、「谷川の流れを慕う鹿のように・・・」の歌をうたっていました。すると何と鹿がやってきて、そこに座るではありませんか。デービッドが祈ったら、少し首を垂れたそうです!さらに祈り終えると、立ち去ったそうです。ビデオに録画したのだから、嘘ではない!と笑いながら主張していました。

 今回のイスラエル旅行、そして今のサムエル記のデボーションで、ダビデの見方ががらっと変わりました。なんと神の前で、そして人々に対して柔らかい心を持っていたのだろうか、ということです。ダビデの座が永遠に堅く立つと神は彼に約束してくださいましたが、それもそのはず、彼の統治はまさに神の支配がくまなく広がっている、神の国をよく表していたからです。私たちの主がなぜ、「ダビデの子」と呼ばれたのかも納得が行きます。

 その反対がサウルです。彼は自尊心の塊でした。ダビデのことを読むと、自分にいかに自尊心があるか、神の前で心開いていない部分がどれだけあるか、嫌というほど示されます。今日のあらゆる葛藤、争いは、まさにこのプライドから来ていることがよく分かります。

 メッセージの後、滝を見るために私たちに与えられた時間はたった30分でした。でも、ぜひ妻にも見せたかったので、急いで登っていこうと言いました。滝はいくつかあります。その滝が落ちる下のところに水遊びをしている人たちがいます。2歳ぐらいの男の子は、全身裸で楽しんでいました。とても暑くて、非常に喉が渇きましたが、これも詩篇42篇を理解するためには良い機会でした。

 ユー・チューブで、エン・ゲディの動画が歌入りでありましたので、貼り付けました。"Nachal"というのは「小川」という意味です。エン・ゲディの川の一つである「ダビデの小川」を撮影したものです。


3.クムラン遺跡洞窟

 エン・ゲディからバスで移動、クムランで昼食を取り、ショッピングもあり、それから短くクムランツアーをしました。

 クムランについては既にイスラエル博物館のところで説明しましたが、ここには二つの遺跡があります。一つは、おそらくエッセネ派の人たちが共同生活と宗教活動を行なっていた所の遺跡、そしてすぐそばに数ある洞窟で、死海文書が発見されました。

 死海文書については、英語はもちろんのこと日本語でも数多くのサイトがあります。書籍も非常に多いようです。二つのサイトをご紹介します。

 1.死海文書(しかいもんじょ)に関するホームページ
 2.死海文書入門講座

 1.は本当に簡単に解説しているものです。2.は、カトリックの司祭で考古学者の方が開設しているもので、「入門講座」となっていますがかなり詳細に、専門的に書いておられます。

 死海文書そのものについてはもうイスラエル博物館訪問の旅行記で記しましたので、ここではクムランの遺跡についてお話したいと思います。

 時は紀元前二世紀から紀元70年頃までに遡ります。まさに新約聖書の背景になる時代です。ユダヤ教にいくつかの宗派がありましたが、パリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党、熱心党は新約聖書にも出てくるのでご存知かと思いますが、ヨセフスなど当時の人々の記述から「エッセネ派」という人たちもいました。ちなみに忘れていけないのは、キリスト教はパウロが異邦人に福音宣教を行ない、異邦人が主流の教会が建てられる前までは、他の宗派のようにユダヤ教の一派と考えられていました。「この道」とかまた「ナザレ派」と呼ばれています。

 エッセネ派は、おそらく、暦や清めの儀式等の神殿礼拝に関する律法の解釈の違いで、既存のユダヤ教の考えに反対し、神殿が汚されているとみなして、ユダヤ人共同体から離れ、このユダの荒野に移り住みました。その創始者は「正義の教師」と彼らの書き残した文書に残っていますが、彼が誰だかは分かっていません。

 「エッセネ」の意味は「敬虔」です。彼らは世俗から離れて生きることによって自らを聖く保つことを求め、そして今が終わりの時であるとみなしてメシヤの来臨を待ち望みました。そして前にも述べたように、光の子と暗闇の子に分かれ、光の子がメシヤが立てられる神の国の中に入るという、二極化の考えの中に生きていました。

 これはけれども、イエス様のお考えにはありませんでした。主が受肉されたのは、まさに「人々の間に住まわれる」ためでした。お生まれになった所が、住民登録でごった返しているベツレヘムで、しかも家畜の飼い葉桶の中であり、その生涯の終わりは、ローマのむごたらしい十字架で、大勢の人々に晒されていたのです。しかし、このような人間のどす黒い中にいながら、主は罪を一切犯されず、かえって周囲にいる人々を清められたのです。死海文書に関する書籍の中には、「正義の教師」がイエス様であると主張するものがありますが、ここにおいてイエス様の教えとエッセネ派の教えが根本的に違います。

 この点は、終わりの時に生きる私たちの姿勢でも同じです。今が終わりの時であり、光の子をメシヤが神の国に招き入れることは全くその通りですが、だからと言ってそれが人々から離れて生きていくことではありません。主は、普通の日常生活を送っている中で、一緒に働いている仲間の一人が取られ、もう一人が残されることをお話になっています(マタイ24:40-41)。メシヤが来臨される直前まで人々と一緒に生活していることを、主は教えられているのです。

 キリスト教の世界で言うなら、エッセネ派の人たちは修道院のような考えを持っていたわけですが、砂漠のクムランが、彼らにとって格好の場所であったことは何度かお話しました。この地域は本当に静かで、清らかな空気が流れています。もしかしたら私も、主から御声を聞いて日本に戻りなさいという言葉を聞かなければ、安易な霊的生活の場としてここを選ぶかもしれません。時々死海にでも入って温泉のごとく体を休めながら、砂漠の木陰に入って聖書を読んだら、何もその静思の時を邪魔するものはありません。でも主は、一人寂しい所に行かれただけでなく、群集の真中でお仕えになられました。主は、人々の中に私たちを遣わされる方です。

 彼らの共同生活は、祈りから始まり、祈りで終わりました。起きたらすぐに共同部屋に行き、朝の祈りを捧げます。そして共同で食事を取りますが、その前に全身水に浸かるミクバに入らなければいけません。自分が清められているからこそ、食事にあずかることができる。つまり祭司の務めと同じようにみなしていたのです。ちょうどキリスト教でいうなら、毎食が聖餐式のようなものです。

 当時のユダヤ人は浸礼の習慣がありましたが、エッセネ派はさらに、同じ共同体の一員にならなければ浸礼にあずかれないという規定がありました。これも、信仰告白を明確に行なって、教会員の手続きを取らなければ浸礼にあずかれないと考えるバプテスト教会の考えと似ていますね。

 そして朝食が終われば、共同生活を養うための仕事を行ないます。つまり農作業と牧畜です。初代教会と同じように、全ての財産は共同体ものであり、私的なものはありませんでした。

 そして夕食の前にも浸礼を受け、夕食の後には律法の学びの時間と祈りに当てます。この律法の学びが非常に大事だったようで、「律法を口ずさみ、あなたから離すな」というヨシュア1章の言葉を文字通り実行していたようです。

 そして写本を作成する特別な部屋があり、そこで羊皮紙の上に書き記しました。聖書、注解、また共同体の規則などがその対象です。

 ところで、ユダヤ人の写本の作業で有名なのは、その作業の厳しさです。一文字でも間違えたら、巻き物全体を変えてしまいます。主の御名を敬っているため、御名を書くための他の筆を用意しているらしく、また御名を書く前に浸礼を受けると聞いたことがあります。

 そして貯水槽もあります。これもマサダと同じく砂漠において、非常に重要な施設です。特に彼らは浸礼の儀式がありますから、水はたくさん使います。

 そして洞窟も見ましたが、なぜここに文書を入れたのか?おそらく、ローマによってエルサレムの神殿が破壊された後に、熱心党のように武力で抵抗するのではなく、一番大切な律法を隠すという行為に出たのではないかと言われています。(ガイドのヤコブさんの説明の音声はこちら


4. 死海遊泳

 クムランの見学を終えた私たちは、もう暑くてくたくたでした。ここでついに、死海に入ることができます。バスに乗って、死海の北側にある海水浴場に行きました。

 99年に入った時の死海に比べると、海の水が濁っていました。しかも、水が温かい、というか熱い部分もあります!これはまいった、と思いましたが、以前は味わえなかった泥パックができました。

 死海の紹介のサイト(例えば、上のイスラエルの公式サイト)などに行くと、泥パックの水着姿の人の写真が出てきますが、泥(・・・というか粘土状になっています)にミネラルがたくさん入っているため、肌にとても良いと言われます。入ると底がでこぼこになっていたのですが、それは他の人が既にほじくって、右の私みたいに体に泥を塗っているからです。

 死海に入る時のこつは、「泳ごうとせず、浮かぶこと」です。海に入ったら、そろそろ歩いて、適当なところでそのまま両足を前に上げます。そうしたら体全体がぶかっと浮かびます。左にいる妻も、浅瀬にいますが、座っているのではなく浮かんでいます。

 後日、死海の南側に行くとき、リゾート地にある死海に出会えます。そこではエメラルドグリーンの、私が以前見たきれいな色をしていました。

 そして私たちはエルサレムに帰りました。私は疲れて、ちょっとベットの上で横たわっているつもりがそのまま寝てしまったようで、目を覚ましたら午前2時半でした。そして実況の旅行記を書き始めて4時半ごろにまた寝て7時に起きました。時差ぼけがまだ直っていないのかもしれません。


安息日へ

 帰り、ユダの荒野を通ってエルサレムに近づいた時、パレスチナ自治区に入らないように道路はトンネルをくぐっていきました。非常に複雑ですね。そしてトンネルを出ると、そこは雪国・・・ではなくて、夕日に輝く黄金のエルサレムが一気に、一面に見えました!

 そして間もなくシャバット(安息日)です。正統派の人たちが、シナゴーグに行く途中なのでしょう、たくさん歩いていました。お店も閉まり始めています。安息日は日没から日没で数えるので(創世記の1章、「それで夕があり、朝があった」からユダヤ人の一日の数え方は日没を起点としています)、実際は金曜日の晩から始まります。

 今日はいつもより30分早く帰ってきました。ホテルの食事が、日没までに早く作り終えなければいけないからだそうです。困ったのは、エレベーター。

 99年に来た時には、ティベリヤのホテルはシャバット用とそうでないのと二つの昇降機がありました。シャバット用は各階に自動的に停まるものです。ところがこのクラウンホテル、シャバット用のライトが点いていないのにすべての階に停まります。しかも、一階置きに!私たちの階は跳ばされてしまいました。そして最上階に行ってから、降りる時に各階に停まります。これじゃやってられないと、私は一階上のところで降りて、階段で一階下がって自分の部屋に戻りました。とにかく、エルサレムのクラウンプラザはボロイです。どれだけ改築されるかが、楽しみです(?)。

 次回は、エルサレムの最後の日です。