エジプト・イスラエル旅行記 − 8月17日その1
16日は移動日です。これまでエルサレムのクラウンプラザに泊まり日々の行動をしていましたが、これからガリラヤ湖畔のティベリヤの町にあるホテルに泊まります。それと同時に、もちろん見る地域も変わります。これまではエルサレムとその周辺(ベツレヘム、エラの谷、死海地域)を旅しましたが、これからはガリラヤ地方(イズレエル平野、ガリラヤ湖周辺、ゴラン高原など)を見学します。
宣教の風が吹くガリラヤ
エルサレムの町をこれまでじっくり見てきたわけですが、もうそろそろ他の地域に行きたいなという気持ちが出てきました。もちろんまだまだ分からないことが多く、いつかまた来て、さらに見ていきたいと思っていますが、けれどもローマの空気も漂うガリラヤ地方に心が動き始めています。ちょうど新しい風に当たりたい気持ちです。
エルサレムには、当然、豊かなユダヤの歴史と文化、そして宗教があります。聖書の中では最も名前が頻繁に出てくる町がエルサレムであり、800以上もあります。神がご自分の計画の中で、この町を中心にしておられることは明らかであり、御名をこの町に置くことを約束されたのです。しかしながら、逆説的なことを神は歴史の中で起こされました。ご自分の子キリストがガリラヤ地方で育ち、そこを拠点にして活動されるようにされたのです。主はエルサレムに入られる時は、ユダヤ人指導者との確執を常に意識しなければなりませんでした。そこには自由な空気を感じることはできませんでした。主がよみがえられた後、ご自分はガリラヤで弟子たちに会うことを約束されました。宣教の風はエルサレムではなく、むしろガリラヤに吹いたのです。
この理由を知るのに鍵になる御言葉があります。イザヤの預言です。
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ書9:1-2)
アッシリヤが北イスラエルを滅ぼし、それから南ユダをも食い尽くそうとすることを話した後で、イザヤが上のように言いました。イスラエルの歴史の中で異邦人に虐げられ、その支配を受ける時代が北イスラエルから始まったのです。けれども、その苦しみのあった所に、異邦人の支配するガリラヤに(ガリラヤは北イスラエルの中にあります)、光を人々が見たという約束です。
主がこの地上に現われた時、ユダヤ人はローマという異邦人の国の中にいました。そして自分たちを直接支配していたのは、初代ローマ皇帝の後援者であるヘロデです。けれども、エルサレムにはユダヤ人の反骨精神が生きていました。俺たちは決してローマの圧制に屈服しないという気持ちが働いていましたが、ガリラヤは違います。ローマの影響を強く受けていました。ですから霊的に暗闇であったと言えます。
けれども、上の御言葉によると、神は、暗いところにかえって光を輝かせるというご計画を持っておられました。「
光はやみの中に輝いている。(ヨハネ1:5)」そして、「
罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)」とあるとおりです。」キリストの御霊は、社会的に、政治的に、そして霊的に希望が見出せないところで、宣教という形で強く働いてくださいます。
ということでガリラヤ地方に移動するのですが、元の旅程は、「カイザリヤ→カルメル山→ナザレ→ティベリヤ」でした。けれども今日は日曜日で、カルメル山の頂上にあるカトリックの修道院が休みのため入ることができないそうです。後日行くそうです。それで次のようになりました。
1.カイザリヤ
2.ツィポリ(セポォリス)
3.ガリラヤの舟展示館
シャロンの平原へ
ティベリヤはエルサレムの北東に位置しますが、バスは北西に向かいました。地中海沿岸にある遺跡の都市カイザリヤに行くためです。まず1号線に入り、テルアビブ方面に向かいます。まずイスラエル外務省のサイトにある
この地図を開いてください。
イスラエルの地形はほんの少し日本に似ていて、国の真ん中に山脈が走っています。南北に連なっていますが、そのためエルサレムは高い山々のところにあります。エルサレムをそのまま北上したとしたら、サマリヤ地域に入ります。今はヨルダン側西岸としてパレスチナ自治区になっているところです。エルサレムのように高い山ではありませんが、比較的、石が多くごつごつしたところです。さらに北上すると、その山脈を断ち切るかのように平野が東西に広がります。そこが「イズレエルの平原」と呼ばれているところです。後で行きますが、イスラエルで最も農業が発達している地域の一つです。そこにメギドやタボル山があります。
その平野でさらに北の方角を見ると、一帯が山々になっています。そこが「ガリラヤ」です。ナザレの町も遠くに眺めることができます。ただ「ガリラヤ地方」というと、サマリヤの北部全体を指し、地中海沿岸からイズレエル平原、そしてゴラン高原も含む一帯を指すこともあります。
そして私たちが向かっているのは、「シャロンの平原」と呼ばれているところです。そこは地中海沿岸地域で、南はテルアビブ、北はカルメル山のところまでに広がっている平野です。ここの土地が肥沃は柑橘類や葡萄などが主に栽培されているそうです。(参照:
イスラエル外務省 Geography of Israel 日本語)
テルアビブという町(日本語のウィキペディア)
まず、
ここをクリックして地図を開いてください。
エルサレム(Jerusalem 地図の右下)から1号線という幹線道路が東西に走っていることを、死海方面への旅行の時に話しましたが、これはベングリオン国際空港やテルアビブにつながっている、イスラエルで中心的な道路です。イスラエル旅行をする人なら必ず通ります。その1号線に独立戦争の時の戦車などを見ることが出来ます。そしてカイザリヤに行くには、以前はテルアビブ(Tel
Aviv-Jeffa))まで行き、海岸沿いの道を北上しなければいけなかったそうですが、今はその手前に、ちょうどカイザリヤ(Caesarea)に向かう北北西の方向で斜めに走る道路が出来ました。テルアビブ市内に入ったら、車の混雑などで時間が取られますが、これなら時間がかなり短縮できそうです。
ということでテルアビブの町には行きませんでしたが、バスの左側に町を遠くに眺めながら、ガイドが私たちにテルアビブについて説明してくれました。ユダヤ人がシオニズム運動でヨーロッパからここに帰還した時、内部はアラブ人の激しい抵抗があったため、主な都市は地中海沿いに興りました。その一つがテルアビブです。そのため、エルサレム旧市街に住むような宗教的ユダヤ人よりも近代的な世俗的ユダヤ人が多く住むところとなり、イスラエル建国後は産業が最も発達した町となりました。今は、先端技術産業で世界的にも有名です。人口はだいたい39万人でイスラエルの全人口の三分の一がそこに住み、ちょうど日本の東京のように働き口がそこに集中しています。
ところで、イスラエルの首都はエルサレムです。大使館のほとんどがテルアビブにあり、国際空港がテルアビブ近郊にあるので勘違いする人が多いですが、政府機関は私たちの泊まったクラウンプラザの辺りに集中していることをお話しました。アメリカでも金融や産業の中心はニューヨークですが、首都がワシントンDCにあるのと同じです。
ここで少し、イスラエルにあるユダヤ社会についてお話したいと思います。ユダヤ人がこの地に帰還する運動シオニズムは、特にユダヤ教を深く信奉しているわけではない云わば「世俗的ユダヤ人」が中心となって始めました。長い離散の歴史の中で、その国や地域に同化さえすれば迫害を避けることはできるという期待が、フランスのドレフェス事件をきっかけに不可能であることを悟ったテオドール・ヘルツェルが、ユダヤ人の国家を持たなければいけないという構想を抱きました。
もともと離散のユダヤ人は、その地で共同体を築き、多様な考えを発展させました。あの有名な精神分析の父フロイトも、共産主義の父マルクスもユダヤ人です。その反面、自分がメシヤであると自称するラビもおり、私が99年にテルアビブの
離散博物館を訪れた時、この思想の幅の大きさには驚きました。共通しているのは、良きにしろ悪しきにしろ人間の学問、科学、医学、文学、経済などで際立った成果を残していることです。こうした世俗的なユダヤ人がいる反面、ユダヤ教を信奉する宗教的ユダヤ人もいるわけです。しかも、離散の地域がヨーロッパ出身の人もおれば、中東や北アフリカ地域から戻ってきた人もいます。このため文化や習慣の違い、また多数派、少数派の違いが生じ、しばしば確執や問題をイスラエル国内で引き起こす原因となっています。
さらにイスラエル・アラブ人もいます。アラブ人と言ったら、パレスチナ難民だと思ったら間違いです。イスラエル人の約20パーセントは民族的にアラブ人です。クネセット(国会)にもアラブ人の政党もあり代表議員もいます。独立戦争(1948年)で自分たちの土地を離れなかった人々(また、離れても国外に出て行かなかった人々)は、新しいイスラエル国家から国籍がそのまま与えられました。そしてそのアラブ人の全てがイスラム教徒ではなくキリスト教徒もいます。キリスト教のゆかりの地で「クリスチャン」と言ったら、大抵アラブ人クリスチャンです。そしてドルーズ教という別の宗教を信じている人もアラブ人の中にはおり、これまた多様です。
アメリカであれば民族的な違いだけですが、イスラエルは同じ民族間でも宗教の区分があり、さらにアラブ人はパレスチナ人とイスラエル人がおり、本当に複雑で多種多様なのです。(参照:
イスラエル外務省 People)
それでテルアビブの町の話に戻りますが、私がデービッドに「なぜ今回はテルアビブに行かないのか。」と聞いたら、逆に「なぜ行きたいのか。観るものがないのに。」と聞かれてしまいました。そして彼が言うに、テルアビブは世界で最も不道徳な五大都市の一つであるそうです。同性愛、売春の数、中絶など、本当に酷いらしいです。彼らがみなユダヤ人なのですから驚きましたが、よく考えれてみれば聖書通りなのです。イスラエルに対して主は、異邦人と同じならわしを行なっていることを何度も何度も、預言者を通して明らかにし戒められましたが、それは昔だけのことではなくまさに今の問題なのです。そして終わりの日には、エルサレムが「ソドムやエジプト」と呼ばれますが(黙示11:8)。ただ今のところ、エルサレムは世界で最も道徳的な五大都市の一つだそうです。この両極端の町二つが車で一時間以内のところに存在します。
しかしこのテルアビブで、宣教の働きをしている牧師の話を聞いたことがあります。彼はアメリカのラスベガス(そこは「罪の町」と呼ばれています)や、サンフランシスコ(同性愛で有名)に住んだことがあるが、テルアビブはそれ以上に世俗的であることを話していました。そして神がなぜ自分を、ガリラヤのようにきれいな景色のところに遣わされず、よりによってテルアビブに遣わされたなのかと考えたこともあるそうです
(でも私が見るに、テルアビブは地中海も街並みもきれいで文句なしでしたが)。けれども、福音を語れば人々がどんどん主を信じていくとのこと!ユダヤ人だけど、罪人や遊女、取税人がイエス様のところに集まってきたのと同じですね。「ユダヤ人はかたくな」という固定観念を壊すような、すばらしい主の働きがテルアビブで起こっています。
ですから、やはり神のパラドックス(逆説)があるのです。暗闇であるからこそ、福音の光が入っていきます。
そして北上しているバスの右側には、分離フェンスがあったり、イスラエル・アラブ人の町があったりしました。ガイドによると、いわゆる「パレスチナ国家」が起こりアラブ人がパレスチナ人とイスラエル人の選択が与えられたら、イスラエル・アラブ人は誰一人、国籍を捨てることはないだろうとのことです。そこまで断言できるのは、経済的な理由です。自分たちの働き口はイスラエルでしか見つけられないことを彼らが一番良く知っているからだそうです。
1.カイザリヤ
そうこうしているうちに、カイザリヤに着きました。海岸近くにはきれいな家々が並んでいます。またゴルフ場も見えました。ここら辺はゴルフでも有名な場所らしいです。
99年の旅では、初日にここカイザリヤを訪れました。コバルトブルーのきれいな地中海沿岸に、白色に輝く遺跡群が鮮やかにそして大きく広がっていたので、とても感動しました。もう9年経ちましたがその素晴らしさは衰えることなく、むしろ遺跡発掘によって観る所がさらに増え、拡大しています。(上の題名のリンク先を開いてみてください、とてもきれいです。)
カイザリヤは、ヘロデ大王によって立てられたローマの港湾都市です。彼は、彼の建築事業は、エルサレムの神殿やマサダなどとてつもないものばかりですが、カイザリヤもその一つです。防波堤を800メートル沖に、水圧で硬化するコンクリートを流し込むことによって建てるという、当時は考え付きもしなかった事業を成し遂げました。船は、その防波堤の入口から入って停泊するわけですが、その入口の正面の岸には、ヘロデが自分の保護者であるローマの初代皇帝アウグスト(聖書ではルカ2:1に登場)に捧げた宮があります。この町の名前そのものが、「カエザル」つまりローマ皇帝に捧げるものでありました。その他、岬になっている宮殿とそのプール、競馬場、円形劇場などが既に発掘されています。
この町は急速に発達し3.7平方キロメートルの大きさのこの町に、12万5千人はいたのではないかと言われています。そしてここがローマの
ユダヤ属州の州都となりました。ヘロデ大王が死んだ後に、ローマが直轄し
地方総督を置きました。ポンテオ・ピラトもその一人です。普段はこの町に駐在し、エルサレムでユダヤ人の祭りがある時などに、アントニア要塞に動いたのです。
まさにここはローマの町であり、偶像礼拝と遊興と不道徳がみなぎっていました。けれどもエルサレムからかなり離れているので、とりあえず秩序は保つことができたようです。
この
ヘロデという人物、いったい何者なのでしょうか?彼は紀元前73年に生まれ紀元前4年に死にましたが、もともとエドム人を先祖とするイドマヤ人です。イドマヤ人はユダヤ教に改宗していましたが、ユダヤ人からは蔑まれていました。ローマが帝政期へと入る混乱に乗じて、始めは
マルクス・アントニウス、次にオクタウィアヌス(
アウグスト)にひたすら媚を売りながら、ユダヤ属州の国主にのし上がりました。そしてその建築事業によって、彼は皇帝から好かれるようになります。
このような時代背景の中に、私たちの主がお現れになりました。すべての人物が主に関わっています。アウグストによる住民登録の令によって主はベツレヘムでお生まれになりました。そしてヘロデ大王は、この子を殺そうとしました。そしてピラトは、主に対して十字架刑を宣告しました。
そして初代教会は、この都市に深く関わっています。エルサレムから、ユダヤ、サマリヤに御言葉が広がっていく時、このカイザリヤで、あのローマ人百人隊長のコルネリウスが異邦人として主を信じました。そのため教会は、異邦人も含むキリストの御体であることが明らかにされました。伝道者ピリポもここを拠点としました。そしてあの使徒パウロは、ここで留置され、ここから囚人としてローマに向かったのです。そして新約聖書時代以後も、ここはキリスト教の拠点として発達しました。
私はこのカイザリヤを見るときに、日本にある教会を思います。あるいは大都市にある教会のことを考えます。新宿歌舞伎町の近辺に大きな教会がいくつかありますね。また韓国ソウルでは、教会の青年会の子たちが、夜の繁華街が朝になると道に若者たちが吐いたものがあちらこちらにあるので、それを掃除する奉仕を始めたので、お店の人たちの信頼を勝ち得たという話も聞いたことがあります。このようにキリストの教会は、この世の栄華、偶像礼拝、道徳の退廃のど真ん中で堅く建てられ、成長し、輝き、そして伝播していくものなんだということを確認します。
デービッドが、カイザリヤの背景と、聖書からのメッセージを行ないました。(音声は
こちらです)
ここのカイザリヤは、イスラエルの北端の町ピリポ・カイザリヤと区別するために、マリティマ・カイザリヤと呼ばれています。「マリティマ」は「海沿いの」という意味です。
オクタウィアヌスとマルク・アントニウスとヘロデは学友でしたが、ヘロデはあまり好かれていませんでした。けれども、彼の壮大な建築事業によって、気に入られるようになりました。46年かかったエルサレムの神殿改築だけでなく、このとてつもない場所もそうです。
ヘロデの政治的才覚は、25歳でガリラヤの国主になったところに現れています。そしてこの港を皇帝アウグストのために造りました。おそらく、自分を彼から害を受けないよう守るためだと思われます。
紀元前31年にローマ帝国が始まりました。誰もオクタウィヌスが初代皇帝になると思っていませんでした。初期の皇帝16人のうち14人が同性愛者でしたが、彼もその一人でした。彼は、平和のための壮大な計画を立てました。「パックス・ロマーナ」と呼ばれるものです。つまり全世界がローマによる平和の下に入る、ということです。それを帝国全土に、ローマ街道を張り巡らすことによって行ないました。
さらに、リングアフランカつまり異民族間の共通言語を推進しました。彼らが選んだのがギリシヤ語です。新約聖書はギリシヤ語で書かれ、福音はローマ人の道を使って全ローマに広がりました。「
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。(新共同訳
ガラテヤ4:4)」とあるとおりです。
この港町は22年から9年までに建てられました。ヨセフスによると164エーカー(663675平方メートル)あったそうです。まだ全てを発掘できていません。
ここは、ローマの地方総督と行政の本拠地となりました。ローマは全ユダヤを紀元前6年に併合しました。この港町を持っていれば、この地域で何が起こっても力で押さえつけることができると思ったからです。けれども紀元66年にユダヤ人の反乱が、まさにこの場所で起こりました。ユダヤ人を過小評価していたのです。
ユダヤ人の反乱は、皇帝ヴェスパシアヌスによって鎮圧されました。ここカイザリヤで2万人以上のユダヤ人を虐殺しました。そこでローマはヴェスパシアヌスを皇帝と69年に宣言し、その司令官であるティトスが70年にエルサレムを破壊しました。
カイザリヤは当時のパレスチナ、つまりイスラエルの首都となりました。そしてそれが、イスラムの侵略まで続きました。600年間、首都だったのです。
ここ、海に面している円形野外劇場は4500人の観客を収容できました。けれども競馬場はもっと大きくて、3万8千人の客席があります。だから大きな都市だったのです。
そして知られていない事実ですが、ここはキリスト教学術の中心になりました。そうですここはローマの植民都市です。罠や危険、誘惑がたくさんあったでしょう。けれどもキリスト教学術の世界的中心となったのです。7世紀にイスラム教徒がここに来るまでに、キリスト教の図書館がここにありました。3万以上の蔵書です。もちろん印刷技術は当時ありません。
ここでキリスト教の普及に力を入れていたのは、教会史の中で有名なエウセビオスです。彼が記した教会史を私たちは今でも使っているのです。初めの数世紀を正確に記録したものです。このカイザリヤの初代監督エウセビオスは非常に優れた人物で、コンスタンティヌスの主な議官だったのです。彼が、1万2千人もの兵士を剣でもって、一日のうちに洗礼を受けさせました。ローマ帝国全体をキリスト教にしたのです。もちろんその改宗は強制的なものであり、今から見ると最悪の出来事だったのですが。これは4世紀のことです。
そしてここでのギリシヤ語の本文、カエサレア写本またはビザンチン写本と呼ばれますが、英欽定訳聖書の主な定本になっています。19世紀の終わりまで、ずっとこの写本が使われていましたが、その時に大きな変化が起こりました。今は大英博物館にあり、東方正教の修道院で見つかったシナイ写本と、バチカンが固持しているバチカン写本が表に出てきました。20世紀は、聖書翻訳の世紀と呼ばれます。そしてこれが大きな問題になりました。彼らは、英欽定訳の背後にある証拠を捨ててしまいました。新米標準訳(New
American Standard)、新国際訳(New International)などがあります。
けれども問題があって、シナイ写本には新約聖書の半分が抜けているのです。残りは埋め合わせをしています。バチカン写本はヘブル書9章14節で終わっています。数年前、患難後期携挙説を取る人と黙示録のことで討論したことがありますが、新国際訳から引用しました。新約聖書で最も正確に訳されているもの、と彼が言いました。私の番が来て、「彼の論拠であるはずのシナイ写本には黙示録自体がないのに、正確な翻訳と言うことは難しいです。」と言いました。言うまでもなくその討論では私が勝ちましたが。
5,60年の間に聖書が拡散したのですが、その基本にある考えは聖書販売なのです。そして聖書箇所について自分たちが言いたいことを言うことができる、という考えがあるのです。無いですよ!ですから、ここカイザリヤが、神の御言葉の権威と信頼性に対して全身全霊を注いだ場所であることを覚えていなければいけません。
聖書では、ここで何が起こったのでしょうか?5つの要点で話したいと思います。
一つ目は、コルネリオの回心です。使徒10章です。彼はローマ人で、イタリヤ人でもあり、百人隊長でした。この隊長の下に百人の兵士がいたということですが、百人隊長はローマが持っていた最強の戦闘兵器でした。戦闘の時、百人隊長は記章や勲章を取り除きました。誰が指揮官であるか敵に知られないようにするためです。聖書は、私たちの主イエス様について述べる時に、このことを話しました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6-7)」この「ご自分を無にして」が、記章を取り除く言葉なのです。
二つ目は、伝道者ピリポがここに来たことです。使徒8章と21章です。彼には四人の娘がいましたが、いわば名説教者でした。
三つ目は、ヘロデ・アグリッパ一世がここで死んだことです。「ヘロデ」といっても大王のことではありません。ここ円形野外劇場で起こりました。使徒12章にあります。彼は尊大な素振りでそこに来て、神に栄光を帰さなかったので、その場で倒れ、虫にかまれて死にました。
四つ目は、エルサレムで起こった危険によって、パウロがここカイザリヤに連れて来られたことです。使徒23,24章またそれ以降に書いてあります。彼は二年間監獄にいましたが、それが海の下のところで見つかったと言われています。
彼がどうやってここから出てこられたかと言いますと、パウロはローマ市民だったからです。今のトルコ南部にあるタルソで育ちました。ローマ市民だったのでカエザルに上訴する権利がありました。それで彼はローマに行くことができたのです。
カエザルに上訴しなければ、行けなかったのです。主がパウロを呼んで、「わたしの名を、王の前で語る。」と言われていました(使徒9:15)。彼は確かに語りました。カイザリヤでもそうでした。
五つ目は、パウロが三人の人物と対峙したことです。一人はアントニウス・ペリクスです。次にポルキオ・フェストです。そして三人目はアグリッパ(ヘロデ・アグリッパ二世のこと)です。
そして最後に使徒26章32節を読みます。「またアグリッパはフェストに、『この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに。』と言った。」とあります。そしてパウロが引き渡された人は、ユリアスという人で再び百人隊長です。そして彼は親衛隊の百人隊長です。神はパウロにずっと前から、彼が、ローマ皇帝の親衛隊で語るように準備してくださっていたのです。ピリピ4章22節に、「聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。」とあります。
私が大学生の時ローマ史を専攻しましたが、その時の皇帝はネロでした。彼は自分の妻、母、妻の母、そして親族数人を、彼らがキリスト教に入信したということで殺しました。パウロは、親衛隊によって鎖につながれていましたが、ピリピ書1章でパウロは、「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり・・・ (13節)」と言いました。
どうやって親衛隊の全員に知られるようになったのでしょうか。エペソ書にその手がかりがあります。ピリピ書を彼が書いた時、コロサイ書、エペソ書、ピレモン書を書きました。これが第一回目のローマでの投獄で、第二回目の時はテモテ第二を書きました。彼は四時間毎に交替するローマ兵に繋がれていました。利き手は自由にさせられて、逆の手が兵士と鎖につながれていました。兵士は、囚人に絶対に話しかけてはいけません。さもないと自分が殺されます。四時間ずっと、話しやめることのないパウロに兵士がつながれていたのです!
エペソ6章に、ローマ兵の武具一式があります。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力・・・」とパウロが彼らに説教していたのです。兵士は、「どうしよう、とんでもないことになった。」と思ったことでしょう、けれどもパウロは、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」「信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者の放つ火矢を、みな消すことができるのです。」今すぐにでもその場を離れたいと彼らは思ったことでしょう。親衛隊の着替え所でどんな会話が交わされていたか想像してみてください。「あのユダヤ人のところにはもう行ったかい?」「ベラベラのべつ幕なしにしゃべるぜ。」兜の赤く出ているのを見ながら、「救いのかぶとをかぶりなさい。その赤は血を表している。」
彼は間違いなく、ローマ兵たちを主に導いていたでしょう。そしてそれがカエザルの宮廷内に広がり、そしてカエザルの家族の中にも浸透したのです。神は、高い位に着いている人々に届くためにパウロを用いられたのです。それを行なわれるために、パウロをここカイザリヤで投獄させたのです。そして夜に、主がパウロに、「勇気を出しなさい。あなたにはわたしの計画がある。(使徒23:11参照)」と言われたのです。主が今、あなたを置かれているところについて心配しないでください。
新約聖書の本文批評
以上ですが、この中での聖書写本の話はご理解いただけたでしょうか?旧約聖書の写本については既に、マソラ本文や死海写本のところでお話しましたが、今デービッドが話しているのは新約聖書の方です。
ユダヤ人の写本にほとんど相違点がないのに対して、ギリシヤ語の写本にはかなり異なった面があります。特に、シナイ写本とバチカン写本を基にして編集したものを定本にしているのが、近年翻訳した聖書です。日本で主に出版されているものは全て、これになっています。私たちがこの大きな違いについて気づいたのは、チャック・スミス牧師の説教を日本語に翻訳していた時のことです。彼がある箇所を基にして話しているのに、それが新改訳の聖書には存在していないのです。
例えばヨハネによる福音書5章4節を、新改訳の聖書で探してみてください。・・・ないのです!3節から5節に飛んでいます。下の欄に、「異本に三節後半、四節として、次の一部または全部を含むものがある。」と但し書きがあり、そこに訳があります。章や節を聖書に振った時は英欽定訳と同じ定本、ビザンチン写本を基にしたものですが、新改訳はそれを「異本」と呼んで、本文の中に掲載さえしていません。
他にも、有名な「姦淫の現場で捕えられた女」の話がヨハネ8章にありますね。この話も実はないのですが、さすがにそれを下の欄に置くには長すぎるので、次の説明を入れています。「古い写本のほとんど全部が7:53-8:11を欠いている。この部分を含む異本も相互間の相違が大きい。」とあります。つまり、この女の話は確かではない話としているのです。
さらにマルコ伝16章を見てください。主の復活の記録・・・のはずですが、8節「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とありますが、その後は本当は欠いてるのです!主が弟子たちに現れ、宣教命令を出されたところがないのです。
他にもまだまだ沢山あります。もしそんなに標準本文(Textus
Receptus、ビザンチン写本を基にしているもの)が嫌なのならすべて取り除いて出版してみればいいんじゃないのか、と思いますが、そこまでの勇気はないのでしょう。それだけ信用ならぬ写本だという意見を、アメリカではよく聞きます。
その反面、シナイ・バチカン写本の信憑性を主張する人たちもいて、そのためアメリカでは大論争になっています。特にあまりにも英訳の聖書がたくさん出版される今、嫌気が差すほどみたいです。日本ではなぜか、ビザンチン写本を支持するような声を聞いたことがありません。他の面でも、同じ福音派なのにアメリカと日本ではかなり温度差があります。
この本文批評の論争について、チャックが言及している部分がありますので、カルバリーチャペルのサイトの翻訳ページのJapaneseのMarkを開いて読んでみて下さい。(calvarychapel.comからリンク先を付ける) ずっと下まで行って16章のところに書いてあります。ところで「本文批評」とは、別に聖書を批判するという意味ではなく、数ある写本を比較して、原本には何が書いてあったかを推測していく学問のことを言います。
思うに、ギリシヤ語にはこんなに違いがあるのに対して、旧約聖書の写本筆記にほとんど相違点がないののは、ユダヤ人の恐ろしいまでの御言葉に対する拘りがあったからだと思います。写本の前に洗いの全身浸礼をして、主の御名が出てきたら筆を変えるとか・・・やはり彼らは選ばれた民です(ローマ3:2)。
遺跡見物
デービッドのメッセージが終わった後、遺跡見物をしました。ドランが
カイザリヤ全体の模型でその位置を確かめながら、説明を聞きました。それからここで見つけたローマの彫刻を見ました。
どれも頭がありませんが、イスラムがここを征服した時に、偶像礼拝を粉砕するために頭を打ち砕きました。そして
野外劇場に移りました。ここは今もコンサートで使われています。そしてパウロは、ここからアグリッパに対して弁明(証言)をしたと考えられます。ただ二世紀に再建されたものらしく、もともとのものはもっと大きかったそうです。
カイザリヤには、この劇場の他に円形演技場と競馬場があり、円形演技場はまだ発掘できていないそうです。私はてっきり、この劇場が円形演技場だと思っていましたが、まだあったとは・・・驚きです。(以上の
音声)
そしてヘロデがカイザリヤの石を地中海のほかの都市から運搬してきたことと、ギリシヤ式の棺おけの遺跡を見て、今度は
ヘロデの宮殿を観にいきました。多くは海に埋まっていますが、
手前のプールがあったところは見えています。そしてそこから右手(北側)に競馬場がありますが、観客席が発掘され、明らかにされています。ただ、もう片方は海に沈んでしまっているようです。そして競馬場のさらに向こう側に塔がありますがそれは十字軍時代のものですが、その塔の向こう側に港がありました。(ここまでの
音声)
そして99年の時も見ましたが、
ポンテオ・ピラトの名前が記されている石の複製です。現物はイスラエル博物館にあるそうです。見つけたのは野外劇場を発掘しているときでした。壊れた石の中に見つけたそうです。
この石によって、ピラトが存在していたことが聖書通りであることが証明されました。
この後、短い時間、自由行動になりました。私が感動したのは、パウロが総督フェストまたヘロデ・アグリッパ二世の前で弁明した実際の地点を見たときです。
「もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」(使徒25:11)
するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(使徒26:28-29)
そして地中海の海岸線を歩きましたが、その遺跡群に囲まれるように
海では若者たちが水遊びをしています。そして端まで来たら、今度は引き返してその
競技場の客席の上を歩きながら戻りました。その左(東側)にはまだまだ発掘が進んでいくんだろうなと感じさせるような遺跡があります。ジョンが私に、「私たちが第一回目に来たときは、この競技場無かったでしょ?」と聞きました。・・・あっそうだそうだ、こんなのありませんでした。今回分かったのは、1)カイザリヤが相当大きな町だったこと、2)このように整然と発掘現場を観光客に公開しているが、まだまだ発掘が完成しておらず進行形であること、です。
ここで時間になりました、バスに戻ります。でも乗ったらすぐにまた降ります。
ローマの導水橋を見るためです。これはカイザリヤにカルメル山脈方面から水を持ってくるためです。ここは海水浴場になっていました。二千年前の遺跡と隣り合わせに海水浴をするのですから、そして先ほど見た野外劇場も今のコンサートに使っているのですから、なんとも不思議です。水遊びに私たちもでかけましたが、足だけ入りました。バスに戻ったら、運転手さんが砂を取ってくれとのことで、取るのに苦労しました。