エジプト・イスラエル旅行記 − 8月17日その2

これまでの旅程
 1.カイザリヤ


イズレエルの谷

 まずここをクリックして地図を開いてください。

 カイザリヤ(Caesarea)からバスは北上し、そして右に曲がりました。沿岸部の平地は途中で、カルメル山脈に遮られ、その山脈をくぐるようにして東へ進みました。地図ですと、おそらく70号線を走ったのでしょう。本当はカルメル山(Mt.Carmel)に近いので、この日にカルメル山に行く予定でしたが、「その1」でお話したとおりです。修道院が日曜日は閉館だというのは初めから分かっていたと思うんですが・・・

 すると、一気に平野が広がりました!これがイズレエルの谷です。(地図にはYizrael Valleyとなっています。ちなみにこの地図、イスラエルの旅行社が出したものなので、通常の英語表記ではなく、おそらくヘブル語からそのまま発音どおりにアルファベットで書いているのだと思われます。)イズレエルの谷については後日再び訪れるので、聖書的な背景はその時に詳しくお話ししたいと思います。

 今は、ここがイスラエル最大の農耕地であることをお話したいと思います。「緑のかご(Green Basket)」と呼ばれています。前にも話したとおり、国内だけでなく主にヨーロッパに農作物を輸出しています。ヨーロッパの地域は寒いので冬は、イスラエルからの輸入品に頼っているわけです。ところで、ヨーロッパとは、いろいろな意味でイスラエルは深いつながりがありますね。ローマからの離散の地は主にヨーロッパでしたから、シオニズムもヨーロッパのユダヤ人が始めたものだし、ヨーロッパ諸国のあらゆる国と飛行機の直行便でつながっています。それに比べると、日本やアジア諸国とはまだまだ遠い国です。

 そして、この農業を支えている主な組織は「キブツ」です。これまでも旅行記の中にキブツという言葉が出てきたので、これは何かな?と思われた方がおられると思います。「ギブツ」という名前はヘブル語で「集団・集合」という意味で、集産共同体です。一緒に暮らし、一緒に耕し、私有の財産は持たないという社会主義的な共同体です。これはシオニズムと深い関係があり、ロシアから帰還した若い青年たちが、社会主義の理想を掲げ、また荒れたイスラエルの地を緑にするという夢を掲げて始めたものです。そして、これが今に至るまで続いています。ここ20年間でかなりその中身が変わってしまい、賃金や外からの雇用も多く行なっているそうですが、それでも、これがイスラエルの農地と経済の一部を支えてきたと言うことができます。

 これはガリラヤ湖畔で始まり、今では先ほどのシャロン平原、そしてこのイズレエル平原、それからネゲブ砂漠を中心にあります。・・・そうです「砂漠」にもあり、というかネゲブ砂漠がもっとも生産量が実は多いのです。砂漠を緑にするという高い理想を掲げていたのがイスラエル建国時の首相ベン・グリオンであり、キブツで生活をし、家をネゲブに持っていたのです。

 そして、キブツは海外からのボランティア制度を持っています。ですから、いろいろな国からの人と会うことができ、知っている人の間では非常に魅力的な所となっています。日本でも、キブツ体験制度を旅行社が担っています。興味のある方は一度考えてみてはいかがでしょう?

 社会主義と言うと、もう失敗してしまった制度という印象を私たちは持っていると思います。純粋に社会主義を貫いて経済発展をし、豊かになっている国はただ一つもありません。これは破綻した制度であることは間違いなのですが、けれどもイスラエルに限っては違うようです。99年にはガイドが「強制的か、自発的かの違い」を指摘していました。そして私自身で調べてみましたが、その集団体制は自分たちの個々の共同体の中だけの話で、共同体自体は自由経済の中で自分たちの作物を売っているそうです。そして、組織内では民主制が活発で、全ての人に投票権が与えられ代表者を選び、また個々人はイスラエルの国政選挙にも参加しています。もちろん、イスラエル国そのものは民主主義国家であり、計画経済を国としては行なっていないというのもあります。

 けれども私が思うに、いくら社会主義的な考えを持ち、いくら彼らが非宗教的だとしても、やはり彼らが神様のご計画から離れることはできなかった、というのが一番大きな理由なのではないかと思います。なぜ「イスラエル」の地を、「荒野から緑」に変えたいなんて思うのか・・・。そんな発想は当然社会主義から出てきません。そして、自発的な制度、自由経済の中の共同体という、思想的に極端に陥らなかったところも聖書の考えと符号しています。私の妻が、このことについてエッセイを詳しく書いているので読んでみてください。→ 「土地への愛

 ということで、私たちはイズレエル平原の中を東に走りましたが、左側(つまり北)にはガリラヤがあります。そこは「下ガリラヤ(Lower Galilee)」と呼ばれているところで、ガイドが「あそこがナザレだ」と指さしてくれました。ガリラヤ湖より北の部分が「上ガリラヤ」と呼ばれていますが、後日、ゴラン高原を見にいく帰りにそこを通ります。そして、私たちがいるところから南はサマリヤ(今はパレスチナ自治区の西岸)です。このパレスチナ自治区への道とガリラヤへの道があり、そして東西に走っている道路が交差する町が、アフラ(Afula)というところです。確か99年にも来たことがあると思います。ここで昼食です。

 この町で豚を飼育していると聞きました。汚れないように(もちろん衛生面ではなく食物規定として)、飼育している床を地面より少し上げていると前に聞いたことがあります。ハムやソーセージがメニューにありました。ジョン・シャーリーご夫妻とテーブルを共にしたのですが、彼らはハンバーガーを注文。何と二人で約2500円です!しかも、見た目にまずそう。案の定、彼らは半分以上を残してしまいました。僕は、「旅行する時は現地の特産を食べるのが一番良く、アメリカに行く時はピザとハンバーガーに期待している」と言ったら、苦笑いしておられました。

 イスラエルで肉を食べるなら鶏、そして野菜と果物、ヨーグルトをたくさん食べる。またファーストフードはファラフェルに尽きる・・・・というのが妻と私が達した結論です。


2.ツィポリ(セポォリス)

 そして私たちは北上し、ナザレから北6キロのところにあるツィポリに向かいました。そういえば、このイズレエル平原とガリラヤの間で、紀元一世紀の墓が道端にありました。バスは少し停車して、私たちは写真を取ることができました。園の墓にあるのと似ていますね。ただ、園の墓のほうには転がす石がありませんでしたが、こちらにはあります。あと、大きさも園の墓のほうが大きそうです。とにかく、イスラエルは道端にも遺跡があるという・・・考古学の宝庫ですね。

 っで、ツィポリ(Tzippori, Sepphoris)とはいったいどんな所なのでしょう?聖書で聞いたことがない地名だな、と思われた方が多いと思います。私も99年にここを訪れるまで、全然知りませんでした。けれどもイエス様が地上におられた当時は、その逆でした。主がお育ちになったナザレは、地域の人もどこか知らなかったほどの無名の町で、ツィポリはガリラヤ地方全体の中央都市だったのです。先ほどはローマのユダヤ属州の首都を見学しましたが、これからガリラヤの首都を見学するのです。

 ツィポリから私たちは三つのことを学ぶことが出来ます。1)イエス様が少年・青年時代を過ごされた時の環境、2)当時のガリラヤ全体の雰囲気、そして3)現代ユダヤ教の成り立ち、です。

 歴史をひも解きますと、まずハスモン朝(ギリシヤ時代のユダヤ人の王朝)がここに町を造りました。その後ヘロデが来ます。彼が死ぬと、元々反骨精神の強かったガリラヤ地方のユダヤ人の農奴たちは反乱を起こします。けれどもローマによって町が破壊されます。ヘロデの息子ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主になり、ここを首都し、再建しました。それからこの町が栄え始めます。

 ここの住民には一つの特徴がありました。エルサレムや死海地方の熱心党やエッセネ派とは違い、ローマの支配下にいながら生き延びるという知恵がありました。ユダヤ人の反乱が66年に始まりましたが、この町は皇帝ウェスパシアヌスに、自分たちは反乱に加わらない旨を伝えました。そのためこの町はまったく被害を受けませんでした。この町から皇帝を尊んだ硬貨が発掘されましたが、「平和の町」という銘記があるそうです。農奴たちは山々に逃げ、それをあのヨセフスが率いていましたが、劣勢になった時に彼はローマに降伏し、それ以来、ローマの下で動きました。

 そして、旅行記にはこれまで書いていませんでしたが、132年にバル・コクバ反乱があり、それがユダヤ人の最後の反乱でした。この時もツィポリは被害を免れました。以前の反乱の時に平和条約を結んでいたからです。この時のローマ皇帝ハドリアヌスは怒って、割礼を禁じました。それで敬虔なユダヤ教徒が避難民として北上してこの地域に住み始めたのです。

 そこで紀元200年以降、ここはユダヤ教の本拠地となりました。18のシナゴーグがあったそうです。それから、ここで現代ユダヤ教の基になるミシュナが編纂されました。書かれた律法トーラに対して、その律法に違反しないように解釈した口伝律法を書面化させたのです。この中にあの食物規定の拡大解釈、「肉製品と乳製品をいっしょに食べてはならない」という規定があります。かつてのユダヤ教は神殿礼拝を中心に廻っていましたが、それが破壊された後はラビ的な律法解釈に基づく、シナゴーグ礼拝になっています。

 話はずれますが、こうした非常に律法主義的で、排他的で、孤立的な彼らの信仰体系と礼拝は大きな問題を持っているのですが、その反面、ユダヤ人がユダヤ人として生き延びることができる知恵として、神はご自分の主権の中で用いられました。私の知り合いの日本人で、娘さんがユダヤ人と結婚している方がいます。アメリカのユダヤ人ではなくイスラエルのユダヤ人で、しかもご両親が正統派ユダヤ教徒です。しかもヨーロッパではなく中東イエメンからの帰還民であり、もう本当にこちこちのユダヤ教徒と言ってよいでしょう。(イエメンの帰還民については、生まれてから一度も見たことのない飛行機を、鷲の翼だと信じて(出19:4)帰ってきた有名ながあります。)このご両親が日本にいらっしゃったそうです。彼らは食事を一緒に取らず、イスラエルから持ってきたラビ認証付きの食べ物を食べておられたそうです。私は、「でもレビ記11章の食物規定でも大丈夫な日本食はあるでしょうに。」と言いましたが、ラビ認証でなければならないようで一緒には食べてくれなかったそうです。お母さんはとても寂しそうでした。

 これがまさに異邦人とユダヤ人の隔ての壁になっているパウロが言った「敵意(エペソ2:15)」です。いっしょに食事を共にするという交わりと平和の象徴を持てないようにする壁であり、これを破棄するために主は来てくださいました(ガラテヤ2:11-13も参照)。けれども同時に、もしこの壁がなければ、彼らは離散の地において簡単に現地の人々に同化し、ユダヤ人のアイデンティティー(正体性)が失われていたことでしょう。ユダヤ人は今や、いろんな皮膚の色、いろいろな顔つきになってしまいましたが、それでもDNA鑑定によると聖書時代のイスラエル人に遡ることができるというのですから、まさに神の奇蹟です。レビ記11章の食物規定の目的を、主は、イスラエルを聖なるものとするため、他の民族から別つためであると言われました(45節)が、それを現代にも私たちは見ることができます。

 そして話を戻します。このようにツィポリは、ユダヤ教の本拠地となりました。けれどもここはローマの町です。これから遺跡を見ますが、それらはローマのモザイクが非常に美しい、豊かな町であったことを髣髴させます。(左の写真はその一つで「ガリラヤのモナリザ」と呼ばれるもので、ツィポリの象徴です。)つまり異邦人もおり、かつユダヤ人がたくさんおり、特に争うこともせず共存していていたことがこの町の一番大きな特徴です。

 ツィポリは363年に破壊しました。ローマによる鎮圧ではなく大地震によってです。その後すぐ再建し、再び同じように異教徒ローマ人とユダヤ人が共存する町に戻りました。今度は、キリスト教徒がここで教会を建てるのも歓迎しました。その後、イスラム教によって破壊され十字軍が奪還し、ここにいくつか建物を建て、その後は廃れました。(・・・イスラエルに来ると、ビザンチン以降はこのパターンですね。「イスラムの破壊、十字軍の奪還、それから荒廃」です。)

 99年もそうでしたが、私はこの町がとても好きです。そよ風が吹き心地よく、しかも下ガリラヤ全体を見渡すことができ、それに「ローマの中のユダヤ」が調和をもって存在しているところに、不思議な魅力を感じるからです。ヨセフスはここを「ガリラヤの装飾品」と呼びました。カリフォルニア州で、私たちが住んでいたところの近くにコロナデルマーという町があります。海辺の町でとても景色がすばらしくお金持ちがたくさん住んでいるのですが、クリスチャンもいます。南カリフォルニアには多くのすばらしい聖書教師や牧師が集まっていますが、地域全体としては裕福で世俗的でありながら霊的に活発という不思議な雰囲気がそこにはありますが、ツィポリもそんな感じだったのでしょう。

 最初、観光案内所にある、ツィポリについてのビデオを見ました。それからまたバスに乗り、小高い丘のところまで行きます。その間も遺跡があり、後で調べたら網目状の街路の町全体が発掘されたみたいです。99年に来たときに、こんなところあったかなと思いました。カイザリヤと同じく、ここも発掘が進行中の所です。

 そして丘のふもとの木陰でデービッドが、この町の説明をします。上の説明と重なる部分がありますがご了承ください。(音声はこちらです)

ツィポリには聖地旅行の人々が訪ねることは稀ですが、理由の一つは聖書の名称が出ていないことがあります。もう一つは、非常に最近の発掘現場だからです。最近まで観る物が少なく、わざわざここまで足を運ぶ必要はないと思われていました。三つ目は、私たちの主のガリラヤにおける働きと関わりがないように見えるからです。それが、数年前にここを発掘した考古学者が著した"Jesus and the Forgetten City(イエスと忘れられた町)" (リンク先探す)  によって、間違いであることが明らかにされました。主はここを実際、訪れました。

「ツィポリ」という名前は、ヘブル語の「鳥」から来ています。上空からの写真や衛星写真では鳥のように見えます。(NETのサイトに、写真とその説明がありますので、ここを開いてみてください。) けれども当時そのような技術はなかったのですが、あるラビは、「ツィポリでは、中東で最も心地よい風が吹く。」と言いました。そのため、ローマはここを選んだものと考えられます。蒸し暑くなることはありません、静かな、柔らかい風が吹いているからです。また、この丘の上まで登ると、中東で一番の、多彩色のモザイク絵画を見ることができます。そしてローマの野外劇場が、ここでも発見されています。

この町の発掘で、古くはハスモン朝のものがあります。ハスモン朝は、マカベヤ家のことです。彼らのことはダニエル書11章で多くのことを読むことができます。その11章の話は、(ギリシヤ、セレウコス朝の)アンティオコス・エピファネスに至りますが、彼はゼルバベルが再建した神殿の中で豚を捧げます。それでマカベヤ家が反乱を始めるのです。紀元前167-163年のことです。

クムランで短い映画を見ましたね、「光の子」が「暗闇の子」に対して戦いを挑み、最終戦争があるという。死海写本は、ここの町が建てられる前に書かれたことを知っています。シリヤの占領(セレウコス朝のこと)に悩まされ、それで死海方面に逃げ修道生活をし、メシヤの来臨を待ったのです。

ヨセフスは、ここを「全ガリラヤの装飾品」と呼びました。モザイク絵画を発見するにつれ、考古学者は驚きました。第一に多彩色であること、第二に絵画が完成されたものであることです。高い芸術的な価値と質をもったものです。

ハスモン朝がここを本拠地にしてから130年後、ローマがここを攻め落としました。とても心地よい風が吹くのと、非常に戦略的な場所にあるからです。この地域全体を見渡すことができ、軍隊の前進も簡単に見張ることができます。攻め落としたのは紀元前37年ですが、パックス・ロマーナの少し前です。つまり、ローマが、知られている全ての戦略的な場所を征服している最中だったのです。アウグストスが行なっていました。ここもその一つだったのです。

ヘロデ大王の息子アンティパスがここを再建して、「オウトクラトラス」と名づけました。そしてローマ総督が、紀元前1年にここを全ガリラヤの行政首府にしました。ヘロデ大王は紀元前4年に既に死んでいます。ユダヤ地方にユダヤ人は、ガムラ(後日見学します)と並んで反乱の際、自分たちを守る戦略的な場所だと考えました。ツィポリの方は非常にローマ色が強く、ユダヤ人反乱のときには反乱しないことを町が決めました。

けれどもここは、非常に大きなユダヤ人入植地だったのです。本の中には、この町は非常にローマ的なところだからユダヤ人が住んでいたはずはないと言いますが、今日のユダヤ人が異教的な町にも居住しているのと同じように、かつてもそうだったのです。例外は正統派ユダヤ教徒でしょう。2千人のユダヤ人がここで殺された記録がありますから、いたのです。けれどもローマは、町自体は破壊しませんでした。反乱に加わらなかったからです。66年にカエザリヤで反乱が始まりました。

ローマ軍がここに進軍してきたとき、住民は彼らを花などで歓迎しました。この町の至るところで見つかっている硬貨には「アイナポリス」と刻まれていますが「平和の町」という意味です。エルサレムの町の意味と同じで、摩り替えですね。エルサレムは4年後、滅びました。

そして第二のユダヤ人反乱がありました。紀元135年のことです。バル・コクバの反乱と呼ばれていますが、その人の名前の意味は「星の子」です。ところで、イスラエル国旗のダビデの六つ星は民数記24章17-19節にあるメシヤ預言から来ています。ユダヤ人はずっとメシヤを待望しています。そして二本の青い線がありますが、それは祈りのショールを表しています。ですからイスラエル建国には、霊的なメシヤ期待がかけられています。

この反乱の後、数多くのユダヤ人難民がツィポリに来ました、数千人です。ここにいる人をローマは厚遇したからです。それでローマの植民都市の中では稀な、ユダヤ人の数多くいる所となり、霊的な中心地となりました。神の言葉に忠実な良い教師がいました。ミシュナという素晴らしい本がここから出ました。そしてイエス様を死刑求刑したサンヘドリンは、ここに拠点を三世紀に移しました。

また18のシナゴーグがあります。ヨセフスはガリラヤについて良く書いていますが、この地域には小さな町が村が点在していますが、その一つ一つにサンヘドリンがあったことを記録しています。241の村を列挙しています。ナザレがその一つですね、非常に小さい村で100人いたかというほどです。今は大きな町になっています。

ツィポリは、ミリアムつまり、イエス様の母マリヤの生まれた地であるとの伝承があります。可能性はあります、ここからナザレは徒歩40分ですから。ユダヤ人の間ではそのような強い伝承があるのに、不思議なことにカトリックは興味を持ちません。彼らが考えるマリヤ誕生の場所はいくつかあるます。死んだ場所も16箇所あります。彼女はエペソで葬られたと私は考えています。イエス様は、ヨハネに対して母を世話するように託されました。ヨハネもエペソに葬られました。

ここは、ナザレから5キロのところにあります。ここにある円形野外劇場は、主がナザレにおられたときに建てられました。4500人を収容できます。ヘロデ・アンティパスは、多くのテクトン(tektons)を雇いました。これをずっと「大工」と訳しています。木ではなく石工です。理由は自ずと分かります、ここは石だらけだからです。そしてナザレのテクトンと言ったら、多くはなかったでしょう。ヨセフは大工(石工)であり、主はヨセフと働いておられました。ナザレのテクトンが、どこで仕事を見つけられたでしょうか。ここしかありませんツィポリです。ここから三つのことを話すことができます。

第一に、主イエス様はこのツィポリで、ナザレのテクトンとして働いておられたということです。だから主は、私たちがいる同じところを歩かれていたのです。

第二に、イエス様は、ここに住むユダヤ教学者らに接触しておられたということです。主がバル・ミツパでエルサレムに行かれたことを思い出してください。ナザレに戻る途中のヨセフとマリヤがイエスがいないことに気づき、エルサレムに戻りました。そこで主が宮で教師たちの真中におられたのです。教師たちはこの方の知識に驚いていました。

主は、ここツィポリで教師の教えを受けなくても、その知恵と知識を持っていることはできたでしょうか?もちろんです、この方は神ですから。けれども主が引用されたものの多くが、ここの学者らが言っていたものではないかと想像しています。

第三に、イエス様はかなり若い時から、学者として認められていました。イエス様は、「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)」とあります。」主がこれだけ人から愛されていたのに、どこでおかしくなったのでしょう。ベテスダの池ですね、ちゃんと覚えていますか?安息日に足なえが直って床を運んだからです。

主は、もしかしたらここにお座りになったかもしれません。主が皆さんにお語りになってくださいますように。

主は弱々しい人ではありませんでした。映画に出てくる女っぽいイエス様、嫌ですね。ここに来れば、主が大きな石を押しのけている姿を想うことができます。かなり頑丈な方でした。背の高い方であることは分かっています。

 どうですか、かなり私たちの主のイメージが変ったのではないでしょうか!

 この後、野外劇場を見、それから三世紀頃のローマの裕福な家のリビング兼ダイニングに入りました。当時のローマ社会では、食卓の三方を囲んだ寝椅子があり、トリクリニウム(triclinium)と呼ばれていました。その床にモザイクがあるのですが、ギリシヤ神話に出てくるディオニューソスという、葡萄酒の神の生活が描かれています。真中の寝椅子のところに、非常に精巧な女性が描かれていますが、それが上に掲載している「ガリラヤのモナリザ」と呼ばれている女性です。頬っぺたの辺りが赤味がかっていて、実際のモナリザよりも可愛くて、素朴です。

 そしてその屋敷から出て少し歩くと、要塞の塔があります。これは十字軍のものですが基盤はローマ当時のものを使っているらしいです。ここに入ると確か三階まであって、三階を展示室として使っています。そこにミシュナの本があります。また外を眺められるように造られています。けれどもその屋上に上がると、全体が見られます。ナザレも、北にあるカナの町も、すべて見えます。デービッドが言ったように、心地よい、弱い風が吹いてきて、ずっとここにいたい気分でした。

 降りると、そこに家の遺跡があります。これはツィポリの至る所にあります。そしてサボテンが実をならせているのがたくさんあったので、写真に撮りました。メンバーの一人がナイフで皮をむいて食べ始めようとしていました。

 これでもう時間が来ました。後でサイトで調べたら、他にもたくさん見るところがあります。丘のふもと、東側は先ほど話したように網目状の街路の跡がありますし、またシナゴーグや浸礼槽もあります。そのシナゴーグの床もモザイクで、聖書物語が描かれています。さらに「ナイルの家」というのもあって、ナイル川の肥沃な土地の恩恵を受けることが描かれているそうです。やはり、一度には見られません。イスラエル旅行者にリピーターが多いのはこの為です。


ガリラヤ湖からの運河

 そしてガリラヤ湖へ出発します。地図によりますと、おそらくティベリヤへ向かう77号線がツィポリから一番近い道のはずですが、まだ時間があると見て、次の日に計画していた「ガリラヤの舟」を観るために、左に曲がって66号線に乗り、右に曲がって807号線に入り、アルデル山(Mt. Arbel)のところ、ミグダル(Migdal)の町のところに行ったのだと思います。ミグダルは、マグダラのマリヤの「マグダラ」のことで、マグダラのマリヤ出身の町です。

 これはちょうど、イエス様がナザレ方面からガリラヤ湖畔へ入られる時、通られた道です。下ガリラヤは山ですから、湖畔に行く時は必ず下ります。そして山々の間、涸れた川になっている谷の道を通ります。死海は世界で一番低い陸地があるところですが、淡水においてはガリラヤ湖が世界で最も低いところにあり、水面下210メートルです。

 途中で運河を見ました。とてもきれいな水が流れています。これはガリラヤ湖から流れている水で、他のイスラエルの地域、とくに南部へ引っ張っていくものです。ガリラヤ湖は決して大きくない湖なのに(長さ21キロ、幅12キロ、深さ40メートル)、その少ない所からさらに水を運び出している姿を見ると、水が豊富な日本から来た者としては実感が湧きません。あえて想像するなら、大地震の後に水道も出なくなり、給水車からもらった水をどのように効率よく使うか考えながら生活する、という感じでしょうか。

 今、イスラエルにとって一番の水の資源がガリラヤ湖で、その次が地中海の水を淡水化しているものだそうです。南端の町エイラットは、紅海の水を淡水化しているそうです。だから水道から出る水は、淡水化の中で同時に浄化もされるため、とてもきれいだと聞きました。毎年1メートルずつ水位が下がる死海も、ガリラヤ湖も、いつ水がなくなってもおかしくないという気持ちにさせられます。


3.ガリラヤの舟(イエスの舟)

 バスはどんどん下り坂を走っています。見えてきました、ガリラヤ湖との再会です!山々に囲まれたこじんまりとした湖であり、左側が少し膨らんだ卵(そんなのないですね・・・)の形をした、なんともいえない、可愛いところです。湖畔の道路を左に曲がり、キブツ・ギノサルにあるイガル・アロン館内にあるガリラヤ舟展示館に入りました。

 バスから出たら、もう日は傾いているのにかなりむっとしました、暑いです。ガリラヤ湖畔は日本ほどではないですが、少し湿度があります。日本人にとっては逆に体に馴染むかもしれません。

 私はインターネットで、主がおられたときと同じ時代の舟が発掘された話はよく目にしていました。86年に発見されて7年後に展示館で人の目に当たったのですから、私が99年にここに来たときにはもうすでにあったはずです。どうしていかなかったのかな・・・と今思いますが、いずれにしても今回来られたのですから本当にうれしいです。

 舟を見る前にビデオを見ましたが、ほとんど映画になりそうな話です。この漁業キブツの二人は考古学に興味のある兄弟で、いつかガリラヤ湖の底から舟を見つけたいという夢を持っていたそうです。1986年は稀に見る水不足で、ガリラヤ湖の水位がものすごく下がりました。みなが心配するところですが、考古学者にとっては宝の山です。露にされた湖底から考古学の遺物がどんどん発見されたそうです。

 その二人が泥の中を歩いていたら、卵形をした舟の縁に足がぶつかったそうです。すぐに当局に連絡しました。そうしたら政府の考古学局の人たちがやって来て年代測定をしたところ、紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけての舟であることが分かったのです。これは物凄いことになりました。

 キブツの人々と考古学局の秘密裏の発掘が始まりましたが、情報はすぐに漏れて、地方紙に「イエスの舟」発見と伝えられました。そして金が積んである舟だとの噂が広まり、昼も夜も警備を付けたそうです。

 この発掘の大きな問題は、二千年も湖底の泥に埋まっていたこの木をどのように壊さないで持ち上げることができるのか、です。そして、あと数週間で水位が上がってしまうという超速攻で取り出さなければいけないという命題に答えなければいけません。

 考古学者は全く新しい技術を生み出しました。ポリウレタンを舟の周りに吹きかけ、それをそのまま湖の上に浮かばせたのです。12日後に無事に取り出すことができました。

 そして化学液の中に浸し、7年後に人々の前に展示されることになったそうです。大きさは長さが約8.3メートル、幅2.3メートル、深さは1.3メートルで、当時としては最大のサイズです。複数の種類の木で造られており、おそらく中古を改良したりして、数十年に渡って使ったのではないかと言われています。そして最後は、使える部分は取り外して、湖底に沈ませて棄てたのではないかと言われています。そして、舟と一緒に釘と壷も見つかりました。

 これが実際に主が乗られた、ペテロやヨハネたちの舟だったのか?そんな確証はどこにもありません。けれども同時代の舟であったことははっきりしていて、主がこのような舟をご覧になっていたであろうし、また、このような舟に乗られたかもしれません。(こちらに面白い記事が。ただし英語。)

 この後、この館内でお休みの時間です。お土産店やコーヒーショップがあります。あとここは、2006年のイスラエル・レバノン戦争の時にレバノンのヒズボラから飛んでくるミサイルから身を守るために、地下を防空壕として使ったそうです。


ホテルへ

 そこから、南にあるティベリヤに向かいます。非常に近いのですが、交通渋滞に巻き込まれました。ここガリラヤ湖は、聖地旅行の観光客以上に、現地のイスラエル人のリゾート地としてごったがえしています。バスから水着姿の人たちをたくさん見ましたが、エルサレムと同じく正統派の若い子たちも歩いていたり、マウンテン・バイクに乗っていたりしています。

 ガイドは、次のガイ・ビーチ・ホテルはとても良い所だと言っていました。エルサレムのクラウンプラザにかなりびっくりしている人が、私たちだけでなかったようです。ホテルに着いたら、うん、確かにいいところです。ロビーで無料のインターネットが出来ますから!(これで現地発の実況旅行記を発信することができました。)・・・というのは半分冗談で、建物は三階建てでエレベーターに乗る必要もないほどで、部屋もまあまあで、何と言っても、ガリラヤ湖のビーチサイド兼プールのあるのがおいしいでしょう。

 明日は、イエス様の宣教の各地を訪れます。