エジプト・イスラエル旅行記 − 8月21日その2

 これまでの旅程

1.ベテ・シェアン 2.西岸へ 3.死海で昼休み


ネゲブ砂漠

 そしてついに死海が消えました。その後も白い岩の丘がしばらくの間続いていました。かなり経ってからようやく、黄褐色に戻ります。私たちは再びネゲブ砂漠に戻ってきました!

 ネゲブは実にイスラエルの約60パーセントを占める土地です。その中に、様々な地形と動植物と、そして何よりも聖書の歴史があります。私たちがカイロに戻る次の日、HFTのメンバーはベエル・シェバを通ってテルアビブに向かうと思いますが、そのベエル・シェバがネゲブの首都です。地中海に比較的近いためそこでの降雨は若干あるそうですが、その南は極端に少なくなるそうです、にもかかわらず、そこにはワジ(涸れた川)があり、動物も生息し、冬・春になると花も咲くそうです。

 ネゲブに三回しか来たことのない私でも、ここにあらゆる可能性の匂いを嗅ぐことができます。イスラエルの初代首相ベン・グリオンはネゲブを花咲かせたいという夢を抱いて、その中にある「スデ・ボケル」というキブツに移り住みました。そしてその夢は今実現し、農産物を作り出す最も大きな地域になっています。

 ネゲブ砂漠の大観をご説明したいと思います。まず北部の中心部には、今話したベエル・シェバ(Beer Sheba)があります。アブラハムがペリシテ人のアビメレクと井戸のことで言い争って、そこを「誓いの井戸」と名づけたのが、その名前の由来です。
アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。(創世21:30-31)
 それから、イスラエルの土地は「ダンからベエル・シェバまで」と言われるようになりました。ここは現在大きな町になっていますが、近隣にテルもあり、非常に興味深い遺跡が残っています。まず入口のところに井戸があります。それがアブラハムの井戸ではありませんが、同時の井戸の様子をうかがい知ることができます。そして遺跡の町は、南ユダのヒゼキヤが王であった時のものです。

 城壁に付随していた家もあり、倉庫もあり、そして最も興味深いのは四つの角がある祭壇があることです(NETのbeersheba alterをリンク)。寸法も、主がモーセに示されたのと同じだそうです。そこには蛇のしるしもあるとか。宗教改革を断行したヒゼキヤの行ないを思い出させます。
彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。(2列王18:4)
 そしてベエル・シェバの東、死海に近いところにアラデ(Arad)があります。ここにあるのはカナン人の町の跡と南ユダの町の跡です。
ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕えて行った。そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。(民数21:1-3)
 ソロモンの時代の時、彼の名声と力は南北東西に広がりましたが、オフィルという、アカバ湾の入口のところにあったアラビアの町から金を採掘していました(1列王9:28)。後にヨシャパテ王も採掘を試みています(1列王22:48)。そのためベエル・シェバと並んで、砂漠からイスラエルの玄関の役割を担い外敵から守る町として建てられました。(事実、死海南東に住むエドム人からの攻撃を受けています。)

 この南ユダの町の遺跡で驚くのは、ベエル・シェバと同じく「高き所」が発掘されたことです。「高き所」というのは、必ずしも偶像を拝んでいるのではありません。けれども、主は、ご自分が定めた所でのみ礼拝しなさいという命令を与えておられました。
全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。(申命12:13-14)
 そしてその至聖所を見ると、二つの柱が立っています。一つはヤハウェのため、もう一つはアシュタロテのためです。多くがエルサレムの神殿と寸法が同じで、同じものがあるのですが、このように微妙な違い、いや大きな違いが生じていたのです。なぜ主が、一つのところで礼拝しなさいと言われたのかが理解できます。今の教会時代には、私たちが共に集まるところはどこでも教会になりますが、互いに仕え合ったり、互いに訓戒し合ったり、キリストにある人間の責任関係がなければ、クリスチャンと言えども主と共に偶像を拝んでしまうことになります。「教会がなくても、自分独りで主を礼拝する」ということはあり得ない、ということです。

 そして、そこの至聖所は注意深く解体された跡が残っているそうです。これはヒゼキヤが行なったことなのでしょう、「高き所を取り除き」とあります。

 そして私たちが死海を出て通り過ぎている地は、「ツィン(Zin)の荒野」と呼ばれます。ここにはスデ・ボケル(Sde Boker)のほうから死海の南のほうに貫いている大きな涸れた川があります。しかもスデ・ボケルの方では、どこからの泉から水が流れてているそうなのです。この川床が、イスラエルの南の割り当て地の境界線になっていました。
あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンに進む。(民数34:3-4)
 この砂漠の辺りで、イスラエルの民は約束の地を偵察に行ったり(民数13:21)、またその40年後、モーセが怒って岩を打ってしまったり(民数27:14)しています。

 そのスデ・ボケルの少し南に、ナバテア人が建てた町アブダット(Avdat)があります。その文明的な姿は驚くばかりです。

 これで北部、中部の説明が終わりました。南部については、この後ご説明します。


4.牧場キブツでアイスクリーム

パランの荒野

  それではまず、ネゲブ南部のこの地図を開いてください。シンの荒野の南には、パランの荒野があります。これは、今のイスラエルからエジプトのシナイ半島にまたがっている砂漠です。舞台は、約束の地から御民の荒野の旅に戻ります。
それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。(民数記10:12)
 この荒野の中にある「カデシュ・バルネア」から、モーセはイスラエル人12人を約束の地に偵察に行かせました(民数13:1-3)。またここは、アラビアの遊牧民の父祖イシュマエルが育った地でもあります。
神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。(創世21:20-21)
 バスで走っている間、ここに幕屋の材料となったアカシヤの木(出エジプト25:5等)をたくさん見ることができました。これは青銅の祭壇、供えのパンの机、契約の箱などに使われました。私たちは、その実物大の模型を間もなく観にいきます。

 ここにもキブツがあります。バスから、ヨルダン川方面を撮ったこの写真を開いてください。緑になっているところがそうです。アブラハムがサラの死後得た新たな妻の名から取った、「ケトラ」という名前だそうです。その子孫ミデヤン人は、シナイの荒野からパランの荒野に住んでいましたね(モーセの姑、また荒野の道案内人はミデヤン人でした)。そしてこの写真の背後にある、こげ茶色の山々は、「エドムの山々」と呼ばれます。エドム人が住んでいました。あと、この写真にも手前にアカシヤの木が見えますね。

 外はものすごく暑いと思いますが、バスの中はエアコンのため、どんどん寒くなっています。アメリカの人と一緒にいると必ずこうなります。けれども途中休憩が入りました。乳牛を飼っているキブツがお店を経営していて、そこで食べるアイスクリームとシャーベットがとてもおいしいのだそうです。

 ここはヨトゥバタ(Yotvata)と呼ばれています。ネゲブ砂漠でどうやって乳牛を育てられるのか、ほとんど不可能だと最初思われていましたが、今はイスラエルの酪農市場の63パーセントを占め、牛乳は49パーセントを占めているのだそうです。ここにも神の奇蹟があります。

 お店にはアイスクリーム売り場だけでなく、酪農品中心のスーパーマーケットとファーストフード系のレストランも入っていました。アイスクリームを食べましたが、確かにいわゆる牧場で売っているアイスクリームの味がしています。とろり、とろける味です。


5.ティムナ国定公園

 そしてバスに乗り15分ぐらい経つと、この日のハイライト、いやこの旅全体のハイライトとデービッドは言いましたが、「ティムナ国定公園」に到着しました。えっ?なぜここがハイライトなのかって?この公園自体ではなく、その中にある「幕屋の模型」です。

 ティムナ国定公園は、銅山が連なる自然公園です。申命記に、モーセがイスラエルの子らに、約束の地がいかに潤っているかを話しているとき、実は銅が産出されることも話していました。
あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。(8:7-9)
 日本語では「青銅」とありますが「銅」と訳すことができる言葉です。ここで古代から銅の採掘がなされていました。その中で有名なのが「ソロモンの柱」というものがありますが、後で訪れるのでその時ご説明します。


実物大幕屋

 パランの荒野にふさわしく、この幕屋が設置されています。99年の時のことを覚えていますが、デービッドがエドと「これは初めてだな」と話し合っているのを耳にしていました。その時はアメリカ出身の主にある兄弟がガイドをしてくれましたが、今回はイスラエル人のメシアニック・ジューの方です。今回は、公園の入り口にもその案内板がありましたが、イスラエル観光省から正式許可が下りたそうですで、条件はただ一つ、幕屋の中の祭具に実際の材質のものを使わない(つまり金を使わない)ということだけで、その他は聖書の記述の寸法通りの正確な模型になっています。

 キリスト者がイスラエルの地で、幕屋を通してイエス様の栄光を宣べ伝えているのですから(しかもイスラエル観光省のお墨付きで)、ものすごい祝福です。

 まずデービッドが手短に、幕屋について大事なことを説明しました。(音声はこちら

また、ソロモン王は、エドムの地の葦の海の岸辺にあるエラテに近いエツヨン・ゲベルに船団を設けた。(1列王9:26)」「それから、ソロモンはエドムの地の海岸にあるエツヨン・ゲベルとエラテへ行った。フラムはそのしもべたちを通して、何隻かの船と海に詳しいしもべたちを彼のもとに送り届けた。彼らはソロモンのしもべたちといっしょにオフィルへ行き、そこから、金四百五十タラントを取って、これをソロモン王のもとに持って来た。(2歴代8:17-18)」エラテ(エイラット)に私たちは非常に近くにいます。銅や鉄のことは、申命記8章で説明を受けているでしょうが、金はどこから来たのかというと、ここにあります。幕屋について六つのことをお話します。

第一に、出エジプト25章1-7節に非常に大事なことが書かれています。「心から進んでささげ」ていたことです。ささげることを面倒くさいことのように考える人があまりにも多いのですが、どれだけささげられるかを問うよりも、どれだけ自分の手元におくべきかを問うたほうがいいです。歴代誌第一29章は、ささげることについてとても麗しい話が載っています。

第二に、出エジプト25章と29章に、幕屋が造られた目的が書かれていますが、「その所でわたしはあなたがたに会い」とあります。これ以上力強いメッセージはないでしょう。砂漠の中にあるこの小さな場所で、神は、「わたしはあなたがたに会う」と仰られたのです。礼拝と言うのは、私たちの心を主に近づけるものです。

第三に、出エジプト25章に、型は神からの命令であったことが書かれています。契約の箱の寸法や形は神が正確に教えられたものです。同じく、供えのパンの机も、燭台も、垂れ幕も、犠牲の祭壇も、神が具体的に指示されたものです。どれだけ大きかったのか小さかったのか、想像して作ったのではありません。

そして「絶えずわたしの前にあるようにする(30節)」という言い回しがあります。英欽定訳には、これが繰り返されています。

第四に、シャバット(安息日)についての位置について言及しなければいけません。キリスト教会にはいろいろな意見がありますが、幕屋の枠組みの中でお話します。安息は、イスラエルの子孫に対して与えられたものです。なぜ混乱が起こるかと言いますと、「イスラエルの子孫」を「教会」に置き換えるからです。でも「イスラエルの子孫」の意味は、「イスラエルの子孫」なのです!

第五に、出エジプト34章にありますが、この目的は、「主の御名によって宣言」するためです。主の御名は名称ではありません。「名前」は名称ではなく、誰かの特徴や属性を表わします。だから、namesのように複数ではなく、神の名は単数なのです。バプテスマについて主が語られた時、「父、子、聖霊の御名(the name)による(マタイ28:19)」と言われました。つまり、幕屋では私たちは、主がどのような方なのか、何をおできになるのか、何を願っておられるのかを学ぶのです。主のすばらしい救いを学びます。

ここは暑くて、イスラエルの中心部から遠いので、ここまで足を運ぶツアーグループは少ないのですが、すべての人が来ればよい場所だと私が考えるのは、これらの理由のためです。

 本当に、主の御名のすばらしさを私たちは知ることができます。ガイドのタミーさんがご説明しますが、それを聞けば聞くほど、主の栄光と救いが自分の目の前ではっきりと浮かび上がります。

 題名の部分のリンクをクリックしてください、動画が始まります。

外庭

 ここは外庭で、そして聖所と至聖所があります。一般のイスラエル人は門の中には入ってくることはできず、祭司だけが入れます。聖所は祭司たちが、そして、主が臨在される至聖所は年に一度だけ、ヨム・キプール(贖罪日)の時だけ、大祭司が入ります。門から入って私たちが見たものは、犠牲の祭壇です。毎日、いけにえを捧げていました。夕と朝、安息日、そして例祭の時です。

 贖罪日の時だけ、祭壇の血を至聖所に持って行きます。イスラエルの罪の赦しをそこで得ます。この日には四つのささげものがあります。アロンとその子らの罪のためささげる雄牛があります。二匹のやぎがいます。一匹は祭壇で焼く全焼のいけにえのため、もう一匹はスケープゴート(アザゼル)のためです。スケープゴートの上に手を載せ、イスラエルの民の罪を告白してから、その罪を負ったやぎを荒野に放ちます。

 大祭司は、その動物の血を取ります。また回りと上にも血を注ぎます。そして後で話しますが、聖所の中に持って行きます。祭壇は、アカシヤの木で造られ銅で覆われています。4つの角があり、荒野で持ち運ぶため棒があります。

 祭壇は犠牲です。私が命を受けるために、イエス様が犠牲となってくださいました。

 そして洗盤があります。「青銅」となっていますがヘブル語には「銅」となっています。幕屋の中で、寸法や形が示されてない唯一の祭具です。祭司らが、犠牲のいけにえを捧げる前と、会見の天幕に入る前に、ここで手足を洗います。主は言われました、「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)

 ですから、私たちがここまで来る前、主が門であられ、そして犠牲であられ、そして命を与える方であることが分かったのです。



 幕屋の板は、アカシヤの材で造り金で覆っています。20枚あり、一枚が幅1.5キュビト、高さ10キュビトです。板には金の環が付いており、下にはほぞがあります。幕屋を建てる時は、ほぞに板を入れ、横木を環に差し入れると壁になります。取り外す時は横木を抜くだけです。非常に簡単で、賢い方法ですね。

 幕屋には四枚の幕があります。一枚目は、亜麻布で出来たもので、白、赤、青、紫の四色が使われています。二枚目がやぎの毛で、三枚目が赤くなめした雄羊の皮の覆い、そして四枚目はアナグマ(badger)の皮ではありません、英訳の聖書のように。ヘブル語のタハシュの動物は何であるか分かりませんが、アナグマでないことは確かです。

 色を見てみましょう。白が表わしているもの清さです。赤は血で、青は天で、紫は王位です。これはイェシュア・ハマシアク(イエス・キリスト)を表わしています。王の王、主の主であられる方が天から来られ、血を流し、私たちを清められました。

聖所

 エロヒムはモーセに、祭司のみが聖所に入ることができると命じられました。私は「神」という言葉をあまり使いたくないのですが、なぜなら神々と呼ばれるものは多いですが、エロヒムはお一人だからです。もし入れば、民から断ち切られると仰せになりました。

 向こう側(北側)には、供えのパンの机があります。12枚のパンで、それぞれがイスラエルの各部族を表わしています。デービッドが言ったように、「絶えずわたしの前にあるようにする」のです。安息日ごとにパンを取り替えます。そのパンを、祭司とその家族が食べることができます。違う人が食べたら、わたしの民から滅ぼされるとエロヒムは言われました。

 でも食べた人がいますね?ダビデです。彼は空腹であったので、神の憐れみによって滅ぼされませんでした。ここに、恵みが律法にまさることが示されています。イェシュアは、人は安息日のために造られたのではなく、人のために安息日が造られたことを話されました。

 また主は、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。

 そしてこちら側(南側)には、燭台(ミノラー)があります。一つの純金からできています。重さは一タラントは37キロです。一つの枝からそれぞれの側に三つの枝が出ています。ともしび皿がついていて、幕屋の中のみで灯します。

 私が見るには、これはメシヤの体を表しています。なぜなら、中心の枝はオリーブの木でイスラエルの民です。そして他の枝は異邦人で、中心の枝に接ぎ合わされています。そして合わせて、七つの教会ができています。

 こちらにいるのは、普通の祭司です。裸足ですが、ここは聖なる地だからです。

 そして香壇があります。主に対して良い香をささげるためです。

 そしてここに大祭司がいます。白い衣と、その上に青服です。青服にはざくろと鈴が付いています。彼が死なないため、入る時と出て行くときに音が聞こえるようにするためです。そしてエポデがあり、胸当てがあります。胸当てには、12の宝石があり、イスラエル12部族の名が刻まれています。肩当にも12部族の名があります。

 額には金の札があり、「主への聖なるもの」と彫られています。つまり大祭司が行なうことは、主への聖なるものということです。聖なる仕事を、自分の胸と肩にイスラエルを背負うことによって行ないます。

 至聖所には、年に一度、贖罪日の時だけ、大祭司のみが、いけにえの血を携えてのみ入ることができます。血には魂の贖いがあり、血が流されることなしには、罪の赦しはないからです。

 贖罪日には、大祭司は自分の身を清め、白い衣を身に着けます。香を至聖所に持って行きます。そして再び清め、白い衣を身にまとい、いけにえをささげます。最初は雄牛、次に雄羊、そしてやぎです。それぞれのいけにえの間にも、清めと白い衣は繰り返します。血を取って、外の祭壇の上に、そして回りに振りかけ、そしてここの香壇の角にも血をあてがい、垂れ幕を通り、至聖所では契約の箱の贖いの蓋の上に血を振り掛けます。それで、イスラエルの民の罪は赦されます。

 このことをすることによって、裁き主と裁きを別ちます。贖いの蓋の上が裁き主で、契約の箱が裁きです。贖いの蓋は、「憐れみの御座」であり、血があてがわれて恵みと憐れみになります。

 大祭司は垂れ幕を必ず通らなければいけませんが、イェシュアが死なれた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けましたね。イエス様は神の御子です。ユダヤ人の家族で、誰かが死んだ時、どうするかご存知ですか。衣を裂くのです。これは嘆きの表れです。そして、幕が上から下に裂けたのは、父なる神がご自分の子の死を嘆き、悲しまれたものだと信じています。

 このことによって、私たちが神ご自身に近づくことができるようにしてくださいました。主が死なれる前は、イスラエルの民は、動物の血によってのみ神に近づくことができました。イェシュアが死なれた時、全ての人、ユダヤ人と異邦人がみな神に近づくことができるようにしてくださったのです。私たちは、尊い、尊い、イェシュア・ハマシアクの流された血によって、神に近づくことができるようになりました。エロヒムのご臨在に入るのは、その御子の血という犠牲がかかっているのです。

至聖所

 中に入ると、契約の箱があります。そしてケルビムが贖いの蓋を翼で覆っているのを見ます。箱の中には、マナと、アーモンドの花と実を結ばせたアロンの杖と、十戒の板が入っています。


 ヘブル書8章によると、私たちには今でも大祭司がいます。その大祭司はイェシュア・ハマシアクです。父なる神の右の憐れみの座に着いておられ、私たちのために絶えず執り成ししておられるのです。

 大祭司は、いつも民をこのように祝福していました。民数記6章です。

 主があなたを祝福し、
 あなたを守られますように。
 主が御顔をあなたに照らし、
 あなたを恵まれますように。
 主が御顔をあなたに向け、
 あなたに平安を与えられますように。

 いかがだったでしょうか?ただ説明を受けるだけで、私たちの主の栄光、特に救いにおける栄光をはっきりと見ることができますね。すばらしいところだと思います。


ソロモンの柱


 この次に、私たちはティムナ公園で有名な見所である「ソロモンの柱」を見ました。けれども名称とは異なり、ソロモン王とは関係のないものだそうです。むしろ、紀元前12-13世紀のエジプトのパロ、ラメセス三世が、ここで銅を採掘していました。

 題名のリンク先には、この岩のふもとにある、エジプト人の女神ハトル神殿の跡の写真と、ラメセス三世のことが書かれている絵の刻印の写真もあります。


6.エイラット

 ティムナ国定公園を出たら、あとエイラットまでもう少しです。前方左に海が見えてきました、そして大きな町も見えます。背景はエドムの山です。これは、ヨルダンで一番大きな港町のアカバです。あと面白いものを見つけました、これを開いてください。日本とイスラエルの合併会社らしいです。健康食品でも作っているのかな?

 そして、ホテルが立ち並んでいる町の中に入っていきます。ついにエイラットに着きました。

 エイラットは何と言っても、リゾート地として有名です。砂漠のど真ん中にあるにも関わらず、紅海からの甘い湿気の入った空気が入ってくるため、一年中同じような温度が保たれています。私のような日本人には、この地形そのものがあまりにも魅力的です。死海と黄褐色のコントラスト(対照)と似ていますが、真っ青な海ときれいな珊瑚という、遠くの太平洋の孤島でしか味わえないと思っている風景が、この荒涼とした砂漠の山々の中にどすっと入り込んでいる、というイメージです。

 聖書的にはここは「エラテ」と呼ばれているところです。先にデービッドが引用したように、ソロモンがここをオフィルの金の採掘のため港町として使い、そのヨシャパテが同じことをしようとして失敗しましたが、ウジヤが成功させました。

 そしてここは、非常に重要な貿易港です。イスラエルがかろうじて紅海のこの6キロしかない海岸を自分たちのものとしているため、ここから紅海へ出て、ペルシャ湾に出て、そしてインド洋へと出ることができるため、イスラエルの東側の国々との海洋貿易を全て担っているからです。99年も、今回も、日本車がたくさん並んでいるのを見ることができました。イスラエル独立後は、エジプトは敵対関係にあったため、スエズ運河を封鎖、さらにこの紅海の先、ティラン海峡を封鎖したため、67年に六日戦争が勃発しました。

 私たちは、エイラットのクラウン・プラザに泊まりました。ホテルの部屋からの眺めは右の感じです。

 夕食を済ませたら、私たちは早速散歩に出かけました。外に出たら、これまでのイスラエルの町の中で一番暑いです。潮の熱風が吹き付けてくるのですが、砂漠の中にあるため空気は乾燥しています。

 ちょうど上の写真の左側に少し見える道路を海岸方面に歩き、それから右に曲がって正面向こうに見える橋を渡り、歩いてゆきました。そうしたら屋台がたくさんならんでいます。若者がたくさん歩いています。ここにはもはや、正統派ルックの子は皆無です。ちょうど渋谷の町にいるお兄ちゃん、お姉ちゃんという感じです。そういえば、さっきガイドが安息日も「守ったほうが良い」程度の、かなり緩んだ所だそうです。

 私は、99年のときにルームメイトと歩いた海岸を探していました。勘で、もしかしたらこのまままっすぐ行けば良いと思っていたら当たりました。よし今夜はもちろん無理だけど、明日の早朝ここに来て、泳ぐぞと思いました。

 また来た道を戻りましたが、同じことを考えているツアーのメンバーが何人もいました。まずジョンとシャーリーです。エイラットの夜は、明日はシャバットだから今日だけしか楽しめないだろうとのことで、疲れた体を引きずって来たとのこと。少しお話しましたが、彼らも私と同じように、旅行に来る前までとにかく忙しかったそうです。旅行ではゆっくり休もうと思っていたのに、4回目のリピーターということで期待をかけられ、今回、点呼取りや朝のお祈り、詩篇朗読などの役を担わされ、結局休めなかったとおっしゃっていました。99年以降、私たちのミニストリーを影で祈り、支えてくださっているご夫婦です。その他のメンバーにもたくさん出会いました。

 私たちは部屋に戻り、明日発つ準備をしました。