イスラエル・ヨルダン旅行記 6月1日 - ヨルダン渓谷
1.ベツレヘム
2.ユダの荒野
3.ギルアデ
4.ベテ・シャン
5.ヤムルク川
6.ノアム&ジョアンさんの証し
今日は移動日です。これまでエルサレムのシオン山ホテル(Mt. Zion Hotel)に宿泊していましたが、そこからガリラヤ湖にあるホテルに移動する日です。けれども、もちろんその間にたくさんの名所を見学します。
アーノルドの旅はとても独特ですが、「ワゴン車」による移動のため、多くの荷物を持っていくことができません。彼はこの旅程中、Mt. Zion Hotelの一室をずっと借りたままにしています。私たちは、ガリラヤに持っていく必要のないものは全て彼の部屋に入れました。そしてヨルダンに移動する前に、再び一泊をここで過ごしますが、その時にも彼の部屋が荷物置場となりました。
1.ベツレヘム
ワゴン車で出発する前に、今日はパレスチナ自治区内にある「ベツレヘム」の町を訪問します。私たち旅行仲間は、現地の宣教師の人が手配してくれたアラブ人運転手の観光バスに乗り、とても快適で、初めて観光旅行をしている気分になりました!アーノルドも「ここで甘やかされないように。」と釘を刺していました。
ベツレヘムはエルサレムから車で15分ぐらいしかかかりません。08年の旅行記で詳しく記しましたが、分離壁を通過します。その時はバスを乗り換えましたが、すでに私たちが乗っているバスは自治区から来たものなので、分離壁を通過したら間もなくして、徒歩でパレスチナ人クリスチャンのガイドがやって来て、乗り込みました。
私はベツレヘムの町が個人的には好きです。他のパレスチナ人の町と比べると、やはりクリスチャンの香りが漂っています。穏やかさ、謙虚さを感じます。そしてガイドの人は、特にそうでした。08年のガイドに比べると、教会堂の説明は簡略的で力のないものでしたが、それがかえって彼が本物(?)ではないかと思わされました。私は思い切って、どの教会に通っているのですか?と尋ねました。単立の教会のようです。そうです、ここで単立の教会と言えば福音派で、彼は新生した信者でした!「迫害がある。それは既存のキリスト教徒によるものだ。」ということです。その通りでしょう、外側(ムスリムなど)よりも、内側からの迫害のほうが大変です。
そう言えば、彼が自己紹介した時、ベルレヘム聖書大学(Bethlehem Bible College)の観光学科を卒業したと言っていました。後で思い出したのですが、これはブラザー・アンドリューが設立を手助けした福音派聖書学校の名前です。
ベツレヘムの聖書的歴史
ベツレヘムは、聖書の歴史が長く、豊かな町です。名称の意味は「パンの家」です。古い名称は「エフラテ」ですが、「実りある、緑色だ」という意味があります。この地域が周辺よりも実りが多かったことを示しています。
ヤコブの妻ラケルが、ベツレヘムに向かう途上でベニヤミンを産み、死にました(創世35:16‐20、48:7)。ユダ族の割り当て地の中に入り(1歴代4:4)、士師時代にはミカの個人的祭司がここ出身でした(士師17:1‐13)。
そしてルツ記の舞台はベツレヘムです。ルツの夫ボアズの曾孫がダビデであり、彼の故郷はここです(1サムエル16:18、17:58、20:6,28)。ダビデはここで油を注がれ(同16:1‐13)ゴリヤテとの戦いにつながった、お兄さんへのお使いはこの町からでしたし(同17:12‐18)、ダビデの家臣ヨアブ、アビシャイ、アサエルもここ出身でした(2サムエル2:32)。そして「ベツレヘムの井戸水をほしい」となつかしがって言って、命がけで勇士たちが取りに行った話も有名です(同23:14‐17)。
ユダの王レハブアムがユダの防備の町としてベツレヘムも固めています(2歴代11:6)。そしてエルサレムがバビロンによって破壊された後、残りの民がエジプトに逃れましたが、その途上の町はエルサレムでした(エレミヤ41:17)。そしてバビロン捕囚からの帰還の町としてベツレヘムが列挙されています(エズラ2:21、ネヘミヤ7:26)。
そんな中で、ヒゼキヤの時代、預言者ミカがベツレヘムからメシヤが出ることを預言しました。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(5:2)」
この預言が、ダビデの末裔であるヨセフとマリヤの子によって実現しました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(ルカ2:11-12)」
聖誕教会
私たちが初めに行ったのが、おなじみの「聖誕教会」です。ここは、実際の礼拝を行なっている教会としては世界最古のものです。第一回ニケア会議が行なわれた325年の翌年、326年にコンスタンチヌス帝の母ヘレナが建設を開始しました。伝承的に主が降誕されたとする洞窟の上に建てましたが、今の教会堂には床下にあるモザイクの床がその一部です。ヘレナは当時のギリシア・ローマ風の「バシリカ(「王」という意味)」倣って祭壇の部分を作りました。キリストは王だからです。教会内の柱廊はこの時代のものです。ユスティニアヌス帝が530年に改築を行ない、今のような十字形の教会堂を建てました。
聖地の教会は614年のペルシヤ人の侵略によって破壊されましたが、聖誕教会は免れました。その理由は、教会内に描かれている東方の博士の絵画が、自分たち同胞であると思ったからです。そしてイスラム教徒は、ハキム(賢者)による、キリスト教記念物破壊命令の適用(1009年)をこの教会に対しては避けました。なぜなら、袖廊(そでろう)と呼ばれる、 十字形教会堂の左右の翼部を自分たちの祈りの場として用いていたからです。(彼らは、イエスを預言者イサとして尊んでいたからです。)
そして十字軍時代の時、内装の装飾を行ないましたが、屋根の左右の壁にある絵画は十字軍時代の物です。そしてマムルク朝、オスマン・トルコ朝の時代を越えて、今に至るまで保存されています。
教会は三つの教派によって運営されています。ギリシア正教、アルメニア教会、そしてカトリック教会です。主要の教会堂の部分、そして洞窟の部分はギリシヤ正教が管理しています。ギリシア正教は1月7日、アルメニア派は1月19日、カトリックは12月25日に聖誕節を祝います。コプト教会とシリア正教も1月7日に祝うので、アルメニア派の祭壇を利用するそうです。
教会堂の入口は、「謙遜の門」と呼ばれます(右上写真)。子供でない限り、かがんで中に入らなければいけないほど小さい入口だからです。元々は、右写真の一番外側にある枠が入口でした。十字軍の時代に、今の入口の外側にあるアーチ状の門がそれです。そしてオスマン・トルコ時代に今の入口にしましたが、馬に乗ったまま入ってくることができないようにするためだった、と言われています。
中に入ると、上に説明したような構造と装飾がありますが、正面にはギリシヤ正教の祭壇があります。下の写真はその祭壇を撮ったものです。聖画があるのにお気づきでしょうか(左写真)。この部分は司祭しか入れず、男性しか入れません。赤ん坊であっても同じなので、洗礼を授けるときは司祭が出てくるそうです。
この本堂の裏に「聖誕の洞窟」があります。この日、正教徒のミサがあり入れないと言われたのですが、交渉の結果、わずかな時間入ることができました。
他の部屋でガイドの方が洞窟の役割を話してくれました。「当時、人々の多くが洞窟に住んでいました。家畜は彼らの財産そのものだったので、洞窟の一番奥に家畜を置きました。そして仕切りを作り、手前に食糧を収納する部分があり、また生活空間がありました。
人口調査によってヨセフはベツレヘムに行かなければいけませんでした。9日間の旅でした。ヨルダン渓谷を通ってやって来ました。当時のユダヤ人はサマリヤ地方は通過しなかったからです。そしてベツレヘムに着いたら、人でいっぱいでした。ベツレヘムはユダ族の町であり、帰還したユダヤ人は主にユダ族の人たちであり、帰還の町の一つだったからです。そしてマリヤが出産した時、プライバシーが必要だったため、最も奥に位置する家畜のいる部分にいました。男子を出産したら全部で40日の不浄の期間があります(レビ記12章)。裕福な人は、洞窟の中にある屋上の間(ギリシヤ語で「カタラマ」)を使うことができました。ルカ伝2章に、「カタラマには彼らのいる場所がなかったからである。(7節)」とあります。」
この説明を聞いたのは、「ヒエロニムス(Jerome)」の住まいだった洞窟でした。彼が聖書のヘブル語をラテン語に完訳した人です。ウルガタ(「人気」という意味)聖書と呼ばれます。この働きによって世界にキリスト教が広まったと言っても過言ではありません。翻訳はその働きの一つで、多くの書き物や注解書を残しています。
(右の写真は、ヒエロニムスの墓です)
この洞窟の家は、カトリックの「聖カトリーナ教会」の一部です。12月25日の、ベツレヘムにおける礼拝の風景として世界に放映されるのは、この教会からです。
羊飼いの野
私たちはバスに乗り、東に向かいました。「羊飼いの野」と呼ばれるところがあります。ここがルツとボアズの畑ではなかったか、とも言われています。オスマン・トルコ時代の時、キリスト教徒に対して税金を課したので、彼らは納税のために手工芸品を作り始めました。この地域は、80%がキリスト教徒です。
そしてそこには、ギリシヤ正教の教会やカトリックの教会がありますが、私たちはカトリックのに行きました。そこにきれいな「天使のチャペル(Chapel
of the Angels)」があるのですが、それよりもそれに隣接している洞窟の再現が、当時の洞窟のすばらしい教材になっていました。
先ほどガイドさんが説明した通りの位置関係になっていて、人々は入口の近くに寝ていた、ということです。ですから、イエス様の例え話の背景を知ることができます。「すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』(ルカ11:7)」家族が近くで寝ていて、お父さんは食べ物の所に行くにも、入口に行くにも子供たちを越えていかないといけません。(ガイドの音声)
この三枚の写真の動画が、こちらにあります。ぜひクリックしてください。
そして私たちはバスに乗り、ガイドさんとお別れしました。彼は「パレスチナ人クリスチャンのために祈ってください。エルサレムの平和のために祈ってください。」と挨拶しました。「エルサレムの平和」という言葉を聞いた時に、彼は本当に平和を求めている人なのだ、と思いました。
2.ユダの荒野
私たちはもう一度ホテルに戻り、すぐにワゴン車に乗り移りました。そしてガリラヤ湖に向かって旅するのですが、辿った道は再び死海方面の道路で、1号線です。ユダの荒野を通り、ヨルダン川の流れる渓谷に到達します。そしてヨルダン川沿いに走っている道路を北上してガリラヤ湖に着く予定です。
1号線の海水面の所で停車しました。そこに、ラクダがいます。何人かの人がラクダに乗って、記念撮影をしました。
エリコ
そして1号線は90号線にぶつかります。右折すれば死海で、左折すればガリラヤ湖方面です。左折してすぐの所で車を停めて、アーノルドはエリコの町について説明しました。おそらく状況が今のような事でなければ、彼は私たちをこの町に連れて行ったことでしょう。
1994年にオスロ合意による、パレスチナ自治政府の始まりがありました。私が初めてイスラエルに行ったのは99年ですが、その時はベツレヘムの他にエリコにも、またラザロの墓のあるベタニヤにも容易に行くことができました。最もパレスチナ側とイスラエル側の交流があった時期ではなかったかと思います。けれども2000年に第二次インティファーダをパレスチナが起こしました。いわゆる自爆テロが頻発に起こった、あの時期です。その為にあらゆる観光要所はがらんどうになり、イスラエルは大変な苦境を強いられました。けれどもアラファト議長が死に、そしてイスラエルが分離フェンスを建てたことにより、自爆テロは収束に向かいました。そして観光客の人数も増えているのですが、このインティファーダによって作り出された環境は今も残っており、イスラエル人がパレスチナ自治区に入るのは特別な許可が必要になり、入るのが困難になったのです。
外国人は特に何の問題もなく、検問所を通ることによって入ることができます。事実、ベツレヘムもアラブ人のバスに乗り、またパレスチナ人のガイドを雇うことにより可能でした。けれどもエリコに行くにはこの死海地域から直接入るのではなく、一度エルサレムからアラブ人バスに乗ってラマラに行って、バスを乗り換えてエリコ行く方法しかないことを聞いています。私は個人旅行でヘブロンにもナブルスにも行くことができましたが、団体旅行はこの旅程ではあまりにも大変です。そしてアーノルドも、まだ危険だと感じているようで、その外から見える風景だけで済ませたのだと思います。
「エリコ」は、聖書的に由緒ある、歴史のある町です。イスラエルが約束の地に入る手前で、必ず「ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原(民数22:1等)」という表現が使われました。今もそうですが当時は「なつめやしの町(申命34:3)」として知られていました。モーセがネボ山の真下にこの町を眺めました。そしてヨシュアたちが川を渡って倒した町がエリコです(ヨシュア6章)。ヨシュアはこの町を呪いましたが、それは実現しました(ヨシュア6:26、1列王15:34)。割り当て地としては、エフライムとベニヤミンの国境になっています(ヨシュア16:1,7,18:12,21)。
ダビデの時代には、彼がアモンに遣わした使者が辱めを受けたのでエリコにとどまるように言いました(2サムエル10:5)。そして、南北王朝時代には、預言者エリヤとエリシャが活動した中心的な所です(2列王2章)。アハズの時代、北イスラエルは神の警告を受けてユダの捕虜をここから返還しました(2歴代28:15)。ユダの最後の王ゼデキヤは、エルサレムから逃げて、この辺りでバビロンに捕えられます(2列王25:5)。
この旧約聖書時代のエリコは今は丘状遺跡として残っていて、テル・エス=スルタン(Tel es-Sultan)と呼ばれています。
ギリシヤ時代からこの町が拡張されて、ヘロデ大王が新しいエリコを建設しました。そして彼自身、エリコで死んでいます。それで新約聖書では、古エリコのことも新エリコのことも言及されています。良いサマリヤ人の話の中で(ルカ10:30)、盲人の乞食バルテマイ(マタイ20:29‐34、マルコ10:46‐52、ルカ18:35‐43)、またザアカイの話があります(ルカ19:1‐10)。この新約時代のエリコの丘状遺跡があり、トゥルル・アブ・エル=アレイク(Tulul Abu el-Aleik)と呼ばれ、ヘロデの宮殿の跡も見ることもできます。
現代は、ビザンチン時代から始まったまた別のエリコの町を形成しており、農業と熱帯柑橘類を育てる豊かな地となっています。人口は一万六千人です。
アーノルドは、遠くに見えるピンク色の建物を指さして、それがカジノになるはずの建物であったことを説明しました。インティファーダが起こる前に、イスラエル人用に建てたものだったそうです。そして90号線からエリコに入る道路は遮断されています。イスラエルはエリコを迂回するバイパス道を代わりに作りました。
私は、まるでサマリヤ地方を避けて歩いたユダヤ人と重なるので、いつまでも変わっていない姿を残念に思いました。
ここから伝承的にイエス様が誘惑を受けられたとされる山が見えます(マタイ4:8‐10参照)。中腹にギリシア正教の修道院があります。
3.ギルアデ
ヤボク川
そしてしばらく車を北に走らせると、右にヨルダン川にヤボク川が流れ入っていく所が見えます。写真では霞がかかって見にくいですが、ヨルダン川の向こう側はずっと高地(というか、こちら側が渓谷になっていて低い)だったのですが、その部分だけが低くなっています。ヤボク川が、ヨルダン川に流れ込んでいるため、その部分だけが侵食されているためです。
このヤボク川からガリラヤ湖の下を流れるヤムルク川の間の、ヨルダン側の地域を「ギルアデ」と言います。
アブラハムがカラン(ハラン)からカナン人の地に入るとき、初めに着いた町がシェケムでした(創世12:5)。ここの左側に、シェケム(ナブルス)に向かう57号線があります(左写真)。(Google地図)シリヤ地方からヨルダン川を越えるには、この急な勾配を下ることはできないので、このヤボク川沿いに下って来ます。だからアブラハムも、ここを通ったはずです。そしてヤコブも、シリヤ地方からこちら側に戻ってきたのですが、ペヌエルの所で神の御使いと格闘しました。そしてエサウと会って、彼から離れて、かつてのアブラハムと同じようにシェケムに行ったのです。ヨルダン旅行の時に、再びヤボク川を見ます。
そしてヤボク川の右(南)に、「アダム」という町があります。ヨシュアらがヨルダン川を渡るとき、川が堰をなしてとどまったのですが、それはアダムの町からであると書いてあります(ヨシュア3:16)。先のエリコの町から北に約20キロはあります。ここの部分で動画を撮ったので、こちらをクリックしてください。
そして右の写真は、私たちがヨルダン川沿いを走っていた時、横目で見ていた風景です。イスラエル側もヨルダン側も緑がありますが、その間にへこんでいる部分に、ヨルダン川が流れています。そして一番手前に見えるのはフェンスです。これが何重にもヨルダン川沿いに設置されています。その間にイスラエル軍の巡察ジープが走る道があり、フェンスに沿って土がならしてあります。足跡によってフェンスを乗り越えた者を見つけるためです。
ヨルダン側に対してはこのよう防御をしていますが、パレスチナ側にも必要ということで分離フェンスを建てました。建てたら、テロ事件が激減しました。フェンスが有効に働いていることを示しています。
アベル・メホラ
さらに北に上がって、途中で左に見える小高い丘の所で駐車しました。(右写真がそれですが、おじさんは写真料を請求していたみたいです。)ここは「アベル・メホラ」と言います(聖書地図)。士師ギデオンがミデヤン人を追った場所のひとつですが(士師7:22)、預言者エリシャ出身の町です(1列王19:16)。エリヤはギルアデ出身ですが(1列王17:1)、後継者エリシャはここの町でした。
エリヤが、サマリヤのイゼベルから逃げて(私たちの南西にあります)、ユダ、ネゲブ、シナイ山まで逃げました。そしてそこで神から語られて、エリヤはここまでやって来ました。エリシャは畑を耕していました。エリヤが自分の外套をエリシャにかけて、彼の預言者の働きを受け継ぐ決意をします(1列王19:19-21)。
4.ベテ・シャン
私たちはかなり北上して、ガリラヤ湖に近づいています。そして、大きな目的地の一つである「ベテ・シャン」に着きました。ここは比較的大きなイスラエルの町であり、ここのファラフェル店で昼食を取ってから、ベテ・シャン国定公園に入りました。
ベテ・シャンは、下ガリラヤを東西に貫くイズレエル平原への入口の峠の一つになっています。ヨルダン川に流れるハロデ川の南に位置します。後方に見えるのが、エジプトの古文書にも記録されている、旧約時代のベテ・シャンの丘状遺跡です(20の町が埋まっているそうです)。マナセ族に割り当てられましたが(ヨシュア17:11)、カナン人住民からそこを奪い取ることはできませんでした(士師1:27-28)。
サウルが王の時、ペリシテ人がこの町まで攻めてきました。(シェフェラの旅、またユダ山地北部の旅でも、ペリシテ人とイスラエル人の戦いの跡を追いましたが、ここまで内陸深くまで侵入していていました。)サウルがここで戦いに敗れ、息子ヨナタンと共に倒れます。それをペリシテ人が彼の首を切って、死体を城壁にさらしました。ヨルダン側の町、ヤベシュ・ギルアデの町の人々がこの話を聞きました。覚えていますか、かつてサウルはヤベシュ・ギルアデの住民をアモン人から救うために戦いました(1サムエル11章)。彼はベニヤミン族ですから、彼らの血が入っているのです(士師21:8-12)。彼らは自分たちの町で丁重に葬りましたが、後にダビデがヨナタンの遺骨と共にベニヤミン領の町に移して葬っています(2サムエル21:14)。
ソロモン王は、ここを十二の地区の一つの町にしました(1列王4:12)。そして後にアッシリヤに滅ぼされましたが、ギリシヤ時代からこの町が建て直されます。そしてローマ時代に全盛を迎えます。ローマのポンペイウスは、紀元前63年にここを「デカポリス」というユダヤとシリヤにあるローマの十の町の一つにしました。そしてこの町の名称はギリシヤ時代の「スキトポリス(Scythopolis)」としました。他の九の町はすべてヨルダン川の向こうにあり、それをヨルダン旅行の時に見ますが、イスラエルにはこれが唯一です。イスラエルにおいて、最も大きいローマの都市遺跡となっています。そして、紀元749年に大地震が起こり、この町が滅びました。その爪痕も遺跡の中に残っています。
まず私たちは円形劇場を見ました。これは後に訪れるカイザリヤにあるものと似ています。二世紀に造られたものみたいです。座席の上の部分が黒くなっていますが、363年の地震で崩れ落ちたそうです。
そして浴場の遺跡を見ました。ローマ時代の遺跡には必ず浴場がありますが、ベテ・シャンにはものすごいたくさんあったそうです。その一つが下の写真ですが、この小さな円柱の上に風呂の底の床があり、下に熱風を入れることによって水を温めていたそうです。そして、この遺跡の上にローマ式風呂の入り方の説明がありました。これは貴重なので、全部掲載したいと思います。
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ローマ人はまるで、日本や韓国の健康浴場のようだったんですね!
そしてベテ・シャンは、他のローマの町と同じくカルドがあります。南北の通りと東西の通りです。南北のがプラディウス(Pladdius)通りと言います。浴場の北側、プラディウス通りの東側にシグマ(Sigma)と呼ばれる半円形の広場があります。その周りに部屋があるのですが、その床にはきれいなモザイクが敷かれています。その一つが下の写真です。ローマ神のテュケーだそうです。
そして私たちはプラディウス通りの北端まで来ました。ここに東西の通りが走っていますが、柱がたくさん倒れていて、地震の大きさを知ることができます。
東側
(この通りは、あえて発掘を完成させていないそうです。考古発掘において、一度にすべて発掘するのではなく、時を経て技術が進歩する時まで温存するという方法も取るそうです。)
西側
北側から同じ所(手前にある復元模型を比較してください。ローマ式噴水だそうです)
そして私たちは、旧約時代のベテ・シャン遺跡に登ります!まず、登った後の上の写真の風景を動画でご覧ください。
下の写真は、この丘の上から見えるギルボア山です。サウルはそこに陣を敷いてペリシテ人に対峙していましたが、恐ろしくなりドルにいる霊媒女の所に行きます。そしてギルボア山の戦いに敗れ死んだサウルが、ペリシテ人によってこの町まで連れてこられました。
この写真では撮り損ねましたが、右側に「モレ山」があります。南側に「シュネム」があります。エリシャがシュネムの女の息子を生き返らせた所です(2列王4章)。そしてその北側が「ナイン」の町です。今度はイエス様が、やもめの息子をよみがえらせました(ルカ7:11-15)。
そして反対側を見ると、ヨルダン川と向こう側が見えます。右(南)のほうに、ヤベシュ・ギルアデがあります。そこからやってきて、サウルの死体を引き取りました。
上の二つの写真を含む全体を撮った動画がありますので、こちらをクリックしてください。(注:私が説明で、「ベイト・シェアン」と言いましたが、「ベテ・シャン」の誤りです。)
それから北東側に来ると、下にハロド川が見えます。その向こうには池が見えますが、それは魚の養殖場です。
そして頂上にはさまざまな時代の遺跡があるのですが、サウルの死体がここに持ってこられた話を下の写真のように残しています。アーノルドが写真に収めていたので、かなり新しいものではないかと思います。
そして入口のビジター・センターまで戻りました。かなり暑かったので室内で涼んでいたのですが、下のように旅行仲間はアーノルドとふざけています!(写真をクリックしたら、動画が始まります。)
5.ヤムルク川
下は、ガリラヤ湖の南で、ヨルダン川を撮った写真です。背後はゴラン高原(バシャン)です。
そして私たちは、あともう少しでガリラヤ湖畔に到着します。けれども、もう一つ訪問するところがあります。ガリラヤ湖のすぐ南に、ヨルダン川に流入するヤムルク川です。ヤムルク川はヨルダンを流れていますが、二つの川が一つに合流するところは、イスラエルとヨルダンのまさに国境地点にあるため目の前で見ることができます。
ここは「ナハライム」と呼ばれています。その意味は単に「二つの川」というものです。ヤムルク川は東西に、ヨルダン川は南北に走っていますが、ヤムルク川の北がバシャン、南がギルアデになります。下の写真は水力発電の「跡」です。1948年の独立戦争以降、使用しなくなったそうです。
そして次の写真をよく見てください。イスラエルとヨルダンの国旗が並んでいます!こんなに接近して私たちは国境にいるのですが、この二つが並んでいるのは、本当に不思議です。平和条約が結ばれていることの象徴です。
さらにヨルダン側には、故フセイン国王と現国王アブドラ二世の肖像があります。
6.ノアム&ジョアンさんの証し
そして私たちはついに、ガリラヤ湖に到着しました!ホテルは湖の南端にあり、「マアガン」というキブツが運営している「マアガン・ホリデー・ビレッジ」です。食事がエルサレムのシオン山ホテルより劣りましたが、部屋も景色も最高でした。前回の旅と同じく、エルサレムのホテルではインターネット接続料が異様に高いのに対して、このホテルではロビーで無料で使うことができます。ここで私は、現況報告をブログに書き、またスカイプで妻にたくさん電話しました。
そして、今日の講義の時間は、イスラエルで労苦しておられる二人の奉仕者が証しをしてくださいました。エルサレムで、サーシャさん・リアナさんご夫婦が証ししてくださいましたが、このお二人が通った集会(教会)が、ノアムさんが牧会をする所だったということです。そして彼と奥様のジョアンさんは、どちらもアーノルドから弟子訓練を受けたのこと。だいだいどういう人間関係のつながりがあるか、分かりました。
そしてこのお二人は、私個人とまったく無縁の方ではありませんでした。アーノルドは5月初めにハーベストタイム主催の日本のセミナーで教えたのですが、その一ヶ月前、「ハーベスト再臨待望聖会」でご講演されていたお二人だったのです。私はその頃、日本には不在だったので初めはよく分かりませんでした。
ノアムさんの証しは、彼は米国人で異邦人だということ(サーシャさんと同じですね)。けれども、11歳の時に回心、学校のクラスの仲間の八割がユダヤ人だったことがあり、ユダヤ人への愛、思慮深く伝道することについて神がその心を与えてくださいました。大学では元々UCLAでへブル語を専攻していたので、実地学習をイスラエルのヘブライ大学で行ない単位を取ることができたそうです。アメリカに戻ってからジョアンさんに会いました。イスラエルにいた時は気づかなかったけれども、ジョアンさんによると、メシアニック集会があるとのこと。そしてイスラエルで聖書を教える学校を設立しようとしている人がいる、とのこと。一年半後に結婚、ダラス神学校に通い、イスラエルに戻ってアーノルドの指導の下、働きを始めました。働きを始めて28年だそうです。
ジョアンさんは米国系ユダヤ人で、アーノルドを知っている人に伝道を受けイエス様を信じました。
イスラエル人信者は極めて少なかったですが、80年代、世界に旅するイスラエル人がイエス様に触れて、その彼らがイスラエルで伝道を始めました。「私はユダヤ人でイスラエル人だ。そして私は、イェシュアをメシヤとして信じている。」これはタブーであったし、いやタブーであったからこそ多くの好奇心を引き寄せました。今は、信者は八千から一万人がおり、集会は主な都市であれば必ずあるそうです。そして大きな流れの変化は、90年代に、ロシアから大量帰還したことです。ユダヤ人もいれば、その家族であるロシア人もいます。霊的な飢え渇きが強く、イエス様に無条件に拒否反応を示しません。
お二人は、ヘブル語のみの礼拝を始めたそうです。私もすでに二つの集会の礼拝を経験しましたが、一つは英語だけ、もう一つはヘブル語・英語の通訳、そしてロシア語もヘッドフォンで通訳していました。これだと、現地のイスラエル人はここはイスラエルではなく国連みたいだ、異邦人のメシヤだと、自分に関連づけることが難しくなるからだ、と言っていました。
そしてメシアニック集会は互いに協力しています。そして伝道も精力的に行なってきました。路傍伝道もしたし、「ジーザス」の映画を訪問伝道でビデオを持っていきました。そして興味深いのは、「ニュー・エイジ・フェスティバル」という祭典に参加して伝道していることです。イスラエル人は軍務が終わると東洋に行きます。そして東洋神秘にはまって帰ります。そして、ここでもそうした集会を始めました。それで良かったのは、彼らは新奇なものを求めてやってくることです。だからメシアニック信者がブースを出して、ヘブル語の新約聖書と他の書籍を用意します。こうした雰囲気の中ではこれも問題ないのです。そして今は、インターネットの伝道もよくしており、その匿名性から、彼らは危険を冒さずにキリスト教関連の資料に触れることができます。またイスラエル軍には、今、300人の信者の若者がおり、彼らが仲間の兵士たちに信仰を分かち合っているそうです。そして時に宗教的狂信者から物理的な迫害を受けますが、それがかえって公にさらされ、メシアニック信者の存在が、彼らが普通の人々であることが、明らかにされたとのことです。
そして最後に祈りを要請していました。イスラエルの社会は非常に流動的なので、人々の必要に敏感になり、思慮深くなって伝道できるように祈ってくださいとのことです。そして二つ目の祈りは聖書教育です。基本的教理を逸脱する人々が出ています。例えばメシヤの神性を否定するとか。
ジョアンさんの証しに入りましたが、彼女は72年に、第一回目のアーノルドのイスラエル旅行に参加しています!その時はホテルではなく野外宿泊、講義もワゴン車の中で地図を垂れ下げて行なったそうです!「あなたたちは幸せなのよ」と言われましたが、この膨大な情報を詰め込む旅行にへとへとになっている私には、何の慰めにも
なりませんでした!そして彼女も、個人伝道について証ししてくださいましたが、ほとんどの人が一度も福音を聞いたことがないこと、そしてさまざまな質問や疑問をぶつけてくるけれども、非常に興味を持っており、最後は感謝されることなどを話されました。
そして私は、全ての仲間が帰った後に、日本に行かれたそうですね、と話しかけてみました。お二人は、「アーノルドの前座でしたけどね。」と謙遜されていましたが、日本をとても気に入っておられました。ジョアン日本の自然の美しさ、人々の秩序正しさ、親切などに感動を受けましたが、非常に興味を持ったのは、「日本人とユダヤ人は信仰を持つことについて、同じ葛藤を通る。」ということでした。よく考えてみると、まったくその通りです。つまり、自分が日本人であることを信仰を持つことによって、なくしてしまうのではないかという懸念です。いつもは無宗教である人が、いざクリスチャンになるかどうか真剣に考えると、「先祖の墓はどうする?」など宗教的になります。これが、世俗的ユダヤ人がイエス様のことを考えると急に自分のユダヤ性を考え始め、心配するとのことです。似たような決意と献身が、信仰に必要です。
私はお二人とアーノルドに、私の証しをしました。「東洋神秘に走るイスラエル人たちが本当に信じられない。私にとっては、神社や寺などに囲まれて育ったから、偶像から立ち返って、生ける、イスラエルの神に出会うことができたのに!」笑っておられました。そしてアーノルドにも、「どうして日本に継続して行くのですか?」と尋ねたところ、一言、「日本の国が好きだから。そこの人々が好きだから。」でした。にこっと笑っています。三人とも本当に日本に行くのが楽しいみたいです!