イスラエル・ヨルダン旅行記 6月6日 - シャロン平原
1.キブツ「マアガン」
2.カイザリヤ
3.サムエルの墓
4.スコパス山
今日はガリラヤ地方を発ち、再びエルサレムのシオン山ホテルに戻る旅です。エルサレムからガリラヤに来た時は東のヨルダン渓谷を通りましたが、今日私たちは、西の地中海沿岸地域、特にシャロン平原を通ります。4日に訪ねたカルメル山の下からテルアビブ近郊のヤルコン川にまで広がっている平原がシャロン平原です。
聖書の歴史に従うと、ヨシュアがそこの王を打ち(ヨシュア12:18)、マナセ族の割り当て地になりました(同17:7‐10)。ダビデがそこに家畜を飼わせています(1歴代27:29)。そして、アッシリヤの王シャマヌエセル(1列王17:3)がサマリヤを陥落させた時にこの地域も破壊しました。ずっと後にアレキサンダー大王が来てそれからヘレニズム化が進み、ハスモン朝、そしてローマへと移ります。
この地域で有名な港町は「ヨッパ」です。ここからソロモンの神殿に必要なレバノン杉が陸揚げされました(2歴代2:16)。そしてヨナが主の御顔を避けてタルシシュに向けて船出したのもこの港です。新約時代には、ユダヤ属州の首都となった「カイザリヤ」が重要な港町となりました。
イザヤ書には、シャロンの破壊と回復のどちらもの預言があります。「国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。(33:9)」「盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。(35:2)」ここにあるように、シャロンはカルメルと並んで、花を咲かせる豊かな地として知られています。雅歌にある「シャロンのサフラン、谷のゆりの花。(2:1)」はあまりにも有名ですね。
かつて、この地方は湿地になりがちだったので、「海沿いの道(ヴィア・マリス イザヤ9:1)」はこの沿岸地域を避けて内陸に走っています。けれども近年、この砂丘の地が柑橘類に適していることが発見され、現在ではイスラエルの柑橘類産業の主要地となっています。
1.キブツ「マアガン」
私たちは「マアガン・ホテル」を出発する前に、このホテルを経営しているキブツ「マアガン」を見学する恵みに与りました。過去の二回の旅行でキブツによる農場を外から眺めるだけでしたが、今回は中を見ることができ、とても嬉しかったです。イスラエル建国とその成り立ちを知るには、キブツ抜きでは語ることが決してできません。
マアガンに広報担当の方が案内してくださいました。まず入口でキブツの概要を話してくださいました。
「現在270のキブツがあり、主に国境沿いにあります。構成員は12万人でそのうちマアガンは約300人います。マアガンの横にあるキブツ「デガニヤ」が1910年に始まりましたが、今年でちょうど100年になります。
キブツは、主にロシアとウクライナ出身の若者たちによって始められました。二つの思想を柱にしています。当時の世情を考えれば良いですが、一つは「社会主義」でした。といってもロシアの社会主義とは異なり、純粋な意味での社会主義、つまり財産を分かち合い、連帯を深めることです。当時は貧しかったので、こういった共同生活が必要だったのです。そしてもう一つの思想は、「シオニズム」です。ユダヤ人は世界の離散の地から、父祖の地また聖書の地であるイスラエルに帰還しなければならない、という考えです。この思想を基に、キブツがイスラエル国家の開拓者となりました。
キブツには三つの特徴があります。一つは、私有財産がないことです。服や自転車など日常生活用品は別にして、その他全てはキブツ共同体のものです。二つ目に、平等の給料だったということです。マアガンにはホテル、学校、クリーニングなどの業種がありますが、一家族が受ける給与は均一でした。「でした」と言っている訳は、今は変わったからです。三つ目は「直接民主制」です。すべての構成員に投票権が与えられ、キブツの運営決定事項に参与しています。
現在のキブツは当初より形態がかなり変わりました。特に第二の点において変わっており、他の場所で兼業している人がいますし、またキブツ内でより多くの時間を働いている人にはより高い給与が支払われています。
キブツには主に二つの業態があります。一つは経営であり、約150人の構成員によるホテル、農場などがあります。もう一つはキブツ内の運営です。学校、養老施設、文化・スポーツ施設など、キブツの住民向けのサービスです。」
そして旅行仲間から、「土地の所有権は誰に属しているのか」という質問に対しては、「国家のものであり、キブツが長期借用している。用途も定められているので他の目的で使用できない。」とのことでした。
中に入ると、そこは閑静な住宅地の様相を呈していました。私は、カリフォルニア州にいた時の住宅地を思い出しました。初めに訪れたのは、養老施設です。ここでおじいさんとおばあさんが刺繍をして、それを売って仕事をしています。キブツ内では老齢者は、生活費、医療費など全てが賄われています。主に1940年代、第二次世界大戦時に帰還した東欧(ルーマニアやハンガリー等)からの人々で、このキブツまたイスラエル建国の先駆者たちです。
私たちの仲間にハンガリーから来た夫婦がいますが、彼らが一人とハンガリー語で会話していました。彼らによると、流暢なハンガリー語を話したとの事です。
次に訪れたのがクリーニング場です。ホテルからのベットのシーツなどの洗濯をここですべて処理しています。
次は幼稚園です。「教育はキブツ生活において重要な部分を占めています。キブツの中で育て有能なキブツ構成員になるためですが、現実は、多くの子が自分のキャリアを求めたり、自分の給料、私有の車や家を持ちたいと欲し、キブツから離れていきます。そのため、若い世代の関心を引くためにキブツの様態が変わったといえます。」
そして学校に通うことのできる資格は、最低一年以上キブツに住んでおり、また構成員の投票によって受け入れを許可するかどうか決定するそうです。ただ、学費を払えばキブツ外にいる人が学校に通わせることができるそうで、キブツの教育がそれだけしっかりしている現れでしょう。
子供たちは、この幼稚園の場合午前7時から4時までここにいて、その後、親のところに帰ります。小学校も同じ制度です。そして宗教については、ほとんどのキブツでもそうだが宗教的ではなく、ユダヤ教の律法や戒律は守っていません。ラビもいないし、シナゴーグにも通っていないし、コーシャ(食物規定)も守っていません。(イスラエルには25の宗教系キブツがあるそうです。)そして、文化的、慣習的なもののみ守っていて、例えば祭日には学校も休みになり、バル・ミツパ(成人式)も行ないます。
そして次に見たのが右の写真ですが何だか分かりますか?防空壕です。
幼稚園生がここに逃げ込んで来ることができるようにするためのものです。六日戦争以降、ここは静寂を保っていましたが2006年にレバノンのヒズボラがミサイルをティベリヤに撃ち込みました。それ以降また静かになりましたが、いつでも用意できるようにしています。
そして次に、いろいろな機能を揃えている建物に行きましたが、医療所や食堂、小売店などが入っています。そして運営や財務などの事務所もあります。キブツ構成員は必ず何らかの仕事を持っていますが、例えば近くで自転車を修理していた風景を見ましたが、これも仕事の一つです。一部の人はキブツの外で、学校の教師であるとか仕事をしています。
ホロコースト生存者がこのキブツにもいるので、その記念碑も見ました(右上写真)。44年3月に、ハンガリーがドイツに奪い取られました。ユダヤ人の多くがアウシュウィッツなどの強制収容所で殺害されました。生き残った人々が家族や親族の名前をここに記しています これらの人々は墓がないし、その消息でさえ分かっていない人もたくさんいるのでこのように記念碑にしています。イスラエルが国として記念日に式を持っていますが、マアガンもここに来て追悼式を持っています。その時に生存者が個人的な経験をここで話します。また、もう一つの部屋には中東戦争で戦死したマアガン出身の人たちの記念碑があります。
そしてガリラヤ湖を見ました(左写真)。以前はロープが張ってあるすぐ近くまで湖水が来ていましたが、それだけ水位が下がったとのことです。右上に見える島は、本来なら見えてはいけないものなのだそうです!イスラエルは三割の水をガリラヤ湖に頼っているので、これは深刻な問題です。近くにポンプがあり、そこからイスラエル各地に送られていきます。また、ヨルダンとの平和条約により、水の一部をヨルダンにもあげなければいけません。
もう六月に入ったので、あと三ヶ月は雨が降りません。十月になってたくさんの雨が降ることを願っています。
マアガンには160ヘクタールの土地があり、農業を営んでいます。アボカド、マンゴ、バナナ等です。他のキブツでは大規模な産業を営んでおり、潅漑施設やコンピューターによる制御などもあります。何百万ドルの価値のある産業製品を世界に輩出しています。人口的には1.5パーセントしかいませんが、9パーセントの産業製品を作り出しています。
そして次に見たのは家屋です。四家族が住んでいますが、見てお分かりの通り塀がありません。アメリカでも似たような感じですが、ここは隣の家との間の塀もないのが特徴です。
これで見学を終えました。感想は、「不思議な連帯意識と勤労精神、そして創造性を持っている」でした。アメリカのような農業が発達した所では個人あるいは法人所有者がいて、大規模な機械化によるものが特徴ですが、ここは共同体として行なっています。けれども共同体にしてしまうと、その多くは勤労意欲がなくなり効率性がなくなりますが、ここでは個々人に働く権利と責任をしっかりと課しています。そしてこのような労働組織はたいてい硬直化しがちですが柔軟に産業の多様化にも対応し、かつ先端技術を導入して国の農産業を一手に引き受け、世界的な農産物輸出国にするほどの創造性を持っています。この力はどこから出てくるのか不思議ですが、この民を選ばれた神ご自身からのものであることが分かれば、うなずけます。
ホテルに戻り、出て行く準備をしました。記念に、敷地内を歩き、甲高い鳴き声を出している孔雀を撮りました。母親(手前)、父親(後ろ)、そして母親に付いて来ている子供二羽の家族写真です。
2.カイザリヤ
私たちは4日にメギド方面から帰ってきた道を再び進みました。まず767号線、それから65号線に入ります。65号線はそのままメギド交差点につながり、そこでイズレエル平原の主な出入り口であるメギド峠を通過しました。(ここをクリックしてください、アーノルドが運転手でメギドと通っている映像が出てきます。)そのまま65号線を突き進めば、もうそこはカイザリヤです。今は裕福な住宅地になっており、ゴルフ場で有名だそうです。
過去の二回の旅行でここに来ていましたが、南のヘロデ宮殿の部分だけを見ただけで、北にある港は遠巻きに見ただけでした。けれども不思議なことに、アーノルドは南の部分は大きく省いて、北の遺跡に多くの時間を割きました。
上は題名リンク先のNETのサイトから借用したものです。右が南側で、左が北側です。南には、円形劇場(Theater)を始め、ヘロデ宮殿(Palace)、また競馬場(Hipoddorome)の遺跡があります。円形劇場の近くに南側の入口があります。そこでアーノルドがカイザリヤ全般の説明を手短に行ないましたが、彼の聖地旅行手引("Study
Guide of Israel: Historical and Geographical")にもある説明も取り入れながら下に説明したいと思います。
先に話したように、シャロン平原の港と言えば、ヨッパしかありませんでした。もともと国際幹線道路である「海沿いの道」や「王の道」などに象徴されるように、国際貿易は陸上で行なわれていたためにこの地方の海洋貿易はそれほど発達していなかったようです。けれども、建築物にかけては天才のヘロデ大王が、紀元前22年、ここに人工防波堤を造り、ローマ帝国ユダヤ属州の首都となるカイザリヤの町を建てました。元はギリシヤ時代のストラト塔(Strato
Tower)という小さな港の跡地だったそうです。
上の写真にあるように、防波堤の跡が港の周りの海中に見えますが、当時、水中で固形化するコンクリートを使用してこれらを建てたのですから、驚かざるを得ません。300もの船を停泊することができたそうで、現代の港よりも大規模であったと考えられます。中心は、船が港に入ってくると正面に見える、皇帝アウグストに捧げる宮でした。この町を皇帝に献上する目的でヘロデは建てました。
ここにユダヤ属州のローマ総督が駐在していました。したがってピラトも、過越の祭りなどのユダヤ人の祭りの時にここからエルサレムに赴き、アントニオ要塞にある官邸に行きました。彼の名が記録されている碑もここで発見されています。
そしてこの町が、福音宣教において極めて重要な町になります。ユダヤ人の住民もいましたが、極めてローマ色の強い、発達していたけれども堕落していた町で、異邦人に対する初めての福音伝道が行なわれたのです。ヨッパにいたペテロが幻を見て、それでカイザリヤに駐屯していた百人隊長コルネリオとその家族が福音を信じ、聖霊のバプテスマを受けました(使徒10-11章)。伝道者ピリポは、サマリヤ人そしてエチオピヤの宦官に福音を宣べ伝えた後、ここに住み着きました(使徒8:40)。そして、使徒パウロがエルサレムに行く途上、彼の家に宿泊しましたが、ピリポには預言をする四人の娘がいました(同20:8‐9)。
この後すぐ円形劇場(左写真)を訪れますが、そこはヘロデ・アグリッパ一世が演説を行なったところであり、そこで彼は天使に打たれて死にます(同12:23)。そして使徒パウロがエルサレムに行った後で、ユダヤ人の騒動が起こり、ローマの千人隊長によって監禁された後、ここカイザリヤに移されました。そこで彼は、総督ペリクス、フェスト、そしてアグリッパ二世による裁判を受けます(使徒23-26章)。そのパウロの監禁されていた所と裁判の跡もここで見つかっています。
新約聖書時代だけでなく、その後の歴史でも重要な事件が起こりました。ここが紀元66年に勃発したユダヤ人反乱の起点です。二万人のユダヤ人が一日して散っていきました。第二次ユダヤ人反乱(132‐135年)においては、ここからローマ軍が制圧に各地に出かけ、首謀者バル・コクバをここで死刑にしています。それから、ビザンチン時代に、キリスト教にとって重要な町となります。教父として名の高いエウセビオスとオリゲネスがここを拠点に活動していました。
それからイスラムの支配時代は衰退しましたが、十字軍がここに来た時に再びカイザリヤを再建しました。その遺跡もたくさん残っています。
そして私たちは円形劇場を見ました(左上と右の写真)。古代に残っていた遺跡を復元できるところは復元して、このように現在も野外劇場として使っています。3500人収容できるそうで、イスラエルにある古代円形劇場の中で最古のものです。舞台裏に壁がありましたが、それは後ろにいたライオン等の獣が会場に入ってくることのないようにするためだったそうです。
ここに使われていた石の中に、ピラトの名が言及されている碑が再利用されていました。「ローマ長官、ポンテオ・ピラトがティベリウスを敬して、カイザリヤの人々に宮を献上いたしました。」と書いてありました。(写真はこちら。)
それでは、右上の劇場の写真をクリックしてください。旅行仲間のブルックさんが、プロ顔負けの歌を披露してくれました。
そしてこの円形劇場の北隣に、ヘロデの宮殿そして野外劇場(競馬場)があるのですが、それを何とアーノルドは、すっとばそうとしていました。仲間の一人が、「ここで10分ぐらい時間を過ごさせてくれ。」とお願いしたので、かろうじて見ることができたのですが、私はすでにここに二回来ているので見なくても問題なしでしたが、初めての人は絶対見逃してはならない所です。
上の写真が当時のヘロデ宮殿の地図ですが、右上端にあるのが競馬場で、そして1番のところは海の中に突き出ていました。上の円形劇場はこの写真ですと、右下にあります。人々の娯楽施設の間に、このようにヘロデの力と威厳を誇示していたのです。下はその宮殿を右端から、左(海の方)に向かって撮った写真です。
下は、海の突き出た部分にある、ヘロデ宮殿内にあったプールの跡です。海水ではなく実際に真水が入っていたそうです。そして、真ん中には彫像が立っていたそうです。この下にあった地下牢にパウロが監禁されていたのではないかと言われています。
下は、ヘロデ宮殿から競馬場を撮った写真です。向こうに港の一部が見えます。
そして宮殿の中に、パウロが総督フェストに対して、カエザルに上訴した時の法廷の場であると考えられる所があります。
この付近の全景の写真がBibleWalks.comにあります。
そして私たちは再びワゴン車に乗り、北に進みました。カイザリヤの町の北側には、あの有名な水道橋があります。
カイザリヤの町は非常に大きかったので、水は中にある泉だけでは到底間に合いませんでした。それで10キロ北にあるカルメル山から水道を引いてきたのがこの水道橋です。BibleWalks.comのサイトに詳しい説明と多くの写真が掲載されています。
そして私たちは、カイザリヤの北の部分、十字軍と、ローマ・ビザンチン時代の港の遺跡を見ました(NETから借用)。
下の写真をご覧ください。入口(Entrance)から入ると、まず見えるのが下の十字軍の町の入口です。
下は拱廊(きょうろう アーケード)の跡です。同じようなアーチ型になっていますね。これが十字軍時代建造物の特徴です。
十字軍はかつてのローマ・ビザンチン時代のカイザリヤの上に城を建てました。かつてのカイザリヤと比べれば十分の一程度だったそうです。次に見たのは下の写真で、城壁と壕(moat)です。城壁(写真の左)が斜めになっているのは、垂直の壁にすると外敵からの矢の攻撃をまともに受けるからでした。また、写真の中心からやや左下にある(紫色のバックパックの左)のは砲台の跡です。
そして私たちは港の方向に進みました。船が入港するときに正面に見えたのは、アウグストに捧げる宮でした。そしてその敷地に六世紀頃、キリスト教徒が教会を建てました。下がそのの写真です。ヘロデ大王は、エルサレムにイスラエルの神のための宮を建てたと同時に、偶像の宮もこのようにして建てました。ソロモン王も晩年に同じことをしてしまいましたが。
(左がアウグストの宮で、右がビザンチン式教会)
そしてこの遺跡の反対側に、この宮の擁壁(Podium for Temple to Augustus))があります(下の写真)。ローマ時代は芝の手前の遺跡の所が埠頭でした。パウロがカイザリヤから船出した時、ここの港を使ったことは間違いありません。(写真をクリックしてください。この壁を撮った映像が始まります。)
この右側にはモダンなレストランが並んでいますが、今のイスラエルはカイザリヤをこのように古代と現代を織り交ぜた町にしています。そして私たちは、上の写真の左に見える桟橋(pier)に向かいました。
埠頭には下の写真のお店がありました。Sushi & Cafeとありますが、多くの人からイスラエルのsushiは到底、日本人が考える寿司ではないと聞いています。
そしてこの建物の裏が、下の写真のようになっています。下からローマ・ビザンチン時代、イスラム時代、十字軍時代の遺跡から成り、そして一番上が現代イスラエルの建物です。ピリポ・カイザリヤにあった遺跡と同じように、イスラエルの歴史と社会の縮図になっています。
ここの埠頭から北側に、先ほど見た競馬場、ヘロデ宮殿の跡、円形劇場が見えます。
そして左側が港です。
上の写真の左側を撮りました。正面の向こう側に、先ほど行った水道橋があります。そして海水面に濃くなっているところは、ヘロデが建てた防波堤です。
そしてさらに左が今の波止場です。下の写真をクリックしてください。この三枚の写真を映像として見ることができます。
上空からの港の写真を見ると、この遥か沖にまで防波堤が走っていることが分かります。
そしてお昼の場所を探しましたが、レストランは人でいっぱいで入れませんでした。それで出口に向かいました。その途中で、先ほど見た十字軍の壕を違った角度から撮ることができました。
そして下はローマ・ビザンチン時代の通りです。像の頭がなくなっているのは、偶像を信じないイスラムが来た時に行なった典型的な姿です。
3.サムエルの墓
そして私たちはカイザリヤを発ちました。近くの場所で何とか、レストランが並ぶところを見つけ、ファースト・フードかファラフェル・ピザのお店かに分かれました。私はファラフェルのお店で食べ、それから隣にあるアイスクリーム屋さんで、おいしいアイスクリームを食べました。
そして65号線に乗り、今度は6号線という比較的新しくできた道路に右折し、南下しました。この地域の南北に走る道路は、地中海沿岸にある4号線がありますが、6号線はもっと内陸にあり、シャロン平原の真ん中を走っています。
そして443号線に左折し、東に向かいました。443号線は1号線の北を走っていますが、ユダ・サマリヤ地方、つまり西岸地区の中に入っていきます。入り組んだところの隙間を走っているのでしょう、両側にフェンスが走っている所もありました。そして途中に「モディイン(Modiin)」の標識が見えました。ギリシヤのアンティオコス・エピファネス王に対して起こした、マカバイ家による反乱の発祥の地です。
そして到着したのが、ナビ・サムウィル(Nabi Samwil)です。「サムエルの墓」という意味ですが、5月28日のユダヤ山地の旅の時に学んだように、サムエルの墓は「ラマ」にありますが、ユダヤ教徒がサムエルの墓に行きたくてもアラブ人の町なので危険だから、ここにある十字軍の遺跡の上に建てたイスラム教寺院のところに移したそうです。
中に入りましたが、管理しているのはユダヤ教徒でした。外で歩いているのも正統派の人たちです。もう閉まっていると言われましたが、押し切って15分だけの時間をくれました。
ここを訪れたのは屋上からの景色です。エルサレム近郊にある山なので、5月28日のユダヤ山地の旅の復習、そしてこれから行くスコパス山の確認、さらに今ここにいる位置がギブオン人が住んでいたところという確認です。(下の景色の写真をクリックすれば、高画質の写真が出てきます。)
上の写真の、遠くに見える中央の丘のがサウルのギブアです。ヨルダンのフセイン国王が宮殿を未完成のまま引き下がった、あの丘です。そして左のアンテナ辺りにあるのがサムエルの墓がある「ラマ」です。そして右側がエルサレムの町で二つの小さな建物があるのがスコパス山、そして右にはオリーブ山があります。下に見えるのは、昔のシナゴーグの遺跡だそうです。
そして下がエルサレムの町です(写真上半分の部分)。中央の白い崖の下に走っている道路が1号線です。ヨルダン軍がここら辺からそこを通るイスラエルの護送車に攻撃をしかけました。
そして方向を西に向けます。手前に見える丘がギブオンです。
ギブオンは、ギブオン人の諸都市の一つであり、ヨシュアが騙されて彼らを盟約を結びました。(その諸都市の中にキルヤテ・エアリム(ヨシュア9:17)があり、私たちは既にそこを見ています。そしてダビデとサウルの子イシュ・ボシェテとが戦っていた時に、ヨアブとアブネルとが戦ったのもギブオンです(2サムエル2章)。さらに、ダビデとソロモンの時代、神殿が建てられる前に幕屋が立っていたのも、この場所です(1歴代16:39)。だからソロモンが王になってすぐに祈っていたのも、ここにあった高き所であり、そこで主は夢の中でソロモンに現れてくださいました(1列王3:5)。その高き所はここではなかったのか、とのことです。
以上ですが、この全体を私のルームメイト、ライアンさんが説明している映像を残しているのでここをクリックしてください。(こちらのページにも、ナビ・サムエルから撮った周囲の説明があります。)
4.スコパス山
そして私たちは443号線から446号線に右折して、エルサレムに入っていきました。東エルサレムにあるスコパス山です。
中央に岩のドームの屋根が見えますね。スコパス山はオリーブ山より北に位置しています。
ここは聖書的には「ノブ」という町です。祭司の町であり、ダビデが聖なるパンを求めて食べた場所(1サムエル21:1‐9)であり、それゆえここの祭司たちがサウルによって虐殺されました。そして、ここでアッシリヤの王の使者であるラブ・シャケが、エルサレムにいるヒゼキヤの側近らに叫んで脅したのがここです。「その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振りあげる。(イザヤ書10:32)」エルサレムを70年に破壊した時、ティトスがここに宿営を張りました。同じく、十字軍もここに宿営を張っています。
エルサレムを取り囲む山(詩篇125:2)は、合計 つあります。一つ目は先ほど訪れた「ナビ・サムエル」、二つ目はスコパス山、そして三つ目はオリーブ山です。それからオリーブ山の南側に、四つ目「つまずきの山(Mount of Offense)」があります。ソロモンが偶像の宮を建てたところです(1列王11:7-8)。五つ目は、エルサレムの南にある「悪巧みの山(Mount of Evil Counsel)」で、これから行く所です。そして六つ目は現在のシオン山です。
ユダヤ人はここにハダサ病院とヘブライ大学を建てました。48年の独立戦争によって事実上ここが使えなくなり、それぞれエイン・カイムと新エルサレムに新たな建物が建てられました。67年にイスラエルがこの地を回復後、キャンパスも病院も再会し、そのため病院も大学も二箇所に存在するようになりました。独立戦争直前に起こった、ハダサ医療従事者虐殺事件は、写真の下の部分に見える道路で起こりました。
そして車を少し走らせて、オリーブ山の裏にある見晴台に行きました。ご覧のように砂漠が広がっています。ユダの荒野です。このように、オリーブ山を越えると、すぐにユダの荒野が始まります。
そして最後に、エルサレムの南に廻りました。そこは「悪巧みの山(Mount of Evil CounselまたはAbu Tor)」です。そこから見えるエルサレムは絶景でした。下の写真をクリックしてください、高画質の写真が出てきます。
中央に、岩のドームが見えます。そして右側に見える塔のあるところがスコパス山、そしてさらに右に二つの塔があるのがオリーブ山です。エルサレムとオリーブ山の間を走るケデロンの谷が、ここからは見えませんが南に走っているヒノムの谷と合流して、ユダの荒野方面に向かっていく姿が立体的に見えます。エルサレムはこのように山に取り囲まれているため、地形の把握が本当に難しいですが、その分、方向や角度を変えると、いろいろな顔が見えてきて実に楽しいです。「山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(詩篇125:2)」
明日は、ついにヨルダン旅行に入ります!夜のうちに、レンタルしたワゴン車の四台のうち三台をベングリオン空港に返し、運転手はアーノルドの車で戻ってきます。最終日もこのホテルに立ち寄るので、ホテルでは、ガリラヤに行った時と同じように、ヨルダンに持っていく必要のない荷物をアーノルドの部屋に置いておきます。そして、ヨルダンへは観光バスに乗って国境まで行きます。