イスラエル・ヨルダン旅行記 6月5日 - 上ガリラヤ + 礼拝
1.シリアとの国境
2.バニアス(ピリポ・カイザリヤ)
3.テル・ダン
4.イエスの舟博物館
5.ティベリヤで夕拝
今日は第二回目のシャバット(安息日)です。私はこの旅で残念に思ったのは、昨年まで五週間の旅程が三週間に縮まったこと、殊に上ガリラヤに行かないことです。99年、08年にゴラン高原には行きましたが、なぜかテル・ダンには行きませんでした。今回、イスラエルに到着したのがアメリカの団体より二日前だったので、その時に行こうかと思っていたのですが、エルサレムからはものすごく遠いです(それで、パレスチナ自治区のヘブロンとナブルスを選びました)。
けれども、旅行仲間でガリラヤにいる時にその方面に行きたいと言う人が出てこないかと期待していました。そうしたら、アメリカからの旅行者マイケルが絶対にピリポ・カイザリヤに行きたいとのことです。彼は四人のワゴン車運転手の一人です。かつ、彼はイスラエル旅行が初めてなので、案内人が必要だということで、私にも話を持ちかけてきてくれました。「じゃあ、テル・ダンにも行かなきゃ。」と私は誘い、OKとのことでテル・ダンへの旅をすることができました!その他、ルームメイトのライアン、そして元カルバリーチャペルに通っていたとのことで仲良くなったパットというおばさんも同乗しました。彼女もそちら方面には行った経験があるので、不案内になることはほとんどなくなりました。
そして今回の旅で大きな収穫となった、もう一つの出来事がありました。99年にカルバリーチャペル・エルサレムで出会った宣教師Sさんが牧会している、ティベリヤにある夕拝で奉仕ができたことです。その人は今、ゴラン高原を拠点にしてガリラヤ地方で宣教の働きをしています。私はエルサレムにいるときはエルサレムのカルバリーチャペルの礼拝に行こうとしていたのですが、あいにく金曜夜の礼拝だったので行けませんでした。けれども、メールでSさんに連絡が取れて、ティベリヤで土曜の夕方に礼拝があるとのこと。「やった!」と思ったのですが、続けて文章はこうなっています。"We would love to hear what God is doing in and through your lives
so if you would like to share and teach the Word it would be a great blessing."(あなたの生活で神がどのように働いておられるのか私たちはぜひ聞きたいので、御言葉を分かちあってくださいませんか?)・・・イスラエルに来てまで御言葉の奉仕に与るとは思いませんでした(汗)。けれども「喜んで」と答えました。けれどもこれがとても実りあるものとなり、イスラエル宣教のことを深く知るすばらしい交わりとなりました。
1.シリアとの国境
ガリラヤ湖からピリポ・カイザリヤへ行く道は主にあります。一番単純なのは、フラ渓谷をそのまま北上する90番線の道。もう一つはゴラン高原経由で北東へ上がってから西に廻る道です。私はイスラエルは初めてだというマイケルとライアンのため、ぜひシリア国境を見せたいと思いました。「シリアは見たくないか?」との問いかけに返事はあまりよくなかったのですが、「とにかくゴラン高原から行こう。」と誘いました。
ガリラヤ湖の東に走る92号線を北上、そしてベツサイダ平野から87号線に右折しました。ここを走れば、カツリンというゴラン高原の首都方面に行きます。そのまま走っていくとシリアとの国境に近づきます。私はこれで三回目のゴラン高原ですが、やはり「バシャン」という聖書の地名のごとく放牧に非常に適した高地で、全然飽きません。ちょうど長野県やその周辺にある高原が、もっと広く続いているのを想像してください。
ここに入ると、48年から67年までここを占拠していたシリア軍の掩蔽(えんぺい)壕があちこちにあります。戦車の残骸もあります。これでようやくマイケルとライアンは、この地域の魅力を感じ始めたようです。そして、ついに以前私が二度来たのことのある、シリアとの国境地域に到着しました。正面にはキブツの畑が広がっています。その畑が終わるところが、ちょうど非武装地帯との境です。私たちの側には通信機器が頂上に林立する山があります。
上の写真は08年に撮ったものですが、様子はほとんど同じでした。そして写真をクリックしてみてください、動画が流れます。
2.バニアス(ピリポ・カイザリヤ)
そして私たちは、99号線に左折して西に行きます。ここから非常に細い、山道のような道路になり、運転手泣かせです。途中で、「ニムロデ要塞」行きの道が出てきたので、バニアスはもう少しです。
ところが、私たちは行き過ぎました。「テル・ダン」の標識が出てきたからです。それで私たちは引き戻って二・三分すると、今度は右側にバニアスの標識があります。私は99号線の北側にあるはずのバニアスがここにあるはずはないと疑いながら、仕方がなくマイケルに右折の指示を出しましたが、案の定、そこはバニアスの遺跡があるところではなく、「バニアスの滝」を見るための入口でした。バニアスは遺跡はごく一部で、自然公園が主体です。
そして道を尋ねるとさらに東に行ってくださいとのことです。行くと、あった、あった!なんと標識は西向きにしか付いていませんでした!東側から西に向かってやって来た私たちからは見えない角度にありました。
歴史
バニアス、そして次に見るテル・ダンは、イスラエル国の北端「ヘルモン山」のふもとにあります。その雪解けの水が泉となって川となり、ヨルダン川の最も大きな水源を成しています。したがって、他のイスラエルの地域とは異なり、木々と草で生い茂った豊かな所です。(左写真は、『パンの洞穴』の下にあるバニアスの泉から出てきた小川です。)
そのため、古代から人々はここを神々の宿る地として好んでいました。聖書にもその名残りがあり、この地域を「バアル・ヘルモン(士師3:3)」また「バアル・ガド(ヨシュア11:17)」と呼んで、「バアル」という神の名前を使っています。なぜ主が、イスラエルの民をこの水の豊かな地ではなく、もう少し南の乾燥した地を中心に住まわせたかが、こことテル・ダンを見て理解できました。
ギリシヤの支配者がこの地域に魅力を覚え、紀元前二世紀に「パネアス(Paneas)」という名をここに与え、ヘルモン山のふもとの崖にある洞穴を、パン神に捧げる動物犠牲の儀式に使い始めたと言われています。
そしてローマ時代に、皇帝はこの地域をアラブ系の部族イツリヤ人(ルカ3:1参照)に与え、後にヘロデ大王に与えます。その時彼は、皇帝に献上する意味で「アウグストの宮」をパンの洞窟の前に建てます。
ヘロデ大王の死後、息子の一人ピリポがフラ湖とゴラン高原の地域の国主になります。それで、皇帝に敬意を表して「パネアス・カイザリヤ」(『カイザリヤ』は皇帝の意味)と名づけ、この町は「ピリポ・カイザリヤ」として有名になります。地中海のユダヤ属州の首都である「マリティマ(海の)・カイザリヤ」と区別するためです。
そしてイエス様が弟子たちと共にここに来られて、キリスト教の信仰告白の柱となるペテロの告白がここで発せられたわけです。「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』(マタイ16:15-16)」
そして、ヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパ一世にこの地は受け継がれ、それからアグリッパ二世に受け継がれ、町はさらに大きくなりました。その時の宮殿の遺跡なども今も残っています。
それから、ビザンチン時代に入り、教会の跡も存在し、アラブ人の時代に入ったら、彼らはこれを「バニアス(Banias)」という名に変えました。理由は非常に単純で、アラブ語では"P"の発音が存在せず、"B"で代用するからです。その後、十字軍が到来しました。そのためこの遺跡のすぐ隣に「ニムロデ要塞」がありますし、この遺跡の敷地内にも十字軍の建物があります。
そしてマムルク時代、オスマン・トルコ時代を経て、現在に至ります。ここはシリア領でしたが、1967年の六日戦争によってイスラエルの支配下に入り、それからこの町の全貌をイスラエル人の考古学者が明らかにしました。
パンの神殿
まず私たちは、「パン(Pan)の神殿」に向かいました。まず、左のリンク先のページにある復元図を見てください。一番左にあるのが「アウグストへの宮」ですが、その奥が洞穴です。「パン」ですが、広辞苑には「ヤギの角と足を有する森林・牧人・家畜の神」とあります。このギリシヤ神が恐怖を引き起こすと信じられ、「パニック」という言葉ができたそうです。
昔は、この「パンの洞穴」からヘルモン山の雪解け水を蓄えた泉があったそうですが、今は洞穴の下にあります。かつて彼らはパンに動物のいけにえを捧げ、水の中に消えうせたらパンがその犠牲を受け入れ、近くの泉に血の跡が見えたら受け入れられなかった、とされていました。
そしてマイケルは、この洞窟の前で、ペテロの信仰告白の箇所を読み上げました。右写真をクリックすれば、動画が始まります。この悪霊的な異教儀式の舞台で、イエス様が弟子たちにご自分が誰なのかを聞かれたことは、まさに八百万の神々の国、日本でイエス様が生きておられ、私たちに同じ信仰告白を求めておられることが分かります。
そしてこの洞穴のすぐ左隣に、「アウグストの宮」の壁の一部が残っています。
そして洞穴の右には、「パンとニンフ(少女姿の妖精)の宮廷」があります。右写真の壁龕(へきがん)に、パンの像が祭られていました。
それからこの宮廷の右隣に、「ゼウス(Zeus)の宮」の跡があります。右の柱頭から手前にある遺跡がそれです。
ネメシス(Nemesis)神の宮廷がその右横にあります。ネメシスは、復讐とローマ帝国の正義の神だそうです。
その右横に、「神聖な山羊の墓の宮(The Tomb Temple of Sacred Goats)」の跡があります。犠牲となったヤギの骨がここで葬られたそうです。
そしてこの宮の手前に、「パンと踊る山羊の宮(The Temple of Pan and the dancing goats)」があります。壁龕にいるパンがフルートを吹いて、半円形の舞台で三匹のヤギが踊ります。
詳しくは、上の題名のリンク先の「パンの神殿」にたくさん写真が載っています。
バニアスの川
そしてパットが、「こっちに行かなければいけない」と言って左側にある小道に入りました。私もここからは全く初めてで、何があるか分かりませんでした。実はこの遺跡は敷地の一部であり、その他、バニアスの川、そしてアグリッパ二世の宮殿を始めとするその他の遺跡群があったのです。ほんとに来て良かったと思いました。まず、このリンク先の地図を開いてください。Grotto of Pan(パンの洞窟)の左横から入口があり、バニアス川(Banias)、グベタ(Guveta)川が流れている所を見ることができます。
下の写真は、この二つの小川が合流するところにある、古代のローマの橋です。(パットの顔がちょっと怒っているように見えますが、いつもにこにこ笑っている優しいおばさんです。)
ゴラン高原方面に向かう道にあった重要な所だったそうです。BibleWalks.comによると、「イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中(道)、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』(マルコ9:27)」の「道」というのはこのダマスコ方面に向かうローマ道であったということです。・・・ということは、イエス様もこの橋の上の道を歩かれた、ということでしょうか?
バニアスの小川は下のような感じです。
そしてつい最近まで使われていた水車場の跡がありました。製粉の作業をしていたそうです。こちらの写真には、右端にお店が小さく見えます。ゴラン高原に住むドルーズの人が、ここでピタを売っています。私はカルメル山で食べられなかったドルーズのピタをここでほうばりました!
それから、道はバニアスの滝へ行く道と、遺跡群、そして入口の駐車場へ戻る道に分かれます。私たちは後者を選びました。
遺跡群(ローマ・ビザンチン、十字軍)
始めに見えるのが、アグリッパ二世の宮殿です。下は入口の写真ですが、宮殿にバニアスの水を取り入れる水道の中を通って中に入ります。
出てきた所が、宮殿の跡です。右側に見えるアーチ状の穴が倉庫で、その真下にある建物の跡はユダヤ教会堂です。
下は当時のローマの町のカルドです。エルサレムの旧市街の時のユダヤ地区での説明を思い出してください。ローマの町は、南北また東西に大通りを走らせていました。
そして道路も見えてきて出口があったのですが、その手前に興味深い塔がありました。いろいろな時代の人が、過去の建築物を利用して建て上げたものです。
まず現代から説明しますと上の部分が1967年前にシリアが建てた物で、その下の黒い石はオスマン・トルコのものです。さらにその下の白色の石がAyyubidという第二ムスリム支配(1187-1250年、十字軍とマムルクの中間期)のものです。
そして上の写真をご覧ください。塔の土台部分を撮ったものですが、左から横に走っている部分が十字軍のもので、写真下に走っているものがローマ・ビザンチン時代のものです。このように、次の日に行く地中海のカイザリヤでも似たような建物を見ることができ、まさにイスラエルを表す縮図です。
3.テル・ダン
次に私たちは、テル・ダン国立公園に行きました。着いて入口を通ると、さっそくものすごい勢いの川の流れに出くわしました。ここは、ヨルダン川の水源になっている四つの川のうちで最も重要で、水量も最大になっています。この水はもちろん、ヘルモン山からの水と雪解け水によるものです。(右写真をクリックすれば動画が始まります。)バニアスよりもさらに緑が生い茂っており、さすがここにかつてのカナン人の町があり、さらにイスラエルも初めから捕囚になるまで、継続して偶像礼拝をしていたのだなということが理解できます。
「あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行なった。(エレミヤ3:6)」
イスラエルは全体として乾燥しているけれども、それでも砂漠でもないため、少しの雨量の変化で一面が緑になるし、また荒地にもなります(申命記28:23‐24参照)。そこに、自分の生命そのものを支える存在に拠り頼む必要性があり、イスラエルの神はこの地をご自分の民を住ませるために選ばれました。
歴史
この地の歴史は、カナン人の時から始まります。当時は「レシェム(ヨシュア19:47)」あるいは「ライシュ(士師19:47)」という名前でした。アブラハムがロトをさらった五人の王を追跡した時、この町まで来ています(創世14:14)。そして、モーセが死ぬ前に、主が彼に見せられた約束の地の北端には、ダンがありました(申命34:1)。
ヨシュア率いるイスラエルがカナン人の地を占領した時、ダン族はエフライムとベニヤミンの割り当て地の西、地中海に面した所に割り当て地が与えられましたが、エモリ人とペリシテ人の強い抵抗によって住む場所が得られませんでした。それで彼らは北に移住することを決断し、レシェムを自分のものとしたのです(ヨシュア19:40‐48)。
その経緯が詳しく士師記18章に書いてあります。まず、五人のものを偵察に行かせて、その報告がすばらしい土地であったというものです。少し、カデシュ・バルネアで起こったことと似ています。そして600人の者が武具を身に付け旅立ちますが、その途上で行なったことは滅茶苦茶です。祭司を求めたり主に伺いを立てたり、霊的に見えるのですが、やっていることは彫像や鋳造を欲しがったり、略奪する横暴な彼らの姿を見ます。そして、このライシュの町を襲います。「彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。その町はシドンから遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかったので、救い出す者がいなかった。その町はベテ・レホブの近くの谷にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。そして、彼らはイスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。その町のもとの名はライシュであった。(27-29節)」
そして士師記の著者は、この偶像礼拝が捕囚の時まで続いたことを付記しています。「さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、国の捕囚の日まで、ダン部族の祭司であった。こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。(:30-31節)」彼らはイスラエルの中心部からかなり離れた所で、緑の豊かさと偶像礼拝とでぬくぬくと生活していたのです。
そしてダンの町が大きな転機を迎える時が来ます。ソロモンの死後、イスラエル王国は北と南に分裂します。北イスラエルの王ヤロブアム一世は、政治的理由からここダンと南のベテルに、金の子牛の像を拝ませる礼拝場を作りました。「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。(1列王12:26-30)」
一時期、ここはシリヤの王ベン・ハダデによって攻撃を受けています(1列王15:20)。南ユダの王アサが、北イスラエルのバシャがユダの地から引き下がるようにさせるため、彼がシリヤ王にお願いしたからです。けれども、この礼拝場は生き残っており、アハブ家のバアル礼拝をことごとく滅ぼしたエフーでさえ、この町の偶像礼拝から離れることはできませんでした(2列王10:29)。
そしてダンは、イスラエル全土を指すときに、「ダンからベエル・シェバまで」という言い回しの中に出てくる、イスラエル最北端の町として知られるようになりました(士師20:1、1サムエル3:20、2サムエル3:10、1列王4:25等)。またここは、国際的に交易を行なう町としても知られていました(エゼキエル27:19)。
けれどもこの町の住民が、北から攻めてくる国によって最初に捕囚の民として連れ去れる人々となったのです。「ダンから馬の鼻息が聞こえる。その荒馬のいななきの声に、全地は震える。彼らは来て、地と、それに満ちるもの、町と、その住民を食らう。(エレミヤ8:16)」後に、ギリシヤ・ローマ時代にこの場所が使われた跡が残っており、それからは実に二十世紀のイスラエル人による考古学発掘に至るまで、そのままで残っていたのです。
私は日本のことを思いました。温暖な気候、生い茂る緑、そして島国であるがゆえの平穏な空気。そして至る所にある偶像の祭壇。終わりの日に、災いが下る初めの国にならないことを祈り願うばかりです。
遺跡
ダンのテル(丘状遺跡)には、カナン人のライシュの町、ヤロブアムとアハブによって作られたイスラエルの町が主に残っています。そしてイスラエル時代の町の外門の所で、「テル・ダン石碑(stele)」という、アラム(シリヤ)の王が立てたものが見つかっています。これが先ほど引用したベン・ハダデがこの町を攻撃した時のものです。そこに、聖書以外の資料で初めて「ダビデの家」という言葉が出てきた貴重なものとなっています。
途中でイスラエル時代の遺跡までが70分かかるという標識が出てきました。マイケルが「俺はここで断念する。」と言いました。元々、足裏が痛くて困っていたそうです。おまけに履いてきたのがサンダルとあって諦めたのですが、行ってみれば何のこともない10分もしないうちに遺跡群が出てきました。僕は彼のカメラも持って、全て自分のカメラで撮ったところと同じものを撮影しました。
後で知って地団駄を踏んだのですが、カナン人時代のライシュの町の門を見落としてしまいました!入口から歩くと、イスラエルの町のほうが始めに出てくるのでそっちに入ってしまったのです。BibleWalks.comにすばらしい遺跡の写真があります。アーチ型の門が三重になっている強固な入口がその特徴です。この門を、五人の王を追跡するアブラハムが通ったことは間違いありません。
そしてイスラエル時代の町に行くと、私は感動でいっぱいになりました。こんなに鮮やかに遺跡が残っているとは信じられませんでした。
下は、外門の入口です。石は玄武岩ですが、他のガリラヤ地方の遺跡にあるようなものより赤みがかっています。大きな石の隙間は小石で埋められています。復元されている部分があるものの、手前の石畳は完全に当時のものだそうです。
下は、上の写真の右側で、カナン人ライシュの城壁だそうです。他の古代遺跡と同じく、イスラエルの町はこの町の上に建てられています。
そして下は当時の町の門の図です。
下の写真は、「門にあった高き所」です。ユダの王ヨシヤは宗教改革の一貫として、このような場所を滅ぼしました。
そして下は門の中に入ったところですが、門のところに長老が着く座が右端に見えます。全体を見るには、このBibleWalks.comの写真をクリックしてください。ダビデが「王は立って、門のところにすわった。(2サムエル19:8)」とありますが、ちょうどこのような場所に座ったものと考えられます。
下の写真は、この門の中にある部屋(chamber)の跡です。
そして少し進むと、今度は内門があります。
そして、カナン人の家、その上にイスラエル人の家の跡がありました。ここに灰になっている層があります。これがベン・ハダデが行なったものではないかと考えられます。
そしてついに、ダンの礼拝場の遺跡が見えます。ここで、ヤロブアムまたその後の王らが、金の子牛、そして祭壇、また祭司らが奉仕する場を造りました。下の写真では右側から入ります。そして鉄の格子があったところに祭壇がありました。
下は、上の写真の右側の部分です。祭壇からさらに奥(北側)に、金の子牛が安置された「高き所」がありました。
「高き所」を近くで撮ったものです。真ん中に石がありますが、ここに金の子牛が安置されていたのでしょうか。
そして先の祭壇の見える写真の向こう側(西側)に、祭司の部屋があります。
そして高き所の北側には、現代のイスラエル史を見ることができます。手前にはイスラエル軍の塹壕、東にヘルモン山、そして西にはレバノンの町が見えます。ここは六日戦争前はシリアとの国境線にあり、そのためここのダンの水源の確保を巡って、激しい戦闘が繰り広げられました。シリアはなんと、この水源を迂回させてイスラエルに水を送らない計画を立てていたのです。これが六日戦争にいたる大きな争点になりました。
下は西のレバノンの町です。右上にある白い点々がその町になります。
下は東側のヘルモン山です。
ここにあった標識の説明によると、「水戦争」は「鉛筆」の責任だそうです。委任統治を国際連盟から受けた英国が聖書のダンの定義からイスラエルの国境をここに引きました。シリアはフランスが委任統治を受けました。ところがその鉛筆が太線用のもので、地図上では線ですが実際は130メートルもの区域だったそうです。その区域の中に、「エン・ダン(En
Dan)」という豊富な水の湧き出る泉があったのでこれを奪うべくシリアは攻撃を執拗に行なったそうです。
そして下のように、戦車の残骸もこの敷地にあります。豊かな自然、遺跡、そして戦争の跡・・・不思議な気分になりました。
そして私たちは、再び緑と水の中を通っていき、イスラエル人の子づれの家族が水際で遊んでいる姿を見ながら元の所に戻ってきました。そうしたら、私たち以外にも、ここに来ていた仲間がいました。昨日の日没前にスーパーで買い込んでいたものは、ここで昼食の弁当を作るためであったことが分かりました。私たちは、「この奥にすごい遺跡がある。そしてピリポ・カイザリヤにも絶対に行くべきだ。」と勧めましたが、なんと、ピリポ・カイザリヤどころか遺跡さえも見なかったそうです!ライアンと私はその話を聞いた時、首をかしげてしまいました。いろいろな考えがありますが、ここまでわざわざ来てあまりにももったいないと思いました。
4.イエスの舟博物館
それから私たちは、フラ渓谷へ向かい、90番線へ左折、一気にガリラヤ湖まで南下しました。安息日なので本当に車が走っていません。右手には、ハツォルの遺跡の標識が見えましたが、これに行くには時間がないです。次回、行けることを期待します。
そして、四人の中から「イエスの舟博物館」に行くという話しが出てきました。私は地球の歩き方にある地図を見ながら、じっくり入口がないか凝視していましたが、またもや通り過ごしてしまいました。ティベリヤまで行ってしまったからです。引き戻って、見つけました。
この博物館について、08年の旅行記で詳しく書きましたのでどうぞご覧ください。パットと私は見た事があるので、お金がもったいないから入場しないと係員に言ったところ、「初めての方だけお支払いさせていただています。」とのことで、ただで入ることができました。写真の通り、舟は健在でした。
その他の展示物も見て、建国時に戦った精鋭部隊であるパルマッハの説明などもあり、楽しく読みました。以前は、こんな話を聞いてもちんぷんかんぷんでしたが、今回は、中東戦争についてたくさん本を読んだおかげで、こういう分野もだいたい理解できます。
そして私たちは、確か2時ごろにホテルに戻ることができました。その前にわずかに開いているお店で、夕食のための食べ物をゲットしましたが、私はファーストフード店でサラダだけを頼みました。それだけで確か500円以上したと思います。アメリカでは2ドルぐらいしかしないでしょうから、ライアンは苦笑していました。私は、朝食に取っておいたパンを取り出して、早めの夕食をサラダとともにいただきました。
5.ティベリヤで夕拝
そして私には、重要な奉仕が残っています。宣教師Sさんが、6時ごろにホテルまで来てくださいました。奥さんが助手席に、また礼拝出席者の姉妹が後座席に座っています。99年に初めて会った時はまだ独身だった彼は、今は、ロシアから来たユダヤ人の彼女と結婚し、娘さんは軍隊に行っているそうです。
お互いにほとんど知らない仲なので、車中で自己紹介をしました。私が参加している団長のアーノルドについては彼もよく知っており、羨ましがっていました。そして、私自身が今、何を行なっているかについて話しました。「日本の他に、もう一つの国で福音宣教の働きを行なっている。けれども、その国名を言うことはできない。」そう言うと、話が盛り上がりました。イスラエルは、霊的には日本に似ています。日本の信者の人口割合は1パーセント以下だと言われますが、イスラエルはもっと少ないでしょう。心がまだ固い土壌にあります。けれども政治的には、私が仕えている国にとても似ています。信教の自由は表向き認められていますが、実際上は政治的力によって宣教の働きに対して圧力がかかっているからです。
だから私は、ここで彼の名前を伏せています。そして先に、エルサレムでお会いしたアリエルのイスラエル支部で働いておられるご夫婦も、姓は伏せて、写真は一切掲載していません。有名になっているイスラエルの集会指導者も、写真は掲載せず、かつ片仮名だけで英語では書きませんでした。これらすべて、「インターネットなどの媒介は全て監視している。」ことを知っているからです。イスラエルでは思慮深く注意して行動すれば、できることはたくさんありますが、油断すると何もできなくなります。私が仕えている国でも同じです。その他、イスラエルとその国は似ている部分がたくさんあります。例えば、法規や決まり事はあっても度外視する傾向(例えば、禁煙の標識の前で堂々と煙草を吸うイスラエルの若者など)、車の運転が荒いこと等、いろいろあります。
でも、「もう一つの国は政治的には自由がないが、霊的には解放されている。」と話したら、「政治的に自由で霊的に圧迫されているのと、政治的圧迫があって霊的には自由なのと、どちらを選ぶかと言ったら、私は後者ですね。」と答えておられました。このことを、これから行く会衆にも分かち合っておられました。
到着した所は、マンションの一室でした。後で聞くところによると、ここに短期の働きに来た人が泊まったり、多目的に使用しているそうです。内装はとてもきれいにしており、ここに到着してからSさんは、プロジェクターの準備など忙しくされていました。私は原稿を印刷することができなかったことを話していたのですが、彼はプリンターまで家から持ってきて、印刷してくださいました。
集まってきた兄弟姉妹は、実に英語圏のいろいろな国からです。一人の方が、「私は『某国』の人々に重荷があります。」と自己紹介されて、いろいろ私に質問してこられたのですが、実は、その国に私は行っています。国名は伏せたものの、私がどこにいるか彼はうすうす気づいていたことでしょう。彼の質問に対して的確な答えを与えることができました。
そして賛美の時間が始まりました。ヘブル語も少し交えた、非常にメシヤ的な、イスラエル的な歌の数々です。初めて聞くものが非常に多かったのですが、聖書的で、預言的で、とても良かったです。そして私の御言葉の取次ぎの時間になりました。
以前のデボーションの箇所と同じ、ヨハネ10章からです。けれども7章から続く、イエス様がエルサレムに注意しながら行かれたところから話しました。なぜなら、同じように私たちは、注意しながら神に遣わされることがあることを示したかったからです。そして同じように、シロアムの池に行った生まれつきの盲人も、ユダヤ人の共同体から追放されるという危険を冒して信仰告白をした。それは、シロアム(=遣わされた者)の名の通り、イエス様と同じ使命を背負っていたからだ、と説明しました(9章)。そして良い羊飼いの話です。ここでは、私が仕えている国では、人々は知らず知らずのうちにお金を自分の偶像にしている。それは国の指導者(牧者)がそのような物質主義的な考えで民を治めているからだ、と話しました。後で、「御言葉の説き明かしと証しとを交えてくれて、とても良かった。」と牧師Sさんからコメントをもらいました。
そして私への質疑応答時間になりました。ものすごく数多くの質問を受けました。「日本から来る兄弟はまずいないだろう。」とのことで、日本の宣教について知りたがっていました。もちろん、もう一つの国についても。当局の監視の他に、物質的援助が必ずしも相手の益にならないことがあり、かえって腐敗させてしまうこともあるという注意も話すことができました。
そして、最後に私たちの働きについて祈ってくれるとの事で、定期的に送るニュースレターに彼らのメールアドレスを加えることとなりました。「また、どんな形か分からないけれども、会いましょう。イスラエルにいらしたときは、ご連絡ください。」とのことです。
「与えれば、与えられる。」というのは霊的な奉仕の大原則でありますが、今回もまさにその通りでした。主にある兄弟たちの、大きな励ましと、何よりも祈りの支援を受けることができ、本当に嬉しいです。イスラエルの地でも、日本でも、主にあってキリストの御体であります。そして、同じ宣教師さんが、謙遜に、忠実に主にお仕えしている姿を見て、大きな励ましを受けました。
明日、日曜日はガリラヤを発つ日です。