イスラエル旅行記 10月17-19日

 シャローーーム!

 ついにやって来ました、イスラエル旅行の最終回です、と、騒いでいるのは自分だけかもしれませんね。ここまで読んできて下さった方、感謝します。一人で旅行記書くのは難しいけれど、読む人がいてくれると思って書くことができました。また、間違った記憶になっていないかどうか資料で確かめたりして、イスラエル旅行が自分にとってますます豊かなものになっています。

 最終回は、一気に、17日から最終日19日までを網羅します。日程は以下のとおりです。

17日 ホテルにて礼拝 → 自由行動(城壁巡り)
18日 カルバリーチャペル・エルサレム → 牧師宅でバーベキュー
19日 再びエルサレム旧市街へ → 牧師宅に戻り空港行きの乗り合いタクシーに乗る

 16日の時点で団体行動が終わるので、私は自由行動のときに何をしようかと考えていました。地球の歩き方なども見て調べましたが、城壁巡りをすれば、エルサレムを見渡すことができる考え始めていました。そのときに、仲間のうちの何人かが、同じことを考えており、その一人が自分たちの泊まっているホテルから城壁巡りの入口、つまりヤッフォ門まで連れて行ってくれる無料シャトルバスが出ていると話していたので、彼らに付いて行こうと考えました。


主日礼拝

 朝食を取ってから、ホテルの一室で礼拝です。よく知られた賛美の歌をアカペラで何曲か歌い、主から与えられた恵みを何人かが語りました。そしてデービッドのメッセージが始まりましたが、題は、「あなたは、さらに偉大なのですか」です。イエスさまが、人々が偉大だと考える人や物事よりもさらに偉大な存在であることを、さまざまな聖書個所から学びました。

 第一に、ヨハネ8:52‐58から、イエスさまはアブラハムよりも偉大な方である。
 第二に、モーセよりも偉大な方である(ヘブル3:3)。
 第三に、祭司たちよりも偉大な方である(ヘブル7)。
 第四に、バプテスマのヨハネよりも偉大である(マルコ1:7)。
 第五に、あらゆる人よりも優れておられる(ルカ7:26)。
 第六に、天使よりもまさっておられる(ヘブル1:4)。
 第七に、サタンよりも力強い(1ヨハネ4:4)。
 第八に、すべての敵よりも偉大である(ヨハネ10:27‐30)。
 第九に、教会の上におられる(エペソ1:22、コロサイ1:18)。
 第十に、牧師の上におられる(Tペテロ5:4)。
 十一番目は、宗教的な建物よりも大いなる方である(マタイ12:6)。
 十二番目には、あらゆる祭日にまさり偉大である(コロサイ2:17)。
 十三番目に、政治的な権威の上におられる(エペソ1:20、コロサイ2:10)。
 十四番目は、イエスさまが、大文字で「王の王、主の主」と呼ばれておられる。
 十五番目は、これは意外ですが、疑いよりも大きい方である(Tヨハネ3:19‐20)。
 十六番目は、罪よりも力あるお方である(ローマ5:18)。
 十七番目に、死にまさって力ある方である(Tコリント15:26)。
 そして十七番目に、いけにえよりも優れておられる(ヘブル10:4)。

 すばらしいメッセージでした。メッセージの間に、これら引用された聖書個所をすべて開いて読みましたが、みことばによらなければ、私たちの思いは何かを優れたものとみなしていることに気づきます。イエスさまが何にもまして偉大であることは頭では理解していますが、具体的な事柄の中で、その真理を認めることにより、私たちが、ほんとうに偉大な主を持っていることを知ります。


城壁巡り

 そして、城壁巡りに出かけますが、実はハプニングの連続でした。けれども、城壁巡りという目的は達成することはできました。結果的に、その仲間はそれぞれ自分のしたいことがあって、いっしょに行動することはできなかったし、する必要もなかったことが分かったのです。私は、比較的目的がいっしょであった、その中の一人カレンとともに行動をともにしました。

 ヤッフォ門またはダマスカス門から、城壁巡りをすることができます。私たちは、ヤッフォ門から始めました。料金を払い、クリスチャン地区方面、つまり北へ進みました。後ろには、ダビデの塔が見えます。すばらしい眺めです。驚いたのは、城壁内は、観光地や遺跡というよりも古めかしい住居が続いていたことです。石造りの庶民的な家々であり、その平らな屋根には洗濯物が干されていたりします。初めにクリスチャン地区の周辺の、城壁の上を歩いていました。途中で、茶色の礼服を身にまとっているローマカトリックの聖職者が建物の外階段を歩いているのが見え、カレンが写真を撮るのをお願いしたら、ポーズを取ってくれました。

 しだいに、ムスリム地区に入っていきます。モスクが数多く見え始めました。そして、カレンがカメラのフィルムがなくなってきたから、買いたいと言い出しました。そんなことできるのか、と思いましたら、券には外出可能であることが記されていました。私たちは思いきって、アラブ人の方々がごった返している、ダマスコ門のところにあった出口から出ました。ものすごく混んでいるので、お財布が盗まれないのを注意しながらお店を見まわしたら、フィルムが見つかりました。城壁に戻ろうとしましたが、入口が違います。そこに展示物があり、変な雰囲気だなあと思ってそそくさと上っていきましたが、後で調べたら、そこはれっきとした博物館だったようです。

 そして、少し進むと、城壁外にアラブバスステーションが見え、そこにゴルゴダの丘がありました。カレンは、「え〜っ。こんなごちゃごちゃしたところに、あのゴルゴダがあるの?」とびっくりしていましたが、確かに違う方向から見ると、バスステーションを囲む単なる岩壁にしか見えません。

 私たちは、どんどん直進しました。家のほかに、学校もありました。校庭で子どもたちが遊んでいます。ヘロデ門を過ぎたあたりで、直角に曲がりました。今度は南下し、左手にはオリーブ山が見えます。

 しばらく行くと、他のウォーカーに出会いました。私たちは細かい案内書を手にしていなかったので、どこが歴史的遺跡なのか、よく分かりませんでした。右手に見えるものは何か、と聞いたら、なんと、ベテスダの池が敷地内にある聖アンナ教会でした。私たちのグループも訪れた教会です。異なる方向から見ると、まるで分かりません。でも、それで、私たちが神殿地区に近づいているのが分かりました。そして、黄金の門まで行けるかなあと思いましたが、その手前の獅子の門で行き止まりでした。それじゃあ、神殿地区を通って城壁に戻りたいなあと思いましたが、あいにくその日は、イスラム教徒の何かのイベントがあると、入口にいたイスラエル兵士に言われて、私たちは遠回りをしなければならなくなりました。エッケ・ホモ教会を右手に見て、ビア・ドロローサを通り、たしかアルワド通りを左に曲がって、ユダヤ人地区へと向かいました。

 すると、急に左手に嘆きの壁の状景がばっと広がりました。実はここまで、カレン以外の他のメンバーもいたのですが、カレンと私は、この嘆きの壁の前でしばらくたたずんでいたいと思い、彼らと自然と別れることになりました。そして、二人の城壁巡りは終わってしまい、ここからユダヤ人地区でのお買い物ツアーになってしまいました。

 神殿協会の近くにあるカフェテリアでファラフェルを食べ、彼女が、どこそこにあのお店があったようだ、と言うので、それを探しましたが、他の店にはいって満足してしまいました。店内には、イスラエルのリズムの良い音楽が流れ、ユダヤ教のついての英書の多数の書物があり、また、12部族のしおりなどもあり、カレンはとても気に入ったようです。私も気に入り、そこで頭を隠すためのキッパと、そのリズムの良い音楽のテープを買いました。

 ホテルの巡回バスは午後4時にヤッフォ門のところに来ます。時間が迫ってきました。私たちは道を尋ねながら歩きました。そこまで行く通りには、お店がずらっと並んでいるので、時間がないのに買い物をしようとしている有様でした。あるお店で、ミノラ(燭台)があり、7ドルだと言われて高いなあと思いましたが、もう交渉する時間がないから、さよなら!と言ったら、4ドルまで下げてき
ました。今、そのミノラはうちの玄関前にあります。

 巡回バスが停まる予定のところには、城壁巡りではないところに行った他のメンバーもいました。城壁の前の、通りの歩道に私たちは立っていましたが、車の運転の荒さを見て、みな驚いていました。…ほんと、恐いぐらい荒い運転です。バスがようやく来ましたが、いっぱいで仲間の二人が入ることができませんでした。ごめんなさいっ!


ツアーメンバーとの別れ

 そして無事にホテルに戻りました。よし、みんなは、明日の午前9時に出発だなあ、と思っていました。ところがしだいに変だなあ、と思い始めました。みんな何となく慌しいのです。夕食を取っているとき、初めて分かりました。彼らは、明日の午前9時に出発ではなく、なんと今日の午後9時出発であったのです。みなと別れる心の準備をしていなかったので、私はとってもさみしい思いになりました。彼らがバスに乗り込んで、バスが発ってしまうまで、私は手を振って彼らを見送りました。彼らも、バスの中から私に手を振っていました。

 本当にさみしかったです。ホテルのディナールームで、ユダヤ人たちのパーティーがあってそれを眺めていました。いつまでも踊り続けてしまうのではないかという勢いで、ダンスしていました。ベットに入りましたが、寝つけないで、真夜中にだれかが戸を開けたのに気づきました。他のグループのメンバーがいなくなったので、私が泊まっていないと思ったのでしょう、あやまっていました。

 朝起きて、ビッフェ形式の朝食を取り、そして、さっそくカルバリーチャペル・エルサレムへ出発の準備をし、ホテルを出ました。タクシーに乗り、電話で聞いた「倉庫」へと向かいます。タクシーの運転手は、私が手渡した住所を見て、質問しました。私はいかにも観光客なのに、なぜ倉庫が立ち並んでいるような場所に行くけれどいいのか、と。「移民に生活の必要を援助している団体の倉庫なのです。」と説明したら、理解してくれました。


カルバリーチャペル・エルサレム

 ここでカルバリーチャペル・エルサレムについて説明しなければいけません。この教会は、アメリカのコスタメサの教会から宣教師として遣わされたブラッドリー・アントロヴィッチ(Bradley Antolovich)という人によって始められました。イスラエルに来たのは10年ほど前、そして、開拓伝道を始めたのは確か3年ほど前だったと聞きました。この教会は、最近急増しているユダヤ人移民に物質的援助を与えることによって、主が命じておられることに忠実になろうとするミニストリーを併設しています。その命令とは、マタイ25章31‐46節に書かれています。イエスさまは、「あなたがたが、これらわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(40節)」と言われました。この聖書個所にもとづいて、数多くのクリスチャンが貧しい人たちに物質的援助を与える奉仕を行なっているのですが、ある人たちは、ここは、大患難時代に苦境に立たされるユダヤ人たちを助けることを意味している、と話します。イエスさまが、「これらわたしの兄弟たち」、つまりユダヤ人を指しているからだ、と言います。

 この二つの解釈は、過去に神学のクラスで聞いたことがあり、私もどちらか分からなかったことを覚えています。けれども、私の知人でブリッジ・フォー・ピースという団体について教えてくれた兄弟がいました。お父さんが牧師で、その団体の一員なのです。そのウェブサイトに入ったとき、その団体が、ユダヤ人の貧しい人たちに物質的援助をして、クリスチャンがユダヤ人への愛を示す働きをしていることを知りました。その兄弟から、「ウェブサイトはどうだった?」と聞かれて、私は、「これは面白い!普通、二つの解釈に分かれるところのどちらもやっているんだね。」と答えました。

 神学的にも、ブリッジ・フォー・ピースがしていることはとても大切なのですが、クリスチャンがユダヤ人たちに行なったことを考えるとき、日本語訳にすると「平和の架け橋」という意味の重みが増します。私たち日本人のクリスチャンは、例えば近年日本がアジア諸国に対して犯した罪について深く考えたりし、私も、アン・インスク女史による韓国併合時についての著書を読んだのをきっかけに、深く考えたことがあります。けれども、ユダヤ人に対してクリスチャンが行なったことを考えるとき、それは、キリスト教が始まったときからの迫害であり、また全世界的に行われた迫害でもあります。スケールで物事の優劣を付けては決していけないのですが、しかし、もし日本のクリスチャンが、アジアにいる人々と和解をしなければならないと考えるほど、良心を大切にするのであれば、ユダヤ人に対して行なったことはなおさらのこと、決して、決してないがしろにできないことなのです。

 ユダヤ人は、クリスチャンからだけではなく、他のあらゆる種類の宗教の人々、思想を持った人々、世俗的な人々、どのような人々からも迫害されました。特定の国から迫害されたとすれば、その国に対して敵対する、あるいは、赦してあげなければいけないと思う余地が出来ますが、あらゆる国々からねたまれ、憎まれるのですから、和解という領域を超えて、次の命題に答えていくようになります。

    自分たちがいかにして生き残ることができるのだろうか?

 デービッドは、ユダヤ人が何を考えているかについて、とどのつまり「生き残り」だ、と言いましたが、本当にそうなのです。彼らは、出エジプト記1章から始まる迫害に耐えるところから始まり、彼らの救いはまさに、彼らを憎む者たちからの救いと同一視されました。これは、現在にもまさに続いています。私が腹立たしいのは、ホロコーストが終わってからまだ50年ちょっとしか経っていないのに、国際世論が反イスラエルの立場を取っていることです。残念ながら、終わりの日には、彼らは今までにない苦難を受けることが預言されています。これでは絶滅してしまうと思われる万事休すのところで、再臨される主イエス・キリストによって救われ、彼らはみなこの方をメシヤとして認めるのです。

 そして、ユダヤ人の貧しい人たちに対するミニストリーが大切なのは、彼らがイスラエルに移民してくる理由が、近年、経済的なものから反ユダヤ主義に移ってきているからです。シナゴーグが破壊されたり、ユダヤ人に対する迫害が増してきているので、ロシア系のユダヤ人が急増し、けれども彼らは経済的な基盤を持っていないので、貧しい人が多いのです。そのユダヤ人に対して、生活的な援助を与えることによって、彼らがクリスチャンの愛を受け入れることができるようにする、と言うものです。ですから、これは伝道の一貫であるだけでなく、和解の一貫とも言えます。「クリスチャンからの援助は決して受け取れない。」と拒否する人もいますが、クリスチャンに対する見方を変える人々もいるそうです。

 このような働きをしている団体の一つとしてブリッジ・フォー・ピースがあるようですが、カルバリーチャペル・エルサレムも似たような働きをしています。ただここは、私たちが行なうような開拓伝道と平行に、このような働きをしているのです。物質援助の団体名があり、Zion’s Sake Ministryと言います。イスラエル公認の団体になっているようです。ウェブのアドレスはhttp://www.forzion.comです。みなさんも、ぜひお入りください。ちなみに、ブリッジ・フォー・ピース日本支部のウェブサイトは、
http://village.infoweb.ne.jp/~bfpj/です。

 私が倉庫に付くと、何も看板が掲げられていないので、どこから入ればよいか迷ってしまいました。幸い、隣接していた会社の方が事務所の電話を貸してくださり、再び電話をして入口がどこかを教えてもらいました。

 中には、主に家具が置いてあります。その他、小物、衣服などがありました。ブラッドリーが出てきました。実は彼、’98年の牧師会議でコスタメサの教会の、説教壇の上から宣教報告をしていたのを私は見たことがあるので、初めてではありません。おそらく彼は、私がいったい何をしに来たのだろうか、と思っていたと思いますが、親切にもてなしてくれました。倉庫の三分の一は、事務所や台所になっており、その一つの一室で互いに自己紹介をしました。

 そこで彼が話してくれたことが、私がもっとも印象に残っていることの一つです。それは、ユダヤ人に伝道をしても、心がかたくなで決して受け入れようとしないことの話しです。多くの観光客が、イスラエルについて、ユダヤ人についてロマンチックな感情を抱き、「私はイスラエルを愛しています。」と表明するけれども、現実を知らないで話している。あまりにもかたくななので、やりかえしたくなる。事実、ルターは初めユダヤ人に対する愛を表明していたが、そのかたくなさを知って、最後は彼らを口汚くののしった。だから、やりかえしたくなるのだが、そのときに初めて、神がユダヤ人を無条件で愛しておられることを思い出す。無条件で愛することを、彼らのかたくなさをとおして学び、ようやく何が無条件の愛なのかを少し知り始めた、と語ってくださいました。そして、ローマ書9-11章に記されている、「なぜユダヤ人が福音に対して敵対しているのか」という問いに対して、それが異邦人に救いが与えられ、その完成の時が来たら、イスラエルも救われる、という神の深いご計画についても触れてくれました。

 そして、もう一人のスタッフも紹介されました。Sさんです。どこかで見たことのあるような顔でした。それもそのはず、コスタメサの教会でスタッフとして奉仕していたそうです。今回、エルサレムの教会に助け人が必要になったので、宣教師として遣わされている、とのことでした。彼が、具体的にどのようにミニストリーをしているのかを説明してくれました。

 まず、エルサレムのタウン誌に、ユダヤ人移民のための生活物資を供与してくれるよう要請する広告を出します。それで電話でかけてきてくれた人のところにおもむき、倉庫に入れます。次に、今度は、集めたユダヤ人移民の情報にしたがって、その物資を彼らに引き渡しに行く、という、比較的単純なものです。けれどもこの作業に人が必要とするので、"Victory"とかいうクリスチャンの団体にボランティアを要請するそうです。彼らは、麻薬を使っていたユダヤ人で、その問題から克服しクリスチャンになっている、とのことです。彼らが、ときどき手伝いに来てくれます。事務所には、パットという姉妹が電話応答をして奉仕をしています。彼女から話しを聞くと、ほんとうはロシアに宣教に行きたかったそうで、今は主のみこころを受け入れている、と言っていました。

 私も少し手伝いました。箱に入っている衣服を、使えそうなものとそうでないものに選り分ける作業です。また、おもちゃと他のものが詰まっている箱がごちゃまぜに積み上がっているのを、整理する作業もしました。あまった時間には、事務所で、彼らがインターネット接続をしようとして奮闘している姿を眺めていました。スティーブが、新しいプロバイダに入ろうとしても全然接続できないと言って、騒いでいます。「イスラエルはハイテクで誇っているのに、これじゃあどうしようもないよ。」と嘆いていました。

 昼食もそこでいただきました。そのときに、外から見える風景について私が質問したときに、この倉庫がパレスチナ人地区に接しているところにあり、そのため賃貸料が安いことを話してくれました。モスクが近くにあり、そこからコーランが流れてくるのですが、同じスピーカーから、ユダヤ人へ憎しみを剥き出しにした政治的プロパガンダも流れてくるそうです。「和平だと叫んでいるが、ほんとうに平和を望んでいるなら、こんなものを流さないよね。」と説明してくれました。

 また、教会の礼拝や、聖書の学びなどは、この倉庫の一部にいすが並んでいるところで行ないます。なんと、礼拝はヘブル語ではなくロシア語で行なうそうです。ヘブル語が必要なときは、ブラッドレーの奥さんがヘブル語に通訳するそうです。人数は、そのときで20数人。日本と似ていますが、女性が多数を占めているとのことで、これまた似ていますね。倉庫を使い始めてから3ヶ月経つそうですが、後で送られてきた手紙によると、人数は増えているそうです。

バーベキュー

 そしてブラッドレーとともに、スーパーマーケットに行きました。乗っている自動車は三菱だよ、と私に言いました。車内から流れてくるテープは、なつかしきチャックのメッセージです。なあんて、私も週に2、3巻はチャックのテープを聞いています。同じことしてるなあ、と思いました。

 スーパーマーケットは、アメリカとも日本とも作りはさほど変わらないものです。違いは、野菜の値段がとにかく安いこと。キャベツ一個がたしか、30円ぐだいだったかなあ。アメリカよりも破格です。キブツの話しを思い出してください、イスラエルは世界有数の農業輸出国なのです。他は、それほど安くない。中東では、物価がどんどん上がっているそうです。

 ここで買ったものは、実は夕方に、ブラッドレーの家でバーベキューをするためのものでした。私が来たので、そのことも兼ねてのパーティーです。着いたら、ブラッドレーの奥さん(確か、マリアン、あるいはミリアムという名前だったと思う。)はもちろんのこと、三人の、ほ〜〜〜〜んとうに可愛らしい女の子と、それからいつもの猫がいました。イスラエルは暖かいから、猫が多いのです。そして、なっ、なんと、はるばるガリラヤのティベリヤから、私に会いたいとのことで牧師クレイグがやって来ました。ティベリヤにカルバリーチャペルが、一年前からスタートしたそうです。奥さんと、息子の男の子がいました。そして、スティーブと、スティーブのルームメイトが来て(彼らは歩いて10秒のところに住んでいます。)、さらにはそのルームメイトが恋をしているとスティーブから教えてくれた、南アフリカ出身のユダヤ人とその子どもが参加しました。

 さすがアメリカからの宣教師、バーベキューのハンバーガー、スターバックスのコーヒーといい、アメリカンでした。そして、その後も交わりも楽しかった!クレウグやスティーブは、いま流行っている気をつけなければいけない嘘の教えや、帰納的聖書の学びをゴラン高原のカツリンで始めたなど、カリフォルニアのカルバリーの牧師たちが集まったら出てきそうな話題を、ここでも話していました。クレイグが私に会いたかったのは、Hope For Todayのグループがティベリヤに来たとき、自分の教会に訪ねに来てほしかったからのようです。

 そして、南アフリカ出身のユダヤ人女性との会話が、ほんとうに楽しかった。彼女は、機関銃のようなスピードの英語で、(でも、発音がはっきりしているので聞きやすかった)、子どもへの教育について、自分がアメリカの大学や大学院で学んだことを熱っぽく語っていました。それから、彼女は熱心なメシアニックです。正統派ユダヤ人のラビのところに行って、聖書の学びをし、そこで旧約聖書に(暗号ではなく)イエスの名前が出てくることをラビ自身が発見したなど、実に興味深い話しをしてくれました。なんと、今、モーセ五書の子供向けの注釈書を執筆中であるそうです。

 楽しい交わりの時も終え、とくにクレイグの家族は二時間以上もかかるティベリヤへのドライブのため、早く帰らなければいけませんでした。そして、私とブラッドリーは、Sさんのアパートへと行って残りの時間を過ごしました。ちなみに、アパートと言っても日本よりずっと広くて、アメリカのアパートを想像できる人は想像したほうが良いと思います。それで、月の家賃がたしか七百数十ドルですから、結構安いです。けれども、エルサレム郊外にあり、しかも、丘の向こう側のアパートはこの二倍すると教えてくれました。

 Sさんのアパートでは、まだコンピューターとの格闘を続けていました。私はルームメイトと話していました。バックミュージックで流れている音楽について尋ねたら、メシヤニックの音楽だそうです。私が興味を示すと、自分が持っているメシヤニックのCDを次々と持ってきてくれました。「私は、かなりメシヤニックです。」と自己紹介していましたが、彼はフランス人、つまり異邦人です。けれども、エルサレムにあるメシヤニック会衆(教会)に通っているそうです。

 そして、彼は、私に、エルサレム旧市街にあるメシヤニックの書籍やCDが売っているところを教えてくれました。次の日に何をするか考えていた私は、「よし、もう一回、エルサレム旧市街に行こう。」とそのとき思いました。こんなことをしているうちに、スティーブも、あのコンピューターの問題を解決したようです。

最後の話

 そして、ブラッドリーの家に戻り、私に寝る部屋があてがわれました。次の日の朝は、早く出ていかなければならないとのことで、ブラッドレーは最後のあいさつをしてくれました。そこでの話しが、この旅行のしめくくりにふさわしい、印象深いものとなりました。

 それは、彼がイスラエルに移住してきたばかりの話です。湾岸戦争がありました。そのとき、イスラエルは、イラクからのスカッドミサイルが落とされることを予期していました。みな、自分は死ぬかもしれないと思っていたのです。エルサレムにある多くのクリスチャンの団体が、そのことを恐れて自国に戻ってしまいました。しかしブラッドリーはとどまりました。ついに、スカッドが落ちてくることを警告するサイレンが鳴りました。彼のあごにはひげがあります。彼は、そのときまでひげをすべて剃ったことはなかったのですが、毒ガスマスクをつけるには剃らなければいけませんでした。そのあごひげを剃る、彼の手は震えていたそうです。

 そして、彼は言いました。「苦しみのときに、友だちの真価が試される。ユダヤ人たちは、このときにともにいてくれた人たちを、自分の友人だと思う。多くのクリスチャンの団体が、湾岸戦争後に戻ってきたが、だれが友であるかは苦しみのときに分かるのだ。」と。私が、「それでは、いつでも心の準備をしていなければいけませんね。」と言ったら、彼は、「いいえ、これは神の恵みです。」と言いました。手が震えながらひげを剃ったのは、自分がそれだけの勇気と意思力があったからではなく、むしろ臆病だったのに、とどまることができた。だから神の恵みだ、というのです。

 このときに、私は、「イスラエルを愛していると表明するかぎり、具体的にイスラエルを愛する行為をしなければならない。」と思いました。これから、このカルバリーチャペル・エルサレムをとおして、心で定めた額を主におささげしようと思いました。

最後の観光

 朝起きたら、ブラッドリーと奥さんが、私の午前中の行動について尋ねました。私は、エルサレム旧市街への半日観光のことを希望しました。奥さんは、二人の娘さんを学校に送らなければいけないので忙しく動いておられましたが、私の朝食も作ってくれました。(写真は、奥様と娘さん3人です。)そして、旧市街へ行くバス停までの行き方を教えてもらい、バスに乗りました。これまた、良い観光になりました。

 イスラエルのバスは、終点のバス停が知らされているだけで、時刻表も途中のバス停も記されていません。おまけに、次にどこに停車するかも知らせてくれません。けれども、降りるヤッフォ門前は終点とのことでしたので、そのようなことは気にせずに済みました。私が気に入ったのは、バスが他の乗用車のように速いことです。出発してエンジンを全開させるまでの日本のバスにあったようなのろさが、ないように感じました。

 ヤッフォ門に着きました。もうここは、私はヤッフォ門に入って、1番目の曲がり角を右に曲がり、左側にChrist Churchという本屋を見つけました。中に入ると、あるある!メシアニック関係の本やCDがたくさんありました。その他、いわゆるevangelicalな、(いつも、この言葉を訳すときに困るのですが、「福音派」と訳せばよろしいのでしょうか。それとも、「福音主義の」と訳せば良いのでしょうか?)本がたくさんありました。ここで最後のお買い物をしました。2000年の聖地カレンダーと、CD一つと、もう一冊ヘブル語/英語の聖書を買いました。

 そして私は、見納めに再び嘆きの壁へと向かいました。そこで時間を過ごして、再びヤッフォ門に戻って、バスに乗り込みました。降りるべきバス停の場所をブラッドリーの奥さんが書いてくれた紙を運転手さんに見せたら、「英語じゃあ分からないよ」などと言います。えー!でも、私も努力して、その朝教えてくれた発音を真似して出してみて、ようやく、「あ〜。ここね。」と、全く違う発音でありましたが、納得してくれました(?)。そういえば、このごろ、妻にヘブル語の勉強をもう一度やり直したいなどと言っていますが、実はあまり自信がありません。スクール・オブ・ミニストリーで学んだとき、たいへん苦労して、結局あまり覚えられなかった経験があります。


帰国へ

 そのバス停に近づいたとき、運転手さんが合図をしてくれて、私は降りました。乗ったバス停より一つ手前のバス停でありましたが、私にとって何もかもが観光でした。学校に行こうとしているのか、帰ろうとしているのか、正統派ユダヤ人の中学生ぐらいの子たちが歩いている姿を見たりして、楽しかったのです。

 帰ったら、もう乗り合いタクシー(あちらでは、シュルートと呼びます。)が来る時間が近づいていました。パンパンになって大きくなった旅行かばんを引きずって、乗る場所まで行きました。ここでみんなと本当にお別れです。また、ぜひ来たいと思いました。

 私が一番最初の客で、助手席に乗りました。バスと同じように、このタクシーも速い!!おまけに、右側の通りから突然車が割り込んで来たりして、私が驚いた顔をしていると、隣の運転手さんは、にやっと笑っていました。ちなみに、彼もキッパを頭にかぶっています。

 キッパのことで面白い話しがありますが、妻はアメリカに留学しているとき、ニューヨークにいました。もちろん、大ぜいのユダヤ人がいます。イースターの時期になると、スーパーマーケットには、過越の祭りの商品が、イースターの商品よりも多くの場所を占めて並んでいたことのことです。彼女は、ユダヤ人の生活習慣について何も知らなかったため、ユダヤ人男性がなぜ、頭にかぶり物をしているのかが不思議だったそうです。彼女は、「はげ隠しなのかなあ?」と思っていました!

 この話しを覚えていたのですが、タクシーの運転手は、比較的大きいキッパをかぶっていました。途中でそのキッパを取ったとき、彼は、頭のてっぺんがbaldでした!う〜ん、彼女の言ったことはまんざら嘘ではないぞ、と思いました。

 他にも客がいました。いかにもユダヤ人しか住んでいないだろうなと思われる場所にも行き、乗って来ました。みなを乗せたあと、テルアビブとエルサレムをつなぐ1号線に入りました。ここは、ツアーのバスがエルサレムに入るときにも使った道路であり、戦車の跡などが残されている同じ光景が続きました。しばらくして、今度はきれいな農場の風景が続きました。ここもキブツでしょう。そして、前方に、その農場が終わって都市になっていく景色が見えました。ベングリオン国際空港の出口の標識がありました。そこはペテロが宣教に行ったルダという町(使徒9:32)の近くにあり、その地名も標識に現われていました。

セキュリティー・チェック

 そして、空港に到着しました。午後1時ごろで、出発まで3時間ちょっとあります。ベングリオン空港では、出発のせめて3時間前にはチェックインをしなければならないことになっています。なぜなら、セキュリティーチェックが非常に厳しいからです。チェックインのカウンターから離れて並ばされており、その間に、いくつかの机があります。そして、一人ずつ、あるいは一組ずつ呼ばれます。ほとんどが若い女性であり、二人一組で質問をします。かなり細かいことまで尋ねられ、どのような基準か分かりませんが、少しでも疑わしいと別の部屋で、手荷物を文字通りすべて調べられます。衣服を脱がせられることはありませんが、ポケットの中身まで逐一調べます。

 長い時間待って、ようやく私の番になりましたが、二人の女性のうち一人が、次々と質問しました。「ツアーですか、個人旅行ですか?」「どちらとも言えます。」「どういうことですか。」「アメリカからのツアーの参加しましたが、一日は別のところに行って個人で行動ました。」「どのようにして、そのツアーを知ったのですか。」「ウェブサイトです。」「なぜ、その牧師を知っているのですか。」「彼が、私が通った学校の先生の一人でした。」「その学校をどのように知ったのですか。」「チャックという牧師が日本に訪れて…」などなど、私の変則的な旅程の説明を聞いていて疑われたのでしょう、おまけに、私は彼女たちの英語がよく分からなかった。例えば、「チェックイン」がどうしても「チキン」に聞こえてしまう。それで、私は、座席のチェックインをカウンターでさせられたあと、その手荷物とともに、別の部屋に連れて行かされました。

 他の女性が私の荷物の中身を調べられました。文字通り、下着も含めて、すべての物品が金属探知機で調べられます。オルゴールが出てきました。「この中には何が入っていますか。」私は、「え〜。電池でしょう。分かりませんよ。」と答えたら、そのオルゴールが他の部屋に持って行かれました。同じように調べられている人と会話をしましたが、彼はイギリス人でした。イスラエルへは三回目とのことですが、三回ともこのように調べを受けたそうです。「何事も経験ですね。」と言っていました。

 すべてが終わったときは、もう出発の30分前です。でも、その部屋にいたまた別の人が、私を誘導しました。まず、その調べられた荷物をカウンターにあずけ、パイロットやスチュアーデス(今は、フライト・アテンダントと呼ばなければいけなかったんだっけ。)が通る乗組員の入口から入り、そして、センサーの通り口も、「ピー!」と言う音をしても通り抜け(だって、もう全部チェック済みですから。)、他の人が列をなして待っている移民局のブースも、その乗組員のブースで出国手続きをし、彼女は私を、飛行機の乗り口まで連れてきました。これを普通のときでもやってくれたら、王さまみたいで楽だなあ、などと思ってしまいました。

日本に到着

 飛行機はもちろん、まずパリへと向かいます。そして、パリにある空港で乗り換えです。パリ行きへの飛行機には、まずコーシャ(食物規定)の食事をユダヤ人の人たちに出していました。隣のおじさんが、フランス語でフライト・アテンダントと口論しています。たぶん自分もコーシャを頼んだのに、と訴えていたのではないでしょうか。

 パリで二時間、成田行きの飛行機を待ちました。飛行機に乗ると、隣がけっこうしゃべるのが好きなおばさんが二人いました。しばらくして、彼女たちのほうから私に話しかけて、お互いに自分たちのことを話しました。二人は姉妹であるようで、どちらも芸術肌です。妹さんは旦那さんとともに、アマチュア合唱団の一員であるし、お姉さんはバレーが好きだそうです。パリは2回目で、一生懸命フランス語を習っていたようでした。私がイスラエルから来て、エルサレムに行ったことを話したら、その妹さんの旦那さんが、年末にエルサレムに行きたいと話していたそうです。歌をうたうとき、しょっちゅう聖書に出てくる話が歌詞になっているから、興味があるそうです。そこで私は、聖書から福音を伝えました。理解してくれたかは分かりませんが、聞いてはくれました。

 そして成田に着きましたが、東京は寒かった。私の肌は、少し焼けていたので、ミスマッチでした。


まとめ

 こうして旅は終わります。そこで、私が最初の旅行記で書いた、この旅行についての3つのテーマについてまとめてみたいと思います。

1)神のみことば
 私がいままで苦手だったのは、イスラエルの土地の地理関係です。そのため、聖書のなかにある話しの理解に限界があり、それだけ、神のみことばを自分のものとして咀嚼できなかったところがあります。けれども、いま聖書を開くと、その舞台の状景が浮かんできます。

2)イスラエルの現代の土地
 これは、神のみことばのとくに将来に関すること、つまり預言に深い理解が与えられました。荒れ果てた地が耕され、種が蒔かれる。町々が建て直され、人が住みつく、というエゼキエル書36章など、数多くの個所に預言されていることが、まさに今、その前味として起こっているのをまざまざと見ました。そして、マスコミの報道が、いかに偏見と惑わしにさらされているかを知りました。ユダヤ人がパレスチナ人を追い出して、不法にアラブ人の土地を占領しているというシナリオは、実際の土地に行き、でっち上げであることが一目瞭然でした。悲しいことですが、彼らは再びホロコーストへの道を進むという、大患難時代における預言が成就する日が近づいているのではないか、と強く思わされました。

3)ユダヤ人
 三つのことについて感じました。一つは、彼らも私たちと同じ人間であることです。あまりにも当たり前のことですが、見失っていたことに気づきました。ツアーのあいだに見た多くの若者は、なんら日本人の若者と変わりなく、工事現場で働くおじさんもいれば、タクシー運転手もいる。ユダヤ人も、私たちと同じノア、そしてアダムを先祖に持っている人間であります。

 もう一つは、それでも、彼らは選びの民であることです。彼らが行なっていることを見ると、出エジプト記1章に出てくる表現、「そこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。」を見ることができ、神が生きておられることをまざまざと知ることができます。私たちが自然を見て神の栄光を知ることができるのと同じように、ユダヤ人を見て、神のさまざまなご性質を知ることができます。

 そして、三つ目は、彼らは福音に対して心をかたくなにしていることです。デービッドの質問に対するツアーガイドの返答を聞いて、パリサイ人たちの非合理な発言を思い出しました。ほんとうにかたくななのです。ですから、「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。(ローマ11:28)」という言葉が、すべてのまとめになるのではないでしょうか。

 (なお、このイスラエル旅行に基づいたきよきよのエッセイが、「きよきよの部屋」のエッセイ2000年10月分のところを中心にして書かれています。お読みください。)

 ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。ぜひ、ご意見やご感想、ご質問をお寄せください。イスラエル旅行に行かれて、コメントしてくださった方がいましたが、そのようにレスポンスがあると、この旅行をさらに豊かにしてけるような気がします。