イスラエル旅行記 10月16日

 愛するみなさんへ

 シャローム!今日は、16日の旅行記を書きたいと思います。その日は土曜日であり、次の日は礼拝と自由行動をし、グループの人たちは帰国しますので、実質的には最後の訪問と言うことになります。日程は以下のとおりです。

16日 ラザロの墓→カヤパの家→園の墓→イェフダ・レビの講演


ベタニヤ

 ホテルから出たバスは、エルサレムの東、約3マイルのところにあるベタニヤへ向かいました。これからラザロの墓を訪問しにいきます。ベタニヤへの道は、たしかアラブ人の居住地になっていたようが気がします。

 ベタニヤの、ラザロが生きかえったとされる場所に来ました。そこには教会があり、また、モスクがあります。その地下に、ラザロの墓があります。掲げてあるいくつかの看板には、ラザロが生きかえったことを言及しているものがありましたが、そこにいると、聖書の記述が空想のものであるなどと言うことのほうが、かえって馬鹿げていると思わせる雰囲気があります。他の遺跡においても、歴史的事実であったことが前提となっており、やはり、私たち信仰者がイスラエルを訪問することは、私たちの信じていることが確かなものであることを教えてくれるので、有益です。

 また、日本において、日本人のイスラエル・ツアーガイドの方が、未信者への福音伝道のためにも、イスラエル旅行は適していることをお話しになっていたのを思い出します。日本の古代神話とあまり変わらないものとして聖書を捉えていた人々が、実際の遺跡をみて、聖書が歴史書であること、客観的な事実を記録していたことを知って、求道するきっかけとなるそうです。

 ラザロの生きかえりを記念する、この教会の敷地内において、まずツアーガイドのドランが、ベタニヤについて説明してくれました。「ここはべブル語でベイト・オニ、エリコからエルサレムに来るとき最初に出てくる村です。エリコからベタニヤまでは砂漠になっています。ユダヤ人がガリラヤからエルサレムに来るとき、ここが主要道路になっています。イエスさまは、エルサレムにおられたとき、エルサレム内には宿泊されませんでした。もちろん十字架刑を受ける前夜は、エルサレムにおられましたが。必ずエルサレムを出られて、ベタニヤで宿泊されました。

 ガリラヤからエルサレムに行くユダヤ人は、決してサマリヤ地方を通りませんでした。イエスさまは、ただ一回、サマリヤにいる女に会うために、サマリヤを通られましたが、その道は私たちがシロに行ったときの道路になります。もちろん、サマリヤ人全てがサマリヤ地方にいたわけではなく、良きサマリヤ人はエルサレムからエリコの道を歩いていましたね。あれはたとえとしてイエスは話されていましたが、事実に基づいたたとえである可能性が大です。」

 私たちはすでに、エリコを訪れていたし、またサマリヤ地方のシロも訪れていたので、ユダヤ人が旅をする情景、イエスさまがサマリヤを行かれた情景がある程度、想像できました。

 そして次にエドが、ヨハネ書11章から、ラザロのよみがえりについて話してくれました。主に朗読だったので、その内容は省きますが、イエスさまが命じられた、「その石を取りのけなさい」「出て来なさい。」「ほどいてやりなさい。」という三つの命令を、私たちの生活に個人的に適用させていました。

 そして私たちは、ラザロの墓に向かいます。教会の敷地を出て、急な坂道になっています。その右側にいくつかのお店がありましたが、地元の素朴なお店という感じでした。そこでデービッドが、からし種を購入して、私たちに、その種の小ささを見せてくれました。1ミリか2ミリぐらいの球形をした種、と言いたいところですが、デービッドがそれをつぶして、中から、粉のような粒が出てきました。それが「からし種」です。イエスさまが、「からし種ほどの信仰があったら、山を動かすことができます。」と言われたのですから、いかに「私たちの」信仰が重要ではないかを思い起こさせてくれます。私たちの信心深さではなく、信仰の対象であるキリストが偉大なのです。

 そして、その隣にあるお店には、ダビデがゴリアテを倒したときと同じ投石袋が売っており、そのお店のおじさんが、石投げのデモンストレーションをしてくれました。水平に投げると、人や物に当たっては大変なので、天に向かって投げました。これはすごい!ものすごい勢いで、空高く飛んでいきました。これなら、あのゴリアテも、急所に石が当たれば一ころだったのだろうと理解できます。

 そして、ラザロの墓の中に入ります。非常に小さい入口なので、少数ずつしか入ることができません。地下に下りてゆき、そこには墓の跡らしい空間がありました。私たちの仲間に家族そろって来られたメンバーがいましたが、その子どもが、その空間に通じる小さな穴の中に入ることができ、中に入っていきました。


カヤパの家

 これでベタニヤの訪問は終わりです。次にカヤパの家に向かいますが、途中で、地を掘り起こして、その穴にセメントを流し込んでいる建築現場を見かけましたが、ツアーガイドのアビグドールは、「これは違法だ。建築を始める前に、考古学者によって遺跡があるかないかを調べてもらうことが法律になっている。ユダヤ人の建築会社も、同じ事をやってしまっているが。待っていると、時間がかかってしまい、工程がはかどらないからだ。」と言うような事を言っていました。歴史の町、歴史の国独特の問題ですね。

 そして、カヤパの家ですが、これはエルサレムの旧市街の南側にあり、今は城壁の外にありますが、当時は城壁内にあり、そこは「上町」と呼ばれていました。二日前に見学したダビデの墓も、この近くにあります。聖書に地図が付いている方は、それをご覧になればすぐに見つかるでしょう。城壁の東側にあるゲッセマネの園で捕えられたイエスさまは、このカヤパの家まで連れて来られて、ユダヤ人により死刑に定められました。

 この教会の敷地か、あるいはその近くの展望台で、私たちは東側の景色を楽しむことができました。そこから、北東にはオリーブ山が見え、その下にケデロンの谷が見えます。たしか、そのケデロンの谷に、イスカリオテのユダが首をつって、その代価をもって祭司長たちが買い取った陶器師の畑があったと思います。

 そして、その教会の中に入りましたが、ここは美しい教会です。クリスチャンたちの寄付金によって建てられたカトリックの教会だそうですが、他の教会で見たような、おどろおどろしい様はありませんでした。その礼拝堂で、デービッドはマタイ書26章57節から75節を朗読して、ペテロがイエスさまを三度否んだ出来事からメッセージをしました。

 「カヤパは、紀元25年に大祭司となり、35年に文字通り退陣させられました。かなり祭司職は腐敗していたのです。私たちもペテロと変わらない弱き存在です。彼はイエスさまから離れてしまい、いつの間にか不信者のなかにおり、主を否んでしまいましたが、私たちもいつの間にか、不信者と何ら変わらないことをしている自分に気づくことでしょう。このカヤパの家における出来事は、旧約聖書で10箇所も預言されており、それらがみな成就しました。

 この裁判は不正なものでした。ラビの律法によれば、死刑に定めるのには、少なくとも三日の期間を必要とし、議員たちはこのことについて断食して祈らなければいけない、とされていましたが、彼らは行ないませんでした。また、偽りの証言、夜の秘密裏での裁判、肉体的攻撃についてもこのことは不正です。このことをみなペテロは見ていながら、イエスさまを守るために何もしませんでした。そして主を否定し、主がペテロをご覧になったとき、彼は泣き崩れたのです。

 しかし、神はペテロをお見捨てになっていません。私たちもお見捨てになっていません。この出来事があって後、50日経ってから聖霊が弟子たちに注がれ、間もなくして、この同じ場所でペテロとヨハネが裁判を受け、イエスさまが拷問を受けた全く同じ場所で、ペテロはむち打たれたのです。けれども、そのすぐあと、再び神殿地区に行き、福音を宣べ伝え続けました。この変化は何を意味しているのでしょう。イエスさまが息を吹きかけられて、彼らのうちに聖霊が宿られた、つまり回心したのもその一つですが、何よりも五旬節の日に聖霊が彼らに上に臨まれたことによるものです。…」デービッドの説明どおり、この家はイエスさまが拷問にあわれたところだけではなく、使徒たちが拷問を受けた場所でもありました。

 このメッセージを聞いたあと私たちは賛美を歌って、そして、この礼拝堂の地下にある、実際の拷問の場所、また、主が一夜を過ごされた穴へと向かいました。ここで、むち打ちを受けます。デービッドが詳しく説明してくれましたが、ちょうど両手、両足を縛りつける穴がまだ残されており、ちょうど大の字形に大きく手足を伸ばされている状態になっていたのがわかります。(右の写真参照。右側にいる男性の頭部の左側に、手を縛り付けるための穴が見えます。)

 そして私たちは、イエスさまがおられた穴の中には入りませんでしたが、上から見ました。人が10数人入ってしまうようなかなり大きな穴です。ここでよく、詩篇22篇、69篇の十字架預言の部分と、詩篇88篇が朗読されるそうです。88篇4節には、「私は穴に下る者とともに数えられ、力のない者のようになっています。」とあります。

 この教会から出て、そのとき私は、今、自分がどこにいるのかはっきりと把握していなかったを覚えています。北に見える城壁、東に見えるオリーブ山を見ながら、イエスさまの十字架、復活の一連の出来事について、他の場所との関連をつかもうとしました。同じ仲間の人も、私と同じようによく分からないでいました。けれども、三ヶ月経って、このようにメールを書いている現在、以前よりはその位置関係がはっきりしてきました。やはり、時間をかけて、何回も地図などを見直せば、だんだん分かっているんだなあと思います。

 この教会を訪れていたときに、日本からの観光客に出会いました。みながイスラエルと日本の国旗が交差してある刺繍がほどこしてある帽子をかぶっていたので、すぐに分かりました。ツアーガイドらしき日本人の方がいましたが、私より少し年上ではないかと思われる若い男性の方でした。おそらく、数少ないイスラエル公認のツアーガイドなのでしょう。ちなみに、イスラエルにおいてツアーガイドはイスラエル政府より免許を取得する必要があり、その試験があると聞いています。


ベツレヘムの丘で昼食

 そして、私たちは昼食を取りましたが、そこはベツレヘムの丘を眺めるキブツのホテルの中にありました。ホテルの部屋からは、おそらくこのすばらしい景色を楽しむことができるのでしょう。青芝の庭があり、非常に閑静なところです。ここでドランが、私のために、ホテルの部屋の空きがあるか聞いてくれました。私は、他のメンバーよりも一日余計にイスラエルにいるので、ホテルの手配を頼んでいたのです。けれども、そこは満席でした。私はカルバリーチャペル・エルサレムの牧師に電話したとき、彼の家に泊まっても良いと言われていたので、ドランには、「いいよ、その牧師の家に泊まるから。」と言いました。

 昼食を取りましたが、そういえば、もうホテルのビュッフェにて食べ過ぎぎみだったので、サラダだけ頼みました。でも、いろいろな種類の野菜があって、私は欲張ってまたたくさん食べてしまいました。でも、イスラエルの食べ物はとってもヘルシーです、(と言い訳を言っている…^_^;)。サラダ、ヨーグルト、チーズなどが多く、脂ぎったものはほとんどありません。食べているとき、デービッドがひっきりなしに、いろいろな友人や知人に出くわしていました。「やあ、デービッド!」という声が、その昼食のときに何度か聞こえました。30年もイスラエル旅行をガイドしていて、友だちがたくさんいるのでしょう。

 食べた後、ホテルの前の庭に行って、その芝生の上で寝転がって横になりました。私は、こういう静かなところで、一人になっているが大好きです。この昼間のときに、他のメンバーと話しを交わして、そのご夫婦がイスラエルは三度目であると教えてくれました。最初の二回は、ハル・リンゼイとともに行ったそうです。彼は彼なりに良かったと言っていましたが、おそらく、だれが聖書教師なのかでツアーもかなり異なってくるのでしょう。


園の墓

 昼食を取った後、私たちは最後の訪問場所である「園の墓」へと向かいました。ちょっと待って、すでにイエスさまの十字架と復活を記念する教会に行ったのではないか、と疑問に思われる方は、この旅行記をよく読んでおられる方です。すでに、イエスさまが十字架につけられ、葬られた墓があるとされる聖墳墓教会に行ってきました。けれども、実はもう一つの、ゴルゴダの場所、園の墓かもしれないとされている場所があります。私の新改訳聖書の末尾にある聖書地図には、「ゴルゴダ、カルバリ(聖墳墓教会)」に対して、「ゴルドンのカルバリ」とありました。第三城壁のさらに北側のところにあります。

 ここは、現在の城壁のダマスコ門と呼ばれる、アラブ人のお店が並んでごったがえしている場所のすぐそばにあります。タクシー乗り場の上にあるので、クラクションの音の鳴り響くのが聞こえてくる場所です。(でも、この騒がしさも実は、この園の墓の味噌となっています。)けれども、中に入ると、とても閑静な、美しく手入れされている庭園でした。名前の左に”Rev.”と付いている、その庭園のガイドの人が、この場所について説明してくれました。話し出したらすぐ分かりましたが、彼はイギリス人です。

 彼の説明によると、約100年前に英国軍の兵士であり、かつ聖書を学んでいたゴルドンという人が、ここの岩のかたちがどくろに似ているのに気づき、この場所を購入しました。それまで、聖墳墓教会がゴルゴダと考えられていましたが、そこは城壁内にありますが、聖書によると、主は城壁の外で死なれたとあります。そこで、もしかしたら、ここが本当の十字架と復活の場所であるかもしれないと思って、クリスチャンたちの寄付により、英国のクリスチャンの団体によって買い取られました。したがって、ここは商売のためではなく、奉仕(ミニストリー)のために存在します。人々が、主の死と、とくにその復活の現実を知るために奉仕しているのです。だから、このガイドさんはReverend(日本語の、牧師や伝道師の名前の後につける「師」のこと。)なのです。

 ゴルゴダと言われているところは、先ほど説明しましたように、どくろのかたちにも見える岩があります。ここは、もともと石切り場でありました。ソロモンが建てた神殿の石も、石切り場から運び込まれましたが、そのような石切り場です。さらに、ここはユダヤ人の石打ち刑の場所であったそうです。さらに、ここは、騒がしい通り沿いにあります。イエスさまが十字架につけられたとき、そこは通り沿いでした。ローマは、人々に十字架刑を見せ物にして、こんなことをしないようにと戒めるために、そうしたのです。

 けれども、ガイドさんは、これらのことによって、ここが本当のゴルゴダであることを証明しているのではない、と言いました。続けて、こう言いました。「大事なのは、イエスさまが死なれた場所(Place)ではありません。主ご自身(Person)を知ることです。この場所は、主が十字架につけられたこと、葬られたこと、そしてよみがえられたことの現実をはっきりさせるために存在します。」私たちは、他の訪問地に行ったとき礼拝のために行きましたが、その場所が必ずしも礼拝するために存在していたわけではなく、観光のため、商売のため、考古学のために存在していました。けれども、この施設はまさに、人々が主を礼拝できるために備えられている場なのです。

 この説明を聞いて、ゴルゴダが見えるところに行きましたが、確かに、先ほどのバスやタクシーののクラクションが鳴り響く音が聞こえてきます。ガイドさんは、「私たちはとかく、主の十字架をロマンチックに捉えがちですが、現実は、残酷で卑しいものであり、このような喧騒の雰囲気にむしろ近かったのです。」と言いました。なるほど!

 次に私たちは、墓のほうに歩きました。いろいろな花や植物が植えられているきれいな庭園ですが、実際、ここが庭園であったことを証明するものがあります。第一に、エルサレムで三番目に大きい貯水層の跡があります。また、ぶどうの圧搾機の跡がありました。このことも、アリマタヤのヨセフの墓が園の中にあったことと一致します。

 そして実際の墓を見に行きました。アリマタヤのヨセフの墓は、「岩を掘って造った新しい墓」でした。私たちが見るその墓の穴も、洞穴ではなく、まさに岩を掘って造られたものです。考古学者の調査によって、これは紀元一世紀ごろの墓であることが分かっており、「新しい墓」という記述にも一致します。墓を封印した石はありませんでしたが、石をわきへころがすための溝もあります。すべて、聖書の記述と一致するわけです。

 そして私はその墓の前で自分の写真を取ってもらい、中に入りました。以外に小さな穴でした。出てくる戸には、木の板に”He is not here. He is risen.”(その方はここにはおられません。よみがえられたのです。)と彫られています。

 そして、この空の墓が見えるところに長椅子の列が備えられており、そこで私たちは聖餐式を持ちました。デービッドのメッセージは、マタイ書27章57節から28章の最後までからでした。彼はここでも、オリーブ山において主が木につけられた可能性を話しました。神殿の垂れ幕が引き裂かれるのを見ることができるのは、オリーブ山からだけであると言いました。けれども、先ほどのガイドのように、どこで死なれたかは問題ではない、もうよみがえられたのだから、と言いました。

 さらに、主が死なれたのは、よく考えられている過越の祭りではなく、次の日の種なしのパンの祝いのときであったことを詳しく述べ、また金曜日に死なれたことも話しました。けれども、主がニサンの月の10日の日曜日にエルサレムに入城されたことと、ニサンの14日に主が、『これがわたしの血による新しい契約です。』と言われたことには意義があります。なぜなら、10日に、過越の子羊が、傷のないもの、欠陥のないものが選ばれ、14日にほふられるからであり、主は、傷のない汚れのない方であり、世の罪を取り除く小羊であられたからです。過越の子羊がほふられるのは、エジプトからイスラエルが脱出するときに、その家の戸口に血をつけることを表すものでしたが、主が、「これはわたしの血です。」と言われたとき弟子たちはさぞかし驚いたことでしょう。

 福音とは、コリント人への第一の手紙15章によると、私たちの罪のためにキリストが死なれ、葬られ、そしてよみがえられたこと、幾人にも現われたことであります。現われたことも福音であり、主は私たちのために、再び天から現われてくださいます。…」

 こう話したあと、聖餐にあずかりますが、ここで聖餐式が過越の食事であったことをデービッドは説明しました。…ここからは、知っている人ぞ知る、過越の食事の説明ですが、私はアメリカにいるとき、メシヤニックの会衆(教会)による、過越の食事に参加しましたが、体験したら、あの最後の晩餐の場面がはっきりと分かってくるし、また、その儀式の一つ一つが、主のご性質とみわざを表していることに気づきます。

 食事において、合計四杯のぶどう酒を飲むのですが、主が、「これはわたしの血による新しい契約です。」と言われたのは、三杯目「贖いの杯」と呼ばれるものです。そして、種なしのパンですが、これはいろいろな場面で食べます。けれども、三つの袋が内側にある袋にそれぞれ一枚ずつの種なしパンを入れ、その真ん中のパンを取り出して半分に割ります。それから、その半分を家のどこかに隠して、食事を取ったあと、家の一番幼いこどもが探し出して、そのパンを裂いて食べるのですが、そのパンについて、主が、「これはわたしのからだです。」と言われたのです。

 袋の中にあった三枚のパンは、御父、御子、聖霊の三位一体の神を表します。その第二位格である御子が取り出され、人の姿を取り、肉体が裂かれて、葬られました。それを私たちが食べる、つまり、主の死を自分のものとして受け入れるのです。パンは種がなく、しま(stripe)があり、穴が開けられています(pierced)。主は、罪を知らない方であり、むち打たれ(stripe)、突き刺されました(pierced)。あらゆるところで、主のみわざを私たちは体験できるのです。(もっと詳しい手順を知りたい方はこちらへ。日本語です!)

 もちろん賛美を歌いながら、最初にパンにあずかりました。次にぶどう酒でしたが水で薄められたぶどう酒です。デービッドによると、過越のぶどう酒は水で薄められていたそうです。


イェフダ・レビ(Yehuda Levy)の講演

 こうして聖餐を終えて、私たちはその場を立ち去りました。ここから私たちが泊まっているホテルは近いです。私たちはいつもより早く、ホテルに戻りました。今日はいつもとは違うディナーで、イェフダ・レビという人の講演を聴くことになっていました。

 最後の日にふさわしく、貸し切りの部屋における洒落たディナーでした。テーブルで、私たちは、他の仲間と再び語り合い、交わりのときを持つことができました。このグループは小人数のため、デービッドとも、ツアーガイドとも、またお互いのメンバー同士が語り合い、交わる時間がたっぷりあったことを主に感謝しています。兄弟たちからしか得ることのできないミニストリーがあります。

 そして、イェフダの講演が始まりますが、彼がどんな人物なのでしょうか。この現地ツアー会社のラニの父親であることは知っていましたが、後は軍事関係に携わっているぐらいしか知りませんでした。そこで、旅行後にエドにEメールで、彼の経歴を聞きました。すると、私たちが聴くにはもったいないほどの重要人物(まあ、私たちの主に比べれば、だれもが小さき者ですが)である事が分かりました。

 彼はイスラエル国防軍の退役大佐であり、現職のころは落下傘部隊にいました。今でも、軍事的任務のため、ときどき召集されるそうです。また、彼はエルサレム・ポスト紙委員会の副委員長です。そして、国家安全保障についての、ある協会の指導者で、米軍との軍事情報交換を行なっているようです。また、政党”The Third Way”の共同創設者でもあります。いろいろ肩書きを並べてしまいましたが、要は、ナマの中東情勢を、現場にいる人から直接聞くことができるのです。

 私は、この講演をすべて録音しました。そして、実は、最初と最後の部分をまとめました。下に掲載したので、どうぞ一読ください。聞き取れなくて多少飛ばしてある個所はあります。けれども、それを読むのは時間がかかる、という忙しい人のために、以下に要点を列挙しました。次の要点について、イェフダは話してくれました。

1)イスラエルは、建国のときから絶え間なく周辺アラブ諸国との戦争を経験していること。
2)アラブ諸国がしようとしているのは、ただ一つ、ユダヤ人を殺すことである。それは、彼らが、今世紀の初めにユダヤ人の入植者が来て、砂漠を園のように見違えるように変えてしまったのを見たからである。
3)「パレスチナ人」というならば、私自身もパレスチナ人であり難民である。もちろんユダヤ系パレスチナ人であるが、それだけパレスチナ問題は複雑であるということ。
4)この土地には、パレスチナ人の国はなかったけれども、ユダヤ人の国は存在していた。
5)イスラエル人はみな平和を望んでいるが、敵に譲歩していることがあまりにも多く、そのためイスラエルが危険にさらされていること。平和を結んでいるはずのエジプトが、イスラエルを憎んでいる。
6)アメリカは、エジプトを武装化した。そのため、イスラエルへの攻撃力が強まった。
7)パレスチナ当局は、オスロ合意の下で許された四倍もの兵力を持ち、それをイスラエルに向けている。
8)オスロ合意は愚の骨頂であった。最も大切な問題、つまり、ユダヤ人とパレスチナ人の居留問題を未解決にし、合意の初めではなく、最後にまで残してしまった。
9)エルサレムについては、パレスチナもイスラエルも決して譲歩できない、解決不可能の問題である。
10)水の資源の問題も大切である。
11)彼らは、「帰還の権利」についても語っている。
12)最終地位交渉の対話で、イスラエルの忍耐が試されている。
13)シリヤとの平和条約は、シリヤ軍がガリラヤ湖畔に駐留するのであれば、結ばないほうが平和に生きられる。
14)ゴラン高原は、戦略上、また水の資源においても決して譲歩できない問題だ。
15)アラブ系イスラエル人が、ここ51年間で初めてテロ活動を行なった。

 そして、アメリカ人が聴衆なので、オブライトが中東問題について完全に無知であることと、クリントンがアラブ諸国を喜ばせ、決してイスラエルの味方をしていないことなどを話しました。

 アメリカの福音派の教会にも訪れて、何回もクリスチャンに対し話しているとのことで、その内容はとても分かりやすかったです。みなさんは、どうでしょうか?このメールを読んでいる方には、中東について造詣の深い方もおられるでしょうし、中東のことはよく分からないと思っておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、率直な意見や感想を交換できたら幸いです。

 (注:この講演を聴いた約三ヵ月後イェフダ・レビ氏は亡くなられました。彼の記事がエルサレム・ポストにありますので、英語の分かる方はどうぞこちらへお入りください。)

 こうして、グループとしての訪問は終わり、次の日は礼拝と自由行動になります。

(続く)


イェフダ・レビの講演の内容


 ここで起こっていることを理解するのはとても難しいと思うと言いましたが、みなさんがここを訪れている間、かなり政治のことについてお聞きになったと思います。この国での政治について聞くのは避けられないでしょう。イスラエルには、今、600万人の人がいます。その数は、ユダヤ・サマリヤ地域とガザ地域を除きます。私たちは以前、650万人の大統領がいて、350万人の首相がいるとよく言いました。だれもが、他の人より自分がもっと上手にできると信じているのです。自分のほうが利口だと思っているのです。けれども、後を振り返ると、自分たちが成し遂げたことに、たった50年間に、いや、正確にはイスラエル建国から51年間に私たちが建て上げたことに、誇りをもってもおかしくない理由があります。けれどもまた、私たちは数多くの過ちを犯し、この過ちによって、これから二、三世代はきっと苦しむことになるでしょう。デービッドに言いましたが、私の世代において犯した、次世代において苦しまなければいけない間違いのことで、自分の孫に対して罪悪感を持っています。

 イスラエルが戦争の時代に誕生したことは、みなさんおそらくご存知だと思います。1948年に、私たちが生き残りのために戦っている間に誕生しました。それを、独立戦争と呼んでいます。イスラエルと当時呼ばれていた小さな場所に、南からのアラブ諸国が侵略してきたときに、私たちはイスラエルを建国しました。今だ、小さいですが。51年前よりは、ほんの少し大きくなりました。でも、独立戦争が終了したときに、― 参加したイスラエル人もアラブ人も驚いたことですが、― 私たち(イスラエル人)が生き残っていることに驚きました。アラブ人は、私たちを4,5日で打ち倒すことができなかったのに驚きました。アラブの指導者には、そのようになると確約していました。

 けれども、戦争が終わったらすぐに、戦争は終わっていないことを知りました。これはたった一回の戦争で、もうこれで終わり、ということでないことが分かったのです。まさに今日に至るまでの、継続的な戦争になるだろうと知りました。最初の戦争である独立戦争のあとの、みなさんが耳にしているさまざまな戦争は、1966年のシナイ方面作戦、1967年の六日戦争、1973年のヨム・キプール戦争、そして、1982年のレバノンでの戦争であり、これは、私たちは、平和的ガリラヤ作戦と呼んでいます。そして、これらの戦争の間に、テロリズムに対する戦闘や、アラブ常備軍に対する、例えば1968年と71年のスエズ運河における消耗戦など、多くの戦闘を挿入することができます。事実、私たちが、「もはや二度と戦争はない。」と自分自身に言えるような、休息の日は一日たりともありませんでした。けれども、サダト(?)前大統領がエルサレムに来て、実際にそう言ったのです。「もはや戦争は二度とない。」と。これは甘い考えでした。三年後に、レバノンと戦わなければいけませんでした。

 二、三年後には、あらゆる類いのアラブ人テロリスト組織と戦わなければなりませんでした。これらは、現在でも存在しているのです。名称や、形態や、戦略は変更しましたが、様相や言葉使いは変えましたが、こうした戦争はまだ続いているのです。今、私が話しているときに、少なくとも6つか7つのテロリスト組織に対処しています。一部はこのイスラエル国内で、他は国外にいます。いくつかはシリヤに駐留し、つい最近まで、実際ヨルダンに駐留していました。いくつかはレバノンに、スーダンにもあります。また、リビアにもいます。彼らは、次のたった一つのことを計画しています。「ユダヤ人を殺すぞ」ということです。いくらでも聡明な名称をつけることはできますが、例えば、「占領の終了」「パレスチナ解放」等々と付けていますが、結局のところ、「ユダヤ人を殺せ」ということなのです。

 これは、今世紀に入ってからずっとこのような感じなのです。当時はパレスチナであったイスラエル入植以来そうなのです。とくに東ヨーロッパから人々が来ました。1910年と1920年代のことです。彼らが行なったのは、言わば「放棄された土地の耕作」です。沼地と砂丘(sand dune 岩地のことか?)だけであったこの土地を、花咲く園に変えました。これだけのことだったのです、アラブ人をたたき起こしたのは。もし、このことに対抗して何かをしなければ、イスラム世界の真ん中に、新しい組織体ができるかもしれなく、そのことが彼らに耐えられなかったのです。これは、2,3の利害関係による戦いではなく、2,3キロメートルの中の戦いでもなく、「西岸」と彼らが呼ぶ、2,30マイルの中の戦いでもありません。これは、ユダヤ・サマリヤの入植が合法か不法かの問題ではありません。だれもが、それは合法であることを知っています。なぜなら、彼らが建築物を建てた土地は、だれによっても所有されていないからです。パレスチナ人やアラブ人の土地ではなかったのです。そこは、オスマン帝国によって、400年間線引きされた土地でした。第一次世界大戦のあと、大英国がトルコからその土地を奪取しました。彼らが、この土地を所有していたのです。

 ここには、パレスチナ人国家というものは決してなかったし、パレスチナ国民というものもありませんでした。みなさんが私をパレスチナ人だと思えば、そうなのです。私は、パレスチナで生まれました。それだけでなく、インタビューを受けるときに、・・・デービッドはこの話しを知っていると思いますが、・・・とくにアメリカのような国で、ラジオのトーク番組などで、イスラエルやここで起こっていることについてほとんど知らない人が私にインタビューして、パレスチナ問題について語り始めました。私は彼に、パレスチナ人とは何ですか、と聞いたら、彼に「あなたが答えてください。」と言われました。私は真のパレスチナ人です、と伝えました。パレスチナで生まれた人はみな、パレスチナ人です。私の出生証明書には、そう書いてあります。私はパレスチナ人だと。これは、閣下の代表者による署名つきです。

 そして、こう言いました。「私が生まれとき、ヨッパに生まれました。そこはアラブ人の町でした。私の父は、アラブ人の富豪商人のもとで働いていました。私は、自分の家、両親の家の中で生まれました。私がちょうど1歳のとき、1936年のことですが、アラブ人がユダヤ人に対し、国中で非常に暴力的な暴動を起こしました。アラブ国民軍によるユダヤ人殺しは、その当時にありました。彼らは、三階建ての家を放火しました。その中には、一組だけのユダヤ人の家族が住んでいました。私の家族です。たった一組のユダヤ人の家族が住んでいたというだけで、放火したのです。私の両親は、もちろん家から逃げ出さなければいけませんでした。テルアビブの近くまで逃げました。したがって、こうやって私は最初のパレスチナ難民になったのです。」

 私がこういうことを言うと、ラジオにしろテレビにしろ、その人は完全に混乱してしまいました。話しを始めないうちに、自分が知っているがほとんど分からなくなります。このことの理解はとても難しいのです。私たちは、「パレスチナ人」「パレスチナ人」「悲惨なパレスチナ人」「かわいそうな難民」と聞きますが、ここにパレスチナ難民がいます。そして、私はアラブ人ではなく、ユダヤ系パレスチナ難民なのです。これだけでも、問題の複雑さを教えてくれます。

 もちろん、ここにはいつもアラブ人がいました。ここ数世紀の間いました。アラブ人が居始めたのは、さほど古いことではありません。ずっとずっと昔に、アブラハムやモーセが、ユダヤ人国家を造る一歩を踏み出したのです。全能者なる神の秩序や律法を持ちました。イスラム教は、みなさんご存知でしょうが、イエスが誕生された600年後のことです。今や、パレスチナ系アラブ人イスラム教徒が、いやクリスチャンの口からも、パレスチナ人であると歴史の見方が異なるのですが、イエスは実はイスラム教徒であったと語っています。聞いたことありますか?ありますね。こうした馬鹿ばかしい発言を聞くことがあります。例えば、モーセやアブラハムや、イサク、ヤコブがみなイスラム教徒であったと言います。イスラム教が6世紀に始まったことはそのままにしておきましょう、このことは問題ではないのです。いずれにせよ、先ほど言いましたように、まさに初めの時から継続的な戦争が続いているのです。

 私たちがみな平和を望んでいることは真実です。イスラエルの男も女も、誰一人として、平和は欲しくないと言わないでしょう。もちろんそんなことを言ったら馬鹿げていますが、でも本気でそう願っているのです。私たちはみな平和を望んでいるし、戦争に疲れ果てました。数多くの家族、友人を失いました。イスラエルの家族で、戦場で何か失わなかった家族を見つけることはできないでしょう。私自身、26年間、落下傘部隊にいました。幸運にも私は生き残りました。…ああ、幸運というのは良くないですね、(デービッドが、「それは間違っていますよ。」とちょっかいを入れています。)そうですね。けれども、私は数多くの親友が殺され、最善の場合は負傷しました。幾人かは、残る生涯を障害者として過ごしました。私たちは、この51年間、大きな困難を経験しました。ですから、確かに平和が欲しいのです。

 けれども、平和を得るために敵のところに行くときには、自分が何を達成したいのかを決定しなければいけません。「平和」という共通の言葉でもって、この言葉で何が起こるかについて、これらの敵に残す機会は何であるかを決めなければいけません。例えば、エジプトとの講和を取り上げてみましょう。まず初めから誤解されないようにお伝えしますが、私たちがエジプトと平和を持つことができているのを、私はとてもうれしく思います。エジプトは、中東における最大の最強の国ですから。20年経ちました。そして、次のことを言うことができます。もしみなさんが今カイロに下っていったら、アラブ語を知っていたとして、その新聞を読めるとします。たまに起こる出来事を話しているのではなく、毎日のように、古くからある主要紙において、イスラエルに対するとてつもない憎しみが書かれています。たぶん、これを読んだら、エジプトはもっとも凶悪な敵であり、20年間講和状態にある国ではないと思うでしょう。この20年のあいだ、イスラエルに来るエジプト人を見ることはできません。政府の命令などで、職務として来る役人たちだけです。観光客など、とんでもありません。その一方、最初の数年間で、何百もの何千ものイスラエル人が観光客としてエジプトに行きました。なぜなら、平和条約、つまり、これは一枚の紙ですが、これに続いて、真の正常化が起こるべきであると私たちは思ったからです。けれども、向こう側の反応を見て、ほとんどのイスラエル人がエジプトに行かなくなりました。それでも、エジプト人がイスラエルに来る人数よりはずっと多いのですが。

 このようにエジプトについて語るなら、あなたがたも、アメリカ人としてエジプトについて関わっているのです。私たちがエジプトと平和条約を締結したときまで、すべての戦争において、あらゆる緊張状態において、私たちは常に、大多数に対して少数派でした。私たちは、いつもこのことを知っていました。250万、300万、400万のユダヤ人が、常備軍を持つ複数のアラブ諸国に対して戦わなければならず、そのような大規模な常備軍を持つ余裕はない、そのような機会はないことを知っていました。なぜなら、このような小さな国だからです。防衛軍を常備しているなら、経済が破綻してしまいます。ですから、私たちの軍事組織は、ほとんどすべて予備軍に頼っています。ですから、奇襲にあったとき、出動に間に合わないという大きな問題があります。この問題に、1973年のヨム・キプール戦争のときに出くわしました。けれども、現状、現実は、私たちは大多数に対して少数派であり、数における劇的な違いを補う、他の要素を見出さなければいけないことを知っていました。そこで、常に二つの補助がありました。一つは、兵士がずっと動機付けられていたことです。自分たちが何のために戦っているかを知っていました。選択がない、というのが、彼らの背後にあった最も大きな力でした。

 もう一つは、あなたがたアメリカ合衆国の助けでした。私たちの使っている兵器によって、いつも敵に対して質的に優勢を誇っていました。私たちは、アメリカ製のジェット戦闘機を飛ばし、あらゆる種類の最も高性能の兵器を、50年代、60年代、70年代は、ロシア製の兵器に対して使っていました。これらの二つの要素、一つはすでにお話した、「選択はない」と呼ばれているもの、もしお望みならば、神に拠り頼むことであり、もう一つ、質的な優勢がありました。私は、質的な優勢は、この二つの組み合わせだと思いますが、つまり兵力と人力です。私たちは、これらによって生き残るだけではなく、潜在的敵国に対して抑制力になっていることを知っていました。これは作用しました。私が言及したすべての戦争において、作用しました。

 けれども、今、状況は劇的に変化しています。エジプトとの平和条約以来、アメリカ合衆国はエジプトを非常に深刻なかたちで武装させています。私の思いでは、世界の平均的なイスラエル人よりも、ずっと深刻にとらえています。トルコを含む中東全域の中で、エジプトが最大の軍事力を有しているだけではなく、このエジプト軍はほんとうに近代化し、私たちが使っている同じF16戦闘機を使っています。私たちが使っているF15戦闘機を使い、あなたがたの国でよく使った同じミサイルを使っています。などなど、今は海軍を築いており、第二次世界大戦前夜の英国海軍をさらに豊かにしています。何百もの何千もの大砲を、長距離大砲やミサイル発射砲など、いろいろあります。これはとても長距離で、でも詳しくは語りません。最も高性能な戦車があります。彼らがかつて持っていなかったほどの、甚大な数の戦車です。

 このことについて自問してみなければいけません。何のために、これらの物が必要なのかと。研究してください。これらは隣国に対するものです。リビアはそんなに大きな脅威ではありません。テロリズムにおいては脅威かもしれませんが、常備軍による戦闘においては脅威ではありません。エジプトは、そんな巨大な軍力をリビアに対して必要としていません。スーダンに対しても、必要としません。ですから、ただ一つの自答は、彼らはいつか、この巨大な軍事力をイスラエルに向けて使うかもしれないと、私は、使うとは言いたくないですが、使うかもしれないと考えているのです。政治家たちの言葉を聞いていると、それほど思いすぎではないのです。

 アメリカ合衆国について言及させていただきましたが、他にも深刻な事柄があり、それはパレスチナ人です。パレスチナ人は、オスロ合意の下で、一定の数の警官と軽微な兵隊を持たなければいけませんでした。これだけです。つまり警備軍のようなものです。他国との国境はないことは明らかで、なぜなら、パレスチナ国家のことを話しているのではなく、パレスチナ当局や組織体やそういうような類いについて話しているからです。彼らは今、オスロ合意で許された四倍もの兵力を持っています。彼らは今、非常に訓練された武力を持っており、その一部はあなたがたのCIAによって?。とくに諜報の分野においてそうであり、諜報を収集し、どう使用するかについてです。もしイスラエルでなければ、だれに対してその諜報を使うのでしょうか。彼らの兵力を、他の軍事的才力と共に使うことができるのは、イスラエルに対してだけです。彼らがそれを、遅かれ早かれ使うことを、私はあなたがたに約束できます。

 約束できるのは、私のオスロ合意の見方によるものです。この合意は、罪から、あるいは愚鈍か、その組み合わせから生まれました。その罪、愚鈍、組み合わせは、私たち側のことであり、パレスチナ側のことではないことは確かです。この合意に署名した私たちの側の人たちは、紙に署名するのを待ちきれなくなっていて、最も大事なことに注意を寄せていなかったのです。未解決のままにしておいたのです。私たちがパレスチナ人に与えたのだから、その事実によって、彼らが確かに、どうにかして行儀良くふるまい、ありがたく思い、少なくとも彼らがその合意のなかで確約したことに追従すると信じていました。

 この合意締結の署名が行なわれて以来、何回も何回も、まさに逆のことが起こりました。テロリズムが起こりました。エルサレムやテレアビブや他の場所でバスが爆破しました。もちろん、すべてのパレスチナ人がこのことに責任があるわけではないと言えます。私は、ほとんどのパレスチナ人は、私たちイスラエル人が望んでいるように平和を望んでいると思います。けれども、自らの方向性や内意を持っている組織体と合意を締結するときには、何が問題であるかを予測するために、少なくとも20年、30年先の過ちを見据えなければいけません。最も難しいテーマは何かを指摘して、それにどう対処するかを、その経緯の初めに見極めなければいけません。終わりにだけではだめなのです。

 けれども、まさに私たちは行なったことであり、私たちは、最も大切な、最も繊細な、最も本質的な、ユダヤ人とパレスチナ人の居留問題を最後にまで未解決のままにしてしまいました。今では、ヤセル・アラファトとパレスチナ当局は、ユダヤ・サマリヤ地域を49パーセントから50パーセント得るようになるし、ある人たちは、70パーセントから75パーセントにもなるであろうと言っています。ユダヤ人入植について、彼らがとどまるのか、彼らのうちだれがとどまるのかについては、未決定のままです。けれども、ヤセル・アラファトとパレスチナ当局がこれらすべてを得たら、みなさんご存知のようにガザ地区すべてを得ましたが、そこで彼らが完全な支配を持っています。ところで、パレスチナ当局は、今日、すでに95パーセントの西岸とガザ地区のパレスチナ人に対して、完全に支配を持っています。

 ですから、私たちがこれから行なうことは、座って、最終地位合意を決定し、最終的に承認することなのです。その時に、私たちは、非常に複雑な問題に、たぶん解決不能の問題に直面しなければいけません。その第一の問題は、エルサレムです。パレスチナ人たち、ヤセル・アラファトと他のパレスチナ当局の指導者たちは、エルサレムは私たちのもの、エルサレムはパレスチナ人のもの、エルサレムはパレスチナ国家の首都である、などなど繰り返して言っています。便宜上、彼らは「東」エルサレムと言っています。けれども、「東」を強調する必要のないときは、エルサレムを語っているのです。彼らの一部は、時に、はっきりと、ただ東エルサレムだけではなく西エルサレムも自分たちのものであると語っています。

 私は望んでいますが、ただ、他の問題について私が望んでいるといって間違っていたことがありましたので、このことをとても用心深く言っていますが、このエルサレム問題については、イスラエル政府のだれもが決して譲らないことを望みます。また、ヤセル・アラファトが ? 望んでいます。けれども、非常に大変な交渉の場面に差しかかる前に、他の交渉者とともに、最も困難な条件を約束させることは、この交渉の初めから控えなければいけません。けれども、私は、イスラエル政府は、どの首相も、きっと、この問題について譲歩しないだろうと望んでいます。

 けれども、他の問題もあります。エルサレムのような感情的な問題ではなく、イスラエル国家の将来にとって非常に大切なことです。例えば、水の問題があります。エルサレムとナブルス(訳注:シェケム)の間の山々を山脈を支配している者が、イスラエル国家の主な水資源を支配することになります。テレアビブ、ハイファ、アシュドテ、アシュケロンなどで飲む水はみな、これら山々に向かっている帯水層から来ています。けれども、この支配を保持するためには、その土地の、少なくとも、この山脈に沿った最も戦略的な場所の主にならなければならないのです。このことは、非常に困難な、パレスチナ人との議題になるでしょう。

 なぜなら、彼らは、主張して、主張しつづて、さらに主張すれば、イスラエルがいつか、ある時は部分的に、またある時は完全に、譲歩することを決定することを、すでに学んだからです。故ラビン首相の時代のときに、彼らはこのことを学びました。彼らはその時に譲歩し始めました。シモン・ペレスが首相を務めましたが、その時も譲歩は続きました。彼らは、この譲歩がベニヤミン・ネタニヤフの時期において止まってしまったことに、とても驚きました。今、彼らはまだ、新しい首相バラクのことを研究し、彼が困難な問題に対してどのような行動に出るか推測しようとしています。これまでのところ、バラクは、自分の胸中に秘めており、だれも、私たちイスラエル人でさえも、最終地位交渉について、主要な重要な問題について彼がどのように動くか分かりません。

 私はすでに水の問題について言及しましたが、他にもいくつかあります。彼らが「帰還の権利」と呼んでいるものです。これは、私たちから真似たものです。「帰還の権利」です。これは、世界中どこに住んでいるパレスチナ人も、ここに戻って来て、居留する権利があることを意味します。「戻ってくる」というのは正しい言葉ではありません。ほとんどの人は以前ここにいなかったのですから。けれども、彼らが言っていることは、パレスチナ国家やその類いの統一体の存在理由が、その新しい統一体のもとに帰ってきて、住む権利がある、というものです。これが意味していることは、300万人から400万人のパレスチナ系アラブ人が、私たちの戸口に住むことであり、それはとても危険な状態です。これもまた、最終地位決定において、とても複雑な問題なるでしょう。

 他にもありますが、詳細は控えます。けれども、私が、2、3ヶ月後、でなければ2、3年後に起こると予測することがあります。いくつかの期限があります。来年の5月でしょうか、そうです来年の5月に、双方から最終地位が締結されなければいけません。私は、これが上手く行くとは思いません。合意があるのかとお聞きになるのなら、答えは、ヤセル・アラファトが、数年に渡って、日ごとに彼が繰り返している最も重要な事項を譲歩して、これらのものを受け取らずして、最終地位決定に署名しないと思います。また、どのイスラエル政府も、これらの問題に譲歩しないと思います。ですから、最終地位合意はないだろうと思います。現状維持のような類いはあるかもしれません。何らかの類いの交渉は、私たちが考える以上にずっと続くかもしれません。

 そして本当の疑問は、これらの対話の間に、あるいは対話の最中に何が起こるか、ということです。対話が一年、何ヵ月間、あるいは何年間か続いて、テルアビブとエルサレムの産業や、いろいろなところのユダヤ人に攻撃する過激派を、私たちが支配するのか、あるいはパレスチナ当局が支配するのか、という疑問です。私は、私たちがこの問題に対処できると信じています。過去にもできたように、もっと困難な状況にも直面できると信じています。けれども、イスラエルの人々の忍耐の尾が、どんどん切れ始めています。これが倦怠のしるしでないことを願っています。かえって、意味もないことをこれ以上長く続ける事に耐えられないものであることを願います。相手が、すでに得たもので、ここ2,3ヶ月で得るもので満足できなければ、これでお終いです。

 同じことがシリヤにも言えます。だれもが「シリヤと平和を」と話しています。再び、「私たちはシリヤと平和になりたいのです。」と言っています。アサド氏、アサド大統領との交渉の結果が、ガリラヤ湖畔にシリヤ軍が駐留するのであれば、現状維持のほうを私は願います。私たちはシリヤと平和状態ではなく、公式には停戦合意にあります。言いかえれば、シリヤと戦争状態なのです。けれども、実は、ここ25年ぐらいのこと、シリヤとの国境は静かな国境になっています。理由は、アサド大統領が、もしテロ組織や、もちろんシリヤ常備軍を国境の向こうのイスラエル側に攻撃させたのなら、ダマスコが大きな苦境にあうことをよく知っているからです。このことをアサドが知っているので、シリヤとイスラエルの国境は、こんなに長いこと非常に静かなのです。そして、和平合意なして、これから25年間も静かでありましょう。もし和平合意ができれば、それにこしたことはないとイスラエル人は思っています。

 けれども、ゴラン高原の一部が、高原の少しだけは、親善のしるしとしてアサドに与えられるであろうと理解しなければいけません。それ以上はだめです。なぜなら、ゴランを支配する者が、イスラエルの北側を支配するのです。それに、また水の問題があります。ゴランを支配する者は、イスラエルの水を支配することになります。北の水資源です。三つの主要な流れが、川があり、これらがヨルダン川をつくり、そしてもちろんガリラヤ湖を造っています。ガリラヤ湖はヨルダン川から水を得ています。私たちは、以前、シリヤと問題がありました。その一部は、北の水についての戦いでした。私たちは、長年の間、イスラエルの水を得るために、ヨルダン川の源を他の方向に迂回させようとするシリヤと戦いました。このことが、ちなみに、1967年の六日戦争が起こった理由の一つであったのです。

 ですから、私たちはシリヤ人と平和を持ちたいのですが、署名つきの紙なくして生きることができるのです。もし座って署名することだけが平和の方法であれば、彼らがやって来て、湖の湖畔に座ることになるのです。私が望んでいるのは、エルサレムのときにも言いましたが、今、ゴラン高原についても言えます。この国のどの政府も、どの首相も、近眼的になり、弱体化し、これらの問題に譲歩することはない、と望んでいます。

 もしみなさんが、たまたま、私が何を ?のであろうかとお考えになっているなら、私には望みがあります。その一つは、アラブ系イスラエル人です。100万人のイスラエル国籍を持つアラブ人がいます。彼らは、最初からイスラエル市民であり、戦争のときもそうでないときもイスラエルに忠誠を尽くしました。イスラエル国家が設立されて以来、彼らはずっとイスラエル市民でした。私たちは、アラブ系イスラエル人との、安全保障問題としての問題は今まで何もありませんでした。彼らはいくつかの不満を持っていますが、ほとんどの不満は実に正しいものです。何らかの理由で、1948年から今日までのイスラエル政府はみな、完全に平等な市民として得るべき、アラブ人分野をイスラエルの中に与えませんでした。私は、教育への投資などのインフラストラクチャーのことを話しています。イスラエル政権のだれかが、これらの不満を世話をしないといけないと私は思います。

 けれども、これらすべてを言って、イスラエル国内で、アラブ系イスラエル人によるテロ活動は受け入れがたいものです。その事件が、つい2,3週間前に起こりました。アラブ系イスラエル人のグループが、ティベリヤやハイファの両方において、イスラエルのバスや公共の場所の爆破を試みました。幸運にも、この2回の試みにおいて、テロリストら自身が、彼らが仕掛けた車の爆弾によって爆破しました。けれども、結果は、数多くのアラブ系イスラエル人が後で拘留されて、取り調べが続いています。今のところ、彼らがハマスによって訓練を受け、ハマスによって ?られたことが分かっています。51年の中で、イスラエルの中でこのようなことが起こったのは初めてです。これは、非常に懸念すべきしるしです。

 …ユダヤ・サマリヤ地方のアラブ系イスラエル人とパレスチナ人やパレスチナ当局との結びつきは、また一つの講演になってしまうので、詳細は控えますが、イスラエル国家は、自分たちが住んでいる国に対して、自分が市民権を持っている国に対して、いかなる不信の行為も許されないことを、アラブ系イスラエル市民に対し、はっきりとさせなければいけません。両レベルにおいて、これは対処しなければいけない問題です。先にお話しましたように、不足や不満を世話しなければいけませんし、今言いましたもう一つのことについて、強硬な手段を取らなければいけません。