イスラエル旅行 − 10月4-5日

 シャローム!
 前回の「はじめに」に記した旅程に従い、今回は、10月4日と5日について記していきたいと思います。

 もう一度4,5日の旅程を記します。

4日 ベングリオン国際空港→テルアビブのホテル
5日 ヨッパ→カイザリヤ→テルアビブ大学にあるディアスポラ(離散)博物館→ホテル

 私は、4日の正午に、成田空港でフランス航空によって出発し、パリ経由でベングリオン空港に同日の日本時間の真夜中に到着しました。旅行前の2、3週間は、教会のことであたふたとし、この旅行のための前準備をすることができなかったので、飛行機の中でしました。読むように勧められていたマタイ伝とヨシュア記を通読し、また待ち合わせた聖書地図を眺めていました。12時間半後、パリに到着したときは、日本時間は真夜中過ぎ。眠気が激しかったので、5日からの旅行に備えて、テルアビブ行きの飛行機では寝るぞ、と思っていました。ちなみに、飛行機の上からのフランスの田園風景はとてもきれいでした。

 次の飛行機に乗るとき、回りの人々はユダヤ人ばかりでした。テルアビブ行きなのだから当たり前のことなのですが、私は、あどけなく、「ワッ!ユダヤ人ばかりだ。」と思っていました。顔かたちは、ホロコーストの記録でよく登場する、ユダヤ人の白黒の写真がカラーになったようだったので、とても不思議な気分になりました(ワッ、日本人のステレオタイプ丸出し!)。なにか、時代をさかのぼったような気がしました。

 私の座席は一番後ろでした。小さな飛行機だったので、化粧室も飛行機のキッチンも後ろに位置し、これではうるさくて寝れないなあ、と思いました。座席を探していると、ある男性が、「アキ!(aqui)」と言いました。何か聞いたことがある言葉だなあ、と思いながら席に着きましたが、周りにいる人は、ぺらぺらしゃべって、笑っているし、私はとても眠れませんでした。おまけに、スチュワーデスの人も交じって話しています。私は、「これはもしかして〜。スペイン語だ!メキシコの人たちだ!」と分かりました。私が大学の時に学んだスペイン語、初めての海外宣教旅行で行ったメキシコ、また南カリフォルニアに住んでいたとき、隣近所の人々が使っていたスペイン語です。となりに座っていた人が英語を話せました。聞いてみると、なんとカトリックの聖地旅行の人々だったのです。

 私は、メキシコに行ったときに習った賛美を歌ったら、みんな知っていて、とても喜んでいました。隣の隣に座っている人は神父さんで、「あなたはカリスマ的だね。」と言いました(?)。後で私に、「聖霊のバプテスマを受けたのは、いつなの?」と聞きました。この人たち、カトリック・カリスマの人たちだと分かりました。ほんとうに陽気で明るい人々でした。でも、こうやって、世界中のキリスト教徒がイスラエルに旅行に来るんだなあと思いました。

 飛行機を降りて、入国審査。とても簡単でした。ベングリオン空港は以外に小さい。私は乗合タクシーを探しましたが、タクシーしかありませんでした。そして、いざ、教えられたホテルへと向かいました。30分弱かかりました。

 ここからハプニングです。教えられたホテルに行き、グループの名前を告げました。名前は3つあります。デービッドのミニストリーは、Hope For Today。アメリカの旅行会社は、Friendship Tour。イスラエルの受け入れ側は、Covenant Toursです。ところが、私の名前がホテルルームのリストに載っていないどころか、この3つの名前さえ載っていなかったのです。ホテルのフロントの人は、親切にも、国際電話をかけてFriendship Tourに連絡してくれました。そうしたら、Friendshipの人も、このホテルにいるものだと思っていたと言うのです。そこでCovenant Tourに連絡したら、ようやく、違うホテルに変更になっていたことが分かりました。タクシーでさらに5分行ったところにありました。

 部屋に入れたのは午前2時。二人相部屋と聞いていましたが、ルームメイトを起こしてしまいました。青年男子が出てきました。名前は、Jeremy Henke(ジェレミー・ヘンケ)。シアトル方面に住んでいるようで、カルバリーチャペル聖書学校に通ったのある人です。おまけに、自分の通っている教会の牧師が、スクール・オブ・ミニストリーの卒業生リックであるというから驚き。世の中、狭いですね。

 朝起きて、朝食に行くと、みなが私の到着を喜び、驚きの目で見ていました。コーディネーターのスティーブ(「イスラエル旅行 はじめに」の、添付写真の右端の人)は、「私たちは、君がいないのでとても心配したのだ。」と言いました。そして、デービッドがやって来ました。(やっぱり、大きかった・・・。)彼も私のことを大変心配して、いつものように微笑みながら、"It kept me awake all night.(このことで、一晩中眠れなかったよ。)"と言って、私に旅行パンフレットとバッチを手渡してくれました。

 でも、私は思いました。「おかしいなあ、Friendship Tourには、東京から直でテルアビブに行って、ホテルで合流するって伝えたのに。」後で分かったのですが、これみんな、Friendshipツアーの手違いだったようです。Covenantに連絡せず、ホテルを変更したことさえも知らず、Hope For Todayに私のフライトについて伝えていなかったようです。いかにもアメリカらしいなあ、と思いました。アメリカに暮らしていたとき、こんなことばかりでしたから。(ちなみに、この食事のとき、同席に、あの、スペイン語を話していたスチュワーデスさんが来ました。着陸したあと、同じホテルに泊まったみたいです。)

ヨッパにて

 けれども無事に到着しました。さっそく、1日目が始まります。ホテルのすぐそばに、ヨッパがあります。現在は、テルアビブもヨッパも、一つの町に括られています。「テルアビブ・ヤッフォ」です。地中海を見ながら、ツアーガイドがこの町の説明をしました。― ツアーガイドは2名いました。名前はドランとアビグドールです。バスが2台でグループの人数は60人ぐらいだったので、それぞれに一人ずつです。二人ともユダヤ人で、私はかなり後になってから、どちらもクリスチャンでないことが分かりました。でも、旧約はもちろんのこと新約も、クリスチャンよりもっと詳しく知っています。― だいたい、次のような内容です。

 「ヨッパは、ヘブル語ではヤッフェ。ノアの子どもの一人ヤペテと同じ語源を持つ。ここは、紀元前4千年から存在する古い町である。この町の特徴は、第一に、港町だったことである。それは、ヘロデ大王のときまで続き、ヘロデ大王からはカイザリヤが中心都市となった。現在は、アシュドデ(南方の海岸都市)が港になっている。現在、16万人のユダヤ人が住んでおり、その多くがロシア系の移民である。1948年まではアラブ人の共同体があった。

 第二の特徴は、ここが主要幹線道路だったことである。エジプトとメギドへ行き、ガリラヤ、ユーフラテスへと向かう道路になっていた。この町に、ソロモンの神殿の材料が積み上げされ、また、この町からヨナが主の臨在から逃げようとして、船に乗った。イエスは、ここには決して来られなかった。なぜなら、ギリシヤ人の町だったからである(注:このことについては、デービッドが彼に反論していました。イスラエルは異邦人の光になるように命令されていたのであり、イェシュア(イエス)は、異邦人と接触を持たれた、と後日ドランに話していました)。」

 イスラエル地図の東側にパズルの一片がはめ込まれました。この説明が内陸における説明とつながっていきます。そして、この後にデービッドがメッセージをしましたので、要約します。

 「この町では、二人の人が神のみこころに直面しました。ヨナとペテロです。ヨナは、神のみこころから逃れようとしました。けれども、私たちは、主の臨在から逃げることはできません!それは、ずるずるした坂道をよじのぼろうとするが、また滑り落ちてしまうようなものです。ヨナの乗った船に、大きな風が吹きました。神は、ヨナがご自身に目を留めてほしいと願われたのです。そして、大風だけではなく、大魚に食べられてしまいました。神は、どのようなものでもお用いになることができます。大魚の中のヨナの祈りは、他の聖書個所を多く引用しています。ヨナは逃げましたが、この大魚によって、ヨッパに引き戻されてしまいました。私たちも、神のみこころを逃れていろいろなことをしても、また同じ場所に引き戻されるのです。

 それではペテロの場合を見てみましょう。ペテロは、このヨッパで、はっきりと啓示された神のみこころに直面しなければなりませんでした。ペテロはカイザリヤに行きたくありませんでした。このことは使徒10章に書かれていますが、9章後半において、ペテロは病気を直したり、死人をよみがえらせたりして、神の力を経験していたのです。けれども、神のみこころを受け入れるのに問題を感じました。そのみこころとは、異邦人も、ユダヤ人のルーツにあずかることができる、というものです。

 エレミヤ31章を読んでください。とくに37節によると、イスラエルが存在しているのは、神がみことばの確かさを示すのです。イスラエルが存在していなければ、私たちへの救いの約束も無効になってしまいます。神が、今もイスラエルを残しておいてくださっていることに感謝します。神はご自分の約束を守られるのです。」

 そして、皮なめしのシモンの家の外をちらっと見て、ヨッパからの、さわやかな地中海海岸を見て、カイザリヤへと北上しました。


カイザリヤ

 カイザリヤは、そこが一つの大きな考古学の場所になっており、いくつもの遺跡が残されていました。現在でも59箇所で発掘されているそうです。ここは、ヘロデの支配下にある、ローマでもっとも麗しい町と言われていたところです。当時は、ローマ市に次いで、2番目の大都市でした。500年の間、十字軍が来るまで重要都市となっていました。ヘロデ大王から長男のヘロデ・アルケラウスに、ユダヤ地方の支配が引き継がれましたが、ローマ政府に嫌われて、総督が直接統治するようになりました。イエスさまが公生涯を送られていたときは、ポンテオ・ピラトが総督でした。そして、使徒行伝においては、パウロが投獄されていた場所がカイザリヤであり、数々の総督が登場します。

 私たちは最初に、ピラトの名前が記されている碑文の複製を見ました。1961年の発掘されたものらしいですが、それまで聖書の批評家はピラトの存在さえ否定していたそうです。けれども、考古学の発見が、さらに聖書の記述と一致してきています。

 次に、復元された円形劇場に入りました。ここは、今でもコンサート劇場に使われているそうです。私たちのグループは、ここで短いあいだ礼拝を持ちました。賛美を歌い、デービッドからのメッセージがありました。デービッドがメッセージをしている間、他のグループが舞台にあがって、とてもきれいな賛美をコーラスで歌っていました。デービッドは、次のようなメッセージをしました。

 「このカイザリヤについて4つの点についてお話します。第一に、カイザリヤは、異邦人への神の計画が紹介されたところです。第二に、ヘロデの高慢が打ち砕かれたところです。ヘロデはここで演説し、神に栄光を帰さなかったため、天使に打たれて死にました。第三に、カイザリヤでは、パウロに神のご目的が告げられたところです。使徒の働き23章11節で、パウロは神に、これからローマであかししなければならないと告げられました。第四に、この町では、パウロの説教が、支配者たちに影響を与えたところであります。ペリクス、フェスト、そしてヘロデ・アグリッパ2世に福音を語りました。アグリッパは、『もうすこしで、あなたは私をクリスチャンにした。』とまで言いました。

 それぞれ、何を語っているでしょうか、第一点目の異邦人への神の計画は、神のみことばへの信仰について取り扱われています。ペテロもさることながら、コルネリオも、この神の計画に対して信仰が要求されました。第二点では、謙虚さが取り扱われています。神の御前にへりくだらなければいけません。謙遜とは、ふわふわした柔らかい気持ちではなく、神を神とすることです。第三点では、神のみこころへの服従です。パウロは、自分の願いではなく、神のみこころを行なうように促されました。第四点では、大胆さです。大胆というのは、強引になることではありません。これは、話すことに自由をもつという意味を持ちます。…」

 そして私たちは、その他の発掘された遺跡を見て歩きました。実にたくさんあります。その間、少しデービッドと話を交わす機会がありました。「今、何しているんだい?」「教会を始めました。」「人数は。」「…」「10人ぐらい?」「そうです。」「日本は難しいところだからね。私は、25年前に日本に行ったよ。仏教の大学で話して、横浜では浮浪者や売春婦に福音を語ったよ。…難しいのは、イスラエルも同じだ。会衆(教会)の平均人数が10人から15人だからね。」25年前というと、僕が3歳か4歳のころか…。デービッドは、たしか40年間牧会した経験があり、イスラエル旅行のガイドは30年やっています。このような経験が深い方のツアーに参加できていることを、神に感謝しています。

 その後、少し北上して、ローマ時代の水道橋を見ました。ちょうど海岸にあります。長いこと砂に埋もれていたので、かえって保存されていたそうです。それから、お昼を食べました。Shirley(シューリー)という、中国系アメリカ人の姉妹と会話することができました。友達に、グレイスという、日本の大学で英語を教えていた姉妹の友達がいるそうです。私がこのツアーに参加しているのを、とても喜んでいるようでした。

 そして、テルアビブに戻りました。― ところで、テルアビブは近代的な都市です。けれども、当然ながら地中海の雰囲気をただよわせています。イスラエル全体もそうですが、20年か30年前の映画に登場しそうな、エキゾチックな面持ちがあります。― テルアビブ大学に到着して、そのキャンパス内にある、ディアスポラ博物館に入場しました。

 ディアスポラとは離散という意味で、バビロン捕囚から始まり、とくに紀元70年からの離散の歴史を博物館にしたものです。最初に映画を見ましたが、これで離散の全体的な歴史を知ることができました。紀元70年までは聖書に書いてあるので、私もある程度知っていましたが、その後のユダヤ人の歴史は、ヨーロッパに多く住んでいて、迫害を受けてきたぐらいの知識しかありませんでした。けれども、実に奥深い、多岐に飛んだ歴史を持っています。一言で言いますと、「多様な形を有し、時代に合わせて変化するが、共同体を持ちユダヤ人としてのアイデンティティーを保ち続けた。」と言うことになるでしょうか。

 映画を見た後、展示物を見ましたが、印象的なのは、各国のシナゴーグの模型です。それぞれの国の特徴を良く表わした建物でした。例えば、中国のシナゴーグはまさに、中国の建物でした。また、著名な人の写真が飾られており、一番左にはカール・マルクスが、一番右にはメシヤと呼ばれたラビがいました。こんなに考えが違うのですが、やはり、同じユダヤ人としてアイデンティティーを有している、ということです。

 この博物館に、アメリカから来たかもしれない10代のユダヤ人のグループがいました。先生らしき人が説明をしていましたが、その説明がとても分かりやすく、途中から交じって聞いてしまいました。こうやって、現代でも世界に離散しているユダヤ人が、自民族についての教育を受けているんだなあ、と思いました。

 そしてホテルに戻りました。次の日は、ガリラヤに向かいます。夕方にルームメイトのジェレミーと、ホテルの前の海岸を歩き、日没直前の太陽を写真に撮りました。地中海はほんとうにきれいでした。暖かいです。泳いでいた人もいました。