イスラエル旅行記 10月6日
シャローム!きよきよです。
イスラエル旅行の続きです。
今回はまず、デービッドのほかに、このツアーのリーダーとして来られた方を紹介したいと思います。エド・スティール(Ed
Steele)という方です。私が、イスラエル旅行についてHFT(Hope
For Today)に問い合わせたとき、出てこられたのがエドでした。まさか、いっしょに来られるとは思っていませんでした。
けれども、実は、このツアーがこのように、イスラエルの土地事情に根ざした特徴を持つことができるようになっているのは、彼のおかげなのです。エドは老年の紳士ですが、長いこと深く中東情勢にたずさわっていました。彼をとおして、デービッドがヤフダ・レビ(Yehuda
Levi)という退役軍人かつ政治家と接触することができ、その息子ラニ(Rani)がCovenant
Tourの責任者だからです。(ラニ自身も、ゴラン高原を守る運動に携わった人です。後の紀行文で紹介します。)
エドは、とてもおどやかな人であり、聖書の歴史や史跡にたいへん興味のある聖書教師です。そして、彼は私に興味を持っていました。というのは、義理の息子が、そして最近召天された娘さんも、日本への宣教に深くたずさわっているからです。横浜のインターナショナルな教会で奉仕をし、近い将来、千葉県に始まる聖書学校に携わるとも言っていました。
次に、6日の旅行についてお話したいと思います。旅程は、次のようになっていました。
ホテル→アリエル→ショムロン(いずれもウェストバンクと呼ばれるところで、聖書的にはサマリヤの地域)→カルメル山→ツィッポリ(ナザレの北にある町)→(ナザレ)→テベリヤのホテル
地図の上では、海岸地域から内陸に入り、北上し、そして西に向かってガリラヤ湖に着いたようになります。
ウェストバンク(西岸)へ
私たちツアーのグループは、基本的にその日の旅程を把握していません。いろいろな要因から、ガイドとリーダーの判断で変更されるからです。この日は、特にそうでした。今、ニュースで騒がれているウェストバンク(ヨルダン川西岸)が最初の行き先でした。バスは、前日も通った2番線を北上して、すぐに内陸へ入る5番線へ曲がりました。道路の反対側は、朝の通勤で自動車がたくさん走っていました。内陸に入っていくにつれて、しだいに緑がなくなっていきます。
ついに、岩がごろごろ転がっている砂漠になりました。けれども、居住地はまばらにあります。途中で、アラブ人の出店が並んでいるところを通りました。他の地域でも、同じような光景はたくさん見かけましたが、まるで違う国に入ったかのように、雰囲気ががらっと変わります。こうした出店の品物はとても安いので、ユダヤ人の人たちも数多く、ここに訪れて買い物をしていくそうです。そして、その道路の右手、つまり南側にはユダヤ人の居住地が、左手にはアラブ人の居住地がありました。見るだけで、どちらの居住地かすぐ分かります。赤い屋根の家が整然と並んでおり、緑地になっているのがユダヤ人が住んでいるところ、白い箱のかたちをしたような、統一されていない家々が並んでいるところが、アラブ人が住んでいるところです。
そして、道を曲がって、途中でトイレ休憩をしました。この町はアリエル(Ariel)というそうです。仲間の一人が、その建物のコーヒーショップで、アラブ人からコーヒーを買いました。僕も一口飲ませてもらいましたが、なかなかおいしいです。ちょっとトルコのコーヒーに似ているかもしれない。コーヒーの粉がけっこう入っているので、好きじゃない人は好きになれないかもしれません。
それはともかく、これからバスから降りて、どこか見に行くのだろうと思っていたのですが、なんとそのユダヤ人居住地の入口あたりまで来たら、引き返して戻ってしまいました。グループの一人が、「なんのために、ここに来たのですか?」と質問しました。デービッドは、「どのツアーグループも、このようなところには来ないでしょう。ここは、今マスコミで騒がれている、ユダヤ人居住地区です。」と言いました。よく理解していない私は、「すごい、世界で騒がれているところにいるんだ!」と言うミーハー的な思いと、「あ〜そう?」という、何かよくわからないようなあっけなさを感じました。
その居住地の手前の道路では、建築工事現場が多くありました。経営者がユダヤ人で、多くのパレスチナ人が働いているそうです。
そして、しばらく行くと、今度はバスから降りました。IDF(イスラエル軍)の若い兵士が(私が見たイスラエルの兵士はみな若い。それもそのはず、徴兵制だから。)警備している門を入って、そこにバスが止められました。中には住宅地があるようです。その中には入らず(たぶん時間がないため)、デービッドの友達であるユダヤ人の方が案内してくれました。
彼は、ショムロン(Shomron)というこの町で、ユダヤ人移民を受け入れて、住む場所をここに提供する働きをしている人でした。彼は敬虔なユダヤ教徒であり、約束の地にユダヤ人が住むことができる環境を与えて、トーラー(神の律法)などを学ぶ機会を与えるという、純粋な願いからしていました。これから居住地にしようとしている計画地へ私たちを連れて行きました。文字通り何もないところです。…これはあくまでもイメージなのですが、私がショムロンをはじめとしてイスラエルを旅行した感じた、ユダヤ人とパレスチナ・アラブ人の問題についての要点を列挙してみたいと思います。
1)イスラエルには、まだだれも住んでいない広大な土地がある。
イスラエルは小さな国土で、アラブ人が住んでいるところにユダヤ人が無理やり入って来たようなイメージを抱くかもしれませんが、行ってみれば、そうではないことは一目瞭然です。ユダヤ人は、砂漠で何もないところにも、緑を造って、そこに住んでいますから、土地は有り余っているのです。
2)ユダヤ人は、純粋に、約束の地、聖書で重要とされている町に住みたいと思っているだけ。
日本では、「ユダヤ人世界制覇陰謀説」なるものの本が売られていますが、ディアスポラ博物館でも見たように、彼らには、他の人々を制覇したり、支配するような概念を持っていません。ただ、約束の地に住みたいだけです。ですから、隣にアラブ人がいても、一向に構いません。平和に共存したいというのが、彼らの願いです。
3)ユダヤ人は、ずっとこの地に居住していた。
マスコミでは、パレスチナ人が住んでいるところに、突然、二千年前のことを持ち出してきて、ユダヤ人たちが奪い取っていく、というシナリオを作っていますが、これは明らかに間違いであり、イスラエルの地には、ずっとユダヤ人が住んでいました。ガイドのアビグドールは、第二次世界大戦前にこの地に生まれて、育ってきた人です。今まで日常生活において平穏に暮らしていた人々が、突然、世界のマスコミによって侵略者であるかのように槍玉に上げられる、というのが真実に近いのではないかと思います。
ショムロンで働いている彼のために、私たちは祈りのときを持ちました。彼はもちろん、信者ではないですが、福音的なクリスチャンの存在を認めている人です。デービッドは、「私たちがイェシュアと信じているメシヤの御名によって、祈ります。」と祈っていたのが印象的でした。
そしてバスは北上します。アラブ人の町を通ります。それからしばらくして、林のように木々が植えられている地域に入ってきました。キブツです。みなさんは、キブツについてお聞きになったことがあるでしょうか?農産物を育てている共同体のことですが、複数の人が一つの場所で暮らしています。中は社会主義体制になっており、給料があてがわれない代わりに、生活に必要なすべてが支給されます。多くの共産主義国が崩壊している一方、キブツが成功しているのは、キブツは自発性を重んじて、このような生き方を強制しないからだ、とアビグドールは説明していました。キブツは、イスラエルの至るところで見ることができ、イスラエルを世界の農業大国にしています。
カルメル山へ
そして、さらにずっと北上していき、ついに「カルメル山」に到着しました。カルメル山と言っても山脈ですからいろいろ山がありますが、エリヤがバアルの預言者と対決したところのカルメル山に着きました。そこには、エリヤがバアルの預言者を剣で殺す銅像があるカトリック修道院がありました。その屋上からは、イスラエルのかなり広範囲の地域を見ることができます。東にはイズレエル谷が見えます。メギド平野です。緑の平野が遠くまで広がっています。そして、この方角がガリラヤと呼ばれる地域です。ナザレもこちらの方角です。そして、南は今通ってきたサマリヤの山々を見ることができ、西にはハイファと呼ばれる、工業が発達した都市があります。
この修道院は、もちろんエリヤとバアルの預言者の対決を記念して建てられたものです。正確にこの時点であるかは不確かであるそうです。ここで「カルメル人」と呼ばれるカトリックの階級僧侶がおり、ハイファに本部がありました。そして、聖書的には、ここはバアル信仰の本陣とも言えるところでした。バアル崇拝を導入したイゼベルは、シドン人です。ここから北にある、さほど遠くないところにあります。そして偶像崇拝は高い所で行なわれていました。ですから、エリヤは、彼らの本陣に入って対決しなければならなかったことになります。
ところで、イスラエルでは、聖書の重要地点にそれを記念とする教会や修道院が建てられています。けれども、そのためにかえって、その地形を正確に見ることができず、神の栄光ではなく、人の作品が目立っているというのも事実です。そこでデービッドは、次のようなメッセージをします。
「(T列王記18章を朗読したあと)カルメル人は、古代バビロン宗教の守護者でした。彼らが影響を与えて、ローマの監督が最初の法王になるように確立させたのです。最初の人は、ポンティフェクス・マクシムス(Pontifex
Maximus 最高神官)と呼ばれ、これはバビロン宗教の大祭司と全く同じ名前です。ローマ皇帝もこの称号を使いましたが、ユリウス・カエザルがこの多神教を導入したからです。この異教をキリスト教に導入させたのがこのカルメル人の修道院であり、エリヤが異教の預言者と戦ったこの場所が、このカルメル人によって営まれているというのは皮肉です。キリスト教は、聖書に書かれている真理から遠く離れてしまいました。エリヤは言いました。『主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。』私たちの心で、選択しなければなりません。」
それは、あまりにも単刀直入で、ちょっとやばいんじゃないか、と思いながら聞いていましたが、案の定、修道院の人がメッセージを止めてほしいというジェスチャーを遠くからしていました。
そして私たちは、昼食を取りました。待ちに待っていた、ファラフェルを食べることができます。これは、アメリカ人にとってのハンバーガーかサンドウィッチのようなもの、昼食に気軽に取るにはちょうどよい食べ物です。ポケット上のパンの中に、ヒヨコ豆をつぶしたものを揚げたものと野菜を入れたもので、味は最高でした。私はその後、これがやみつきになり、昼食にはいつも注文していました。
ガリラヤへ
そして、私たちは次の目的地、ズィッポリ(Zippori,
Sepphoris)へと向かいます。ナザレから3マイル北のところにあります。ここは、イエスさまが地上におられたことには、最重要都市の一つであり、ガリラヤ地方の首都でした。また、紀元70年後にエルサレムが滅ぼされたあと、ユダヤ人たちはここを中心都市としました。イエスがおられたころ、この町には一万人の職人がいました。つまり聖書でいうところの大工です。つい最近の研究で、イエスは、この町によく訪れておられたことが分かっているそうです。つまり、イエスさまは、片田舎の無学な少年として育ったのではなく、当時、最高の学問地位を占めていたユダヤ教の教育を受けておられたと考えられるそうです。ここでエドは、メッセージをしましたが、私のミスでテープが録音されていませんでした(+_+)。…景色は、緑がいっぱいでとてもきれいです。
そして、バスに乗り、ナザレを通りました。「ナザレから何か良いものがでるだろうか。」と言ったナタナエルの言葉は今にも当てはまります。山の上にある、建物がひしめいている町です。ここもアラブ人の地区とユダヤ人の地区がありました。ここでは、景色のよさそうな所で10分ほど停まっただけでした。ここで写真を撮ってもらいましたが失敗、太陽が真後ろにありました。カナの町の横も過ぎながらバスは走り、下っていきました。ガリラヤ湖に進んでいるからです。ガリラヤ湖は海面下になりますから。そして、テベリヤに着きました。降りたら、暑い!でも、心地よい風が吹いています。ここもまた独特のエキゾチックな雰囲気があり、私はとても好きになりました。
ガイドが、夕食のあとに、近くにある宝石製造所見学に行くから希望者はバスのところに来てください、とのことでした。私は、どうせ宝石を買わせようとするのだろう、と思っていましたが、ジェレミーが、「何事も体験だ。」と言うから、私もついて行きました。バスに乗ったのは10人程度。前の席に女性のメンバーがいて、彼女と話しを交わしました。突然彼女は、「ラリー・テイラー(注:カルバリーチャペル聖書学校元校長)って知っている?」と聞くのです。私は、ちょうどこの前の6月に、ラリーと奥さんと娘さんを、自分たちの家に招いていますから、もちろん知っています。彼女はなんと、ラリーが牧会している教会に通っているとのことです。さらに、かつてラリーは、教会員の母親は、旦那さんを突然失ってしまったから祈ってほしいとEメールで書いていたのですが、彼女がまさに、その教会員であり、母親といっしょに来ているとのことです。名前はカレンと言います。これは、ジェレミーより、もっと世の中小さい、って感じさせる出会いでした。
(次回に続く)