2019年トルコ研修旅行記 4月6日 その2
カッパドキア

1.ウチヒサル
2.ギョレメ・パノラマ
3.ギョレメ屋外博物館
4.オズコナック地下都市
5.パシャバー地区


(1.から3.は「その1」へ)


アヴァノス

 ギョレメ屋外博物館からレストラン「ハネダン・キャラバンサライ・カッパドキア」へ(グーグル地図

 北上し、カッパドキアの北の玄関口にもなっているアヴァノスに向かいます。



 途中で、どのように奇岩が形成されたか想像できる光景にでくわしました。奥が平らな高原になっていますね。手前が奇岩群ですが、浸水による侵食によって出来上がった様子がよく分かります。岩窟教会などがあれば保存の努力が施されますが、その他のものは消えていくままにしておかれます。そしてこのような高原ができるのは、火山による噴火なのですが、この周囲にはカイセリに近いエンジェス山、そしてハッサン山という、反対側、アクサライの近いものがあります。そしてこの付近に、休火山になっていますがメレンディス(Melendiz)山があります。

 アヴァノスは、「陶器の町」とも呼ばれていてます。町の真ん中を「クズルウルマク川」が流れていて、赤い土により「赤い川」という意味です。アナトリア半島を横断するように流れていて、その大湾曲地帯に囲まれていたところを、ヒッタイト帝国は元来の領地にしていたとのこと。その赤い川が町中を流れているアヴァノスは、川底の土を使った陶器の産地で有名で、街中に、彩ゆたかな陶器のお店が並んでいます。そこでディレクさんは、次に行くレストランの昼食で、「壺焼きケバブ」が出て来ると言っていました。壺焼きは、お肉や野菜を素焼きの壺で蒸し焼きにする料理「キュベチ」で、壺ごと石窯で3時間以上かけて焼くのだそうです。(参考記事

 着いたレストランは、チェーン店である「ハネダン」です。キャラバンサライとは隊商宿のことで、明日、カッパドキアからピシディアのアンティオキアに行く遠距離移動で目にします。入口がこんな感じでキャラバンサライ風になっています。中に入ると昔の農耕器具であろうものや、絨毯の製作バサミとか展示されていて、その奥にレストランがありました。そして、食卓に着くと壺焼きケバブを持って来ました!普通は、その壺は割って壊してしまうそうですが、これは団体向けの大きく丈夫なものなので、おそらく再利用するだろうとのことです。



 そして、こちらが壺焼きケバブがお皿に出て来た時の姿です。お皿が地元、アヴァノスのもので、一人一人違う模様だというのもすごい。


 ヨシュアさんがテーブル中を回って、メンバーたちの写真を撮ったようです → 写真


4.オズコナック地下都市

アヴァノスのレストランからオズコナック地下都市へ(グーグル地図

 先にカッパドキアは、奇岩の景勝、岩窟教会、そして地下都市が主な三つの特徴であることを書きましたが、その三つ目、地下都市を訪れます。私がとても楽しみにしていた訪問地でした。「キリスト者の迫害史」の現場だからです。

ローマ帝国下の迫害 ー カッパドキアは避難地

 迫害ということ、これはイエス様が山上の垂訓において最後の幸いとして宣言された、「義のために迫害されるものは幸いです」から始まります。主ご自身が、ユダヤ人宗教指導者らから迫害を受けられ、それを父なる神のみここころとして耐え忍ばれ、死なれた後、よみがえられました。ご自分について行かれる者は、世が主ご自身を憎んでいるから、あなたがたも世に憎まれると教えられました。そして、「わたしの証しをする」とイエス様が弟子たちに命じられた、その証しは、「殉教」をも意味する言葉です。

 使徒の働きを見れば、ユダヤ人たちから迫害されている姿を見ます。けれども、その迫害はローマ帝国から受けることも、使徒たちの手紙で明らかにされていきます。皇帝ネロが、ローマで起こった大火をきっかけにして、その非をキリスト教徒になりすつけ、迫害の手を加えます。パウロは皇帝ネロによって死刑になりますが、その直前に書いたのが「テモテ第二の手紙」です。比較的最近の映画「パウロ ~愛と赦しの物語~」は第二テモテを題材にして作られています。ペテロは、復活したイエス様から既に、「ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(ヨハネ21:18)」と言われていて、伝承では、ネロ帝によって自ら申し出て逆さ磔によって殉教しました。創作ですがペテロの殉教を題材にして描いた「クォ・ヴァディス」があります。

 ペテロが宣教の働きを、トルコで行っていたことは、彼の第一の手紙で明らかです。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち(1:1)」ここに、「散って寄留している」という言葉に暗示されているように、初めアンティオキアやエペソなど、大都市で宣教の働きをしているところから、迫害の手が大都市に及んで、トルコの諸地方に散っていったと伺えます。ローマではネロによる迫害が起こっていた時、こうした地方にいる人々にも、迫害の手が伸びることは時間の問題だということです。手紙の内容は、苦しみに備えるものです。ヨハネによる黙示録では、ドミティアヌス帝による迫害がアジアにも押し寄せており、七つの教会がどのようにその圧力や迫害に対処していたのかをうかがい知ることができます。

 そして二世紀に入っても、迫害は地域に限定して断続的に起こりました。トラヤヌス帝に対して、ビティニア属州の総督である小プリニウスが、その地域にキリスト者が大勢いることを知り、彼らに対する処遇方法について書いている書簡集があります。まさに、ペテロが第一の手紙を書いた宛先に出て来る、トルコにある地名です。そこで「キリスト者」という名のゆえに処罰されるという原則が定められました。その後、ハドリアヌス帝はトラヤヌスの定めたものを踏襲しながらも、不法行為がないかぎり罰してはならないとする抑制的な動きをし、アントニウス・ピウス帝は逆に、キリスト者たちに肩を持つ布告を出しました。ところが、ピウスの善政によって彼を称えて逆に神格化する動きがあり、その中で民衆の告発で、七つの教会の一つスミルナの監督であったポリュカルポスが殉教しています。次に、マルクス・アウレリウス帝は、キリスト教を狂信として嫌悪して、ゴート地方に激しい迫害が起こりました。

 そしてデキウス帝(240-251年)になって、初めてローマ帝国全体に渡る広範囲な迫害が起こりました。その背景には、その頃の教会が、全人口の実に5-12%になっていたということです!迫害する理由というのは、帝国の統一において分裂の要素をキリスト教が持っていると脅威になっていたことがあげられます。ウァレリアヌス帝の時にローマの神々に犠牲を供えることを強要し、拒否すれば死刑でした。

 そして先にお話しした四世紀になってからのディオクレティアヌス帝の下での最後の大迫害です(こちらに面白いコラム)。しかしキリスト者を根絶させることはできず、かえって広がっていきました。彼は、四分割統治を始めていたのですが、その四名の正帝の一人の息子、コンスタンティヌスが戦いによって唯一の正帝になり、またキリスト教を受け入れました。そして、ミラノ勅令(313年)で信教の自由が認められました。

 ローマ帝国の大雑把なキリスト教迫害史をざっと眺めましたが、そんな中で、カッパドキアは地方にあり、ローマ軍による迫害は手薄になっており、キリスト者たちが多く移住していたと考えられます。それでもローマ軍がキリスト者たちの取り締まりに来ることがあります。その時に避難所にしたのが、これら地下都市です。

地下都市について

 カッパドキアには、なんと150から200の地下都市があるとのこと。2万5千㌔平方メートルもの広域に渡ります。柔らかな凝固岩の地面を地下へと掘りながら出来上がりました。今でも天井に岩を掘る道具の痕跡が残っています。地上に近い階層は粗野で統一性が欠けていますが、地下の階に進むほど繊細で統一的なものとなっています。

 地下での暮らしは先史時代からあったそうです。ヒッタイト人が使っていたという話もあります。けれども、大幅に使われたのが、ローマ帝国の迫害から避難したキリスト者によって、そして、7世紀辺りにイスラム教徒からの襲撃から免れるものでした。ですから、想像するに、後世になればなるほど、地下深くでの生活を整えるために、精密に作っていったのではないか?と思われます。

 地下都市付近の家のほとんどに、そこにつながる秘密の通路があったそうです。襲撃があった時にそこから地下に逃れて一時的に安全を確保しました。

 地下都市の各部屋は、迷路のようになっていて、廊下が低く狭くて、しかも長く造られています。それは、侵入した敵の動くを鈍くさせるためです。そしてろうそくを置く台の跡もたくさんあります。それから、各階の間には、部屋を区切るための防衛目的のかんぬき石が見つかっています。まるでイエス様が復活された時に転がされた石のようです。そして、オズコナック地下都市には、かんぬき石のすぐそばに、矢を投げ入れるか、煮えたぎる油をかけるための小さく掘られた穴まであります。

 そして、通気孔は非常に発達していて、地上まで伸びています。その他、連絡用の穴もあり、これによって各階と連絡を取り合い、非常時には素早く防衛の措置を取ることが出来ました。

 水の確保は地上にある井戸から下におろしてきます。家畜は地面に近い階層で育て、食糧貯蔵庫、葡萄搾りの跡も多く残っています。台所もあります。そして、ここにキリスト者が避難してきた証拠となる跡は「教会の跡」があることです!中には神学校の跡さえあります。

 現在、カッパドキアで公開されている地下都市は、デリンクユ地下都市、カイマクリ地下都市、そしてここ、オズコナック地下都市です。最大規模を誇るのはデリンクユ地下都市です。

 オズコナックの地下都市の入口に入って、初めにディレクさんが解説をします。これまでの説明と重なる部分がありますが、要約しますね。



 「7-8階の深さがあり、平面にも広い。カッパドキアはローマにとって「地方」。文献として残っていない、遺跡を見ていくしかない。紀元後一世紀には造られていた。次第に拡張。

 初代教会のキリスト者がカッパドキアに流入した。パウロの時代から、アンティオキアなど大都市から。地方なので、ローマの守備隊は置かれていなかった。行き来して、キリスト者がいるかどうか調べたりはするが、駐屯はしなかった。カッパドキアは、そういうことで避難地となったが、ローマ軍が迫害しにここに来た時には、地下都市に逃げてきて一時滞在した。

 水は、地上にある井戸から下まで降ろして来た。地下四階には通気孔もあり酸素も供給される。これから行くが、そこに行くのは、身をかがめていかないといけない通用路を通る。

 そして掘削の跡が天井にあるが、硬質の火山岩なのでこの部屋ぐらいならば一か月はかかっただろう。火山岩は、酸素に触れると硬化するので建築の材料に適していて、しかし触れる前は柔らかい。このように部屋で空気が循環すると硬くなる。けれども、その中に含まれている玄武岩は肺癌や肺の病気の原因になるので、今は建築用に使われていない。

 食糧は、冬季は乾物(魚、杏、葡萄、パンなど)を食べた。料理ができないから。

 キリスト者たちが居たことは、あまりにも明確で、教会として使われていた跡がある。教会だと分かるのは、グラフィティ(図像)なども根拠となる。」

 そして08:00辺りのところで、葡萄搾りの跡があります。11:10のところ通気孔があり、さらに、窪みがありますが、ローマ兵がやってきたら、ここからよじ登ることができます。そして、かんぬき門が出ています。ローマ兵がやってきたら、この石を転がして、この部屋に避難します。石を転がしたら鉄の棒で押さえて開けられないようにしました。その間に、他の部屋に逃げることができたそうです。

 大きな部屋があれば、それは寝室だったり、家族が住むところだと想像できるそうです。そして、もっと地下があったのですが、他の団体がすでに二つ入っていて、これ以上進めなかったようです。私が撮影した動画では暗くて見ずらいと思います。こちらにグーグル写真がありますし、動画もいろいろあります。

 この後、少し時間が余っていて、お土産店を散歩しました。私は、イスラエルでの旅行でも、そこにしか売っていない本をよく買いますが、ここで手にしたのは、「世界遺産 カッパドキア」(ムラットE・ギュルヤズ著)の日本語版です。買おうかな?と思いあぐねていたら、そこに座っていたおじいさんが、オズコナック地下都市の説明にある頁をページを開き、「これ、俺なんだ」と自慢げに語ってくれました。彼が第一発見者だとのこと!Latif(ラティフ)さんと言います。第一発見者のサイン入りです!(笑)




メレンディス山とアヴァノスを通過

 先ほど説明しました、カッパドキアの火山の一つメレンディス山を見て、またアヴァノスの町をじっくりと見ました。陶器のお土産屋さんが並んでいましたね。




5.パシャバー地区

オズコナック地下都市からパシャバーへ(グーグル地図

 アヴァノスからギョレメに南下して戻る道を左(東)に曲がって一㌔ぐらい走ると、次の不思議な光景が見えてきます。キノコ岩の群れです。



 トルコではこれを「妖精の煙突」と呼びます。ジェイさんはカッパドキアから、なんとエゼキエル38章、「ゴグとマゴグの戦い」の幻を語ります!



  カッパドキアは聖書に載っていて、二千年も名前が変わっていません。ペテロがここに来た可能性があり、第一ペテロに書かれています。そして地域だけでなく、諸民族もここに関わっていて、エゼキエル38章に出て来る民族です。ここの幻は、もしかしたらハルマゲドンの戦いかもしれませんが、名前がどうも一致しません。

 「1 次のような【主】のことばが私にあった。:2 「人の子よ。メシェクとトバルの大首長である、マゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言せよ。」ゴグについては、サルディスを訪問した時に話したいと思います。「3 『【神】である主はこう言われる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしはおまえを敵とする。4 わたしはおまえを引き回し、おまえのあごに鉤をかけ、おまえと、おまえの全軍勢を出陣させる。それはみな完全に武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。5 ペルシアとクシュとプテも彼らとともにいて、みな盾を持ち、かぶとを着けている。6 ゴメルとそのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマとそのすべての軍隊、それに多くの国々の民がおまえとともにいる。7 備えをせよ。おまえも、おまえのもとに召集された全集団も構えよ。おまえは彼らを統率せよ。

 エゼキエルがこの預言を行った時に、すでにユダヤ人は捕囚の民となっていました。その時から今に至るまで、この預言は成就していません。彼らが、何らかのかたちですでに知っている地域について主が語っておられます。おそらく「シルクロード」と「香辛料の道」によって知っていたのでしょう。中国から北はノルウェーまで、南はアフリカの南端まで世界中に広がっていますが、貿易の道の混雑しているところはイスラエルなのです。貿易があるところに、情報が集まります。

 地名についていろいろな憶測がありますが、「ロシ(「大首長」のヘブル語)」が「ロシア人」だとする解釈があります。いいえ、ロシア人は「ルーシ族」から来ています。彼らは奴隷商人であり、ノルウェーからダマスカスまで人身売買をしていました。そしてルーシ人となり、ロシア人です。

トガルマ: カッパドキアの近くの「マラティヤ
ゴメル:カッパドキアからロシア南部
マゴグ:黒海の北東地域

 ここに共通するのは、紀元前900年から200年まで住んでいた「スキタイ人」です。彼らは文字を持たぬ民族で、騎馬の技術を持った遊牧民でした。後にモンゴル人が彼らの技術を盗用したほどです。360度に回転する鞍が、しかもその上に立つことができるという、優れものでした。非常に熟達し、危険な人々でした。東方からここまでやって来て、ちょうどトルコ人が来たところからここにやってきました。モンゴルの一部を征服し、ここにたどり着きました。長いこといませんでしたが、大きな影響を与えたようです。

 ミレトス(使徒20:17)が、トルコを征服し、支配していたペルシアに対する反乱を始めました。キュロス王は鎮圧に成功しませんでした。次に、ダレイオス王が鎮圧しようとした時に、スキタイ人が攻撃してきたので、ダレイオスは黒海の西側にまで移動し、追跡しました。けれども、これはスキタイ人の罠だったのです。ダレイオスが見分けられていなかったのは、彼らは分散している民だったということです。今でいうならイスラム国みたいなもの。ダレイオスは黒海の北側に回り、ロシアの南にまで近づいたのです。そこには食糧を略奪できる村々もなければ、食べる物がない時に、スキタイ人が戦い始めました。彼らの戦線とペルシアの戦線の間に、ウサギが走ってきました。それをスキタイ人はなんと追いかけ始めたのです!これを見たダレイオスは、戦いそのものをやっていないこと、こちらは戦っているのに、相手は戦っているようで実は戦っていないという状況を見て恐れをなし、撤退することに決めました。(参照:ウィキペディアヘロドトスの「歴史」)このようなスキタイ人が、この地域にいました。

 ですから、この預言が成就するときには、スキタイ人のように分散していて、接触したら危険のような者たちが襲ってくるということかもしれません。

 ところでスキタイ人は、コロサイ3章11節に出てきます。「こには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」当時はコロサイにスキタイ人がいなかったのにもかかわらず、恐れられていたことがわかります。

メシェク: ムシュキ(Mushki)で中央アナトリア

 トバルとは隣国で、ミーダス王がこの地域を治めていました。

トバル: 北アナトリア、中央アナトリア、タルソにも接していたか?
ロシ: メシェクとトバルとつながっている
ゴグ: マゴグの王

 こういうことで、ゴグがロシアではなく、スキタイ人の王ということで、この地域に当たるのです。これが、当時、この預言を聞いた人々の地域であり、またコロサイ人たちへの手紙の地域でもあるのです。

 ・・・ということで、すごい、すごい!エゼキエル38章の預言の背景を、現場でこんなに詳しく聞けるとは思ってもいませんでした。肝心の「ゴグ」については、おそらくサルディス訪問時に聞けるのではないかと思います。

「聖シメオンのチャペル」へ

 最後に少しだけ自由時間が与えられたので、妻と共に、一気にキノコ岩の中を巡りました。パシャバーは、「修道士の谷」とも呼ばれ、小さなチャペルや住居がその煙突の中で作られれていますが、三つの先端の煙突を持ったところに、「聖シメオン」という名で知られたチャペルがあります。なんと標識に日本語が書かれている!(写真をクリックしたら拡大します)勝さんが、遠くから私を撮っていました(写真)。

 全体としてみると、こちらの写真です。凄い高いところに穴が開いていますね。ここにチャペルと住居跡があります。隠者である聖シメオンがこんな高い岩部屋で生活し、弟子たちが運んでくる少量の食べ物と飲み物を受けとるためにだけ下に降りてきたそうです。入口は、こんな感じ。(左写真、クリックすれば拡大します)

 そして中の様子が右写真です。そしてこの部屋の反対側が、とても高いところになっています(写真)。

 そして、この部屋から一度出ると、隣に別の部屋もあって(写真)、こらがチャペルなのだと思います。

 それで歩き進めると、またもや、きのこ岩の林が出て来て(写真)、右に曲がるとず~と、道が続いていていました。きのこ岩の中に、一本だけのものがあって、下のように、結婚カップルが写真を撮っていましたね。トルコでは、いろいろなところで、きれいな遺跡や景色を背景にした写真を撮る結婚カップルの姿を見かけましたね。


 こちらのトルコ人の方のきれいな動画が、私たちが辿った道とほとんど同じところを歩いて撮影しています。



 すべて見終わって、改めて見てきたところを背景に、ワンショット!真ん中のきのこ岩に、穴が開いていますね、あそこが聖シメオン教会です。




チャウシン教会やバラの谷

パシャバーからホテルへ(グーグル地図



 パシャバーから南下する動画を撮りました。3:30辺りで、小さな修道院が見えるとディレクさんが言っていますが、チャウシン教会と言いますね。そして4:00辺りから見えてきた奇岩群は、ばらの谷の近くを通っているところです。

 ホテルに到着しました。明日は、長い長い旅となります。なんとカッパドキアからアジアのパムッカレ(ヒエラポリス)まで移動です。途中で、ピシディアのアンティオキアの遺跡に立ち寄ります。