2019年トルコ研修旅行記 4月7日
ピシディアのアンティオキア


1.アンティオキアの前
2.ピシディアのアンティオキア
3.アンティオキアの後


 この日は、カッパドキアから一気に、黙示録の七つの教会のあったアジア地方まで移動します。バスでは、この日が最も長距離の移動になるでしょう。けれども、とっても大事なところを通ります。一つに、パウロたちが宣教旅行をしている時の道が、どのようなところであったのかを思い巡らすことができること。パウロたちの三度に渡る宣教旅行で通った、ガラテヤ州の南部(リステラ、イコニオン、デルベ)の辺りを通ります。もう一つは、ピシディアのアンティオキアの遺跡を見ます。使徒の働き13章に、パウロの会堂における説教が書き記されている町です。

1.アンティオキアの前

カパドキア・ロッジ・ホテル」から「スルタン・ハン」まで(グーグル地図)

 私たちの宿泊したホテルは、ウチヒサル地区にありますが、西には、カッパドキア地方の最大の都市ネヴシェヒルがあります。(写真)そこを通過して、そして、シルクロードになっていた道を延々と走っていきます。

ローマ街道とキャラバンサライ(隊商宿)



 動画に見える、現代の道路に沿った道ですが、古代のシルクロードが今も使われているのがわかります。キャラバンサライと呼ばれる隊商宿の跡も見られます。隊商宿は、このように点々と建てられていますが、日の出とともに出発して、日没になる時に宿泊できるような距離に点在しています。そして、シルクロードの下には、古代ローマ街道が眠っているであろうとのことです。道路は大抵、昔の道に倣って造るので、そのように想像できるとのこと。ですから、パウロがそのローマ街道を歩いていました。さらに、ローマ街道の下には、紀元前6世紀の「王の道」が眠っているはずです。これは、ペルシア帝国の首都スサから、リュディア王国のサルディスにまでいたる幹線道路でした。(地図)サルディスの遺跡を見る時に、その跡を見ることができます。

 セルジューク朝が、これら隊商宿を国家予算から建てました。どのような宗教の人も、三日間、無償で食事付で宿泊できたとのこと。貿易を促進するためでした。貴重品が交易されていたので、護衛を配置させていました。さらに貸金庫も提供したそうです。あのマルコポールも、このシルクロードを通りました。彼は、この周辺のトルコ系の遊牧民の様子を描写しています。「トルクメン人は、絨毯においては最高の人々だ」と言っています。

パウロの宣教旅行の道程

 アクサライという、シルクロードの中継地として栄えた町を通っていきます。



 ディレクさんは、パウロの第二次宣教旅行の道程を説明しています。私たちが、シリアのアンティオキアからアジア地方に至るまで、まさに第二次宣教旅行のを大まかに辿っています。私は、イスラエルには五回行ったことがありますが、そことは桁外れの長距離、そして険しい道であることがよく分ります。パウロが、「ほかのすべて使徒たちよりも多く働きました」(Ⅰコリント15:10)と言ったのは、本当だし、Ⅱコリント11章にて、「何度も旅をし」たと言って、そこで多くの難を受けたことを書いていますが、こういった旅で受けたことが想像できます。

 そして、第一次宣教旅行についても説明します。シリアのアンティオキアからキプロスに行き、それからペルゲという大きなローマ都市から上陸しました。ディレクさんは、そこで二回の夏、考古学の発掘に行ったことがあるそうです。そして、ピシティアのアンティオキアに行き、そこで追い散らされるようにして、イコニオン、リステラ、デルベに行きましたが、デルベからは、タルソまで大した距離はありません。ところが、追い出され、石打にまでなった、それらの町々に引き返していき、シリアのアンティオキアに戻っていきました。

スルタンハンのキュラバンサライ

 アクサライから、次に、コンヤ(聖書のイコニウン)という大きな町に行く途中で、スルタンハンというキャラバンサライ(隊商宿)に立ち寄りました。ここは、トルコの中でも最大のキャラバンサライのようです。上のリンク先のページに、ディレクさんが先に説明したことを、詳しく読むことができます。




スルタンハンのキャラバンサライからピシディアのアンティオキア(グーグル地図

チュタル・ヒュユクウィキペディア

 コンヤに近づいてきた時に、チュタル・ヒュユクの説明をディレクさんがします。(この遺跡とコンヤの位置関係



 この新石器時代の集落跡の遺跡は、世界遺産になっているほど有名です。「2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月11日 その1」で、トルコの歴史全体を紹介する時に言及しましたが、後のこの地域の土着信仰に決定的な影響を与えました。紀元前7000年にまでさかのぼる新石器時代の集落跡ですが、そこに「チャタル・ヒュユクの座った女性」という地母神の像が発掘されました。豊満な女性が裸体で座っていて、ゆったりとしている姿で、両脚の間に子赤ん坊を産み落としています。「4月13日 その①」のエペソ訪問の「アルテミス神殿」のところでも説明しましたが、古代アナトリアにある、この地母神信仰が、後にフリュギア発のキュベレー崇拝へと受け継がれ、それが、エペソのアルテミス神殿へと継承されていきます。そのアルテミスは、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っている女神であります。その地中海周辺全域から、この神殿に参拝に来たというほど、地母神信仰の中核的役割を担っていました。そこにパウロたちが宣教によって、多くの人々がイエスを信じて、アルテミス信仰を捨てたので、それで商売をしていた者たちが騒動を引き起こしたのです。

イコニオン、リステラ、デルベについて

 そして、私は、イコニオンとリステラとデルベの位置関係を尋ねました。イコニオンは間もなく通過するコンヤですが、リステラはコンヤの南西にあります(位置関係)。そして、デルベは、南東にあります(位置関係)。イコニオンとリステラとデルベは、ちょうど三角地帯のようになっていますね。ディレクさんは、何もないところだから、トルコ旅行を企画する時は訪ねる必要はないと言われていました。けれども、なっ、なんと、日本の方でしっかりと訪ねてブログ記事にしている方がおられました。→ 「ルステラの場所と歴史」「デルベの歴史

 使徒の働き14章において、パウロとバルナバの宣教旅行で、この三つの町に訪ねた記録があります。ディレクさんはルステラとデルベには何もないと言われていますが、確かに上のリンク先のページを見ると、小高い丘があるだけで何もないですね。けれども、やはりそこに行って、そこで14章を大きな声で音読してみたいです。イコニオンではユダヤ人の会堂があり、そこで福音を語ると大勢が信じましたが、町の中では信じないユダヤ人側と使徒たち側に真っ二つに別れて、反対する側が二人を追い出しました。それでリステラに行きましたが、ここはいわゆるギリシア語を母国語として話さない「未開の人」(ロマ1:14)がいたようで、ローマの支配もその分、緩やかだったのではないか?と想像します。リカオニカ語でパウロとバルナバを神々に祭り上げようとしたところ、必死で制していますね。ユダヤ人に対する宣教と異邦人に対する宣教の対比が見られます。けれども、なんとアンティオキアとイコニオンからユダヤ人がやって来てパウロを石打にします。この時の様子を、テモテに対して第二の手紙で「3:11また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。」と言っています。そして、死んだようになってしまったパウロですが、起き上がって、再びリステラの町の中に入り、それから、デルベに向かっています。そして、なんと引き返しているんですね。

 このような激しい迫害に遭っている中で、テモテが信仰を持ったのでしょう。第二次宣教旅行で、使徒16章で、リステラでテモテに会ったこと、彼が「リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。」とあります(2節)。ここはテモテの故郷だったわけで、このような激しい迫害を受けても、かけがえのない実が結ばれていたことがわかります。

トルコの政治について

 多くの時間がバスの中であるので、ディレクさんが、コンヤの手前のところで、今のトルコの政治について話してくれました。



 「トルコは、中東の中でアラブ諸国と違い、民主主義の共和制を保っている。それは、アタテュルクの功績だ。オスマン朝の君主制であるスルタン制を廃止させた。国際的な都市テサロニッキ出身で、軍部出身である。トルコ人とアラブ人は、かつて600年間、オスマン朝で支配していたので、従属関係があったという歴史から始まっている。イランとは長い、ペルシア時代からの支配があったので、頑固さがある。

 トルコについての、穏健派と保守派の違いについて。トルコは非常に、もともと、とても緩い。権力の空白で、草の根で原理主義がつながっていくことを懸念する。1923-38年に近代化をした。帝国が共和制へ変えていったが、1990年代まで続いていた。大都市のエリート層が政府を動かしていた。田舎にいる農夫たちが大都市にやって来て、生活が向上する。そこでもっと、保守的なムスリムが力を持ち、政府に対しても主張するようになる。2002年に、そのような背景で、エルドアンが権力の座につく。政府の腐敗や経済の不安定があった中で、実質的な向上をさせた。イスラムの味付けをして。彼の問題は、農業を発達させるのでなく、外国からのものを大幅に取り入れたのだ。周囲の地域が不安定になったので、西側の者たちが去って行った。経済が不安定になり、政府が腐敗している。」

コンヤ(イコニオン)

 そして、私たちはコンヤの町中に入りました。コンヤは今でこそ、イスラムの神秘主義の発祥地として知られていて、セルジューク朝が首都を11世紀にコンヤに移した後、繫栄したところです。今もイスラム色、保守色が非常に強いところらしいです。けれども、新約聖書時代においては、ギリシア語でイコニオンと呼ばれていました。(ウィキペディア)ちなみに、ガラテヤ書は、カッパドキアなど元々のガラテヤ地方のところにパウロが宣教に行ったとする北ガラテヤ説と、ローマがガラテヤ州としてここの地域も支配していたので、イコニオン、リステラ、デルベの町々で宣教したのがガラテヤ書の内容だとするのが、南ガラテヤ説というそうです。

 この町にさしかかった時に、ジェイさんがイコニオンの説明をしました。



 「パウロたちは、三つの宣教旅行でここを通った。テモテは、ルステラでパウロに同行したが、母親、祖母がユダヤ人であり、リステラにはユダヤ教の会堂がなかったので、ここイコニオンまで来ていた可能性が大きい。パウロの宣教によって、ギリシア系ユダヤ人が彼を嫌い、またギリシア人の中にも嫌った者たちがいて、彼らはパウロに反対するのに一致した。それにも拘らず、教会が生まれた。したがって、教会の働きの成功を、人々が好感を持って受け入れてくれることによって推し量ってはならない。パウロとバルナバが出て行かなければならなかったのに、教会はより強められたのだ。そしてパウロが再び訪問して、それらの弟子たちを強めて行った。」

トロス山脈&パウロ宣教広がりの背景

 この地域は、トルコ中央部を地中海沿岸と分けているトロス山脈が、際立って見えるところです。そこでトロス山脈の説明をディレクさんがします。下は車中から、南側を撮影しているものです。



 アルプス・ヒマラヤ造山帯の一部です。欧州のアルプス山脈からヒマラヤ山脈を通っていく造山帯です。ここから大理石が採掘できるそうで、ローマ時代の都市に多用されています。

 それから、3:40辺りから、再び、地図を示しながらトルコの聖書時代の地方について説明しています。アジア、ミシア、リキア、フリュギア、ガラテヤ、カパドキアビティニア、ポントスなどなど。(地図参照)それぞれに、言語や方言がありましたが、アレクサンドロス大王がギリシア語を導入させて、全ての人々がギリシア語を話すようになりました。パウロたちは、ギリシア語によって宣教できるようになりました。

 それから、ローマがこの地域を支配しました。カエサルは、将軍たちに戦わせていましたが、征服しきれなかったので、自身が戦いに行き、この小アジアの北部にあるポントス王国のミトリダテス六世の息子との戦いで、かの有名な「来た、見た、勝った」と言いました。紀元前一世紀にローマ帝国の一部にありました。それから、ローマ街道を敷設していきました。ローマ兵の駐屯地が各地にあり、それでパウロたちは、比較的、安全が守られている中で旅をすることができました。(それから、ローマの植民都市が各地にありますが、退役軍人の職を確保するためにも設けられていたと言われています。征服した地域や辺境の防衛と安定化をそのようにして確保しました。)だからと言って、危険がなかったわけではなく、盗賊の難(Ⅱコリ11章)や野獣の攻撃に彼は遭いましたが、こうした山付近を通る時に被害を受けました。


2.ピシディアのアンティオキア

 私たちが次に目指すのは、ピシティアのアンティオキアです。今は、パウロの第二次と第三次の宣教旅行の道を大体、たどっているのですが、第一次は、キプロス島からペルゲに上陸、そしてピシディアのアンティオキアの道でありました(使徒13:13-14)。こちらの地図にある緑色の部分がその旅程ですが、ここに、タウロス山脈があることを念頭に置いてください。グーグル・アースでこの道を辿る動画がありましたので、ご紹介します。本当に険しいですね!



 私たちは、コンヤから西に走り、アクシェヒルという町に入ってから南西方向に走り、そしてヤルヴァッチ(yalvaç)という町に入ってきました。とてものどかそうな、小さな町です。ここに博物館があり、中にパウロ館もあるようです。アンティオキアで発掘されたものが展示されているようです。

ピシディアのアンティオキアの概観

 ピシディアのアンティオキア、と言い続けていますが、それはもちろん、シリアのアンティオキアがあるからです。私たちが、4月4日に行った異邦人たちの教会、パウロとバルナバが遣わされた教会のある町です。ローマには、アンティオキアの名がついている町がいくつもあって、聖書には二つあり、地名を付けることによって判別しています。

 この遺跡の辺りに立っているだけで、ああ、自分たちは高原にいるんだなと感じます。空気や気候もそうですが、遠くには山々もありますし、千㌔にも東西に伸びるアナトリア高原のただ中にあるからです。今日の夜、パムッカレ(ヒエラポリス)のホテルに泊まるのですが、そこ黙示録の七つの教会のアジア属州になりますが、そこに行けば、エーゲ海に近いところになりますから、一気に、温暖になり、イスラエルに近い地中海性気候になります。ピシディアのアンティオキアは、これまで私たちが通った、シリアのアンティオキアからキリキア峡門を経て、シルクロードを通り、そしてアジアのエペソに行く、中間地点にあります。また東西にも通商路があり、貿易の中継地点になっています。

 町としては、ギリシア帝国が四分割して、シリアのセレウコス朝が始まって、セレウコス一世ニカトールが造ったとされています。シリアのアンティオキアと同じですね。そしてローマのアウグストュスがここを植民都市にしました。植民都市ということは、退役軍人の住む町であり、外敵から守られる安全保障的な役割を果たしています。パウロたちは盗賊の難が、この辺りを旅している時にあっていたでしょうが、この町においては守られていたと思います。

 そしてローマの植民都市ですから、いわゆるローマのモデル都市であり、ピリピの町がシナゴーグがなかったように、普通に考えたらユダヤ人が居心地が悪いところのはずです。けれどもシナゴーグの跡がしっかりと残っています。政治的な理由から、セレウコス朝の王アンティオコス三世が、当時まだ残っていた、バビロンの離散の民の3千世帯をこの地域に移住させたそうです(ユダヤ古代誌による)。彼は聖書に預言されており、ダニエル書11章に、10節以降に出てくる「北の王」はアンティオコス三世のことです。シリアのアンティオキアと同じように、ここもユダヤ人が多くおり、社会的な影響力を持っていました。

 これが、パウロの宣教の背景となっていきます。すなわち、彼はユダヤ人の会堂で、聖書からじっくりと福音を解き明かしました。そして、異邦人が多く応答したため、ユダヤ人が妬み、それで、はっきりと自分たちは異邦人のところに行くと、公然と宣言しました。

 そして、もう一つ興味深い発見が、ここにはあります。第一次宣教旅行で、キプロスの地方総督セルギウス・パウルスがパウロの宣教でキリスト者になりました。彼の名が記されている碑文が、ピシディアのアンティオキア付近で見つかっていて、ヤルヴァッチ博物館に展示されています。彼の関係者、親族がここに住んでいた可能性があります。パウロたちが、この町に来たのは、セルギウス・パウルスとの関わりがあったかもしれません。

遺跡訪問

 下が、グーグル・アースによる全景です。クリックしていただくと、写真が大きくなります。左側が北になります。入口は、右下の城門のところからです。

グーグル・アースから


 これは、左が北になっている方角です。丘になっているのが、アンティオキアの町であり、特に東側(上側)は、アンティウス(Anthius)の小川があり、急勾配になっていて強い要害になっています。古代ローマの他の町と同じように、南北と東西の中央通りがあり、東西の通りをデクマヌス・マクシムスといい、南北をカルド・マクシムスと言います。カルドは、エルサレム旧市街のユダヤ地区に走っている通りとして、よく聞く名前ですが、それはローマ時代の名称を受け継いでいるからです。そして、劇場があり、皇帝アウグストュスを祭る神殿があり、それが丘で最も高いところにある、中心的存在です。水道橋が北(左)から町に入ってきており、噴水であるニンファエウムの遺跡もあり、また南西にはローマの浴場もあります。

 ここの遺跡で特徴的なのは、ビザンチン時代の聖堂の跡があることです。アウグストュス神殿の向かいに、そして南に「聖パウロ大聖堂」と呼ばれるものがあります。最近、左上、つまり北東にも聖堂の跡があります。聖パウロ大聖堂のところには、シナゴーグの跡も見えており、それで、そこがパウロの説教をした会堂(使徒13章)ではないかと思われています。それでは、ディレクさんのガイドによる遺跡巡りを動画で見ていきましょう。



 城門の前で、アンティオキアの始まりについて説明しています。1:45は要塞の壁があり、1:55から入口の方向を見ています。2:40に見える石が積みあがってあるのが、いくつかありますが、西門の跡です(写真1 写真2)。皇帝ハドリアヌスの時に建てられたものですから、紀元二世紀、パウロが訪問した時にはまだありませんでした。

 そして3:33から、この城門を入って正面に見えるものは、水が街路の真ん中を流れ降りて来ていました。暑い日には涼しさを与えるし、飲み水にもなります。半円形のところが水を溜めるところです。ここで水が地下に流れていく設計になっていました。(写真)4:30からは、この街路の横に、商店が並んでいた跡があります。

 そして、5:00から、とても、すごい落書きが道端にあります!


 エペソの街路にも多くみられるものです(2018年の旅行参照)。キリスト者たちが、まだ公に集まることのできなかった時に、イエス・キリストは神の子というギリシア語が隠されている、イクトュス(魚)のしるしです。このようにして、いろいろなところで、キリスト者だけが分る徴があります。聖堂として建てられているものは、すべてキリスト教が公認後のものであり、この落書きのほうが、より本物の信仰を表している貴重なものです。

 そして歩き進めると、左側に、真ん中に丸く括りぬいている石が積みあがっていますね(07:20から)。水道管です。ここは、右に曲がるとデクマヌス・マクシムスを上がっていきますが、このように道の曲がり角のところで、水道を複数に分けていくようなところに、この水道管のつなぎが使われました。

 そして08:00から、デクマヌス・マクシムスを上がっていきます。西から東に歩いています。比嘉ヨシュアさんが、すげーと感動していますが、ディレクさんは、ここはカルドだと言っていますが・・、「ああ、間もなくカルドになりますね」と言い換えています。ふと、デクマヌスのことを思い出せなかったようです。

 そして9:15から、劇場の跡が見えています。


 こちらの動画を見ると、ジェイさんが劇場を背景にして、ローマとギリシアの町の違いを説明しています。違いが分かるのは、ギリシア語がつかわれているか、ラテン語か?というのがあるし、城門がアーチ形なのはローマ式です。ギリシア式は、直線の柱(鴨居)になっているとのこと。ネットで探すと、このようなものと、復元のギリシア式ものがありました。そして、この劇場のところから右側(南)のほうを撮った写真がこれです。今、歩いているデクマヌスがあり、その後ろが、ヤルヴァッチの町とその背景に山々が連なっている姿がわかるでしょうか。

 9:40からは、デクマヌスの左脇にある商店の跡を見せています。アメリカ人の牧師たちは、「スターバックス」「アマゾン」とか、言って遊んでいます。

 それから、10:13のところで、デクマヌス・マクシムスから右(南)に伸びている通りを見せています。下水道がこの道の下に埋まっているのだそうです。それから、まだまだ発掘されていない部分が多く、かなり大きな町であることが分かります。それから、ディレクさんは考古学者だけあって、考古学の実際を教えてくれています。資金さえあれば、いろいろな国からのチームが発掘可能です。けれども、発掘されたものは、出版発表はできますが、トルコ所有になります。それから、発掘したら復元しないといけません。復元しなければ単に破壊していることになります。

 12:40からは、両側に土がつみあがって、土器が散らばっていますが、これが元々の姿です。石が積みあがっています。ギリシア・ローマの遺跡は、東方から7世紀にトルコ人が遊牧民でやって来て、価値のないものですから、土をかぶせ、また地震や土砂崩れなので、このような土が積みあがった状態になっています。

 14:05は、すでに左折(北)してカルドに入ったようです。石を外して中を見られるようになっているものがあります。そして、石の階段もあります。もっと発掘しないと何なの物か分からないです。ともかく、発掘途中であることがよく分ります。14:55辺りは、再び商店街がありますね。

 そして15:07から、中央教会と呼ばれる聖堂の跡を見ています。バシリカ式の聖堂です。ディレクさんが立っているのは、アプス(至聖所)と呼ばれる、半円形の最も奥の部分です。聖堂はいつも東から西に入るようになっています。紀元四世紀のもの、つまり、キリスト教が公認されてから間もなくしての古い聖堂です。すでにこの町の異邦人の多くがキリスト者になっていたことが分かります。かなり大きな教会で、1000人近い人数を収容できたとのこと。

 そして17:45辺りから、東側にはるか先に見える真ん中にあるのが、古代ローマ時代の水道橋です。山々からの水を町に引いてくるためです。工事をしていた者たちが賃金上げのためデモを行ったのこと。



 そして、この中央教会の前は東西に走る通りになっていて、中央教会が東端になっています。西端には、アウグストュス神殿があります。19:00から、神殿の前の広場にいます。神殿の跡を見ながら、この町が統治者に対する忠誠を見せるために建てたものです。(写真



 そしてここから後ろを振り返ると(20:30)、先ほどの中央教会の跡が見えます。三百年の隔たりがありますが、それでも人間にしか過ぎないものを拝んでいる神殿の前方に、イエス・キリストを礼拝する場があるというのは対照的です。21:15から、神殿跡の後ろに、長方形の窪みが並んでいますが、上の復元図にあるように二階の柱廊になっていためだからです。パウロが来た時は、この神殿があったことでしょう。彼らはカエサルは主と呼び、肉を献げるのですが、キリスト者は拒んだので迫害されたのです。ローマ人は、カエサルが神だとは思っていませんが、忠誠を誓うための儀式です。



 そして23:34からは、神殿から下がってきた広場にいます。ここはティベリアヌス広場と呼ばれ、先ほどの神殿の周りはアウグストュス広場と呼ばれます。

聖パウロ大聖堂 - ここでパウロが福音を語った!

 私たちは、ここからさらにカルドを北に進みました。(写真)その行き着くところはニンファエウム(写真)と呼ばれる噴水の跡があるはずですが、そこまで行かずに左折(西)して、西側にある聖パウロ大聖堂に行きます。(写真


(Bibleplaces.comから)

下の動画は、アプス(至聖所)の部分を撮ったものです。



 上の聖堂跡の左側(南)を見ますと、崩れて石が転がっているのが分かりますでしょうか?その部分を撮ったのが下の写真で、これはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)の跡です。つまり、この聖堂は、以前の会堂のところに建てたものだということです。ということは、パウロがここで説教をしたところなのだ、ということができます!

(BiblePlaces.comより)

 そして、ジェイさんが、力強く、使徒の働き13章から語ってくださいます。


 13章13節からずっと読んで行っていますが、この説教の後、パウロとバルナバが会堂を後にする時に、また次の安息日にも来てくれと頼み、「次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。(44節)」とあるところがすごいのです。15万人はいたといわれるこの町の人々が、やってきたのです!それで信じないユダヤ人が妬みに燃えました。彼の語ることに反対して、口汚くののしりました。彼らは町から追い出されますが、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」とあります(52節)。

 その後に、ジェイさんは、ローマの迫害から、現代のアメリカの教会が自分に仕える教会になってしまった。アテネで、司祭を見て十字を切る人々を見て、彼らが聖なる人だと認めているからだということです。聖徒というのは、そういったアイデンティーです。自分たちが、御子に似ているというというのが、私たちの召しなのだということを強調していました。

3.アンティオキアの後

ピシディアのアンティオキアから、パムッカレのDoga Thermal Hotelまで(グーグル地図

エイルディル湖

 アンティオキアの見学が終わったら、結構な時間になっています。ここからはひたすら、今晩泊まる、パムッカレのドガ・サーマル・ホテルまで走ります。このホテルは、2018年に同じホテルに泊まった時に、その豪華さに驚きました。パムッカレは、温泉が出るところで有名なので、温泉に入るのも楽しみです。しかし、ここからかなりの距離です。一日に、ガラテヤ地方から、ピシディア、フリュギア、アジアへと移動するのですから、すごい移動です。パムッカレは、コロサイ書に、コロサイ、ラオディキアと共に出てくるヒエラポリスです。明日から、ついに黙示録の七つの教会巡りになります。

 しかし、この走っている途中で、すっかり魅了されてしまったところがありました。全くほとんど、日本人には知られていないのではないでしょうか、穴場中の穴場です。エイルディル湖の北の部分を通りました。(写真


 水の色が、なんとも言えません。「ターコイズブルー」と言うそうで、「トルコ石のような緑がかった明るい青色」だそうです。パムッカレに来たら、一泊多くして、ここに立ち寄ってもいいかも?と思ったぐらいです。全く何もしないで、ボーっとするのに最高だと思います。そして、ゲリンジッキ山と呼ばれる高い山を左に見ながらしばらく走りました。(写真

 ホテルは、本当に遅く着きました。部屋に行く前に夕食だったと思います。今までの中で最も豪華なホテルです。いろいろなメニューがビュッフェ形式がありました。(ホテルのいろいろなグーグル写真)2018年の旅でもここに泊まりましたが、気づいていなかったのは、温泉のSPAがあったこと。早速、日本人の牧者たちはそこに突入です!温度が高いので、誰も入っていませんが、私たちは慣れたもの。最高でした。