2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月17日

1.テサロニケのアゴラ
2.ベレア
3.オリンポス山
4.テルモピュレ

5.アテネへ

1.テサロニケのアゴラ

ザ・メッツ・ホテルから古代アゴラまで(Google地図

テサロニケ遺跡の概略

 私たちは、ホテルからそのままローマ時代のアゴラ(フォルムとも呼びます)に行きました。テッサロニキの観光地が、上にリンクした地図に既に出て来ますが、そのいくつかを、バスから眺めました。海岸に面するアリストテレオス広場があり、海岸を東に進むと、ホワイトタワー(白い塔)があります。ちょっと中に入ると、中世のビザンチン時代に建てられたアギア・ソフィア聖堂、エグナティア街道のテッサロニキへの入口にもなったガレリウスの凱旋門、近くにロトンダもあります。そして、古代アゴラの北にアギオス・ディミトリオス聖堂があります。稼働している教会のようですね、ビザンチン時代に造られていますが、さすがギリシア正教を国教としている国だけあって、トルコでは遺跡でしかなかったところも、多くが今も使われています。

 日本語では観光案内のサイトがありますので、一つ一つの説明はサイトに譲ります。(例:東ローマ帝国時代の雰囲気って良いな…「ギリシャ・テッサロニキ」で見ておきたい観光スポット6選)そして世界遺産登録もされていますが、ウィキペディアに概略が載っています。また、丘に上がったところには、四世紀のビザンチン時代の城壁があり、そこからの市街の眺めがとてもきれいだそうです。それからテッサロニキ博物館もありますね、ここにはマケドニア王国時代の至宝や彫刻などがありますから、ピリピで話されていたその繁栄をここでは垣間見ることが出来そうです。

 下のビデオは、白い塔の前でテサロニケについて話す、アミール・ツァルファティさんの聖地案内の動画です。


改めてテサロニケの歴史の紹介

 紀元前315年、アレクサンドロス大王の総督の一人カッサンドロスによって創建され、ゆえに2300年以上の歴史がある由緒あるところです。ローマ時代にも重要な大都市でした。先の遺跡にあるように、ビザンチン時代はコンスタンチノープルと並ぶ大都市となりました。ギリシア北部のテルマ湾を臨み、古代ギリシアの町テルマと周辺の25の町々に及びました。カッサンドロスは、妻のテッサロニカに因み、テサロニケの名を付けました。

 ローマ時代は、エグナティア街道に面していたので交易の要衝となりました。また、バルカン半島を南北に大モラヴァ川とアクシオス川に沿って走る街道の南端で、ギリシアとバルカンの諸都市を結んでいました。さらに港町であるため、突出したローマ都市となりました。紀元前146年には、ローマのマケドニア属州の首府となり主要港となりました。著名人もここに来ています。キケロが亡命した六か月ここで過ごし、18通の手紙を綴りました。ポンペイは、ユリウス・カエサルから逃れていた時、ここに滞在しています。フィリッピの戦いで、テサロニケは自由都市となり、紀元後三世紀にはローマの植民都市になります。そして、ゴート族が三世紀にこの町を包囲した時に、新しい城壁が建てられました。皇帝ガレリウスがここを皇帝の首都にしましたが、先ほどの凱旋門は彼の名にちなんで建てられたものです。彼はローマでキリスト者を迫害した最期の皇帝となり、聖ディミトリオスは殉教した一人です。

 オスマン・トルコ時代は、スレイマン壮麗王が白い塔を1530年に改築しています。現在のテッサロニキは、150万人の住むアテネに次ぐ、第二の都市のなっています。

町のど真ん中に囲まれているフォルム

 アリストテレオス広場から通りをずっと真っ直ぐに歩いて行くと、古代アゴラ(フォルム)があります。


 ここは、当時のテサロニケの商業的、行政的な中心地です。都市時代ははるかに巨大なものでしたが、エグナティア街道がつながっており、東西のデクマヌス・マクシムスもつながっていました。アーチ、回廊、泉などで美しく装飾されていました。円形劇場であるオデオン(Odeion)があり、コリント式の列柱が残っていますが、当時は、二階建てのポルチコでありました。そして、モザイクの床も残されています。さらに、いくつかの店の遺跡もあり、地下回廊もしっかりと残っています。そこには、フォルムの博物館があるそうです。

 では、まずデーナさんの説明を聞きます。今、上の地図の列柱路が交差している、左下の部分に集まっています。


 デーナさんは、このフォルムは当時の町のごく一部でしかなく、ガレルウスの凱旋門のところまで広がっていました。目の前に見えているのは、中庭ですが、二列の列柱に囲まれていました。そして地下通路もあり、オデオンの周囲には行政の建物がありました。

 次に、ジェイさんがメッセージします。喉の調子がすごく悪くなっていました。


 まず、ジェイさんは、これから読む使徒17章の背景となる、ユダヤ人会堂の位置を教えます。サマリア教の会堂もあるようで、その遺跡は見つかっているようです。ユダヤ教の会堂は、このアゴラの遺跡からはみ出したところにあります。「1 パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。2 パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。3 そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。」聖書は、旧約聖書のイザヤ書53章などだったでしょう。「4 彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。5 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。」ヤソンのところに泊まったのでしょう。ヤソンは、ギリシア系ユダヤ人です。「6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。」役人のビーマ(裁判席)は、ここアゴラにあります。「7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」8 これを聞いた群衆と町の役人たちは動揺した。9 役人たちは、ヤソンとほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。」テサロニケは、自由都市となっていました。フィリッピの戦いで、マルクスとユリウス・カエサルに忠誠を示したからです。ところが、パウロが来る前にここで飢饉が起こっていました。まだ傷の痛々しいのが残っている中で彼は、聖書から論じました。三つの安息日ですが、三週間よりも短い期間でしょう。

 聞いていたユダヤ人は気分を害しました。苦しむメシアについて論じたからです。彼らは聖書をきちんと調べていませんでした。もう一つの問題は、異邦人がそのまま共同体に受け入れられていったからです。ヘレニズム化したエッセネ派のことを思い出してください。ユダヤ主義者らは、異邦人たちがユダヤ教に改宗する前にキリスト者として中に入れることに我慢がなりませんでした。使徒15章でエルサレム会議があった背景です。さらには、ここに、かなり影響力のある、有力な婦人たちがいたのも怒らせた理由です。そして、テサロニケは皇帝への忠誠が、今、説明したようにかなり強いのに、パウロがイエスがメシア、王であると説いたのです。たった二週間ぐらいで、多くの人たちがイエスに従うことを決めていくようになったのですから、騒動を引き起こしました。

 パウロとシラスは、危険なのですぐにここから出て行かなければいけなかったのですが、ここに残された人々がいるからです。パウロはテモテを送り、きちんと監督が建てられるようにしなければなりませんでした。そこでテモテが町で見たものは、非常に不満をためているテサロニケ人たちでした。その背景に、飢饉があったからです。今日のテッサロニケの人たちがそのような気持ちのようです、経済破綻のためです。彼らが飢饉が起こっていることを、どのように理解していたのか?神々が呪いとして引き起こしているのかもしれない、もしかしたらイエスという神が来たから、こんな災難な目にあっているのでは?ということになったのです。

 そして、パウロはアテネに行き、コリントに行きました。そこで、パウロの数ある手紙の中で、最初の手紙を書きました。ここにいるテサロニケ人への手紙です。第一の手紙を書いて、間もなくして第二の手紙を書きました。彼はテモテからの知らせを聞いて喜びました。短い期間でしたが、とても愛していました。優しい心を持っていました。パウロは、第二の手紙を書いた時に、噂が立っていました。「ここには金がなかったから、パウロは去ったのだ」という噂です。なので、2章5節にあるように弁明しました。そして、「私たちの愛する者となったのです(2:8)」は、子を抱いている母親の感情です。これが私たちの働きの心です。牧会者としても、また信者としても。

 そして少し自由時間が与えられ、遺跡を見ました。オデオンの動画です。


 たくさん写真を撮りました。まず、オデオンから撮った中庭の様子。次に、オデオンの前の二列柱廊の跡です。そして、地下回廊の手前にある二階柱廊の跡です。こちらは地下回廊ですが、下まで降りて歩いて見ました。こちらですが、旅行仲間も写真にうつっています。反対のほうをら浮いていると、何か写真(絵画?)が両側に飾られていました、もしかしたらその奥が博物館になっているのかもしれません。あと、こちらの列柱回廊の床に敷かれている砂利ですが、この下にはモザイクがあるそうです。守るために、しかれているそうです。こちらは入場する時に奥さんが撮ったのでしょうね、仲間の様子です。こちらは、入口にある図面です。

2.ベレア

テッサロニキからヴェリアの聖パウロ祭壇まで(グーグル地図

 テッサロニケを離れて、車で一時間ほど走ったでしょうか、73㌔ぐらい先にある、次はベレア(ヴェロイア、現代はヴェリア)に向います。グーグル地図で見るように、一気に西に向かっています。テッサロニキの町を郊外に出ると、少しずつ田園風景になっていきました。そしてヴェリアの町に入ります。



 テッサロニキとは違い、とても落ち着いていている空気が流れていました。


 ヴェロイアは、ピリッポス二世の重要な町でした。ローマに紀元前166年、マケドニア軍が破れ、初めに降伏した町でした。ベルミオン山脈がオリンポス山の北に走っていますが、その山脈の北にヴェロイアは位置します。ユダヤ人の居住がここでも認められ、パウロの一行はそこに行って会堂で教え始めました。今は使用されていませんが、北ギリシアにて最古の会堂が保存されており、見物できます。今も伝統的なユダヤ地区がきれいに整えられています。そしてビザンチン時代の教会の跡も多く残っています。

 私たちが訪問したのは、「聖パウロの祭壇」と呼ばれるところです。すぐ隣が小学校で子供たちが大声で遊んでいるところで、デーナさんが説明を始めます。


 当時のベレアの中心地点だそうで、ここでパウロが宣教をしたことを記念するのにふさわしい地点である、とのことです。子どもたちの声が大きいので、少し離れて、カルバリーチャペル・フォルソム オランゲバの牧者、マイク・フランダーズさんが御言葉を取り次ぎます。


 使徒17章です。「10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。11 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。12 それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちが、ベレアでもパウロによって神のことばが伝えられていることを知り、そこにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。14 そこで兄弟たちは、すぐにパウロを送り出して海岸まで行かせたが、シラスとテモテはベレアにとどまった。

 ベレアの人たちの貴いことは、御言葉を大事にしたことです。「素直で」という言葉は、「高貴な生まれで」とも訳せますが、テサロニケの人たちは聖書を調べなかったけれども、彼らは調べました。聖書を教えてない教会は、神の召しに応じていません。そして「非常に熱心に」とありますが、御言葉に対して飢え渇いていました。聖霊が、御言葉を通して、私たちの心に語りかけ力を与え、成熟したキリスト者とします。そして「毎日聖書を調べた」とあります。毎日、聖書を調べていますか?どうやって起きていますか、御言葉に触れて、その日を歩みます。その結果、「多くの人たちが信じた」とあります。多くが救われました。そしてテサロニケからやってきて、群衆を扇動しました。私たちにも戦いがありますね、けれどもその時に祈り、神の恵みを分かち合う機会となります。そして御言葉が広がりましたが、私たちが通って来た道には隊商が行き来していましたが、そうした道を通して広がりました。そしてベレアの人たちが、メシアに会い、生活が変わります。神の愛が留まり、心からあふれ出ます。

 ジェイさんが次に話しました。「パウロは、テサロニケを逃げて、またここを逃げました。コリントまで来て、恐れていました。主が隣にいて、語り続けなさいと言われました。そしてパウロは、去っていたところにいた人々のことを気にかけていました。そして、パウロはユダヤ人の会堂に行きましたが、なぜなら、そこに聖書があったからです。ベレアの人たちは、パウロがイエスがメシアだというのに、「どこに証拠が?」と尋ね、それで聖書をパウロが開き、彼らはどんどん調べていました。

 そして彼らは、御言葉を思い巡らし、覚えました。ピリピには、歌をうたいなさいと書かれていますが、彼らは詩篇をそらんじたかもしれません。そして彼らが旅をしていて、夜になってきて、案内人や現地の人から誰かの家に導かれる時、詩篇や歌によって五回そらんじて、そして家に導かれます。聖霊の導きがあり、御言葉の確認がありました。そして、テサロニケの人たちがやってきたので逃げました。そしてパウロは独りでアテネに行かねばなりませんでした。」

 よく考えれば、パウロのテサロニケからの旅は、予定していなかったもの、「逃亡劇」の道程だったという事が分かります。ローマ人への手紙には、ローマに何度となく行きたいと思ったが、妨げられているということを言及していますから、もしかしたらテサロニケの後は、そのままエグナティア街道を経て、アドリア海へ、そしてイタリアのローマに行こうと思ったのかもしれません。けれども、主がこの逃亡を用いてくださり、アカヤのコリントへの道を開いてくださいました。

 私たちはベレアを発ちます。私たちが訪ねたこの聖パウロの祭壇の他には、当時の面影としては、古代ローマの城壁アゴラの地点(遺跡は残っていない)デクマヌスの石畳などがあるようです。いずれにしても、とても穏やかで、ゆっくり散策して、こういったところを見ていくというのはとても良いかもしれません。

 ここから、パウロは独りで船旅に出ていくことになります、案内人がアテネまで連れて行きます。「14 そこで兄弟たちは、すぐにパウロを送り出して海岸まで行かせた」とありました。この海岸とはどこなのか?ベレアから近いとなりますと「ピュドナ」ではないか?と言われています。(ベレアからのグーグル地図

 紀元前168年、「ビュドナの戦い」が繰り広げられたところです。ローマ軍がマケドニア軍を破ったところとして知られています。そしてパウロは、使徒18章15節で「パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そして、できるだけ早く彼のところに来るようにという、シラスとテモテに対する指示を受け手、その人たちは帰途についた。」とあります。アテネのピレウス港にまで連れて行ったのでしょう。

 しかし私たちは、船には乗らず陸路でアテネに行きます。ちょうどトロアスからネアポリスまでの船旅ではなく、バスで陸路を通ったように、ここも一時、パウロの旅程から離れることになります。ちなみに、クルーズの旅でトルコ・ギリシア旅行というものもたくさんありますが、こちらは旅費がとても高くつきます。

3.オリンポス

ヴェリアからテルモピュレまで(グーグル地図

 そこで、ベレアからは使徒の旅の足跡を追うのは、一気にアテネとなりますので、ここから一気に、長い長い、バスの旅になります。途中で、テルモピュレの戦いが繰り広げられたテルモピュレに立ち寄りますが、それ以外は道路をひたすら走ります。とてもきれいな田園風景を通り、こういうところならトルコのそれとあまり変わらないなあ、と心が落ち着きました。そしておそらくピュドナの近くも通り、南下しました。地図で見ると分かりますが、オリンポス山のある山脈を右、すなわち西を見ながら走って行きました。そして昼食で停止した所で、次のように写真撮影しました。

 ちなみに、ここで食べたのが、ギリシアの家庭料理の代表格「ムサカ」でした。次の日の昼食でも食べます。(また一時間の休憩をここで取りましたが、高校生、いや中学生かもしれない子が、ぷかぷかたばこを吸っています。幼い容姿に無理しておしゃれをしているし・・。デーナさんに聞いたら、イタリアから来ているとのこと。なるほど、確かに近いし、こうやって修学旅行のように来ているのかな?と思いました。それにしても、健康に悪い!と思いました。)

 話を戻しますと、オリンポス山はギリシアで最も高い山です。そして、云わば、「オリュンポス十二神」が居た所とされているところです。つまり、ここからギリシア神話の神々が登場するのであり、そして、オリンピックもここから発祥しました。これまで私たちは、ギリシアとローマの歴史を辿り、その遺跡を見てきましたが、そこで元になっている話がここから発祥しているということは、知っておかなければいけないでしょう。バスの中でデーナさんが、がんがんに、神々についての話し始めましたが、頭がぱんぱんになって、途中で聞くのがつかれてしまいました。けれども、サイトにはいろいろなものがありますし、「地球の歩き方」に分かり易く神々の説明がありましたね。

神様パラダイス!『オリュンポス十二神』をゆるっと紹介

オリュンポス十二神

オリンポス12神 (Olympos)

ギリシャ神話の神一覧

 ざっとググるだけでも、これだけ出て来ました。「地球の歩き方2017-2018」にも、こんな題名がついていました、「浮気性で嫉妬深く、自己中心的。われわれ以上に人間臭い神々」なるほど!です。こうとも書いてあります、「神と聞いて、いったい何を思う描くだろうか。人間とはかけ離れた絶対的な存在。不可能を可能とし、受けるべき者に受けるべき慈愛と制裁を与える。ところが、ギリシアの神々はちょっと違う。神話に登場する神々はとても人間臭く、いやむしろ人間より欲望のままに生き、自己中心的で、そして嫉妬をしたりうらやんだり、人を憎んだりもする。人間と同じような過ちを犯せば、落ち込んだり、反省したりもする。実に親近感のもてる神たちなのだ。」(32頁)

 なんか分かってきましたね、テサロニケやベレアの人々が、パウロの福音の言葉を聞いて、どんどん信じて行ったのが。イスラエルに現れた神は、天地を造られ、すべてを超越し、聖なる方、正しい方、憐れみ深い方で、畏れ多き方。人間と同じ、いや人間以下の神々が満ちあふれていた中で、そしてそれらの神々の宮で行われていた肉欲丸出しの偶像礼拝に、嫌気が差していたのでしょう。テサロニケにおいて、「神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。」とありました。ユダヤ教に改宗していないけれども、ユダヤ人の神を敬う人々が会堂に集まっていたところ、そこでイエスがその約束のメシアであり、ただ信じることによって義と認められるというメッセージを聞いたあかつきには、「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり(Ⅰテサ1:9)」という意味がどういうことか、よく分かります。偶像とその忌まわしい行いを捨てることができる!そして、ユダヤ教徒にならず、そのまま心で信じるだけで、清められるということを知ったのですから、一気に異邦人がそのままで教会に集ったのですね。

4.テルモピュレ
ウィキペデア「テルモピュライの戦い」

 私たちはかなり南下してきて、テルモピュレまで来ました。


 ここが聖書の何に関係するのか?と言われますと、後でジェイさんが説明しますが、聖書のエステル記に出て来る、エステルの夫となる「クセルクセス」王の命令による、ペルシア軍と、スパルタを始めとするギリシア連合軍の戦いの場であったということです。エステル記1章で大宴会が行われましたが、それはこれからギリシアに遠征に行くため、支配下の諸民族を一つにまとめるためであり、2章は、一連の戦い(ペルシア戦争と呼ばれます)、意気消沈していた王のために、ワシュティに代わる新たな王妃を家来たちが探して行った、というところから始まります。1章と2章の間に起こった出来事です。それから、なんと言ってもスパルタ軍の勇猛な戦いから、私たちキリスト者が忍従して信仰の戦いを貫くことを学ぶことのできる場です。

 テルモピュライ、あるいはテルモピュレは、「熱い通路・門」という意味を表していて、今でこそ、海岸線が退いたのですが、古代においてカリモドロス山の峻険な崖(上の動画に出て来る険しい山がそれです)と、マリアコス湾に挟まれたこの地の道路は、最も狭い所で15㍍ほどの幅しかなかったので、ここで戦えば、相手がどんなに大人数であっても、結局、ぶつかり合う時には同じぐらいの人数でしか戦えないので、有利になるからです。ここで、スパルタの重装歩兵はわずか300名、その他のギリシア連合軍を合わせて7000人程度しかいなかったと言われていますが、相手側は210万人いたと言われ、その数が誇張だったとしても、比べ物にならない戦力差でありました。そこでスパルタのレオニダス王率いるスパルタ軍は、勇猛に戦い全てが戦死しましたが、そのおかげで、サラミスの海戦で準備を整える時間ができ、ペルシア軍に勝利を収めることができました。またその後のプラタイアの戦いにも士気を与え、スパルタ軍のみでペルシア軍を打ち破ることができたのです。つまり、テルモピュライの戦いは、一連のペルシア戦争において風向きをギリシア側に変えるきっかけになったのです。

 この戦いについては、説明がたくさんサイトでも動画でもあります。アニメでの説明もありますし、古代ギリシアの研究家の解説も交えたコンピューターゲームの動画さえあります。そして何よりも、映画「300」が最も知られていますね。ここにレオニダス王の出てくる言葉、Come and get them!は、ペルシア軍の「武器を降ろして、投降しなさい」という呼びかけに対して、「来て、これらの武器を取りに来なさい」という意味で話しましたが、これが、自由のために権力や勢力に屈せず、公然と抵抗する象徴として、この言葉が使われています。私も思わず、アテネでこの言葉がプリントされているTシャツを買ってしまいました!では、そのCome and get themの言葉が出て来る300の場面の動画を見てみましょう。


 私が好きなのは、この重装備のエリート軍団がファランクスという隊形を取っていることです。要は密集して一丸となって戦うのですが、左手に持っている丸型の盾は、左の兵士の右半分も隠しているという、チームワークによる戦いです。歩兵なのですがまるで戦車のような鉄の塊のように前進し、戦うことができます。ローマは、亀の甲を意味するテストュドによって、敵陣と最前線で戦いましたが、同じコンセプトです。(参照説教:「共に奮闘」原稿音声

 レオニダス王の銅像とスパルタ軍の記念碑が立っていますが、その前で、ジェイさんが、声の調子が悪くなってハスキーな声で、語ってくださいました。


 スパルタ軍は、どうしてこうも頑強だったのか?「法と倫理」があった、からです。それは、「勝利しているか、戦っているか、あるいは死ぬ。」というものです。「盾を持ちかえって帰宅するか、盾が載せられて帰宅するかのどちらかだ(つまり、死亡して帰ってくる)」というものです。もう一つは、「自分の持っている全てを持って、全ての戦いにおいて戦え。」というものです。一人のギリシア人からの情報によって回り道がペルシア軍に知られることになり、背後からの攻撃も受けることが分かった時、ギリシア連合軍の多くが撤退し、残されたわずかな者たちだけで戦いました。彼らはあまりにも凄まじい攻撃なので(槍が折れると剣で、剣が折れると素手で、手が怪我すれば、歯で戦いました)、それで接近戦、肉弾戦を恐れたペルシア軍は、距離を取って矢からの攻撃で倒したそうです。最期の戦闘の前に、仲間で(負傷などによって)帰るスパルタ兵の仲間に、レオニダスは、「我々は、スパルタの法が要求するように行い、ふるまった。それでここで埋められる。」

 私たちは、戦いの武器を全て身に着けますか?身に着けますね(エペソ6章に書かれているように)。私たちは、目に見えない戦いを戦っています。しっかりと戦っているか?神の法、神の倫理によって、しっかりと立ち、御国の兵士として御霊の武器を身に付けるのです。「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。(エペソ6:13)」我々の敵は、狂信者でもなく、政治家でもなく、イスラム国でもなく、サタンが敵です。ここは、霊の戦いの、最適な地上のたとえです。

5.アテネへ

テルモピュレからアテネのDivani Acropolis Hotelへ(グーグル地図

 私たちは、ここからさらに3時間ぐらいかけてアテネに向います。途中で、左にはエヴィア湾が見え、右には山脈が続きました。そしてアテネに入る時は、さすが首都、最大都市だけあり、テッサロニケよりずっと大きい町だと言う感触を持ちました。しかし、既に日没になってきています。ホテルはその名の通り、アクロポリスに隣接しているところで、市街地の中心部にあります。そこに行くまで、大渋滞です。

 ホテル到着は、たしか9時ぐらいになっていたと思います。トルコの国境から連れて来てくださったバスの運転手さんは、ここで交替とのことです。本当に長旅でした、そして、今日は本当に長距離でしたが、最後の最後まで、荷物をバスから取り出すところまでしっかりとお仕事をしておられました。感謝でした。

 明日からついに、アテネ観光です。世界の西欧文明の基、そして、キリストの福音がパウロによって伝えられるも、なかなか伝わらなかったアレオパゴスにも訪れます。