2018年トルコ・ギリシア旅行記 4月18日 その1
1.市内巡回
2.パナシナイコスタジアム
3.アテナイのアクロポリス
4.アレオパゴス
5.プラカ&昼食
6.ローマのアゴラと古代アゴラ
7.新アクロポリス博物館
(5.から7.は、「その2」へ)
1.市内巡回
(Google地図 注:あくまでも想像で、この通り行ったかは分かりません)
(日本語の市中見物記)
私たちの宿泊しているホテル「ディヴァニ・アクロポリス・ホテル」は、アテネの中心的遺跡「アクロポリス遺跡」の目と鼻の先にあり、容易に徒歩で向かうことができます。けれども、その遺跡に行く前に、バスに乗って市内を巡回しました。全体の印象としては、「パルテノン神殿がどこからでも見れて、それを中心にして、古代の遺跡、近代の建物、教会が寄り集まっている」というイメージです。アテネは、言わずと知れた現代ギリシアの首都であり、古代ギリシアの強力な都市国家で、芸術、学問、哲学の中心、西洋文明の発祥地とされるところです。その名は、オリュンポス十二神の一つアテーナ―から来ています。
町の中心はシンタグマ広場と呼ばれるところで、ギリシア王国の憲法が発布されたところです。そこが地下鉄など公共交通機関の中心になっています。道路を挟んで国会議事堂があり、手前に無名戦士の墓もあります。400年のオスマン・トルコの支配に終止符を打った1823年からの独立戦争以降の戦死者を追悼するためのものです。数日前までトルコにいたので、ギリシアとトルコの深い確執を感じました。またここでは衛兵交代式があるので、観光客の見物になっています(写真)。その周辺は、アテネ国立庭園が広がっています。
そしてパネピスティミウ通りを北上し、「アテネ・アカデミー」を通り過ぎます(写真)。学術的(academic)を意味するこの言葉は、元々、哲学者プラトンがアテネで開いたアカデーメイアーに由来するのだそうです。入り口の左にはソクラテス、右にはプラトンの像が、イオニア式円柱の上にあるのはアテナ神とアポロン神だそうです。アテネ国立図書館を通り過ぎ、オモニア広場の右折して北上すると、アテネ工科大学、そして「アテネ国立考古学博物館」(ウィキペディア)があります(写真)。古代ギリシャからの豊富な遺跡が展示されているようで、行ってみたいですね。
巡っている時に、いつも車窓からは、アクロポリス遺跡の頂上にあるパルテノン神殿を眺めることができます。いかにアテネ市が古代から現代まで、この神殿を中心に造られているかが分かります、アテネ、そしてギリシャ全体の象徴です。
2.パナシナイコスタジアム
そして、国立庭園の南へ向かってそこにある、「パナシナイコ・スタジアム」に行きました。ここは、1896年、近代オリンピックの第一回目が開かれた会場です。紀元前331年に、パン・アテナ大祭の競技場として造られました。当時は土手の斜面が観客席でしたが、ローマ時代に大理石になりました。けれども同時のものは残っておらず、その第一回目のオリンピックが開かれる前に復元されたものです。座席は大理石でできており、6万人から7万人が入場可能です。トラックは現代のものとは異なり馬蹄形をしていますね。
デーナさんの説明の後、マークさんが、マラソンについて説明し、パウロが競走について話したこと、上から来る賞を目指して走ったことを話してくださいました。
聖書的には、ちょうどネヘミヤ記やエステル記の時代のペルシアの王が、ギリシアの遠征に来た時に戦ったこと、マラトンの戦いがありましたが、マラトンからアテナイまでが40㌔強で、「我勝てり」というエウアンゲリオン(福音)で、その場で死んでしまったという逸話から来ています。パウロは、オリンピックの競技を好んで喩えで使って、信仰の競走について話しましたね。忍耐と堅忍が必要だよ、ということです。(ウィキペディア:「マラトンの名の由来」)「Ⅰコリ9:24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。」
3.アテナイのアクロポリス
(スタジアムからアクロポリス遺跡までの位置関係)
(アクロポリス全体の紹介記)
そして、アクロポリス遺跡に移動です。上のリンク先にあるところ、遺跡の西にあるところが主な出入り口になります。ここから坂を上がって右に行くとアクロポリス、左に行くと、使徒17章に出てくるアレオパゴスに行きます。
そこを上がってくると、途中に見えてくるのが、ローマの音楽堂である「ヘロディス・アッティコス音楽堂」が右手の下にあります。ともかくも、パルテノン神殿に向かう参道は、観光客で溢れているので、少し横にそれて、木下の木陰の中に連れて来て、デーナさんがこのアクロポリス全般についての説明をします。
「アクロポリスは要塞であり、王座である。自然要害で、接近する道は一つしかない。王が支配でき、港まで眺めることができる。紀元前十世紀頃、王政から、複数で支配する貴族政に移行して、彼らの座はアクロポリスから、古代アゴラ(市場)に移動した。それでここは、宗教のみが残り、聖域となる。主に女神アテーナーを祀っている。世界的な巡礼場になった。
アクロポリスの周囲に、寺院もあり、日常生活に関わる社会活動が行われていた。南には、ここに音楽堂(オデオン)がある。ローマ式で屋根があった。ギリシャ式の劇場には屋根がない。168年にヘロディス・アッティコスが、妻リジラを偲んで建設し、これがアテネの中心的存在になることを願った。5千人の収容。舞台のファサードの前でコンサートが開かれた。今見ているのは、座席を除いてすべて当初のもの。1970年代に復元作業が終わり、以降、毎夏、祭典に使われている。世界的に有名なアーティストが演奏している。
その向こうに、アテネの七つの丘の一つであるフィロパポスの丘がある。彼は、シリア地方にある王国出身の王子で、フィロパポスはギリシャ名であり、アテネの市民であることを表している。ローマの執政官であり、アテネに貢献した。彼は、アクロポリスに葬られることを望んだが、そこは聖域なので、ここに近い丘に彼を葬った。山の記念碑が彼を覚えるものである。その丘は、音楽の女神ムーサ(muses)が祀られていた。そこから、「ミュージック(music)」という言葉が生まれる。」
参道を上っていき、途中で、他の七つの丘を指摘します。
「左下にある岩のところを、プニカ(プニュクス)と呼ぶ。民会が開かれたところだ。手前の右下に見えるのが、アレオパゴスだ。そのさらに右に、アゴラがある。屋根までが遺っている神殿が見える。ここは、アテーナ―以外に、ヘーパイストスが祀られている。火や火山の神とされた。」このデーナさんの説明は、こちらの地図を見ると分かり易いでしょう。プニカ(Phynx)、アレオパゴス(Areopagus)、そしてアゴラ(Agora)とそこにあるヘーパイストス(Hephaestus)神殿です。
参照:パルテノン神殿①、②、③
これからパルテノン神殿に入りますが、ここはアテナイの守護神アテーナを祀る神殿で、紀元前432年に当時、アテナイの政権を掌握していたペリクレスが計画し、彫刻家ペイディアスが指揮をとりました。ギリシア古代のドーリア式建造物の最高峰と言われ、古代ギリシャと民主政アテナイの象徴とされています。
ついにパルテノン神殿の前門に当たるプロピュライアに到着です。
プロピュライアの階段でデーナさんが説明します。
「今、かつて参拝者が上がってくる道を上っている。女神に生贄を捧げるのもこの道だ。この門はかなり費用がかかったらしい。建築家ムネシクルスによって設計された。右に見える列柱三本のところで、訪問者が衣服を着替え、神殿の中に入るところであった。左側にも列柱があり、そして右にあるのがアテナ・ニケ神殿であり、ニケ(Nikeナイキのこと)は勝利の女神であったが、翼がある。しかし、彫刻には翼がなかった。しかし人々はニケが去って行かないように翼を取った。
下部が石灰岩になっていて、上部が大理石になっているが、アテネ人がペルシャ戦争において、ペルシャが神殿を徹底的に破壊した。(参照:「古パルテノン」)それで、彼らは前の神殿の石灰岩の土台を使って、大理石を使って再建した。階段でそのまま残っているところがあるが、ここをソクラテスなども使って上がってきたのだ。」う~ん、そういうことであれば、エルサレムの神殿の南壁の階段もそのまま残されていて、イエス様がそこを使ったことは確実、ということの興奮とは比べ物にならないですね。
プロピュライアを通って、ついにパルテノン神殿を仰ぎ見ます。
「アテネでは、至る所に古の神殿がある。パルテノンを独特にしているのは、端正な古代ギリシャの民政を象徴しているからだ。さかのぼると紀元前5世紀、想像もできぬことをアテネ人はやり遂げた。アテネが戦争に勝利し、時の権力者ペリクレスが支配を始め、アテネの黄金時代が始まった。全世界に民政アテネの偉業を知らしめたかった。彼自身はペロポネソス戦争で没したが、そのビジョンはかなえられた。
ローマが来た時は、略奪や破壊はせず、自分たちの建物をギリシアの建物の横に建てた。事態はずっと後になって変わった、ビザンチン時代に教会として捧げられた。オスマン・トルコ時代には、モスクに改築したが建物はそのまま残していた。しかし要塞化し、弾薬を置いていた。ヴェネツィアのモロジーニがフィロパポスの丘から砲撃を加え、神殿の南側が破壊された。英国の外交官であったエルギン・マーブル伯爵が、オスマン帝国の総督に許可を得て、神殿の調査を始めた。が、調査以上のことを行い、一部を略奪した。ペディメント(破風)は今、大英博物館にある。エレクテイオンの少女像の一体も取っていった。
パルテノン神殿は第一に、建設が完成した中で最大ものである。この神殿より規模が大きいものがあったが、完成しなかった。第二に、全部が大理石で造られた。第三に、十年間(紀元前447年から)で建築を終わらせた。研究者は、今の高額で10年で終わらせることはできないと言った。
神殿を施工したイクティノスとカリクラテスは、目の錯覚について気づいた。錯覚を解決するために、建築にも錯覚を使った。こちら、裏側(西側)が正面(東側)よりわずかに高くなっている。次に、柱と屋根は直線と平面に見えるかもしれないが、曲線になっていて柱は内側に向かっている。(参照:「パルテノン神殿:建設」)美と端正と調和、この三つが古代ギリシャのアテネの生活の規則だ。内側には、アテーナ―の像があった。象牙と金でできていた。コンスタンチノープルに持って行かれた後、どうなったかは分からない。おそらく金も象牙も溶解して、再利用されたのだろう。」
こちらに、日本語でとても分かり易い錯覚の補正図があります。そしてユーチューブにはいろいろ再現動画がありますが、アニメーションでその構造を説明している動画ありますので、こちらをどうぞ。
では、次にデーナさんが続けて説明した、パルテノン神殿以外の建造物についてのまとめを書きます。(08:10辺りから)「エレクテイオンと呼ぶ。アテナイのエリクトニオスは王であり英雄であった。この寺院は、パルテノンと同時期に造られたのに構造がかなり違う。向こう側は斜面になっている。建てるところを平面にしないといけない。それで設計者は両翼を設けた。左にはイコニア式の柱廊を、右には6体の少女の柱像(カリアティード)を置いた。これらは複製で、5体は新アクロポリス博物館にあり、1体は大英博物館にある。」
参考:日本語の紹介文
この後は、それぞれの見物の時間が与えられました。あまりにも多くの見る物がありますが、私たち夫婦は急いで、なるべく多く見たいと願いました。まずは、神殿の正面(東側)です。こちらから入ります。二人でデーナさん錯覚の補正について、二人で議論しています!
こちらの地図を参照しながら追っていかれるとよいでしょう。さらに東側を歩きますと、展望台があります。そこから見えるのが以下のアテネの遠景です。0:12辺りに見える際立った丘は、リカヴィトスの丘でしょう。市内で最も標高が高いです。
そして先ほどデーナさんが説明した、エレクテイオンです。
そして私たちは欲を出してしまいました。本当なら他のメンバーのように、そのまま待ち合わせの場所、すなわち入ってきたところに戻ればよいのです。けれども、地図を見ていただければわかるように。アクロポリスの南の麓には、アスクレピオスの聖域、ディオニソスの劇場があります。これを見ないわけにはいけない!それで急いで降りて、ディオニソス劇場のほうに向かいました。(写真)
手前のアスクレピオン聖域は、トルコのペルガモンにもあった医療の神がたたえられているもので、神殿と共に医療設備もあります(旅行記)。そしてディオニソス劇場ですが、酒の神に捧げられたものであり、これもペルガモンにもありました。ここで古代の劇作家がディオニューシア祭の中で悲劇を演じたそうです。神に捧げられた祭りと言えば聞こえがいいでしょうが、その中でおそらく、多くの乱痴気が行われたと思われます。パウロを始めとする、異邦人に宣教をしていた使徒たちは、こういった異邦人の行いについて、聖徒たちに昔の行いについて思い起こさせていたのでしょう。「無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(エペソ4:19)」
このディオニソス劇場で、ジェイさんが2014年に訪れていたようです!
これは劇場の古来のもので、いわゆる悲劇や喜劇の発祥のところらしいです。そして、イエス様が宗教指導者らを「偽善者」と呼ばれましたが、その元々の意味は「俳優」で、このような劇場で仮面をかぶって登場する俳優のことを指しておられました。
そして私たちは、下まで降りて来てしまったのですが、待ち合わせ場所とは正反対の遠いところにいます。しかし時間があと10分を切っていました!急いで歩いて、ヘロディス・アッティコス音楽堂も先ほど上から見たものですが、見ずに過ぎて行きました。そして始めにバスを降りた起点に戻りましたが、そこから坂を上がっていかなければいけません。私は走りました!ジェイさんを始め、心配そうにしているみなさんの姿が見ました。もう移動しようとしていた時に、私が坂の下のほうから手を振っていたのです!5分遅刻でした。<(_
_)>
そして、別の時ですが、食事を一緒にしている時にジェイさんが、すごいことを教えてくれました。なんと、今でもマジでこれらギリシアの神々を拝んでいる人たちがいるそうです。歴史的に、ギリシア人の大半はこれらの遺跡を文化として誇っていますが、キリスト教が国教となっていますから、宗教にはしていません。けれども、真面目に拝む人たちもいて、このアクロポリスの麓で出くわしたそうです。ちょっと悪霊的な殺気を感じたとのこと。イエス様の名を出したら、かなり異様な反発を示したとのことです。アフロディテを祀るニッチ(壁龕)の前で話しています。
最後のまとめ的に動画を紹介しましょう。一つは、紀元前3000年代から振りかえって、時代を追ったアクロポリスの姿です。
これは、 アテネの遺跡を3Dにしているユーチューブ・チャンネルからです。
こちらのサイトは、VRを使ったアクロポリスの復元です。
そしてドローン撮影のアクロポリス映像です。
4.アレオパゴス
アレオパゴス(英語では、しばしばMars Hill「マルスの丘」と呼ばれます)は、アクロポリスの出入口から歩いて、2分ほどのところにあります。興味深いことに、日本語の観光案内でも、ギリシャ旅行に行っている人々の中でも、地球の歩き方の地図の中にさえ、ここのことが出てきません。けれども、英語でMars
HillあるいはAreopagusrと検索すると、たくさんの訪問した写真や動画が出てきます。キリスト者が、アテネと言えば、そう使徒17章のパウロの説教を思い出すからです。けれども、後で訪問しますが、ギリシアのアゴラも使徒17章に出てきます。「それでパウロは、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場(アゴラ)ではそこに居合わせた人たちと毎日論じ合った。(17節)」なぜ論じ合ったのかというと、「偶像がいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(16節)」とあり、彼がまことの神を知らないこの町の人々に、福音に対する情熱が掻き立てられたことがわかります。これまで、いかがでしょうか、パルテノン神殿を頂点として、まさに偶像に満ちた町であることがお分かりになったでしょう。
アレオパゴスは、「アレイオス・パゴス」から来ていて、「アレス神の丘」という意味だそうです。戦の神のようです。(ローマで戦の神がマルスなので、マルスの丘とも言われます。)これは場所の名前であると同時に、「会議」とか「評議会」という意味合いも持ちます。ここでかつては貴族などによる評決が行われていたようですが、前462年にペリクレスなどが政変を起こして、会議の権限の多くを剥奪して、民主政が確立されるようになりました。けれども、パウロが説教をした時は、「アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。(21節)」という状態があったようで、そのための場所としての機能はあったようです。
ジェイさんのすばらしいメッセージを聞いてください。
「使徒の足跡を、私たちはトロアスから続いて、べレアで逃げて、ここにまで至りつきました。「16 さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。」向こうの下にアゴラがありますが、そこには偶像がいっぱいです。パウロがアクロポリスに上ったかどうか知りませんが、多くの人を見て、「ああ訪問者がいる!」と思ったのではなく、彼らが救われていないこと、偽りの神々に従っていると強く思ったのです。パウロには、いのちの言葉がありました。「17
それでパウロは、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場ではそこに居合わせた人たちと毎日論じ合った。」アテネは、論理の町、論議の町でした。アゴラで論じました。ギリシアのアゴラもありましたし、ローマのフォルムもありました。そこにいって、福音について論じ合ったのです。
「18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していたが、ある者たちは「このおしゃべりは、何が言いたいのか」と言い、ほかの者たちは「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言った。パウロが、イエスと復活を宣べ伝えていたからである。19
そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが語っているその新しい教えがどんなものか、知ることができるでしょうか。20
私たちには耳慣れないことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなことなのか、知りたいのです。」21 アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」彼らは、お高くとまった人、お節介な人たちでした。でも頭の良い人たちです。
ストア派とエピクロス派がいます。ストア派は、人格の持たない力が万物を創造したと信じています。エピクロス派は「原子(アトム)論」を信じ、自然主義的であり、創造した存在は一切信じません。ストア派は汎神論を信じていました。エピクロス派は、優越した力ある存在は信じていましたが、それが何だかは分からないので祈ることはしません。ストア派は、罪については、概念はありませんでした。理想から落ちた状態だけを信じていました。エピクロス派は、痛みから和らぐことしか考えません。両派とも、運命は信じていました。ストア派の倫理は美徳を信じ、エピクロス派は自然にしたがって生きることでした。ストア派は、死後の世界を信じていますが、生命はあるが意識はどこかにいくとしていました。エピクロス派は死後については何も信じていません。こんな感じの考えですから、パウロがメシアについて語っていても、「新しい教え」「耳慣れないこと」ということです。そして、復活について語っていたので、また別の神について話しているのだと思いました。
アレオパゴスは、ここだと分かっていますが、岩とゴミがあるだけです(たくさんのゴミが捨てられていました、ごみ箱が設置されているのに・・)。
右の緑の中、見下ろしたところにギリシアのアゴラがあります |
「22 パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。」パウロは、牧者や神学者の批判にさらされています。アテネ人に寄り添い過ぎて、福音を語らなかったと批評されます。しかし、パウロがこれらの言葉を語った時に、実に天才的、神の知恵と言わざるを得ません。結果はかんばしくなかったのですが、主のなされることです。「23
道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。」これからパウロは、教育を受けたアテネ人であればだれでも知っていることを語ります。
彼らが生きていた600年ぐらい前に、エピメニデスという詩人がいました。アテネに住んでいたことがあります。当時も、アゴラは存在していました。アテネで疫病が発生しました。市民の3分の1が死に、全滅してしまうのではないかと思われました。数か月、続きました。エボラのような、出血し、もだえ苦しむ類のものです。当時もアテネは宗教的でしたから、自分たちの偶像に叫び求めました。生贄を捧げ、体に傷をつけました。助けてくださいと叫んでも、何も起こりませんでした。
エピメニデスが夢を見ました、「次の朝、羊の群れがいると。群れが行くところに、立ち止まるところまで付いていきなさい。立ち止まったところで、祭壇を築き、羊を屠りなさい。疫病は去って行く。」果たして夢の通りになり、言われた通り、羊が立ち止まったところでいけにえを捧げました。疫病が二日でやんだのです。これを、「知られていない神」と呼んだのです。どの神か分からなかったのです。それでパウロが、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。」と言ったのです。ストア派も、エピクロス派も、この神の力をすでに知っていたのです。
「24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。」この詩人は、誰か分かりますか?エピメニデスです!彼らにとっては、あまりにも明白なことでした。彼らの歴史の中のことです。この天地を造られた方が、人々に届こうと求めておられるのです。
「29 そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。」至る所に金や銀の造られた神々がありました。「30 神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。31 なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」ここで、パウロが、復活したと言われる別の神ではなく、すべての人のための復活を語っています。これが彼らが聞きたくなかったことでした、それであざけったのです。「32 死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。34
ある人々は彼につき従い、信仰に入った。その中には、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たちもいた。」女性の名が記されているということは、彼女は裕福な人、パトロンのような人であることがうかがえます。
パウロは、福音の真理を妥協したりしませんでした!世は、私たちに口を閉ざせと圧力をかけます。私の貪り、性的指向、エゴ、自尊心に介入してくるな、と圧力をかけます。大宣教命令をパウロはやめたどころか、ここで従っていたのです。これは牧者、宣教師だけの務めではなく、キリスト者全員への使命です。四つの種類の土の喩えで、一つだけが実を結びます。この後にパウロはコリントに行きますが、私たちも明日行きます。パウロは復活を語りましたが、600年前から神は既におられたのです。
(「その2」に続く)