「『教会から離れなさい』という教え」 2019/08/09

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2章42節)

 ロゴス・ミニストリーが、おそらく2000年辺りから始まり、かれこれ20年ぐらい続いていることになります。オンラインに聖書の教えをアップして、それで日本に、また世界にもこれを使って学ぶ人たちが増えました。その間に、いろいろな方々と会ってきました。まず、イエス様を信じる人たちもいました。近くの教会を探すのを手伝いました。教会生活でつまずくか、何かの理由で教会に通っておられない人たちもいました。そう言う方々には、教会生活を再開できるよう、なるべく励ましてきたつもりです。

 そこで次の記事を書いています。「教会に通っていない方へ」

 そして宣教地から帰国して、2011年、教会開拓を東京で行い始めてからは特に、いろいろな働きや団体、また働き人の方々との交流も出て来ました。「聖書の学び」また「イスラエル」、それから「伝道」、そして「啓蒙活動」が、自分のしていることや、関心と重なる人々とも会う機会が増えました。

 その中で、自分の教会に対する考え方と根本において違う人たちとも出会ってきました。その問題について書いたのが、次の記事になります。本ブログ記事は、ここに書かれている内容が中心です。まず、この記事を一読していただければ幸いです。

「教会から分離する人々」

 日本でも、また世界でも、「教会から離れる」動きが広がっています。今、ここで話しているのは、既存の教会で問題を感じたとか、霊的に疲れを感じてしまったとか、自分に合っていないとか、個人的な理由から教会を離れるということを意味していません。そう言った場合は個々の人々に寄り添い、励まし、また教会に行けるように助ける働きかけが必要です。けれども、ここでは違うことを話しています。すなわち、「既存の教会から離れる」ことや「教会の枠組みから離れる」こと自体を新たな強い動機付けにして、それを教えていくことを話しています。

 それは、冒頭に掲げた使徒2章42節にある、互いに集まることに対する献身を、あたかも悪いものであるかのように仕立て上げます。その枠組みを解体したいと強く思っているからです。そして、その解体に基づいて新たなコミュニティーを作ろうとしているのでしょうか、「他人の土台を壊すことで、自分の位置を確保する」という、初代教会時代に、使徒たちにストーキングしていた偽教師たちが行っていたのと、手法は、同じことを行なっています。

 私は、この動きに警戒を持っています。それは第一に「キリストの体が深く傷つく」ということです。自分自身がキリストの御体の一部なのに、教会を他人行儀にして語っていきます。その前提には「既存の教会はもはや、キリストの御体の一部ではない」というような見方をしなければ、そんな言い方をすることはできません。既存の教会にいる者たちの存在否定をしているのです。しかし、その教会は、不足がたくさんあっても、目に見えるところ、目に見えないところどちらも含めて、神ご自身が恵みによって立てた、神の教会なのです。ですから、神ご自身を否定することにつながるのです。

 そして、そのような教えを受け入れる背景には、既存の教会に対する怒り、恨み、ルサンチマン感情のマグマがあります。本来は、怒っても、主によって自分が救われているという恵みを思い出し、その中に留まり、それで御霊の新しい働きを待ち望むことができます。この恵みによって初めて、怒りから守られます。けれども、この動きは、その怒りを原動力にしているので、心を清める福音ではなく、心を汚れたままにしている律法主義と化しています。

 第二に「その新たな集団は、もはや有機的な御体ではなく、思想集団や学びの集団、何か違うアイデンティティーの集団ではあっても、互いに弱さをいたわり、励まし合う教会のそれとは、異質なものになっている」からです。その人たちが語る新たな集まりでは、キリスト教の用語は使っていますが、命または有機的な実体が伴っておらず、概念や思想でしかなかったりします。

 もし、この「革命」と呼んでよいものが、神の主権の中で行われていくのであれば、それは麗しい御霊の働きです。例えば、エルサレムにあった教会は、ステパノの殉教によって迫害の手が伸び、人々は散って行き、北上せざるを得ませんでした。そうすることによって、福音が広まって行ったのです。まだ非公認であった時、初代教会の多くは礼拝は家で行われ、今のような「一教会に一牧師」ではなく、複数の長老や牧者が巡回するようなものでした。

 しかし、それは自分たちが望んで、意図的にしたものでなく、「互いに集まる」という主の御心を守るために、その時に与えられた状況で応答したにしか過ぎません。今の中国の家の教会がその状況に似ています。しかし、それを意図的に、恣意的に行おうとする時に、神がすることを人がしようとしているという、それこそ共産主義革命のそれと変らなくなる、人間による破壊行為になってしまいます。

これまでのところ、そのような考えをもってやってきた人々の中では、自分たちが既存の教会に対して批判し、指弾していることを、まさに自分自身が、もっとひどいやり方で行っていることがあります。支配的な要素から免れていないのです。

 最後に誤解していただきたくないことは、超教派の団体のことを話しているのでは、全くありません。超教派の団体に属している人々が、それぞれの教会に通い、また団体自体も、諸処の地域教会に仕える姿勢があるので、それは、キリストの御体を建て上げることになります。ここで話しているのは、仕えるのではなく、「壊して、その上に自らを建て上げる」分子のことを話しています。

 以上ですが、激しい語調になりましたが、おそらく読者のほとんどの方には、当てはまらない話です。けれども、そういったまことしやかな誘い、教会に対する不満を使って、上手に自分に引き寄せようとする偽の教えに対しては、気を付けた方がいいと思います。


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