映画「キリストの受難(The Passion of the Christ)」 (邦題:「パッション」)

 メル・ギブソン監督による「キリストの受難」が、2004年2月25日に米国にて上映開始されます。この映画は、予告編を見ただけでも、いろいろな意味で感動と深い示唆を与えるので、「中東・世界情勢アップデート」での記事からページを独立させて、ここに報告いたします。

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私の感想・解説(鑑賞後)
をアップしました。 (注意として、内容を逐一追っていますので、前知識やネタばれを好まない方は、読まないことをお薦めします。)

映画の紹介リンク
私の感想(鑑賞前)
コラム記事


この映画についての紹介

 下のいずれかのリンク先へ飛んで読んでください。

日本の配給会社による公式サイト

日本の配給会社による鑑賞前ガイド

鑑賞前後の学習ができるファンウェブサイト

メル・ギブソンファンによる詳しい説明と情報

クリスチャン向けのパッション情報

公式サイト(英語)

予告編のビデオ
(Hardwired.huあるいはTomの予告編が4分間と一番長いです。)

映画の写真


まだ聖書を読んだことがない方

 この映画は、ほとんど全部が新約聖書の福音書の部分から出来ています。したがって、前もって福音書の十字架と復活にいたる最後の部分を読まれれば、仮に字幕がなくても話を追っていくことができるほどです。ネット上で福音書を読むことができるところをご紹介します。

マタイによる福音書26章以降
マルコによる福音書14章以降
ルカによる福音書22章以降
ヨハネによる福音書18章以降

 四福音書ともみな同じ出来事を描いていますが、それぞれ異なる視点から書かれています。

 そして拙ホームページの「イエスさまを知らない方へ」もどうぞご訪問ください。


私の感想 (鑑賞前)


つまずきの石キリスト

 私がこの映画で興味を引いたのは、二つの理由からです。一つは、自分の目で予告編を観て、これが実際のイエス様の十字架磔にかなり近いのではないか、と思われたこと。そしてもう一つは、実際にユダヤ人団体を初めとする世間一般が、この世が福音にこのように反応すると聖書が言っているとおりに、反応しているという事実です。

 予告編を観て、僕は、「これではイエスさまを信じる人がいなくなってしまうのでは?」と思ってしまったほどその映像は凄惨でした。これまでイエス・キリストについての映画はたくさん作られましたが、中でも映画「ジーザス」は世界中で伝道目的のために使われています。ルカの福音書を初めから終わりまで描いている映画として、私は今でも大きな価値があると思っていますが、けれども、その十字架刑の場面においては、「キリストの受難」のほうがはるかに現実に近いだろうと思いました。(十字架刑の医学的側面からの説明は、こちら

 しかし、よく考えてみれば、イエス様の十字架は、人がこの方を信じることができるように、ソフトなタッチで、分かりやすく、受け入れやすい形で提示されたのではなく、むしろ大勢の人がつまずくようなものであることが、聖書には書かれています。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(コリント人への手紙第一1:18,22-24)

 映画で描かれているようなイエスがメシヤ、キリストであるということは、今は主に召され、その救いを受け入れた者としては心から感謝して受け入れていますが、自然の目で観れば到底受け付けられない代物であります。ましてや自分たちを救ってくださるメシヤを待ち望んでいたユダヤ人には、つまずき以外の何でもないものだということが、この予告編から肌で感じ取ることができました。弟子たちがイエスさまから逃げ去り、十字架にイエスさまが付けられている光景のときにそこに居合わせていなかったこと、そしてがっかりして、エルサレムから弟子二人が離れてしまったこと、そして一般群衆が叫び、宗教指導者が「神の子なら、そこから降りてみるが良い」と罵りたくなるような、あまりにも惨めな姿です。

 そして、メシヤや聖書のことをあまり知らない異邦人 ― 日本人も異邦人です ― にしてみれば、この人物が自分を救ってくれるなど、あまりにも馬鹿ばかしいと思うに違いありません。

 しかし、召された者には、救いの力であり、神の知恵です。このような悲惨さは、キリストが全世界の罪の供え物として、その肉体が父なる神にささげられたという意味があります(1ヨハネ2:2)。罪の結果である死とさばきがあることを知れば、キリストが木の上で代わりにのろわれたことは、感謝しても、しきれないほど記念すべき出来事であり、実に私たちのいのちのことばそのものです。

 もう一つ、この映画から再確認できたことは、キリストの復活(死者からの生き返り)なしには、十字架の凄惨さに目を当てることさえできないということです。ある人が、次のような説教をしました。

「主の最後の晩餐のときに、主は弟子たちに、初めにパンを裂かれ、それからぶどう酒の杯を回された。この順番に意味がある。それは、キリストのいのち(主はしばしば、わたしはいのちのパンであると表現されていました)を得ることによって、キリストの流された血が自分の罪のためであることを感謝できる。だから復活あっての十字架であり、復活のレンズを通さなければ、十字架はあまりにも見るに耐えない出来事である。」

 これはその通りで、使徒たちは、キリストが死者の中からよみがえられたことを福音と呼び、それで十字架につけられたキリストが私たちの罪のためだった、ということを話しました。よみがえりがなければ、その死はあまりにもむなしいものです。

 メルギブソンの映画は以上のことを思い起こさせてくれました。この映画にも復活されたキリストの場面を描いています。ジーザスのビデオでもそうでしたが、私は復活されたイエスさまのことを考えると、涙が止まらなくなってしまいます。ここに希望があるのだ、と再確認するのですが、もし映画の中に復活の場面がなければ、私は肉体的苦痛を描くだけのグロテスクな映画と評価したかもしれません。


世間の反応

 この映画がマスコミによって大きく知られるようになりました。けれども、上映されるはるか前から物議を醸しているのが、とても不思議な現象です。

 その詳しい経緯を紹介しているのが、先ほどリンクしたメルギブソン・ファンによるサイトのNewsです。2003年9月24日の記事をお読みください。

http://www.mel-at-carinya.com/filmography/films/passion/news.html

 その記事を読むと、最初にADLという、世界にある反ユダヤ主義を監視するユダヤ人団体によって、この映画が反ユダヤ主義感情を触発させるという発言が発端になっています。それからニューヨーク・タイムズなどリベラル系マスコミが、反ユダヤ主義とともに、メルやイエス役の俳優の信仰やその背景を、歪曲して批判する記事を載せました。むろん、メル自身はこのことに猛烈に反論しています。そのときに、そのデモ版を観たアメリカのキリスト教の指導者が、この映画を非常にたかく評価し、巻き返し現象が起こりました。ビリーグラハムもこの映画を高く評価し、また(メルはカトリック教徒ですが)バチカンも良い評価を最近、発表しました。

 その中で、メルと映画を一貫して支持し、支援ているのが、「中東・世界情勢アップデート」にてしばしば紹介している、World Net Dailyであります。下は記事のリストです。

http://www.worldnetdaily.com/news/article.asp?ARTICLE_ID=34605

 ちなみに、ここに出ている論者は、親イスラエルの立場を取っている人々です。

 ここから私は、非常に小規模でありますが、歴史の再現を彷彿させるものを見ました。第一に、キリストによって一部のユダヤ人がつまずきました。いつもはキリストの十字架や復活など、クリスチャンの信仰の根幹になっている部分に、ユダヤ人とは言え、人権団体であるADLが反応することはまずないです。けれども今回反応したということは、それだけ正確に、この映画が世に対してキリストのことが伝えられていたからでしょう。そして、第二に、ユダヤ人のつまずきから触発されて、不信仰の異邦人たちがこの映画を馬鹿しはじめました。聖書時代も、ユダヤ人がパウロの宣教を妨げ、その迫害を煽ったために、異邦人たちもキリスト者らをおとしめ、迫害しました。そして第三に、― これは私の予測ですが ― この世の考え方に影響されているキリスト教徒たちが、「だからユダヤ人は福音の敵である。彼らが悪い仕打ちを受けても、当然である。」と言うであろう、ということです。

 ユダヤ人がどのように反応し、またそれに呼応して異邦人界がどのように反応し、また異邦人キリスト者がどのような過ちを犯しかねないかについて、その経緯を詳しく説明しているのが、ローマ書9−11章です(参考までに聖書メッセージ、ローマ9章10章11章をリンクします)。9章には、ユダヤ人がつまずいたのは、神がそのようにされたからだ、という神の主権が書かれています。そして10章には、ユダヤ人たちが信仰によって神に近づかなかったとする、ユダヤ人側の責任が書かれています。そして11章に、ユダヤ人がつまずいたのは、異邦人に救いが与えられるためであり、それからユダヤ人たちも救いを得る、という神の回復の計画が書かれています。

 異邦人クリスチャンは、台木のオリーブの幹に接木された野生のオリーブの木の枝であり、ユダヤ人がつまずいたことを見下してはいけない、と著者パウロが警告しています。ユダヤ人のつまずきは、神の主権と摂理の中で起こっていることであって、このつまずきをも用いて、神は私たちの理解をはるかに超えたところの、すばらしい救いのご計画を実行されるのです。

 ということで、世間の反応は聖書に出てくる反応に似ているものがあります。


伝道の道具

 映画のデモ版を、伝道者であり、カルバリーチャペルの教会「ハーベスト・クリスチャン・フェローシップ」を牧会しているグレッグ・ローリー氏が観ました。メルギブソンが立会いと説明の中で観、高い評価をしている記事があります。

Pastor Greg comments about "The Passion of Christ"

 そして、先ほど紹介した四分間の予告編のビデオは、メルギブソン自身が、グレッグローリーの伝道集会「ハーベストクルセード」にて上映するために、編集してくれたものです。グレッグも、またメルギブソン自身も、これが伝道の道具として用いられることを願い、祈っているそうです。

 この他、多くのクリスチャンが、伝道の道具としての高い評価をしています。


World Net Dailyなどのコラム記事


 先ほどリンクしたWorld Net Dailyを初め、この映画についてクリスチャンの視点からの記事を、要約して紹介したいと思います。

 まずは、もっとも共感できた記事から・・・

1. Mel Gibson's 'The Passion': Most offensive film ever made
(メル・ギブソンの「受難」:かつてない、最も不快にさせる(つまずかせる)映画)

要約

 いわゆる指導者たち、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントの指導者には、この作品が、「憎悪と頑迷固陋と反ユダヤ主義を煽るもの」と懸念している人たちがいる。この作品は、キリストの生涯についてもっとも正確に描写した映画であるだけに、これらの「指導者」たちが、キリストの福音について何を懸念しているか、考えてみたい。

 福音が憎悪を引き起こしている、とでも言うのであろうか?もしそうなら、図星である。福音はつねに、クリスチャンに対する憎悪を引き起こしていた。これはイエス・キリストが前々から警告されていたとおりである。もし、キリストが伝えられたこと、また真理と愛、あわれみを示されたことが、すべての人に、朗らかな、なんとも言えない親愛感を互いに抱かせるようなものだとお考えになるかもしれないが、イエスが語られたことを実際に読むなら、すぐにでもそのような迷いから目覚めさせるであろう。

イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコの福音書6:1-3)

 イエスは、確かに、この方の伝えておられることを信じる用意のできていない人すべてにとって、つまずきである。あまりにも不快なので、群衆は、教えといやしを行なわれているこの方を石打ちにしようとし、崖から突き落とそうとしたのである。イエスは確かに死にかけている者をいやされ、足なえ、盲人を治されたが、この方が死ぬことを望んだ人々もいたのだ。なぜそのような断罪を、この方のメッセージは引き出してしまうのだろうか?

 それは非常に単純である。イエスが神の御子だから、という理由だ。神は御子をいけにえとしてささげることをお選びになった。それは、人類の罪の代価を支払うためである。罪人が支払う費用は、ただ、自分の馬鹿ばかしいプライドを横において、この無償の贈り物を受け入れるだけである。神は、人はだれも善行によって救いを得ることはできないと言われている。我々はみな、それぞれがあまりにも罪深いので、その代価を支払うことはできないのだ。キリストが神の御子である、私たちの罪のために死なれたことを受け入れなければいけないのだ。

 ただの贈り物なのに、なんでそんな大きな問題になるのか?

 問題は、今日のアメリカ人が、救いが必要とさえ感じていないからである。「俺が何をしたっていうんだい?殺人なんか犯したことないぜ。」というふうに。この贖いのメッセージは、大勢の人にとって、大きなつまずきなのである。

 当時と同様、今日も何百万人のクリスチャンが、何世紀にも渡って、キリストの福音を語ることによって、恐ろしい迫害を受けてきた。

 クリスチャンが迫害を受けたと感じたとき、キリストは何と言われたか?

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイの福音書5:11-12

 クリスチャンは、キリストと真理のゆえに迫害されたら、幸いでいなさいと命じられているのである。

 ギブソン氏は、この映画をつくった大胆さのゆえに、迫害されるであろう。キリストの生涯と、その死と復活を正確に記録した映画なら、必ず世からの、辛辣な叱責に遭う。

 私は、メルギブソンの「受難」を、「これまでにない、最も不快にさせる映画」と言わせていただく。また、映画で見たもののなかで、キリストに対する最良の、最大の感謝の表れが示されているものである。

 キリストについての映画でも、それほど不快にさせないものがあったが、なぜ不快にさせなかったのだろうか?いくつかの理由がある。一つは、キリストはむち打たれ、拷問を受けられたが、その映画の中ではその部分がかなり短くされ、瑣末的になっており、現実味がなくなっていたからである。キリストが十字架につけられる前に受けられた、おぞましい残酷さを示しているのは、「受難」の映画だけである。

 旧約聖書は、預言をもって、キリストがむち打たれた結果、その姿がそこなわれて、彼であると認められないほどになったことを描いている。したがって、映画の中で暴虐的に描かれたのは、根拠のあることで、適切である。

 批評家たちが気に入らないことは、他に何か?はっきり言うと、不信仰である。イエスがはっきりと、神の御子として示されている。そして、他の多くの映画では、イエスが十字架上で死んだところで終わっている。「受難」においては、最後の場面でキリストが、約束されたように、墓からよみがえられ、死に打ち勝ったことを描いている。

 クリスチャンのみが、肉体の復活によってキリストの生涯が正確に表されていると考えている。不信者は、福音書で主張していることが、自分が信じていることと相対しているのである。今日多くの人が、イエスが、ご自分を「道であり、真理であり、いのちである」と言われたこと、また、「だれも、わたしによらなければ、父のみもとに行くことはできない」と言われたことで、つまずいている。

 偉人イエスとして、この方を描く映画ならだれでも作れる。仏陀や孔子、ダライラマのように、イエスが元大工の巡回教師で、智恵の言葉を伝えた、というのであれば誰も、不快にならない。けれども、歴史の登場人物の中で、自分が神であると主張し、殺され、またよみがえったという指導者は、他にいない。イエスは、ご自分と、過去と未来の霊的指導者すべての間に、一線を引いておられるのである。

 イエスは、ご自分のことばが、ご自分に従う側と、その他の人すべてとに、一線が引かれることを語られた。それは家族に信者がいるときも、同じである。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイの福音書10:32-39


 この映画が罵られている第三の理由は、キリストの死の責任を負っている者たちをきちんと断罪していないことである。肚黒い、情報不足の批評家らが、キリストの十字架にいたる出来事を記録している福音書を、ユダヤ人の宗教指導者やユダヤ人群衆イエスを死罪させたときに深く関わっていることを描写しているということで、これは反ユダヤ的と言っていることである!

 これがいかに馬鹿ばかしいことであるか、少し知識を与えるだけで分かるだろう。拷問と不正を受けた死刑人イエスは、ユダヤ人である。処女のときにイエスを産んだ母は、ユダヤ人である。ペテロはユダヤ人である。キリストの十字架を途中でかついだシモンは、ユダヤ人である。イエスの兄弟ヤコブも、イエスの墓が空になっていたのを発見したマリヤたちも、イエスに墓を提供したアルマティヤのヨセフもユダヤ人である。キリストを死刑にすることを煽っていたユダヤ人宗教指導者に反対していた宗教指導者も、ユダヤ人である!マルコ、マタイ、ヨハネ、パウロ・・・・すべてユダヤ人である。もっと続けましょうか。際限なく列挙できる。

 ちなみに、ほとんどのクリスチャンは、ユダヤ人は神の選びの民であり、ユダヤ民族の父祖アブラハムはすべてのクリスチャンの父でもあることに同意している。キリストは、十字架の上で、迫害している者たちの罪を赦してくださるよう祈られた。「彼らは何をしているか、わからないのです。」と。

 最後に、特に突飛な批判として、この映画がユダヤ人の宗教指導者と群衆が相こぞって、不法に死刑を至らせたとして不正確な描き方をしているとの非難がある。そういうことを言う人たちは新約聖書の福音書をまだ読んでいないのだろう。

 正確に描いている。腐敗したユダヤ人の宗教指導者は、主にユダヤ人の群衆を刺激して、イエスを死刑にするように要求させた。死刑は、不法に行なわれたのである。ユダヤ人の律法が犯されたのである。したがって、この物語はユダヤ人の信仰と律法を非難したものではなく、罪と腐敗を非難したものなのである。いつでも、どのような機関も、貪欲な、権力に飢えた者どもによって、腐敗を経験している。真新しいことを描いているのではない。反ユダヤ的ではない。

 これは、だれもが見るべき映画である。かつてつまずいた多くの人たちが、その人生を変えられると信じます。

(以上、要約終わり)


2.二つ目は、キリスト教保守派の中から、この映画についての警鐘を鳴らす記事です。この映画は、キリスト教福音派の保守的な信仰を持っている指導者から、ほぼ全員が支持、称賛を受けており、米国の福音界内はこの映画で沸き立っている状態ですが、冷静に考慮する要素があることを、ロジャー・オークランド氏が述べています。

カトリック信仰を持ってもらうための伝道?(CATHOLIC EVANGELISM?)

受難を夢の中で見た人(THE “PASSION” VISIONARY)

警告:「受難」とマリヤ(Caution: “The Passion” and Mary)

 一つ目は、イエス役を演じた俳優が自分の役を聖体拝領の一部とみなしているという発言から、そのイエスは、カトリックの聖体拝領に出てくるイエスであり、聖書のイエスではない、ということ。二つ目のコメンタリーは、メルギブソン監督が映画作成の際、典拠した資料は、聖書だけでなく、Anne Catherine Emmerich著The Dolorous Passion of Our Lord Jesus Christがあること。それは、著者が受け取った幻であり、その幻においても、聖体拝領のイエスであり、聖書のイエスではないということでした。そして三つ目は、その聖書以外の典拠で描かれているマリヤが、カトリック信仰のマリヤであり聖書のそれではないとの警告が書かれています。

 この問題は、二つに分類しなければいけません。一つは、カトリック信仰と聖書との関係、もう一つは、この映画がやや熱狂的に福音派クリスチャンに受け入れられているが、そこで見失われていること、の二点です。

 私が理解している限り、カトリック教会において、秘跡は重要な位置を占めます。その中でも聖体拝領は、そのパンとぶどう酒がキリストの実際の肉と血に変わり、それにあずかっている、という見方であり、カトリック信仰の中核になっています。秘跡を経ることによって、神の家である教会に入ることになり、ゆえに秘跡ゆえの救い、とも言えます。これが宗教改革によって改革されました。聖書では、信仰によってのみ義と認められるのであり、礼典は主が命じられている重要な儀式であるが、いかなる行ないも人を救うことはできない、という主張です。

 問題は、ロジャー・オークランド氏が述べている、聖体拝領のイエスが異なるイエスとまで言い切ることができるのか、それとも、イエスを知るための方法を誤っているにしか過ぎないと見るか、であります。これは難しい問題で、私も簡単に判断が付きません。例えば、イエスの神性を否定して、この方が大天使ミカエルであると言うエホバの証人や、ルシファーの兄弟であるとするモルモン教においては、そのイエスは、聖書のイエスと異なると断言できます。けれどもカトリックにおいてまさに三位一体の教義が確立されたのであり、カトリック教会が信じる神の御子イエス・キリストについては、聖書そのものから出た啓示であることが分かります。

 そしてマリヤ信仰も、カトリックの中では重要な位置を占めています。彼女は「神の母」ということになり、彼女の無罪化、神格化を行なう傾向があり、共同で贖いを行なったとする考えも出てきます。この考えは母性的な信仰を求める人たちにとっては非常に受け入れやすいのではないか、と考えます。また仲介者は唯一、人として来られたイエス・キリストだけなのに、その他のものに頼ろうとする(例えば、著名な教会指導者や牧師などもそう)傾向の現われです。ロジャーオークランド氏によると、そうした信仰が映画にも影響されているとのことですが、キリストが苦しみを受けているその現実をかなり正確に描いており、それが前面に出ているであろうこの映画の中で、警戒しなければいけないほどのものなのか、とも思います。

 もう一つの問題は、カトリックに限らず、あらゆるものは、神と、神が選ばれる方法に置き換わるものではない、ということです。例えば、映画「ジーザス」が、キャンパスクルセードを初めとして、福音宣教に大きく用いられましたが、その映画によって人は信仰にいたるのではなく、あくまでも十字架のことばを聞いて、それを信じて救われます。神が選ばれた方法は宣教のことばであり、他に取って変わることはありません。

 ですから、「キリストの受難」もあくまでも人間の作品にしかすぎなく、伝道の一つの道具としてみなしていけばよいのであって、これを絶賛して、この映画に何か力があるとか、これでリバイバルが起こるとか、そのようなことでは決してないということです。信仰は、聖書のことばに置かれているのであり、決して映画ではない、というのがロジャー・オークランド氏の主張であり、私も同意できます。

 あらゆるキリスト教指導者が称賛しているなかで、こうした別の意見を聞くのは意義あることだと思ったので、リンクさせていただきました。

3.三つ目は、在エルサレムのクリスチャンジャーナリスト、デービッド・ドラン氏による論評です。

Empassioned debate about Mel Gibson's film
(メルギブソンの映画についての、情熱(受難)のこもった議論)
http://www.worldnetdaily.com/news/article.asp?ARTICLE_ID=37161

(要約開始)

 イスラエルにてこの映画はヘブル語とアラブ語の源泉であるアラム語によるため、現地の人々は映画館で観るときに、字幕にあまり頼らずに、その内容を追っていくことができるだろう。

 カトリックの家庭で育ち、それから新生の体験をして、ユダヤ人国家に住んでいる者としての意見。したがって、メルギブソンの映画を総合的に判断できる場に置かれている。カトリックでは復活がさほど強調されず、血なまぐさいイエスの受難の御姿を描いていた。学校の教室には、十字架につけられたイエス像があり、四旬節(広辞苑では「Ash Wednesday から Easter Eve までの 40 日間; 荒野のキリストを記念するために断食や懺悔を行なう」)から十字架の苦しみについて時間を費やすのに対し、復活を一日しか祝わないのは、バランスが欠けていると思った。

 そして十字架が神のご計画の中心であるが、福音書の記述は復活に焦点を当てている。

 けれども、永遠の救いの代価がいかに尊いものであったのかを知るのに、その十字架の生々しさを知ることについては、カトリックは正しい。共に聖書学校で学んだ福音派の学生は、十字架の記事をもっと冷めて読んでいたような気がした。その苦しみの深さに敏感になっていたのは、私が幼いときから受難の姿に触れていたからだろう。

 ユダヤ史の学徒として言えることは、一部のユダヤ人がこの映画を反ユダヤ的と言っているのは、言い過ぎであり、根拠がないことである。彼らはおそらく、自分たちの資金集めを促進させたいからだろう。

 旅行ガイドとして、初めに「園の墓」、次に聖墳墓教会をアメリカから来た夫婦を連れて行った。前者は多くの学者(プロテスタント)が十字架と復活の出来事が起こったところと考える場所であり、聖墳墓教会はカトリックなど、他の教派がそこだと考えるところ。園の墓が実際の場所であったかどうかに関係なく、復活されたイエスが強調されているこの場所のほうが、私は霊的に親近感を覚える。

 この二週間後、私はヒットラーがその行動を開始したミュンヘンの町に来た。そして、ダッハウの強制収容所に行ったが、この小さな村は非常にカトリック色が濃いところで、受難劇で有名なところである。実に歴史は、血なまぐさい受難の姿を見て、人々はユダヤ人をキリスト殺しと非難した出来事でいっぱいになっている。

 現在、ヨーロッパで反ユダヤ主義が再興し、反イスラエル感情が世界中で転移している中で、メルギブソンの映画が、こうした動きを促進させるものではないかという懸念を彼らが抱くのは、そうした理由がある。ユダヤ人の母から生まれた、ダビデの子を信じ、この方に従っている者たちは、彼らのそうした反応を受け流してあげるべきであろう。

(要約終わり)

 この論評で気に入ったのは、この映画がカトリック、福音派、そしてユダヤ人が、キリストの十字架と復活をどのように見ているのかが、分かりやすく説明されていることでした。私もビデオの予告編や写真集を見て、キリストの復活があまり強調されていないなあ、と感じました。けれども同時に、キリストが払われた代価の重さが、この映画、というより、カトリックの人たちは私たちよりも直視していると思いました。そして、もちろんユダヤ人の人たちにとって「受難」は、その内容とは別に、歴史事実として反ユダヤ主義を想起させるようです。

 けれども、今回の反ユダヤ主義の論争は、もちろんユダヤ人の一部の団体が声を上げているということもありますが、それよりも、マスコミが煽り立てているのが問題です。メルギブソンも、ビリーグラハムも、またその他のクリスチャンにとっても、「だれがキリストを殺したのか」に対する答えは、あまりにも明らかです。それは、私たち一人一人であり、そして罪の赦しの永遠のご計画を立てられた、父なる神ご自身です。

あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。(使徒の働き2:23 下線は筆者

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれた・・・(1コリント15:3 下線は筆者)


4.四つ目は、ニューズウィーク日本語版の記事です。

問題作  − 誰がキリストを殺したのか

 この記事を読んで、怒り心頭しました。自分でも何でこんなに怒っているのか分からなかったのですが、だんだん、「なんだ、この大論争は、結局は反ユダヤ主義の問題ではなく、聖書の言葉と、罪の赦しのメッセージに対する挑戦だったのだ。」ということが分かって、あほらしくなって来たからです。

 その記事の発言を少し引用すれば、その意味がお分かりになるでしょう。「ただし、聖書の記述は史実を正確に反映しているとはかぎらない。聖書は生身の人間が、特定の宗派のメッセージを広めるために書いた著作物だ。」「福音書はある分派の信者が書いた論争の書 それを考慮しないと反ユダヤの偏見に陥る」。

 これまでのキリスト教会内における反ユダヤ主義の論争は、置換神学(教会がイスラエルに置き換わったので、神のユダヤ人に対する約束は無効になった、見捨てられた民になった、とする考え)など神学的な類のものが主でした。聖書にある神のご計画全体の捉え方による違いが論点とされていました。

 けれども今回、メルの作品を反ユダヤであると言っている人たちに共通するのは、完全に世俗的な人たち(メルのハリウッドの仲間たち)か、聖書の霊感を信じていないリベラルのユダヤ教徒、そしてリベラルのプロテスタント・カトリック両派の指導者らです。

 この大論争の発端となったのはADL(反中傷同盟)のアブラハム・フォックスマン氏による「メルの作品=反ユダヤ主義」の発言でしたが、彼のことばを引用します。"You know, the Gospels, if taken literally, can be very damaging, in the same way if you take the Old Testament literally,” the ADL leader observes. By the way, Abe, your Bible isn’t called the Old Testament but the Torah, and ? yes ? there still are some Jews who take it quite literally, including the parts that make you uncomfortable."(意訳:分かりますか、福音書は文字通りに受け取ってしまうと非常に危険です。旧約聖書を文字通り取るのが危険なのと同じです。あなたの聖書は旧約聖書ではなくトラーと呼ばれていますが、これをかなり字義的に受け取るユダヤ人も一部にいるわけです。)

 けれども彼らの矛盾を証ししているものとして、そのように文字通りに聖書のことばを受け入れている、彼らが呼ぶ「キリスト教右派」がこの作品を全面的に支持していることです。彼らは、新・旧約聖書に書かれているユダヤ人への神の約束を文字通りに受け入れているため、ほとんどがユダヤ人とイスラエル国を支持する人々です。そしてユダヤ人の中でも保守的な考えの人々は、この映画に感動こそすれ、反ユダヤなどとは全然思っていません。

 (おそらくは)ユダヤ人のコラムニストがこの点について適切に論じています。
 MORE POWER TO MEL GIBSON "THE PASSION" IS AN ACT OF FAITH, NOT BIGOTRY

 反ユダヤ主義に関連して、しばしば取り上げられる聖書箇所は、マタイ27章25節、ヨハネ8章44節、第一テサロニケ2章14−16節、そして黙示録3章9節です。いずれもユダヤ人に対する厳しい言葉が書かれています。しかし、ならば旧約聖書においても非常に厳しい言葉がイスラエルの民に向けて語られており、その箇所を根拠に新約聖書がユダヤに反対していると言えないのです。神がオブラートに包んで言葉を濁すようなことをなさらない真理である方であり、それらは、その神の厳しさといつくしみが表れている箇所です。また、ユダヤ人だけにこのような厳しい言葉がかけられているのではなく、同じように異邦人に対しても、神に厳しいさばきの言葉が聖書には書かれています。

 聖書を字義的にとらえるのは、ごく一部の箇所を取るのではなく、聖書全体の言葉を文字通り受け入れ、神のご計画全体にあるその知恵と奥義の深さを知るためでもあります。

 キリストの十字架の贖いを真剣に受け入れたいと願う人は、カトリックの人もプロテスタントの人も、この映画を非常に好むでしょう。そして、クリスチャンでない人は、神の罪の赦しのメッセージを受け入れたくない理由を、反ユダヤやキリスト教右派などいろいろなレッテルを張って言い訳することでしょう。それだけ、この作品が真実に迫ったものであるのだろうと思います。

 すでに何人かの友人がアメリカから、映画の感想を述べたメールをよこして来ました。

(2月27日記)

5.五つ目は、日本人の福音伝道者によるコメントです。

■ 最近考えたこと「映画『パッション』に思う」

 この記事で特徴的なのは、日本人がこの映画を観てどう思うのかについての意見があることです。これまでリンクした記事はあくまでも米国人によるものであり、日本人によるものではありませんでした。しかも筆者は伝道者なので、伝道という視点から書いています。

 この点について、筆者はきわめて冷静な判断をしています。「日本の伝道にどの程度役立つか。この点に関しては、過剰な期待は禁物だと感じます。聖書を読んだことがない日本人にとっては、筋の読めない、残酷さだけが後味として残る映画になり得る可能性があります。この映画を観てもらえば、直ちに悔い改め、キリストを受け入れるだろうと考えることは、余りにも非現実的です(もちろん、神に不可能はないことを前提に語っているのですが)。十字架の意味を知らない日本人にこの映画を観てもらい、どうでしたと質問するなら、忠臣蔵の討ち入りの場面だけを見せられた米国人が「感想は?」と聞かれた時に見せるような困惑の表情を見せるのではないかと思います。」

 もし伝道したいのなら、米国以上に映画鑑賞前後にフォローアップ(聖書からの説明、学び会、教会への誘いなど)をする必要があるでしょう。他の話題についても言えますが、少なくともネット上では日本語による資料は極少です。非常に微力ですが、ここのウェブサイトにて、聖書に触れたことがない人、教会に行ったことがない人が、映画が作られた本当の意味を知ることができるように、と祈ります。

6.六つ目は、(なんと!)イスラム圏で宣教をしている人からの報告です。

イスラム圏での「パッション」の影響 (中東からのレポート)

 これを読んで、心が熱くなり、涙腺が緩みました。イスラム圏と共産主義圏は、福音伝道がもっとも困難な地域として知られていますが、その国々の多くは、イスラム教徒を改宗させれば死刑を含む厳刑、礼拝も禁止、聖書携帯も罰せられます。

 この報告にあるとおり、私も以前、この映画が反ユダヤ主義を触発させるというニュースをイスラム教の指導者が聞いて、これをイスラム圏でも上映させようといったニュースを聞きました。けれども、まさかこのような形で大体的に上映されるとは思っていませんでした。

 ワールド・ネット・デイリーなどのニュースにあるとおり、「パッション」に反ユダヤ主義性があるかどうかの議論よりも、実際に、(少なくとも言葉の上では)ヒットラーやナチスの時代に匹敵する、いやそれ以上の反ユダヤ主義がイスラム圏で起こっており、その面を監視しなければいけません。けれども、この報告にあるとおり、神はこうした悪意を益に変えておられます。同じ聖書箇所を引用します。

人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ人への手紙1:15-18

  私も救霊の祈りに加わろうと思いました。


(転載、抜粋はお控えください。必要な方は、事前にメールください。)

 


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