「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(コリント人への手紙第一13:4-8)
上の言葉は、チャペル・ウェディングで牧師が新郎新婦に読み上げる聖書からの引用です。二人の誓約が、上に述べられた愛にもとづくことを宣言しています。結婚した夫婦は、そのように愛し合うことが理想とされているのですが、現実はほど遠いものです。また、結婚に限らず、家族関係や人間関係の中で、そのような愛は存在するでしょうか。「愛」という言葉のところに、自分の名前を入れてみてください。例えば、悟という名前ならば、「悟は寛容であり、悟は親切です。また悟は人をねたみません。・・・」となります。それがどれほどすわりの悪い文章になるかは、一目瞭然でしょう。それほど、私たち人間の愛はチッポケなのです。
しかし、ただひとりだけピッタリと来る名前があります。それは、神の子イエス・キリストです。聖書には、「神は愛です。(1ヨハネ4:16)」とあります。当時、イエスは、だれも近づきたくなかったハンセン氏病の人に触れたり、ユダヤ人から嫌われていた外国人を丁重に扱い、蔑視された女性の病を直したり、除け者にされていた徴税人や売春婦と交流を持たれました。そして、イエスは弟子たちにこう言われました。
「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)
イエスは、実に人々のために、いや、人類全体のために、ご自身のいのちを捨てられたのです。彼は十字架につけられました。聖書には、「すべての人は罪を犯した(ローマ3:23) 」とあります。神の基準は完全ですから、不完全な者はみな罪人です。そのため、「死ぬことと死後にさばきを受けることが定まって(ヘブル9:27) 」います。イエスは、その死とさばきを身代わりに受けるために、十字架の上で死なれたのです。十字架につけられているとき、イエスをあざけり、ののしっている者に対して、こう祈られました。「父(神)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34) 」このイエス・キリストこそが、愛のおきてを全うされたのです。
聖書はこう告げています。
「すべて、疲れ果てた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)
この休みは、イエス・キリストのもとに来るすべての人に与えられます。自分が今まで神を無視して生きてきたことを悔いて、これからキリストに従うように改めてください。そして、自分の罪のために、キリストが死んでくださったことを信じてください。そして、3日後に生き返り、今も生きておられるイエスを、自分の心に迎えてください。そうすれば、「わたしがあなたを休ませてあげよう。」という約束が、必ず貴方のうちに実現されます。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)
神は、上に述べられた愛の性質をすべてお持ちです。この神を信じて生きるときに、はじめて私たちのうちに真の愛が生まれるのです。